商業発展に注力した戦国武将・蒲生氏郷=近江商人や伊勢商人までも

Jardin de Karatsu Copyright par Y Tamano

 戦国時代の大名蒲生氏郷(がもう・うじさと、1556~95年)は、その知名度といい、人気度といい、残念ながらトップ10には入らない知る人ぞ知る武将なのですが、これがとんでもなく凄い戦国武将だったことを最近知りました。

 渋沢栄一が「日本近代資本主義の父」なら、蒲生氏郷は「日本の商業の父」と言えるかもしれません。

 私は会津贔屓ですから、蒲生氏郷といえば、織田信長、豊臣秀吉に仕え、会津若松城(福島県)を築城したキリシタン大名だという認識が大きかったのですが、もともとは、近江蒲生郡(滋賀県)の日野城主だったんですね。

 近江日野といえば、近江日野商人の所縁の地として有名です。

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 滋賀県日野町のHPによると、「近江商人」の中でも日野地方出身の商人は特に「日野商人」と呼ばれ、日野で造られた漢方医薬や上方の産物を天秤棒一本で地方へ行商して財をなしたといいます。他の近江商人と比べ出店数においては群を抜き、この形態は今の総合商社の始まりだとも言われています。近江商人の心得である「三方よし」(「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」)は有名ですね。

 近江商人の流れを汲むと言われる現代の企業に、武田薬品工業や東レや伊藤忠商事、双日、西武グループ、高島屋などがあることは皆様ご案内の通りです。蒲生氏郷が移封された後、近江日野は衰退してしまい、新しく日野商人が独自で切り開いたという説もありますが、蒲生氏郷が近江日野に商業の種を蒔いたことは間違いないことでしょう。

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 信長の死後、羽柴秀吉の家臣となった蒲生氏郷は、小牧・長久手の戦いや九州征伐などで戦功をたて、天正16年(1588年)に伊勢・松ヶ島12万石に移封され松坂城を築城します。松ヶ島の「松」と秀吉の大坂の「坂」から字を取って「松坂」(後に松阪)と命名したのは蒲生氏郷です。この時、城下町に移住してきたのが、蒲生氏郷の地元の日野商人で、これが名高い「松阪商人」になったというのです。半ば強制的に移住させられた商人もいましたが、大半は、商業の発展に力を注いだ武将の蒲生氏郷を慕って移住してきたと言われています。

 松阪商人で最も有名な人物は三井グループの祖である三井高利です。高利の祖父である三井高安は、もともと近江の守護大名六角氏に仕える武士でしたが、織田信長との戦いに敗れて伊勢の地に逃れてきたといいます。蒲生氏郷が松阪に移封される20年も前のことですが、三井高安は越後守を名乗っていたため、「三井越後屋」(今の三越)の屋号が生まれたと言います。

 松坂城主蒲生氏郷は、楽市楽座を進め、街道を整備して商業発展に力を入れたといいます。伊勢商人の流れを汲む現代の企業には、イオンや伊藤ハムや岡三証券などがあります。

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 蒲生氏郷は、天正18年(1590年)の小田原征伐の後、陸奥会津42万石(後の検地加増で91万石)に移封されます。黒川城(城主伊達政宗は、小田原遅参などを理由に会津を没収され、米沢72万石に減封)を蒲生家の舞鶴の家紋ににちなんで「鶴ヶ城」と改名し、黒川の地名も出身地の近江日野の「若松の森」から会津「若松」と変更します。

 勿論、城下町には日野商人や松坂商人も移住させて商業発展に力を入れますが、どういうわけか、あまり「会津商人」は全国的に有名ではありませんね? でも、近江日野の漆器を、「会津塗」として名産にしたのが蒲生氏郷だと言われています。

 蒲生氏郷は1592年、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)の際、前線部隊が集結した肥前名護屋城(佐賀県唐津市)にまで参陣しますが、ここで病を得たのが遠因で、この3年後に伏見で39歳の若さで亡くなります。

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 蒲生氏郷が会津に移封されたのは、表向きは伊達政宗ら東北の有力大名を抑えるためという理由ですが、秀吉が氏郷の武勇と領地経営の才覚を恐れたためだとも言われ、毒殺されたのではないかという噂さえあります(病死説が有力)。

 現代の最優良企業である伊藤忠や武田薬品や三井財閥やイオンなどの祖が、蒲生氏郷が種を蒔いて発展させた近江商人や伊勢商人だったと思うと、改めて蒲生氏郷の偉大さを感じませんか?

スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店「ケテル」と「ローマイヤ」

 東京・銀座の電通ビル(1933年、横河工務所=三越本店、旧帝国劇場なども=設計、大林組の施工で建てられた電通本社二代目)

 《渓流斎日乗》TMは、ほとんど誰にも知られていないのですが、「世界最小の双方向性メディア」と銘打って、ほぼ毎日更新しております。

 でも、たまに、大変奇特な方がいらっしゃいまして、コメントを寄せてくださいます。洵に有難いことです。昨晩も小澤譲二さんという方から嬉しいコメントを頂きました。まだ面識はありませんが、かなり熱心にお読み頂いていらっしゃるようで、私の心の支えになってくださっております。

 「コメント欄」を御覧になる方はあまりいらっしゃらないと思いますので、重複になりますが、本日は、小澤氏のコメントを引用させて頂くことから始めます。一部省略致しますが、小澤氏は昨晩、こうコメントして頂きました。(一部、捕捉し、誤字等改めています)

かつて「ケテル」があった所(銀座並木通り) 今は、高級ブラント「カルチェ」の店になっています

 もうかれこれ20年も前ですが、私の友人ヘルムートが80年近く祖父の時代から続くドイツレストラン「ケテル」を銀座で経営していましたが、家賃高騰とイタリア飯ブームに押されて、やむなく店を閉めました。私の叔母や母も戦前、Mobo、Mogaの時代の頃に勤めていた朝日新聞社から近かったのでよくこの店に通っていた、と聞いています。

 えーーー!ですよ。

 私もこのコメントに返信したのですが、この「ケテル」は戦前、「ラインゴールド」という名前のドイツレストラン兼酒場で、ここでホステスとして働いていた石井花子(1911~2000年)が、客として通ったスパイ・ゾルゲ(1895~1944年)と知り合った所だと聞いたことがあったからです。石井花子は、ゾルゲの「日本人妻」とも言われ、「人間ゾルゲ」の著作もあり、私も読んだことがあります。(彼女には文才があり、とても面白かった。)ちなみに、「ケテル」は、閉店する前の1980年代~90年代に私は何度かランチしたことがあります。

 石井花子は戦後、処刑されたゾルゲの遺体を探し当てて(雑司ヶ谷の共同墓地に埋葬されていた)、改めて多磨霊園に葬って非常に立派なお墓を建てました。2000年に彼女が亡くなった後、彼女の縁者がこの墓を管理していましたが、今年1月になって、墓所の使用権を在日ロシア大使館が譲り受けることになり、久しぶりにニュースになったことは皆さまご案内の通りです。ゾルゲは、ソ連の「大祖国戦争」を勝ち抜くことができた、今ではロシアの英雄ですからね。

銀座電通ビル 1936年、日本電報通信社(電通)は聯合通信社と合併させられ、同盟通信社となった。戦前は、同盟通信の一部(本体は日比谷の市政会館)と外国の通信社・新聞社が入居 ドイツ紙特派員ゾルゲと、諜報団の一員アヴァス通信社(現AFP通信)のブーケリッチもこのビル内で働いていた

 その石井花子をネットで検索してみたら、そこには「1941年10月4日のゾルゲの誕生日に銀座のドイツ料理店『ローマイヤ』で会食したのが最後の面会だった(ゾルゲ逮捕はその2週間後の10月18日!)」と書かれていたので、これまた吃驚。ローマイヤは、何も知らずに今年1月に初めて行った店じゃありませんか。

ということで、本日は再度、銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」に足を運びました。

 銀座並木通りの対鶴ビルにあった「ローマイヤレストラン」の店頭に立つローマイヤさん(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページから)※安心してください。お店の店長さんからブログ転載を許諾してもらいました!

 全く知らなかったのですが、そもそも、この店は、第一次世界大戦後にドイツ人捕虜として日本へ連行され、その後、祖国では食肉加工の仕事をしていた縁で帝国ホテルでの職を得てロースハムなどを生み出したアウグスト・ローマイヤ(1892~1962年)が1925年に銀座並木通りの対鶴ビルに開いたドイツ・レストランで、谷崎潤一郎の「細雪」などにも登場。ゾルゲやドイツ大使館員らが足繁く通った店でした。1991年、ビルの改装に伴い日本橋にビアレストランとして移転していましたが、2006年に別の経営者によって銀座8丁目に店舗が復活したというのです。(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページによると、現在の銀座あづま通りにある店舗は、2019年3月22日に新装開店したようです)

