いやあ、魂消ました。
日本人なら誰でも知っている八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したスサノオ神(須佐之男命=すさのおのみこと)が、朝鮮半島からの渡来人が崇めた神だったというのです。
神話の世界の話ですが、私は神話が、単なる机上の空論でも、荒唐無稽だとも、そして、牽強付会だとも思っていません。何らかの形で何代も何代にも渡って伝承されてきた話が「形」になったものだと思っております。その証拠に、神々が活躍した舞台が現在でも地名などとして残っているのです。
今、瀧音能之著「風土記と古代の神々 もうひとつの日本神話」(平凡社、2019年1月16日初版)を読んでおりますが、1ページ、1ページ、感心しながら勉強させて頂いております。著者は、日本古代史専門の駒沢大学教授です。
瀧音教授は、「古事記」「日本書紀」だけでなく、「風土記」に注目して古代の神話を実証的に解明されております。風土記の中でも特に「出雲風土記」を取り上げています。(奈良時代、朝廷は全国60余りあった国々に「風土記」を提出するように命じましたが、現在残っているのは、 出雲、常陸、播磨、肥前、豊後の5国分だけ。 このうち出雲だけが完本です)
出雲は、大和朝廷が成立する以前は最も勢力があった豪族で、文化も技術も際立て進んでいた国だったと思われます。何故なら、日本海をはさんで、大陸や朝鮮半島からの最新技術を逸早く取り入れていたからです。勿論、人的交流もあったでしょう。だから、大和朝廷としては全国平定に当たって、出雲に攻め入り、それが「国譲り」の物語になったのではないかと私は推測しています。
さて、瀧音教授によると、スサノオ神に関連する地名が「出雲風土記」の中で4カ所出てくるといいます。意宇郡の「安来郷」(いずこから来たスサノオ神がここに来て、「気持ちが落ち着いた」と語った)、飯石郡の「須佐郷」(スサノオ神は、ここは小さい国だが良い国だと語り、大須佐田と小須佐田という田を定めた)、大原郡の御室山(みむろやま=ここにスサノオ神が御室を造って宿った)、最後は大原郡の「佐世郷」(スサノオ神が佐世の木の葉を頭にかざして踊ったところ、地面にその木の葉が落ちた)です。この4カ所は、地図で見ると同じ緯度で東西に一直線に並びます。
この中で、安来郷は今の島根県安来市で、安来節や陶芸家河井寛次郎の出身地として知られていますが、最も重要なのが「須佐郷」です。現在、島根県出雲市にある須佐神社辺りです。瀧音教授はこう書きます。
それでは、スサノオ神の性格はというと、結論的には製鉄神であったと考えられる。その理由は、まず何よりも須佐郷(中略)は産鉄地域であることがあげられる。…「出雲風土記」の中にも鉄関係の記載をみることができる。こうした地域的な特徴やスサノオ神がもっている呪術的性格などから、スサノオ神は須佐郷を本拠地とする製鉄神であったと考えられる。そして、製鉄という技術をふまえるならば、そもそも朝鮮半島からの渡来人集団によってもたらされた神であるということができるであろう。
いかがでしょうか?私は納得してこの学説を受け入れました。
文字や五経や仏教、土木工学、建築、画、仏像、織物、手工芸、馬と馬具、須恵器など思想や技術を持った渡来人は5世紀の頃から、大和の政権中枢に受け入れられ、大活躍したことは以前、このブログの「今来の才伎」(2016年5月24日)で書いたことがあります。
ここから私の推測ですが、スサノオ神が退治したヤマタノオロチは八つの頭と胴を持った龍のような怪物と言われてますが、実際は、たびたび水害を及ぼして地域住民を困らせていた八つの河川だったのではないかという説があります。
ということは、ヤマタノオロチを退治したということは、土着の地域住民ができなかった治水の技術を持った渡来人が行ったということにならないでしょうか。つまり、須佐郷に居た渡来人は製鉄技術だけでなく、治水技術にも秀でていたのではないかと私は思っています。