幸運にも多くの秘仏さまとお会いできました=「最澄と天台宗のすべて」

 東京・上野の東京国立博物館・平成館で開催中の「最澄と天台宗のすべて」に行って参りました。何しろ、「天台宗のすべて」ですからね。訳あって、会場を二巡してじっくりと拝観致しました。

 この展覧会は「事前予約制」で、私もネットで入場券を購入しました。一般2100円とちょっと高めでしたが、「伝教大師1200年大遠忌」ということで、大変素晴らしい企画展でした。

比叡山延暦寺 根本中堂内部(模擬)

 そんな素晴らしい展覧会なのに、読売新聞社主催ですから、読売を読んでいる方はその「存在」は分かっていたでしょうが、他の新聞を読んでいる方は知らなかったかもしれません。例えば、朝日新聞の美術展紹介欄には掲載していないほど意地悪の念の入れようですから、朝日の読者の中にはこの展覧会のことを知らない方もいるかもしれません。

 私は色々とアンテナを張ってますから大丈夫でした(笑)。先日このブログで御紹介した「歴史人」11月号「日本の仏像 基本のき」でもこの展覧会のことが紹介されていたので、しっかり予習して行きました。(展覧会では、最澄と徳一との「三一権実(さんいちごんじつ)論争」が出て来なかったので残念でした)

◇ 深大寺の国宝「釈迦如来倚像」と御対面

 大収穫だったのは、東京・深大寺所蔵の国宝「釈迦如来倚像」(7世紀後半の白鳳時代)を御拝顔できたことです。何と言っても「東日本最古の国宝仏」ですからね。いつか行くつもりでしたが、向こうから直々こちらにお会いに来てくださった感じです。倚像(いぞう)というのは椅子か何かにお座りになっている姿ですから、特に珍しいのです。日本では古代、その習慣がなかったので、坐像は多くても、倚像は廃れたという話です。

 深大寺には、もう半世紀も昔の高校生か大学生の頃に、何度か参拝に訪れたことがあるのですが、不勉強で、奈良時代の733年に創建され、平安時代の859年に天台宗別格本山となった寺院で、正式名称を「浮岳山 昌楽院 深大寺」だということまで知りませんでした。この寺には先程の国宝釈迦如来倚像のほかに、2メートル近い「慈恵大師(良源)坐像」があり、それも展示されていたので度肝を抜かれました。これは、日本最大の肖像彫刻で、江戸時代以来、205年ぶりの出開帳だというのです。まさに秘仏の中の秘仏です。「展覧会史上初出展」と主催者が胸を張るだけはあります。私もこんな奇跡に巡り合えたことを感謝したい気持ちになりました。

 秘仏と言えば、この「最澄と天台宗のすべて」展では他にも沢山の秘仏に接することができました。兵庫・能福寺蔵の重文「十一面観音菩薩立像」(平安時代、10世紀)、東京・寛永寺蔵の重文「薬師如来立像」(平安時代、9~10世紀)、滋賀・伊崎寺蔵の重文「不動明王坐像」(平安時代、10世紀)などです。

 この中で、私が何度も戻って来て、御拝顔奉ったのが、京都・真正極楽寺(真如堂)蔵の重文「阿弥陀如来立像」(平安時代、10世紀)でした。高僧・慈覚大師円仁の作と言われます。阿弥陀如来といえば、坐像が多いのですが、これは立像で、その立像の中では現存最古とされています。こんな穏やかな表情の阿弥陀さまは、私が今まで拝顔した阿弥陀如来像の中でも一番と言っていいぐらい落ち着いておられました。年に1日だけ開帳という秘仏で、しかも寺外初公開の仏像をこんなに間近に何度も御拝顔できるとは有頂天になってしまいました。(売っていた絵葉書の写真と実物とでは全くと言っていいくらい違うので、絵葉書は買いませんでした)

比叡山延暦寺 根本中堂内部(模擬)

 最澄(767~822年)は、平等思想を説いた「法華経」の教義を礎とする天台宗を開き、誰でも悟りを開くことができるという一乗思想を唱えましたが、比叡山に開いた延暦寺は仏教の総合大学と言ってもよく、後にここで学んだ法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗(以上浄土教系)、栄西は臨済宗、道元は曹洞宗(以上禅宗)、日蓮は日蓮宗(法華経系)を開いたので、多彩な人材を輩出していると言えます。

 先程の阿弥陀如来立像を作成した円仁(山門派の祖)は、下野国(今の栃木県)の人で、「入唐求法巡礼行記」などの著書があり、唐の長安に留学し、師の最澄が果たせなかった密教を体得して天台密教(台密)を大成し、天台第三代座主にもなりました。一方、阿弥陀如来像を作成されたように、浄土教も広めた高僧でもあるので、天台宗というのは、懐が広い何でもありの寛容的な仏教のような気がしました。(その代わり、千日回峰があるように修行が一番厳しい宗派かもしれません)

 そもそも、天台宗そのものは、中国の南北朝から随にかけての高僧智顗(ちぎ)が大成した宗派ですから、中国仏教と言えます。もっとも、中国仏教はその後の廃仏毀釈で消滅に近い形で衰退してしまったので、辛うじて、日本が優等生として命脈を保ったと言えます。

 伝教大師最澄も、渡来人三津首(みつのおびと)氏の出身で出家前の幼名は広野と言いましたから、日本の仏教は今の日本人が大好きな言葉であるダイバーシティに富んでいるとも言えます。

上野でランチをしようとしたら、目当ての店は午後1時を過ぎたというのにどこも満員で行列。そこで、西川口まで行き、駅近の中国料理「天下鮮」へ。西川口は今や、神戸や横浜を越える中華街と言われ、それを確かめに行きました。

 最初に「訳あって、会場を二巡した」と書いたのは、会場の案内人の勝手な判断によって「第2会場」から先に見させられたためでした。第2会場を入ると、最澄の「さ」の字も出て来ず、いきなり「比叡山焼き討ち」辺りから始まったので、最初から推理小説の「犯人」を教えられた感じでした。時系列の意味で歴史の流れが分からなくなってしまったので、「第1会場」を見た後、もう一度「第2会場」を閲覧したのでした。

