朝日新聞が危ない!?=中間決算で419億円の大赤字

 昨日、朝日新聞社が2020年9月中間連結決算を発表しましたが、純損益が約419億円の大赤字だったことを明らかにしました。新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、売上高が前年同期比22.5%減の1390億円余だったらしいのですが、それにしても赤字幅が莫大です。9年ぶりの赤字だそうですが、渡辺雅隆社長は来年4月1日に社長から退き、中村史郎副社長を後任とする意向を表明しました。

 若い人の新聞離れで、購読者が激減したことが赤字の原因であることは確かですが、もう一つ、広告収入の激減も要因だと思われます。コロナ禍では、旅行の広告はほぼゼロになりましたし、宝飾品やブランドものの高級品も売り上げが落ち、広告を出稿するどころではありません。

 朝日は日本一のクオリティーペーパーだというのに、昔だったらプライドが邪魔して掲載しなかった摩訶不思議な滋養強壮剤や三流の格落ちの通販の広告ばかりで穴埋めするようになりました。

 結局、本業の新聞業では儲からないので、東京・銀座の一等地などにある不動産業で鎬を削っているのが実情です。別に朝日だけでなく、天下の読売新聞も毎日新聞も似たような状況です。

 今や新聞業界は斜陽産業化し、優秀な人材も入って来ないという悪循環に悩まされています。でも、これは、単に、新聞業界だけの問題ではなく、日本全体の問題になることをほとんどの人は知りません。健全なメディアがあってこそ、健全な国家ができるからです。政治家の汚職をチェックする報道機関が劣化すれば、悪徳政治が蔓延るわけです。

 とはいえ、そういう危機的状況が日増しに深刻になってきました。誰が、こんな状況を想像できたことでしょうか?

 勿論、一番大きい原因は、インターネットの発達だと思いますが、それ以外にも要因があると私は睨んでいます。

 特に朝日新聞は日本を代表する新聞社です。それが故に、取材記者も社風もかなり傲慢な点が垣間見られ、私自身のかつての経験から、「驕れるものも久しからず」と、いつか朝日新聞は衰退するのではないかと思ったことがあったのです。

 もう時効ですから、この際、書いてみます。今から28年ぐらい昔の1993年1月のことでした。

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 園山俊二という漫画家がいました。私も「はじめ人間ギャートルズ」とか「花の係長」などを愛読していました。彼は、その1993年1月20日に57歳の若さで亡くなるのですが、その翌日の21日の午前11時頃だったと思います。私は当時、通信社の文化部記者でした。デスクにいたら、「どうも園山俊二さんが亡くなったらしい」という一報というか、噂が流れてきました。著名人ですから、訃報記事を書かなければなりません。

 私は、早速、園山さんの自宅に電話しました。そしたら、電話に出てきた遺族らしき方から「そういう話でしたら、朝日新聞の方に聞いてください。そちらが窓口になっていますから」と仰るので、朝日に電話を掛け直しました。

 園山さんは前年の12月まで朝日新聞に「ペエスケ」という四コマ漫画を長期連載していたので、「窓口」になることは理にかなっていました。

 そして、朝日新聞の代表に電話をし、こちらの名前と所属もはっきりと伝えて、担当者につないでもらいました。そしたら、出てきたその「担当者」らしき人物は「今日のウチ(朝日新聞)の夕刊に(園山氏の訃報が)出ますから、それを見てください」と言い放ったのです。

 「えーーー」ですよ。こちらは夕刊の締め切りに間に合わせようと必死に取材しているのに、何でそんな木で鼻をくくったような応対しかできないのでしょうか。通信社は新聞、テレビ、ラジオ等全国のいや、全世界に第一報を伝える使命があり、速報だけはどこの社より先んじなければなりません。

 担当者はそれを知っていて、ワザと「教えてあげないよ」といった態度を取ったのかもしれません。通信社が配信すれば、他のライバル新聞社も情報を知ることになります。園山俊二さんは朝日に長期連載していた、いわば自分の社が囲っていた作家さんです。他社にスクープされてはたまったものではなかったのかもしれません。

 話は前後するかもしれませんが、その時だったのか、その前のことだったのか、「朝日に載らない記事はニュースではない」と朝日新聞の関係者に聞かされたことがありました。何と言う傲慢。今のようなネット時代、普通の市民でさえニュースを発信する時代では、こんな話を聞かされれば、単なる笑い話に過ぎませんが、当時は、実際、その通りの話でしたので、こんな風に邪見にされると、「驕れるものも久しからず」と怒りに任せて、心の中で呟いたものでした。

◇頑張れ!朝日新聞

 あれから28年。朝日新聞の凋落は目を覆うばかりです。名物コラム「天声人語」を読んでも、まるで「渓流斎日乗」を読んでいるみたいで、パンチも風刺も鋭い知性すら感じず、気の抜けたビールのような文章です。

 「為政者には耳が痛い事ばかりを書く朝日を潰せ」といった政治家の陰謀説の噂が流れていますが、そんな陰謀説の前に、このまま赤字が続けば、風前の灯火といった状況です。

 9連覇を達成した読売巨人軍のように、あの憎たらしいほど強かった傲慢な、そしてその実力が伴った朝日新聞に戻って来てほしいものですが、私のような者から同情されるようでは駄目ですよ。私自身も、こんなことを書いて、「意趣返し」などと思われたくありませんから。

 私が書いた長い記事がそのまま朝日新聞に掲載された時は、嬉しかったことを付け加えておきます。(読者は全く知らないことですが)

朝日新聞の暴露本?創業家の村山美知子三代目社主が可哀そうに思えます

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 「貴方のことですから涎を垂らしながら読む本がありますよ」と、大阪にお住まいの難波先生のお薦めで、樋田毅著「最後の社主 朝日新聞が秘封した『御影の令嬢』へのレクイエム」(講談社)を読了しました。2020年3月26日初版ですから、出たばかりの本です。

