1970年の「レット・イット・ビー」から半世紀も経つとは…

 YouTubeで「うちで踊ろう」を公開したミュージシャン星野源のサイトに、日本の最高指導者の安倍晋三首相がコラボ投稿して、自宅自粛要請を呼び掛けたことに対して、喧々諤々の論争になっています。

 安倍首相は自宅の居間で、愛犬とじゃれたり、珈琲を飲んだりしてくつろいでいるブルジョワ生活をあからさまにしてしまったせいか、派遣切りに遭った人とか、店舗休業を余儀なくされたりした人たちから、「何を呑気なことやってるんだ。そんな暇があったら、休業補償の問題を即刻解決してもらいたい」といった切実な投稿のほか、「国会議員ら特権階級は減給されることなく満額振り込まれるから羨ましい」といった皮肉な意見が殺到したようです。

 安倍さんに期待し過ぎるからいけないんですね。モリカケ問題をあやふやにし、財務省の現場職員が自殺してもまるで他人事。公金の私的流用の疑いが濃厚な「桜を見る会」を結局、なかったことにした安倍さんですからね。最初から、そういう人だと肝に銘じていれば、「裏切られた」なんて思わないはずです。

 それより、この星野源のサイトを、先週8日に逸早く教えてくれたのが、高校時代のバンド仲間の神林君でした。そんな政治的な話ではなく、全く音楽的な話で、曲のコードが普通のメジャー、マイナーではないので、「あの変なコードをコピーできるかい?」と投げかけてきたのでした。我々が、バンドをやっていた初期の頃、ロックの楽譜などほとんど発売されていなかったので、レコードが擦り切れるほど何回も何百回も聴いて、音を取ったものでした。その点、彼には「絶対音階」があるので、仲間が驚愕するほど簡単にコピーしてしまうのでした。

 ということで、早速聴いてみたら、その「うちで踊ろう」は、ボサノヴァ風と言えばボサノヴァ風で、バリバリにブルーノートとかマイナーペンタトニックのようなジャズコードをふんだんに使っていました。記号で書けば、例えば、CとかCmとかではなく、C7(♭9,13)といった複雑なコードです(笑)。

 ギター片手にそんなことをしていたら、久しぶりに自分の音楽遍歴を思い出してしまいました。全く個人的などうしようもない話ですから、ご興味のない方は、ここで左様なら(笑)。

◇◇◇

 ざっくり言いますと、子どもの頃は歌謡曲や演歌なども聴いてましたが、10代の多感な時代に入ると俄然、ロックです。それが20代まで続きます。ビートルズ(解散後のソロも含めて)、ローリングストーンズ、レッド・ツェッペリン、クイーン、エリック・クラプトンなどはほぼ全てのアルバムを買い揃えました。

 30代に入ると、一変してクラシック音楽オンリーです。特に、モーツァルトのCD全集を40万円ぐらいかけて買い揃えたほか、グレン・グールドにはまってからバッハ、ベートーベン、ブラームス(交響曲第1番は10種類近く)を中心に聴き、ショパンもルビンシュタインによる全集、ポリーニ、ホロヴィッツ、ポゴレリッチ、キーシン、ブーニンらの演奏に耳を傾けました。ドビュッシーは卒論のテーマだったので、改めて、偏屈なミケランジェリのピアノに惚れ、歌劇「ペリアスとメリザンド」まで買い、そして何と言っても、のめり込んだのが20代の時に最も感激したワグナーです。フルトベングラーよりもクレンペラーが好きでしたね。当時ブームだったマーラーもチャイコフスキーもスメタナも堪能し、バルトーク、ストランビンスキー、シェーンベルク辺りまではカバーしました。現代音楽はグバイドーリア、アルボ・ペルトらも聴きましたが、苦手でしたね。武満徹は例外ですが。

 40代になると、今度はジャズです。若い頃は「爺の音楽」として敬遠していましたが、もしかしたら、今は、ロックやクラシックよりも一番リラックスできて好きかもしれません。グレン・ミラーやベニー・グッドマンなんかは既に聴いてましたが、ジャズにはまったきっかけは、ビル・エヴァンスでした。彼のアルバムをほとんど買い占めて、セロニアス・モンク、バド・パウエル、ウィントン・ケリー、トミー・フラナガン、オスカー・ピーターソン、ジョージ・シアリングなどピアノばかし聴いてました。ラッパは、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、アート・ペッパーら王道ばかりでしたが、オーネット・コールマンと晩年のマイルスあたりの前衛的になるとついていけなくなりました。

 ウエス・モンゴメリーにはまってからは、ジャズは好んでギターばかりです。ハーブ・エリス、バーニー・ケッセル、ケニー・バレル、タル・ファローらがお気に入りで今でも聴いてます。ヴォーカルは、ヘレン・メリルを端緒に、やはり、ビリー・ホリデイ、ナット・キング・コール、エラ・フィッツジェラルドの正統派でしょうが、以前にブログで書いた通り、ジュリー・ロンドンはしびれますね(笑)。

 50代になると、主にボサノヴァが中心で、シャンソンやカンツォーネもよく聴くようになりました。ボサノヴァのアントニオ・カルロス・ジョビンはレノン・マッカートニーに引けを取らない20世紀が生んだ世界最高の作曲家だと思ってます。シャンソンは、何と言ってもセルジュ・ゲンズブールです。エディット・ピアフもシャルル・トロネもいいですが、フランソワーズ・アルディ、シルビー・バルタン、イブ・モンタンというミーハー志向。カンツォーネはジリオラ・チンクエッティと極めてオーソドックスなポップスですが好んで聴きました。

