緊急連絡の続き、または携帯の料金体系は複雑すぎる

何とも情けない話です。

何度か私の携帯にご連絡を頂いた方も何人かいらっしゃったようです。この場をお借りして、改めてお詫び申し上げます。

でも、「この場」っていうのも変ですね。何故なら、私がこのブログをやっていることを知っている人は少ないからです。

とにもかくにも、私の携帯は復活しました。番号もメールアドレスも前と同じですので、もう一度、ご連絡下されば幸甚です。前回にも書きましたが、前の携帯のデータはすべて消滅してしまったので、こちらから連絡できません。

そちらから、メールでもご連絡頂ければ、データを再登録致します。宜しくお願い致します。

番号もメルアドも前と同じにするには「機種変更」の手続きをしなければなりません。が、最近、携帯の料金のシステムが大幅に変わったので、さっぱり分からなくなりました。

私の前の携帯はわずか10ヶ月しか使っていなかったので、1年未満ということで、機種を変更するとなると、庶民にとっては、莫大な「違約金」が取られたのです。約1万2千円でした。

新しい携帯は、1年前の古い機種で、以前だと0円から数千円でチェンジできたのに、今では、結局、2万5千円ぐらいも取られたのです。

何てこった!です。随分高い授業料を払わされました。

どこの携帯ショップに行っても同じだったことでしょう。

最初、店の若い女が近づいてきて、色々説明するのですが、私がD社の携帯だと知ると、盛んにA社やS社の携帯に変更するように勧めるのです。でも、私は、そういう事情でメールアドレスも変更したくなかったので、そう、伝えると、プイと横を向いて何処かに行ってしまうのです。何だ!この女は!A社とS社だけからマージンをもらっている回し者だということが見え見えで分かりました。

若い女なので、営業や演技ができないのです。あまりにも露骨だったので、笑えてしまいましたが…。

しかし、携帯の料金体系は複雑すぎます。噂では、2年置きに買い換えると、やっと、収支バランスが取れると聴いたことがあります。

また、今回、機種を変更しただけで、ニュースだの、転送サービスだの、わけの分からないいらないオプションに5つも6つも強制的に加入させられました。これも、法律上どうなっているのか、詳しい方は教えてほしいです。

緊急連絡!

 

 

 

オーマイガーです。

 

携帯を水の中に落としてしまいました。一瞬の出来事でしたが、電源が入らなくなりました。

ドコモ・ショップに持って行きましたが、「駄目」でした。電源が入らないと、データの転送もできないのだそうです。

ここまで来ると卑屈な笑いが出てきます。

要するに、中に入れてあったデータが一瞬でパーになってしまいました。仕事を含めて、250件くらい入っていたのではないでしょうか。メールアドレスもです。帯広・十勝の人たちの番号もいっぱい入っていました。

このほか、誕生日とか住所とか重要な情報もありますが、年を取ってくると、親や親戚、友人知人が亡くなり、命日もインプットしておりました。写真も結構ありました。

それが、パーです。

手帳などにメモしていませんでした。こんな重要な情報を入れておいて、いつか何かあったら、「やばいなあ」とビクビクしていました。それが現実のものになってしまったのです。

何と言っても、こういう状態になってしまったことを相手に伝えられないことです。メールを送ってくれた人に返事もできません。メールアドレスが分からなくなってしまったからです。電話をして頂いた方にも答えられません。留守電が入っていたら、機種を変えてもその情報は後継機に伝わるのでしょうか?

メールを出しても返事がないので、相手は「随分と不義理な奴だなあ」と私のことを思っていることでしょうね。

でも、返事をしたくてもできないのです。それに、連絡したくても、相手の電話番号さえ、データが消えてしまってできないのです!こちらのアドレスも変更しないといけないとなると、半永久的に交信できなくなりますね。

何か、高度情報化社会の落とし穴に嵌ってしまった感じです。

 

 

 

 

 

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 公開日時: 2007年12月13日 @ 10:08

「今年の漢字」に「偽」が決まりましたね。

私もそうなると思っていました。と、書くと「後講釈」と怒られそうですが、今年の場合は、「偽」になるだろう、と多くの人は思っていたことでしょう。私も、結果が分かる前に早く書いておけばよかったです。