「ローマイヤ」は1921年に東京・大崎にハム・ソーセージ工場を建設し、製造開始したことから今年で創業100周年。

 ソ連赤軍(現ロシア軍参謀本部情報総局=GRU)のスパイだったドイツ人リヒャルト・ゾルゲがフランクフルト・ツアイトウング紙の特派員などとして勤務していた銀座電通ビルから「ラインゴールド」も「ローマイヤ」も歩いてほんの数分です。今も昔も、世界的な名声から(笑)、ドイツレストランはそう多くありませんから、恐らく、ゾルゲは週に何度もこれらの店に通ったことでしょう。

銀座「ローマイヤ」ランチ「豚ばら肉のロースト~中華風BBQソース~」コーヒー付で1100円

 あれから80年以上経って、ゾルゲも歩いたであろう同じ銀座の歩道を歩いたり、同じように食べたであろうドイツ料理を食したりすると、大変感慨深いものがあります。

 私はいつも歴史を身近に感じ、普通の人には見えない、現実には消え去ってしまったモノを想像することが好きなのです。

ミャンマー国軍による武力鎮圧で既に180人超の犠牲者

 食を通して、国際問題を考えるシリーズー。第365回(フェイクです)の本日は、今、毎日の新聞紙面で見かけない日はないミャンマーとその料理です。

 の、つもりでしたが、ガビーン。探して、探して、行ったらお店は閉まっていました。おかしいなあ…。月~金11:30~14:00はランチって書いてあったのになあ…。

 世界中の料理が食べられる「世界のグルメ 銀座」の触れ込みなのですが、銀座にはミャンマー料理店は1軒もないようです。都内の「ミャンマー料理店」を探してみたら、どういうわけか、高田馬場に集中していて、ここだけ20軒近くあります。在日ミャンマー大使館は北品川にありますが、高田馬場は、在日ミャンマー人が多く住んでいるということなのかもしれません。

 昨日のこのブログで、ロシア料理店のことを書きましたが、大好きな「チャイカ」は、高田馬場にあって、銀座から遠いので昼休みに行けない、といったことを書きました。ということで、同じように、高田馬場にあるミャンマー料理店にも行けそうにありません。

 結局、もう一回調べたところ、銀座に近い新橋に1軒だけあることが分かり、本日はその店を目指して出かけたわけなのです。会社から急いで歩いて20分かけて。

新橋「くしかぶき」

 「くしかぶき」という店でしたが、最初に書いた通り、さんざん探して見つけたと思ったら、閉まっていたわけです。コロナ禍の影響でしょう。仕方ないので、「証拠写真」としてメニューの看板写真を撮っておきました。

 ここで、ミャンマー料理を食べながら、ミャンマーに思いを馳せるつもりでしたが、残念。仕方がないので、この近くの居酒屋「新橋三丁目 魚市場」という店で、コロナ禍で仕方なく始めたらしいランチ「漬け刺身定食」(980円)を食べながら、軍事政権下で苦しむミャンマーの人々への思いを馳せました。

 ミャンマー国軍による突然の軍事クーデタが勃発したのは2月1日のことでした。それから全土で民衆のデモが広がりましたが、1カ月半経った3月16日の時点で、少なくとも180人を超える犠牲者が出ていると報道されています。

 ミャンマーで何が起きたのか、何が起きているのかーについては、日経ビジネスの取材で、ミャンマーの政治・軍関係者とのつながりが深い日本経済大学の井本勝幸特命教授が明解に答えています。結論を先に言えば、混乱の要因は、国軍がここまで民衆の反発が強いとは想定していなかったことにあるといいます。民衆は、陰で文句を言いながらも、最後はクーデタや国軍の支配を受け入れるだろうと国軍が浅読みしていたからだといいます。

 勿論、アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が国軍の動きを見誤り、対応に失敗したことが混乱の最大の原因です。しかも、スー・チー氏拘束でリーダー不在となり、NLDはほとんど機能していないといいます。

 井本特命教授によると、表向き、全権を握ったのは国軍トップのミン・アウン・フライン総司令官(64)となっていますが、裏で糸を引いているのは、旧軍政トップとして独裁体制を敷いたタン・シュエ氏(88)ではないかといいます。

 また、ミャンマー国内外では、「中国が国軍を支援している」との見方が強まっていますが、むしろ、中国一辺倒だったのは、スー・チー政権の方で、国軍は中国の影響力の増大には危機感を強め、近年、中国ではなくロシアから兵器を購入していたといいます。クーデターの数日前にはロシアの国防相がミン・アウン・フライン総司令官と会談しているので、国軍は中国とロシア、そして中国の進出に神経をとがらせる隣国インドとのバランスをうまく取りながら、難局を乗り越えていこうしているのではないかと、井本特命教授は見ています。

