古代日本をつくったのは藤原不比等だったのかも=梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー」を読んで

出雲大社

 大手出版社の大河内氏から贈呈して頂いた梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー」(新潮文庫)を読了していたので、この本を取り上げるのは、これで3回目ですが、改めて取り上げさせて頂きたく存じます。

 大雑把に言いまして、私なりの解釈では、古代の日本は、群雄割拠の豪族社会で、その最大級がスサノオ系の出雲王国と天孫系の大和王朝だったことです。出雲は、朝鮮の新羅と高句麗からの渡来人が農業や最新医療を伝え、影響が強かった。一方のヤマトは、朝鮮の百済系(秦氏など)の影響が強かった。

 最初は、出雲が大和や近畿まで制圧して一大王国を築き上げましたが、オオクニヌシの後継者争いの内紛につけこんだ大和が勢いを増して、出雲を「国譲り」の形で征服して全国統一を果たす。

 「古事記」「日本書紀」は、天孫系の大和朝廷の正統性を伝える書で、国の成り立ちを神話の形で暗示しましたが、その神々は、実在の豪族をモデルにした可能性が高い。両書は、出雲王国の神話も取り入れていますが、記紀の最高編集責任者は、実は大和朝廷の礎をつくった藤原不比等だったというのが梅原説です。それによると、「古事記」を太安万侶(その父、多品治=おおのしなじ=は壬申の乱で功績を挙げた渡来人だった)に口承して語ったと言われる稗田阿礼は、アメノウズメの子孫で、誰一人として五位以上になったことがない猨女(さるめ)氏出身だったという説もありますが、全く謎の人物で、梅原氏は、稗田阿礼は、藤原不比等ではないかと主張しています。

 梅原氏は、144ページなどにはこう書いています。

 出雲のオオクニヌシ王国を滅ぼしたのは、物部氏の祖先神であるという説がある。その点について、はっきりしたことは言えないが、「古事記」では国譲りの使者はアメノトリフネを副えたタケミカヅチであるのに対して、「日本書紀」では主なる使者は物部の神を思わせるフツヌシであり、タケミカヅチは副使者にすぎない。「出雲風土記」にも、ところどころにフツヌシの話が語られているのをみると、出雲王国を滅ぼしたのは、ニニギ一族より一足先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない。

出雲大社

 そうですか。出雲を征服した先兵は物部氏でしたか。ちなみに、フツヌシを祀っていたのは香取神宮ということで、物部氏は今の千葉県香取市の豪族か神官だったかもしれません。タケミカヅチを祀っているのは鹿嶋神宮で、タケミカヅチは、今の茨城県鹿嶋市から神鹿に乗って大和にやって来て、藤原氏の興福寺や春日大社に祀られるようになったと言い伝えがあります。つまり、鹿嶋神宮の神官だった中臣氏が、出雲王国の征服で一翼を担い、大化の改新では、蘇我氏を滅ぼして、中臣鎌足が藤原姓を賜って異例の出世を遂げた史実を、記紀は暗示したかったかもしれません。

出雲大社

 梅原氏は295ページでこう書きます。

 中臣氏はどんなに贔屓目に見ても、せいぜい舒明朝の御世に朝廷に仕えた中臣御食子(みけこ)の時代に初めて歴史に姿を現したにすぎない。(乙巳の変後)天才政治家、藤原鎌足が現れ、一挙に成り上がった氏族なのである。そのような氏族がアマテラスの石屋戸隠れ及び天孫降臨の時に活躍するはずがない。これは明らかに、神話偽造、歴史偽造と言わざるを得まい。

 厳しい言い方ですが、石屋戸に隠れたアマテラスを引き出す妙案を考えたのはオモイカネで、藤原氏の祖神とされているからです。中臣=藤原氏は、この時に活躍したフトダマを祖神に持ち、(現実世界では)宮廷の神事を司っていた忌部氏を排斥して、天智帝の下で神事を独占するわけです。

 こうして、藤原氏は天皇の外戚の地位を独占して政をし、近現代の近衛氏に至るまで1300年以上も日本の歴史に影響を与え続けます。その礎を創った藤原鎌足と、律令制を確立し、史書までつくった藤原不比等の功績は図抜けています。特に、不比等は、実務、実働部隊の最高責任者なのに記紀の編纂者として明記せず、黒子に徹した辺りは、まるで「黒幕」のようです。恐らく、不比等は、父鎌足の代で急に成り上がった氏族であることを骨身に染みて分かっており、他の有力豪族からの嫉妬や、やっかみや 、反発や反抗を怖れて、「影武者」に成りきっていたのでしょう。

 このような梅原氏の説は、古代史学会では正式に認知されていないのかもしれませんが、面白い本でした。大河内さん、有難う御座いました。

 

出雲王朝の興亡=記紀神話は史実に近いのでは?

