団塊の世代が起こした凄惨な歴史=連合赤軍「あさま山荘事件」から50年

 2月19日は、連合赤軍による「あさま山荘事件」発生から50年ということで、新聞各紙が特集してくれています。

 もう半世紀も経つので、同時代人として生きた人はもう少ないと思います。私自身は、事件関係者とは何の接点もありませんでしたが、「最後の世代」として目撃し、人生最大の衝撃的な事件の一つでした。勿論、テレビの生中継には釘付けでした。

  事件に参加して逮捕された最年少者に、私と同世代の16歳の少年がいたことが衝撃に拍車が掛かりました。一連の連合赤軍内部の集団リンチ事件は、14人もの若者が殺害された驚愕的で悲惨なものでしたが、赤軍派の指導者森恒夫(大阪市立大出身、拘置所で自殺。行年28歳)と革命左派の委員長永田洋子(共立薬科大・現慶大薬学部出身、拘置所で病死、行年65歳)は、逮捕当時ともに26歳で、戦中生まれ。いわゆる団塊の世代(1947~49年生まれ)より一つ、二つ上で、団塊世代を統率する立場にいました。「団塊世代の後はぺんぺん草も生えない」と言われた次の世代である我々の世代は、「白け世代」(大学紛争が挫折したため)とも言われましたが、ギリギリ、全学連を中心にして盛り上がった政治闘争に参加できた世代でもありました。

 要するに「他人事」ではなかったのです。

東銀座・イタリアン「ヴォメロ」

 ちょうど、高度経済成長が終わりかけて停滞期に入り、その一方で、公害問題が騒がれ、社会的弱者が虐げられ、ベトナムではいまだに戦争が続き、社会的矛盾を革新する運動が盛り上がっていたという時代背景がありました。でも、これら一連の連合赤軍事件のお蔭で、左翼的革命運動は下火となり、当然ながら共感していた多くの市民も離れていきました。

 皮肉なことに、学生運動の最後の世代(1950年代生まれ)が、その四半世紀後にオウム真理教事件を起こすのですから、次元や思想背景が全く違うとはいえ、真面目なエリートのインテリ階級が社会を変革しようとして起こした事件という意味では共通したものがあります。

 ただ、オウム事件の場合、教祖の空中遊泳のトリック写真に騙されて入信したインテリたちのその洞察力と想像力と思慮のなさと世間知らずのお坊ちゃん、お嬢ちゃんぶりには漫才のような滑稽味がありました。

 一方の連合赤軍事件の当事者たちには、少なくとも社会の矛盾と正面から向き合うひた向きさがありました。理想に燃える純粋さがありました。とはいえ、彼らは恐らく、マルクスはおろか、ジョン・ロックもアダム・スミスもケインズもルソーも読んだことがなかったでしょう。インテリとはいえ、組織となると、教条主義的に人を支配しようとする本能が打ち勝って、あのような凄惨な事件を起こしたのでしょう。

 「山岳ベース」という世間から閉ざされた密室の中で、皮相な正義感に加えて、集団真理と同調圧力が蔓延し、「総括」の名の下で、戦慄的な集団リンチ殺人という連鎖が黙認されました。

銀座・宝珠稲荷神社

 連合赤軍兵士の生き残りとして、懲役20年の刑に服役して出所した後、後世への証言者として謝罪と反省の日々を送る植垣康博氏(1949年生まれ)は、2月16日付の毎日新聞のインタビューの中で、ドイツなどは、組織の下部の者が指導部に間違っていることを「おかしい」と言えるほどメンバーの個人が自立していたのに、日本の場合は、個人でものは考えられなかった、と振り返っています。まさに、催眠術にかかったように洗脳されてしまったのでしょう。先の大戦中の一兵卒と同じです。

 そんな「個」がなく、指導者には絶対服従で、集団真理に左右され、同調圧力peer pressureに屈しやすい日本人のエートス(心因性)は、オウム真理教事件でも遺憾なく発揮され、現在のさまざまな社会的な事件でも反映されています。

銀座・宝珠稲荷神社

 連合赤軍事件から半世紀が経って「歴史」となり、当時生まれていなかった大学教授の研究対象になりましたが、恐らく、何であんな事件が起きたのか解明できないことでしょう。だから、あの時代の空気を吸っていた者の一人として、今回、当時体験した「皮膚感覚」をブログに書いてみたかったのです。

 今振り返れば、団塊の世代は、あまりにも人が多過ぎて生存競争が激しかったことが遠因になったと思います。人は、何も群れることはないということです。人間、所詮、孤独な生き物です。「一匹狼」でも何ら恥じることはない。堂々と胸を張って生きていいということです。

【追記】2022年2月20日

 ビートルズに「レボルーション」という曲があります。1968年にシングル盤「ヘイ・ジュード」のB面として発表されました。当時は「68年世代」と言われるほど世界的に学生運動が盛り上がった年でした。この「革命」という曲を作ったのは恐らくジョン・レノンで、彼は「君たちは革命を起こしたいんだね。俺たちは皆、世の中を変えたいからね。でも、それが破壊工作なら、僕は抜けるよ。当てにしないでくれ」と言ってます。しかも、「とにかく、毛沢東の写真を持ち歩いているようでは、誰ともうまくやっていけないよ」とまで唄っているのです。

 毛沢東は「大躍進」と「文化大革命」という権力闘争の末、5000万人もの人民を虐殺したとも言われていますが、ジョン・レノンはそこまで、その事実を当時は知らなかったと思います。

 それにしても、ジョン・レノンには先見の明があり、天才だったんですね。

ロシアも欧米も妥協して戦争回避するべきだ=ウクライナ問題

 もうここ1カ月以上も、ウクライナ情勢が懸念されています。

 ロシアがウクライナに侵攻すれば、第3次世界大戦が勃発するのではないか、と言う評論家もいるぐらいです。

 我々、日本人は米国支配下の「西側」諸国に属しているせいなのか、メディアの翻訳報道によって、悪いのはロシア人だと一方的に信じ込まされています。私自身も、先の大戦で、日ソ中立条約を一方的に破棄して60万人もの日本人をシベリアに抑留し、いまだに北方領土を返還しないロシアは好きになれませんから、その通りだと思っていました。でも、実体はそんな単純なものではないようです。

