真言宗の沿革、空海~観賢~叡尊~覚鑁上人のこと

「出版不況」が囁かれている中、今、一番元気を出しているのが京都市山科区に本社を構えるミネルヴァ書房かもしれません。

 その出版社が本日の朝日新聞朝刊に「ミネルヴァ日本評伝選」通巻200冊の全面広告を2面ぶち抜いて出しておりました。相当な広告費をかけてますね。卑弥呼から力道山まであります。フムフムと眺めていたら、あれっ?空海さんがない!ということが分かりました。宗教家として道元や親鸞、日蓮らは入ってましたが、法然さえ取り上げていません。あまり知られていない金沢庄三郎らは取り上げていますから、解せないなあ、と思いました。

 私は、いかなる特定の宗教団体にもカルト集団にも(笑)、入っておりませんが、日本の文学や絵画、彫刻、文化、思想には仏教は欠かせないと思っています。となると、宗派の開祖と言われる最澄、空海をはじめ、法然から隠元に至るまでは最小限必要ではないでしょうか。これから出るかもしれませんが。

高野山

何度も書くようですが、この夏に初めて高野山を参拝して真言宗や空海(774~835年)についてはさらに興味を持ちました。専門書を読めばいいのでしょうが、私は俗人ですから、経典そのものよりも、もっとジャーナリスティックな人間関係や逸話の方に興味があるので困ったものです。

 そういった種類の情報は、今では専門書よりもネット上に多く溢れているので大変助かります。ただし、気を付けないと、とんでもないフェイクニュースめいたものがあるので面食らってしまいます。例えば、「空海は男色の開祖だった」とか、「最澄と空海は弟子を奪い合って三角関係になっていた」といった類です。まあ、1200年以上も昔なので、真相は不明ですが、出典も不明なので、「ネットは何でもありの世界」だということを肝に銘じなければなりません。

 ジャーナリスティックな話ですが、真言宗を調べていて分かったことは、空海入定後、弟子たちがさまざまな分派を起こしたため、今では50以上もの宗派があることでした。その中でも「主要16派18本山」は主流になっていました。この18本山の中で、個人的に驚いたのが奈良県の西大寺です。もともと、称徳天皇が、父君の聖武天皇が創建した東大寺にあやかって創建した律宗の寺院でしたが、奈良から京都に遷都されてから荒廃して無住となってしまったというのです。その西大寺を鎌倉時代半ばに再興したのが叡尊上人(1201~1290)です。若き頃、醍醐寺で密教を修行したことから、西大寺も律宗と真言宗が混合したような独特の宗派となり、今では真言律宗といわれているそうですね。奥が深いです。

 とにかく、真言宗には50以上の分派があるそうですから、開祖の空海も驚くことでしょう。

高野山 根本伽藍

 このように、ネット上にある真言宗関係を印刷してバインダーに閉じてみたら、とうとう1冊の本になってしまいました。これで、少し分かったことは、(相変わらずジャーナリスティックな話ですが)作家高村薫氏が著書「空海」で書いてあった通り、空海入定後、70年ほどで高野山は、伽藍が落雷や火災などで消失し、国司が土地からの収益を横領するなどして荒廃し、無住になってしまったようです。

 その荒廃の無住状態から復興させたのが、空海の十大弟子の一人真雅のそのまた弟子の観賢(854~925年)です。東寺長者と金剛峰寺座主を兼ねた観賢は醍醐天皇に空海に大師号をおくって頂けるよう上表します。その願いが叶ったのが921年(延喜21年)で、空海が入定されて86年後のことでした。弘法大師です。今では大師と言えば、弘法大師のことだと思われていますが、浄土宗の開祖法然ともなると、大師号は、1697年(元禄10年)の円光大師に始まり、800回忌に当たる2011年の法爾(ほうに)大師まで8回もおくられています。ちなみに、天台宗の開祖最澄が、伝教大師の諡号を清和天皇よりおくられたのは、866年(貞観8年)、最澄入滅から44年後でした。

 弘法大師ほどの万能の天才でも跡を引き継ぐ弟子が優秀でなければ教義も寺院も絶えてしまうことが真言宗の歴史を読み込むと分かります。その断絶寸前と分裂の危機の中に現れたのが覚鑁(かくばん)上人(1095~1144年) 興教大師です。この人は宗派によって色んな書き方をされていますが、真言宗の中興の祖といって間違いないようです。(高野山では現地ガイドさんから「覚鑁上人は、高野豆腐を発明した僧侶」と説明されましたが、どうも違うようです)

 覚鑁上人は、空海が入定して約300年後に高野山の金剛峰寺の座主となり、弘法大師の遺志を復興しようとしますが、高野山の守旧派からの反発と妬みなどを買い、紛争を解決するには自分の身を引くしかないと考え、1141年頃、弟子たちとともに根来山に移ります。その2年後の1143年に49年の短い生涯を終えますが、興教大師以前の高野山や東寺を中心とする流れを古義真言宗というのに対して、興教大師以降の根来山を中心とした流れを新義真言宗(智山派、豊山派なども)といいます。

