ピアノ買っちゃいました=気晴らしのためですが、何か?

  暗い個人的な話ではありますが、昨年は、長年親しかった友人に先立たれてしまったり、理由も分からず没交渉になった友人もいたりして、心に穴が開いてしまいました。正直、何か悪いことしたのかなあ、と自分自身を責めてばかり。心が不安定でずっと落ち込んでおりました。

 少年だったら非行に走れることでしょうが、気の弱い小市民としては、ひたすら、この難局を耐えるか、馬鹿なことをするしかありません(笑)。

 馬鹿なことというのは、今はコロナで旅行もできないし、友人たちと酒盛りも出来ないので、たった一人で、上野の洋食「黒船亭」とか銀座の仏料理「ポール・ボキューズ」とか、目の玉が飛び出そうな高級料理店に行って散財する程度の話ではありますが。

 でも、このまま、ずっと、暗く沈んだ生活を送っていくわけにはいきません。

 そこで、思い切って、電子ピアノ(ヤマハ Pー45)を買ってしまいました。

 ネット通販を見ていたら、急に欲しくなってしまったのです。しかも、天下のヤマハの88鍵なのに3万9700円と実に安い!私が使っている「TUMI」のバックパックが4万円もしましたから、「えっ?バッグよりピアノの方が安いの!?」と思わず、クリックしてしまいました。

 そのピアノは、写真で見ただけなので、大きさも重さも分かりませんでした。安いので、膝にも載せても弾けるおもちゃのようなシンセサイザーかと思っていました。

 そしたら、送られてきて吃驚。幅132.6センチ、高さ15.4センチ、奥行き29.5センチ、重さ11.5キロ。私の書斎の机は結構大きいので、楽勝かと思ったら、とても収まり切れません。箱の大きさだけでも部屋に置けば寝ていられません。

 仕方がないので、専用スタンド(Lー85)も買いました。これが8770円。ついでに、夜間に心置きなく弾けるように、ヤマハの専用ヘッドホン(HPHー50B)も買いました。これが2980円。付属のペダルがとてもチャチで使いにくいので、ハーフペダル機能に対応した専用ペダル(FC3A)も奮発しました。これが3645円。

 これらを合算すると、結局、5万5095円。…あれっ? ネット通販を事細かく見ると、これらのセット料金で5万円以下のものもありました。なーんだ。最初からセットで買えば、安くついたんだあ、とガッカリです。

ジョンとヨーコ(1979年8月、上野・洋食「黒船亭」) ※お店から特別の許可を得て撮影しております

 自宅にピアノがあるのは、20年ぶりぐらいです。最初は、学生の頃、実家に住んでいた時、私はお坊ちゃまですから、両親にお願いして買ってもらいました。ヤマハの「電気ピアノ」でしたが、確か、30万円ぐらいでした。今の価格なら50万円以上の感覚です。学生の身分ではとても買えません。

 ピアノは、幼児ではなく、学生時代から始めた上、独学でしたから全く上達しません。35歳を過ぎてから、先生について習いました。それまで主にビートルズの曲でしたが、今度はクラシックです。ソナチネから始め、モーツァルトの「トルコ行進曲」とかバッハの「インヴェンション第1番」など弾けるようになりましたが、ショパンやリストやドビュッシーともなると、#と♭があまりにも多くて(笑)、全くお手上げ。先生のところには2~3年通ったでしょうか、途中で挫折してしまいました。先生も家庭内の愚痴が多く、あまり情熱がなかったので、少し醒めてしまいました。

 となると、私の家には鬼が棲んでいますから、いつの間にか、ピアノはなくなり、何冊もあった楽譜も消えてなくなってしまいました。

 あれから20年。ついに念願のピアノを再び手に入れたのです!

 しかし、年を取ったせいか、指が動かん!! 

 それでも、今は、楽譜がないので、ジョン・レノンの「イマジン」とか、サイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」とか、バッハの「インヴェンション」とかを一生懸命に思い出しながら弾いて遊んでおります(笑)。

 3万9700円の電子ピアノですが、デモ曲が入っていたり、「グランドピアノ」だけでなく、「ハープシコード」や「ビブラフォン」「オルガン」など音色も変えられたり、どういうわけかスマホのiPhoneに接続して、何か出来たりするようなのです。

 年を重ねると、もうロックはキツイので、これからは、何かジャズ風の曲を勝手に作って、遊ぼうかと思ってます。

 これで少しは気が晴れるのではないかと思っています。

【追記】2022.3.5

「明日に架ける橋」はもう少しで思い出せそうです(笑)。このピアノは、ポール・サイモンが弾いているかと思っていたら、ラリー・ネクテルという天才ミュージシャンだったことが分かったことを2016年11月25日付渓流斎ブログ「レッキング・クルーのいい仕事」に書いております。併せてお読みください。

 会ったことがない私の祖父髙田正喜は昭和19年9月に40歳の若さで病死しましたが、音楽教師でした。朝から晩までベートーヴェンのソナタなど毎日のように弾きまくっていて、祖母が「ご飯ですよ」と呼び掛けても、「うるさい」と言って聞かなかったそうです。

 ピアノは私ではなく、祖父が弾いているような気がします。

A four of fish に新たな解釈!=ビートルズ「ペニー・レイン」の歌詞

 時間が経つのがあまりにも速すぎます。60歳の1年は、20歳の頃の1年の3倍速く幾何学級数的に過ぎ去っていくと聞いてはいましたが、3倍どころか、30倍速く経過する気がします。

 昨日は2月26日。「キング・カズ」の誕生日かもしれませんが、やはり「2・26事件」の日でしょう。昭和11年(1936年)の事件ですから、もうあれから86年も経ったのです。先日、過去に放送された「NHK特集」の「2・26事件」を再放送していましたが、これが、何と1979年に放送されたものでした。今から43年前に放送されたものです。1979年の43年前は1936年ですから、ちょうど中間点になるのです。