何しろ今年は、不二家に始まって、ミートホープ、白い恋人、赤福、船場吉兆…と次々と偽装が発覚した年でした。

この「今年の漢字」は、いつも京都・清水寺の貫主(森清範)が、デカデカと書を認めるシーンがニュースになっていたので、清水寺が決定しているのかと思っていたら、財団法人・日本漢字能力検定協会が全国公募で決めていたんですね。もう十年以上続いているのに、ほとんど意識してませんでした。

ニュースで、森貫主が、「こんな漢字が選ばれるなんて日本人として恥ずかしい」と嘆いていました。

そういえば、「恥」も昨今の日本人から消えかかっている美徳ですね。

年も押し詰まり、「来年こそはいい年にしたい」と皆が皆願うことでしょう。

早めに書いておきますが、私もそうです。

10年周期

 

 

 

ジョン・レノンの話をしていたら、「10年周期」のことを思い出しました。

 

人間、それぞれ、転機があり、その人によって、3年おきだの、5年おきだのと決まっているそうなのです。ジョンの場合は「10年周期」です。1940年に生まれ、1960年、リバプールの美大生だった時、ミュージッシャンとしてプロになる決意をし、自分のバンドに「ビートルズ」という名前を付けます。70年は、その世界的に有名になったバンドが解散。そして、80年には暗殺されます。

 

 

 

何を隠そう。私も高名なSさんから「あなたもジョン・レノンと同じ『10年周期』ですよ」と言われたことがあります。振り返って見ると、確かにその通りでした。このブログは不特定多数向けのメディアなので、茲にあまり個人情報を披瀝できないのが残念なのですが、確かに1980年、90年、2000年と仕事が変わっています。

 

そう言えば、このブログを始めたのが2005年でした。その10年前の1995年は初めてインターネットを始めた年でした。マッキントッシュのノートパソコンを初めて買いました。その10年前の1985年は、初めてワープロを買った年でした。まだワードプロセッサーと言っていた頃です。よく覚えています。エプソンの「ワードバンク」というワープロでした。ディスプレイがホントに小さく、わずか、5行くらいしか提示されなかったと思います。今から思うと玩具みたいなツールでした。それでも10万円以上したかもしれません。

 

人生の転機が私の場合、10年おきだとすると、運勢は12年周期のようです。これは、私の尊敬するH師が見立ててくださいました。12年周期というと干支です。私の場合、そのピークは「子歳」です。来年はその子歳なので、大いに楽しみです。12年前の1996年はあまり大きなことがあったと思い出すことは少ないのですが、その12年前の1984年はロサンゼルス五輪のあった年で、本当に色んな良いことがあり、思い出深い年でした。確かに運がいい年でした。当時は若く、それが当たり前だと思っていましたが…。

 

H師は「来年は素晴らしい年になりますよ。あなたの人生の最大の年かもしれません」と予言してくださいました。「その前年から序々に良くなってきますよ」とおっしゃっていましたが、その通り、今年から本当にやっと運が向いてきました。運に恵まれて、物事がうまく運んでくれているのです。まさに、「雌伏12年」という感じです。この12年間、本当に碌な事がなく、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」といった苦難の人生でしたが、やっと雪が解けて、運が上向いている感じなんです。

 

それはすごく実感しています。バンザーイといった感じです。この12年、人生を辞めたくなるほどの苦悩の連続でしたが、途中で諦めなくて本当によかったと思います。

ジョン・レノン「PEACE BED」続き

(続き)

 

昨日の続きです。ジョンの映画のパンフレット(700円)を読んでいたら、昨日自分の書いたことの間違いや気が付いたことがあったので、書きます。(まあ、ほとんどの方は興味ないかもしれませんけど)

まず、ニール・ヤングが歌った「オハイオ」は、オハイオ州立大学でもオハイオ市立大学でもなく、ケント州立大学でした。事件は1970年5月4日。ニクソン大統領のカンボジア侵攻に抗議して大学構内でデモをしていた学生がオハイオ州兵によって発砲され、4人が死亡、9人が負傷した事件でした。単にデモしただけで、射殺されるとは!射殺された男子学生がうつぶせになっている横で、女子大生が跪いて両手を広げて嘆き悲しんでいる写真が世界に配信されて有名になりましたね。ミャンマーではなく、わずか37年前に天下のアメリカ合衆国でこんなことが起きていたんですよ。