 そのお蔭で、円仁作の「阿弥陀如来立像」を再度、御拝顔することができたわけです。

JR西川口駅近の中国料理「天下鮮」の定番の蘭州ラーメン880円。やはり、本場の味でした。お客さんも中国人ばかりで、中国語が飛び交い、ここが日本だとはとても思えませんでした。西川口にはかたまってはいませんが、50軒ぐらいの「本場」の中華料理店があるといいます。その理由は、書くスペースがなくなりました。残念

 なお、私がさんざん書いた円仁作の阿弥陀如来立像は11月3日で展示期間が終了してしまったようです。となると、是非とも、京都・真正極楽寺(真如堂)まで足をお運びください。ただし、秘仏ですので、年に1度の公開日をお確かめになってくださいね。

 あ、その前に、この展覧会は来年5月22日まで、福岡と京都を巡回するので、そこで「追っかけ」でお会いできるかもしれません。

 円仁作の阿弥陀如来立像は、一生に一度は御対面する価値があります、と私は断言させて頂きます。

4人が影響受けたワールド・ミュージック=北中正和著「ビートルズ」

 私は自他ともに認めるビートルズ・フリークなので、「ビートルズに関して知らないことはない」とまで自負しておりましたが、最近話題の北中正和著「ビートルズ」(新潮新書、2021年9月20日初版)を読んで、そのあまりにものマニアックぶりには脱帽してしまいました。

 著者の北中氏は、著名な音楽評論家で、御本人はこういう言い方されると困るかもしれませんが「ワールド・ミュージックの大家」です。実は、この大家さんとは、個人的によく知っている方で、取材でお世話になったり、酒席で何度も同席させて頂いたりしております。ですから、北中氏というより、普段通り、北中さんと呼ばさせて頂きます。

 著者を知っていると、この本を読むと、北中さんの声や身振りが聞こえたり、思い浮かんだりします。博覧強記とも言うべき北中さんのワールド・ミュージックに関する博学な知識をこれでもか、これでもか、といった具合で披露してくれます。(ただし、御本人は「押し」が強い性格ではなく、真逆の静かで穏やかな方です)

 ということで、この本では、ビートルズを語っているようで、ビートルズを語っていないような、ビートルズの4人が影響を受けた世界の音楽の歴史を語った本と言えるかもしれません。まさに、北中さんの真骨頂です。4人が最も影響を受けた音楽は、エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードらのロックン・ロールであることは確かなのですが、そんな単純なものではありません。彼らの親の世代が聴いていたジャズを始め、カントリー、ブルース、フォーク、スキッフル、彼らのルーツであるアイルランド民謡、R&B、ラテン、はたまたキューバのソンやジャマイカのスカ、そして、ラヴィ・シャンカールを通してのインド音楽やシュトックハウゼンらの現代音楽まで取り入れていたのです。

 つまり、ビートルズはロック一辺倒ではなく、例えば、「ハニーパイ」などは1930年代のジャズ風ですし、「オブラディオブラダ」はスカのリズムの影響を受けて導入しています。(今流行りのラップは、ジョン・レノンの「平和を我等に」が魁になったと私は思っています)

 私もビートルズ・フリークを自称しているので、ある程度のことは既に知っておりましたが、例えば、ビートルズがハンブルク時代にトニー・シェリダンのバックバンドとして最初にレコーディングした「マイ・ボニー」が、英国の17世紀の名誉革命後の王権争いの伝説が元になっていたことまでは、流石に知りませんでしたね。

 驚いたことは、BBCテレビ放送の「マジカル・ミステリー・ツアー」の中で、リンゴの音頭で観光バスの中で老若男女の乗客が一緒に歌ったり、ハミングしたりする場面があります。「分かる範囲でその曲名を挙げておくと『アイヴ・ガット・ア・ラヴリー・バンチ・オブ・ココナッツ』『トゥ・トゥ・トゥツィ』「アイルランド娘が微笑めば』『レッド・レッド・ロビン』『日曜日はダメよ』『地獄のギャロップ』などで、ロック系の局がひとつも含まれていないことに注目してください」(111頁)とまで北中さんは飄々と書くのです。今は、DVDなどがあるので、ゆっくり確かめることができますが、こんなところまで注目する著者のマニアックぶりには恐れをなすほどです(笑)。

 いやあ、題名を言われてもほとんど知らない曲ばかりですね。でも、今は大変恵まれた世の中になったもので、ユーチューブなどで検索すれば、「ああ、あの曲だったのかあ」と分かります。恐らく、この本では、皆さんも知らない曲が沢山出てくると思いますが、ユーチューブを参照しながら読む手があります(笑)。

「モヤモヤさまぁ~ず」が3回も訪れた東京・王子「カレーハウス じゃんご」(ロースカツカレー 950円 ルーも御飯も超極少でした)

 最近、画家の生涯やモデル、時代背景などをマニアックに解説した「名画の見方」のような本がよく売れているようです。そういった意味で、この本も一風変わった「ビートルズの聴き方」の教則本になるのかもしれません。知識があるのとないのとでは、格段の違いです。

 ビートルズは解散して半世紀以上も経つというのに、いまだに聴かれ続け、ラジオ番組でも特集が組まれたり、関連本も世界各国で出され続けています。そろそろ、もうないのではないかと思われたのに、北中さんの本はやはり異彩を放っており、逆に、半世紀経たないと書けない本だったかもしれません。

 話は飛びますが、業界と癒着する評論家が多い中、北中さんは、そんな人たちとは一線を画し、操觚者から見ても、見事にクリーンで清廉潔白な音楽評論家です。京大卒の学究肌だからかもしれません。

 ビートルズ・フリークの私が脱帽するぐらいの内容です(笑)。勝手ながら「年長の友人」と思っている北中さんの書いたこの本を多くの人に読んでもらいたいと思っております。

 あ、書き忘れました。この本を企画した新潮新書の編集者安河内雄太さんは、「年下の友人」でした(爆笑)。

民藝運動に対する疑念を晴らしてくれるか?=小鹿田焼が欲しくなり

 東京・竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」(2022年2月13日まで)を観に行って参りました。観覧料一般1800円のところ、新橋の安チケット屋さんで期間限定券ながら半額以下のわずか790円で手に入りました(笑)。