 なるほど、随分、すっきりした解説でした。

「新橋三丁目 魚市場」 「漬け刺身定食」(980円)

 どうも、国際社会は、「スー・チー氏=善 VS 国軍=悪」と、単純に断罪しがちですが、そう物事は単純ではなさそうです。勿論、クーデタを起こし、民衆を武力鎮圧する国軍側に非があるという前提の上ですが、ノーベル平和賞受賞のスー・チー氏でさえ、ロヒンギャ族虐殺・迫害に関しては、黙認したことから、批判の矢面に立たされ評判を落としました。

 東南アジアでは、お隣のタイ軍事政権もそうですが、軍人が最も高い水準の教育を受けることから、軍人のエリート意識は異様に高く、支配者階級となるのは当然だという傾向が強いと言われています。

 日本とミャンマーの関係は深く、先の戦争では「インパール作戦」が展開され、援蒋ルートなどもできました。あの「戦場にかける橋」や「ビルマの竪琴」の舞台になったのもミャンマーです。現在では、日本政府の円借款などで、最大都市ヤンゴンから南東に20キロに同国初の経済特区ティラワが設けられ、多くの日本企業も進出しています。

 ミャンマーは熱心な仏教徒が多いわけですから、殺生や争いごとは本来、なじまないはずです。旧宗主国の英国の影響力は低下し、恐らく水面下で、米、中、ロ、印による駆け引きが続いていることでしょうが、日本も何らかの形で解決に貢献できないものか。陳腐な表現ながら、一国民として願っています。

 

 

 

ナワリヌイ氏に思いを馳せてロシア料理=銀座「ロゴスキー」で「つぼ焼きランチ」

  ロシア当局によって拘束された反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏は今、どうなっているのかと思ったら、首都モスクワから約100キロ東方のウラジーミル州ポクロフにある刑務所に収監されているといいます。(3月15日付ロイター電)

 ナワリヌイ氏の体調は良好だと伝えられていますが、弁護団の訪問を受けた直後に投稿されたインスタグラムのメッセージで、彼は「ロシアの刑務制度に驚いたことを認めざるを得ない。モスクワから100キロの場所に本物の強制収容所を作ることが可能だったとは全く想像しなかった」と発言しております。

 スターリン時代のラーゲリが復活しているということでしょうか。何とも恐ろしい…。

 ロシア全土でナワリヌイ氏の釈放を求めて抗議デモが展開されましたが、プーチン政権は強権を発動してナワリヌイ氏の妻ユリア・ナワルナヤ氏らを含め1600人以上を逮捕するなど抑圧しています。

 ということで、ロシアに思いを馳せて、本日は、銀座のロシア料理レストラン「ロゴスキー」に行って参りました。渋谷にある「ロゴスキー」は気に入って、もう随分昔ですが、友人たちと何度か行ったことがありましたが、銀座の「ロゴスキー」は今回が初めてです。

 というのも、ロゴスキーが入居している銀座のビルには中国人観光客御用達の家電量販店「ラオックス」があり、いつもいつも中国人観光客でいっぱいに溢れていて近づきにくかったこともあります。今は、コロナ禍で、そんなことはありませんが。

 でも、知る人ぞ知る有名店なのか、本日行っても、(緊急事態宣言下なのに)ほぼ満席で、私が出る頃には2~3人の客が外で待っていました。

前菜サラダ

 この店は「1951年創業 日本で最初のロシア料理レストラン」と銘打っています。一番の老舗です。でも、個人的には、ハルビン学院出身で恵雅堂出版を創業した麻田平蔵氏が高田馬場に開いたロシア料理店「チャイカ」(1972年創業)の方が味といい、良心的な価格といい、好きですね。皆さんにも是非お勧めです。昼休みは時間がないので、高田馬場まで行けないのが残念です(苦笑)。

ピロシキ(左)とボルシチ

 ロゴスキーと言えば、「つぼ焼き」なので、「つぼ焼きランチ」を注文しました。メニューをよく見たら、これが一番安くて2200円。一番高いランチコースは「ロゴスカヤ」で3960円でした。

 ランチでこの価格ですから、当然ながら、客層は富裕層に限られていました。まあ、服装と装飾品を一目見るだけで、それとなく分かります。中には高級ワインのボトルを昼間から開けているお客さんも目立ちました。逆に言えば、なるほど、こういう顔付き、こういう仕草をする人間が富裕層なのか、ということが手に取るように分かります。