◇「14歳の法則」を発見

 今は、昔のCDを引っ張り出して色んなジャンルの曲を聴いています。正直、今流行のラップにはついていけません。分かったことは、人間は、14歳の時に聴いた音楽がその後の人生を決定づけることでした。大袈裟な言い方ですが、人生で最も多感な14歳前後に聴いた音楽が、その人の「懐メロ」になるということです。14歳と言えば中学生ですから、お小遣いも少なく、そんなにレコードなんて買えません。私の場合は、「ミュージック・ライフ」などの音楽雑誌を買って、レコードのジャケット写真を何度も何度も穴があくほど眺めて「欲しいなあ、お金があったらなあ」と思っていました。それが、長じて金銭的に余裕ができると、その反動で、昔買えなかったCDレコードを次々と買い集めることになってしまったのです。

 個人的ながら、私の場合は、写真でアップした通り、S&G「明日に架ける橋」、サンタナ「天の守護神」、CSN&N「デジャ・ヴ」、CCR「コスモズ・ファクトリー」、EL&P「展覧会の絵」、フェイセズ「馬の耳に念仏」、ジャニス・ジョプリン「パール」などです。いずれも1970年か71年に発売されたものだったことが後になって分かり、この「14歳の法則」を新発見したのです(大袈裟ですが、商標登録申請中=冗談です)。記憶していた耳が自然と当時流行った音楽を求めたのでしょう。嗚呼、当時聴いていたシカゴ、BS&T、チェイス、クリスティー、カーリー・サイモン、ジェームズ・テーラー、カーペンターズなんかも本当に懐かしい。

 1970年は、4月にビートルズか解散し、最後のLP「レット・イット・ビー」が発売され、映画も公開された年でした。私は、朝早くから夜遅くまで、3本も4本も、この同じ映画「レット・イット・ビー」を新宿の武蔵野館で何回も見続けたものでした。当時は、入れ替え制ではありませんでしたからね。よく飽きなかったものです(笑)。

 あれから半世紀もの年月が過ぎてしまったとは、とても信じられません。振り返ると、邦楽はほとんど聴かず、洋楽ばかり聴いていたことになります。

 この私が発見した「14歳の法則」、きっと貴方にも当てはまると思いますよ!

「アビイ・ロード」の証拠写真=40年前の若き私

1979年7月19日(木) ロンドン

この横断歩道を渡っている青年は、40年前の私です。

単なる横断歩道ではありませんよ。ビートルズの4人が歩いたロンドンのアビイ・ロードです。

1979年7月19日(木) ロンドン

 昨日は、ビートルズがレコーディングとして使った「EMIスタジオ」と書きましたが、写真で見ると、「EMI アビイ・ロード・スタジオ」でしたね。

 ビートルズが解散して10年も経っていなかったのですが、世界中から観光客が押し寄せるほどでもなかったでした。

 確か、一部のマニアを除いて、ビートルズ人気は下火でした。

1979年7月19日(木) ロンドン

 はい、証拠写真です。

 押し入れの奥からアルバム写真を見つけて引っ張り出してきました。

 右隣は、同じツアーだった久保君だったと思いますが、何しろ40年も昔のことで忘れてしまいました。この写真を写してから一度も会っていません。

1979年7月19日(木) ロンドン

これは、ロンドンのリージェントパーク近くのポール・マッカートニーの邸宅の門前です。修繕工事をしていました。

こうして、外国人観光客が勝手に近くで写真を撮れた時代でしたね(笑)。

1979年7月20日(金) ロンドンのホステル「インターナショナル学生センター」1泊2300円

 大学4年の夏休みに1カ月間、欧州を旅行しましたが、結局、一緒に写っている今村哲郎君がずっと付き合ってくれました。

 先程のアビイ・ロードの写真を始め、私が写っている写真は、ほとんど彼が撮影してくれました。

1979年7月22日(日) リヴァプール ジョン・レノンが住んでいた家 

 ビートルズの生誕地リヴァプールにも行き、ジョン・レノンが少年時代にミミ伯母さんと住んでいた自宅にも行きました。勿論、当時は別の人が住んでいたのですが、「せっかく来たんだから」と、呼び鈴を鳴らして、住人に話を聞いてしまいました。

 奥さんは「今は(ジョンは)ここにいませんよ。13年前に引っ越しました」と困り顔でした。

 今はそんな勇気はありませんけど。

 13年前というと1966年のこと。また、1979年のこの時はまだジョン・レノンは生きていたんだ!

1979年8月7日(火) ローマ 左からサンティーナ、イザベーラ、ドナテーラさん

 わが生涯、人生で一番、もてた時でした。

 こんな写真を公開するなんて、我ながらかなりの露出狂です(笑)。

 もう40年も大昔なので、今は全く面影もなく、「別人28号」ですから、写っている人も他人みたいなもんです。

 アルバム写真も、本人が死ねばゴミとして捨てられ、永遠に消え去るわけですから、「ま、いっか」てな感じですよ(笑)。

「アビイ・ロード」50周年記念盤に関する私的考察

 僕が生まれて初めて買ったLPレコードは、ビートルズの「アビイ・ロード」です。今からちょうど50年前の1969年10月21日。今はなき、東京郊外のひばりが丘の「ひばり堂」というレコード店でした。価格は2500円、だったと思います。