 民藝運動の指導者柳宗悦先生(1889~1961年)の本職は、宗教哲学者だと思うのですが、私自身は、その著書「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を数年前に読んで初めてその偉大さが分かった遅咲きの学徒だといっていいかもしれません。

銀座・民芸品店「たくみ」

 でも、私自身は、若い時から「民藝」には大変興味を持っていて、その代表的陶芸家である濱田庄司も河井寛次郎も大好きです。東京・駒場の「日本民藝館」にも訪れたことがあります。7月には、民藝の作品を販売する「銀座 たくみ」に行ったりしたぐらいですから。

 とはいえ、最近では、少し、民藝に関しては疑惑に近い疑念を持つようになりました。今では民藝はすっかりブランド化したせいなのか、例えば、銀座の「たくみ」で販売されている作品などは庶民には手が届かない高価なものが多かったでした。本来、民藝とは貧しい田舎の農家の殖産興業のために、伝統を失いかけていた陶芸を復活させたり、貧農の鋤や鍬など農作業具にさえ「日本の美」を見つけたり、無名の職人に工芸品作成を依頼したりした庶民的な運動だとばかり思っていたからです。

 古い言い方ですが、これでは、民藝とはプチブルか、ブルジョワ向きではないかと思った次第です。ただ、これは単に自分が誤解していただけなのかもしれませんが。

 なぜなら、柳宗悦自身は学習院出身のブルジョワ階級(父楢吉は、津藩下級武士出身で、海軍軍人、最終軍歴は少将)です。国内全域だけでなく、中国、朝鮮、欧州にまで取材旅行し、よくこれだけ国宝級の作品をコレクション出来たものだと感心します。ただ、その財源は一体何処から来たものかと不思議に思っておりましたが、この展覧会を見て、彼は稀代のプロデューサーだったからではないかと睨んでいます。

 恐らく、柳宗悦が日本で初めて「メディアミックス」を考え出したのではないかと思います。本人は、雑誌「工藝」等の発行や膨大な著作を量産して出版活動に勤しみ、毎日新聞などと連携して広報宣伝活動し、三越や高島屋など百貨店と提携して販売活動まで促進するといった具合です。

 いわば、民藝のブランド化、権威付けに成功したのではないでしょうか。

東京国立近美の近くには江戸城の石垣が残っていて感動で打ち震えます

 不勉強のため、この展覧会で初めて知ったのは、柳宗悦の弟子である吉田璋也(1898~1972年)という人物です。この人は鳥取市出身の耳鼻科医で、師匠以上に民藝運動に邁進した人でした。地元鳥取市に「民藝館」を建て、作品を販売する「たくみ」を併設し、おまけに民藝の陶磁器やお椀やインテリアの中で食事ができる「たくみ割烹店」まで開いたりしたのです。

 また、鳥取砂丘の天然記念物指定の保護運動の先頭に立ったのが、この人だったというのです。他に、民藝作品のデザインをしたり、著述もしたり、医者をしながら、マルチなタレントを発揮した人でした。

東京国立近美の真向かいが毎日新聞東京本社(パレスサイドビル)。地下鉄東西線「竹橋」駅とつながっています

 「民藝の100年」と銘打っている展覧会なので、民藝運動とは何だったのか、再考できる機会になると思います。私は、民藝とは富裕層向けではないかと思いましたが、他の人は違う考えを持つことでしょう。でも、私は古い人間なので、こういう調度品に囲まれると心が落ち着き、欲しくなります。

 見終わって、ミュージアムショップを覗いてみましたが、結局、2600円の図録は迷った末、買いませんでした。他にも買いたいものがあったのですが、やはり、我慢して買いませんでした。

ちょうど昼時で、毎日新聞社地下の「とんかつ まるや」(特ロース定食1000円)でランチ

 でも、家に帰って、それを買わずに帰ったことを無性に後悔してしまいました。「それ」とは、大分県日田の小鹿田焼(おんたやき)です。1600年頃に朝鮮から連れてこられた陶工によって開窯された小石原焼(福岡)の兄弟窯だそうですが、近年、寂れていたものを柳宗悦とバーナード・リーチらによって再評価されて復活した焼き物で、今では民藝の代表的作品です。

 特に「飛び鉋」(とびかんな)と呼ばれる伝統技法の模様の皿が魅惑的で、この皿に盛った食べ物は何でも旨くなるだろうなあ、と感じる代物です。五寸皿が一枚2200円とちょっと高め。「ああ、あの時買えばよかった」と後悔してしまったので、結局、通販で買うことに致しました。注文して手元に届くまで1カ月以上掛かるということで、届いたら、皆様にお披露目しましょう(笑)。

【追記】

 柳宗悦のパトロンは、京都の何とかというパン屋さんだということを以前、京洛先生に聞いたことがありますが、どなただったか忘れてしまいました。柳宗悦は関東大震災で被災して京都に疎開移住したことがあるので、その時に知り合ったのかもしれません。

 同時に柳宗悦が「民藝」と言う言葉を生み出したのは、京都時代で、この時初めて、柳は濱田庄司から河井寛次郎を紹介されます。その前に柳は河井寛次郎の作品を批判していたので、河井は柳になかなか会おうとしなかったという逸話もあります。

備前焼のぐい吞みをゲット=友人Y君から

 何の風の吹き回しなのか、岡山出身の友人Y君から備前焼のぐい吞みをもらってしまいました。

 Y君は先週、高齢の親御さんの介護のために1週間近く岡山に帰郷していたのですが、そのついでに倉敷の大原美術館にあるエル・グレコの「受胎告知」を再見しに行き、またまたそのついでに商店街で備前焼専門店で見かけた「ぐい呑み」が小生に合うんじゃないか、とわざわざ買って来てくれたのです。

 焼き物は、備前に始まり、備前で終わる。

 と、彼に対して釈迦に説法のような偉そうなことを言いながら、私が銀座で高価な備前焼の湯飲み茶碗を買ったことを自慢したことを彼は覚えていたのかもしれません。もしくは、内心、彼は「備前は俺の地元だぜい」と馬鹿にしていたのかもしれません。それでもー。

