10年ぶりに旧友と再会できました

 今年のお正月の初詣は、自宅近くと実家近くなど3社もお参りしてきました。そのうち、自宅近くで引いたおみくじは「小吉」。吉だから良かったと思って、読んでみたら、「過信禁物」だの、「慎重に行動せよ」だの、「謙虚になれ」だのと、まるで「凶」に近いようなお達しを受けてしまいました(苦笑)。

 さて、1月5日の土曜日のことでしたが、都内某所で、実に10年ぶりに旧友の上森君と再会することができました。

 何でそれまで会わなかったのかについては、すべて向こうの都合でした。こちらが一生懸命に会う機会をつくっても、当日の朝になって急に、電話が掛かってきたり、メールが来たりして、色々な理由でドタキャンになってしまうのでした。その理由とは、自分自身の体調不良やインフルエンザ、親戚の病気見舞い、家族の急病、その他諸々です。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

 10年間会わなかったということは、その驚異のドタキャンが5回や10回どころか、50回ぐらいはあったということです(笑)。これだけドタキャンが続けば、普通なら呆れて諦めますね。「何か、自分は悪いことでもしたのだろうか」などと猜疑心も起こります。でも、私は辛抱強く連絡を取り続けました。が、とうとう限界が来ました。昨年になってもうすっかり冷めてしまったのです。「もういいや。やめにしよう。いくら約束してもドタキャンされる。彼とはもうこのまま一生会うことはないだろう」と心の中で決めました。他の友人たちの中には、彼のことを「引き籠り」だの「対人恐怖症になった」と言う者もおりました。

 一番気の置けない友人なのに、しかも、仕事でもなく、ただ遊びで会うだけなのに、理由がさっぱり分かりませんでした。彼に余程の事情があるのだったら、もう無理強いする必要はないのではないか、と諦めたのでした。

バルセロナ市街

 それが、昨年末から急に潮目が変わってきました。ようやく、彼の口からプライベートな悩みについてほんの少しずつだけ打ち明けてくれるようになったのです。その中でも最大の肝になっている家族が抱えている借金問題の核心についてまで告白してくれたのです。

そのことについて話したせいか、彼は、今度、彼の自宅近くの居酒屋兼レストランで会ってもいいという話になったのです。勿論、もう50回もドタキャンされ続けてきたので、どうせ今回も直前になって連絡してきてドタキャンするのだろう、と覚悟していました。

 そしたら、珍しく、当日朝になっても電話もメールもないのです。彼の自宅近くまで、電車とバスを乗り継ぎましたが、車内でも半信半疑でした。

このブログの1月3日にも「今年は個人的にも色々ありそうで、旧友との交際が復活しそうだ」といったようなことを書きましたが、長らく音信不通だった根岸君と連絡が取れるようになったことに続いて、やっと上森君とも再会することができたのです。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

10年ぶりに再会した彼はすっかり、顔の筋肉が弛み、色白で、やつれてしまっておりました。自身が病気を抱えているせいもありますが、ほとんど運動どころか歩いたりもしていないので、脚力は衰え、お婆さんのように、小さな簡易乳母車のようなものを曳いてやって来ました。

居酒屋兼レストランで、ビールやワインを飲みながら3時間ぐらい話をしたでしょうか。上森君は、自身の病気と親の介護、そして莫大な借金という三重苦を抱えて地獄の苦しみだという話を告白してくれました。特に、莫大な借金については、親御さんが認知症になる寸前に契約してしまった甘い投資話で、養護施設に投資すれば、社会貢献にもなり、1年で最低10%の還元もでき、一石二鳥だという神奈川県藤沢市の詐欺師に騙されたというのです。

冷静に考えれば、今時、マイナスの低金利時代、10%のリターンなど、ほとんどありえる話ではなく、本当に冷静に考えれば、そんな詐欺話に引っかかることはないのですが、親御さんは認知症気味で判断力も落ち、口八丁手八丁の男に騙されてしまったというのです。当然ながら、民事裁判にもなったらしいのですが、結局、昨年、彼の親御さんの方が敗北してしまったようでした。

バルセロナ市街

まあ、こういうイザコザを抱えていたので、彼も水臭いですが、友人と会う気がしなかったのかもしれません。こちらも、カルロス・ゴーンではないので、彼の親御さんの借金の肩代わりをすることを出来るわけでもなく、黙って話を聞いてあげるしかありませんでした。