 真言宗では「南無大師遍照金剛」(遍照金剛とは、空海が恵果和尚から頂いた灌頂名)と唱えますが、新義真言宗では「南無大師遍照金剛 南無興教大師」と唱えるそうです。

 このような話は専門家から見れば当たり前過ぎて表層的ですが、自分自身、ちょっと頭の整理をしてみたかったのです。また、茲では書き込めませんでしたが、力を持った高野山や根来山は信長、秀吉らの格好の標的となったり、真言宗にはこのほか多くの名僧、智僧、怪僧がいたりしたことを付け加えておきます。

来る者は拒まず、去る者は追わず

もう9月ですか…。過ぎ行く日々をつかまえたくなりまして、この夏を少し振り返ってみたくなりました。

個人的に、この夏の一番のハイライトは長年の夢だった真言宗の高野山(和歌山県)にお参りできたことでした。ちょっと高いツアーでしたが、行って本当によかったです。これまで全ての国内の聖地を訪れたわけではありませんが、滋賀県の天台宗総本山比叡山延暦寺も、福井県の曹洞宗大本山永平寺も意外にも観光地化した俗っぽさにがっかりしたことがありました。しかし、標高900メートルの山奥にある高野山は、街全体が静謐で、壇上伽藍は荘厳な雰囲気に包まれていました。

 えらく感激したのですが、皮肉屋の仏教ジャーナリストM氏は「真言宗は現在、大きく18本山に分派していますが、高野山真言宗(総本山金剛峰寺)は少数派なんですよ。むしろ、豊山派(総本山長谷寺、大本山護国寺)や智山派(総本山智積院、成田山新勝寺、川崎大師、高尾山薬王院)の方が勢力が大きいんですよ。それに、奥之院に織田信長や豊臣秀吉らの供養塔があるのは何のためにあるか御存知ですか?人を呼び寄せる観光のためですよ」と、のたまうではありませんか。

 まあ、その真偽も含めて、それはそれとして。夏の高校野球の季節となり、今年も智弁和歌山や智弁学園(奈良)の常連高が出場して、気になって調べたら、智弁が付く両校とも弁天宗という宗教団体を母体とする学校法人が運営する学校でした。そして、この弁天宗というのは、まさに高野山真言宗の流れを汲む新興宗教だったんですね。知りませんでした。

 このほか、真言宗系の新興宗教として、現在最も勢いがあって注目されているのが真如苑です。経済週刊誌に「最も集金力がある」と書かれていましたからね。真如苑は真言宗醍醐派(総本山醍醐寺)の流れを汲むそうですが、茲ではこれ以上踏み込みません。

京都・六角堂

夏の一番暑い盛りに京都にも行きました。どういうわけか浄土宗の寺院を巡る旅になりましたが、最終日に京洛先生から「京都のへそ」と言われる六角堂に連れて行ってもらいました。この六角堂の本堂北の本坊は「池坊」と呼ばれ、生け花の発祥地といわれてましたね。

 この池坊の敷地に読売新聞社の京都総局があり、「それは、読売新聞二代目社主の正力亨氏の妻峰子さんの妹が、池坊専永夫人の保子さんだったからです。その御縁なのでしょう」といったことをこのブログで書きました。

 そしたら、京都旅行から帰ってしばらくたった8月24日、この正力峰子さんの訃報に接したのです。享年83。亡くなったのが8月17日だったということで、ちょうど私が京都に滞在していた時でした。凄い偶然の一致には驚いてしまいました。

さて、先日、映画「ジョアン・ジルベルトを探して」を観ましたが、あんまり感動しなかったので、2007年8月に日本で公開され、あまりにも面白かったので、サントラ盤とDVDまで買ってしまった「ディス・イズ・ボサノヴァ」(2005年製作)をお口直しに自宅で観直してみました。

 日本ではあまり知られていませんが、ボサノヴァのスーパースター、カルロス・リラとホベルト・メネスカルの2人が、自分たちのボサノヴァの歴史を思い起こして、所縁の地を訪れるドキュメンタリーです。アントニオ・カルロス・ジョビンの息子パウロ・ジョビンもミュージシャンとして出演していました。

 これを観ると、ジョアン・ジルベルトの魅力が否が応にも分かります。その囁くような歌唱も、彼が独自に開発したといわれるギターのバチーダ奏法も、他の一流ミュージシャンと比べると、まるで月とスッポン。レベルの差が歴然としているのです。ジョアン・ジルベルトなくしてはボサノヴァは生まれなかった。彼がボサノヴァをつくった、と言われるのは納得できました。

 そのジョアン・ジルベルトはかなりの奇人変人で、晩年は隠遁生活に入り行方不明になります。映画「ジョアン・ジルベルトを探して」にも描かれていましたが、若い頃、かなり仲が良かった親友とも仲違いしたわけではないのに、何十年も会わなくなります。