 「これから寒くなるし、これで熱燗でも呑むとうまいよ」

 さりげなく、彼はプレゼントしてくれたのです。プレゼントなので、さすがに値段を聞くわけにはいきませんが、お店の「陶備堂」のホームページを見て吃驚です。かなり敷居が高く、入るのに勇気がいりそうな高級店です。何と言っても、「倉敷最古の備前焼専門店」と銘打っていますからね。

備前焼 紀文春氏 1975年備州窯入社、伝統工芸中国支部展、茶の湯造形展等入選

 また、このぐい吞みの作者の紀文春氏は、1975年に備州窯入社と略歴にありますので、この道、半世紀近い大ベテランさんです。

 「陶備堂」のHPを見ると、この店の「お抱え作家」の中に、「人間国宝」の伊勢崎淳氏がおり、彼の壺は77万円、茶碗が55万円の価格が付いておりました。

 紀文春氏の場合は、そこまでは行かないと思いますし、「箱入り」ではなかったので、それほど高価なぐい吞みではなかったかもしれません。(そうじゃなければ、気軽にお酒は呑めましぇん!)

備前焼 ぐい吞み(紀文春作)工房:岡山県和気町

 本当に、それでも、わざわざ、小生のために買って来てくれるとは…。その「心意気」だけでも感謝感激です。

 実は、Y君とは、趣味嗜好も、性格も、育ちも全く違い、どちらかと言えば、気も合わないのですが(笑)、彼と知り合ったお蔭で、これまで自分自身、若い頃は全く興味がなかった経済や金融について関心を持つことができるようになりました。彼がいなかったら、ケインズの「一般理論」やハイエクの「隷属の道」やトマ・ピケティの「21世紀の資本」などまず読むことはなかったと思います。

 その点、彼には大変感謝しています。彼のお蔭です。たとえ、趣味や気が合わなくても、いや、合わなかったからこそ、別の世界を知ることが出来たわけですから。やはり、持つべきものは有形文化財(お金)ではなく、無形文化財(友人)ですよ。

 Tu ne penses pas?

仏像とは何かについての管見

 またまた毎月のように購入している雑誌「歴史人」(ABCアーク)を取り上げますが、11月号の特集「日本の仏像 基本のき」はなかなか読み応えありました。「知っていれば仏像鑑賞が100倍面白くなる!」と自画自賛していますが、その通り、確かにこの本に書かれている知識があるのと、ないのとでは、仏像鑑賞の上で格段の違いがあります。

 仏像に関しては、文章だけで説明されてもなかなか頭に入らないものです。やはり、百聞は一見に如かずです。この特集では、仏像の写真や図解がふんだんに使われているので、分かりやすく、見ていると、是非とも、全国の国宝、重要文化財の仏像を拝観したくなります。

 本書によると、国宝の仏像を所蔵する寺院などは全国に54カ所あるそうですが、私も、奈良の東大寺や法隆寺、興福寺、京都の東寺や三十三間堂、和歌山県の金剛峯寺、岩手県の中尊寺など半分近くは訪れています。しかし、国宝級の仏像は「秘仏」になっていることが多く、例えば、京都・清水寺の十一面千手観音菩薩(33年に1度御開帳)や信州善光寺の阿弥陀如来像(7年に1度)、大阪・観心寺の如意輪観音菩薩坐像(年に1度)などとなっており、寺院に行ってもタイミングが合わずに参拝できなかったことも多かったでした。

 逆に現場に行かなくても、例えば、大阪・藤井寺市にある葛井寺の十一面千手観世音菩薩像や、奈良県桜井市にある聖林寺の十一面観音立像などは東京の国立博物館の展覧会で拝むことができたりしました。

 私自身、これまで、「仏像の見方」などかなり関連書籍は読み込んできましたので、目新しい記述はなかったのですが(生意気だあ!)、如来、菩薩の次に配置される五大明王は大日如来の怒りの化身、八大童子は不動明王の眷属、八部衆は釈迦の眷属、十二神将は薬師如来の眷属、二十八部衆は、千手観音の眷属などといった知識はすっかり忘れておりました(苦笑)。

 通読して、正確に計算したわけではありませんが、日本の寺院の仏像は、阿弥陀如来か、その脇侍の観音菩薩が一番多いような気がしました。それだけ、日本は、浄土教、浄土思想が根強く広がったという証左なのではないでしょうか。

 しかしながら、日蓮は「念仏無間」(阿弥陀仏を信仰して念仏を唱える浄土宗や浄土真宗などの門徒は無間地獄に堕ちる)と批判しましたから、日蓮宗の寺の本尊は阿弥陀如来であるはずがありません。(日蓮宗の本尊は、仏像ではなく「十界曼荼羅」、脇侍は大黒天と鬼子母神)

 考えてみると、浄土宗の開祖法然は、西方の極楽浄土にお住まいの阿弥陀如来を「選択」して信仰の対象にしたわけです。が、実は、東方の浄瑠璃世界には薬師如来がお住まいです(その脇侍が日光、月光菩薩。眷属として十二神将を従えておられます)。日蓮としては、批判の根拠の一つとして、何で、西方の阿弥陀仏だけ取捨選択して他の如来を棄てたのかという意識があったのかもしれません。勿論、法然は西方の阿弥陀仏を選んで宗派を打ち立てたわけですから、それはそれで良いのですが、仏像全体の曼荼羅や構図を鑑賞的に見ると、阿弥陀如来だけでなく、薬師如来も大切な存在であり、二十八部衆まで入れて、やっと完成するという気がします。

 ただ、これだけ仏像の種類が増えたのも、バラモン教、ヒンドゥー教から多大な影響を受けた密教の導入のせいではないかと私は思っています。だから、先ほどの話とは矛盾しますが、信仰の対象(御本尊の仏像)や方便(座禅など)を絞った方が、宗派として成立しやすかったのでしょう。