 今の価格では5000円ぐらいの感覚です。まだティーンエージャーだった僕にとって、2500円はかなり高額。お小遣いを貯めていたか、父親に買ってもらったか忘れましたが、後者の可能性が高い。当時、我が家では、初めてのセパレート・ステレオ、ソニーのインテグラを買ったばかりで、レコード収集に勤しんでおりました。当時、庶民にとって高嶺の花だったこのステレオ機器は、安月給の父親が、近くの「十一屋」という漬物屋工場で、重い樽運びをするアルバイトして買ったもので、過労で倒れて救急車で運ばれたことを覚えています。

 まあ、そんな個人的な思い出は置いといて、その「アビイ・ロード」の「50周年記念エディッション」CD(2枚組=3960円)が発売されたということで、やっと昨日、東京・銀座の山野楽器で買って来ました。LPレコードは、何万、何十万回も擦り切れるほど聴いて、針が飛んでしまうほどになったので、とうの昔に処分してしまいました。1987年に発売されたCDは当然持っていましたが、2枚組の50周年記念盤にはマニア向けのトラックが収録されているので、フリークとしては買わないわけにはいきません(笑)。

 今さらの話ではありますが、アルバムのタイトルになった「アビイ・ロード」は、ロンドンにあるビートルズがレコーディングする「 EMIスタジオ 」の建物入り口前を走る道路で、4人が歩く横断歩道は世界的な観光名所になりました。私も若き頃、1979年8月にここを訪れ、写真を撮って来ました。写真が残っていたら、貼り付けましょう(笑)。(このアルバム・ジャケットから「ポール死亡説」が生まれましたが、長くなるので茲では触れません。)

ビートルズ「アビイ・ロード」

 LPレコードはA面とB面があり、A面には「カム・トゥゲザー」や「サムシング」(両方ともポールのベースラインが秀逸で、「サムシング」のリードはエリック・クラプトンが弾いているのではないか、と当初噂された)などシングルカットされた名曲ぞろい。B面は、クラシックのように、後半に前半のモチーフが再現されたり、カデンツァみたいな曲もあり、一日に何回聴いても飽きませんでした。高校時代からバンドを組み、この難しい「B面(コピー)をやろう」ということで、コピーのために、また何万回聴き直したか分かりません。

 それでいて、歌詞は何度聴いても理解できませんでした(苦笑)。特に「カム・トゥゲザー」は、ジョンが韻を踏むための単語を並べたせいか、今でもさっぱり分かりません。「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」の中に出てくるstep on the gas が「ガスの上に乗る」ではなく、「アクセルを踏む」ということ、「ミーン・ミスター・マスタード」に出てくるgo-getter が「やり手」という意味だと分かったのは、聴き始めてから30年以上経ってからでした。

  「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」 が終わって、「サン・キング」に入る直前に鈴虫が鳴く声のような音が聴こえます。アルバムを買ったばかりの時はちょうど秋だったので、外で本当に虫が鳴いていると錯覚した覚えがあります。

 「アビイ・ロード」にまつわる話となると、一晩かかってしまいますが、最後に付け加えておかなければならないのは、この「50周年エディッション」が49年252日ぶりに全英アルバムチャートで1位に復帰したというニュースです。(英国では1969年9月26日にリリースされ、アルバム・チャートでは17週連続で1位、米ビルボードのアルバム・チャートでは11週連続で1位を獲得)今では、音楽の聴き方がネット配信時代になり、レコードが売れなくなったとはいえ、信じられませんね。

 このCDのリーフレットによると、ビートルズの4人が勢ぞろいするのは、「アビイ・ロード」のマスター・テープ編集をするために行われた1969年8月20日夜のセッションが最後だったといいます。ビートルズは、翌1970年に解散し、アルバム「レット・イット・ビー」が発売されますが、このレコーディングは1969年1月に行われたものでした。事実上、「アビイ・ロード」がビートルズ最期のアルバムとなり、この時、ジョン・レノン28歳、ポール・マッカートニー27歳、ジョージ・ハリスン26歳、リンゴ・スター29歳という若さでした。髭を生やして随分お爺さんに見えましたが、まだ全員20代だったんですね。

 20代にして既に歴史の残る偉業を成し遂げた彼らは、まさに天才でした。

【後記】

 50周年記念盤をじっくり聴いてみましたが、駄目ですね。がっかりしました。

 ジョージ・マーチンの息子のジャイルズらがリミックスしてますが、昔のオリジナルを台無しにしています。特に、「ユー・ネヴァ・ギヴ・ミー・ユア・マネー」は、1969年発売のオリジナル盤では、ポールのヴォーカルが、右から中央、左へと移って行き、「ステレオ」としての醍醐味を感じたものでした。これは、何も手を入れていない1987年発売のCD盤でも踏襲されましたが、50周年記念盤では、ポールのヴォーカルを中央で固定してしまって、本当に興醒めです。また、無駄なリードとして音源を落としていたギターのフレーズを大きく復活して、余計な音に感じます。

 いやあ、もうこの50周年記念盤は、愛聴しないでしょう。ポールはともかく、ジョン・レノンがこんなリミックスを聴いたら、絶対怒るでしょう。

ジョン・レノンの靴が有名なテニス・シューズだったとは!