ザ・ビートルズ・クラブの斉藤早苗代表が書いていましたが、当時、ジョンの名声を利用しようと彼に近づいた過激な反体制派のリーダー、ジェリー・ルービンは、ベトナム戦争が終わると、とっとと企業家に鞍替えして、ビジネスマンに転身していた。ジョンが最も嫌う狡猾さを持ち合わせていたというのです。まあ、芥川龍之介の「杜子春」と同じです。名声とお金を持った人の周りには絶えず胡散臭い人間が付きまとうものです。利用できなくなれば、ポイと捨てて、他の利用できる人間を探すだけです。

だから、思想信条だの政治運動だのというのは、私は信じられないのです。

話が脱線しましたが、このパンフレットには実に恐ろしいことが書いているのです。このパンフレットの編集者がどういう意図で掲載したのか分かりませんが、ニクソン大統領とエルヴィス・プレスリーががっち握手している写真の下にこんなキャプションが付いています。

「大統領、お気をつけてください。ビートルズはアンチ・アメリカ勢力に巨大な影響力を持っています。そして彼らはアメリカの若者に悪影響を及ぼします。~エルビス・プレスリー」

これが事実だとしたら、何だか、プレスリーって嫌な奴ですね。点数稼ぎのチクリ屋じゃないですか!嫌いになっちまいましたね。

ジョン・レノン「PEACE BED」

誰も遊んでくんないので、一人で、六本木ヒルズにまで遠征し、ジョン・レノンの映画「PEACE BED」を見に行ってきました。

ビートルズ・フリークを自称していますからね。見ないと話になりません。

TOHO CINEMASは、わずか、123席の小劇場が6個くらいある映画館でした。初めて行きました。月曜の昼間なので、さすがに空いていました。土日も仕事をしなければならない職業ですが、平日休めるので、「役得」「です。

「PEACE BED」は、原題を訳すと「アメリカ合衆国VSジョン・レノン」。決闘みたいなタイトルですが、こちらの方が映画の内容に近いです。何しろ、戦争をやっている国に対して、公然と「戦争するな」と反政府活動をするのですから。元FBIの捜査官が、当時を回想して「アメリカ人の若者がレコードを買ってくれるから、儲けているのに、アメリカにまで来て非合法活動するなんてもってのほかだ」と発言していました。

今は私も年取ったせいなのか、この体制維持派の発言も分かりますね。ジョンは目の上のタンコブでした。

当局は、徹底的にジョンをマークします。尾行、電話盗聴…挙句の果てには、過去の麻薬使用の前科をタテに、ビザを再発行せず、国外追放を画策します。

私は当時、高校生か大学生くらいでしたので、同時代人として、同時進行としてニュースに接してきましたが、このように映画化されて、過去の歴史のように扱われると、やはり感慨深いものがあります。もう30年以上昔の話ですからね!

面白かったのは、FBIかCIAの元捜査官が「ミック・ジャガーなら単なる不良の金持ちだが、ジョン・レノンは危険人物だ」と発言していたことです。ニューヨーク定住を決めたジョンは、ボビー・シールズやアンジェラ・デイヴイスといった当時、当局のブラックリストに載っていた極左活動家と親交を持ち、ヴェトナム戦争反対などのデモに積極的に参加します。

極左活動家といっても、まだ、生きているんですね。昔を回想してインタビューされていましたから。当然かもしれませんが…。今、米国は戦時体制なのですが、活動家による「イラク戦争反対」のデモなどのニュースは聞きません。大学生も保守的になったのか、ITで金儲けするのに必死なのか、あの60年代、70年代に盛り上がった反体制運動はほとんど聞こえてきません。

そういう時代だったのでしょうか。ニール・ヤングの「オハイオ」も、オハイオ州立か市立大学のデモで警官に射殺された学生のことを歌っていました。バッフィー・セントメリーの歌ったテーマソングで有名になった「いちご白書」も学生運動の話でした。
政治の季節だったのでしょうね。

とにかく、ジョン・レノンは信念の人でした。革命といっても、暴力には大反対でした。ガンジーの無抵抗主義の影響があったようです。「レボルーション」も「平和を我らに」もかなり政治的なアジテーションの意味が込められていたんですね。この映画で再確認しました。

ニューヨーク・タイムズの敏腕の女性記者から「あなたはアイドルだったのに、何で今、こんな政治活動するの?」と聞かれたジョンは「君はあの『ア・ハードデイズ・ナイト』の頃の僕のことを言っているのかもしれないが、今の僕は、もう違う。もう29歳になったしね。政治運動だろうが何だろうが、もう黙ってみてられないんだよ」と答える場面が出てきます。