◇家康は阿弥陀如来像

 人間はか弱いものですから、歴史上、どんな傑物や偉人でも宗教に縋っていたようです。特に、戦国時代はいつ殺されるか、一時も心が休まることがありませんから、戦場にまで小さな仏像を持参したようです。明智光秀は地蔵菩薩、伊達政宗は聖観音菩薩、武田信玄は不動明王、上杉謙信は毘沙門天、豊臣秀吉は三面大黒天、徳川家康は阿弥陀如来をそれぞれ信仰していたようです。

 この他、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像をつくった定朝を始祖とした円派、院派、奈良仏師、慶派といった仏師の系譜は非常に興味深く拝読しました。

 いずれにせよ、仏像に関しては、あまり頭でっかちに考える必要はないと思います。私は、拝観するだけで心が洗われ、落ち着きます。

国宝 鎌倉大仏殿高徳院

【注記】

観音菩薩=如意輪観音(天)、不空羂索観音、准胝観音(人間)、十一面観音(修羅)、馬頭観音(畜生)、千手観音(餓鬼)、聖観音(地獄)

五大明王=不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王

八大童子=慧光、慧喜、阿耨達、指徳、烏倶婆迦、清浄、矜羯羅、制吒迦

八部衆=天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆

十二神将=宮毘羅、伐折、迷企羅、安底羅、摩儞羅、珊底羅、因陀羅、婆夷羅、摩虎羅、真達羅、招杜羅、毘羯羅

二十八部衆 =那羅延堅固(ならえんけんご)、難陀龍王(なんだりゅうおう)、摩睺羅(まごら)、緊那羅(きんなら)、迦楼羅(かるら)、乾闥婆(けんだつば)、毘舎闍(びしゃじゃ)、散支大将(さんしたいしょう)、満善車鉢(まんぜんしゃはつ)、摩尼跋陀羅(まにばだら)、毘沙門天(びしゃもんてん)、提頭頼吒王(だいずらたおう)、婆藪仙(ばすせん)、大弁功徳天(だいべんくどくてん)、帝釈天王(たいしゃくてんおう)、大梵天王(だいぼんてんおう)、毘楼勒叉(びるろくしゃ)、毘楼博叉(びるばくしゃ)、薩遮摩和羅(さしゃまわら)、五部浄居(ごぶじょうご)、金色孔雀王(こんじきくじゃくおう)、神母女(じんもにょ)、金毘羅(こんぴら)、畢婆伽羅(ひばから)、阿修羅(あしゅら)、伊鉢羅(いはつら)、娑伽羅龍王(さがらりゅうおう)、密迹金剛士(みっしゃくこんごうし)

久しぶりの痛飲=S氏の御先祖様は幕臣旗本だった

 J’ai mal aux cheveux.

 上のフランス語は、直訳すると「私の髪の毛が痛い」、もしくは「私の髪の毛の調子が悪い」ですが、これで「私は二日酔いだ」という意味なんです。フランス人の思考回路はよく分かりませんね(笑)。

 ともかく、昨晩は久しぶりに居酒屋さんで痛飲したため、本日は「髪の毛が痛い」です。

銀座「竹の庵」竹の庵膳1200円

 専門家は「感染拡大の第6波は必ず来る」と警告しておりますが、ここ半月、コロナ感染者数も減っていることもあり、間隙をぬって、呑兵衛の友人と少しずつ夜の街に繰り出しています。昨晩のお相手は、今年8月に「中野学校全史」(論創社)を上梓されたノンフィクション作家の斎藤充功氏でした。履歴はオープンにされているので、書いてしまいますが、1941年、東京市小石川区生まれです。名門都立小石川高校、旧制府立五中卒業の60年安保世代です。何と、御年80歳なのですが、頗るお元気で、「私は100歳まで生きますから、大丈夫です」と豪語されておりました。

 序に、 「中野学校全史」 の著者紹介欄には「東北大学工学部中退。陸軍中野学校に関連する著者が8冊。共著を含めて50冊のノンフィクションを刊行。近著に『ルポ老人受刑者』(中央公論新社)。現在も現役で取材現場を飛び回っている。」と記されています。陸軍中野学校創設者の一人である「日本のスパイ王」秋草俊の足跡を追うために、今でもベルリンに取材旅行を計画されているというので、本当に頭が下がります。何しろ80歳ですからね。

 高齢になると、記憶力も気力も落ちるものなのですが、斎藤氏の場合、頭脳はいまだに明晰で元気溌剌です。何でかなあ…、と思いつつ、雑談していると、「何あんだ、遺伝だったのかあ」と分かりました。

 斎藤氏の大正生まれの御尊父は陸軍士官学校~陸軍大学卒の超エリート軍人(戦後は、自分の軍人恩給は、亡くなった部下の遺族に渡していたそうです)。明治生まれの祖父は、海軍兵学校卒で最終階級は海軍大佐。江戸幕末生まれの曽祖父は、何と幕臣で、しかも、六百石扶持の馬廻役の旗本だったというのです。これには吃驚です。血筋が違う。身分が違う。昔だったらお目見えできない人でした。

鎌倉「龍口寺」 本堂

 斎藤家の菩提寺は、日蓮が処刑されそうになった鎌倉の龍口寺だというのです(私も昨年9月、お参りに行きました)。墓石を新調するため、先祖伝来の宝刀を売却したそうです。斎藤氏の御尊父が中国大陸の総軍である支那派遣軍に赴任した際、長刀は紛失してしまったので、その宝刀とは残った脇差の方でしたが、それでも500万円の値が付いたそうです。やはり、旗本は違いますね。

 もっとも、御本人はノンフィクション作家として中野学校の「生き残り」の人たちを捜して熱心に取材していたというのに、自分の先祖についてはいまだに詳しく調べていないというのです。「駄目じゃん。斎藤さんは凄い人かと思ったら、御先祖様の方がもっと、もっと凄いじゃないですかあ」と、酔っ払った私は、何度も何度も80歳の老人の肩を小突いてしまいました(笑)。

銀座「魚金」おまかせ握り定食1280円

 二人で呑んだ居酒屋は、東京・赤羽でも有名な「まるます家」。少し外で待たされ、入店して色々と注文したら、「午後7時で閉店します」と言われてしまいガッカリです(その代わり朝の11時開店だそうな)。イカフライが旨かったですが、メニューも以前と比べて随分少なくなっていました。