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【前菜】コンソメロワイヤルのパイ包み焼き 春野菜のベニエを添えて

 「ロシア=悪」「西側=正義」の図式を考え直すきっかけとなったのは、先日、行きつけの東京・銀座のロシア料理店に行った時、そこのロシア人の女将さんに話を聞いたからでした。その店は御主人が日本人で調理と会計を担当し、そのロシア人の奥さんは料理を運んだり給仕をしたりしています。人気店なのでいつもお客さんがいっぱいで、二人とも息つく間もなく、てんてこ舞いです。

 ですから、あまり話しかけるのも気が引けていたのですが、今回はウクライナ問題のことをどうしても知りたかったので、帰りの会計の際に、御主人に聞いてみたのです。

 「奥さんはウクライナ人ですか?」

 「いや、ロシア人ですよ」

 「今、大変ですね」

 「本来、ロシア人もウクライナ人もほとんど一緒ですから、戦争になるわけないんですけどねえ」と御主人。

 そこで、私はロシア人の奥さんに向かって、半ばジョークで、

 「戦争しないでくださいよ。プーチンさんに伝えてください」と忠告してみました。

 すると、奥さんは流暢な日本語で、

 「戦争したいのはアメリカ。ロシアは戦争なんかしたくありませんよ」と反論するではありませんか。

 なるほど、普通のロシア人の「庶民感覚」を教えてもらった気がしました。

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【メインディッシュ】あぶくま三元豚のロティ 福島県産あんぽ柿とクリームチーズのクルートをのせて

 ロシア側からすると、悪いのは米国ということになります。ウクライナのコメディアン出身のゼレンスキー政権が、ロシアを仮想敵国とする北大西洋条約機構(NATO)に加盟しようとしたのがきっかけです。これでは裏庭に敵が土足で踏み込んできたことに他ならなくなります。もっと言えば、首筋に匕首(あいくち)を突き付けられた感じか? プーチン政権も「仕方なく」、ウクライナとの国境付近に15万人規模の軍部隊を集結させ、米欧にNATO不拡大を要求せざるを得なくなった、というのが、ロシア側の主張になります。

 情勢を冷静に見れば、ウクライは、親ロシア武装勢力が支配する東とウクライナ民族意識が強い西側と分裂している状態です。2014年にウクライナのクリミア半島がロシアにあっさりと併合されたのも、ロシア系住民か、シンパが多かったからでしょう。 

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【デザート】“ムッシュ ポール・ボキューズ”のクレーム・ブリュレ

 要するに、今回の問題は、人口約4500万人のウクライナが、天然ガスなどの資源も含めた経済的基盤と軍事的支援を欧米にするか、ロシアにするか、選択の問題だと言えるでしょう。覇権主義の問題です。でも、ウクライナはどちらかを選ぶことなく、曖昧な玉蟲色的な選択にすることはできないでしょうか。

 戦争はいつの時代も「正義のため」「自衛のため」「自存のため」為政者によって始まります。ロシア人も米国人も「戦争はしたくない」というのが庶民感覚なら、為政者は平和的な外交で決着を付けるべきです。

 戦争になれば多くの人が犠牲になります。いくらロシア嫌いの日本人でも、ドストエフスキーやトルストイ、それにチャイコフスキーを愛してやみません。それは、世界でも類を見ないほどです。将来のドストエフスキーにでもなれたかもしれないロシアやウクライナの若者が戦争によって犠牲になってしまっては居たたまれません。

 為政者の皆さんには、戦争だけは回避してもらいたい。

 激震の1990年代の放送界を振り返る=隈元信一著「探訪 ローカル番組の作り手たち」を読みながら

 隈元信一著「探訪 ローカル番組の作り手たち」(はる書房、2022年2月11日初版)を読んでおります。

 全国放送のキー局ではなく、地域に密着した地方のラジオ、テレビの番組を制作するプロデューサーやディレクター、アナウンサーらを訪ね歩いてインタビューしたルポで、日本民間放送連盟が発行する隔月刊誌「民放」に連載していたのを加筆修正したものです。

 書店向け?のパンフレットを見ると、著者は、北海道から沖縄まで全国津々浦々の53の放送局などを訪ねて、まさに足で稼いで書いた労作と言えます。原稿料は高額とは思えず、取材費は相当本人が「持ち出し」たことでしょう(笑)。

 著者の隈元さんは、元朝日新聞論説委員で、長年、放送行政や番組等の取材に携わってきた方です。新聞社在職中から退職後も母校の東大や青学大などの大学で講師として教壇に立ち、後進を指導してきました。

 その隈元さんとはもう30年以上昔の1990年、東京・渋谷のNHKの11階にあった放送記者クラブ「ラジオ・テレビ記者会」で私も御一緒し、裏社会のように(笑)しのぎを削ったものでした。というより、私の方が何も知らない新参者だったので一方的にイロハを教えてもらったものでした。

 当時のNHKは、「シマゲジ」と呼ばれた政治部宏池会担当だった島桂次さん(故人)が会長で、民放が反発するほど商業化路線を進め、そのいわゆる独裁的采配が色々と週刊誌ネタになるほどで、私も本当に孤軍奮闘で「夜討ち朝駆け」で取材したものでした。

 NHKという大所帯の公共放送は、予算が国会で承認されなければならないので、人事権まで有力国会議員に握られています。NHKの許認可省庁は当時郵政省でしたから、いわゆる「郵政族」と呼ばれる国会議員が幅を利かしていました。島会長は、放送衛星打ち上げにまつわり、国会での虚偽答弁問題が起こり、会長の地位が危ぶまれた時に、当時「郵政のドン」と言われた野中広務氏(故人=後の官房長官、自民党幹事長)を議員宿舎まで私も夜討ちしたものでした。