 私からすれば、1979年は結構最近ですが、1936年は生まれていないので遠い歴史の彼方の出来事だと思っていましたが、なあんだ、つい最近と言えば最近だったのです。その通り、1979年の時点では、事件当時の生き残りの方が多くいらして証言されていました。反乱青年将校を説得した上官の奥さんとかでしたが、一番驚いたのは、東京裁判でA級戦犯となった鈴木貞一(陸軍中将・企画院総裁、1888~1989年)が当時健在で、山下奉文らと一緒に反乱軍鎮圧のための策を練ったり、説得したりしたことを証言していました。彼は100歳の長寿を全うしたので、当時91歳。千葉県成田市に隠遁していましたが、とても矍鑠していて肉声まで聴けたことで大いに感動してしまいました。

銀座・ドイツ料理店「ローマイヤー」本日のランチ(鱈のムニエル)珈琲付1100円

 さて、渓流斎ブログ2022年2月25日付「『ペニー・レイン』のA four of fishの意味が分かった!=ポール・マッカートニー『The Lyrics : 1956 to the Present』」で書いた通り、一件落着かと思っていたら、「英語博士」の刀根先生から、新たな解釈のご提案がありました。

 「ペニー・レイン」の a four of は、4人のグループのことでしょう。fish は『新入り』とか『その場に不馴れな者』『餌食』。そういう女の子たちが頻繁にやって来る。『4人』は無論ビートルズの面々に対応しての4人。fishがfish and chips を表しているというより、chipsの代わりにpies を置いている言葉遊び。言うまでもなくジョン・レノンのひらめきでしょう。in summer はどうなんでしょう。開放的で放埒だった女の子(4人が一組の)や自分等4人のその頃の姿、振る舞い…そこに力点があるような…自分はそんなふうに受けとめています。

 fish and chips がどこまでも安直な食べ物であったように、その頃の自分たち4人と女の子たち(の交渉)=fish and finger pies が一種安直であったように思えます。

 ひょっええー、全く想像もしなかった解釈でした。finger pies がリヴァプールのスラングで、「女の子とのペッティング」を意味するとしたら、十分にあり得ます。

 ただ一つ、難点があるのは、この曲がポールの子ども時代の回想だったとすると、まだ4人のグループは出来ていなかったことです。ジョンとジョージは幼馴染ですが、リンゴとはセミプロになった1960年ぐらいからの知り合いですから。

 恐らく、fish and finger pies は食べ物であることは確かでしょうが、歌詞ですから、二重の意味が込められていることでしょう。となると、four が「4人」なのか、それとも「4ペンス分」なのか解釈が別れます。前回書きましたが、4ペンス=17円ではあまりにも安過ぎるので、「4人分」と解釈する可能性も否定できません。

 ポールさん、どっちが本当か教えてください。

4人が影響受けたワールド・ミュージック=北中正和著「ビートルズ」

 私は自他ともに認めるビートルズ・フリークなので、「ビートルズに関して知らないことはない」とまで自負しておりましたが、最近話題の北中正和著「ビートルズ」(新潮新書、2021年9月20日初版)を読んで、そのあまりにものマニアックぶりには脱帽してしまいました。

 著者の北中氏は、著名な音楽評論家で、御本人はこういう言い方されると困るかもしれませんが「ワールド・ミュージックの大家」です。実は、この大家さんとは、個人的によく知っている方で、取材でお世話になったり、酒席で何度も同席させて頂いたりしております。ですから、北中氏というより、普段通り、北中さんと呼ばさせて頂きます。

 著者を知っていると、この本を読むと、北中さんの声や身振りが聞こえたり、思い浮かんだりします。博覧強記とも言うべき北中さんのワールド・ミュージックに関する博学な知識をこれでもか、これでもか、といった具合で披露してくれます。(ただし、御本人は「押し」が強い性格ではなく、真逆の静かで穏やかな方です)

 ということで、この本では、ビートルズを語っているようで、ビートルズを語っていないような、ビートルズの4人が影響を受けた世界の音楽の歴史を語った本と言えるかもしれません。まさに、北中さんの真骨頂です。4人が最も影響を受けた音楽は、エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードらのロックン・ロールであることは確かなのですが、そんな単純なものではありません。彼らの親の世代が聴いていたジャズを始め、カントリー、ブルース、フォーク、スキッフル、彼らのルーツであるアイルランド民謡、R&B、ラテン、はたまたキューバのソンやジャマイカのスカ、そして、ラヴィ・シャンカールを通してのインド音楽やシュトックハウゼンらの現代音楽まで取り入れていたのです。

 つまり、ビートルズはロック一辺倒ではなく、例えば、「ハニーパイ」などは1930年代のジャズ風ですし、「オブラディオブラダ」はスカのリズムの影響を受けて導入しています。(今流行りのラップは、ジョン・レノンの「平和を我等に」が魁になったと私は思っています)

 私もビートルズ・フリークを自称しているので、ある程度のことは既に知っておりましたが、例えば、ビートルズがハンブルク時代にトニー・シェリダンのバックバンドとして最初にレコーディングした「マイ・ボニー」が、英国の17世紀の名誉革命後の王権争いの伝説が元になっていたことまでは、流石に知りませんでしたね。

 驚いたことは、BBCテレビ放送の「マジカル・ミステリー・ツアー」の中で、リンゴの音頭で観光バスの中で老若男女の乗客が一緒に歌ったり、ハミングしたりする場面があります。「分かる範囲でその曲名を挙げておくと『アイヴ・ガット・ア・ラヴリー・バンチ・オブ・ココナッツ』『トゥ・トゥ・トゥツィ』「アイルランド娘が微笑めば』『レッド・レッド・ロビン』『日曜日はダメよ』『地獄のギャロップ』などで、ロック系の局がひとつも含まれていないことに注目してください」(111頁)とまで北中さんは飄々と書くのです。今は、DVDなどがあるので、ゆっくり確かめることができますが、こんなところまで注目する著者のマニアックぶりには恐れをなすほどです(笑)。

 いやあ、題名を言われてもほとんど知らない曲ばかりですね。でも、今は大変恵まれた世の中になったもので、ユーチューブなどで検索すれば、「ああ、あの曲だったのかあ」と分かります。恐らく、この本では、皆さんも知らない曲が沢山出てくると思いますが、ユーチューブを参照しながら読む手があります(笑)。

「モヤモヤさまぁ~ず」が3回も訪れた東京・王子「カレーハウス じゃんご」(ロースカツカレー 950円 ルーも御飯も超極少でした)