 皆様、御案内の通り、小生はビートルズ・フリーク、特にジョン・レノンのファンなのですが、先日の読売新聞夕刊に出ていたジョン・レノンの靴の話は、知らなかったので、とても興奮して読んでしまいました。

 ビートルズ最後の録音アルバム「アビイ・ロード」は、世界で最も有名なジャケットの一つです。英ロンドンのアビイ・ロード・EMIスタジオの前の横断歩道をビートルズの4人が歩いているカットです。あたしも若い頃、わざわざ現場に行って横断歩道を歩きました(笑)。先頭のジョンは、純白の上下スーツに白いスニーカー(運動靴)。2番目のリンゴは、黒いスーツに黒い革靴。3番目のポールは、濃紺の上下スーツに裸足。4番目のジョージは、上下紺のデニムにクリーム色の靴というイデタチです。

 「アビイ・ロード」は、日本では1969年10月21日に発売されました。確か2500円。父親に買ってもらいました。あれから50年ですか…。もう半世紀も大昔になるとは!レコードですから、針で擦り切れるほど、ソニーのインテグラという当時発売されたばかりのコンポーネント・ステレオで何度も何度も飽きずに聴いたものです。

当時、「ポール死亡説」が流れ、このアルバムのジャケットでポールが裸足で、後ろに写っている車(VWビートル)のナンバーに「26IF」とあったことから、「もしポールが生きていたら26歳だった」とこじつけられたり、先頭のジョンは牧師、リンゴは会葬者、ジョージは墓堀人の象徴と言われたりしました。

今回は、その話ではなく、ジョンの白いスニーカーの話でした。この運動靴、ただの運動靴ではなく、フランス・パリで1936年に創業されたスプリング・コートというブランドの「G2クラシック・キャンバス」というテニス・シューズだったのです。宣伝文句によると、「シンプルなデザインで、バネのように跳ねる履き心地と機能」を持つそうな。

 テニスの四大トーナメントの一つ、全仏オープン(1891年スタート)はクレイコート(赤土)ですから、そのコートに合うように開発された靴でした。

 もちろん、ジョンはその履き心地の良さと機能性を知って買ったことでしょう。何となく嬉しくなってしまいました。

 インナーに特殊クッションがあり、靴底はラバー(ゴム)。1965年に発売されたビートルズの6枚目のアルバム「ラバー・ソウル」(「ミッシェル」「ガール」など収録)は、「ゴムのようなソウル・ミュージック」rubber soulと、「ゴム底靴」rubber soleを掛けたタイトルでしたから、ジョンはもうその頃からこの靴を愛用していたかもしれない、というのは考え過ぎなんでしょうね(笑)。

 1969年1月30日のいわゆる「ルーフ・バルコニー・セッション」(映画「レット・イット・ビー」で公開)でも、ジョンは白っぽいスニーカーを履いておりますが、これもスプリング・コートだったのかどうかは不明です。

ちなみに、日本では2015年からカメイ・プロアクトが総代理店契約を結んでいるそうで、価格は1万800円ぐらいで販売されているようです。いや、別に宣伝するために書いたわけではなく、この会社をよく知っていたので驚いてしまったからです。私の親族が一昨年、この会社に入社しましたが、理由があって、1年も経たないうちに辞めてしまったのです。銀座にも直営店舗があるので見に行ったりしました。どんな会社なのか調べたりもしました。

 何か、色んな繋がりがあったので、ついつい興奮して書いてしまいました。

10年ぶりに旧友と再会できました

 今年のお正月の初詣は、自宅近くと実家近くなど3社もお参りしてきました。そのうち、自宅近くで引いたおみくじは「小吉」。吉だから良かったと思って、読んでみたら、「過信禁物」だの、「慎重に行動せよ」だの、「謙虚になれ」だのと、まるで「凶」に近いようなお達しを受けてしまいました(苦笑)。

 さて、1月5日の土曜日のことでしたが、都内某所で、実に10年ぶりに旧友の上森君と再会することができました。

 何でそれまで会わなかったのかについては、すべて向こうの都合でした。こちらが一生懸命に会う機会をつくっても、当日の朝になって急に、電話が掛かってきたり、メールが来たりして、色々な理由でドタキャンになってしまうのでした。その理由とは、自分自身の体調不良やインフルエンザ、親戚の病気見舞い、家族の急病、その他諸々です。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

 10年間会わなかったということは、その驚異のドタキャンが5回や10回どころか、50回ぐらいはあったということです(笑)。これだけドタキャンが続けば、普通なら呆れて諦めますね。「何か、自分は悪いことでもしたのだろうか」などと猜疑心も起こります。でも、私は辛抱強く連絡を取り続けました。が、とうとう限界が来ました。昨年になってもうすっかり冷めてしまったのです。「もういいや。やめにしよう。いくら約束してもドタキャンされる。彼とはもうこのまま一生会うことはないだろう」と心の中で決めました。他の友人たちの中には、彼のことを「引き籠り」だの「対人恐怖症になった」と言う者もおりました。

 一番気の置けない友人なのに、しかも、仕事でもなく、ただ遊びで会うだけなのに、理由がさっぱり分かりませんでした。彼に余程の事情があるのだったら、もう無理強いする必要はないのではないか、と諦めたのでした。

バルセロナ市街

 それが、昨年末から急に潮目が変わってきました。ようやく、彼の口からプライベートな悩みについてほんの少しずつだけ打ち明けてくれるようになったのです。その中でも最大の肝になっている家族が抱えている借金問題の核心についてまで告白してくれたのです。

そのことについて話したせいか、彼は、今度、彼の自宅近くの居酒屋兼レストランで会ってもいいという話になったのです。勿論、もう50回もドタキャンされ続けてきたので、どうせ今回も直前になって連絡してきてドタキャンするのだろう、と覚悟していました。