 でも、私の斜め前方のテーブル席に座っていたアヴェックは、どう見ても怪しい。若い女性の方は20代の女子大生風。男性は初老、いや70歳は軽く超えていると思われる白髪の紳士。聞きたくもないのですが、女性は興奮して、結構ヴォリュームを上げて話しているので、耳に入ってきてしまいます。

名物「つぼ焼き」

 「ねえ、パパ。いいでしょ、いいでしょ?ねえ、買って、買ってえ」

 そのものズバリ、「パパ活」なのかもしれません。でも、パパ活にしては年が離れすぎています。「爺転がし」と言った方が無難かもしれません。とはいえ、白髪の紳士が可哀想かと言えばそうでもない。若い女子大生はこちら側を向いていたので、顔も表情もよく見えたのですが、白髪紳士は後ろ向きなので、表情が分からない。でも、声は聞こえます。

 「うん、うん、分かった、分かった」

 満更でもない表情を浮かべていると想像されます。

 どっちもどっちです。狐と狸の化かし合い。本当にどうでもいいんですが、もうちょっと声を抑えて会話してほしいなあ。食事をしていても、気が散ってしょうがない。

ロシア紅茶 勿論、ジャム入り

 ということで、ナワリヌイ氏の不遇に思いを馳せて、ロシア料理を選んだのに、怪しいカップルには水をさされてしまいました。

 でも、入場料2200円を支払って、生の人間観察と社会見学ができたと思えば、安上がりですんだかもしれません。

 とはいえ、一番安いランチにしたせいか、美味しかったですが、個人的にはちょっと量が少なかったなあ。腹六分目といった感じでした。

 ロシアといえば、何と言っても、トルストイ、ドストエフスキーと人類が産んだ最高峰の文学者を輩出しています。他にチャイコフスキーやムソルグスキーら偉大な作曲家もいますが、彼らも同じようにピロシキやボルシチを食べていたかと思うと、感無量になるではありませんか!

 

マスクの下を見たかった=助平爺の独白

 熱は出ないのですが、一時間ごとぐらいに猛烈に咳き込む「喉風邪」を引いてしまいました。なぜか、二週間以上も経つのになかなか治りません。

 熱が出ないし、食欲もあるので、日常生活に差し障りがほとんどないのですが、困るのは通勤電車の中で咳き込んでしまうことです。何十人もの白い眼がさっとこちらに向けて突き刺さってきます。

 「しゅびばせんねえ」と志村けんのヒトミばあさんのように謝るしかありません。

  喉風邪に加えて、花粉症ですから、頭がボーとして、気分もスカッとしません。

 生きていてもつまらないし、「何かいいことないかなあ」と願っても、街中は緊急事態宣言下で、皆不機嫌そうに歩いています。それに、ほぼ全員、マスクをしているので、ここしばらく、笑顔にも接していません。仏教用語でいうところの「和顔施(わがんせ)」のことです。

 そう言えば、皆マスクをしているので、他人様の鼻や口を見なくなって久しいことに気が付きました。一体、どんな形だったことやら、忘れかけてしまうほど、最後に見たのは遠い昔の話でした。

 それが、幸運にも、本日、本当に久しぶりに、他人様の鼻と口を見る機会を得たのです。お昼にレストランに入って待っていたら、通路を挟んで向こう側のテーブル席に若い二人の女性が案内されました。普通なら向かい合って座るのに、二人はわざわざ隣同士に並んで座ったので、向こうのテーブルと通路と私のテーブルを挟んで、向かい合うことになってしまいました。まあ、10メートルぐらいは離れていたことでしょうが。

 食事をするので、当然、その時はマスクを外します。まあ、真正面で向かい合って座っておりますから、見たくなくても相手が見えてしまいます。すると、どう見ても、10代後半か20代初めのピチピチギャルでした。顔の肌には皺がひとつもなく、ピンと突っ張っていました。服装から年齢層は最初から分かっていましたけど(笑)。

 この後書くことは、恐らくPC(ポリティカルコレクト)に欠けて、糾弾されるかもしれませんけど、二人は特に超美人というわけではありませんでしたが、青春のど真ん中で、「箸が転んでもおかしい年ごろ」のようで、何でもない話でも愉快そうに笑っていました。

 特に、私から見て右側の女の子は、その唇が、想像していた以上にぶ厚くて、とても蠱惑的で、まるでスクリーンの中の女優さんのようにさえ見えてきました。私は食事をしながら、チラチラと眺めました。いやあ、実に、眼福、眼福でした。

 えっ?やっぱり、PCに欠けて、単なる助平爺(スケベ シャチョウさん)の発言ですか?