 最近、画家の生涯やモデル、時代背景などをマニアックに解説した「名画の見方」のような本がよく売れているようです。そういった意味で、この本も一風変わった「ビートルズの聴き方」の教則本になるのかもしれません。知識があるのとないのとでは、格段の違いです。

 ビートルズは解散して半世紀以上も経つというのに、いまだに聴かれ続け、ラジオ番組でも特集が組まれたり、関連本も世界各国で出され続けています。そろそろ、もうないのではないかと思われたのに、北中さんの本はやはり異彩を放っており、逆に、半世紀経たないと書けない本だったかもしれません。

 話は飛びますが、業界と癒着する評論家が多い中、北中さんは、そんな人たちとは一線を画し、操觚者から見ても、見事にクリーンで清廉潔白な音楽評論家です。京大卒の学究肌だからかもしれません。

 ビートルズ・フリークの私が脱帽するぐらいの内容です(笑)。勝手ながら「年長の友人」と思っている北中さんの書いたこの本を多くの人に読んでもらいたいと思っております。

 あ、書き忘れました。この本を企画した新潮新書の編集者安河内雄太さんは、「年下の友人」でした(爆笑)。

我がオーディオ遍歴記

 随分、大層なタイトルを付けてしまいましたが、私の世代ほど、オーディオ機器の変遷に翻弄された世代はないと思われます。

 まず、1960年代初頭、私が幼稚園の頃、家にあったレコードはSP盤でした。とても、堅いながら、落とすとパリンとすぐ割れてしまう代物でした。多分、父親のコレクションで、クラシックやジャズもあったかもしれませんが、私が覚えているのは何枚かの童謡でした。それほど聴いたわけではなく、何しろ、どんなSPプレーヤーだったか覚えていません。

 私が小学生の2年生ぐらいの頃になると、いわゆるLP、EP、シングル盤が聴けるポータブルのプレーヤーが家に入って来ました。兄が中学生だったので、主に兄が使っていたのかもしれません。

 覚えているのは、この上の写真のEPです。シングル盤は45回転で、A面、B面の2曲しか入っていませんが、EP盤はLPと同じ33回転で4曲も入っています。上の写真のEP盤はビートルズのLP「ラバーソウル」から編集されたものであることは今ではすぐ分かるので、1965年に発売されたと思われます。となると、小学校3年生の時でした。このEPは中学生だった兄が友人から借りてきたものだったので、2週間ぐらいで家からなくなりましたが、ビートルズといえば、激しくてうるさいロックだと思っていたら、こんな優しいバラードもあるのか、と子どもながら驚いたことを覚えています。

 小学生ながら、すっかり洋楽づいてしまい、文化放送の確か、ひがさ缶詰提供の「ポップスベスト10」などを聴いて育ちましたので、新曲を出せば1位になっていたビートルズ(「イエローサブマリン」辺りから=1966年)やローリングストーンズ(「シーズ・ア・レインボウ」辺りから=66年)などを覚えました。初めてレコードを買ったのは小学校4年生の時で、ビージーズの「ジョーク」という曲のシングル盤400円でした。その頃、父親がオープンリールのテープレコーダーを買いましたが、特に音楽を録音したわけでもなく、伯父さんが遊びにきたとき、唄を歌ったり会話したりしたものを録音したものでした。そのテープもレコーダーも今はなくなりましたが。

 LP盤を初めて買ってもらったのが1969年のビートルズの「アビイロード」でした。その時に、父親が初めてソニーのインテグラというステレオを買ったからでした。

 とにかく、中学高校生になるとお小遣いでビートルズのLPを買い集めました。カセットテープレコーダーもその頃に初めて買ったのでしょうが、その後何度も買い換えたので、いつ頃初めて買ったのかも覚えていません。

 1970年代、大学生になると、アルバイトでステレオのコンポーネントを買い揃えました。アンプはヤマハが良いだの、オンキョーが良いだの、スピーカーはデンオンが良いだの、と友人と競って買い揃えました。まだ、LPとカセットの時代で、我々はウオークマンの第1世代でした。

 日本で初めてCDが発売されたのが1983年ということですから、既に社会人になっておりました。初めてCDを買ったのは何だったのか覚えていませんが、LPで持っていたレコードは全てCDに買い換え、持っていたLPは二束三文で中古屋さんに売ってしまいました。80枚ぐらいで9000円ぐらいでしたから惜しいことをしました。

 MDが初めて発売されたのが1992年ということですが、これまた初めて買ったのはいつだったのか覚えていません。ラジカセも何回か買い換えましたが、カセットテープは、しばらくするとテープが伸びて音が聴けなくなったりするので、これまた持っていたカセットは処分して、全てMDプレーヤーに録音し直したりしました。

 30代は主にモーツァルトなどのクラシック、40代はビル・エバンスなどのジャズにはまり、50代以降はボサノヴァなど千差万別聴くようになりましたが、60代になると、次第に音楽はあまり聴かなくなりました。20代は一日16時間ぐらい聴いてましたが、今では一日30分ぐらいでしょうか。

◇今でも誰よりもMDを愛す

 さて、ここからが本題です(笑)。実は今でも語学講座の録音などでMD使い続けているのです、現在は、ネット上での音楽鑑賞が中心になり、録音する際は、フラッシュメモリーとかUSBとかハードディスクとか色々あるようですが、私はMDで止まってしまい、新しいものにはあまり付いていけなくなってしまったからです。

 レコードはSPから始まり、LPとなりCDを経験し、録音は、オープンリールからカセットテープになり、MDへと激動の時代を潜り抜け、もう疲れました(笑)。

ケンウッドのMDパーソナル・ステレオシステムMDXーL1

 実は、長年、語学録音などに使っていたMDプレーヤー(CDプレーヤーとラジオ付き)の調子が最近悪くなってしまい、何か、新しいものにしようかと思ったのですが、私が昔買ったものと全く同じものが通販で売っていたので、今回買うことにしたのです。ケンウッドのMDパーソナル・ステレオシステムMDXーL1という代物です。中古ながら2万5980円もしました。よく見たら「2009年製」とありました。ネット上で説明済でしたが、AMのアンテナが付いてなく、保証書も説明書もなく何か危ない(笑)。それに、楽天で買ったのに、何と古いアマゾンの段ボールに入れて送って来ましたよ(笑)。

 私が同機種を買ったのは「2006年製」で、領収書が出てきたので見たら、2万4800円でした。何だ! 中古品なのに、買った時のモノよりも高くなっているとは! まあ、経済は、需要と供給の世界ですから、高くても買う馬鹿がいるわけですねえ(笑)。この機種は、2006年に買ってから3年後の2009年に2回、CDの再生不可とMD録音の不調で修理に出して、合計9222円の修理代を取られていますが、それ以降1回も壊れていませんでした。まあ、15年間も長い間、よく頑張ってくれました!