 そしたら、珍しく、当日朝になっても電話もメールもないのです。彼の自宅近くまで、電車とバスを乗り継ぎましたが、車内でも半信半疑でした。

このブログの1月3日にも「今年は個人的にも色々ありそうで、旧友との交際が復活しそうだ」といったようなことを書きましたが、長らく音信不通だった根岸君と連絡が取れるようになったことに続いて、やっと上森君とも再会することができたのです。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

10年ぶりに再会した彼はすっかり、顔の筋肉が弛み、色白で、やつれてしまっておりました。自身が病気を抱えているせいもありますが、ほとんど運動どころか歩いたりもしていないので、脚力は衰え、お婆さんのように、小さな簡易乳母車のようなものを曳いてやって来ました。

居酒屋兼レストランで、ビールやワインを飲みながら3時間ぐらい話をしたでしょうか。上森君は、自身の病気と親の介護、そして莫大な借金という三重苦を抱えて地獄の苦しみだという話を告白してくれました。特に、莫大な借金については、親御さんが認知症になる寸前に契約してしまった甘い投資話で、養護施設に投資すれば、社会貢献にもなり、1年で最低10%の還元もでき、一石二鳥だという神奈川県藤沢市の詐欺師に騙されたというのです。

冷静に考えれば、今時、マイナスの低金利時代、10%のリターンなど、ほとんどありえる話ではなく、本当に冷静に考えれば、そんな詐欺話に引っかかることはないのですが、親御さんは認知症気味で判断力も落ち、口八丁手八丁の男に騙されてしまったというのです。当然ながら、民事裁判にもなったらしいのですが、結局、昨年、彼の親御さんの方が敗北してしまったようでした。

バルセロナ市街

まあ、こういうイザコザを抱えていたので、彼も水臭いですが、友人と会う気がしなかったのかもしれません。こちらも、カルロス・ゴーンではないので、彼の親御さんの借金の肩代わりをすることを出来るわけでもなく、黙って話を聞いてあげるしかありませんでした。

上森君とは高校時代のバンド仲間で、一緒にビートルズの曲などを演奏したり、酒を飲んだりして楽しんでいた仲でした。そのビートルズですが、彼らがロンドン・アップル本社の屋上で、バンドとして最期のライブ演奏した「ゲットバック・セッション」(この模様は、翌1970年公開の映画「レット・イット・ビー」で披露されました)が行われたのが、1969年1月30日のことでした。ということは、あれから、ちょうど50年、半世紀もの歳月が流れたわけですね。

えーーー、本当かあ???です。半世紀なんてあっという間だったんですね。同時代を生きてきて、その時間の流れの速さに圧倒されるとともに、全く信じられない気持ちです。「10年ひと昔」と言い、上森君とも10年ぶりに再会しましたが、この10年も一瞬前の出来事のように速かった気がします。

 私自身もこの10年の間、大病したりして色んな事がありましたが、時の流れの速さには今さらながら、驚愕せざるを得ませんでした。

ジョージ没後15年

伊太利亜ローマ・パンテオン 「ラファエロ」

先程、ラジオを聴いていたら、ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」がかかり、「あれっ?何でかな?」と思ったら、今日11月29日(日本時間30日)はジョージの命日だと教えてくれました。

いやあ、すっかり忘れていました。2001年ですから、もう15年も昔です。時間の経つのは早過ぎます。

享年58ですから、日本で言えば、まだ定年退職もしていない若さです。早かったんだなあ、と今更思います。

ジョージの死因は、肺がんでした。彼は若い頃からかなりのヘヴィースモーカーでしたからね。

亡くなったのは、米ロサンゼルスで、病院とも友人宅とも言われてます。何しろオリヴィア夫人が亡くなった場所どころか、何処で埋葬されたのかさえも公表しておりません。

私は、掃苔趣味があるので、お墓が分かれば、お詣りに行きたいと思っているのですが、私が生きている間は、実現することはないでしょうから、せめて、今日は一日中、ジョージ・ハリスンの曲を聴いて供養したいと思ってます。

またまた、とてもマニアックな話ですが、ビートルズがレコードデビューする前、リバプールのキャバーンクラブで演奏していた頃、リードギタリストのジョージがかなりリードヴォーカルを担当していたことが、初期の録音で分かります。

「ヤング・ブラッド」「クライング・ウェイティング・ホーピング」「シーク・オブ・アラビー」「スリー・クール・キャッツ」などです。

まるで、初期のメインヴォーカルは、ジョージ・ハリスンだったかのようです。

先日も書きました1962年1月1日のデッカ・オーディションでも三分の一以上はリードヴォーカルを担当していました。中でも、「テイク・ケア・オブ、マイ・ベイビー」のヴォーカルが非常に光っていましたが、これまた、ヴォーカルはジョージでした。

この曲は、あのメロディーメイカー、ジェリー・ゴーフィ&キャロル・キングのコンビで作詞作曲、ボビー・ヴィーが唄い、1961年9月18日から連続2週、全米ビルボード・チャートで1位になりました。

つまり、9月のヒット曲をすぐカバーしていたわけですね。

こうしてビートルズは当時、全米の最新ヒットを常にキャッチして、最新の音楽を取り入れていたことが分かります。

ビートルズのデビュー曲

京都・永観堂 by Kyoraku sensei (紅葉写真拝受賜り候)

関東地方は11月には珍しく雪が降り積もりました。

何やら、54年ぶりなんだそうですね。

54年前というと、1962年です。
1962年と言えば、ビートルズがデビューした年です。同年10月5日にデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥー」がリリースされました。