 忍者のような奇妙な動きをするよく太った日経記者の裏を掻い潜って、担当記者が少ない零細企業同士である(失礼!)毎日新聞の浜田記者とタッグを組んで野中氏を急襲したのですが、意外にもあっさりと部屋の中に入れてくれて、色々と話をしてくれたものでした。

 それでも、隈元さんら、人数が潤沢な朝日チームは一歩も二歩も他社をリードし、次期会長候補までつかんでおりました。何と言っても、島会長の国会虚偽発言疑惑は、朝日新聞のスクープでしたから。

 本の内容から少し外れてしまいましたが、NHK記者クラブでの御縁でその後も、隈元さんを始め、当時の記者たちとの付き合いは40年近く経っても続いています。この本の巻末で、「あとがきにかえて」と題して、「隈元出版基金呼びかけ人」でTBSディレクターだった石井彰氏が「放送記者三羽ガラス」として隈元さんのほかに、読売新聞の鈴木嘉一氏、毎日新聞の荻野祥三氏の名前を挙げておられますが、肝心な御一人を忘れていますねえ。その人は「扇の要」のような仕掛け人でしたが、実は放送事業者として情報収集する裏の顔を持ち、表に出たがらない黒幕記者だったので敢えて名前は秘すことにします(笑)。

 とにかく、当時のNHK記者クラブは梁山泊のような溜まり場でした。もう鬼籍に入られましたが、日経から立命館大教授に転身した松田浩さんや、ザッキーことサンケイスポーツの尾崎さん、東京新聞の村上さん、産経の岩切さんと安藤さん、報知の稲垣さんら「雲の上の存在」だった大御所と、スポニチの島倉記者、日刊の新村記者、東タイの安河内記者ら奇跡的にも本当に優秀でユニークな記者揃いでした。

 私は会社の人事上の一方的都合で、放送記者会にはわずか1年半しかいませんでしたが、先程の恐ろしい黒幕さんが、情報交換会とも言うべきセミナー会合を毎月1回は、東京・渋谷のおつな寿司で開催してくれたので、彼らとの交流はその後も続いたわけです。

◇361人からの募金

 さて、この本の「まえがき」や「あとがき」にも触れられているように、著者の隈元さんは、昨年夏に病気が見つかり、今もそのリハビリの真っ最中です。高額の治療費が掛かっていることから、あとがきを書かれた石井氏らが「隈元出版基金呼びかけ人」となり、SNSなどを通して出版のための募金を呼び掛けたところ、何と、昨年末の時点で361人もの人からの応募があったといいます。信じられないくらい凄い数です。こんなに多くの人から愛されているのは、隈元さんの人徳でしょう。

 私が放送担当記者だった30数年前、BSだけでなく、CSなどマルチ放送が始まり、「ニューメディア」と呼ばれていました。私も黒幕さんのお導きで取材先を紹介してもらい、(その中には東急電鉄現社長の渡辺功氏までおります)連載企画記事を書いたことがありますが、激動の時代でした。そんな中、地方局は、キー局からの番組配信を受けるだけで制作すら出来ない「炭焼き小屋」になってしまうという理論が流行しました。

 しかし、おっとどっこい。この本に登場する人たちのように地元に立脚した地方でしか出来ない質の高い番組を制作する人たちがいて、炭焼き小屋になるどころか、地元の視聴者からの熱烈な支援も得ているのです。特に、日本は「災害王国」ですから、災害放送する臨時ラジオ放送局がどれだけ役立ったことか。

 一方、NHKの凋落は惨憺たるものです。失礼ながら、NHKのニュースは、見るに値しないほどつまらない。全国一斉中継なのに「東京23区大雪警報」(結果的に外れた)を長々とやったり、汚職と疑惑だらけの五輪放送を垂れ流したりして倫理観すら疑われます。

 その点、30年前の島桂次会長には先見の明がありました。英BBC、米CNNに追いつけ追い越せとばかりに、グローバル・ニューズ・ネットワーク(GNN)構想を打ち出しましたが、途中で失脚してしまいました。結果的に急進的過ぎたことが難点でした。が、島会長の右腕と言われた、NHKの広報室長だった小野善邦氏(故人)が書いた「本気で巨大メディアを変えようとした男―異色NHK会長『シマゲジ」」(現代書館、2009年5月)を読んで、初めて島会長の目指した真意が分かり、結果的に「島降ろし」のお先棒を担いだことになった我々も反省したものでした。

 隈元さんは、驚異的なリハビリの末、回復に向かっていると聞きます。次の著作は是非、あの大手商社も絡んだ1990年代の放送界の激動史を書いてもらいたいものです。

【追記】当日

本文中に「忍者のような奇妙な動きをするよく太った日経記者の裏を掻い潜って」と書いたところ、早速、熱心な愛読者の方からメールが来ました。

 「その太った日経記者は、クイズ王の西村氏でしょうか?」

 クイズ王の西村? クイズ番組は見ないので知らなかったのですが、検索してみたら、元日経記者のクイズ王として西村顕治氏が出てきました。そして画像が出てきたので見てみたら、どうも彼らしい。彼は1965年生まれということで、1990年は25歳。当時、20代の若手に見えたので可能性は十分。確か政治部記者らしかったので、直接の接点はあまりありませんでしたが、体格が良くても忍者のように足が速く、敏捷性がありました。我々が議員宿舎前に着くと、サッと柱の陰に身を隠しておりましたが、如何せん、体格が良いので、柱からはみ出て丸見えでした。

 そんな懐かしいことを30年以上ぶりに思い出しました。

政界の黒幕と義仲寺との接点とは?=「裏社会の顔役」(大洋図書)を読んで

 この雑誌、タイトルもおどろおどろしいですし、買うのも憚られるものですが、迷うことなく買ってしまいました。「手元不如意」ではなく、地元の健康キャンペーンに応募したら1000円の図書券が当たり、「何にしようか」と書店に行ったら、すぐにこの雑誌が目に入ったからでした。