 となると、新しく買ったこの中古品も2009年製ですから、あと3年ぐらい持ってくれればいいという感じかもしれません。修理に出しても、生産はとっくに終わって、部品もないことでしょうから。

 でも、3年後にこの中古品が壊れたら、今度はどうしましょうか。

 語学学習なんてもうやめてしまうか、専用のラジオ録音機器を買うか…。そして、CDを聴く専用のプレーヤーを買うしかないかもしれませんね。

 何しろ、今の人は、音楽なんて、ダウンロードして自分のスマホで聴くのが主流で、何そのCDって? LPって何ですか? SPって化石かアンモナイトみたいなもんでしょう?と言われることでしょう。

ビートルズ「ペニー・レイン」にはエッチな歌詞も?

 銀座「大海」 大分鳥てん定食 880円

◇「世界ふれあい街歩き」

 NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組は、とっても面白い番組なので結構見ています。歩く旅人の目線になるよう特殊なカメラで撮影してくれるので、自分もその街に実際に行った気分になれます。コロナ禍で海外旅行に行けない今、ピッタリの番組ではないかと思います。

 先月は、英国のリヴァプールをやっていました。リヴァプールと言えば、ビートルズの故郷です。見逃すわけにはいきませんでした。この他、リヴァプールはサッカーの聖地でもあり、リヴァプールFCとエヴァートンFCと、二つもプレミアリーグ所属の強豪チームがあり、前者はRED(赤)、後者はBLUE(青)と、ユニフォーム・カラーの俗称で呼ばれ、街中でも”Red or Blue?” お前はどっちのファンなんだ?といった会話が交わされることもやってました。

本文と全く合っていない!(笑) ビートルズの写真にしたいのですが、他の多くの人のような著作権の違反はできませんからね(皮肉)

 そして、ビートルズでした。私が好きな彼らの曲の中でベスト5に入る曲に「ペニー・レイン」があります。リヴァプールにある通りの名前で、ジョン・レノンが少年時代に住んでいたメンローヴ・アヴェニューの家から近い所にあります。私も、リヴァプールには2度ほど訪れているので、勿論、ペニー・レインにも行ったことがあります。(ジョン・レノン自身は、労働者階級を強調していましたが、ジョンが住んだ家は中産階級が住むような住宅で、日本で言えば高級住宅街ですよ)

 番組の中でもペニー・レインは取り上げられ、そこで「出演」した市民が、「歌詞にはリヴァプール人しか分からない言葉が出てくるんだよ」と意味深なことを言っていたので、気になっていました(番組ではその答えを教えてくれませんでした)

◇奇妙な歌詞「ペニー・レイン」

 そこで、調べてみました。私も高校時代から訳してみたりしましたが、どうしても分からない単語が出てきました。例えば、Mack は、今でこそ、アップルのコンピュータか、マクドナルドかな、と想像してしまいますが、これはMackintosh のことで、Mack といえば、マッキントッシュのレインコートのことでした。当時の辞書には載っていなかったので、これが分かった時は目から鱗が落ちました。

 もう一つは、 roundabout で、これも当時の辞書にはなく、今では「ロータリー」だということがすぐ分かります。Behind the shelter in the middle of a roundabout となると、ロータリーの真ん中にある待合所ということになり、「世界ふれあい街歩き」のHPのサイトにはその写真が載っています。

 とにかく「ペニー・レイン」は奇妙な歌詞です。リヴァプール人しか分からないスラングとは、多分、 Full of fish and finger pies in summer 辺りだと思われます。ネットのサイトの中にはFour of fish and finger pies と表記して翻訳しているものがあり、このFour とは「4ペニー分の」という意味だと解説しているものもありましたが、私は一応、Full ofとします。

 直訳すると、「夏のたくさんの魚とフィンガーパイ」で、何のことかよく分かりません。それが、色んなサイトを読むと、fish とは、あの英国の定番食のフィッシュ・アンド・チップスのことであるらしい。そして、肝心なのが、finger piesで、これはリヴァプール人しか分からない俗語らしく、食べ物ではなく、女の子のprivate part を愛撫すること、または、万引きすること、なんてのもありました。これでは、米国人でも分からないでしょうね。

 でも、今はネットが発達してとても便利ですね。この曲は、メインヴォーカルのポール・マッカートニーが作詞作曲したと思われますが、ジョンも少し手伝っているかもしれません。さっきの問題個所のFull of fish and finger pies in summer ですが、Full of fish and finger piesまでは、ジョンとポール(そしてジョージも?)がコーラスでハモってますが、 in summer はジョンだけの声に私は聴こえます。「あの夏にやっちゃったんだよ」という雰囲気がよく出ています(笑)。そんな名曲を作ったポールは当時、24歳か25歳。ジョンは26歳か27歳の若さです。

◇「ノルウェーの森」は「ノルウェー製家具」

 昔はとんでもない、誤訳が多かったものです。以前にもこのブログで書いたことがありますが、例えば、ビートルズのNorwegian woodは「ノルウェーの森」と訳されてましたが、本来なら「ノルウェー製の家具」が正しい。ジョン・レノンのCold Turkey は、「冷たい七面鳥」のタイトルでシングルが発売されましたが、これは、麻薬の禁断症状のことで、今では大変な誤訳だったことが分かります。

 「ペニー・レイン」は1967年発売。私は当時小学生でしたが、ラジオで同時代で聴いてました。(その後、レコード、CDを買い、何百回聴いたことか!)でも、歌詞の意味が分かったのは、やっと54年も経ってからでした(笑)。

