江戸三百藩のはじめとおわり=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」

2022年11月1日付渓流斎ブログ「維新後、お殿様たちはどうなったの?=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」」の続きです。

 この本は、百科事典みたいに情報量が非常に多いので読むのに大変時間がかります。それに、お殿様の名前は、岡部長織(ながもと)とか小笠原長行(ながみち)とか、南部利剛(としひさ)とか、難読漢字が多く、振り仮名がないと読めないので、改めて調べ直さなければいけません。

 この本には、残念ながら、かなり誤植が多いのですけど、これまで知らなかったとても参考になる知識がいっぱい詰め込まれております。

 本来、この本は、江戸時代の全国三百藩の大名藩主たちが幕末維新の激動期をくぐり抜けて、その末裔がどうなったのか、というのが趣旨ではありますが、私は勝手ながら、備忘録として、この本で得た知識をテーマごとにまとめてみました。

【歴史上の有名人物を始祖とする藩】

●坂上田村麻呂(平安時代の征夷大将軍)⇒ 一関藩(岩手県)田村家

●那須与一(源平合戦で扇の的を射た)⇒ 大田原藩(栃木県)那須氏ー大田原家

●太田道灌(室町後期、扇谷上杉家家宰、江戸城など築城)⇒ 掛川藩(静岡県)太田家

●足利基氏(足利尊氏四男で関東公方)⇒ 喜連川藩(栃木県)喜連川(足利)家

●酒井忠次(徳川四天王)⇒ 庄内藩16万7000石

●本多忠勝(徳川四天王)⇒ 泉藩2万石(福島県)、大多喜藩2万石(千葉県)、桑名藩11万3000石(三重県)

●榊原康政(徳川四天王)⇒ 舘林藩7万石(群馬県)

●井伊直政(徳川四天王)⇒ 高崎藩8万2000石(群馬県)、彦根藩24万5000石(滋賀県)

●(番外編)三島由紀夫(作家、本名平岡公威)の父方の高祖父が旗本永井尚志⇒ 加納藩(岐阜県)、また、父方の曽祖父が宍戸藩(茨城県)9代藩主松平頼徳(よりのり)で、天狗党鎮圧を失敗し幕府から責任を取らされて切腹。

東上野・もんじゃ・お好み焼き「きんひつかん」

【元々は何藩の江戸屋敷だったの?】

●日本経済新聞社本社(東京・大手町)⇚庄内藩(酒井家)上屋敷

●日刊スポーツ新聞社本社(東京・築地)⇚岡山藩池田家中屋敷、天童藩(山形県)織田家下屋敷

●日本テレビ本社(東京・汐留)⇚仙台伊達藩上屋敷

●小学館(東京・一ツ橋)⇦丹波亀山藩(京都府)松平家上屋敷

●朝日新聞東京本社(東京・築地)⇚国税庁舎⇚館山藩稲葉家上屋敷

●日比谷公会堂(東京・内幸町)⇚盛岡藩南部家上屋敷

●新橋演舞場(東京・東銀座)⇚棚倉藩(福島県)阿部家上屋敷

●東京駅⇚関宿藩(千葉県)久世家上屋敷、吉田藩(愛知県)松平家上屋敷、松本藩松平家上屋

●新宿駅⇦犬山藩(愛知県)成瀬家下屋敷

●椿山荘(東京・目白)⇚山縣有朋邸⇚久留里藩(千葉県)黒田家中屋敷

●東洋大学(東京・白山)⇚大多喜藩松平家中屋敷

●東京大学(東京・本郷)⇚金沢藩前田家上屋敷

●東京ホテルオークラ(東京・虎ノ門)⇚川越藩松平家上屋敷

●アークヒルズ・サントリーホール(東京・赤坂)⇚川越藩松平家中屋敷

●京橋税務署(東京・新富町)⇚歌舞伎新富座⇚膳所藩(滋賀県)本多家上屋敷

銀座

まだあります。

●フランス大使館(東京・南麻布)⇚新庄藩(戸沢家)下屋敷

●韓国大使館(東京・麻布)⇚仙台伊達藩中屋敷

●英国大使館(東京・半蔵門)⇚七戸藩南部家上屋敷、七日市藩(群馬県)前田家上屋敷

●ロシア大使館(東京・飯倉)⇚守山藩(福島県)松平家下屋敷、三春藩(福島県)秋田家下屋敷

●米国大使館(東京・赤坂)⇚牛久藩(茨城県)山口家上屋敷

【変わり種】

●尾張徳川家の19代当主義親(よしちか)は明治19年生まれだが、、マレー半島での虎狩りで見事仕留めて「虎狩りの殿様」を異名を持つ。北海道開拓にも力を入れ、熊の木彫り人形を北海道土産の定番としたのは、この徳川義親だった。