29歳だなんて!何と老成した人だったのだろう。もっとも、わずか40年の生涯でしかなかったから、かなり生き急いだということは確かだと思います。

「ベッド・イン・ピース」や「」バッギズム」など、当時、私は子供で、何であんな気が違ったことをやるのか、ジョンのことを理解できなかったのですが、今では、よく分かります。

映画の中で胸にバッジを付けたジョンがいました。そこには「Not insane」と書かれていました。

もちろん、その意味は「気が狂っていないからね」。映画を見て、このバッジに気づいた人は、かなりの「通」です。今度会ったら、私が表彰します!

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チャプリンと5・15事件


 いわゆる「5・15事件」は、昭和7年(1932年)の5月15日、時の犬養毅政権に不満を持つ陸海軍の青年将校が「昭和維新」断行を目指して、首相、政友会本部、日銀、警視庁などを襲撃した事件ですが、当時、たまたま来日していた喜劇王チャプリンも危うく難に巻き込まれるところだった、という話は有名です。


 当日の首相の歓迎会には出席せず、相撲観戦に行ったおかげで、難を逃れたというのが「定説」でした。


 


 が、どうやら、チャプリンそのものも、標的の対象だったようですね。日本チャプリン協会の大野裕之会長の書いた「チャプリン暗殺 5・15事件で誰よりも狙われた男」(メディアファクトリー)にその詳細が描かれているようですが、私はまだ読んでいません。


 


 当時、チャプリンの秘書を務めていた日本人の高野虎市氏が、チャプリン来日1ヶ月前から事前に訪日して日程を調整し、不穏な空気を察知し、元陸軍少将の作家、櫻井忠温(ただよし)氏に相談。櫻井氏の手紙には「最近の日本は騒がしいので、お気をつけてください。お早めに日本に来られたほうがいいと思います。東京でまず宮城に行くように」といった手紙が残っています。


 


これによって、5月14日に神戸港に到着したチャプリンは、京都・大阪には寄らずに東京に直行し、その夜、ホテルに行く前に、まず二重橋に立ち寄り、高野の指示で皇居で一礼したそうなのです。


 


 首相のレセプションをドタキャンしたのも、難を避けるため「計画的」だったのかもしれません。


 


 日本人秘書の機転がなければ、あのチャップリンも大事件に巻き込まれていたのかもしれないのですね。


 


 


 


 

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岡田監督を応援します

この度、オシム監督が急に脳梗塞で倒れたため、サッカー日本代表の監督として岡田武史氏が9年ぶりに再登板することになりました。

昨日、日本サッカー協会理事会で正式に承認されましたが、岡田氏の今後の活躍には注目していきたいと思っています。サッカーは肉体で戦うスポーツですが、監督指導者は結局は肉体より、頭を使う。戦術面が最も大事ではありますが、もう少し平たく言うと選手にモチベーションを与える「精神論」が重要なのです。監督として堅固な哲学を持っていなければなりません。岡田氏は、その意味で、かなり、修養を積んできたように見受けられるからです。

面白かったのは、昨日の会見で、岡田氏が、オシム監督が倒れる1週間前にJリーグの3チームから監督就任の要請があったが、断ったというエピソードを明らかにしたことです。当分、講演活動をしながら、環境問題をテーマにボランティア活動していくつもりだった、というのです。また、ここ1年半ほど、サッカーから離れていて、Jリーグの試合もあまり見ていなかったというのです。

岡田氏には、物事を根本から見つめ直してみようという修行僧に近い心因性を持っているようです。

その岡田氏が、「ここ10年で、人間がすっかり変わった」と言っています。私もそれはすごく感じています。

小津安二郎の「東京物語」は、昭和28年の作品ですが、「こんな日本人が普通だったのか?」と思われるほど、言葉遣いも丁寧で、皆、慎み深く、謙虚で、自分の身の丈の範囲で一生懸命に生きる日本人が出てきます。

今は、そういう日本人は消滅したとは言いませんが、かなり少なくなりました。公共マナーも悪いし、自分の権利ばかり主張するクレーマーや、給食費を払わないお金持ちの親もいるし、録に挨拶もできない人間も増えました。世の中、ギスギスしてきたと感じるのは私だけではないでしょう。どうして、こんなになってしまったんでしょうかね?