上森君とは高校時代のバンド仲間で、一緒にビートルズの曲などを演奏したり、酒を飲んだりして楽しんでいた仲でした。そのビートルズですが、彼らがロンドン・アップル本社の屋上で、バンドとして最期のライブ演奏した「ゲットバック・セッション」(この模様は、翌1970年公開の映画「レット・イット・ビー」で披露されました)が行われたのが、1969年1月30日のことでした。ということは、あれから、ちょうど50年、半世紀もの歳月が流れたわけですね。

えーーー、本当かあ???です。半世紀なんてあっという間だったんですね。同時代を生きてきて、その時間の流れの速さに圧倒されるとともに、全く信じられない気持ちです。「10年ひと昔」と言い、上森君とも10年ぶりに再会しましたが、この10年も一瞬前の出来事のように速かった気がします。

 私自身もこの10年の間、大病したりして色んな事がありましたが、時の流れの速さには今さらながら、驚愕せざるを得ませんでした。

ジョージ没後15年

伊太利亜ローマ・パンテオン 「ラファエロ」

先程、ラジオを聴いていたら、ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」がかかり、「あれっ?何でかな?」と思ったら、今日11月29日(日本時間30日)はジョージの命日だと教えてくれました。

いやあ、すっかり忘れていました。2001年ですから、もう15年も昔です。時間の経つのは早過ぎます。

享年58ですから、日本で言えば、まだ定年退職もしていない若さです。早かったんだなあ、と今更思います。

ジョージの死因は、肺がんでした。彼は若い頃からかなりのヘヴィースモーカーでしたからね。

亡くなったのは、米ロサンゼルスで、病院とも友人宅とも言われてます。何しろオリヴィア夫人が亡くなった場所どころか、何処で埋葬されたのかさえも公表しておりません。

私は、掃苔趣味があるので、お墓が分かれば、お詣りに行きたいと思っているのですが、私が生きている間は、実現することはないでしょうから、せめて、今日は一日中、ジョージ・ハリスンの曲を聴いて供養したいと思ってます。

またまた、とてもマニアックな話ですが、ビートルズがレコードデビューする前、リバプールのキャバーンクラブで演奏していた頃、リードギタリストのジョージがかなりリードヴォーカルを担当していたことが、初期の録音で分かります。

「ヤング・ブラッド」「クライング・ウェイティング・ホーピング」「シーク・オブ・アラビー」「スリー・クール・キャッツ」などです。

まるで、初期のメインヴォーカルは、ジョージ・ハリスンだったかのようです。

先日も書きました1962年1月1日のデッカ・オーディションでも三分の一以上はリードヴォーカルを担当していました。中でも、「テイク・ケア・オブ、マイ・ベイビー」のヴォーカルが非常に光っていましたが、これまた、ヴォーカルはジョージでした。

この曲は、あのメロディーメイカー、ジェリー・ゴーフィ&キャロル・キングのコンビで作詞作曲、ボビー・ヴィーが唄い、1961年9月18日から連続2週、全米ビルボード・チャートで1位になりました。

つまり、9月のヒット曲をすぐカバーしていたわけですね。

こうしてビートルズは当時、全米の最新ヒットを常にキャッチして、最新の音楽を取り入れていたことが分かります。

ビートルズのデビュー曲

京都・永観堂 by Kyoraku sensei (紅葉写真拝受賜り候)

関東地方は11月には珍しく雪が降り積もりました。

何やら、54年ぶりなんだそうですね。

54年前というと、1962年です。
1962年と言えば、ビートルズがデビューした年です。同年10月5日にデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥー」がリリースされました。

当時日本では全く話題になっていません。日本発売はその2年後です。

ということで、以下はビートルズ・フリークによるマニアックな話です。

1962年1月1日。日本ではお正月のお屠蘇気分でリラックスしている頃、リバプールの田舎町からロンドンに出てきた4人の若者が、デッカレコードのオーディションに臨みます。

メンバーは、ジョン、ポール、ジョージのほか、当時正式メンバーだったドラムスのピート・ベストです。このオーディションは録音され、今でも、ユーチューブで無料で試聴することができます。

其処には、多くのコメントが寄せられていますが、やはり、ピートのドラミングが全く合っていなくて、ビートに欠けています。デッカは、そのせいなのか、この四人組のバンドを落選させ、後に「世紀の大失敗」という汚名を歴史に刻んでしまいます。(これに懲りたデッカは、後にローリング・ストーンズと契約します)