 最後の社主とは、日本を代表する天下の朝日新聞社の創業者村山龍平翁の孫として生まれた三代目の社主村山美知子氏(1920~2020)のことで、今年3月3日に99歳で亡くなられたばかり。あまりにものタイミングの良さが逆に不可解に思われますが、それは、美知子氏本人らの承諾の下で、事前に大枠が執筆されていたからでした。著者の樋田氏は、元々、朝日新聞の事件記者で、会社側から村山家の内情を探るように送り込まれた「秘書役」を都合7年間務めた人でした。会社と創業家である社主との間では、長い間、経営権や株式所有権など「資本(株主)」と「経営」の問題で緊張関係が続いていました。

 いわば「密偵」として送り込まれた樋田氏が、次第に社主の美知子さんの人間的素晴らしさに魅了され、逆に理不尽な経営陣の「オレオレ詐欺」のような阿漕なやり方に憤りを感じていきます。この本は、それら内部事情を実名を挙げて暴露した告発本として読めなくもありません。

 結局、美知子社主の所有していた朝日新聞の11.02%の株式は、創業者の龍平翁が心血注いで収集した香雪美術館に遺贈する形で、経営陣は資本から切り離すことに成功します。既に、美知子氏の実妹である富美子さんが所有していた3.57%の株式と富美子さんの子息で美知子社主の甥にあたる村山恭平氏が所有していた5%の株式は、凸版印刷と従業員持ち株会へ譲渡されていて、これで、創業一族である村山家と朝日新聞との資本関係を断ち切ることに経営陣は成功するのです。どうやったのかー、については本書に事細かく書かれています。天下の朝日(の経営陣)がこんな酷いことをしていたのか、と多くの人は失望することでしょうが、いわば内部の人間が書いたことなので真実なのでしょう。何しろ、著者は当初、美知子社主の遺産を相続する養子探しを村山家の家系図(親族には三井宗家、三菱岩崎家、信州の小坂財閥、皇族の常陸宮妃華子さままでおられた!)まで作成しながら奔走しますが、最後は経営陣によって、良いところまでいった養子縁組をつぶされたりします。

 とはいえ、私自身は、これら「村山騒動」に関してはそれほど興味ありません。それより、ここ描かれた村山美知子さんという大新聞創業者の孫として生まれた「深窓の令嬢」の暮らしぶりには、度肝を抜かされるほど圧倒されました。

 日教組やリベラリストが大好きな朝日新聞ですが、世間で思われているほど反体制的でもないし、赤貧洗うが如しの労働者のためにキャンペーンを張るような庶民の味方の新聞でもなく、これを読むと、新聞経営で大成功を収めた大富豪の手慰みの新聞にさえ思えてきます。右翼だ、左翼だ。反中だ、反韓だ、などとイデオロギー一辺倒で騒ぐ貧乏臭いメディアとは一線を画しています(笑)。村山美知子社主の育ちぶりを読むと、世の中には、右翼も左翼もいない。人間には、特権上流階級とそれ以外しかいない、ということが如実に分かりますよ。

 何しろ、創業者の村山龍平翁が建てた神戸市御影の自宅の敷地は約1万坪で、1908年(明治41年)ごろに3階建ての洋館が建設され、藪内流茶道家元の茶室「燕庵(えんなん)」を模した「玄庵」などが設けられ、その後、敷地内には龍平翁が収集した美術品を集めた香雪美術館も1973年に開設されます。

 香雪美術館は、重要文化財19点、重要美術品23点を含む約2000点が収蔵されています。私も一度、難波先生のお導きでこの御影の美術館を訪れたことがあります。そして、当然のことながら、村山家の豪邸の敷地を拝見することになりましたが、歩いても、歩いても、敷地を囲む高塀がどこまで行っても尽きることなく続いていたことをよく覚えています。阪急電鉄創業者の小林一三は、同電鉄神戸線を敷設する際、村山邸の敷地を買収できず、線路が迂回してしまったことを悔やんだといいます。御影は超高級住宅街として知られ、周辺には住友銀行初代頭取の田辺貞吉邸、武田薬品の武田長兵衛邸、大林組社長の大林義雄邸、野村財閥創業者の野村徳七邸、伊藤忠の創業者伊藤忠兵衛邸、日本生命社長の弘世助三郎邸、岩井商店(後の日商岩井~双日)の岩井勝次郎邸、東京海上専務で美知子社主も通った甲南学園の創立者でもある平生釟三郎邸などの大邸宅が建てられました。

 村山家は、広大な本邸のほかに、有馬温泉や六甲山や伊豆などに別荘を持ち、東京の滞在先として今はホテルオークラの別館になっている麻布市兵衛町の約3000坪の別邸があったといいます。特権上流階級のスケールが違いますね。想像できますか?

 美知子さんの父親で二代目社主の長挙氏は、旧岸和田藩主の岡部長職(ながもと)の三男だったことはよく知られています。創業者龍平の方は、紀州藩の支藩だった田丸藩(三重県玉城町)の元藩士だったことから、玉城町の中心部にある約10万平方メートルの広さの城山を国から約3万円(今の価値で数億円)で買い取り、町に寄付したといいます。城山の山頂にはあの北畠親房が創建した田丸城の城址があるという逸話も書かれ、私なんかは城好きですから、「村山騒動」の話よりこちらの方が惹かれました。

 美知子さんは「三代目社主」として小さい頃から「帝王学」のようなものまで学び、日本舞踊や茶道、それに戦前は富裕層しかできなかったスキーやフィギュアスケートなども活発に励行しますが、何と言っても、後年、大阪フェスティバルホールを創設して専務理事になるほどですから、作曲家呉泰次郎の音楽塾で作曲法などを学びクラッシック音楽の素養を身に着けます。この審美眼が、若手アーティストの発掘にもつながり、カラヤンやバーンスタイン、小澤征爾ら最高の音楽家らと華麗なる人脈もできます。「村山騒動」よりも、美知子さんが最も輝いていた時だったので、この辺りの描写は読んでいて気持ちが良いです。

 それにしても、朝日新聞経営陣による創業家一族に対する扱い方は酷いものですね。人間とはそういうものかもしれませんが、読んでいて気分が悪くなりました。

読売出身がスイス大使?まあ、舐められたものです

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 名古屋の篠田先生です。気温34度、名古屋も暑いですよ。

 さて、安倍さんが、駐スイス大使として、読売新聞グループ本社会長で日本新聞協会前会長の白石興二郎氏(72)を充てる人事を検討している話は御存知ですかねえ?