この10年の劇的変化は、インターネットの影響でしょうか。新聞の読者が減っているだけでなく、テレビの視聴率も下がっています。ニュースはネットから得る若者が増えてきました。ネットを使えば、時空を超えて、「大英博物館」 http://www.britishmuseum.org/#でも「MOMA」 http://www.moma.org/でも「ルーヴル美術館」http://www.louvre.fr/llv/musee/alaune.jsp?bmLocale=ja_JPにでも簡単に「行く」ことができるようになりました。

携帯やパソコンによって、「個」が確立したものだと極解して、自ら神のように振舞う人間が増えてきたからなのしょうか?

「高学歴ワーキングプア」

公開日時: 2007年12月7日 @ 10:20

最近、やたらと大学院の肩書きの人が増えたなあ、と思ったら、世の中とんでもないことが起きていたんですね。

水月昭道『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院』によると、1985年に約7万人だった大学院生が、たった20年余りで3倍以上の約26万人にまで増えたそうです。20年前でさえ、「オーバードクター」と陰口を叩かれ、なかなか就職口が見つからなかったのに、今の時代が、そんなに甘いわけありません。

畏れていた通り、博士号を取得しても、大学の非常勤講師だけではとても食べていけず、コンビニのアルバイトなどで月15万円の生活費を稼ぐのが精一杯。居酒屋や塾講師のバイトを掛け持ちをしたり、パチスロのプロになった博士もいるそうです。

そもそも、「大学教授」の肩書きを得るために、昔から「超狭き門」であることには今でも変わらず、嫌な教授の靴までなめなければならないと言われるほどですから、今の若者にそこまでできるかどうか。

ただ、恐ろしいことは、このような事態に陥ったのは、文科省と東大法学部が結託して、将来の少子化を見込んで、少なくなる「パイ」をめぐって、その「既得権」を失うまいと執念を燃やす彼らの秘策がこの「大学院生大量生産」の理由だった、という水月氏の指摘は妙に納得してしまいます。

水月氏は、昔、オーバードクターと言っていた彼ら彼女らのことを「野良博士」と命名しています。「おだてられながら学費を払わされ続けてきた院生は、期限が来ると、ペットの犬が捨てられるように放り出される。野良になるしかない」というのです。

確かに企業側も「頭でっかち」の人間を採るより、上司の言うことを「ハイハイ」と言って、言うことをきく人間の方が使いやすいし、そういう人間を積極的に採用することでしょう。

野良博士は、おだてられて二階に昇ったら梯子を外されていたという感覚なんでしょうね。全く、やる気もなく、学業も職業訓練も放棄したNEETと野良博士が結局は、同じ境遇だとしたら何と世の中皮肉なんでしょう。

紅葉 Autumn Leaves Viewing


今朝は五時半起床。
出勤前に、日比谷公園を散策しました。

今が紅葉シーズンの真っ盛りです。

私の東京で一番大好きな紅葉スポットは、外苑前の銀杏並木ですが、日比谷公園も捨てがたいですね。

今、都内のあちこちで、リッツカールトンだの新々御三家と言われるホテルが続々と建っていますが、やはり、何といっても帝国ホテルがナンバーワンでしょうね。銀座に近いし、劇場や映画館が側にあるし、何しろ、日比谷公園が目の前にありますからね。

ところで、昨日の続きですが、ほんのわずかながら、自分にも予知能力があるということが分かりました。

競馬の予想を当てるとか、そんな実用的なものには役立ちそうにはありませんが、私も、次に起こることがフッと浮かんでくることがあるのです。かなり、鮮明な映像で、文字なんかもはっきりと読めます。

今日もその通りのことが起きましたが、別に驚きませんでした。これまで、普通に経験してきたので、不思議に思わなかったからです。

それと、私には人の心が読める読心術があるようです。

相手が嫌っていると、手に取るように分かりますし、好意を持ってくれる人も、その気持ちが分かります。何を考えているのかも読めます。これまで、あまり相手に聞き返したことはなかったのですが、「こういうことを考えていたんでしょう?」と聞いたら、「その通り。でも何で分かったの?」と聞くに違いありません。

その程度なら、俺にもある?

それなら、その通りなのでしょう。

何か、オカルトチックになってしまいましたね。