そして、ビートルズは、マネジャーのブライアン・エプシュタインの奮闘で、6月6日にEMI傘下のパーロフォンという小さなレコード会社のオーディションに漕ぎ着け、漸くレコード・デビュー契約を果たすのです。

この際、やはり、プロデューサーのジョージ・マーチンは、ドラマーのピートが気に入らなかったのか、結局、同年8月に、ローリー・ストームとハリケーンズのメンバーで、リバプール一番のドラマーと評判だったリンゴ・スターを引き抜いて新生ビートルズを誕生させます。

その新メンバーによるデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥー」は9月4日に録音されます。それでも、ジョージ・マーチンは気に入らなかったのか、その一週間後の11日に、スタジオ・ミュージシャンのアンディ・ホワイトにドラムスを担当させ、リンゴはタンバリンしかやらさせてもらいませんでした。

9月4日に録音された「ラヴ・ミー・ドゥー」は、そのままシングル盤として発売されましたが、どういうわけか、翌年4月に発売されたアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」に収録された「ラヴ・ミー・ドゥー」は、アンディ・ホワイトのドラムスの方が採用されました。

非常にマニアックな話でした(笑)。

ということで、ビートルズの「ラヴ・ミー・ドゥー」には3ヴァージョンあり、現在、ピート・ベスト版は「アンソロジー1」で、リンゴ版は「ビートルズ・パスト・マスターズvol.1」で、アンディ・ホワイト版は「プリーズ・プリーズ・ミー」で聴くことができます。

ビートルズ、ジェイソン・ボーン、成瀬巳喜男「旅役者」

哈爾賓西駅待合室  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

◆過去1週間の閲覧数・訪問者数ランキングです。

《日付》     《閲覧数》 《訪問者数》 《ランキング》
2016.10.14(金)  613PV   327IP     2358位   /261万4333ブログ
2016.10.13(木)  315PV   149IP     8159位   /261万3783ブログ
2016.10.12(水)  371PV   183IP     6214位   /261万3252ブログ
2016.10.11(火)  450PV   183IP     7152位   /261万2690ブログ
2016.10.10(月)  449PV   167IP     1万109位  /261万2194ブログ
2016.10.09(日)  458PV   176IP     6513位   /261万1669ブログ
2016.10.08(土)  287PV   117IP     1万695位  /261万1173ブログ

昨日はついに2000位台にランキングされました!

消滅した「幻のブログ」は、過去800位台の3桁をマークしたことがあるので、もうすぐです(笑)。

でも、昨日は「ボブ・ディラン」という大物を見出しに取ったので、全く見ず知らずの「通りすがり」の方がアクセスしただけでしょう。

精進を重ねて、奉仕活動を続けて参りたいと存じまする。(真面目過ぎる!)

 哈爾濱西駅 和諧号  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

渓流斎は映画好きで知られていますが、毎回見た映画を全て、このブログに取り上げているわけではありません。

例えば、ビートルズの46年ぶり公開映画「エイト・デイズ・ア・ウイーク」は、イタリア旅行から帰ってからすぐに見ました。この映画は、ビートルズがデビューした1962年からライブ公演をやめてしまう1966年8月29日の米サンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでの最期のコンサートまでを追ったドキュメンタリーです。

私はビートルズ・フリークですから、あと2,3回は見る予定をしていますが、ちょっと、「第5のビートルズ」と言われたプロデューサーの故ジョージ・マーチンの息子のジャイルが音声の担当になっているようですが、ちょっと、いじり過ぎだと思いました。

つまり、ビートルズのライヴとして最も有名な1965年8月の米ニューヨークの「シェイ・スタジアム」公演をおまけで最後に上映してくれますが、ヴォーカルの音声が聴き取れなかったせいで、ヴォーカルの音をダビングするのは致し方ないにしても、演奏さえしていないギターの音を、恐らく他のライヴからかぶせて音をクリアにしているので、興ざめしてしまいました。あれは、違反じゃないかな…。

この映画について、若い音楽評論家が「ファンの熱狂があれほど凄いとは思わなかった」とラジオで感想を述べていましたが、「かわいそうに、何も知らないんだなあ」と哀れに思ってしまいました。(堂々と評論家を名乗っているので)。若いので無理もありませんね。ビートルズが演奏活動をやめたのは1966年、ちょうど半世紀も昔で、当時を知っている人は、今頃はもう還暦を過ぎてしまっているのですからね。