 まあ、許してつかあさい。

 年を取っていくと、生きる喜びも愉しみもだんだんなくなってしまうものなのです。貴方には想像もつかないと思いますけど。

 相手に気付かれないように、チラッと見ていただけです。まるで、SFの世界ですが、単にマスクの中を見たかっただけなのです。

 こうして、罪を告白しましたから、どうか許してつかあさい。

(「命みじかし 恋せよ 乙女」と心の中で叫びました。古い!)

中国大陸料理で「倍返し」=銀座「天龍」の餃子はデカい

 先日、このブログで、可哀想な台湾のために少しでもお役に立ちたい、という思いで、台湾料理店「銀座 金魚」に足を運んだ話を書いたところ、早速、ある筋から「分かっているだろうな」と低い声で囁かれました。

 そこで、本日は中国大陸の料理に「倍返し」ということで探した挙句、銀座「天龍」に行くことに致しました。餃子では「日本一」と評判のあの有名店です。昭和24年創業、ということですから、東京でいえば老舗と言えるかもしれません。

 私も以前に何回か行ったことがありますが、今ある場所に移る前の1階にあった頃です。現在は、地下鉄有楽町線「銀座1丁目」駅に直結したビルの4階にありました。

 さすが人気店ですから、コロナ禍とはいえ、少し待たされました。

「銀座 天龍」の餃子ライス・ランチ1250円

 訪れるのは6~7年ぶりですから、すっかり味も作法も忘れておりました。迷った末、焼き餃子(8個入り、1150円)と銀座のラーメン(980円)を頼んだところ、お店の人が「多いですよ。餃子とライスで十分だと思いますよお」と言うので、作法に従うことにしました。

 細かい話ですが、餃子と別にライスを注文すると、ライス小だと200円、ライス大だと300円でした。でも、ランチの「餃子ライス」だと1250円。つまり、ライス分は100円で済んでしまうのです。

 少し待って運ばれてきた餃子を見て、ビックリ。「デカっ!」と声が出るくらいでした。

このデカさ!

 8個入りですから、食べても食べても減りません。たい焼きじゃありませんが、尻尾までお肉がパンパンに入っていました。お店の人が正解でした。これに、ラーメンでは、お腹ぱんぱんになるところでした。「孤独のグルメ」の井之頭五郎さんのように、そんなに沢山食べられませんよ。腹八分目で十分。勿体ないことに、餃子2個も残している先客さんもいました。

 結局、台湾料理を食べたお蔭で、文字通り、「倍返し」で、中国大陸料理を食べることになりました。何か、予言やお告げに従って生きているようで、自分でも怖いです。

 

台湾応援のため台湾料理を銀座「金魚」で食す

銀座 台湾料理「金魚」 

 本日も当局の監視の目をかいくぐってグルメの話題で胡麻化します。

 とは言っても、かなり政治的な話題に触れます。2028年にも米国を抜いて世界一の経済大国になると言われる中国のことです。

 その中国が3月1日から台湾産パイナップルの輸入停止を始めたというのです。中国当局の発表では、その理由は、害虫が発見されたからというものです。台湾産パイナップルの中国への出荷量は輸出全体の9割を占めていたので、台湾の農家にとっては大打撃です。

 台湾では「害虫説」を信じる人はほとんどいません。パイナップルの一大産地である台湾南部は蔡英文総統の与党民進党の支持者が多いため、中国が蔡政権を追い落とす策略のために輸入停止の措置を取ったのではないかと穿った見方をする人もいます。蔡政権はコロナ対策で成功し、支持率も高かったので、中国は、苦肉の策を弄したということでしょうか。

台湾料理「金魚」ランチ「ルーロー飯と台菜麺」1120円 ホットコーヒーを食前に持ってくる風習のようでした

 はっきり言って、大国中国は大人げないですね。弱い者いじめは良くないですよ。台湾だけでなく、国内では同化政策を強行しています。香港では国家安全維持法を施行し、自由と民主主義を弾圧し、「一国二制度」の約束を反故にしようとし、内モンゴルやウイグル地区などでは、固有の言語であるモンゴル語やウイグル語などを禁止して、漢語一辺倒での教育を強制しています。

 中国の今年の防衛費も昨年比6.8%増で、日本円で22兆円余りと日本の防衛費の4倍。アジアの周辺国だけでなく、欧米各国にも脅威を与えています。

 勿論、中国にも言い分はあるでしょう。19世紀から20世紀にかけて欧米列強と、急速に近代化を成し遂げた日本によって、植民地化されるなど長い間支配され、「もう二度と騙されないぞ」と「富国強兵」国家樹立に邁進せざるを得なかったとも言えます。中国にとって、台湾はあくまでも「自国領土」であり、国際社会の批判は「内政干渉だ」と敏感になっています。