【関連記事】

2022年2月27日付「A four of fish に新たな解釈!=ビートルズ『ペニー・レイン』の歌詞」も合わせてお読みください。

スウイング感に痺れました=エラ・フィッツジェラルド「エラ ~ザ・ロスト・ベルリン・テープ」

 久しぶりに、本当に久しぶりにCDレコードを買いました。

 20世紀最高の女性ジャズ・ヴォーカリストの一人と言われるエラ・フィッツジェラルド(1917~96)の「エラ ~ザ・ロスト・ベルリン・テープ」(ユニバーサル)です。

 「最高の一人」という言い方も変なのですが、「女王は、ビリー・ホリデイだ」「いや、サラ・ヴォーンでしょう」という人がいるからです。あとは好みの問題でしょう。

 このアルバムは、音楽プロデューサーで、「ヴァーヴ」などのジャズレーベルを創設したノーマン・グランツ(1918~2001)がプライベート・コレクションとして保管していた未公開ライヴ・テープをCD化したものです。テープは最近になって発見されたそうです。これは1962年にベルリンで録音されたライヴ音源で、私も先日、FMラジオで初めて聴いて、すっかり魅せられてしまい、久しぶりにレコード店に足を運んだわけです。

 エラのベルリン・ライヴといえば、1960年に録音された有名な「マック・ザ・ナイフ~エラ・イン・ベルリン」があり、これはグラミー賞受賞した名盤です。

 でも、はっきり言って、同じベルリン・ライヴでも、私自身は、こっちの62年録音の「ザ・ロスト・ベルリン・テープ」の方が好きですね。

  スウイング(ノリ)感が全然違います。特に、60年盤でタイトルにもなって有名になった「マック・ザ・ナイフ」は、62年盤では脂の乗り切ったといいますか、少女のような可憐さとベテランの熟練さを合わせ持ったようなヴォーカルです。途中で、乗りに乗ってサッチモ(ルイ・アームストロング)の真似もしています。調べてみたら、この時彼女は45歳だったんですね。

山野楽器の入り口は狭くなりました

 60年盤はギターも入ってますが、62年盤は、ポール・スミスのピアノ、ウィルフレッド・ミドルブルックスのベース、スタン・リーヴィーのドラムスのトリオ。わずか3人なのに、オーケストラのような厚みのある音色を奏でるのです。特に、エラのお気に入りのスミスのピアノは、ピカ一ですね。音楽理論に詳しくないのですが、ジャズ・ヴォーカルのピアノ演奏は、クラシックともロックとも違い、独特というか、異様です。不協和音に近い独特の度数の兼ね合いで、さすがプロ、よくぞ、音程を外さないで唄えるものでした。勿論、この微妙な不協音が、聴く者に心地良い緊張感も与えてくれます。

 1962年といえば、ちょうどビートルズがデビューした年です。エラの「ザ・ロスト・ベルリン・テープ」には「ハレルヤ・アイ・ラブ・ヒム・ソー」も収録されていました。この曲は、1957年のレイ・チャールズのヒット曲ですが、デビュー前のビートルズがドイツのハンブルクで演奏していた曲だったので、「おー、あの曲だあ」と思ってしまいました。

 今はネットで情報が沢山入ってきます。調べてみると、エラの生涯も子どもの頃に孤児院に入れられたり、早く親を亡くしたり、幸せな環境で生育したとはいえませんでした。二度の離婚経験もありました。孤児などという境遇はフランス・シャンソンの女王エディット・ピアフに似ていますね。ジョン・レノンも子どもの頃に両親に「捨てられた」というトラウマが大人になってもなくなりませんでした。歴史に残る大スターに共通しているので、子どもの頃の不幸は、スーパースターになる条件にさえ思えてきてしまいました。

 このCDを買ったのは、東京・銀座の山野楽器です。半年ぐらい、ビルを改装していましたが、新装開店したこの店に入って吃驚です。2階を中心に、大手携帯電話会社のショップが入居し、CDレコードは4階に追いやられていました。

 しかも、演歌もロックもクラシックもジャズも同じフロアです。以前は、地下にDVDがあり、1階はJ-POPSや演歌、2階は確か(笑)クラシック、3階は確か(笑)ジャズと別れていたのに、凄い縮小ぶりです。

携帯電話ショップになってしまった山野楽器

 つまりは、皆、CDを買わなくなっちゃったということなんでしょうね。今、ネットでユーチューブもあれば、スポッティファイもあり、わざわざお金を出さなくてもタダで音楽は見たり聴いたりできちゃいますからね。

 それに、少子高齢化でピアノを始め、楽器を買う家庭も少なくなってしまったのかもしれません。

 小生は14年前に、この山野楽器で思い切って、目の玉が飛び出るほど高いフォークギター「マーチンD-28」を買ったことがあります。このギターは、ビートルズのプロモーションビデオの「ハローグッドバイ」でジョン・レノンが弾き、映画「レット・イット・ビー」の中では、ポール・マッカートニーがこのマーチンで「トゥ・オブ・アス」を唄っていました。

 山野楽器のギターショップも縮小されたでしょうが、何か哀しくて、そこまで行けませんでした。

1970年の「レット・イット・ビー」から半世紀も経つとは…

 YouTubeで「うちで踊ろう」を公開したミュージシャン星野源のサイトに、日本の最高指導者の安倍晋三首相がコラボ投稿して、自宅自粛要請を呼び掛けたことに対して、喧々諤々の論争になっています。

 安倍首相は自宅の居間で、愛犬とじゃれたり、珈琲を飲んだりしてくつろいでいるブルジョワ生活をあからさまにしてしまったせいか、派遣切りに遭った人とか、店舗休業を余儀なくされたりした人たちから、「何を呑気なことやってるんだ。そんな暇があったら、休業補償の問題を即刻解決してもらいたい」といった切実な投稿のほか、「国会議員ら特権階級は減給されることなく満額振り込まれるから羨ましい」といった皮肉な意見が殺到したようです。