 えっ?何?知らない?やっぱりですか。駄目ですねえ(笑)。すっとぼけたメディアは、「実現すれば、マスコミ界からの異例の大使就任となる」なんて大騒ぎしてますが、大使ごときなのにレベルが低いですね。

 読売新聞が大使レベルなら、朝日新聞は大臣クラスですよ。朝日の主筆を務めた緒方竹虎や副社長を務めた下村宏は、戦時中に国務大臣(内閣情報局総裁)入りしてますよ。 同じ「御用マスコミ」でもここで明らかに格の差が出てます(笑)。

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 まあ、大使レベルなんぞは安売りし過ぎで、マスコミ業界も舐められたものですよ。それを、今の若い記者もデスクも部長連中も何も分かっていない!勉強していないから、下村も緒方も誰なのか、何も知らんでしょう(笑)。

 これだけマスコミが舐められたら、「読売が大使でいいなら、産経なら一等書記官、いや二等書記官、大使館の便所掃除でいいかあ」となるわけです (笑)。

以上 おしまい

「政友会の三井、民政党の三菱」-財閥の政党支配

やっと、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書、2018年3月10日再版)を読了しました。

 先日、「昭和恐慌と経済政策」(中村隆英著)などに出てきた「帝人事件」などを話を友人の木本君に話したら、「この本にも『帝人事件』のことが出てきたよ。読んでみたら」と、貸してくれたのでした。

 中村教授の本が経済の側面から昭和初期をアプローチしているのに対して、筒井教授の本は、日露戦争終結直後の「日比谷焼き打ち事件」に始まり、昭和初期の「統帥権干犯問題」「天皇機関説事件」など、政治的、社会的事件を扱ったものです。

 筒井教授の著書は、タイトルの「ポピュリズム」にある通り、大衆の群集心理とそれを煽るマスメディアとの関係を描いていますが、ちょっと大衆デモと新聞報道との因果関係を強調し過ぎている嫌いがあります。

 大衆は、インテリ階級が考えているほど無知蒙昧でもなく、案外したたかに計算しており、新聞は、学者が思っているほど堅忍不抜ではなく、また、確固とした主張もなく時流に流され、自分たちの影響力を認識していないケースが多いからです。

 前半では、1905年の日比谷焼き打ち事件、1914年のシーメンス事件にからむ山本内閣倒閣運動、1918年の普選要求と米騒動など、今から100年ぐらい前の事件が登場しますが、100年経っても、世相はあまり変わらないなあと思ってしまいました。

 米国ではトランプ大統領が当選して、移民国家なのに、早速、本人は移民排撃政策を掲げましたが、移民排斥は今に始まったわけではなく、1924年5月15日には、「排日移民法案」が上下両院で可決されています。よく働く日系人たちは、「移民先では脅威と感じられた」からだそうです。この歴史的事実は、今の現代日本人はほとんど知りませんが、当時の反日運動の中で、プールでは「日本人泳ぐべからず」との看板が掛けられたのでした。(日本はその後、1930年代の上海租界で、同じような看板を立てました)

 カリフォルニア州の日系移民排斥の立て看板には「JAPS DONT LEAVE THE SUN SHINE ON YOU HERE   KEEP MOVING」と書かれました。「鬼畜日本人よ ここではお前たちに太陽の恵みを与えてやるものか とっとと出ていけ」とでも訳されることでしょう。つい最近、わずか95年前の出来事です。

 これに対して、日本では同年5月に米大使館前で抗議の切腹自殺が行われたり、東京と大阪の主要新聞社19社が米国に反省を求める共同宣言を発表したり、翌6月には帝国ホテルに60人が乱入して、「米国製品のボイコット」「米人入国の禁止」などを要求したビラを散布したりしました。これも、そのわずか95年後の現在、どこかの国で日本製品のボイコットが叫ばれたりして、何となく、既視感を味わってしまいました。

 さて、1931年9月18日、柳条湖事件をきっかけに満洲事変が勃発します。それまで、一貫して「反軍部」と「軍縮」を主張していた朝日新聞が、大旋回して社論を180度変更します。これまで陸軍批判の急先鋒だった(大阪朝日新聞主筆の)高原操は、10月1日の大阪朝日新聞紙上で「満洲に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」とすっかり「転向」します。

 この背景には、著者は、朝日の不買運動があったことを挙げています。「満洲事変後、『朝日』に対する不買運動は奈良、神奈川県、香川県善通寺などで拡大、『3万、5万と減っていった』という。これに対して、『大阪毎日』は拡張していった。朝日の下村海南副社長は『新聞経営の立場を考えてほしい』と発言し、10月中旬の重役会で『満洲事変支持』が決定した」といいます。会社ですから、ビジネスを重視したわけです。

 こうして、大新聞は「軍神物語」を書きたてて、1945年8月15日の終戦まで、イケイケドンドンと大衆を煽り立てたわけですね。

◇反対党の家の消火はしません

 この本では、昭和初期の二大政党だった政友会のバックには三井が、民政党のバックには三菱がついており、財閥が政党を支配していたことが書かれています。こんな調子です。

 大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 なるほど、こんな極端のことが起きていたんですね。これを読んで、クーデターを起こした青年将校や右翼団体員たちが、財閥とともに、政党政治を批判していたことがやっと分かりました。

あと、細かいことですが、この本では、満洲事変の前に起きた1931年8月に公表された有名な中村大尉事件のことにも触れていますが、最後まで中村大尉で押し通して、名前が書かれていません。(実際は、中村震太郎大尉)この他にも、何カ所か、名前の姓だけしか表記されていないところがありました。

また、高原操のように、氏名だけしか書かれておらず、相当の知識人や研究者ならすぐ大阪朝日新聞社の主筆と分かるかもしれませんが、大抵の読者はピンと来ません。せっかく一般向けの教養書として書かれたのなら、もう少し簡単な説明や一言が欲しい気がしました。

沖縄県民投票と「適量ですか 高齢者の薬」

 昨日、2月25日(月)の「安倍首相の一日」、いわゆる「首相動静」欄に以下の記述がありました。

 午後7時36分、東京・銀座の鉄板焼き店「銀座うかい亭」着。時事通信社の大室真生社長、渡辺祐司常務取締役らと会食。同9時45分、同所発。同10時2分、私邸着。

 おー、あの「うかい亭」ですかあ。一昨年11月にトランプ米大統領が来日した際、首相官邸のお導きで会食した高級鉄板焼き料理店です。安倍首相もよほど気に入ったとみえますが、またのご利用です。場所は東京・銀座の時事通信本社ビルの1階でした(笑)。

 それにしても、マスコミのトップの人間が、時の最高権力者と会食するのは如何なもんでしょうかねえ。一体、どんなお話をするんでしょうか。前日に結果が出た沖縄県民投票については「スルー」したのでしょうか。一定の距離を置いて、批判するということがジャーナリズムの原点のような気がしますが、そんな安っぽい「書生論」をほざいている人間は野暮かもしれません。

 そもそも、時事通信社の前身の戦前の同盟通信社は、まさに、政府系の「国策通信社」でした。

 国策通信社で、何か問題でも?