 でも、私は逆に勇気付けられました。私も、学生時代にかなり仲が良かった親友と仲違いしたわけではなく疎遠になってしまったからです。こちらが色々とイベントや飲み会に誘ったりしても向こうが都合が悪かったり、メールをしても返事がなかったりしたからです。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 最初は、こちらが何か悪いことをしたのではないか。何か気分を害することでも知らずにやってしまったのか。できれば、その誤解を解きたいと思ったものでしたが、この映画を観て、「もう誤解を解く必要もないか」と思うようになりました。「人間が恐怖(不安、嫉妬、劣等感)と欲望(出世、名誉、財産)で出来ている」のなら、もう策略することなく、無為自然、成り行きに任せて生きる(老子、列子、荘子)のが、自分にとっても、相手にとっても一番いいのではないのかと思ったのです。

 来る者は拒まず、去る者は追わずです。

 ボサノヴァの最重要人物の一人、ヴィニシウス・ヂ・モライス(「イパネマの娘」の作詞、作曲家、作家、外交官)は恋多き人で、9回も結婚・離婚を繰り返したそうですが、その話を聞いたただけでも私は「ご苦労さまです」と頭を下げたくなります。ということで、私自身、今年の夏は、モライス先生のように、浮いた話が全くなかったのですが、大変充実した夏を過ごすことができました。

 高野山といい、京都旅行といい、自分の目的を、他人に操作されることなく、自分の意志で行う「人間の尊厳」(イマヌエル・カント)を実行できたからです。

真言宗の最高儀式「後七日御修法」

高野山 大門

 先週、高野山に初めて参拝する機会に恵まれたため、真言密教に、より興味を持つようになりました。真言宗については、このブログでも何度か取り上げておりますが、自分が書いたものでもすぐ忘れてしまいます(苦笑)。

 真言宗には「豊山派」や「智山派」など色々な「派」がありますが、不勉強のせいか、その経緯については詳しく知りません。

 そこで、調べたところ、私が1年に1度は訪れている京都にある東寺(教王護国寺)は、真言宗の総本山だということは知っていましたが、有名な仁和寺も醍醐寺も真言宗だったんですね。恥ずかしながら、宗派は少しも気にせずにお参りしておりました。

 もう一つ、自分の恥を晒しますが、関東では、川崎大師や佐野厄除け大師は、初詣に多くの参拝者が訪れ、「大師」が付くので真言宗の寺院だということはよく知っておりましたが、成田山新勝寺も真言宗(智山派)だったとは、意識しておりませんでした。駄目ですねえ。

 少し話を脱線しますと、成田山新勝寺は、江戸時代以来、歌舞伎役者市川団十郎が篤く信仰し、屋号も「成田屋」にしていることは御存知の通りです。高野山の奥之院にも初代市川団十郎の墓所がありました。ところで、近く団十郎を襲名する市川海老蔵の若くして亡くなった奥さんの旧姓は小林麻央(まお)さんでした。海老蔵は真言宗の開祖空海の俗名が佐伯真魚(まお)ということを知ってましたから、初めて麻央さんと会った時に、ピンと来て、結婚に踏み切ったといいます。

高野山

 本題に戻します。真言宗の「派」でした。これは「真言宗十八本山」といって、真言宗には主要な派として16派18総本山あるというのです。主なものを挙げると、高野山の総本山・金剛峰寺が「高野山真言宗」、京都の東寺(教王護国寺)が「東寺真言宗」、京都の智積院が「智山派」、京都の仁和寺は「御室派」、 覚鑁(かくばん)上人が開山した和歌山県の根来寺が「新義真言宗」、奈良県の長谷寺が「豊山派」などです。皇室ゆかりの寺院として知られる泉涌寺は「泉涌寺派」、大覚寺は「大覚寺派」とそのままですね。

 最初に「自分が書いたものをすぐ忘れる」と書きましたが、京都にお住まいの京洛先生から「毎年1月に後七日御修法(ごしちにち みしほ)の記事と写真をお送りしておりましたが、覚えていないのですか?」との御下問がありました。

 えーと、何でしたっけ?その後七日御修法とかいうものは?

 駄目ですねえ。

  後七日御修法とは、毎年新年1月8日~14日までの7日間執り行われている真言宗の最高儀式で、全国の真言宗の16派18総本山の長老、高僧が一堂に会します。平安時代初めの承和元年(834年)、仁明天皇が空海の進言で宮中で始めた「国家安泰」を祈願したことが始まりと言われています。途中で断絶したこともありますが、1000年以上続いている儀式です。

 後七日御修法に毎年選ばれる高僧は15人で、その資格は70歳以上です。その中で、さらに大阿闍梨(導師)になれるのは、何回も、後七日御修法に選ばれて出仕した高僧だけです。しかも、御七日御修会が行われる灌頂院の堂内は寒いので、昔は、ここで亡くなった方も居られたといいます。

 ーということなどを、今年も昨年も一昨年もこのブログに書いていたんですね。すっかり忘れておりました(苦笑)。

【ご参考】2018年1月15日「京都・東寺の「後七日御修法」で取材敢行=京洛先生登場」、2019年1月15日「京都・東寺で御修法=真言宗最高の秘儀

 