 ちょうど1000円でした。

地元市健康マイレージで、1000円分の図書カードが当選しました。今年は運が良いです(笑)。

 内容は、この雑誌の表紙に書いてある通りです。

・日本を動かしたヤクザ 山口組最強軍団柳川組「柳川次郎」、伝説のヤクザ ボンノこと「菅谷政雄」

・愚連隊が夜の街を制した●万年東一●加納貢●安藤昇●花形敬

・黒幕が国家を操った●児玉誉士夫●笹川良一●頭山満●四元義隆●田中清玄●西山広喜●三浦義一

・一人一殺「井上日召」と血盟団事件

・米国に悪魔の頭脳を売った731部隊長 石井四郎中将

 などです。

 驚いたことに、この中の「満洲帝国を闇で支配『阿片王』里見甫」の章を書いているのが、皆様御存知の80歳のノンフィクション作家斎藤充功氏でした。頑張っておられますね。

 また、「日本を動かした10人の黒幕」で頭山満などを執筆した田中健之氏は、どうやら玄洋社初代社長平岡浩太郎の曾孫に当たる方のようです。

 正直言いますと、この本に登場している「黒幕」の皆様は、私にとってほとんど「旧知の間柄」(笑)で、あまり「新事実」はありませんでしたし、2020年1月21日付の渓流斎ブログ「日本の闇を牛耳った昭和の怪物120人=児玉誉士夫、笹川良一、小佐野賢治、田中角栄ら」で取り上げた別冊宝島編集部編「昭和の怪物 日本の闇を牛耳った120人の生きざま」(宝島社、2019年12月25日初版)の方が、どちらかと言えば、うまくまとまっていたと思います。この雑誌は、全体的な感想ですが、黒幕の人たちを少し持ち上げ過ぎていると思いました。

 とはいえ、歴史は、学者さんが得意な「正史」だけ学んでいては物事の本質を理解することはできません。「稗史」とか「外史」とか言われる読み物にも目を通し、勝者ではなく、敗者から見た歴史や失敗談の方が、結構、日常生活や人生において役立つものです。

 敗戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)のG2(参謀第2部)に食い込み、吉田茂から佐藤栄作に至るまで影響力を行使し、日本橋室町の三井ビルに事務所を構えていたことから「室町将軍」と恐れられたフィクサー三浦義一は、「55年体制」と後に言われた保守合同の際に巨額の資金を提供したといいます。

 その三浦義一のお墓に、かつて京洛先生に誘われてお参りしたことがあります。滋賀県大津市にある義仲寺です。名前の通り、木曽義仲の菩提寺です。戦後、荒廃していたこの寺を「日本浪漫派」の保田與重郎とともに再興したのが、この三浦義一だったからでした。本当に狭い境内に、木曾義仲と三浦義一と保田与重郎のほかに松尾芭蕉のお墓までありました。

 何と言っても、私自身、最近、鎌倉幕府の歴史に関してのめり込んで、関連書を読んでいるので、「そう言えばそうだった」と思い出したわけです。木曾義仲は一時、京都まで攻めあがって平氏を追放して「臨時政府」までつくりますが、後白河法皇らと反目し、法皇から「義仲追討」の院宣まで発布されます。これを受けた源頼朝は範頼・義経を京都に派遣し、木曾義仲は粟津の戦いで敗れて討ち死にします。その首は京都の六条河原で晒されましたが、巴御前が引き取って、この大津の地に葬ったといわれます。

 そんな、戦後になって、誰も見向きもしなくなって荒廃してしまった義仲寺を保田與重郎や三浦義一がなぜ再興しようとしたのか詳しくは存じ上げませんけど、彼らの歴史観といいますか、男気は立派だったと思います。

これからも新発掘が出る可能性も=「ポンペイ特別展」

 私は「有言実行」の人ですから、東京・上野の国立博物館で開催中の「ポンペイ特別展」を観に行って来ました。

 実は、単なる「便乗商法」に洗脳されただけですけどね(笑)。私自身、既にイタリア旅行した際にナポリ郊外にあるポンペイの遺跡を訪れたことがあるので、行こうか、どうしようか、迷っていたのでした。

上野・東博「ポンペイ特別展」

 紀元79年、ヴェスヴィオ山の噴火で、一瞬にして火山灰で埋没してしまったローマ帝国の古代都市ポンペイ。約1万人の市民が暮らしていたと言われ、1784年になって再発見され、今でも発掘作業が続いているといいます。まるで密封されていたかのように当時使われていた生活必需品からモザイク画、それに剣闘士場などまでそのまま出て来たのです。  

 私がポンペイの遺跡で印象的だったのは、子どもから大人まで火山灰で丸焦げになってしまったのか、多くの人が当時の姿勢のまま固まったように亡くなり、後で復元されたのか、石膏の形で展示されていたことでした。今回も数点だけ展示されていました。

上野・東博「ポンペイ特別展」女性頭部形オイノコエ(ヴェスヴィオ山周辺地域)

  私が小学校4年生か5年生だった頃に、「ポンペイ最後の日」という子ども向けの挿絵の多く入った本を読んだことがあり、子どもの頃からずっと気になっていて、長じてから遺跡訪問につながりました。

 で、今回の特別展ですが、行ってよかったです。正直、一般2100円は少し高いかなあと思いましたが、それだけの価値はありました。現地で見なかったものや、知らなかったことも多く、かなり収穫がありました。21世紀ですから、それなりにCGなどを多用した「見せ方」が工夫されておりました。

上野・東博「ポンペイ特別展」

 何と言っても、私の知識として欠けていたことは、ヴェスヴィオ山で埋没したのは南部のポンペイだけではなく、その北部にあったソンマ・ヴェスヴィアーナや西部のエルコラーノなどの古代都市も同じように埋もれてしまっていたという事実です。特にエルコラーノは、日本の東京大学も発掘チームとして参加しているらしいのですが、まだ、全体の4分の1しか調査が進んでいないというのです。発掘は細かい手作業ですからね。

 ということは、これからまだまだ「新事実」が発見される可能性があるわけです。

上野・東博「ポンペイ特別展」「アレクサンドロス大王のモザイク」(ファウヌスの家)