 それでは、二軒目に行こうということになり、城山三郎の「毎日が日曜日」のモデルになったと言われるOK横丁の「八起」を目指したら、いくら探してありません。「おかしいなあ」と思いつつ、店先に立っていた呼び込みのお兄さんに聞いたら、「ここがそうでしたよ」と言うではありませんか。「魚友」という店でしたが、3年前に「八起」の経営者が代わって、店名も変わったというのです。勿論、二軒目は、この店にしましたが、諸行無常ですね。

 斎藤さんとは今後、定期的に飲み会でも開くことに致しました。御相伴されたい方は、御都合が合えば、御一緒にどうぞ(笑)。

国民の総意として祝福できなかったことが残念=「眞子さま 小室圭さん 結婚記者会見」

  昨日10月26日の「眞子さま 小室圭さん 結婚記者会見」に注目しなかった日本人はまずいなかったと思われます。

 「記者会見」と言いながらも、記者との質疑応答がなく、10分間程度のお二人の一方的な談話発表だけではよく分からなかったのですが、後で(本日)、宮内記者会、日本雑誌協会、外国報道協会からの5問の質問に対して、お二人が文書で回答されたものを読んで、お二人のご苦衷を察した次第です。

 週刊誌メディアやネット投稿などを中心とした「謂れのない誹謗中傷」によって、眞子さまは「強い恐怖心」を覚えて、複雑性PTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)まで発症されたということですから、事は重大です。

 とはいえ、「国民総意」による祝福を得られたかと言えば、個人的にはそうでもなかったと感じました。眞子さまは、秋篠宮殿下の長女として生まれた内親王という皇族だったため、残念ながら、ある程度の国民的関心から逃れられない運命にありました。将来、天皇の義兄になると予測されている眞子さまのお相手についても、国民が無関心でいられないことも同じです。

 雑協の質問の中で、「すでに刑事告発されている小室さんの母親による遺族年金の不正受給の疑惑について、現在の状況を詳しくご説明ください。」とありましたが、小室圭さんの答えは「遺族年金の不正受給については、そのような事実はありません。」であり、もう一つ、「圭さんは『プリンセス・マコのフィアンセ』として、米フォーダム大学の学費全額免除の奨学金を受けるなど特別な待遇を受けたのではないかという疑念があるが、どうお考えですか」との質問には、彼は「私が皇室利用をしたという事実はありません。」と答えています。

 やはり、「でも、そう言われてもねえ…」となってしまいます。

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 何と言っても、小室圭さんの家族の金銭問題が解決していないことが国民の喉に引っかかっています。母親の元婚約者との話し合いも進展していないようですし、第三者ながら国民の一人として「こうなる前に、もっと早くどうにかならなかったものか」と思ってしまいます。

 小室圭さんの母親が元婚約者から受けた金銭的援助は、恐らく、圭さんの学費に当てられたものと想像します。そうでなければ、普通の学校と比べてかなり学費が高いインターナショナルスクールなどに通えなかったことでしょう。そういう意味でも圭さんは「解決に向けて、私が出来る限り対応したいと思います。」と答えていますが、それは宿命的に仕方ないことでしょう。

 となると、母親の元婚約者に対して一刻も早い返済に向けて努力するということが、庶民的感覚なのですが、小室圭氏の場合はそうではないようです。

 ニューヨークで生活するマンションの家賃が、嘘かまことか月額80万円と報じられていますし、ニューヨークに行くまで、滞在する都内のマンションについても、ネット上では、驚くべきことに、早くも「渋谷区神宮前」の超高級マンション〇〇〇〇だ、などと話題になっています。月額の賃貸料が、1LDKでさえも55万~66万円という代物です。

 それだけ払える余裕があるのでしたら、元婚約者への返済を少しでも回すことができなかったんでしょうか?

 様々な意見があるにせよ、日本人にとって、天皇制は核であり、バックボーンであることは否定できないでしょう。だからこそ、日本国憲法の第1章に「天皇」の項目が設けられ、第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とあります。皇室維持のために国民の税金が充てられます。

 眞子さまは、皇籍を離脱され、小室眞子さんになられ、都内のマンションに住みますが、買い物等は宮内庁職員が担当し、皇宮警察の代わりに警視庁の警護がつく、などと報じられています。彼らは勿論、公務員ですから、いわば国民の税金で雇われています。臣籍降下しても元皇族という身分は永久になくなりません。

 だから、国民は言いたいことを好き勝手に言っているのでしょう。昔から「人の口に戸は立てられぬ」といいますから、飛鳥時代や平安時代ならともかく、21世紀のこれだけネットが発達した時代に、国民の口封じをすることはまず不可能です。戦前の大逆罪も不敬罪も廃止されましたし。

 勿論、あまりにも酷過ぎる誹謗中傷は、もう一市民ですから、名誉棄損で訴えることができます。

 恐らく、日本人は熱しやすく醒めやすい国民性ですから、そのうち、今の熱狂など忘れ去られるのではないか、と私なんか睨んでいます。だから、せめて、「国民の総意」としてお二人の結婚を祝福できる状況だったら良かったのになあ、と悔しい残念な思いで記者会見のニュースを見ていました。

 

人間に関心がない今の人たち

 世間では一応ある程度認知されているマスコミ業界で、私は今でも働いているのですが、最近、気になるのは、会社の特に若い人たちの人間関係の希薄さです。

 希薄といいますか、そもそも根本的に人間に対して無関心なのです。勿論、挨拶もしません。

 他人と関わりを持ちたくない、人と交わりたくない、話をするのも真っ平だ、という感じなのですが、病理学的には「コミュニケーション障害」、略して「コミュ障」というらしいですね。そういう人が増えた気がします。病気なら仕方がないですし、私の周囲に限るのかもしれませんが、そういう若い人が最近、妙に増えた気がするのです。

 ただし、昔もそういう人がいたけれど、病名が「発見」されていなかったし、本人もただ単に我慢して付き合っていただけで、症状を隠していたか、潜在的に隠れていたのかもしれません。