もう一つ、先週はシリーズもので9年ぶりに復活した「ジェイソン・ボーン」を観ておりました。これは、前作も前々作もシリーズ全て見ているので、愉しみにしていたのですが、今回は駄作で点数の付けようもありませんでした。

ただただ只管、拳での殴り合いとピストルでの殺し合い。そして、カーアクションと称する車の凄まじい破壊活動。筋もへったくれもあったもんじゃないです。

第一、CIA長官を殺害して何ともないという話も面妖。マット・デイモン扮するジェイソン・ボーンが何処にいようがコンピューターで突き止められるというのも陳腐で、大人の鑑賞に堪えられませんでした。

やはり、ハリウッド映画は、おこちゃま向けなんですかね?

 海の向こうは樺太  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

昨夜は、本棚の奥から、「日本映画ベスト200」(角川文庫)が出てきてしばらく熱中してしまいました。1990年初版発行なので、もう26年も昔の本。映画人・著名人1000人のアンケートによる「わが青春の1本」を集計したものです。戦前の映画も挙げられていますが、その映画人・著名人は今では他界してしまった人ばかりです。時代を感じる本でした。

ベスト200作品の監督の上位は、黒澤明(「七人の侍」「生きる」など)と小津安二郎(「東京物語」「晩春」など)の二人が独占している感じでした。この二人を追うようにして健闘していたのが溝口健二(「雨月物語」「西鶴一代女」など)。以下、木下恵介(「二十四の瞳」「野菊の如き君なりき」など)、今井正(「また逢う日まで」「青い山脈」など)、今村昌平(「復讐するは我にあり」「黒い雨」など)が続き、私の好きな成瀬巳喜男(「浮雲」「流れる」など)は第10位でした。

(この成瀬監督について、溝口監督は「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつも○○○○が有りませんね」と断定していたらしいので、椅子から落ちてしまうほど、ずっこけてしまいました=笑)

日本映画が黄金時代でカンヌやヴェネチアなどの国際映画祭で、数々の賞を受賞していたのが昭和20年代後半から30年代です。特に、黒澤・小津・溝口・成瀬は「四代巨匠」として名を馳せましたが、今見ても面白いですね。くだらないハリウッド映画を観る時間があれば、まだ見ていない彼らの映画を観てみたいと思いました。

そしたら、今はとてもいい時代になりました。ユーチューブで、著作権の切れた彼らの戦前の作品などが無料で観られるのです。

昨晩は、成瀬巳喜男監督の昭和15年の作品「旅役者」(藤原鶏太=釜足=主演)を観てしまいました。ある田舎町に「六代目菊五郎」が巡業に来るというので、山っ気のある床屋が興行師に投資したところ、「六代目菊五郎」は尾上でなく、中村菊五郎を名乗るドサ周りの田舎芝居の一座で、騙されたという話。主役の藤原鶏太は、一座で「馬の脚」役という設定で、ドタバタ喜劇といいますか、ドタバタ悲劇といった風合いで、ついiPhoneの狭い液晶画面なのに、1時間15分の映画を全部観てしまいました(笑)。

何と言っても、支那事変が始まっているとはいえ、太平洋戦争前夜の昭和15年。皇紀2600年。戦闘機「零線」がつくられた年に、こんな映画が公開されていたとは! 当時から、役者と言えば、「六代目」の名前が全国津々浦々に鳴り響いていたことが分かります。

76年前の映画なのに、画像が実に鮮明で、台詞がきれいですね。ヤクザ言葉でさえ、妙に格調があり、当時の日本人がこんな言葉遣いしていると思うと非常に感心してしまいました。(それに比べて、21世紀の現代若者は「disる」とか訳の分からない汚い言葉のオンパレードです)

ユーチューブで、日本の巨匠の映画鑑賞はお勧めですよ。

「ノルウェーの家具」に決定!