 今展で私が最も注目したのは、ポンペイで最大の敷地を誇った超お金持ちの貴族らしきファウヌス家の談話室に敷き詰められていたモザイク画「アレクサンドロス大王のモザイク」です。本物は現在修復中なので、レプリカとスクリーンでの再現でしたが、それでも大きさが分かって十分に満足でした。

 このモザイク画は、今回展示されている際に「アレクサンドロス大王のモザイク」という名称でしかなっていませんが、私が大学受験の際にボロボロになるまで使った世界史の副読本である「世界史地図」の表紙だったので飽きるほど見ていました。その図版の説明は「アレキサンダー大王とペルシアのダリウス3世とのイッソスの戦い」(紀元前333年)だったことを今でもはっきり覚えています。今の教科書では、アレキサンダー大王ではなく、アレクサンドロス大王と教えているんでしょうか。

 世界史の副読本の表紙絵がポンペイ遺跡からの発掘品だったことを知ったのは、もう何十年も昔ですが、ますますポンペイに憧れたものでした。

上野・東博「ポンペイ特別展」食卓のヘラクレス(ポッターロ地区別荘)

 いずれにせよ、ポンペイはローマ帝国に征服される前は、ギリシャのヘレニズム文化に色濃く影響を受けていたといいます。

 ですから、ギリシャ神話に登場する神々の彫刻がふんだんに出土しています。

上野・東博「ポンペイ特別展」エウマキア像(毛織物組合フォルム)

 それにしても、これだけ高度の文化と技術を誇ったポンペイが埋没したのは、西暦79年のことです。日本でいえば、まだ弥生時代です。神話を除けば、倭王権も登場していない時代です。いまだに所在地も実体もよく分かっていない邪馬台国の卑弥呼でさえ、「魏志倭人伝」に出てくるのが西暦239年頃ですからね。

 弥生時代で農耕が始まったとはいえ、日本人の多くは、まだ洞穴に住み、裸同然で木の実を取ったり、イノシシと戦ったりしていたのかもしれません。

 そんな時、海の向こうのローマ帝国ではこれだけ高い文明を築いていたわけですから、何処か日本史の世界が随分チマチマしたもののようにに見えてしまいます。

上野・東博「ポンペイ特別展」ネコとカモ(ファウヌスの家) こんな細密な絵を描いていたとは!

 まあ、そんなことを言っても始まらないですかあ(笑)。あくまでも、私は、我が祖国日本を愛していますからそれでいいんですよ。

 ローマ帝国さんにはあっさりと負けを認め、2000年経ったら、日本の国力を見せつけて、ポンペイ遺跡の出土品を展示した博覧会を開かせてもらえれば、それで十分で御座います。

東京・上野「グリーンパーク」冬季限定ハンバーガー1400円、グラスワイン700円

 ところで、コロナ禍の影響で、展覧会はネットによる予約制で切符を購入しました。お蔭で、それほど混まずにゆっくりと観ることができました。

 会場の国立博物館平成館は、2012年1月~2月に開催された中国・北宋の「清明上河図」展は大行列で、寒い中、2時間近くも外で待たされた経験があります。

 パンデミック終息後もこの予約制を続けてくれたら有難いです。国家権力を保持されている皆様、どうか宜しくご検討ください。

🎬「ドライブ・マイ・カー」は★★★

 カンヌ国際映画賞(脚本賞ほか4冠)、ゴールデングローブ賞(非英語映画賞)、そして何よりもアカデミー賞4部門(作品、監督、脚本、国際映画)ノミネートということで、巷で騒然たる話題になっている濱口竜介監督作品「ドライブ・マイ・カー」が再上映されるというので昨日、映画館に足を運んで観に行って来ました。

 偉そうですが、私の採点は星三つでした。どちらかと言えば、昨年12月に観た同監督作品「偶然と想像」の方が遥かに面白かったです。

 勿論、私は文化国粋主義者ですから、この作品は、是非ともアカデミー賞を取ってもらいたいと思っていますが、私が審査委員なら、正直、国際映画賞なら他の作品との兼ね合いから票を入れてもいいですが、同賞最大最高の「作品賞」ともなると、入れませんね。もし、作品賞を取ったら、「渓流斎の目は節穴。観る目が全くない」と批判されると思いますが、それでも構いません。

 何しろ、不思議なのは、過去に、巨匠黒澤明も溝口健二も「作品賞」にはノミネートすらされたことがないといいますからね。

 この濱口作品はあまりにも私的小さな世界に縮こまっていると思います。黒澤明は、「我が青春に悔なし」で京大の滝川事件を題材にしたり、「生きものの記録」で第五福竜丸の被爆事件から翻案したりして、時事的、社会的話題に常に目を配らせていました。溝口健二は、「西鶴一代女」や「雨月物語」など歴史物を題材に現代の矛盾を照射したりして社会性がありました。

 村上春樹原作の「ドライブ・マイ・カー」に社会性も時事性もないとは断言しませんが、やはり、黒澤明や溝口健二には遥かに及びません。溝口健二から「成瀬君のシャシンには〇〇〇〇がない」と批判された成瀬巳喜男(「浮雲」「流れる」)にも及びません。この作品がアカデミー賞作品賞を受賞したら私は失望して、余生は、黒澤や溝口や成瀬や小津安二郎らの作品を観て過ごすと思いますよ。(ポン・ジュノ監督「パラサイト」が作品賞を受賞した時も大いに疑問でしたが)

銀座「le vin」ハンバーグ・ランチ1000円(飲み物付)

 「ドライブ・マイ・カー」は昨年の夏に公開された時も、かなり話題になっていましたが、観に行きませんでした。3時間近い長い映画であるということと、「妻を失った舞台俳優の喪失感」云々といった梗概を読んで、気が引けてしまったからでした。ちょうど、昨年は春に高校時代の親友を病気で亡くしたため、「喪失感」が計り知れなく、現実でこんなに苛まれているのに、またそんな「喪失感」の映画なんか観たくない、と思ったからでした。