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

(昨日のつづき)

梅原猛著「葬られた王朝」の出雲の物語は続きます。

 スサノオと兄弟神から命を奪われるほどの煉獄を克服して、再生した(文字通り、何度も死んで甦った)オオクニヌシは、めでたく出雲という大国の王を継承します。オオクニヌシはそれだけでは満足せず、越の国を征服しに行きます。 越の国とは、古代北陸地方の国名で、北陸道の越前(福井県)から越中(富山県)を経て、越後(新潟県)に至る広大な領域で、古志、高志とも書かれました。 ここでは、呪力を持つと言われる翡翠(ひすい)が採れ、三種の神器の一つである勾玉などになりました。「越は、縄文時代以来、大いに栄えていたに違いない。…出雲は長い間、越の支配を免れなかった」と梅原氏も書きます。となると、越の被支配国だった出雲が、逆に越を征服したことになりますね。

 出雲による越の征服は、古事記では、一種の恋物語として描かれています。

 すなわち、八千矛神(やちほこのかみ)、すなわち大国主神が、越の国の沼河比売(ぬなかわひめ)に求婚して結ばれるという話です。二人の間に生まれた子どもが、「国譲り」の際に最後まで抵抗して、ついに諏訪に追いやられ、諏訪神社の祭神となったタケミナカタだったといいます。(103ページなど)

 越を征服して日本海側に広大な王国を築き上げたオオクニヌシは、今度はヤマト征服を目論みます。ところが、出雲がヤマトとどのように戦ったか、「古事記」にも「日本書紀」に書かれていないので分からないといいます。

 しかし、その戦いは幾多の困難があったにせよ、オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる。関西周辺の地域には、オオクニヌシおよび彼の子たちを祀る神社や「出雲」の名前を伝える場所がはなはだ多い。例えば、オオクニヌシと同神といわれるオオモノヌシを祀った大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)、オオクニヌシの子コトシロヌシを祀った河俣神社(奈良県橿原=かしはら=市)、同じく子アヂスキヤカヒコネを祀った高鴨(たかかも)神社(奈良県御所=ごせ=市)など、ヤマトにある古社はほとんど出雲系の神を祀った神社であると言ってよかろう。また、京都、すなわち山城の亀岡には出雲大神宮という神社があり、それは実に丹波国の一之宮の神として信仰されてきた。…そういえば、京都には出雲路というところもある。…こう考えると、古くはヤマトも山城も出雲族の支配下にあり、この地に多くの出雲人が住んでいたとみるのが最も自然であろう。(110ページなど)

 そうでしたか。(ただし、記紀には書かれていないので、あくまでも、梅原氏の説です)

出雲大社

 オオクニヌシはこのように広大になった出雲王国を、朝鮮から渡来してきたといわれるスクナヒコナとともに治めることにします。スクナヒコナは、最先端の医療技術と酒の醸造法などを日本に伝えたといいます。スクナヒコナは、国造りが一段落したところで何処ともなく去っていきます。その時を同じくして、国造りを手助けをする神が現れます。その神はオオモノヌシといいました。あれっ?さっきの話では、オオモノヌシはオオクニヌシの同神ではなかったでしたっけ?

 日本書記では、オオクニヌシがオオモノヌシに「あなたは誰か」と尋ねると、オオモノヌシは「私はあなたの幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である」と答えたといいます。「私の魂とあなたの魂は同じである。あなたの最も美しい魂のみを持っている」という意味なのだそうです。同神とはそういうことでしたか。

  ということで、出雲王国はオオクニヌシの下で大きな繁栄を遂げます。しかし、次第に崩壊の道に進みます。その理由については記紀には記されていませんが、梅原氏は、オオクニヌシにはたくさんの子どもがいたので、後継者争いを巡る内部分裂が原因だったのではないかと推測しています。