当時日本では全く話題になっていません。日本発売はその2年後です。

ということで、以下はビートルズ・フリークによるマニアックな話です。

1962年1月1日。日本ではお正月のお屠蘇気分でリラックスしている頃、リバプールの田舎町からロンドンに出てきた4人の若者が、デッカレコードのオーディションに臨みます。

メンバーは、ジョン、ポール、ジョージのほか、当時正式メンバーだったドラムスのピート・ベストです。このオーディションは録音され、今でも、ユーチューブで無料で試聴することができます。

其処には、多くのコメントが寄せられていますが、やはり、ピートのドラミングが全く合っていなくて、ビートに欠けています。デッカは、そのせいなのか、この四人組のバンドを落選させ、後に「世紀の大失敗」という汚名を歴史に刻んでしまいます。(これに懲りたデッカは、後にローリング・ストーンズと契約します)

そして、ビートルズは、マネジャーのブライアン・エプシュタインの奮闘で、6月6日にEMI傘下のパーロフォンという小さなレコード会社のオーディションに漕ぎ着け、漸くレコード・デビュー契約を果たすのです。

この際、やはり、プロデューサーのジョージ・マーチンは、ドラマーのピートが気に入らなかったのか、結局、同年8月に、ローリー・ストームとハリケーンズのメンバーで、リバプール一番のドラマーと評判だったリンゴ・スターを引き抜いて新生ビートルズを誕生させます。

その新メンバーによるデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥー」は9月4日に録音されます。それでも、ジョージ・マーチンは気に入らなかったのか、その一週間後の11日に、スタジオ・ミュージシャンのアンディ・ホワイトにドラムスを担当させ、リンゴはタンバリンしかやらさせてもらいませんでした。

9月4日に録音された「ラヴ・ミー・ドゥー」は、そのままシングル盤として発売されましたが、どういうわけか、翌年4月に発売されたアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」に収録された「ラヴ・ミー・ドゥー」は、アンディ・ホワイトのドラムスの方が採用されました。

非常にマニアックな話でした(笑)。

ということで、ビートルズの「ラヴ・ミー・ドゥー」には3ヴァージョンあり、現在、ピート・ベスト版は「アンソロジー1」で、リンゴ版は「ビートルズ・パスト・マスターズvol.1」で、アンディ・ホワイト版は「プリーズ・プリーズ・ミー」で聴くことができます。

ビートルズ、ジェイソン・ボーン、成瀬巳喜男「旅役者」

哈爾賓西駅待合室  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

◆過去1週間の閲覧数・訪問者数ランキングです。

《日付》     《閲覧数》 《訪問者数》 《ランキング》
2016.10.14(金)  613PV   327IP     2358位   /261万4333ブログ
2016.10.13(木)  315PV   149IP     8159位   /261万3783ブログ
2016.10.12(水)  371PV   183IP     6214位   /261万3252ブログ
2016.10.11(火)  450PV   183IP     7152位   /261万2690ブログ
2016.10.10(月)  449PV   167IP     1万109位  /261万2194ブログ
2016.10.09(日)  458PV   176IP     6513位   /261万1669ブログ
2016.10.08(土)  287PV   117IP     1万695位  /261万1173ブログ

昨日はついに2000位台にランキングされました!

消滅した「幻のブログ」は、過去800位台の3桁をマークしたことがあるので、もうすぐです(笑)。

でも、昨日は「ボブ・ディラン」という大物を見出しに取ったので、全く見ず知らずの「通りすがり」の方がアクセスしただけでしょう。

精進を重ねて、奉仕活動を続けて参りたいと存じまする。(真面目過ぎる!)

 哈爾濱西駅 和諧号  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

渓流斎は映画好きで知られていますが、毎回見た映画を全て、このブログに取り上げているわけではありません。

例えば、ビートルズの46年ぶり公開映画「エイト・デイズ・ア・ウイーク」は、イタリア旅行から帰ってからすぐに見ました。この映画は、ビートルズがデビューした1962年からライブ公演をやめてしまう1966年8月29日の米サンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでの最期のコンサートまでを追ったドキュメンタリーです。

私はビートルズ・フリークですから、あと2,3回は見る予定をしていますが、ちょっと、「第5のビートルズ」と言われたプロデューサーの故ジョージ・マーチンの息子のジャイルが音声の担当になっているようですが、ちょっと、いじり過ぎだと思いました。

つまり、ビートルズのライヴとして最も有名な1965年8月の米ニューヨークの「シェイ・スタジアム」公演をおまけで最後に上映してくれますが、ヴォーカルの音声が聴き取れなかったせいで、ヴォーカルの音をダビングするのは致し方ないにしても、演奏さえしていないギターの音を、恐らく他のライヴからかぶせて音をクリアにしているので、興ざめしてしまいました。あれは、違反じゃないかな…。

この映画について、若い音楽評論家が「ファンの熱狂があれほど凄いとは思わなかった」とラジオで感想を述べていましたが、「かわいそうに、何も知らないんだなあ」と哀れに思ってしまいました。(堂々と評論家を名乗っているので)。若いので無理もありませんね。ビートルズが演奏活動をやめたのは1966年、ちょうど半世紀も昔で、当時を知っている人は、今頃はもう還暦を過ぎてしまっているのですからね。

もう一つ、先週はシリーズもので9年ぶりに復活した「ジェイソン・ボーン」を観ておりました。これは、前作も前々作もシリーズ全て見ているので、愉しみにしていたのですが、今回は駄作で点数の付けようもありませんでした。

ただただ只管、拳での殴り合いとピストルでの殺し合い。そして、カーアクションと称する車の凄まじい破壊活動。筋もへったくれもあったもんじゃないです。

第一、CIA長官を殺害して何ともないという話も面妖。マット・デイモン扮するジェイソン・ボーンが何処にいようがコンピューターで突き止められるというのも陳腐で、大人の鑑賞に堪えられませんでした。

やはり、ハリウッド映画は、おこちゃま向けなんですかね?