高野山の修旅=如是我聞(下)ー三鈷杵

宿坊「天徳院」の朝食

「高野山の修旅」も3日目、今回が最終回です。

伽藍の東塔

 3日目最終日は7月13日(土)、再び壇上伽藍に行きました。初日のナイトツアー、2日目は個人的に夕方歩いて回りましたので、これで3日連続3回目です。

すっかり慣れました。自分の庭のように歩き回ることができました(笑)。

 静謐で厳かな雰囲気は何事にも代え難いものがあります。

伽藍の金堂

 上の写真の金堂は、もともと2階建てでしたが、大正天皇の法事の際に、ろうそくの不始末が原因で焼失してしまいました。

 昭和7年(1932年)に再建され、高村光雲作の薬師如来像が本尊として安置されました。

 内部の菩薩などの壁画は、木村武山の筆によるものです。

根本大塔

 高野山の象徴的存在となった根本大塔は、高さ48.5メートル。日本最高の成田山新勝寺の塔50メールに次ぎ、2番目の高さです。

 大塔内部は、初日の回(上)で書いた通り、金剛曼陀羅を具現化したもので、本尊は、手指を輪にする胎蔵大日如来です。一方、西塔は胎蔵曼陀羅を具現化したもので、本尊は、印を結ぶ金剛大日如来と逆でしたね。

 胎蔵大日如来は優しい母性を、金剛大日如来は厳しい父性を表すと言われています。

大塔内壁に描かれた真言八祖像や花鳥は、堂本印象画伯の筆によるものです。

伽藍 六角経蔵

 六角経蔵の基壇付近にある把手を持ちながら一回りすると、一切経転読の功徳があると言われています。

 もちろん、ツアー参加者全員が一周しました。

清浄心院の豊臣秀吉が御手ずから植えた傘桜

 壇上伽藍参拝の後、清浄心院に向かいました。ここの住職は円満院住職も兼ねているので、門には二つの寺院の名称が掲げられていました。

 この寺には、豊臣秀吉自ら植えた傘桜があり、この樹の周囲で酒宴が開かれたそうです。

豊臣秀吉筆

 この酒宴の後に、興に乗った秀吉が書いた詩文が上の写真です。

 この直筆が、本物か複製か分かりませんが、実に独特な筆致で芸術の域に達していることが分かります。天下を取るはずです。

 本尊は運慶作の仏像で、国宝級でしたが、寺では申請していないようです。申請して国宝と認定されると、温度と湿度の管理、それに盗難防止用のセキュリティもしなければならず、結局、経済的にできないと、博物館に召し上げられてしまう恐れがあるからだそうです。

 高野山の寺院巡りはこれで終わり。標高900メートルの山を下りました。

慈尊院

 山を下ってツアー最後のコースの寺院が慈尊院でした。何でこの寺に立ち寄るのか、最初分からなかったのですが、空海の母親が息子の安否を気遣って、讃岐から出てきて滞在した寺だというのです。

慈尊院の塔

高野山は女人禁制ですから入山できません。

慈尊院を創建した空海は、母親に会いに、片道9キロの道程を月に9回出掛けたので、この辺りを九度山と呼ばれるようになったといいます。

 また、高野山参りの道しるべとして、「町石(ちょういし)」と呼ばれる石造りの卒塔婆が、山麓から奥之院にかけての約24キロを、1町(約109メートル)ごとに置かれましたが、その山麓の基点がこの慈尊院だったのです。

 鎌倉時代に慈尊院から伽藍の大塔まで180基、大塔から奥之院まで36基の町石が造れたといいます。

 当時は神仏習合ですから、空海は慈尊院の隣といっても、急な階段を100段近く上らないければなりませんが、丹生官省神社も同時に創建しました。

 空海の庇護者として金塊を与えてくれた例の丹生氏を神さまとして祀った神社です。

丹生官省府神社

 空海は、6月15日生まれで、唐に留学した時の師、恵果和尚(けいか・かしょう)のそのまた師である印度の不空上人が6月15日に入滅したことから、恵果は、空海が不空師の生まれ変わりと認め、20年掛かる留学期間をわずか2年で許しました。

 しかし、空海は日本に帰国しても、20年の約束だったため、京の都に戻れず、数年間は九州に滞在することになります。

 この時、空海は、宗像大社近くに鎮国寺と福岡市博多区に東長寺を創建します。高野山より古いので、これらの寺は、今でも「日本で一番古い真言密教の寺」として任じています。