JICAでお仕事をしていたANさんが今お住まい近くの「フランスの森」。バングラデシュで亡くなった日本人の方々は直接知らなくても、亡くなった方々が勤めていた会社の方はよく知っていたので、大変衝撃を受けたそうです。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

賢明なる読者諸兄姉の皆々様方におかれましては、私こと渓流斎が、にんどすさんという方と、コメント欄で、大論争を繰り広げていたことは、まさか、知らないとは言わせまい(笑)。

ビートルズが1965年に発表したアルバム「ラバーソウル」に収録されている「ノーウェッジアン・ウッド」という名曲にまつわる世紀の大誤訳の話です。(ジョージ・ハリスンが、師事したラヴィ・シャンカールにシタールを習い、ポピュラー音楽史上初めて、シタールが使われた名曲としても知られています)

当時の東芝EMIレコード宣伝部さんが「Norwegian wood」を「ノルウェーの森」というタイトルで売り出したおかげで、この誤訳のタイトルが日本では定着してしまい、その後、日本のベストセラー作家が、わざわざ同名タイトルで作品を発表し、映画化もされて、世界中でボチボチのヒット作になりました。

コメント欄では、歌詞の内容について、詳しく触れておりますので、ご興味ある方はご参照下さい。

で、私も、あれから、新たに調べてみたところ、偶然に以下のサイトにぶち当たりました。

「北欧インテリアは、ビートルズの時代がベストかも。」 ←こちらをクリック

これで、決定です。「ノーウェッジアン・ウッド」とは「ノルウェー家具」のことでした。このサイトにあるように、1950年代から70年代に掛けて、ノルウェー家具は、全盛期で英国にも輸入され、大人気だったようですね。

70年代以降は、北海で発見された油田の影響で、手作りの家具産業がノルウェーでは廃れてしまい、北欧家具のシンボルがスウェーデンやデンマークに移行してしまった、という話も説得力があります。

私も大好きなドイツのバウハウスに影響を受けたノルウェー人のハンス・ブラットルがデザインした木製椅子は、世界中でかなりヒットしたようです。

でも、「ノルウェーの家具」を作詞作曲したジョン・レノンの歌詞には「(部屋を)見回したら、椅子はなかった」と唄ってますね(笑)。恐らく、ジョンは「あの有名なハンス・ブラットルの木製椅子さえないじゃないか!」ということを言いたかったのかも?

世界中を旅している渓流斎ですが、残念ながら、ノルウェーには行ったことがありません。でも、先ほどのサイトには、日本に居ても、ノルウェーの雰囲気が味わえるカフェがあることが紹介されています。「フグレン・トウキョウ」です。本店は、ノルウェーの首都オスロにあり、ここは日本支店に当たるようです。

場所は、東京都渋谷区の代々木公園近く、昔よく通っていた天下の国有放送局イヌ・アッチ・イケーのそばです。地図を拡大して住所を見たら、何と、現在日本の最高権力者であらせられる方のご自宅そばなんですね。付近は、24時間警戒態勢を引いていることでしょうから、私のような体制に反感を持っている怪しいおじさんが行くと誰何されることでしょうね(笑)。

「フグレン・トウキョウ」には、もちろん、ノルウェー家具や調度品が供えられているようで、ノルウェー・コーヒーもあるそうです。ノルウェー料理もあるのかしら?いずれにせよ、行けば、ノルウェーに行ったような気分になれるのかもしれません。

いつかこの店に、ジョン・レノンのように下心を持って可愛いヘテロさんを誘ってみたいですねえ(笑)。

足を踏まれた人の痛み

「二乃宮」

大島てるです。

バングラデシュで、日本のJICAから派遣された方々が、首都ダッカのレストランでテロ襲撃に遭って、命を落とされたということで、非常に胸が痛みました。

何も、遊びや旅行で行ったわけではなく、バングラデシュのため、お国のインフラ整備のために、仕事で出張されていた方々でしたので、お気の毒で、遺族の皆様には大変御愁傷様でした、と言う言葉以外見つかりません。

何よりも、実行犯の若者たちは、裕福な家庭に育ち、留学経験もあるインテリだったという事実には衝撃を受けました。開発途上の国を良くしようとはるばる遠方からやって来た外国人を、異教徒だからといって、殺害したりしますかねえ?日本人が何で十字軍なんですか?インテリは駄目ですね。

全く無関係なのですが、私にとって、バングラデシュと言えば、どうしても、ジョージ・ハリスンが主催した「バングラデシュ・チャリティーコンサート」を思い出してしまいます。

うろ覚えの記憶で、電車の中で書いているので間違っていると思いますが、確か、あのコンサートは、1971年8月に、ニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンで開催された本格的な、世界初のチャリティーコンサートで、主宰者のジョージ・ハリスンは、長髪で胸まで垂れるほどの長い髭を伸ばして、目が覚めるほど真っ白の上下高級スーツを着こなし、クリーム色のフェンダーのストラトキャスターを弾きまくっていました。(日付等間違っていたらどんどん改訂します)