 あれっ? グルメの話をするはずが、いつの間にか、生臭い話になってしまいましたね(笑)。

台湾料理「金魚」

  そうなんです。中国による台湾パイナップル禁輸のニュースを聞き、台湾を応援したくなり、本日、台湾料理店に行ったわけです。

 調べたところ、銀座で一番の人気店が、メルサ4階にある「金魚」という店だということで、初めて行ってみました。

 さすが、人気店で、ちょっと待たされましたが、本場台湾の味でした。台菜麺が美味かった。数年前に台湾旅行した時の味を思い出しました。

 今度またこの店に行くとしたら、今回注文しなかった台湾名物「小籠包」でも頼んでみようかしら。

 それとも、こんなことを正直に書いたので、高級中国飯店に行って「倍返し」しなければならなくなるかもしれません。

築地「天ぷら 黒川」で特製天丼食す

 東京・築地の天ぷらと言えば「黒川」と、もう20年以上昔に聞いたことがあったのですが、なかなか機会に恵まれず、本日やっと重い腰をあげて実現させました。

 最近、このブログで、政治的なことばかり書いていたところ、当局の監視の目がうるさく、当たり障りのない話題で煙に巻こうと思ったからでした(笑)。

 いわゆる築地場外市場の奥の奥の路地にあり、すこし分かりづらい。でも、とっても小さな店だったので、「えっ?これが、あの有名な『黒川』?」と思ったぐらいでした。何しろ、テーブル2卓とカウンターの13席しかないといいますからね。

 今はコロナ禍なので人が少なく、待たずに済みましたが、普段の昼時ともなりますと、外の腰掛で、結構待たされるようです。

 この店は、最低でも天丼の1500円、定食は3000円からですから、暖簾をくぐるにはそれなりの覚悟がいります(大袈裟な)。

特製天丼 蟹味噌汁付

 私は、迷いましたが、2000円の特製天丼を注文しました。

 写真で御覧できると思いますが、海老2本と穴子、帆立、野菜、かき揚げがもれなく入っています。特殊の秘伝のタレがかかってますが、見た目をより辛くない。むしろ、甘いぐらいでした。お味はさすが、天ぷら一筋30年の職人技、黒川、といった感じでしょうか。カリッと揚がって旨い。

 とはいえ、「てんや」の天丼並盛500円を目隠しされて食べても、その日の体調によっては、はっきり区別できないかもしれませんけど…(駄目じゃん=笑)

内閣広報官の月給は117万円

銀座アスター

 今、話題沸騰騒然の「内閣広報官」というのは特別職の国家公務員で、官僚トップの事務次官級と同じ月額給与は117万5000円なんだそうです。えっ? 何? 月給が117万余円? 今の私の手取り年収じゃありませんか。

  だから、東北新社とNTTから高額接待を受けた山田真貴子さんも、本当は辞めたくなかったんでしょうね。体調不良で入院さえしなければ。

銀座アスター ランチコース「桂花」2420円 

 後任の内閣広報官に就任した小野日子氏は外務省出身。直前は外務副報道官だったので、局長を経ずに事務次官級に2段跳びしたことになります。ちなみに、日子氏の夫は外務省の小野啓一地球規模課題審議官(局長級)なので、職制で見れば、夫を追い抜いた形になります。ジェンダー平等万歳!といったところですか。

 便宜供与もからんでいるとみられる総務省の高級官僚の接待事件は止まるところを知らず、NTTの澤田純社長らから接待を受けて更迭された谷脇康彦前総務審議官が3月末で定年になるそうですね。谷脇氏は現在60歳で、事務次官級の総務審議官は本来、国家公務員法などに基づき定年を62歳までとする特例があるんですが、更迭されて官房付への異動となり、その適用がなくなるので定年退職してもらおう、というのが表向きの理由。

 しかし、内実は、退職金も満額なら6000万円前後も支給される可能性があり、総務省ナンバー2を経験した人ですから、ほとぼりが醒めれば、どこか放送事業関連会社の役員に滑り込むんじゃないでしょうか。

銀座アスター(デザート) 普段は安い中華料理店の850円のランチだったので、ここではまるで中国皇帝になった気分でした

 山田真貴子氏も総務省審議官時代に東北新社やNTTから接待を受けたのに、文春砲で「発覚」したときは、総務省を離れていたので、事務的な「お咎めなし」でした。谷脇康彦氏も総務省を退職させれば、もう霞が関の人ではないから、またまた「お咎めなし」ということで事件を有耶無耶にしようとする菅政権の魂胆が見え隠れします。