 海の向こうは樺太  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

昨夜は、本棚の奥から、「日本映画ベスト200」(角川文庫)が出てきてしばらく熱中してしまいました。1990年初版発行なので、もう26年も昔の本。映画人・著名人1000人のアンケートによる「わが青春の1本」を集計したものです。戦前の映画も挙げられていますが、その映画人・著名人は今では他界してしまった人ばかりです。時代を感じる本でした。

ベスト200作品の監督の上位は、黒澤明(「七人の侍」「生きる」など)と小津安二郎(「東京物語」「晩春」など)の二人が独占している感じでした。この二人を追うようにして健闘していたのが溝口健二(「雨月物語」「西鶴一代女」など)。以下、木下恵介(「二十四の瞳」「野菊の如き君なりき」など)、今井正(「また逢う日まで」「青い山脈」など)、今村昌平(「復讐するは我にあり」「黒い雨」など)が続き、私の好きな成瀬巳喜男(「浮雲」「流れる」など)は第10位でした。

(この成瀬監督について、溝口監督は「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつも○○○○が有りませんね」と断定していたらしいので、椅子から落ちてしまうほど、ずっこけてしまいました=笑)

日本映画が黄金時代でカンヌやヴェネチアなどの国際映画祭で、数々の賞を受賞していたのが昭和20年代後半から30年代です。特に、黒澤・小津・溝口・成瀬は「四代巨匠」として名を馳せましたが、今見ても面白いですね。くだらないハリウッド映画を観る時間があれば、まだ見ていない彼らの映画を観てみたいと思いました。

そしたら、今はとてもいい時代になりました。ユーチューブで、著作権の切れた彼らの戦前の作品などが無料で観られるのです。

昨晩は、成瀬巳喜男監督の昭和15年の作品「旅役者」(藤原鶏太=釜足=主演)を観てしまいました。ある田舎町に「六代目菊五郎」が巡業に来るというので、山っ気のある床屋が興行師に投資したところ、「六代目菊五郎」は尾上でなく、中村菊五郎を名乗るドサ周りの田舎芝居の一座で、騙されたという話。主役の藤原鶏太は、一座で「馬の脚」役という設定で、ドタバタ喜劇といいますか、ドタバタ悲劇といった風合いで、ついiPhoneの狭い液晶画面なのに、1時間15分の映画を全部観てしまいました(笑)。

何と言っても、支那事変が始まっているとはいえ、太平洋戦争前夜の昭和15年。皇紀2600年。戦闘機「零線」がつくられた年に、こんな映画が公開されていたとは! 当時から、役者と言えば、「六代目」の名前が全国津々浦々に鳴り響いていたことが分かります。

76年前の映画なのに、画像が実に鮮明で、台詞がきれいですね。ヤクザ言葉でさえ、妙に格調があり、当時の日本人がこんな言葉遣いしていると思うと非常に感心してしまいました。(それに比べて、21世紀の現代若者は「disる」とか訳の分からない汚い言葉のオンパレードです)

ユーチューブで、日本の巨匠の映画鑑賞はお勧めですよ。

「ノルウェーの家具」に決定!

JICAでお仕事をしていたANさんが今お住まい近くの「フランスの森」。バングラデシュで亡くなった日本人の方々は直接知らなくても、亡くなった方々が勤めていた会社の方はよく知っていたので、大変衝撃を受けたそうです。

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賢明なる読者諸兄姉の皆々様方におかれましては、私こと渓流斎が、にんどすさんという方と、コメント欄で、大論争を繰り広げていたことは、まさか、知らないとは言わせまい(笑)。

ビートルズが1965年に発表したアルバム「ラバーソウル」に収録されている「ノーウェッジアン・ウッド」という名曲にまつわる世紀の大誤訳の話です。(ジョージ・ハリスンが、師事したラヴィ・シャンカールにシタールを習い、ポピュラー音楽史上初めて、シタールが使われた名曲としても知られています)

当時の東芝EMIレコード宣伝部さんが「Norwegian wood」を「ノルウェーの森」というタイトルで売り出したおかげで、この誤訳のタイトルが日本では定着してしまい、その後、日本のベストセラー作家が、わざわざ同名タイトルで作品を発表し、映画化もされて、世界中でボチボチのヒット作になりました。

コメント欄では、歌詞の内容について、詳しく触れておりますので、ご興味ある方はご参照下さい。

で、私も、あれから、新たに調べてみたところ、偶然に以下のサイトにぶち当たりました。

「北欧インテリアは、ビートルズの時代がベストかも。」 ←こちらをクリック

これで、決定です。「ノーウェッジアン・ウッド」とは「ノルウェー家具」のことでした。このサイトにあるように、1950年代から70年代に掛けて、ノルウェー家具は、全盛期で英国にも輸入され、大人気だったようですね。

70年代以降は、北海で発見された油田の影響で、手作りの家具産業がノルウェーでは廃れてしまい、北欧家具のシンボルがスウェーデンやデンマークに移行してしまった、という話も説得力があります。

私も大好きなドイツのバウハウスに影響を受けたノルウェー人のハンス・ブラットルがデザインした木製椅子は、世界中でかなりヒットしたようです。

でも、「ノルウェーの家具」を作詞作曲したジョン・レノンの歌詞には「(部屋を)見回したら、椅子はなかった」と唄ってますね(笑)。恐らく、ジョンは「あの有名なハンス・ブラットルの木製椅子さえないじゃないか!」ということを言いたかったのかも?