凄いお爺さんに見えましたが、当時、ジョージは28歳の若者でした。前年の1970年に、ビートルズが正式に解散し、ジョージ自身は3枚組LPのソロアルバム「オール・シングズ・マスト・パス(諸行無常という意味)」をリリースし、その中の「マイ・スウィート・ロード」が世界的に大ヒットして、ソロとして自信を深めていた頃でした。(盗作事件もありましたが)

私も、バングラデシュという国については、このコンサートで初めてその名前を知りました。コンサートの模様は、映画化され、私も何十回、映画館に足を運んだか覚えていないほど足繁く運びました。当時は、ビデオもネットもありませんからね(笑)。

映画では、独立運動で戦うバングラデシュの人々や、飢えで苦しむ子供たちが、沢山写っていました。

政治的な人物として前面に出していなかったジョージが、何故、バングラデシュ問題に関わったのかについて、映画の中での記者会見や、主題曲(?)のバングラデシュの歌詞にも出てきます。シタール奏者で、ジョージの友人のラヴィ・シャンカールから「助けてほしい」と支援を求められたからです。

シタールという楽器は、インドの古代から使われている楽器で、ビートルズのアルバム「ラバーソウル」(1965年)の中の「ノルウェー製家具」(以前のブログに書きましたが、「ノルウェーの森」はあまりにも酷過ぎる誤訳です!)で、初めて使われました。ローリング・ストーンズもすかさず真似して、「黒くぬれ!」で、ブライアン・ジョーンズが器用にシタールを弾きこなしています。

もう15年ほど前ですか、ノラ・ジョーンズという若い女性歌手が「ドント・ノウ・ホワイ」でグラミー賞を受賞して、大きな話題になった際、彼女があのラヴィ・シャンカールの娘だったということを知った時の驚きは今でも忘れません。

「バングラデシュ・コンサート」には、ボブ・ディランやエリック・クラプトン、レオン・ラッセル、ビリー・プレストン、バッド・フィンガーらが友情出演して大成功を収めました。

恐らく莫大なチャリティー金が出て、バングラデシュ政府に寄付されたことでしょう。昔なら、よかった、よかったで終わりますが、あれから、ひねくれ者として成長した私なんか、あの寄付金は、しっかり貧しい人たちの手に渡ったのか、不信感を抱いています。まさか、政府高官たちによって、公用車で別荘に行くお車代や、ホテル三日月への家族旅行に使われたんじゃないでしょうね?

いくら、数字や文章を見せつけられても、単なる統計に過ぎず、足を踏まれた人の痛みなんて、その人本人しか分からないものなんです。足を踏んだ本人が、とやかく、自分の功績として、数字を吹聴しているだけなのです。

映画「マイ・ブルーベリー・ナイツ」はよかたとです

  ウォン・カーウァイ監督・脚本・制作の映画「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を見てきました。

もう恋愛映画を見る年頃ではないのですが、ノラ・ジョーンズ(29)の大ファンなものですから、彼女の主演第一作を見たかったのでした。詳しくは分かりませんが、既に香港で中国語で映画化された作品をニューヨークに舞台に置き換えて、欧米人の俳優を採用したようです。

贔屓目なのですが、彼女の演技は合格点でしたね。映画批評家の作品評はどれもこれも散々でしたが、私はよかったと思いますよ。甘いシンデレラ・ガール・ストーリーではなく、恋愛映画というより失恋映画だったので、より現実的で身に染みてしまったからです。

 

特に、警官のアーニー役のデビッド・ストラーザン(59)とスー・リン役のレイチェル・ワイズ(37)がよかったですね。アル中に溺れる元夫のアーニーと、元夫の束縛から逃れようとするスー・リン役の息もつかせぬ攻防(?)は他人事には思えず、のめりこんでしまいました。

ジュード・ロー(35)は英国人なので、ブリティッシュ・アクセントでしたから、ニューヨークの場末のパブの主(あるじ)役にはちょっと無理があるなと思いました。相変わらず、ハンサムでしたが…。

ノラ・ジョーンズの2003年のデビューは私にとって、衝撃的でした。まだプロフィールが知られていない頃、ネットで彼女の地元のテキサス州のダラス・モーニング紙か何かに載っていたと思いますが、それを読むと、彼女の父親はラヴィ・シャンカールだと書かれていたからです。えっ?ラヴィ・シャンカールを知らない?