 この内乱につけこまれて、最後は「国譲り」の形で、出雲はヤマトに征服されたということなんでしょう。

 私は2017年12月11日付の渓流斎ブログで「『出雲を原郷とする人たち』には驚きの連続」と題して、出雲の不思議を色々と書き連ねています。そのうちのいくつかを少し表現を変えて再録しますとー。

なぜ、これほどの文化が出雲に栄えたのかといいますと、天皇族の大和の文化が百済から瀬戸内海を通ってきたのに対して、新羅や高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があったからだといいます。

◇武蔵国には出雲伊波比神社と出雲乃伊波比神社の2社が

 武蔵国には、出雲から最も離れた所に、二つの出雲系直轄とも言うべき神社が今でもあるといいます。それは、入間郡(埼玉県毛呂山町)の出雲伊波比(いわい)神社と男衾郡(埼玉県寄居町)の出雲乃伊波比神社の2社です。

また、武蔵国の東部にも出雲系の神社が多く、それは氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社群だといいます。埼玉県神社庁によりますと、氷川神社は284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)、久伊豆神社は54社(全て埼玉県)、鷲宮神社は100社(埼玉県60社、東京40社)に上るといいます。

◇氷川は出雲の斐伊川が由来

この中で、私が特に取り上げたいと思う神社は、足立郡式内氷川神社です。この神社について、文政11年(1828年)の「新編武蔵国風土記稿」には「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」と記されています。この「氷の川」は古事記で「肥河」(ひのかは)、日本書紀では「簸川」(ひかは)とも書かれた斐伊川のことで、これが氷川神社の社名の由来になったといいます。なるほど。これで、やっと長年の疑問が氷解しました。

大国主命

以上、再録しました。出雲から諏訪に逃れたオオクニヌシの子のタケミナカタが祭神として諏訪神社に祀られたことを梅原氏の本で教えられましたが、このほか、武蔵国まで逃れた出雲の人たちもいたということになります。

 その一方で、梅原氏の説では、出雲が内乱でヤマトに征服される前の最盛期に、強大な出雲王国の方がヤマトを征服していた。その証拠に、大和の各地には出雲系の古社がある、というわけです。

 うーん、どうも、神話は、全くでたらめのフィクションではなく、史実に近いことを書いていたことになりますね。

古代出雲の謎を解く=梅原猛著「葬られた王朝」

WST  National Gallery Copyright par Duc deMatsuoqua

 大手出版社に勤務する大河内先生から、本が送られてきました。本は1000円以上もする高価なカラー写真付きの文庫本です。大河内先生は、新書を担当する編集者なので、おかしい?

 今から1カ月以上前の話。新年会で同席した大河内氏が、酔った勢いなのか、急に「渓流斎さん、本をお送りしますから、名刺をください」と言うではありませんか。てっきり、自分が担当しているどなたか偉い先生の新書で、書評用にマスコミ等に配布する余った「献本」かと思い、楽しみにしていました。

 しかし、待てど暮らせど送って来ません。会社に送るというので、紛れ込んでしまうことが多いので、一応、彼に「『届いたのに挨拶がない』と言われるのは心外なので、もし、お送りしていなかったら、もう送らなくて結構ですよ」とメールしたのでした。

 そしたら、彼から追って連絡があり、「まだ送ってません。これからお送りします」と言うのです。あまり、恩に着せられても困るので(笑)、「それなら結構です」と丁重にお断りしたのですが、結局、大河内先生は、社員割引とはいいながらも、実費で購入して、自分の担当外である文庫本を送ってくださったのです。後で倍返しで請求されそうですねえ(笑)。

 その文庫本が、これ、平成24年11月1日に発行された梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解く」(新潮文庫)でした。あら、大手出版社名がバレてしまいましたね。それでは、大河内先生のお名前は仮名とさせていただきましょう。

 何でこの本なのか?しかも新刊でもない。わざわざ、社員割引とはいえ、買って頂いて送ってくださる価値がある本なのか?「お前は教養がないから、もっと勉強しろ」との叱咤激励なのか?-それこそ謎です。

 幸い、この本は未読だったこと。恐らく、小生が古代史、特に出雲の歴史に興味があること等を忖度して、大河内氏は送ってくださったと思います。倍返しはともかく、有難く拝読させて頂くことにしました。

 そしたら、めっちゃ面白い。めたらやったら面白いのです。もともと、「学界の異端児」と言われた梅原猛氏の著作には興味があり、何冊か読んだことがあります。以前、梅原氏が書いた「歴史上、日本が生んだ最大の思想家は法然だ」という一文を読んだことがきっかけで、法然に興味を持ち、日本の浄土教思想を勉強するようになったことも告白しておきます。梅原氏のおかげです。