 中国の新華社通信や人民日報などは、まさに政府メディアでしょう。それを言ったら、北朝鮮やロシア、それにトルコもサウジアラビアなどでは、政府系マスコミばかりで、反政府メディアがあれば、つぶされたり拘束されたりするでしょう。

 先進国と言われるフランスのAFP通信社(日本では時事通信社が独占契約)も、自動車のルノーと同じように国有企業で、何パーセントか知りませんが、政府が出資しています。ということは、AFPはフランス政府の悪口は書けないと、普通の人なら思い込んでいます。

 日本が好きなアメリカはどうでしょう。CNNの記者さんはトランプさんと仲違いしていますが、FOXニュースを始め、概ね、政府寄りの報道でしょう。特に、デジタルメディア時代ともなると、インターネットそのものが、米軍によって開発されたものですから、GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)などは、国防省(ペンタゴン)や米航空宇宙局(NASA)、米国家安全保障局(NSA)など政府系機関と歩調を合わせていることは想像に難くありません。

 それが何か問題でも?

 いや、別に問題はないでしょうが、毎日、「官報」のような無味乾燥な高級官僚の作文の丸写しを読まされていては、食傷気味になりませんか?

 それとも、庶民は為政者の命令に唯々諾々と黙って従っていれば良いのでしょうか。

 24日に投開票が行われた沖縄の普天間飛行場の辺野古移設を問う県民投票。移設反対が県民の7割を超えましたが、翌25日の首都・東京都内で発行された各新聞最終版の一面トップの違いが面白かったですね。

《朝日新聞》…「辺野古『反対』72%」

《毎日新聞》…「辺野古反対7割超」

《読売新聞》…「適量ですか 高齢者の薬」

《日経新聞》 …「見えざる資産 成長の源に」

《産経新聞》…「海自観艦式 韓国招待せず」

《東京新聞》…「辺野古反対 7割超」

 日経は、経済専門紙だから分かります。産経も韓国問題でいかにも産経らしい。朝日、毎日、東京が、県民投票の結果を大きな活字で大々的に報道しているのに対して、天下の読売新聞は 「適量ですか 高齢者の薬」。

 何ですか、これ?いやあ、面目躍如ですね。庶民の生活をここまで心配してくださるメディアは、世界広しといえども他にありません。

 一番、読み応えがありました。

若い女性が群がる「京のかたな」展=刀剣が大ブーム

お久しぶりです。京都の京洛先生です。

最近の《渓流斎日乗》のアクセスは如何ですか?
お堅い話ばかり続いておりましたから、読者の皆さんがついていけないのか、高踏過ぎたのか分かりませんが、減ったことでしょう。まあ、めげずに頑張ってください。
 さて、美術の季節の到来ですが、今日の日曜日は、貴人は、東京・上野公園で「ムンク」展でも鑑賞ですかね? 「共鳴する魂の叫び」などと「魂」のない紙面づくりをしている朝日新聞社がえらい力を入れていますね。前日に起きたことを載せるのが日刊新聞のはずですが、2,3日遅れても、平気で、紙面に載せることが目立つのが、最近の「朝日新聞」です。
 これでは、「新聞」でなく、「朝日旧聞」ですよ(笑)。
 「朝日は左翼だ!」なんて、皮相的に紙面批判している連中は、こういうことに気が付かないのでしょうかね。
 朝日新聞は完全に紙面づくりに手を抜いているのです。貴人が「経済面」を評価する読売新聞のような、ある種の「真面目さ」と「ひたむきさ」が感じられませんね。要するに、読者をなめているのです。
 迂生は昨日、国立京都博物館の「京のかたな」展(11月25日まで)を覗いてきました。昨日から始まった第70回「正倉院展」(奈良国立博物館、11月12日まで)も、読売新聞社が「特別協力」ですが、この「京のかたな」展も、読売新聞がNHKと共催です。
 かって、「ミロのビーナス」展や「ツタンカーメン」展を主催した朝日新聞社の文化事業のパワーは、この分野でも、完全に消え失せています。「適当にやっていても給料はもらえる」と社内がだらけ切っているのでしょうね。これでは、部数が400万部切ったと言われてますが、ますます減ることでしょう。社長以外は、危機感ゼロではないでしょうか。
◇若い女性がいっぱい
 ところで、迂生は、週末はなるだけ美術展は混雑するので避けていますが、昨日の土曜日(11月27日)は、新装した「南座」の記念行事で、歌舞伎役者総勢70人が、南座前から八坂神社までの四条通りを「お練り」をするので、観光客などはそちらに目が行き、京博には来ないと考え、同時刻に出かけましたが、まったく想定が外れました(笑)。
 京博も入場するのに10分も待たされ、しかも、館内は最前列で名刀を見る人が、長い列を作っている有様です。
 しかも、最近、若い女性の「刀剣マニア」が激増しているそうで、昨日の同展も7割は若い女性で吃驚仰天しました(笑)。
 京博の案内人によると「平日も女性で混んでいて、週末だけではありません」ということでした。どうやら、今、若い女性の間で、刀剣が大ブームになっているらしいのです。
 「京のかたな」展では、鎌倉時代の国宝の則国、久國、吉光の名刀や重文の刀がずらりと並び、いずれも、手入れが行き届いているので燦然と輝いているのは圧倒されます。
 それを若い女性がガラス越しに食い入るように眺め、「凄いわね!」「きれい!何とも言えない、妖しい!」と言葉を交わしていました(笑)。
◇長刀鉾をじっくり拝見
 迂生は、同展の目玉の一つ、「祇園祭」の山鉾巡行では、常に、先頭にいく「長刀鉾」に飾られていて、今は非公開になっている全長1.47メートルの、長刀を見ることが楽しみでしたが、こちらは、手入れはされているとはいっても、光り輝いてはおらず、見る人も少なく、じっくり拝見できました。
 この長刀はは室町時代後半の大永2年(1522年)に京都の鍛冶師、長吉が作ったと伝えられています。
 ところが、1536年の「天文(てんぶん)法華の乱」(延暦寺の天台宗僧徒と日蓮宗宗徒の争い)で、何者かに強奪され行方不明になりました。しかし、行方不明になった翌年、近江のお寺で見つかり、買い取られて、再び、祇園祭を執行する「八坂神社」に奉納された経緯があります。
 恐らく、その間にいろいろな逸話、ドラマがあったと思いますが、刀剣に限らず、貴重な美術品には権力、経済力を持った人間に絡む逸話があり、それを追うだけでも面白いと思いますね。
 以上、おしまい。