 

彼は、ジョージ・ハリスンのシタール(インドの弦楽器)の師匠で、バングラ・デシュ・コンサートにも出演しています。親子なので、やはり、どこか似ています。

そんなこともあって彼女のファンになってしまったのです。ハスキーヴォイスも魅力的です。

シタールといえば、ビートルズは「ノルウェーの森」で初めて使用しました。ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズも真似して「黒く塗れ」で使いました。ブライアン・ジョーンズは作曲ができなくて、リーダーだったのに、作曲するミック・ジャガーとキース・リチャーズに主導権を奪われて、メンバーの中で孤立して麻薬に走り、事故死してしまうのですが、演奏の名手でした。どんな楽器でも独学でこなしてしまったそうです。ビートルズの「レット・イット・ビー」のB面の「ユー・ノー・マイ・ネーム」では何とサックス・フォーン奏者としてレコーディングに参加しています。

あ、随分、話が違う方に展開してしまいました(笑)。

ついに買ってしまいました!

 

自他ともにビートルズ・フリークを任ずる私なのですが、ついにDVDプレーヤーを買ってしまいました。

某量販店で、ビートルズの「アンソロジー」5枚組セットが、定価1万5750円のところを、何と半額以下の6980円で売っていたのです。「アンソロジー」はVHSのビデオは持っていたのですが(というより、私のビートルズ・フリークを知っているアメリカに住む今村君が態々贈ってくれたのです)、DVDには「スタッフ編集秘話」などのおまけが付いているので、いつか買いたいなあ、と思っていたのです。

半額以下ですよ!これは、買うしかありません。

でも、ソフトは買っても、専用再生機は持っていません。そこで、小さな8型の画面のポータブルのDVD再生機も、思い切って買ってしまいました。

ポータブルにしたのは、英語の字幕を出して、語学の勉強を兼ねてやろうという魂胆があったからです。

買うときは、本当に清水の舞台から飛び降りる感じでした(大袈裟~)が、買ってよかったです。

特に、ビートルズの連中の英語の発音は聴き取りにくく、字幕を見て、「ああ、そうだったのか」と分かることがしばしばだからです。彼らは、リバプール出身なので、訛りがひどいのです。リバプールは、ロンドンの北東に位置し、列車で2時間半くらいかかるので、日本でいえば、リバプールは仙台と考えていいのではないしょうか。

ジョン・レノンもリバプール訛りを認めています。あるインタビューで「ロンドンでは、grassのことを、グラ~スなんて気取って発音するけど、俺たちはストレートにグラスって言うんだよ」なんて、発言していましたが、やはり、ジョンが一番、聴きとりにくいですね。次はジョージ・ハリスン。ポール・マッカトニーとリンゴ・スターは割りと分かりやすい発音をしてくれます。

これで(生きる)楽しみが1つ増えました。今、古い映画ならDVDのソフトがわずか500円で買えますからね。素晴らしいことです。チャップリンはすべて集めたいし、007シリーズも欲しいし、ゴッド・ファーザーも欲しいし、ヒッチコックもヴィスコンティも欲しい…。困ってしまいますね。

でも、今、一番欲しいのは、ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」(1960年)です。この映画には、人生の絶頂と転落と悲哀と人間の傲慢さと嫉妬と愛と裏切りと勇気と冒険と経済と観光と…何かすべてが織り込まれているようで、何度見ても飽きないのです。劇場とテレビで50回以上は見ています。

ああ、止まらなくなりそうなので、今日はこの辺で。

ジョン・レノン「PEACE BED」

誰も遊んでくんないので、一人で、六本木ヒルズにまで遠征し、ジョン・レノンの映画「PEACE BED」を見に行ってきました。

ビートルズ・フリークを自称していますからね。見ないと話になりません。

TOHO CINEMASは、わずか、123席の小劇場が6個くらいある映画館でした。初めて行きました。月曜の昼間なので、さすがに空いていました。土日も仕事をしなければならない職業ですが、平日休めるので、「役得」「です。

「PEACE BED」は、原題を訳すと「アメリカ合衆国VSジョン・レノン」。決闘みたいなタイトルですが、こちらの方が映画の内容に近いです。何しろ、戦争をやっている国に対して、公然と「戦争するな」と反政府活動をするのですから。元FBIの捜査官が、当時を回想して「アメリカ人の若者がレコードを買ってくれるから、儲けているのに、アメリカにまで来て非合法活動するなんてもってのほかだ」と発言していました。