 ということで、今回の旅行会社が立案した高野山の寺社仏閣巡りはすべて重要な拠点ばかりで、大変素晴らしい内容でした。感謝申し上げます。

【高野山霊宝館のパンフレットより】弘法大師さまの右手に持っているのが三鈷杵。衆生救済のために、変な持ち方で、衆生に三鈷杵を向けて、邪気を打ち払っています。

 最後に、気になっていたのが、三鈷杵(さんこしょ)です。

 古代インドでは確かに武器として使われていましたが、仏具としては、邪気や悪や、己の弱き心まで打ち祓うために使うのだそうです。

 何だか、私も欲しくなってしまいました。

南無大師遍照金剛

高野山の修旅=如是我聞(中)ー「奥之院」には戦国武将がずらり

高野山のシンボル、壇上伽藍の根本大塔

 昨日書いたブログ「高野山の修旅=如是我聞(上)ー経済基盤」は、資料整理や何十枚も撮った写真の選別、執筆、校正等で8時間以上も掛かってしまいました。

 まさに、「一日仕事」でした(苦笑)。運良く今日は「海の日」の祝日なので、残りは、部屋に籠って仕上げてしまいましょう。

 ツアーに一人で参加した男女5人は、宿坊「天徳院」で、朝晩、同じ部屋で一緒に食事をすることになり、知らぬ同士がお皿叩いて、色んな話に花が咲きました。

 ツアーは決して安価ではなかったので、皆さん裕福な上流階級風で、国内も海外もかなり旅行されている感じでした。やはり、寺社仏閣に興味がある方が多く、中には「御朱印帳」を持って集めらている方もおられました。

 私はコレクションの趣味もないし、御朱印にも関心がないのですが、寺社仏閣どこでも一件に付き300円だそうです。しかし、浄土真宗系の寺院は、御朱印はないそうです。さすがに書かれる字は達筆な方が多いのですが、奈良の東大寺はあまりにも人が多いので、高校生のアルバイトでも使っているらしく、下手な字で、「俺にも書けそうな字でしたよ」と、参加者のお一人が言うので、私も思わず笑ってしまいました。

2日目の7月12日(金)、最初に訪れたのが北室院(きたむろいん)でした。

 ここは伊達政宗の菩提寺で、御位牌がありました。宿坊にもなっています。

 続いて訪れたのが、蓮華定院(れんげじょういん)。信州真田家の菩提寺です。

 3年前の2016年に放送された大河ドラマ「真田丸」をご覧になった方は覚えていらっしゃると思いますが、関ケ原の戦いで西軍について敗れた真田昌幸、幸村親子が高野山蟄居を命じられ、滞在した寺です。東軍についた幸村の兄信之の助命願いが通ったからでした。

高野山は寒いの蓮の花は育たないので、一度、麓で育ててから運んで来るそうです=蓮華定院

 案内をしてくれたのは、剃髪していない若い現代風の尼僧さんで、ドラマ「真田丸」が放送される半年ほど前に、主役の堺雅人と夫人の菅野美穂がお忍びでこの寺を訪れたことを話してくれました。

 当時、寺社仏閣に油をかける事件が多発してから、この寺も一般の入場者を禁止することにしたそうです。そんな折、マスクをしてサングラスをかけた怪しげなカップルが是非拝観したいと訪れます。尼僧は「これは危ない」と思い、後ろから監視するためについていき、薄暗い本堂に入って、二人がサングラスとマスクを外した時、初めて有名俳優だと分かったというのです。

 蓮華定院の住職は、当時、真言宗の宗務総長を務め、高野山のナンバーツーの地位にあり、大変忙しい人でしたが、たまたま、院内にいらしたのでお声掛けしたところ、3人で2時間近くも歓談したそうです。

 それから半年後、「真田丸」の配役が発表され、主役の真田幸村役に堺雅人がなることを初めて知り、尼僧さんは「あの時、住職に引き合わせて良かった」と安堵したそうです。

 我々にも、「特別に」ということで、阿弥陀如来が安置されている例の薄暗い本堂まで案内してくれました。

 蓮華定院の裏にある真田家の墓地です。御覧の通り、鳥居があります。前回も書きましたが、当時は、神社と寺院が融合した「神仏習合」が普通だったのです。

 実は、真田昌幸、幸村は、高野山蟄居14年間中、蓮華定院に滞在したのはわずか1年ほどで、ほとんど麓の九度山で家族、家臣と一緒に暮らしたそうです。

 それでも蓮華定院内には至るところに、真田家の紋章である「六文銭」と「雁金」がありました。

続いて訪れたのが、金剛峯寺です。前夜に続いて二度目ですが、中の本堂にまで入るのは初めてです。

 この日は、高野山の重要な行事である「内談義」が行われ、偉い方も登壇されました。

 上の写真は、最高位の管長さんで414世だとか。ガイドさんの説明では、成就院の住職だということですが、聞き間違えかもしれません(苦笑)

 上の写真が、高野山のナンバーツーに当たる法印さんで、弘法大師さまの名代として年に1回務めるそうです。

 取材が甘いので(笑)、お名前は割愛させて頂きます。

 前回書きましたように、金剛峯寺は、高野山の総本山ではありますが、寺務所であり、真言宗の宗務所を兼ねているわけです。

 金剛峯寺(僧侶の間では、「こんごうぶじ」ではなく「こんごうぶうじ」と発音するそうです)は、元々、青巌寺(せいがんじ)と称し、豊臣秀吉が文禄2年(1593年)に母堂の菩提寺として応其(おうご)上人に命じて建立したものでした。

 あの関白豊臣秀次が高野山に追放されて、秀吉の命によって自害したのが、この青巌寺の「柳の間」でした。

 明治2年(1869年)、隣接する興山寺と合併して、寺号を金剛峯寺と改めたわけです。

 中庭の「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」は、国内最大の石庭だとか。

 本堂の広間では、このように僧侶による有難い講話を聞かせて頂きました。お茶と茶菓子付きです(笑)。

 真言密教の教義である「即身成仏」とは、生きているままで、仏になることですが、これは、優しい慈悲の心である仏性(ぶっしょう)に気づいて、それを大きくすることだと説かれていました。