 随分、前置きが長くなりました(笑)。少し引用させて頂きます。

・「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とするヤマト王朝の前に、スサノオを開祖とする出雲王朝が、この日本に君臨していたと考えねばならない。(34ページ)

・「古事記」では、阿波の国は、「粟(あわ)の国」と書かれている。…日本は、稲作農業以前に粟、稗(ひえ)、黍(きび)、麦、小豆、大豆などの雑穀農業が行われていたと思われるが、徳島県、すなわち阿波は、この雑穀農業のうち粟農業が日本で最初に行われた国ではなかろうか。また、(黍農業が行われた)岡山県、すなわち吉備も、出雲王朝の権力が及ぶところであった。(43ページ)

・スサノオがヤマタノオロチを斬った刀は「韓鋤(からさい)の剣」であるという。韓鋤の剣とは韓国(からくに)から伝来した小刀のことを指す。その韓鋤の剣でヤマタノオロチを斬ったとすれば、スサノオ自身も韓国から来たと考えるのが自然であろう。(48ページ)

 いやあ、凄い大胆な推理ですね。いや、推理なんて言ったらいけないのかもしれません。ただ、私自身の勉強不足で定かではありませんが、これらは、古代史家からは定説として認められていないかもしれません。もう8年以上前に出版された本ですが、学会では無視されたのか、論争になったという記憶もありません。私が知らないだけなのでしょうが…。

 確かに、出雲の国は、大陸や半島との交流・貿易が盛んで一足先に文明が進歩した所だったのでしょう。別の本で読んだのですが、出雲は、タタール人から伝えられた製鉄法で鉄器を生産し、農業や船つくり、そして巨大な神殿づくりが発展した国でもありました。それがオオクニヌシの時代になって「国譲り」の形で、大和朝廷に併合されてしまうのが神話ですが、これは史実に近いのではないでしょうか。

古代史の新発見が望まれる=東博で「出雲と大和」展

 新型コロナウイルスが猛威を奮う中、「よゐこは不特定多数の人が集まる所に行ってはいけません」と一国の総理大臣から通告されていたにも関わらず、上野の東京国立博物館に行って来ました。「出雲と大和」が開催されていたからです。

 週末なので混むはずでしたが、空いていたわけではありませんが、近くで見られました。けど、中国語が聞こえると(彼らは何処にいようが我が物顔で声がデカい!)、ドキッと緊張している自分を発見しました。

出品目録をざっと見ただけですが、出品111点中、国宝が23点、重要文化財75点という豪華絢爛さです。失礼、太古の発掘物ですから、絢爛さまではいかず、正直、余程、古代に関心があり、ある程度の知識がないとつまらないかもしれません。

 国宝「銅剣、銅鐸、銅矛」(出雲市荒神谷遺跡出土、弥生時代、前2〜前1世紀、文化庁蔵)や日本書記にも記された国宝「七支刀(しちしとう)」(古墳時代、4世紀、奈良・石神神宮像)など眼を見張るものが沢山ありました。でも、私自身は、ある程度の知識はあるつもりでしたが、はっきり言って難しかったですね。

 銅鐸一つ取っても、祭司用だと言われてますが、実際にどのように使われたのか諸説あります。

 また、考古学や古代学は、大半は文字がない時代ですから発掘された出土品から想像しなければなりません。専門家なら勾玉一つ見ただけで、色んなことが分かるでしょうが、悲しい哉、素人には限界があります。

 個人的には古代には48メートルの高さを誇ったと言われる出雲大社本殿の縮小版の模型が良かったですね。昨年は、実際に初めて出雲大社をお参りする機会に恵まれたので、感激も一入です。巨大本殿が存在したという証明になる鎌倉時代の宇豆柱(うづばしら)も展示されていました。

 出雲では博物館に立ち寄らなかったので、今回、初めて色んなお宝を見ることができました。

 3世紀になって大和に王権が成立し、巨大な前方後円墳がつくられます。しかし、多くの古墳は文化庁と宮内庁の管轄で、学者でさえ立ち入り禁止されているので、まだまだ未解明な所が多いのです。

◇国譲りで大和が出雲を征服したのか?