 で、実際に観て、やはり、私は「近い」ので途中でトイレに駆け込んでしまいました(笑)。そして、映画の前半は、正直、ポルノ映画チックか、覗き見趣味的な場面が多くて、辟易してしまいました。

 チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を広島で上演する話なので、俳優が俳優を演じるというマトリョシカの入れ子のような話なのですが、何と言っても、濱口竜介監督お決まりの「長セリフ!」。東京芸大大学院修了のせいか、ちょっとインテリ過ぎの嫌いがあるのでは、と思ってしまいました。

 そう言えば、黒澤明も溝口健二も成瀬巳喜男も昔の映画監督は、大学は出ていません。それでも脚本は簡潔で明瞭で、間合いが素晴らしく、台詞がなくても、人間関係の機微を見事に描いていました。

 またもや老人の懐古趣味的な話になってしまいましたね。

国粋主義的、超国家主義の臭い=北京冬季五輪の真っ最中に考える

 目下、北京で冬季五輪が開催されていますが、テレビだけが雄叫びをあげているだけで、あまり盛り上がっていませんね。※個人の感想です。

 北京冬季五輪は、スポーツの祭典というより、すっかり国際政治の駆け引きの場と化してしまいました。ヒーローは金メダルを獲ったアスリートではなく、政治家です。

 その最たる御仁が、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長(68)です。彼は「ぼったくり男爵」の異名を持ちますが、元五輪選手というより政治家です。冬季五輪の競技でもないテニスの彭帥選手とわざわざテレビ電話で会談したり、直接会食したりして、疑惑の火消し役を務めた功績で、北京市中心部の公園に、何んとも立派な銅像が建てられました。汚職疑惑などで悪名高かったIOC元会長のサマランチさんは歴史に残る凄い人でしたが、バッハさんはそのサマランチさんを超えた感じです。

 彭帥選手の疑惑というのは、中国の元副首相(最高指導部・党中央政治局常務委員)張高麗さん(75)から性的関係を迫られたというものでしたが、その後、本人も曖昧にしたりして、何もなかったことになりました。

 疑惑といえば、新疆ウイグル自治区で虐待や人権侵害が叫ばれ、西側諸国による「外交ボイコット」まで発展しましたが、中国最高指導部(チャイナ・セブン)に言わせれば、「そういう事実はない」の一点張り。どうでもいい話かもしれませんが、そう断言する中国外交部報道局の趙立堅副局長(49)は、いつもテレビカメラを睨みつけ、怖い顔をしていますね。これも※個人の感想です。

 それでいて、中国国内の街の至る所で、無数の監視カメラが張り巡らされたおかげで、交通違反や犯罪まで減少し、すっかり治安が良くなったようです。無暗にクラクションを鳴らしただけでも交通違反となり、監視カメラとAIによってドライバーが特定され、反則金と顔写真まで電光掲示板で晒されるということで、北京市内もすっかり静かになったといいます。

 天才作家「1984」のジョージ・オーウェルでさえ、ここまで「予言」できなかったことでしょう。

例の往復はがきで応募した「ドナルド・キーン文学散歩」は「落選」してしまいました。ずわんねん。

 何と言っても、オリンピックは「国威発揚」の場ですから、世界経済大国第二位になった中国も自信満々です。それと並行するかのように、中国の若い人の間で「漢服」のファッションが流行っているそうです。漢服とは、漢民族の伝統的な服装のことです。私は誤解しておりましたが、中国の伝統的衣装といえば、チャイナドレスだと思っていましたが、あれは清帝国を成立させた満洲の女真族の伝統衣装だったんですね。日本の和服も漢服の影響を受けているという説もあります。

 私が学生だっ1970年代は、中国からの留学生は皆、「人民服」を着ていたものでした。今はすっかり様変わりして漢服の流行で、怖いもの知らずの副局長を筆頭に、中国は自信で漲っています。

 まあ、異国の話ですから、「お好きなようにしてください」ですが、何処か排外主義的、国粋主義的、超国家主義の臭いをうっすらと感じるような感じないようなそんな気がします。(断言できないのは、異国からの検閲を極度に恐れているからでした。)

市場経済は自由競争により「見えざる手」に導かれ効率的生産を実現=アダム・スミス「国富論」上巻読破

 渓流斎ブログ昨年12月3日付で「予想外にも超難解な書=アダム・スミス『国富論』」を書きましたが、やっと高哲男・九州大名誉教授による新訳(講談社学芸文庫)の上巻(727ページ)を読了し、下巻(703ページ)に入りました。上巻を読むのに2カ月かかったということになります。

 もっとも、毎朝通勤電車の中で10ページほど読むのが精一杯でしたから、それぐらい時間がかかるのは当然です。でも、我ながら、途中で投げ出さず、よくぞここまで我慢して読破したものだと感心しています。

 できれば読書会にでも参加して、専門家の皆さんに色んな疑問に応えてもらえれば、読解力も深まることでしょうが、いかんせん、独学ですから仕方ありません。

 それでも、下巻の巻末にある「訳者解説」は非常に役に立ちます。「なあんだ、スミス先生はそういうことを言いたかったのか」と分かります。この訳者解説に触れる前に、アダム・スミスの「国富論」で最も有名なフレーズで人口に膾炙している「見えざる手」を上巻で発見することができました。

 それは上巻653~654ページの「第四編 政治経済学の体系について」の「第二章 自国で生産可能な財貨の外国からの輸入制限について」の中にありました。引用すると以下のように書かれています。

  つまり、すべての個人は、労働の結果として、必然的にそれぞれ社会の年々の収入の可能なかぎり最大にするのである。事実、個々人は、一般的に公共の利益を促進しようと意図しているわけではないし、それをどの程度促進するか、知っているわけでもない。外国産業よりも国内産業の維持を選択することによって、彼は、たんに自分自身の安全を意図しているにすぎず、その生産物が最大の価値を持つような方法でその産業を管理することにより、彼は、自分自身の利益を意図しているのであって、彼はこうするなかで、他の多くの場合と同様に、見えない手に導かれて、彼の意図にはまったく含まれていなかった目的を促進するのである。