京都大旅行、のはずが関西大旅行

奈良・猿沢池

2泊3日の京都大旅行のはずが、関西大旅行と相成りました。

◇2018年8月25日(土)

いつもの如く、新幹線京都駅中央口改札で、京洛先生がお出迎え。

「渓流斎さん、旅の醍醐味をご存知ですか?ー 珍道中ですよ」

ということで、京都駅で下車することなく、そのまま新幹線口の真向かいにある近鉄線で、何と奈良駅へ。まさに、弥次喜多珍道中の始まりとなりました。

近鉄奈良駅から歩いて数分のお好み焼き屋さん(名前は失念)で「豚焼きそば」とビールで豪華ランチ。

この後、中臣鎌足が鹿島神宮から連れてきた神さまの使者といわれる鹿さんが3000匹も戯れる奈良公園を通って、奈良国立博物館 へ。「修理完成記念特別展 糸のみほとけ-国宝 綴織當麻曼荼羅と繍仏-」展(26日で終了)を鑑賞しました。

繍仏とは、仏像などを刺繍した、いわゆるタピストリーのことです。当麻寺の曼陀羅は、中将姫が一夜にして縫い遂げたといわれる伝説の繍仏で、普段は未公開。何年か、何十年に一度しか「御開帳」されないので、今回、大変見る価値があるというのです。

もう1300年ぐらい時が経ているので、原型はほとんど消えて黒ずんでしまっていましたが、何か、居住まいを正したくなるような威厳がありました。伝説では一夜で縫い上げたことになっておりますが、実際は早くても7年は掛かるようです。刺繍ですから、立体的に浮き上がって見えたことでしょう。

奈良といえば、東大寺(の大仏)か、興福寺なんですが、玄人の京洛先生は、そんな修学旅行生が行くようなところは見向きもせず、一路目指したのが、元興寺(がんごうじ)でした。

元興寺は、飛鳥の飛鳥寺をこの奈良に移築したもので、1300年以上昔の飛鳥時代の屋根瓦が今でも現存する如何にも玄人好みの仏閣でした。国宝です。しばし、斑鳩の里に思いを馳せました。

◇◇◇

この後、京都に戻り、夜は、北野白梅町にある創業安政3年(1856年)の米屋、大米米穀店が経営する洋食屋「キッチンパパ」へ。キスフライ付ハンバーグ 1280円と ハイボール500円を飲食しました。日本人向きにアレンジしたデミグラスソースのハンバーグで、とても美味しゅうござんした。繁華街ではないので、歩いている人は少ないのに、この店だけは、学生風の若い人でいっぱいで、並んでいる人もいました。

◇8月26日(日)

さて、「今日こそ京都の寺社仏閣を存分に楽しめるぞ」と期待していたら、京洛先生「今日は神戸の南京中華街に行きます。よろしく」ですからね。

えっ? 神戸なの? 京都から遠いでしょ!しかし、実際は1時間ほどで行けてしまい、阪急電車の日曜日割引チケットを金券ショップで買うと、片道620円が420円となり、往復400円のお得になりました(笑)。

京洛先生、どうやら、神戸南京町の中華街にある「元祖ぎょうざ苑(1951年創業)」に行きたいというのです。ここは、神戸の味噌だれ餃子の発祥の地で、食通の京洛先生は、寅さん俳優の渥美清らがよく通った東京・渋谷の中華料理店「大穀」の味噌だれ餃子の味が忘れられず、どうしても神戸の評判の店で食したいというのでした。

阪急神戸三宮駅から歩いてJR元町駅へ。そこから、グーグルマップを手掛かりに10分ほどで着きました。評判の店なので、12時ちょっと過ぎて着いたら、先客がいて、ちょっと並びました。でも、出たときは、入ったときの倍以上の人が列をつくっておりました。

確かに評判通りの美味しさ。変な言い方ですが、皮や肉汁まで旨いのでした。猛暑でビールもうまい!

個人的に、横浜の中華街は何十回も行っておりますが、神戸の中華街は生まれて初めて行きました。南京町は、今年で開設150周年なんだそうです。明治維新と一緒ですか。

JR元町駅から神戸駅へ行き、この駅にほど近い湊川神社へ参拝。ここは、別名、楠公神社と言われるように、南北朝時代の忠臣楠木正成をまつった神社です。有名な湊川の戦いで敗れて自害した場所に、明治以降にこのような立派な神社が建てられたといいます。

この後、阪急御影駅で途中下車して、香雪美術館へ。朝日新聞を創刊した村山龍平(と二代目村山長挙=岸和田藩主の三男が婿入り)の集めた日本と東アジアの古美術を自宅の一角で公開展示したもので(香雪は、龍平の雅号)、御影という関西でも屈指の超高級住宅街の中でも、図抜けてだだっ広い敷地で、その広さには腰を抜かすほど驚いてしまいました。