 最後のコーナーの年譜を見ていたら、大陸との交流が盛んだった出雲の勢力というか文明圏は弥生時代初期からあり、その一方で、後から大和政権は成立して、「国譲り」で大和が出雲を併合したのは明白に思えました。

 「古事記」は、敗れた出雲の側の立場を描き、出雲のことはあまり触れていない「日本書記」は、大和の側から叙述したものだということをある学者さんは言ってましたが、そう考えると分かりやすいですね。

 いずれにせよ、古墳が考古学者に公開されて、新史実が発見されれば、素晴らしいと思っております。

 この後、遅ればせの新年会が根津駅近くの「駅馬車」という店であるので、地下鉄で行こうとしたら、博物館のチケットの裏を見たら地図が載っていて、歩いて行けそうな距離だと分かり、徒歩で行きました。

 そしたら、参加した赤坂さんも東博を見て歩いて根津まで来たという小生と同じコースだったので笑ってしまいました。

 新年会では赤坂さんは、ピントが外れた唐変木なことばかり発言するので皆の笑い者、いや人気者でした(笑)。

古代から朝鮮半島との深い関係

 先日読了した瀧音能之著「風土記と古代の神々」(平凡社)には多くのことを学ばせて頂きました。有難う御座いました。

 特に、八岐大蛇を退治した須佐之男命は、製鉄神で、出雲で産出した砂鉄を精製して鉄をつくる技術を持った朝鮮半島からの渡来人によってもたらせれた神だという著者の説には大いに納得したことは以前書きました。今日はそれ以外で、是非覚えておきたいことをメモ書きします。

 ・天平5年(733年)にまとめられた「出雲風土記」によると、「神々の国」出雲には399の神社があり、そのうち184社が神祇官社、残りの215社は非官社。あまたの神々のうち、熊野大神と佐太大神と野城大神と大穴持命(=天の下造らしし大神→オオクニヌシ神)が四大神と呼ばれ、このうち熊野大神を祀る熊野大社と大穴持命を祀る杵築大社(出雲大社)だけが別格で、「大社」と呼ばれている。

 熊野大神は、意宇郡に拠点を構えた出雲国造の祖によって祀られていた神と推測され、大穴持命は、出雲西部に信仰の拠点を持つ開拓神・農耕神だったのが、出雲全域の神の存在が必要となり、天の下造らしし大神とされたと考えられる。

 ・生野銀山などで知られる生野は、「播磨国風土記」によると、荒ぶる神が往来する人の半数を殺したので最初は死野という地名がつけられたという。しかし、応神天皇の勅により、死野は悪い名なので、生野と改められたという。こうした地名変更は、水辺の植物である葦が「あし」では「悪し」に通じるので「よし」と読み替えるのと同じ発想で興味深い。

 ⇒荒ぶる神が通行人を半数殺すという行為について、著者は、神には荒魂(あらたま)と和魂(にぎたま)の二つの側面があり、荒ぶる神の持つ荒魂が人に害を与えたり、祟りをなしたりすると考えていたからではないかという説を提唱する。だから、半数を殺すとは、荒魂が行い、残りの半数は和魂によって救われるということ。

・全国でも出雲の国だけにカラクニイタテ神社が6社あり、これらはいずれも「延喜式」に記載された官社だが、あまり知られておらず、由来についても謎が多い。カラクニイタテは、「韓国伊大氐」などと書かれるが、著者によると、韓国とは新羅のことで、伊大氐は射楯と考えられ、つまり、新羅から出雲国を、ひいては日本を守るために建立された神社ということができるのではないかという。

 ⇒それだけ、新羅と日本との交流は濃密で、技術など職人たちの交流など良い面があれば、唐朝における朝賀で、日本の遣唐使と新羅使が席次を争ったり(遣唐使が上席を占めた)、日本の遣新羅使を無礼により新羅王が引見しなかったりしたこともあった(753年)。また、新羅調伏のために朝廷は、伯耆、出雲、石見、隠岐、長門の五国に四天王像を安置させたり(867年)、武蔵国に移した新羅人が逃亡(879年)したり、良くないことも色々あったようでした。

現代の日韓、日朝関係とあまり変わらないみたいですね(苦笑)。

 

スサノオ神は渡来人の神

いやあ、魂消ました。

 日本人なら誰でも知っている八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したスサノオ神(須佐之男命=すさのおのみこと)が、朝鮮半島からの渡来人が崇めた神だったというのです。