 どうですか? これを読んで、即、頭にすっと入って理解できる方は秀才ではないでしょうか? 煩悩凡夫の私は何度か繰り返し読んで、何となくおぼろげに分かったような分からないような感じです。「国富論」はこのような「名文」に溢れているのにも関わらず、古典として長い間、世界中の人類によって読み継がれてきたわけですから、襟を正して読むしかありません。

 そんな秀才になれなかった人たち向けには「訳者解説」が大いに役に立ちます。国富論の初版が出たのは1776年のことです。第六版が出たのが1791年ということですから、まさに、余談ながら、ちょうど天才モーツァルト(1756~91年)が活躍した時期とピッタリ合うのです。訳者の高哲男氏によるとー。

・18世紀末に「国富論」が高く評価された最大の理由は、スミスが重商的な経済政策、保護主義政策(関税や助成金など)を根本的に批判したからだ。

・19世紀になると農業保護政策が放棄され、英国は自由貿易の旗印の下で世界市場を席捲。基本的に「自由放任」「自由競争」の時代となり、自由競争こそが最も効率的で急速な経済発展を可能にすると主張する「国富論」はもう当たり前の話でお役目御免となり、注目されなくなる。

・19世紀末から20世紀になると、慢性的な低賃金と周期的に襲う不況により、労働組合運動や社会主義運動が高まり、理論的支柱として「国富論」が再度注目されるようになる。

・20世紀半ばになると、「市場の効率性」を強調する産業組織論として解釈されるようになる。やがて市場万能主義に利用され、有効需要創出など政府の完全雇用政策は、インフレを引き起こすだけでなく、労働者に与えた既得権に役立つだけだ、という批判が人気を呼ぶ。

・効率性の観点から「規制緩和」や、自由競争の復権を唱えるネオ・リベラリズムが台頭し、スミスの思想は、市場経済は自由競争にしておきさえすれば、神の「見えざる手」に導かれておのずと最大かつ効率的な生産を実現するから、皆ハッピーとなる、という解釈が施される。

 ということで、「めでたし、めでたし」という話になりますが、訳者の高氏は、「これは全く嘘ではないが、それほど単純ではない」と強調しています。

 私自身は、そんな単純ではない複雑な内容を解明したいがために、下巻を読み続けていきたいと思っています。

 【追記】

 カトリーン・マルサル著「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」(河出書房新社)が最近売れているそうですね。「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからである」と論じたスミスは、生涯独身で、母や従姉妹に周りの世話をしてもらっていたと、著者は指摘。私自身は未読ですが、経済学は万能の科学ではないし、何でも(愛さえも)軽量化して我々を統治するな、といった主張に近いようです。

 これでは、スミス先生も形無しですね。

人間、14歳が勝負の分かれ目?=イタリア映画讃

  本日、ランチで行った東銀座のイタリアンレストランで、稀に見る飛びっきりの美人さんとほぼほぼ同席となり、何か得した気分になり、食後のコーヒーまで改めて注文してしまいました(笑)。

 誤解しないでくださいね。ただ、たまに、チラッと見ていただけーですからね(笑)。

 その美人さんはお仲間さんと3人で食事をしていたので、よく素敵な笑顔がこぼれておりました。まだ20代半ばか後半といった感じでしょうか。いやはや、これ以上書くと炎上するので、やめておきます(笑)。

 後で、誰に似ているかなあ、と思ったら、先日(2月2日)亡くなったイタリアの女優モニカ・ヴィッティさんでした。ちょっときつめのアイラインで、少しワイルドな感じでしたが、知的そうで、なかなか、滅多にお目にかかることはできない美人さんでした。

 とにかく、モニカ・ヴィッティさんにそっくりだったので、(90歳で)亡くなった彼女が再来して降臨してきたのではないかとさえ思いました。でも、今では彼女のことを知る人はもう少ないかもしれません。私は、彼女がアラン・ドロンと共演した「太陽はひとりぼっち」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)で強烈な印象に残っています。1962年公開作品(カンヌ映画祭審査員特別賞受章)ですから、映画館ではなく、何年か経ってテレビか、池袋の文芸座(洋画二本立て100円)で見たと思います。ニーナの主題曲もヒットしたと思います。

 1962年はビートルズがデビューした年ですから、少なくともこの年まで世界的な流行音楽は(映画音楽も)ジャズだったのではないかと思います。私は最近、1950年代から60年代にかけて流行したジャズ・ギターにハマってしまい、昨年から今年かけてもう10枚以上ものCDを買ってしまいました。タル・ファロー、ハーブ・エリス、バーニー・ケッセル、ケニー・バレルといった面々です。彼らの超人的早弾き演奏には圧倒されます。これまで、エリック・クラプトンかジミ・ヘンドリックス、もしくは、ジミー・ペイジかジェフ・ベックかリッチー・ブラックモア辺りが人類最高のギタリストだと思っていたのですが、ちょっと、考え方が変わってきました。ジャズ・ギタリストの早弾きは、ロック以上で、とても真似できませんね。

東銀座・イタリア料理店「エッセンス」ランチB(カサレッチェ)1100円+珈琲100円=1200円

 1960年~70年代はハリウッド映画一本やりではなく、映画館(私がよく行ったのは池袋「文芸座」のほか、大塚駅前の「大塚映画」?、高田馬場「パール座」「松竹座」、飯田橋「佳作座」などの廉価な弐番館です)では、結構、欧州映画が掛かっていました。アロン・ドロンやジャンポール・ベルモンド主演のフランス映画が多かったですが、イタリア映画も負けてはいません。先のアントニオーニ監督の他、何と言っても巨匠ルキノ・ヴィスコンティ(「地獄に堕ちた勇者ども」「山猫」「ルートヴィヒ」など)、それにフェデリコ・フェリーニ(「道」「甘い生活」など)は若輩には難解でしたが、何日も頭の中でグルグルと場面が浮かぶほど印象深かったでした。ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の「デカメロン」や「カンターベリー物語」には衝撃を受けましたが、その前に、ヤコペッティ監督の「世界残酷物語」(1962年)は日本でもヒットしました。DVDがあればもう一度見てみたいですが、所有したくないので、レンタルであればの話ですけど(笑)。