今は私も年取ったせいなのか、この体制維持派の発言も分かりますね。ジョンは目の上のタンコブでした。

当局は、徹底的にジョンをマークします。尾行、電話盗聴…挙句の果てには、過去の麻薬使用の前科をタテに、ビザを再発行せず、国外追放を画策します。

私は当時、高校生か大学生くらいでしたので、同時代人として、同時進行としてニュースに接してきましたが、このように映画化されて、過去の歴史のように扱われると、やはり感慨深いものがあります。もう30年以上昔の話ですからね!

面白かったのは、FBIかCIAの元捜査官が「ミック・ジャガーなら単なる不良の金持ちだが、ジョン・レノンは危険人物だ」と発言していたことです。ニューヨーク定住を決めたジョンは、ボビー・シールズやアンジェラ・デイヴイスといった当時、当局のブラックリストに載っていた極左活動家と親交を持ち、ヴェトナム戦争反対などのデモに積極的に参加します。

極左活動家といっても、まだ、生きているんですね。昔を回想してインタビューされていましたから。当然かもしれませんが…。今、米国は戦時体制なのですが、活動家による「イラク戦争反対」のデモなどのニュースは聞きません。大学生も保守的になったのか、ITで金儲けするのに必死なのか、あの60年代、70年代に盛り上がった反体制運動はほとんど聞こえてきません。

そういう時代だったのでしょうか。ニール・ヤングの「オハイオ」も、オハイオ州立か市立大学のデモで警官に射殺された学生のことを歌っていました。バッフィー・セントメリーの歌ったテーマソングで有名になった「いちご白書」も学生運動の話でした。
政治の季節だったのでしょうね。

とにかく、ジョン・レノンは信念の人でした。革命といっても、暴力には大反対でした。ガンジーの無抵抗主義の影響があったようです。「レボルーション」も「平和を我らに」もかなり政治的なアジテーションの意味が込められていたんですね。この映画で再確認しました。

ニューヨーク・タイムズの敏腕の女性記者から「あなたはアイドルだったのに、何で今、こんな政治活動するの?」と聞かれたジョンは「君はあの『ア・ハードデイズ・ナイト』の頃の僕のことを言っているのかもしれないが、今の僕は、もう違う。もう29歳になったしね。政治運動だろうが何だろうが、もう黙ってみてられないんだよ」と答える場面が出てきます。

29歳だなんて!何と老成した人だったのだろう。もっとも、わずか40年の生涯でしかなかったから、かなり生き急いだということは確かだと思います。

「ベッド・イン・ピース」や「」バッギズム」など、当時、私は子供で、何であんな気が違ったことをやるのか、ジョンのことを理解できなかったのですが、今では、よく分かります。

映画の中で胸にバッジを付けたジョンがいました。そこには「Not insane」と書かれていました。

もちろん、その意味は「気が狂っていないからね」。映画を見て、このバッジに気づいた人は、かなりの「通」です。今度会ったら、私が表彰します!

年末大感謝祭用のバナー02

ロック・カルトクイズ

公開日時: 2007年9月23日

今、「すぐ答えがでない」にコメントしようと思ったら「コメントできません」と、表示されてしまいました。

別に拒否しているわけではないのに、こんな表示がなぜ出るのかわかりません。機械音痴なので、お許しください。

お詫びに、ロック・カルトクイズをー。

1、メジャーデビュー前のビートルズが1960年にハンブルグで公演した際、知り合ったドイツ人の中にビートルズのマッシュルーム・カットを考案したと言われるアストリット・キルヘアという女性がいましたが、彼女の恋人でその後のビートルズと数々の場面でかかわりを持つドイツ人は?

 

2、ビートルズが1966年に発表したアルバム「リボルバー」のジャケットを手掛けたグラフィック・デザイナーは?

 

3、後にクリームのメンバーとして活躍するジャック・ブルースの後釜としてマンフレッド・マンに参加したベーシストは?

 

4、ビートルズ解散後、ジョン・レノンのソロアルバム「ジョンの魂」や「イマジン」などのレコーディングに参加したベーシストは?

 

5、ビートルズのアルバム「アンソロジー」のジャケットを担当したグラフィック・デザイナーは?

答えはコメントで。