 神話の世界の話ですが、私は神話が、単なる机上の空論でも、荒唐無稽だとも、そして、牽強付会だとも思っていません。何らかの形で何代も何代にも渡って伝承されてきた話が「形」になったものだと思っております。その証拠に、神々が活躍した舞台が現在でも地名などとして残っているのです。

 今、瀧音能之著「風土記と古代の神々 もうひとつの日本神話」(平凡社、2019年1月16日初版)を読んでおりますが、1ページ、1ページ、感心しながら勉強させて頂いております。著者は、日本古代史専門の駒沢大学教授です。

 瀧音教授は、「古事記」「日本書紀」だけでなく、「風土記」に注目して古代の神話を実証的に解明されております。風土記の中でも特に「出雲風土記」を取り上げています。(奈良時代、朝廷は全国60余りあった国々に「風土記」を提出するように命じましたが、現在残っているのは、 出雲、常陸、播磨、肥前、豊後の5国分だけ。 このうち出雲だけが完本です)

 出雲は、大和朝廷が成立する以前は最も勢力があった豪族で、文化も技術も際立て進んでいた国だったと思われます。何故なら、日本海をはさんで、大陸や朝鮮半島からの最新技術を逸早く取り入れていたからです。勿論、人的交流もあったでしょう。だから、大和朝廷としては全国平定に当たって、出雲に攻め入り、それが「国譲り」の物語になったのではないかと私は推測しています。

 さて、瀧音教授によると、スサノオ神に関連する地名が「出雲風土記」の中で4カ所出てくるといいます。意宇郡の「安来郷」(いずこから来たスサノオ神がここに来て、「気持ちが落ち着いた」と語った)、飯石郡の「須佐郷」(スサノオ神は、ここは小さい国だが良い国だと語り、大須佐田と小須佐田という田を定めた)、大原郡の御室山(みむろやま=ここにスサノオ神が御室を造って宿った)、最後は大原郡の「佐世郷」(スサノオ神が佐世の木の葉を頭にかざして踊ったところ、地面にその木の葉が落ちた)です。この4カ所は、地図で見ると同じ緯度で東西に一直線に並びます。

 この中で、安来郷は今の島根県安来市で、安来節や陶芸家河井寛次郎の出身地として知られていますが、最も重要なのが「須佐郷」です。現在、島根県出雲市にある須佐神社辺りです。瀧音教授はこう書きます。

 それでは、スサノオ神の性格はというと、結論的には製鉄神であったと考えられる。その理由は、まず何よりも須佐郷(中略)は産鉄地域であることがあげられる。…「出雲風土記」の中にも鉄関係の記載をみることができる。こうした地域的な特徴やスサノオ神がもっている呪術的性格などから、スサノオ神は須佐郷を本拠地とする製鉄神であったと考えられる。そして、製鉄という技術をふまえるならば、そもそも朝鮮半島からの渡来人集団によってもたらされた神であるということができるであろう。

 いかがでしょうか?私は納得してこの学説を受け入れました。

  文字や五経や仏教、土木工学、建築、画、仏像、織物、手工芸、馬と馬具、須恵器など思想や技術を持った渡来人は5世紀の頃から、大和の政権中枢に受け入れられ、大活躍したことは以前、このブログの「今来の才伎」(2016年5月24日)で書いたことがあります。

 ここから私の推測ですが、スサノオ神が退治したヤマタノオロチは八つの頭と胴を持った龍のような怪物と言われてますが、実際は、たびたび水害を及ぼして地域住民を困らせていた八つの河川だったのではないかという説があります。

 ということは、ヤマタノオロチを退治したということは、土着の地域住民ができなかった治水の技術を持った渡来人が行ったということにならないでしょうか。つまり、須佐郷に居た渡来人は製鉄技術だけでなく、治水技術にも秀でていたのではないかと私は思っています。

 

 

「出雲を原郷とする人たち」には驚きの連続

岡本雅享著「出雲を原郷とする人たち」(藤原書店)が昨年11月に出版された時、すぐ読みたかったのですが、定価が3024円とちと高く、しばらく手が出なかったのですが、最近になって、やっと読めるようになりました。

2011年4月から16年1月まで「山陰中央新報」という地方紙に連載されていたものを単行本化したらしいのですが、レベルが高い。あまりにもの学術的、専門的過ぎて、小生のような浅学非才な人間にとっては難し過ぎて、通読できませんでした。