 そして、僧侶は「毎日、感謝の気持ちを持ちましょう。日記の最後に感謝できることを付け加えるとお金が溜まります」と意外にも俗っぽいことまで話してました。

 とはいえ、毎日感謝の気持ちを忘れないと、我欲が減り、自制心が抑えられ、無駄遣いが減り、日常生活の中での文句も減る。一つ良いことを考えると世界全体が良くなる。因果応報です、などと力説されておられました。

 昼食休憩の後、いよいよ「奥之院」に向かいました。

 その前に、現地女性ガイドさんも結構ミーハーで(失礼!)、先日亡くなったジャニー喜多川さんの戒名の写真までスマホに収めていて、ジャニーさんの御尊父が修行していた寺は、普賢院であることまで教えてくれました。

 付け加えるまでもなく、ジャニーさんの御尊父が、米ロサンゼルスにある真言宗別院の住職を務めた関係で、ジャニーさんはロサンゼルス生まれだったのでした。

 華やかな芸能界で大成功したとはいえ、ジャニーさんは偉ぶることなく裏方に徹したのは、真言宗の影響があったのかもしれません。

武田信玄・勝頼墓所

奥之院は、入り口の「一の橋」から、弘法大師入定の地である「御廟(ごびょう)」まで約2キロ。皇族から諸大名、宗教家、文人に至るまで、墓、供養塔、慰霊碑など20万基を超えると言われています。

 ガイドさんの説明では50万基でした。

 樹齢何百年の杉などの樹木に囲まれ、とても静謐な雰囲気で、歩いているだけで霊感を感じるほど気持ちが洗われます。

上杉謙信廟

 私自身は、テレビの「ブラタモリ」を見て、初めて、戦国武将らの墓や供養塔があることを知り、是非とも訪れたかったのでした。

石田三成墓所

 私は個人的に、城好きですから、ほとんどの戦国大名が、高野山に墓所や供養塔があることに驚かされました。

明智光秀墓所

 本能寺の変を起こした明智光秀の墓所まであります。「主君を裏切った者」として、墓所設置には反対する方もいて、紆余曲折があったことを漏れ聞きました。

筑後久留米有馬家墓所

 我が高田家の御先祖さまが仕えた久留米藩の当主有馬家の墓所までありました。

法然上人墓所

浄土宗の開祖源空法然上人(円光大師)の墓所まであるとはこれまた吃驚です。

織田信長墓所

何と織田信長の墓所までありました。比叡山延暦寺を焼き打ちした信長は、高野山も焼き打ちする計画でしたが、本能寺の変で命を落とし、実現できませんでした。

 高野山にとっては、信長は「敵」に当たるので、どうして、ここに墓所があるのか謎なんだそうです。

 お隣にあるのが筒井順慶の墓ですが、何故隣にあるのか謂れは不明のようです。

護摩堂

 前回、高野山には注連縄が少ないと書きましたが、その理由は、高野山は高地のため稲が育たないからです。稲がないと、注連縄の原料である藁がないということです。

 そこで、注連縄の代わりに上の写真にある白い紙が三枚、高野山のどこの寺院でもぶら下がっています。これらの切り紙は「宝来」と呼ばれ、「宝殊」「寿」「干支」の三種類があるといいます。

御廟橋(ごびょうばし)

御廟橋から先は撮影禁止です。

この一番奥に「弘法大師御廟」があります。宝亀5年(774年)6月15日、讃岐(現香川県善通寺市)生まれの空海(幼名は佐伯真魚=さえき・まお)は、承和2年(835年)3月21日、満60歳で地下3メートルの深さにある岩屋の室に籠って、入定(にゅうじょう)されます。その86年後の延喜21年(921年)、醍醐天皇より弘法大師の諡号(しごう)を賜りました。

 入定というのは、衆生の苦難救済のために修行を重ね続けるということなので、真言宗の信徒にとっては、まだ大師さまはご健在ということです。ですから、毎日、朝の6時と10時半の2回、お食事(「生身供(しょうじんぐ)」)をお持ちするというのです。1200年近く続いているのでしょう。

 私たちも地下3メートルの室にまで行ってお参りしてきましたが、自然と涙が溢れ出てきました。弘法大師の偉大さを肌身で感じることができました。

豊臣秀吉供養塔(手前ではなく奥)

御廟をお参りする直前に、織田信長の墓所を訪れたので、ガイドさんに「秀吉や家康の墓所はないのですか」と質問したところ、「家康は神さまになったので日光で祀られてますからここにはありません」という答えでした。

 それなら豊臣秀吉の墓所に案内してくれるのかと思ったら、違う道を迂回して、遠目でしか見えない所にしか連れて行ってくれませんでした。

 それには理由があって、迂回路に売店があって、そこだけしか売っていない弘法大師像のお守り(3000円)を売りたいがためでした。マージンを貰っているからでしょう。

 別にマージンを貰っていようが構いません。ビジネスですから大いに結構。でも、もし、ちゃんと豊臣秀吉の供養塔まで案内してくれていたら、私も気分良く大師さまのお守りを買ったことでしょう。