村山邸を1周すれば軽く20~30分ぐらい掛かるのです。森林に囲まれ、どこかの植物園か動物園と言われてもおかしくない広大な敷地でした。

朝日新聞社は戦前、飛行機会社(実際は航空部。戦後、全日空に発展)まで作ったりしましたから、創業者一族には相当な収益があったということなんでしょう。桁違いの大きさに唖然としました。

帰り、御影駅近くの喫茶店「マハロ」でいちごかき氷600円で一息つきました。店名がハワイ語で、店内の掲示がフランス語、店内でかかっている曲はブラジルのボサノヴァ、そして、歯科技工士の相談会開催と、何か超変わった店でした(笑)。でも、気配りの行き届いた感じのいい店でした。

◇◇◇

京都に戻り、夕方「京極湯」で一風呂浴びたあと、この銭湯近くのお好み焼き屋「にしで」で、ミックス焼そば、お好み焼きなどを食しました。この店は、以前よく入った店で、今回は5年ぶりぐらいに入りましたが、女将さんが、小生の顔を覚えてくれていて吃驚。美人の女将さんもさすがに少し老けました。お互い様ですか(笑)。

そう言えば、銭湯では、番台の女将さんから、京洛先生より小生の方がかなり年上に見えたらしく、個人的に相当なショックを受けました。茲ではっきり申し上げておきますが、小生は京洛先生より一回り近く若いのですぞよ。

◇8月27日(月)

京都堀河三条「力」の元女将さんのところに久しぶりに立ち寄り、グーグル・スピーカーの威力を見せてもらいました。

「オッケー、グーグル、今、気温は何度なの?」と彼女が言うと、「32度です」と答えるし、「オッケー、グーグル、音楽かけて」と命令すると、しっかり、登録していた(?)好きな音楽をかけてくれるんですからね。何か、怖くなるくらい便利でした。

さて、この日は、ついに小生の希望が通り(笑)、念願の京都・伏見稲荷大社に行きました。全国3万社もある稲荷神社の総本社です。和銅四年(711年)御鎮座で、渡来人の秦氏が創建したという説が有力です。ちなみに、全国の神社数は約8万8000社(全国のコンビニは約5万6700軒)、このうち八幡宮は4万4000社、天満宮は1万2000社と言われております。

奈良もそうでしたが、外国人の多さには本当に吃驚しました。すれ違う人は殆ど外国人。比率は東京より多いんじゃないでしょうか。

「千本鳥居」など、何百メートルも続く鳥居の列が「インスタ映え」するということで、世界的に外国人観光客の間で伏見稲荷大社は、大人気スポットなんだそうです。

我々は「奥の院」の辺りまでしか行きませんでしたが、この奥に行くと勾配もきつく、実際、迷い人が出るほど迷宮化しているそうです。

小生、先週「名誉の負傷」をして、全治2週間ぐらいではないか、と思われるくらい膝が痛んで歩きにくいので、当然、ギブアップしました。(歩けますが、まだ走れません)

奥の院の茶店でビールを飲んでいた75歳ぐらいの日本人男性が「伏見稲荷大社は、拝観料も駐車場もただで、24時間オープン。だから、大型バスでぎょうさん乗り付けて、外人が9割ぐらいになったんや」と、こちらから聞くわけではないのに、答えてくれました。

確かに、浴衣や着物を着ている人のほとんどが、日本人ではなくて、外国人でしたからね。売り子も怪しい日本語でした。

この後、京阪電車「中書島駅」に向かい、その近くの寺田屋を見に行きました。私の希望でした。建物は意外にも小さいので少々驚き。当時は水運が盛んですから、この辺りは大坂から淀川を通って京都に入る中継地で、花街地として栄えたらしいですね。

中に入ろうと思ったら、「月曜休館」で閉まってました。仕方ないので「沿革」を引用しておきます。

寺田屋は伏見の船宿。文久2(1862)年4月23日、薩摩藩急進派有馬新七(1825~62)以下35名が関白九条尚忠(1798~1871)と京都所司代の殺害を計画して集結した。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した(寺田屋騒動)。慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬(1835~67)も伏見奉行所の捕方に襲われたが、難を逃れた。寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。

ここから市バスで30分、京都駅南口辺りで降りて、京洛先生お勧めのうどん屋「殿田」で遅いランチ。たぬきうどん600円、稲荷寿司三個300円という安さでした。

たぬきうどんは、関東なら天かすなのですが、こちらは、油揚げなので、関東なら、きつねうどんです。刻んだ長ネギにショウガがたっぷり。あんかけ汁で、結構上品な味でした。店の人の感じもよく、京都に行ったらもう一度食べたい味でした。

果たして日本人は全体主義国家を望んでいるのか?

昨日は、メディア史研究家のA氏と会食する機会を得て、衝撃的な事実をそっと耳打ちされました。

このままでは、今のマスコミ、特に新聞業界は崩壊どころか、壊滅、死滅するという話でした。

極秘資料を内密にご教授頂いたので、茲ではあまり具体的な数字は挙げられませんが、数字なしでは雲をつかむような話になってしまうので、ほんの1部だけ御紹介致しましょう。日本を代表する朝日新聞です。

かつては、800万部とも850万部とも隆盛を誇っていた大新聞も、今や600万部を切ってしまったというのです。この数字は「公称」なので、いわゆる販売店への「押し紙」(広告費を換算するために、実際の配布部数より水増しした印刷部数)が3割とも5割もあると言われてますので、実売は420万部ということになります。もうクオリティーペーパーなどと胡坐をかいていた時代は終わったということです。

しかも、朝日はここ3年、毎年30万部も部数が激減しており、年間150億円の損失を出しているというのです。この3年で450億円の損失です。何故、倒産しないかというと、一等地にある不動産業で糊口をしのいでいるわけです。

天下の朝日がこの事態ですから、経営難の毎日、産経となると、もう風前の灯となるわけです。具体的な数字を聞けば、腰を抜かすことでしょうが、この実体は何処のマスコミも報じていません。

原因は色々あるでしょう。スマホの普及や若者の活字離れなどと言われてますが、新聞業界の「敗因」は、初期の段階で展望を誤って、ヤフーやグーグルなどネットメディアにただ同然でニュースをあげてしまったことにあります。