世界中を旅している渓流斎ですが、残念ながら、ノルウェーには行ったことがありません。でも、先ほどのサイトには、日本に居ても、ノルウェーの雰囲気が味わえるカフェがあることが紹介されています。「フグレン・トウキョウ」です。本店は、ノルウェーの首都オスロにあり、ここは日本支店に当たるようです。

場所は、東京都渋谷区の代々木公園近く、昔よく通っていた天下の国有放送局イヌ・アッチ・イケーのそばです。地図を拡大して住所を見たら、何と、現在日本の最高権力者であらせられる方のご自宅そばなんですね。付近は、24時間警戒態勢を引いていることでしょうから、私のような体制に反感を持っている怪しいおじさんが行くと誰何されることでしょうね(笑)。

「フグレン・トウキョウ」には、もちろん、ノルウェー家具や調度品が供えられているようで、ノルウェー・コーヒーもあるそうです。ノルウェー料理もあるのかしら?いずれにせよ、行けば、ノルウェーに行ったような気分になれるのかもしれません。

いつかこの店に、ジョン・レノンのように下心を持って可愛いヘテロさんを誘ってみたいですねえ(笑)。

足を踏まれた人の痛み

「二乃宮」

大島てるです。

バングラデシュで、日本のJICAから派遣された方々が、首都ダッカのレストランでテロ襲撃に遭って、命を落とされたということで、非常に胸が痛みました。

何も、遊びや旅行で行ったわけではなく、バングラデシュのため、お国のインフラ整備のために、仕事で出張されていた方々でしたので、お気の毒で、遺族の皆様には大変御愁傷様でした、と言う言葉以外見つかりません。

何よりも、実行犯の若者たちは、裕福な家庭に育ち、留学経験もあるインテリだったという事実には衝撃を受けました。開発途上の国を良くしようとはるばる遠方からやって来た外国人を、異教徒だからといって、殺害したりしますかねえ?日本人が何で十字軍なんですか?インテリは駄目ですね。

全く無関係なのですが、私にとって、バングラデシュと言えば、どうしても、ジョージ・ハリスンが主催した「バングラデシュ・チャリティーコンサート」を思い出してしまいます。

うろ覚えの記憶で、電車の中で書いているので間違っていると思いますが、確か、あのコンサートは、1971年8月に、ニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンで開催された本格的な、世界初のチャリティーコンサートで、主宰者のジョージ・ハリスンは、長髪で胸まで垂れるほどの長い髭を伸ばして、目が覚めるほど真っ白の上下高級スーツを着こなし、クリーム色のフェンダーのストラトキャスターを弾きまくっていました。(日付等間違っていたらどんどん改訂します)

凄いお爺さんに見えましたが、当時、ジョージは28歳の若者でした。前年の1970年に、ビートルズが正式に解散し、ジョージ自身は3枚組LPのソロアルバム「オール・シングズ・マスト・パス(諸行無常という意味)」をリリースし、その中の「マイ・スウィート・ロード」が世界的に大ヒットして、ソロとして自信を深めていた頃でした。(盗作事件もありましたが)

私も、バングラデシュという国については、このコンサートで初めてその名前を知りました。コンサートの模様は、映画化され、私も何十回、映画館に足を運んだか覚えていないほど足繁く運びました。当時は、ビデオもネットもありませんからね(笑)。

映画では、独立運動で戦うバングラデシュの人々や、飢えで苦しむ子供たちが、沢山写っていました。

政治的な人物として前面に出していなかったジョージが、何故、バングラデシュ問題に関わったのかについて、映画の中での記者会見や、主題曲(?)のバングラデシュの歌詞にも出てきます。シタール奏者で、ジョージの友人のラヴィ・シャンカールから「助けてほしい」と支援を求められたからです。

シタールという楽器は、インドの古代から使われている楽器で、ビートルズのアルバム「ラバーソウル」(1965年)の中の「ノルウェー製家具」(以前のブログに書きましたが、「ノルウェーの森」はあまりにも酷過ぎる誤訳です!)で、初めて使われました。ローリング・ストーンズもすかさず真似して、「黒くぬれ!」で、ブライアン・ジョーンズが器用にシタールを弾きこなしています。

もう15年ほど前ですか、ノラ・ジョーンズという若い女性歌手が「ドント・ノウ・ホワイ」でグラミー賞を受賞して、大きな話題になった際、彼女があのラヴィ・シャンカールの娘だったということを知った時の驚きは今でも忘れません。

「バングラデシュ・コンサート」には、ボブ・ディランやエリック・クラプトン、レオン・ラッセル、ビリー・プレストン、バッド・フィンガーらが友情出演して大成功を収めました。

恐らく莫大なチャリティー金が出て、バングラデシュ政府に寄付されたことでしょう。昔なら、よかった、よかったで終わりますが、あれから、ひねくれ者として成長した私なんか、あの寄付金は、しっかり貧しい人たちの手に渡ったのか、不信感を抱いています。まさか、政府高官たちによって、公用車で別荘に行くお車代や、ホテル三日月への家族旅行に使われたんじゃないでしょうね?

いくら、数字や文章を見せつけられても、単なる統計に過ぎず、足を踏まれた人の痛みなんて、その人本人しか分からないものなんです。足を踏んだ本人が、とやかく、自分の功績として、数字を吹聴しているだけなのです。