奥之院の後、親王院まで連れて行ってくれました。バスなので移動が楽です(笑)。

 親王院は、空海の弟子真如(高岳親王=平城天皇第三皇子、薬子の変で廃太子となり出家)が創建した寺で、高野山の中でも最も古い寺の一つだそうです。

 真如親王は、前回、壇上伽藍の「御影堂(みえどう)」を書いた時に出てきました。御影堂には、真如の筆と伝えられる空海の御影が奉納されていましたよね。

伊藤若冲=びっくりしてピンボケ

 親王院は、宝物の宝庫で、かの伊藤若冲の絵画が無造作に置かれていたりするのです。案内してくれた尼僧の住職さんは冗談好きで、後継ぎの息子さんが、護摩焚きなどの仕事熱心なのはいいが、いまだ独身。「はよ、お嫁さんもらってもらわんとかなわんわ」と、心配しておりました。

 高野山の中で最も古い建造物とあって、本堂はいまだに電気が通っておらず、真っ暗で、ろうそくの火だけが頼りでした。

 国宝級の不動明王など数々ありましたが、届け出て、国宝などに指定されたりすると、温度湿度管理やらが厳しく、挙句の果ては、博物館に持って行かれてしまうからに、と尼僧さんはボヤいておりました。

霊宝館

 ツアーは午後3時半で解散となり、時間が余ったので、一人で、宿坊「天徳院」から歩いて7,8分のところにある「高野山霊宝館」(600円)に行って来ました。大正10年(1921年)に出来た日本最古の木造博物館だということです。

「両界曼荼羅」の大きさには圧倒されました。このほか「大日如来坐像」「弘法大師坐像」など国宝、重文級のものが多く展示され、一見の価値がありました。

京都・東寺で御修法=真言宗最高の秘儀

おはようございます。京洛先生です。最近の渓流斎ブログを拝読しておりますと、名古屋の篠田先生だの、大阪の難波先生だの、色んな先生が登場され、貴人も果報者ですね。吉田兼好も「徒然草」の中で「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり 」と言っております。何事も先人の助言を虚心坦懐に聞いておけば、早まった決断をすることなく、あとで後悔しないものですよ。

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さて、昨日の14日は、貴人もご存知の「東寺(教王護国寺)」で、国家安泰を祈願した真言宗の最高の秘儀「御修法(みしほ)」が終わりました。

「ああ、あれですね!」と言われるでしょうか。それとも、「えっ?それ何でしたっけ?」と素惚けることでしょうか(笑)。何度も渓流斎ブログでも取り上げて頂いた御修法ですよ。迂生は、今年も一年に一度だけ特別開扉される境内の国宝「灌頂院」に入ってきました。


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以前も書きましたが、もうお忘れかもしれませんが(笑)、「御修法」は、真言宗の開祖・弘法大師が承和元年(882年)に「国家鎮護」を祈祷して始めたものです。明治時代までは宮中で行われておりましたが、明治以降は、遷都になったこともあり、場所がここ東寺の「灌頂院」に代わりました。

  今月8日に宮内庁京都事務所が天皇の「御衣(みころも)」を東寺に預け、それを祈願した御衣を、14日には勅使が受け取りに同寺に訪れました。


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 御修法には、全国の真言宗の16派18総本山の長老、高僧が一堂に集まるいわば“真言宗サミット”でもあり、毎年のことですが、大勢の真言宗の僧侶、関係者が集まり、天気も良いので大変な賑わいでした。


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 例年と同じように御修法で祈祷された「御衣」を再び、宮内庁に引き渡すため「唐櫃」に入れた御衣と、祈祷した長老、高僧の還列があり、全国から集まった真言宗の寺院のお坊さんや関係者が手を合わせていました。


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頭髪をそり上げてテカテカに光るお坊さんのアタマというのは、本当に後光がさすというか、清潔感が漂いますね(笑)。ユール・ブリンナーが人気があったのもよく分かります(笑)


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 正午過ぎから、御修法の終わった灌頂院に入り、志納金(千円)で護符を頂くのですが、全国から見えたお坊さんの中には、壇信徒から頼まれたのでしょう、一人で何枚も護符を受け取る人もいました。


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一年に一度の「御修法」ですが、京都人でもほとんどの人は知らないでしょう。灌頂院前に並ぶ列もほとんど坊主頭のお坊さんばかりです(笑)。勿論、観光客はいません。

迂生は毎年出かけていますが、灌頂院の中は、先程まで祈祷されていた護摩木の匂いが残っていて、祈祷に使われた仏具やお供えの饅頭、干菓子などがそのまま残されておりました。「胎蔵曼荼羅」「金剛曼荼羅」など重要文化財も掛けられていて、ある意味で“究極の美術展”でした。


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 今年の「御修法」の導師(長老)の栄誉を受けたのは奈良の真言宗豊山派総本山「長谷寺」の田代弘興化主(79)です。