読者にとっては、ただ同然でニュースがネットで読めるわけですから、大歓迎です。新聞がつぶれようが、痛くもかゆくもないことでしょう。

しかし、ここに見落とされがちな陥穽、つまり落とし穴があります。

第一に、ネット企業は自分たちが取材してニュースを配信しているわけではないからです。それなら、ネットメディアがやればいいじゃないか、という話になりますが、話はそう簡単ではありません。「餅屋は餅屋」があるというわけです。「報道」は無駄が多く、人件費が嵩み、そう儲かる商売ではありませんし、報道機関として長年培ってきた「技術」は、そう簡単にできるものではありません。

◇◇◇

今朝、たまたまラジオを聴いていたら、経済評論家の内橋克人氏が、「経済財政白書」について、一家言申し立てを行っていました。

経済財政白書は、かつては「経済白書」といって、1947年から経済企画庁が発行していましたが、2001年から、小泉首相(当時)の規制改革、行政改革により経済企画庁が廃止され、代わって内閣府により「年次経済財政報告」(通称:経済財政白書)として発表されるようになりました。

内橋氏によると、かつての経済白書では、ある程度、時の政権から距離を置いて経済政策をやや批判的に解剖したり、展望したりする傾向がありましたが、内閣府になってからは、時の政権に沿った、追認するような白書を発行するようになったというのです(そういった趣旨の発言でした)。

例えば、「平成29年度 年次経済財政報告」の「はじめに」は、こんなことで筆が起こされています。

 我が国経済は、アベノミクスの取組の下、2012年末から緩やかな回復基調を続けている。
 2016年後半からは、海外経済の緩やかな回復を背景に、輸出や生産が持ち直すなど企業部門を起点にした好循環が進展しており、雇用情勢が一段と改善する中で人手不足感はバブル期並みに高まっている。少子高齢化・人口減少が進む中で、人手不足を克服し持続的な経済成長につなげるためには、働き方改革と新技術の導入を同時に進め、生産性の向上と多様な人材の労働参加を図ることが大きな課題である。こうした取組により、生産性が上昇し、内需の活性化につながれば、デフレ脱却への動きも確かなものとなることが期待される。

うーん、どうも「アベノミクス大成功、万々歳」といった官僚記者の「忖度」がもろに表れておりますねえ。

私も内橋氏の話を聴かなかったら、経済財政白書など読んでみようという気がしませんでしたが、国民のほとんどは関心がないことでしょう。

◇◇◇

つまり、話は戻って、何を言いたいかといいますと、一部の若者が「マスゴミ」と軽蔑している新聞などの既成メディアが倒産すれば、ほとんど「右へならへ」の政府広報か、時の政権に対する忖度情報しか、国民は目に触れることができなくなる恐れがあるということです。

これでは、国家がマスコミを支配した全体主義のソ連や中共(ふるっ)と変わらないということです。独裁国家北朝鮮並みです。

「自民党広報紙」「御用新聞」と言われる読売新聞だけ残ればいいんじゃないか、という意見もあることでしょう。しかし、メディアは、多ければ多いほど多彩な埋もれがちな意見が反映されるというのが私の持論です。チェック機能が無くなれば、喜ぶのは汚職政治家や役人や脱税企業ぐらいでしょう。

このままでいいはずはありませんが、中高年でさえ、新聞を読まなくなった現実ですから、打開策はないと言い切っていいでしょう。

堕ちるところまで堕ちて気がついた時は、手遅れだったということになるはずです。

銀座で生まれた通信社

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡」(花伝社・2014年7月31日初版)を読み始めました。滅法面白いのでやめられません。

著者の鳥居英晴さんは、あの「日本陸軍の通信諜報戦 北多摩通信所」を書いた人でした。元共同通信記者。このリーフレットのような薄い本を私は2257円(送料・手数料込み)で買ったことを先日のブログに書きましたが、こちらの同盟通信社の本は広辞苑のような分厚い本で800ページ以上もあります。定価は5000円プラス税ですが、ネットでは1万9524円で新本が売られていました。

鳥居氏は、この本を書くために生まれてきたのですね。こちらも、大変読み応えがあります。自分自身、今まで知らなかったことがたくさん書かれていて、色々教えられます。

しょっぱなから、「通信社は銀座で生まれた」とあります。(13ページ)

銀座なら私の庭みたいなもんですから(笑)、猛暑の中、汗を拭き拭き、この本に出てきた通信社や新聞社跡を辿って歩いてみました。ただし、全く、面影も何もなし。記念碑や看板もないので、ここに新聞社や通信社があったことさえ分かりませんでした。

御存知、銀座の象徴とも言うべき4丁目の和光。服部時計店。ここに、銀座に初めて進出した新聞「日新真事誌」の社屋がありました。1873年(明治6年)7月のこと。経営者は、英国人ジョン・レディ・ブラック。彼は1863年(幕末じゃないですか)に来日し、1867年10月(まだ幕末)に横浜で、英字紙ジャパン・ガゼットを創刊しています。

銀座5丁目、銀座中央通りにある「イグジット・メルサ」。以前は「ニューメルサ」と言ってましたが、最近名前を変えたようです。今は中国系企業に買収されたラオックスなどが入り、ほとんど中国人観光客の溜まり場になっています。

ここにあの東京日日新聞社(現毎日新聞)があったというのです!1877年(明治10年)のこと。後に主筆・社長を務めた福地桜痴(源一郎)はこの年に西南戦争を取材しています。福地は歌舞伎座を創設し、劇作するなど演劇界に名を残します。東京日日がここにあったとはねえ。

銀座1丁目1番地にある京橋三菱ビルディングで、今は三菱UFJ銀行などになってますが、ここに、東京日日新聞と同じ年の1877年(明治10年)、読売新聞社の社屋が建っていたというのです。

銀座の端っこ、道を渡ると京橋です。

読売新聞は、今のマロニエ通りにあるビルと、旧プランタン銀座にあったと聞いてましたが、最初はここだったんですか。尾崎紅葉の「金色夜叉」が連載されていた頃の明治期の読売はここにあったんでしょうか。

朝日新聞は1888年(明治21年)、京橋区滝山町4番地(現銀座6丁目の並木通り)に大阪から進出します。

星亨が、自身が発行した自由党系の「めさまし新聞」を大阪朝日の村山龍平に譲渡して、それが「東京朝日新聞」と改題されます。めさまし新聞の社屋が、同じ滝山町にあったのかどうかは不明です。