 ああ、そう言えば、「ロミオとジュリエット」「ブラザーサン・シスタームーン」のフランコ・ゼフィレッリも大好きな監督です。それに何と言っても、ビットリオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」(マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレン主演)は名作中の名作です。

 懐古趣味的な話になってしまいましたが、人間、多感な若い時(恐らく14歳)に聴いた音楽や観た映画が、一生を左右する、ということを言いたかったのです。今の若者たちに流行のラップやヒップホップは、私自身、個人的には、もう手遅れでついていけないので勘弁してほしいですし、映画も勧善懲悪がはっきりした単純なハリウッド映画よりも、難解なヨーロッパ映画の方が趣味的には合ってしまうのです。

 何か、問題ありますかねえ?

今でも使っている古代ローマ帝国時代の遺跡

 「注意散漫」という言葉がありますが、私の場合、「興味散漫」で色んなことに興味があって止まりません。誰か助けてぇ…です。

 昨日まで、鎌倉幕府のことに熱中していたかと思ったら、今は、ローマ帝国のことで頭がいっぱいになってしまいました。何で、ローマ帝国?

 それは、目下、東京・上野の国立博物館で「ポンペイ」展が開催されているため、その影響で、テレビやラジオでもローマ帝国に関係した番組が放送されていて、私もその「便乗商法」に感化されてしまったのです。

 ローマ帝国といえば、30年程前に、塩野七生さんが「ローマ人の物語」(全15巻、1992年~2006年)を発表し、私も夢中になって読んだものでした。(正直、途中で挫折して全巻読んでおりませんし、引っ越し等で、もう今は1冊も手元にないのですが)

 それ以来、ローマ帝国は、30年ぶりぐらいの「マイ・ブーム」ですが、今回は新発見の連続でした。何故なら、21世紀になって次々とローマ帝国時代の遺跡が発掘されていき、歴史が塗り替えられているからです。

銀座・トルコ料理「サライ」

 特に2月5日に、BS国営放送で放送された「最強の帝国 ローマ」には感服致しました。ローマ帝国は欧州だけでなく、北アフリカやインド付近まで版図を拡大しましたが、異民族に対して寛容で独自の文化も認めてきたといいます。それだけではなく、戦争で勝ち取った領土を「植民地化」せず、ローマの市民権まで与えたといいます。その証拠に、五賢帝の一人、トラヤヌス帝は、属州ヒスパニア(スペイン)出身でした。

 番組では、北アフリカのチュニジアで4年前に海底で発見された古代都市を「再現」したりしてましたが、チュニジアでは、ローマ帝国時代の水道橋が2000年経った現在でも現役として使われているというので驚いてしまいました。

 また、奴隷剣闘士が戦った闘技場は、ローマやベローナのコロッセオぐらいかと思っていたら、属州でもあっちこっちにあり、特にトルコのエフェソスでは広大な円形闘技場が発掘されていました。また、オーストリアの首都ウイーン郊外では、何と剣闘士養成所まで発見されたのです。これらの遺跡から推測されるのは、これまで、剣闘士は即座に殺されたと思われ、映画やドラマ等ではそう描かれていましたが、結構、剣闘士に対する待遇が良く、栄養が良い食事も与えられていたといいます。何よりも、「見世物」であるため、すぐ殺されることはなく、「演出」もあったようでした。後年は奴隷の剣闘士も減って、一般人から志願された剣闘士も増えていったといいます。

 とにかく、旧ローマ帝国の領土だった欧州、アフリカ、中東はその遺跡だらけです。トルコのイスタンブールは、かつてコンスタンティヌス帝が建設したコンスタンティノープルでしたから、数年前に市内のカフェの地下から神殿が発見されたりしていました。トルコの法律では、その地下神殿はカフェのオーナーのものになり、遺跡保護のための助成金まで出るそうです。

 もう一つ、英国の首都ロンドンはローマ人が属州ブリタニアの中心地「ロンディニウム」として建設した都市でした。(英国人はローマ帝国の属州だったことは、文明化されたということで、誇りに思っているという話を聞いたことがあります)これまた数年前にそのロンドンの金融街シティー(ブルームバーグ欧州本部社屋建設現場の地下らしい)からローマ時代(紀元60年代前半)の商店や住宅などが出てきたといいますから、これまた驚きです。

銀座・トルコ料理「サライ」ビーフケバフ・ランチ1200円

 このほか、これまた国営放送の「世界ふれあい街歩き」という番組が好きでよく見ているのですが、先日は「古代ローマの宮殿が街に スプリト〜クロアチア〜」をやっておりました。このスプリトには、1700前に古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝(244~311年)が建設した宮殿がありますが、、その広大な宮殿を、市民が現在でも商店や住宅として使っているのです。これは、もう遺跡とか過去の遺物どころの話ではありません。石の建物ですから、2000年経っても使えるというところが凄い。ローマ人の底力を垣間見た感じです。

 そんなローマ帝国が何で滅亡してしまったのか? 諸説あるようですが、今は、そちらの方に興味が移っています(笑)。

 あ、そうだ。「ポンペイ」展を観に行かなければいけませんね。私自身は、かつて、イタリア旅行で現地を訪れたことがありますが、またまた最近発掘されたものまで展示されているといいますから、見逃せませんね。ナポリ近郊の都市ポンペイがヴェスヴィオ山噴火により埋没したのは紀元79年のこと。皇帝ティトゥスの時代です。ポンペイ展に行けば、少しは「ローマ帝国熱」も醒めるかもしれません(笑)。

 あ、書き忘れるところでした。「暴君ネロ」と言われたネロ皇帝は暴君ではなかった、と最近見直されてきているようです。まあ、そこが歴史の面白いところです。