以上

京都・東寺の「後七日御修法」で取材敢行=京洛先生登場

京都・東寺「後七日御修法」 Copyyright  par Kyoraku-sennsei

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京都の京洛先生です。

 最近の貴人のブログを読んでいると、読んでいた本が難しくて途中で投げ出したり、通訳士資格を取る為、挑戦したものの、何ら値打ちもなく、詐欺に遭ったも同然だったり、何とも無残な話が出てきますね。世間に対して「見る目」がないんでしょうね。それに、根気、集中力が減退してきているのじゃないですかねえ(笑)。

 彼の有名な「ウマズイめんくい村通信」の加須主筆は、貴人よりもかなり高齢ながら、神田明神下で「甘酒」、神保町の「南海」ではカツカレー、京王線・明大前駅の相州屋で「カキフライ」と連日、食欲旺盛、精力的に飛び回っています。それに比べると、聊か寂しい限りです。これでは先が思いやられますよ。

 

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人間、チマチマしていると、老けるのも早く、あっという間に年を取り、姥捨て山、ナントかホームへ、一直線ですぞ!

 ところで、貴人は、自分の誤操作、誤作動で、折角、丹念に書き溜めた貴重な《渓流斎日乗》が一瞬のうちに泡沫の様に消え去ったので、もう、お忘れになったと思いますが、その僅かな一端に「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」があったのを覚えていますかね?

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 「東寺」(教王護国寺)で、毎年新年1月8日~14日まで7日間執り行われている弘法大師が開祖「真言宗」の最高の儀式ですよ。 平安時代初めの承和元年(834年)、仁明天皇が弘法大師、空海の進言で宮中で始めた「国家安泰」を祈願する、途中で紆余曲折あっても、1000年以上も続いてきています。

 この「御修法」が終わった後に頂く貴重な「お札」を求めて、全国各地の真言宗のお坊さんが並びます。その「後七日御修法」が、昨日14日(日)、無事、終わり、迂生もお札を頂きに東寺に出かけてきました。

 「東寺」のホームページには、この儀式について詳細に告示したり、案内は書かれていませんよ。

この儀式が始まった8日、地元紙は、以下のように報道しております。

 (引用)真言宗の最高儀式とされる「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」が8日、京都市南区の東寺(教王護国寺)で始まった。同宗各派の高僧が14日までの7日間、国家安泰や世界平和を祈る。

 開祖・空海が835年に宮中の正月行事として始めた。明治維新後に一時途絶えたが、1883年に場所を東寺に移し再興された。

 正午まえに宮内庁京都事務所(上京区)から天皇の御衣が届けられた後、大阿闍梨(だいあじゃり)を務める大覚寺(右京区)の黒沢全紹門跡ら15人の僧侶が本坊を出発した。

 冷たい雨が降る中、朱傘を差し掛けられながら、境内を歩いて法要を営む灌頂院(かんじょういん)に入った。沿道では、厳かな雰囲気の中、参拝者が手を合わせたり、行列を写真に収めたりしていた。14日まで計21座の法要を営む。(引用終わり)

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 東寺境内にある日頃、非公開の「灌頂院」(重文)も、この日だけは公開されております。そういう案内は出ていませんが、全国の真言宗各派の管長、高僧、お偉いさんや、檀信徒さんが、今日も朝から、寒い中、「灌頂院」の前に大勢並んでいました。

 上記写真の通り、お坊さん達が、後七日の御修法が終わった天皇陛下の「御衣(ぎょい)」が入った菊の紋の唐櫃を見送るために手を合わせていました。

 下記写真の通り、担いでいるお坊さんがマスクをしているのは、風邪予防の為ではありませんよ。「神聖な御衣に息をかけてはいけない」ということです。それに、いかにも高僧の雰囲気がにじむお坊さんの行列も凄いでしょう。

 迂生の後ろで、この光景を見ていた、東京からわざわざ来たという、50歳前後の女性は「仏画を書いているのですが、去年も来ました。灌頂院の中で、御修法が終わった後の護摩壇胎蔵界金剛界曼陀羅図や、貴重な仏具を見て感激しました。友達も誘ってきましたが、灌頂院の入れるのが、午後1時頃というだけで、はっきりしないので、2時間ほど、此処で待っているのですが・・・」と手持無沙汰なのか、迂生に話しかけてこられました。

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また、四国方面から来たお坊さんは、連れの檀信徒さんと「後七日御修法に毎年選ばれる高僧は15人で、その資格は70歳以上です。その中で、さらに大阿闍梨(導師)になれるのは、何回も、後七日御修法の出仕して、しかも、選ばれないといけないので、簡単には導師になれません。しかも、灌頂院の堂内は寒いですから、昔、ここで亡くなった方も居られましたよ」と、うんちくを語っておられましたね。

 迂生も、足元から冷えがきたので、帰宅後、ゆっくり風呂に入り、身体を温めましたが、御修法も終わって、愈々、平成30年が本格的に始まったと言えるでしょう。同時に、「平成」も段々、残り少なくなってきましたね。

以上、《渓流斎日乗》に一家言の持ち主の京洛先生でした(笑)。