今はこのように高級ブランドショップと外資系高級ホテルになって、新聞社もすっかり不動産業となっております。写真の中の手前には当時ここで校正係として働いていた石川啄木の石碑が建っているので、ここに朝日新聞があったことが分かります。

文芸欄を創設して小説記者となった夏目漱石もここに通っていました。斜め向かいに、漱石も好きだった「空也もなか」があります。

鳥居氏の本によると、日本最初の近代的通信社とされるのは「時事通信社」(今の時事通信とはまったくの無関係)で、1888年(明治21年)1月4日、京橋区木挽町5丁目4番地で生まれた、といいます。今の銀座6丁目13ということで探しましたが、苦労しました。恐らく、上写真の今の銀座ウォールビルだと思われます。

当時は、この辺りは、三十三間堀川が流れていて、今は埋められて道路になっていますから、昔の地図と見比べて歩いていたら、本当に難儀しました。

ここは、牧久さんの書いた「特務機関長 許斐氏利」にも出てきた、戦後直ぐに東京温泉のあった所だったと思います。どちらも、看板も石碑も何もないので、この本を読んでいなかったら、さっぱり分からなかったことでしょう。

時事通信社は、三井物産初代社長益田孝(鈍翁、茶人としても有名)が出資して社主となった会社で、政府の御用機関だったと言われます。益田は、社内報だった「中外商業新報」(後の日本経済新聞)も発行してますから、ジャーナリズムの世界にかなり食い込んでいたんですね。

銀座8丁目7-3の並木通り角に喫茶店「プロント」がありますが、ここはかつて、「新聞用達会社」があった所でした。同社は、改進党系の郵便報知新聞(後に報知新聞と改題)の社長矢野文雄が1890年(明治23年)1月10日に設立しました。当時の住所は、京橋区日吉町20番地。

この新聞用達会社と先ほどの益田孝の時事通信社が1892年(明治25年)5月9日に合併して「帝国通信社」となるのです。やはり、改進党系ですが、当時は、「国際通信社」と並ぶ二大通信社でした。

この「プロント」の斜め向かい側の銀座8丁目にある、今バー「ブリック」がある辺りに、国民新聞社があったというのです。

国民新聞は、1888年(明治21年)に民友社を起こした徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊。蘇峰も改進党に近い立場だったようです。

銀座6丁目の交詢社。福沢諭吉の提唱でつくられた日本最初の実業家社交クラブ。ここに福沢が創刊した時事新報社がありました。

時事新報、国民新聞、報知新聞は、戦前を代表する新聞でしたが、戦後、いずれも廃刊します。

交詢社通りを有楽町駅に向かった隣の隣のビルは、今、ヴェルサーチェなどが入居していますが、ここには、光永星郎が起こした日本電報通信社(後の電通)が1906年(明治39年)に本社を構えた所でした。

このビルの並木通りを渡った真向かいにホーン商会ビルがあったと言われます。このホーン商会ビルには、米AP通信社と英ロイター通信社などが入居していました。後に同盟通信社を設立する一人、古野伊之助は、新聞広告を見て、AP通信社の給仕としてジャーナリストとしての第一歩をここで踏み出すことになります。

何か、非常に感慨深いものがありますねえ。

国民はなめられている

 東京の調布先生です。
 ワールドカップ・サッカーの観戦で、皆さん、また寝不足のことでしょう。チャップリンが生きていたら、「サッカー狂時代」とかいうタイトルで、面白い風刺映画をつくっことでしょう。
 「渓流斎日乗」の読者の皆さんのようなインテリさんまで、「サッカー汚染」されるのですから、時の為政者安倍首相は「世の中は、チョロい。チョロいもんだよ」と一昨日は、二代目猿翁の稽古場跡の居酒屋「赤坂 うまや」で「忖度部下」と一緒にニンマリと酒を飲んでいるのです。
 そして、昨晩は、東京・赤坂のイタリア料理店「キッチャーノ」で、曽我豪(朝日新聞編集委員)、山田孝男(毎日新聞特別編集委員)、小田尚(読売新聞東京本社調査研究本部客員研究員)、石川一郎(BSジャパン社長)、島田敏男(NHK名古屋放送局長)、粕谷賢之(日本テレビ取締役報道解説委員長)、政治ジャーナリスト田崎史郎(元時事通信)と優雅にも食事しているのです。
 まさか、官房機密費から食事代が出ていないでしょうね。納税者として、曽我、山田、小田、石川、島田、粕谷、田崎の名前は覚えておくことです。特に、国営放送の島田局長は、わざわざ、名古屋から飛んできたんですか。。。国民から視聴料を簒奪している公共放送の幹部が、現場をほっぽり出したりしていいんですかねえ?誰も批判しないので、迂生が指摘しておきます。
 もう一回、まさか、と言いますが、「国民はバカだから新聞を読まない。これで、自民党も安泰、万々歳だ」「ごもっとも、ごもっとも」と茶坊主のような会話を交歓しなかったでしょうね?
 マスコミがスクランブルを組んで、時の最高権力者にこびへつらったのか、為政者が下々の生活を知りたくて昵懇のメディア関係者を呼びつけたのか、どちらか分かりませんが、さぞかし、藤原道長も催したことがないほど和気藹々とした懇親会だったことでしょう。いずれにせよ、国民はなめられているということですよ。
 そういえば、赤坂の居酒屋「うまや」には、昔、貴人と御一緒しませんでしたか? 亡くなった藤間紫さんと市川猿之助(猿翁)の稽古場を改造したお店で、迂生は何度も行きました。

でも、総理大臣が行くには、聊か不釣り合いですよ。若いミーちゃん、ハーちゃんが行って喜ぶような雰囲気です。

 

それから、「昭和シェル」との合併問題で「出光一族」が、賛否で内部対立しているようですね。数年前あった「大塚家具」の親と娘の家族対立みたいな構図です。創業者の出光佐三も、泉下で泣いていると思いますよ。それに、「村上ファンド」やインチキ弁護士、コンサルタント屋、周旋屋なども入り込み、内実は漫画みたいな展開になっていると思います。取材するには面白いと思います。

追河探訪記者がワクワクする素材です(笑)。