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 しかし、少なくとも私たちのような職場は、他人とコミュニケーションを取ることが仕事なので、他人に無関心では取材すらできず、仕事にはなりません。

 何と言っても、そもそもマスコミの仕事は、ニュースを追いかけることであり、人間に興味や関心がなければ始まりません。森羅万象に好奇心を持たない限り、企画記事は生まれてこないし、読み応えのある記事や見応え十分の番組も生まれてきません。厳しい言い方をすれば、もし、人間や社会的事件や不条理や矛盾に興味がなければ、マスコミの仕事をしなければいいのです。他にも、対人関係のない仕事が世の中にはたくさんあるはずですから。

 もしかして、本来、他人に無関心では仕事にならないはずのマスコミ業界でこれだけ無関心派が増えているということは、他の業界でも、そういった人たちが増えているのかもしれません。仕事が終わって飲みに行く、といったことを今の若い人たちは拒否するようになったと聞きますし、忘年会などは、もってのほか、と考える人も増えたといいます。

 それに、「草食系男子」とかで、実際の女性と付き合うのが面倒で、振られて傷付きたくないのか、アニメやフィギュアと時間を過ごす方が楽しいという若者も少なくないと聞きます。

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 勿論、これらは善悪の問題でもないので、個別の趣味趣向は尊重されるべきかもしれません。私自身でさえ、できればそっとしておいてほしかったり、都会人なら見て見ぬふりをしてほしいなあと思うときもありますから。

 ただ、少なくともマスコミ業界の人間なら、仕事のこともあるわけですから、もう少しプロ意識を持って、人間にも興味を持って、深堀りしてもらいたいと思うのです。

 昔のマスコミの職場、特に編集局は鉄火場みたいな所で、大声で怒鳴り合ったりすることはしょっちゅうでした。マスコミと言っても、まだまだ、昔の古い徒弟制度が残る男社会で、若い人間の意見は通らず、不条理な世界でした。しかし、今はメールでやり取りしているせいか、電話も少なく、病院の待合室のように静かです。

 逆に言うと、今は、若い人でも尊重されますし、他人に無関心でも仕事ができる温床と苗床が21世紀の今のマスコミ業界では恵まれている、と言えるのかもしれません。他人に無関心で済んでしまうのは、若い人だけに限りません。役職が付いたロートルも同じです。年長者に対する侮蔑な態度があからさまで、挨拶すらしません。まあ、その人の個人的な性格によるものであることは確かですが。

 「昔は良かった」と懐古趣味の老人のような言いぐさをするつもりはサラサラないのですが、最近、どうも、読み応えのある新聞記事や見応えあるテレビ番組が少なくなった気がします。因果関係が気になったので、本日はこんなことを書いてみました。

🎬「燃えよ剣」は★★★

 いつの間にか、日経新聞金曜日夕刊の映画評で、★のマークが消えてしまいました。会員向けのネット記事には★があるようですが、読者というより、圧力団体、業界から相当な反感があったので取りやめたのではないかと想像してしまいます。

 私は日経の★の数で、観る映画を選んだりしていたのですが、単なる評論家の個人的感想で、その★の数ほど感動するかと言えば、必ずしもそうでもないので、新聞紙面でも洒落として続ければいいと思うんですけれど…。

 私にとって現実生活は重過ぎる面が少しあるので、映画はやっぱり気休めであり、気分転換でもあります。

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 「燃えよ剣」は、司馬遼太郎の原作を読んでいるので内容も知っているし、原作にはない、あっと驚く物語展開があるわけないと思われたので、最初は正直、気乗りしませんでしたが、この映画にはウチの会社も出資して協力しているようでしたので、観ることにしました。

 主役の土方歳三役の岡田准一は、ハンサムな土方と相通じるところもあり、最期はどうなるのか分かっていながら、やはり、少し映画の世界に引き込まれました。

 私も、歴史上の人物としての土方歳三のファンでしたから、函館の最期の地を訪れて、お参りしたこともあります。新選組局長近藤勇(鈴木亮平も顔が似ていてハマり役でした)が斬首された板橋宿も何回か行ったことがありますが、近藤と土方の最後の別れとなった、新選組の最後の本陣となった千葉県流山市にはまだ行ったことがありません。いつか行ってみたいと思っています。

 あら探しをしたらキリがないので控えますが、国内ではもう江戸時代の情緒が残る景色はほとんど残っていないというのに、ロケハンさんたちの努力で、見応えのあるロケシーンが出てきたと思います。京都の池田屋はオープンセットで完全に再現したらしいですし、合戦シーンは3000人のエキストラを動員したといいますから、結構、製作費が掛かったことでしょう。

 あら探しを控えると言っておきながら、近藤勇と別れた土方歳三は、なおも転戦し、宇都宮城と北海道の松前城の二つも城を攻略して落としたというのに、映画では宇都宮城の話すら出てきませんでした。城好きの私としては残念でしたね。

 土方歳三は、単なる剣豪だったわけではなく、西洋軍法を知り、逸早く取り入れて近代戦で城を落とした指揮官として見直されるべきですが、映画では、フランス人の軍事顧問ジュール・ブリュネを登場させるなどしてその活躍ぶりを少し垣間見せてくれました。

 新選組はこれまで何度も映像化され、土方歳三役も渡哲也、長塚京三、山本耕史ら多くの俳優が演じてきましたが、この岡田准一さんが一番のハマり役のような気がしました。

 

「御年寄」は「老中」と並ぶ政権トップだった=江戸時代の大奥

 衆院選が10月19日に公示されました。1051人が立候補しましたが、女性の比率は17.7%と2割も届きません。2018年に男女の候補者数を均等にするよう政党に促す「政治分野における男女共同参画推進法」が施行された後の初の衆院選だというのに、17年の前回(17.8%)からも下がりました。

 やっぱり、日本は「男社会」なんでしょうかね?