◇全国に移住する出雲の氏族

それでも、興味がある箇所だけは読みました。タイトルにある通り、出雲(今の島根県)の民が、全国に散らばって移住し、その集落にしっかり出雲という地名や出雲の名前が付いた神社を創建して、ちゃっかりと痕跡を残しているという驚きの学術書というよりかルポルタージュに近いのです。

その範囲は、越前、加賀、能登の国から信濃、越後、武蔵、岩代の国、筑前、周防、伊予、讃岐、山城、播磨、壱岐…と、粗末な船か歩くしかなかった古代の時代に、出雲の氏族たちはよくぞここまで踏破、制覇したものだと感服してしまいます。

出雲の国は、古事記や日本書紀では「国譲りの物語」として登場しますが、出雲の氏族は、そんな記紀が成立するはるか昔から全国に移動していたと言われています。

ということは、天皇族=大和政権が強大な権力を握る前に、彼らは出雲地方だけではなく全国的に制覇していた強力な豪族だったことは間違いないでしょう。(古代は恐らく全国ネットワークがあまりなかったので中央集権とは違ったものだと思われますが)

◇百済から大和へ、新羅、高句麗から出雲へ

なぜ、これほどの文化が出雲に栄えたのかといいますと、著者は水野祐早稲田大学名誉教授の学説を引用して、百済から瀬戸内海を通ってきた大和への文化に対して、新羅や高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があったからだといいます。恐らく、海流や潮の流れで、古代でも半島や大陸から出雲に流れ着くことは容易かったのでしょう。

そして「新羅と結びつく出雲文化は、さらに日本海を北上して能登半島から越の国に伝播していき、さらに信州へ、関東の北部に入って南下していった」といいます。そういう流れだったんですね。

大和朝廷が百済系との結びつきが高かったということは、桓武天皇の母高野新笠が百済系渡来人だったという史実(「続日本紀」)と一致しますね。

◇出雲大社は本来、杵築の大社

この本を読んで一番驚いたことは、古代は今の島根半島は地続きではなく、島だったということでした。そして、今の出雲大社は、本来、杵築の大社(きずきのおおやしろ)と呼ばれていて、出雲大社と改称されたのはつい最近、明治に入った1871年だったというのです。

また、古代に遡ると、律令時代に入ると、ほとんどの国造(くにのみやつこ)は政治権力を失いますが、出雲の国造(出雲だけは「こくそう」と読むらしい)だけは権力を保持し続けたようです。

この本は全て読み切れなかったので、今たまたま御縁のある「武蔵国」(今の埼玉、東京、神奈川辺り)編だけは熟読しましたが、これまた知らないことばかりでしたね。

◇武蔵国には出雲伊波比神社と出雲乃伊波比神社の2社が

武蔵国には、出雲から最も離れた所に、二つの出雲系直轄とも言うべき神社が今でもあるといいます。それは、入間郡(埼玉県毛呂山町)の出雲伊波比(いわい)神社と男衾郡(埼玉県寄居町)の出雲乃伊波比神社の2社です。

また、武蔵国の東部にも出雲系の神社が多く、それは氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社群だといいます。埼玉県神社庁によりますと、氷川神社は284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)、久伊豆神社は54社(全て埼玉県)、鷲宮神社は100社(埼玉県60社、東京40社)に上るといいます。

◇氷川は出雲の斐伊川が由来

この中で、私が特に取り上げたいと思う神社は、足立郡式内氷川神社です。この神社について、文政11年(1828年)の「新編武蔵国風土記稿」には「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」と記されています。この「氷の川」は古事記で「肥河」(ひのかは)、日本書紀では「簸川」(ひかは)とも書かれた斐伊川のことで、これが氷川神社の社名の由来になったといいます。

なるほど。これで、やっと長年の疑問が氷解しました。

首都圏の神社仏閣を網羅するサイト「猫の足あと」を主宰する松長社長には必読書となることでしょう。

【追記】

京都の相国寺境内では、出雲集落の遺跡が発掘されています。

また、新羅の古都だった現韓国慶州市にある古墳(5世紀末〜6世紀前半)で、国引き神話が描く新羅と出雲と越(こし=福井、石川、富山、新潟)の繋がりを象徴するかのように、出雲石の勾玉と糸魚川産翡翠の勾玉が出土しているといいます。

現代人が想像する以上に、古代では交流が盛んだったということなのでしょう。