 安倍さんに期待し過ぎるからいけないんですね。モリカケ問題をあやふやにし、財務省の現場職員が自殺してもまるで他人事。公金の私的流用の疑いが濃厚な「桜を見る会」を結局、なかったことにした安倍さんですからね。最初から、そういう人だと肝に銘じていれば、「裏切られた」なんて思わないはずです。

 それより、この星野源のサイトを、先週8日に逸早く教えてくれたのが、高校時代のバンド仲間の神林君でした。そんな政治的な話ではなく、全く音楽的な話で、曲のコードが普通のメジャー、マイナーではないので、「あの変なコードをコピーできるかい?」と投げかけてきたのでした。我々が、バンドをやっていた初期の頃、ロックの楽譜などほとんど発売されていなかったので、レコードが擦り切れるほど何回も何百回も聴いて、音を取ったものでした。その点、彼には「絶対音階」があるので、仲間が驚愕するほど簡単にコピーしてしまうのでした。

 ということで、早速聴いてみたら、その「うちで踊ろう」は、ボサノヴァ風と言えばボサノヴァ風で、バリバリにブルーノートとかマイナーペンタトニックのようなジャズコードをふんだんに使っていました。記号で書けば、例えば、CとかCmとかではなく、C7(♭9,13)といった複雑なコードです(笑)。

 ギター片手にそんなことをしていたら、久しぶりに自分の音楽遍歴を思い出してしまいました。全く個人的などうしようもない話ですから、ご興味のない方は、ここで左様なら(笑)。

◇◇◇

 ざっくり言いますと、子どもの頃は歌謡曲や演歌なども聴いてましたが、10代の多感な時代に入ると俄然、ロックです。それが20代まで続きます。ビートルズ(解散後のソロも含めて)、ローリングストーンズ、レッド・ツェッペリン、クイーン、エリック・クラプトンなどはほぼ全てのアルバムを買い揃えました。

 30代に入ると、一変してクラシック音楽オンリーです。特に、モーツァルトのCD全集を40万円ぐらいかけて買い揃えたほか、グレン・グールドにはまってからバッハ、ベートーベン、ブラームス(交響曲第1番は10種類近く)を中心に聴き、ショパンもルビンシュタインによる全集、ポリーニ、ホロヴィッツ、ポゴレリッチ、キーシン、ブーニンらの演奏に耳を傾けました。ドビュッシーは卒論のテーマだったので、改めて、偏屈なミケランジェリのピアノに惚れ、歌劇「ペリアスとメリザンド」まで買い、そして何と言っても、のめり込んだのが20代の時に最も感激したワグナーです。フルトベングラーよりもクレンペラーが好きでしたね。当時ブームだったマーラーもチャイコフスキーもスメタナも堪能し、バルトーク、ストランビンスキー、シェーンベルク辺りまではカバーしました。現代音楽はグバイドーリア、アルボ・ペルトらも聴きましたが、苦手でしたね。武満徹は例外ですが。

 40代になると、今度はジャズです。若い頃は「爺の音楽」として敬遠していましたが、もしかしたら、今は、ロックやクラシックよりも一番リラックスできて好きかもしれません。グレン・ミラーやベニー・グッドマンなんかは既に聴いてましたが、ジャズにはまったきっかけは、ビル・エヴァンスでした。彼のアルバムをほとんど買い占めて、セロニアス・モンク、バド・パウエル、ウィントン・ケリー、トミー・フラナガン、オスカー・ピーターソン、ジョージ・シアリングなどピアノばかし聴いてました。ラッパは、チャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、アート・ペッパーら王道ばかりでしたが、オーネット・コールマンと晩年のマイルスあたりの前衛的になるとついていけなくなりました。

 ウエス・モンゴメリーにはまってからは、ジャズは好んでギターばかりです。ハーブ・エリス、バーニー・ケッセル、ケニー・バレル、タル・ファローらがお気に入りで今でも聴いてます。ヴォーカルは、ヘレン・メリルを端緒に、やはり、ビリー・ホリデイ、ナット・キング・コール、エラ・フィッツジェラルドの正統派でしょうが、以前にブログで書いた通り、ジュリー・ロンドンはしびれますね(笑)。

 50代になると、主にボサノヴァが中心で、シャンソンやカンツォーネもよく聴くようになりました。ボサノヴァのアントニオ・カルロス・ジョビンはレノン・マッカートニーに引けを取らない20世紀が生んだ世界最高の作曲家だと思ってます。シャンソンは、何と言ってもセルジュ・ゲンズブールです。エディット・ピアフもシャルル・トロネもいいですが、フランソワーズ・アルディ、シルビー・バルタン、イブ・モンタンというミーハー志向。カンツォーネはジリオラ・チンクエッティと極めてオーソドックスなポップスですが好んで聴きました。

◇「14歳の法則」を発見

 今は、昔のCDを引っ張り出して色んなジャンルの曲を聴いています。正直、今流行のラップにはついていけません。分かったことは、人間は、14歳の時に聴いた音楽がその後の人生を決定づけることでした。大袈裟な言い方ですが、人生で最も多感な14歳前後に聴いた音楽が、その人の「懐メロ」になるということです。14歳と言えば中学生ですから、お小遣いも少なく、そんなにレコードなんて買えません。私の場合は、「ミュージック・ライフ」などの音楽雑誌を買って、レコードのジャケット写真を何度も何度も穴があくほど眺めて「欲しいなあ、お金があったらなあ」と思っていました。それが、長じて金銭的に余裕ができると、その反動で、昔買えなかったCDレコードを次々と買い集めることになってしまったのです。

 個人的ながら、私の場合は、写真でアップした通り、S&G「明日に架ける橋」、サンタナ「天の守護神」、CSN&N「デジャ・ヴ」、CCR「コスモズ・ファクトリー」、EL&P「展覧会の絵」、フェイセズ「馬の耳に念仏」、ジャニス・ジョプリン「パール」などです。いずれも1970年か71年に発売されたものだったことが後になって分かり、この「14歳の法則」を新発見したのです(大袈裟ですが、商標登録申請中=冗談です)。記憶していた耳が自然と当時流行った音楽を求めたのでしょう。嗚呼、当時聴いていたシカゴ、BS&T、チェイス、クリスティー、カーリー・サイモン、ジェームズ・テーラー、カーペンターズなんかも本当に懐かしい。

 1970年は、4月にビートルズか解散し、最後のLP「レット・イット・ビー」が発売され、映画も公開された年でした。私は、朝早くから夜遅くまで、3本も4本も、この同じ映画「レット・イット・ビー」を新宿の武蔵野館で何回も見続けたものでした。当時は、入れ替え制ではありませんでしたからね。よく飽きなかったものです(笑)。

 あれから半世紀もの年月が過ぎてしまったとは、とても信じられません。振り返ると、邦楽はほとんど聴かず、洋楽ばかり聴いていたことになります。

 この私が発見した「14歳の法則」、きっと貴方にも当てはまると思いますよ!