 しかし、現実は、社会の最小単位であるほとんどの家庭では、奥さんが旦那を尻に敷いている場合が多いことでしょう(笑)。

 歴史を見ても、推古天皇持統天皇を始め、女性天皇は歴代十代いらっしゃいます。鎌倉の北条政子、室町の日野富子といった政権のほぼトップにいた女性もいました。

 でも、江戸時代以降は、完璧に男社会になった、と私なんか思っていたのですが、「大奥」の制度ができ、結構、裏で女性が権力を握っていたことをこのほど知りました。

東銀座「森田座跡」(江戸・木挽町芝居町通り)

 最近、音沙汰がなく、何処かに御隠れになってしまった釈正道老師からもう文句を言われないので済むので敢えて書きますが、「歴史人」(ABCアーク)は面白いですね(笑)。10月号で「徳川将軍15代と大奥」を特集していますが、知らなかったことばかりで、本当に勉強になりました。つまり、15代の歴代将軍の業績ばかり追っていたのでは江戸時代は分からないということでした。(以下、管見以外、ほとんどが「歴史人」からの引用です)

 江戸幕府というのは、徳川将軍が一人で全て支配していた独裁国家ではありません。初代家康や「生類憐みの令」を発した五代綱吉のような例外もありますが、ほとんどの将軍は、複数の老中ら幕閣が決めたことを追認する形の方が多かったのです。ということは政権トップは老中ということになります。(大老は臨時に老中の上に置かれた最高職)

 その「男社会」の老中に匹敵するのが大奥の「御年寄」(おとしより)という身分でした。(この上に公家出身の正室=御台所を支える京都から入った「上臈=じょうろう=御年寄」もいた)。御年寄は、1000人の女たち(他に300人の男役人)が働く大奥全体を差配し、将軍の御台所に最も近い存在で、政権運営にも影響を与えました。「口利き」のため、大名や御用商人らからの付け届けも多かったと言われます。史上最も有名な御年寄は、三代将軍家光の乳母も務めた春日局(明智光秀の腹心斎藤利三の娘)でしょう。

 大奥というと、ハーレムのような感じで、将軍なら何でも好き勝手にできると思っていましたが、かなり厳格な規則の上で運営されており、将軍様といえども、いつでも自由奔放に大奥に出入りできず、事前に「予約」しなければいけませんでした。何と言っても、「世継ぎ誕生」という絶対的使命を果たさなければならない将軍にとっては、大奥はお勤めであり、仕事場、職場に近かったのかもしれません。しかも、寝間では、側室が将軍にじきじき頼み事をしないように、少し離れて両脇に御伽坊主(女性)と御中臈が反対向きに添い寝し、聞き耳を立て、翌日、御年寄に報告していたといいます。ナンタルチヤ。

 在位50年、側室16人、子供も50人以上もいた十一代将軍家斉は別格として、将軍は、トップの御年寄に次ぐ「御中臈」(おちゅうろう)8人の中から「側室」を選びます。将軍様の「お手付き」にならない溢れた御中臈は「お清(きよ)の方」と陰口を叩かれ、お手付きになった御中臈も「汚(けが)れた方」とまで呼ばれたといいますからかなり陰湿です。しかも、懐妊したりすると、やっかみからワザと着物の裾を踏んで転ばして流産させるイジメもあったそうです。「ひょっえーー!」です。

 側室候補が8人しかいないということは、かなり激しい女同士の競争社会であり、大奥のほとんどの奥女中は、御台所(正室)らの身の回りの世話をする仕事をしていたわけです。他に御三家などからの女使いを接遇する「御客会釈」(おきゃくあしらい)という御中臈と並ぶ重職もありました。異例ながら、風呂焚きをしている下女が将軍のお眼鏡にかかるという特例もありましたが、奥女中には給金が出るので実家に仕送りしたり、途中で里帰りして良縁に恵まれたりする者もいました。(三代家光の側室で後の五代綱吉の生母となった桂昌院=お玉=は八百屋の娘とも言われ、「玉の輿」の語源になったという説があるが、異説もあり)

江戸・木挽町「山村座」跡(銀座東武ホテル)

 徳川将軍の正妻である御台所ともなると、五摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条)か宮家(世襲親王家)か天皇家の姫君から選ばれました。十四代家茂の正室和宮は、孝明天皇の異母妹でしたし、有名な十三代家定の正室篤姫は薩摩島津家の一門の娘として生まれましたが、藩主島津斉彬の養女、さらに、関白近衛忠煕の養女として徳川家に輿入れしました。

 ただ正室が世継ぎを生んだのは、歴代将軍の中でも二代将軍秀忠のお江(浅井長政と織田信長の妹お市の方の娘)だけだったのです(三代将軍家光)。あとは、側室か、子供に恵まれず、御三家か御三卿から将軍職を選出しているのです。現代人から見るのとは違って、徳川家にとって、大奥制度は切羽詰まった、絶対必要条件だったことでしょう。

 話は少し飛びますが、秀忠の五女和子(東福門院)は後水尾天皇の女御として入内し、後の明正天皇(女帝)を産んで中宮に立てられています。徳川家も古代の葛城氏(仁徳天皇など)、蘇我氏(用明天皇など)、藤原氏のように天皇家と外戚関係を結んでいたわけです。

江戸・木挽町芝居町通り「山村座」跡(銀座東武ホテル)

 大奥に入るには「試験」めいたものがありました。御家人、旗本の娘だけでなく、農民、町民の娘でも奥女中らのコネがあれば願書を提出して「吟味」(御年寄の面接試験。文字と裁縫の腕を見る)、1カ月以上の「身元調べ」を経てやっと採用されることがあります。身分社会ですから、将軍に拝することができる「御目見得」になり、側室候補の「御中臈」になるには複数の段階があります。旗本の娘の中にはいきなり「御中臈」になった人もいたようですが、農民、町民の娘は、一番下の下女とも呼ばれた「御末」(おすえ)、もしくは「御半下」(おはした)が出発点です。風呂や食事の水汲みなど力仕事が多かったといいます。

 このように、大奥はかなりストレスが多い職場だったので、「絵島・生島事件」のようなスキャンダルが起きました。

 (写真は、絵島・生島事件の舞台になった歌舞伎の山村座跡=江戸・木挽町芝居町、現・銀座6丁目=を中心に掲載しました)