 菅首相は総務省族議員出身ですから、色々、まずいことが出てくるとヤバイというセンサーが働いたんでしょうね。

 以上、「持たざる者」ながら、少額納税者から見た単なる羨望でした。

歴史教科書に「占領時代」と明記すべきでは=「米軍ヘリが都心で実践訓練か」の記事を読んで

 日本は、アジア太平洋戦争での敗戦後の1945年9月2日からサンフランシスコ講和条約締結後の1952年4月28日まで約7年間、連合国軍GHQという名の実質上米軍によって占領されていたという史実を知らない人が多いことに唖然とすることがあります。若者だけでなく、教養のありそうな中年や初老の人もそうでした。「時間切れ」で学校で教えてくれなかったことが原因でしょうが、それにしても情けない。

 3月5日付毎日新聞朝刊が社会面で、「米軍ヘリ、スカイツリーに6回接近 都心で実戦訓練か」と題して、米軍が、日本の首都東京のど真ん中で白昼堂々とヘリコプターによる実践訓練の模様を報じ、ネットでも動画を配信しておりました。米軍は、取材に対して具体的な飛行理由を明かさなかったのですが、専門家は軍事訓練ではないかと分析しています。占領国だから政府に許可なく勝手放題していいということなんでしょうか?

 1952年で終わったはずの米軍による占領が、まだ終わっていないことを証明しているのかもしれません。

 何と言っても、この事実は、毎日新聞が報じなければ、日本国民は誰も知らなったことでした。考えるだけでも恐ろしい。メディアには頑張ってもらいたいものです。

 それにしても、この「事件」に関して、日本政府が抗議したことなど、寡聞にして知りません。何で、こうも弱腰なんでしょうか。日本人は占領下民として駐留費を負担し、半永久的に占領国の言いなりにならなければならないということなんでしょうか。歴代政権も米国の顔色を窺い、少しでも反米的態度を取れば、田中角栄元首相のように、葬り去られると思っているのかしら。

銀座アスター

 昨日この渓流斎ブログで取り上げた「検閲官」(新潮新書)の著者山本武利氏も、同書の最後の方で、日本政府の弱腰を批判しておりました。

 山本氏が批判したのは、現代史研究者にとって最も重要な資料で、日本の文化遺産でもある「プランゲ文庫」のことです。同文庫は、戦勝国によって戦利品のようにabduct(拉致)されたというのに、敗戦国としての当然の権利を行使せず、日本政府は弱腰で、返還請求したことは一度もないというのです。

 プランゲ文庫の正式名称は「ゴードン・W・プランゲ文庫 ー1945~1952年日本における連合国の占領」で、ゴードン・W・プランゲ(Gordon William Prange 1910~80年)が歴史学教授を務めていた米メリーランド大学図書館に収蔵されています。プランゲは、1942年、同大教授の職を休職して海軍士官として軍務につき、1946年からGHQの参謀第2部(G-2)で戦史の編纂作業に当たった人でした。

 私自身は、以前からゾルゲ事件に関心があったので、プランゲといえば「ゾルゲ・東京を狙え』上・下(早正隆訳、原書房)の著者として知っていました。非常に面白い本で、ゾルゲ事件を映画化した篠田正浩監督もこの本を大いに参考にしたと思われます。

 昨日書いた記事(山本武利著「検閲官」)の復習になりますが、GHQ傘下のCCD(Civil Censorship Detachment、民間検閲局)は、検閲のため、当時発行されたあらゆる図書、雑誌、新聞などの資料を収集します。それがそっくりそのまま、日本に返還されることなく、プランゲがG-2の部長ウィロビー将軍に取り入って、占領期のどさくさに紛れ込んで、母校の大学に「拉致」したというのが、山本氏の見立てです。その数は、雑誌約1万3800タイトル、新聞・通信約1万8000タイトル、図書約7万3000冊、通信社写真1万枚、地図・通信640枚、ポスター90枚と言われています。

 やはり、日本の歴史教科書の年表の1945年9月2日から1952年4月28日までは「占領時代」と明記すべきですね。奈良、平安時代…江戸時代などと同格です。文部科学省が明記させないとしたら、いまだ占領状態が続いていると思っているからなのでしょうか?

 あ、あまり書くと、今も密かに生き残る検閲官の手によって翻訳され、私も消されてしまうかもしれませんね。