「アビイ・ロード」の証拠写真=40年前の若き私

1979年7月19日(木) ロンドン

この横断歩道を渡っている青年は、40年前の私です。

単なる横断歩道ではありませんよ。ビートルズの4人が歩いたロンドンのアビイ・ロードです。

1979年7月19日(木) ロンドン

 昨日は、ビートルズがレコーディングとして使った「EMIスタジオ」と書きましたが、写真で見ると、「EMI アビイ・ロード・スタジオ」でしたね。

 ビートルズが解散して10年も経っていなかったのですが、世界中から観光客が押し寄せるほどでもなかったでした。

 確か、一部のマニアを除いて、ビートルズ人気は下火でした。

1979年7月19日(木) ロンドン

 はい、証拠写真です。

 押し入れの奥からアルバム写真を見つけて引っ張り出してきました。

 右隣は、同じツアーだった久保君だったと思いますが、何しろ40年も昔のことで忘れてしまいました。この写真を写してから一度も会っていません。

1979年7月19日(木) ロンドン

これは、ロンドンのリージェントパーク近くのポール・マッカートニーの邸宅の門前です。修繕工事をしていました。

こうして、外国人観光客が勝手に近くで写真を撮れた時代でしたね(笑)。

1979年7月20日(金) ロンドンのホステル「インターナショナル学生センター」1泊2300円

 大学4年の夏休みに1カ月間、欧州を旅行しましたが、結局、一緒に写っている今村哲郎君がずっと付き合ってくれました。

 先程のアビイ・ロードの写真を始め、私が写っている写真は、ほとんど彼が撮影してくれました。

1979年7月22日(日) リヴァプール ジョン・レノンが住んでいた家 

 ビートルズの生誕地リヴァプールにも行き、ジョン・レノンが少年時代にミミ伯母さんと住んでいた自宅にも行きました。勿論、当時は別の人が住んでいたのですが、「せっかく来たんだから」と、呼び鈴を鳴らして、住人に話を聞いてしまいました。

 奥さんは「今は(ジョンは)ここにいませんよ。13年前に引っ越しました」と困り顔でした。

 今はそんな勇気はありませんけど。

 13年前というと1966年のこと。また、1979年のこの時はまだジョン・レノンは生きていたんだ!

1979年8月7日(火) ローマ 左からサンティーナ、イザベーラ、ドナテーラさん

 わが生涯、人生で一番、もてた時でした。

 こんな写真を公開するなんて、我ながらかなりの露出狂です(笑)。

 もう40年も大昔なので、今は全く面影もなく、「別人28号」ですから、写っている人も他人みたいなもんです。

 アルバム写真も、本人が死ねばゴミとして捨てられ、永遠に消え去るわけですから、「ま、いっか」てな感じですよ(笑)。

「アビイ・ロード」50周年記念盤に関する私的考察

 僕が生まれて初めて買ったLPレコードは、ビートルズの「アビイ・ロード」です。今からちょうど50年前の1969年10月21日。今はなき、東京郊外のひばりが丘の「ひばり堂」というレコード店でした。価格は2500円、だったと思います。

 今の価格では5000円ぐらいの感覚です。まだティーンエージャーだった僕にとって、2500円はかなり高額。お小遣いを貯めていたか、父親に買ってもらったか忘れましたが、後者の可能性が高い。当時、我が家では、初めてのセパレート・ステレオ、ソニーのインテグラを買ったばかりで、レコード収集に勤しんでおりました。当時、庶民にとって高嶺の花だったこのステレオ機器は、安月給の父親が、近くの「十一屋」という漬物屋工場で、重い樽運びをするアルバイトして買ったもので、過労で倒れて救急車で運ばれたことを覚えています。

 まあ、そんな個人的な思い出は置いといて、その「アビイ・ロード」の「50周年記念エディッション」CD(2枚組=3960円)が発売されたということで、やっと昨日、東京・銀座の山野楽器で買って来ました。LPレコードは、何万、何十万回も擦り切れるほど聴いて、針が飛んでしまうほどになったので、とうの昔に処分してしまいました。1987年に発売されたCDは当然持っていましたが、2枚組の50周年記念盤にはマニア向けのトラックが収録されているので、フリークとしては買わないわけにはいきません(笑)。

 今さらの話ではありますが、アルバムのタイトルになった「アビイ・ロード」は、ロンドンにあるビートルズがレコーディングする「 EMIスタジオ 」の建物入り口前を走る道路で、4人が歩く横断歩道は世界的な観光名所になりました。私も若き頃、1979年8月にここを訪れ、写真を撮って来ました。写真が残っていたら、貼り付けましょう(笑)。(このアルバム・ジャケットから「ポール死亡説」が生まれましたが、長くなるので茲では触れません。)

ビートルズ「アビイ・ロード」

 LPレコードはA面とB面があり、A面には「カム・トゥゲザー」や「サムシング」(両方ともポールのベースラインが秀逸で、「サムシング」のリードはエリック・クラプトンが弾いているのではないか、と当初噂された)などシングルカットされた名曲ぞろい。B面は、クラシックのように、後半に前半のモチーフが再現されたり、カデンツァみたいな曲もあり、一日に何回聴いても飽きませんでした。高校時代からバンドを組み、この難しい「B面(コピー)をやろう」ということで、コピーのために、また何万回聴き直したか分かりません。

 それでいて、歌詞は何度聴いても理解できませんでした(苦笑)。特に「カム・トゥゲザー」は、ジョンが韻を踏むための単語を並べたせいか、今でもさっぱり分かりません。「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」の中に出てくるstep on the gas が「ガスの上に乗る」ではなく、「アクセルを踏む」ということ、「ミーン・ミスター・マスタード」に出てくるgo-getter が「やり手」という意味だと分かったのは、聴き始めてから30年以上経ってからでした。

  「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」 が終わって、「サン・キング」に入る直前に鈴虫が鳴く声のような音が聴こえます。アルバムを買ったばかりの時はちょうど秋だったので、外で本当に虫が鳴いていると錯覚した覚えがあります。

 「アビイ・ロード」にまつわる話となると、一晩かかってしまいますが、最後に付け加えておかなければならないのは、この「50周年エディッション」が49年252日ぶりに全英アルバムチャートで1位に復帰したというニュースです。(英国では1969年9月26日にリリースされ、アルバム・チャートでは17週連続で1位、米ビルボードのアルバム・チャートでは11週連続で1位を獲得)今では、音楽の聴き方がネット配信時代になり、レコードが売れなくなったとはいえ、信じられませんね。

 このCDのリーフレットによると、ビートルズの4人が勢ぞろいするのは、「アビイ・ロード」のマスター・テープ編集をするために行われた1969年8月20日夜のセッションが最後だったといいます。ビートルズは、翌1970年に解散し、アルバム「レット・イット・ビー」が発売されますが、このレコーディングは1969年1月に行われたものでした。事実上、「アビイ・ロード」がビートルズ最期のアルバムとなり、この時、ジョン・レノン28歳、ポール・マッカートニー27歳、ジョージ・ハリスン26歳、リンゴ・スター29歳という若さでした。髭を生やして随分お爺さんに見えましたが、まだ全員20代だったんですね。

 20代にして既に歴史の残る偉業を成し遂げた彼らは、まさに天才でした。

【後記】

 50周年記念盤をじっくり聴いてみましたが、駄目ですね。がっかりしました。

 ジョージ・マーチンの息子のジャイルズらがリミックスしてますが、昔のオリジナルを台無しにしています。特に、「ユー・ネヴァ・ギヴ・ミー・ユア・マネー」は、1969年発売のオリジナル盤では、ポールのヴォーカルが、右から中央、左へと移って行き、「ステレオ」としての醍醐味を感じたものでした。これは、何も手を入れていない1987年発売のCD盤でも踏襲されましたが、50周年記念盤では、ポールのヴォーカルを中央で固定してしまって、本当に興醒めです。また、無駄なリードとして音源を落としていたギターのフレーズを大きく復活して、余計な音に感じます。

 いやあ、もうこの50周年記念盤は、愛聴しないでしょう。ポールはともかく、ジョン・レノンがこんなリミックスを聴いたら、絶対怒るでしょう。

ジョン・レノンの靴が有名なテニス・シューズだったとは!

 皆様、御案内の通り、小生はビートルズ・フリーク、特にジョン・レノンのファンなのですが、先日の読売新聞夕刊に出ていたジョン・レノンの靴の話は、知らなかったので、とても興奮して読んでしまいました。

 ビートルズ最後の録音アルバム「アビイ・ロード」は、世界で最も有名なジャケットの一つです。英ロンドンのアビイ・ロード・EMIスタジオの前の横断歩道をビートルズの4人が歩いているカットです。あたしも若い頃、わざわざ現場に行って横断歩道を歩きました(笑)。先頭のジョンは、純白の上下スーツに白いスニーカー(運動靴)。2番目のリンゴは、黒いスーツに黒い革靴。3番目のポールは、濃紺の上下スーツに裸足。4番目のジョージは、上下紺のデニムにクリーム色の靴というイデタチです。

 「アビイ・ロード」は、日本では1969年10月21日に発売されました。確か2500円。父親に買ってもらいました。あれから50年ですか…。もう半世紀も大昔になるとは!レコードですから、針で擦り切れるほど、ソニーのインテグラという当時発売されたばかりのコンポーネント・ステレオで何度も何度も飽きずに聴いたものです。

当時、「ポール死亡説」が流れ、このアルバムのジャケットでポールが裸足で、後ろに写っている車(VWビートル)のナンバーに「26IF」とあったことから、「もしポールが生きていたら26歳だった」とこじつけられたり、先頭のジョンは牧師、リンゴは会葬者、ジョージは墓堀人の象徴と言われたりしました。

今回は、その話ではなく、ジョンの白いスニーカーの話でした。この運動靴、ただの運動靴ではなく、フランス・パリで1936年に創業されたスプリング・コートというブランドの「G2クラシック・キャンバス」というテニス・シューズだったのです。宣伝文句によると、「シンプルなデザインで、バネのように跳ねる履き心地と機能」を持つそうな。

 テニスの四大トーナメントの一つ、全仏オープン(1891年スタート)はクレイコート(赤土)ですから、そのコートに合うように開発された靴でした。

 もちろん、ジョンはその履き心地の良さと機能性を知って買ったことでしょう。何となく嬉しくなってしまいました。

 インナーに特殊クッションがあり、靴底はラバー(ゴム)。1965年に発売されたビートルズの6枚目のアルバム「ラバー・ソウル」(「ミッシェル」「ガール」など収録)は、「ゴムのようなソウル・ミュージック」rubber soulと、「ゴム底靴」rubber soleを掛けたタイトルでしたから、ジョンはもうその頃からこの靴を愛用していたかもしれない、というのは考え過ぎなんでしょうね(笑)。

 1969年1月30日のいわゆる「ルーフ・バルコニー・セッション」(映画「レット・イット・ビー」で公開)でも、ジョンは白っぽいスニーカーを履いておりますが、これもスプリング・コートだったのかどうかは不明です。

ちなみに、日本では2015年からカメイ・プロアクトが総代理店契約を結んでいるそうで、価格は1万800円ぐらいで販売されているようです。いや、別に宣伝するために書いたわけではなく、この会社をよく知っていたので驚いてしまったからです。私の親族が一昨年、この会社に入社しましたが、理由があって、1年も経たないうちに辞めてしまったのです。銀座にも直営店舗があるので見に行ったりしました。どんな会社なのか調べたりもしました。

 何か、色んな繋がりがあったので、ついつい興奮して書いてしまいました。