●下館藩(茨城県)最後の9代藩主石川総管の嫡男重之(10代当主)は、昭和24年、東京・池袋の銭湯での置き引き(板場稼ぎ、板の間稼ぎとも言う)で逮捕された。

●御三卿の清水徳川家の8代当主好敏(よしとし)は、日本陸軍最初のパイロットとして活躍した。公式記録上の日本最初の飛行成功は、明治43年(1910年)12月19日、代々木練兵場(現代々木公園)で徳川好敏が操縦する仏製のアンリ・ファルマン機。翌明治44年、日本で最初の飛行場である所沢陸軍飛行場(現所沢航空公園)が開場し、ここでも飛行成功。

●藩主ではないが、明治35年に、紳士靴のREGALを創業したのは佐倉藩士の西村勝三だった(てっきり、REGALは、英国か米国製だと思ってました。)

「川越城本丸御殿」訪問記=日本100名城

世間の皆様と同じように4連休でしたが、雨が降り続いて、どうも外に出る気がしませんでした。一体いつになったら梅雨は終わるんでしょうか?こんな長いのありましたかね?(調べたら、梅雨明け最短は、2018年の6月29日。最遅は1982年の8月4日だとか)

 家に閉じこもり、本を読んだり、録画した番組ばかり見てましたが、今日は思い切って川越城に行ってみることにしました。

川越・藏の街通り

 実は、公益財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」と「続 日本100名城」(学研)の公式ガイドブックを買ってしまい、パラパラめくっているうちに、やはり、「100名城」ぐらい生きているうちに行っておかないと、と思ってしまったからなのです。

川越のシンボル「時の鐘」

 日本では、山城、城址、城郭、国宝・重文の現存12天守をひっくるめて「城」とすると、全国で3万あるとも5万あるとも言われています。一生のうちで全てを回るのは、まあ、大変というか難しいことでしょう。

 私はこれまで50以上のお城を回ってますが、そろそろ、残された時間も有限になってきたので、名城に絞って行きたくなりました。

 ということで、まずは自宅近くの関東近辺のお城は取り急ぎ、日帰りで行ってみようかと思ったのでした。

 川越は、通訳ガイドの研修で行って以来、多分、6、7年ぶりです。昔の記憶を頼りに行ってみましたが、すっかり忘れてしまっておりました。これではガイドになりませんね(笑)。

 でも、観光地らしく、案内地図があちこちにあったおかげで、迷子、いや迷い人にならずに行けました。

最初に目指したのは、川越城本丸から北西に位置する東明寺です。

ここは、歴史に名高い「河越合戦(夜戦)」が1546年春に行われた激戦地です。

 ここは、小田原の北条氏康率いる軍勢8000が、関東の反北条連合軍8万を夜戦で打ち破った古戦場です。この「東明寺口の合戦」では、扇谷(おおぎがやつ)上杉朝定が討ち死にし(病死の説も)、扇谷上杉氏が滅びて、関東の国衆の多くが北条方の傘下になった歴史的戦争でした。

 詳しくは、上記に書かれております。北条氏康は、川越城に立て籠もる義弟北条綱成以下3000の兵を加勢に出陣したわけです。

 関東連合軍(関東管領の山内=やまのうち=上杉憲政、古河公方=こがくぼう=足利晴氏など)の8万の数は疑わしいという説がありますが、とにかく、関東一円が、北条氏の支配下に決定的となった歴史的な戦なのです。

 河越(川越)夜戦の激戦地、東明寺は、一遍上人の時宗だったんですね。知りませんでした。先日、時宗総本山清浄光寺(遊行寺、神奈川県藤沢市)にお参りに行ったばかりですから、不思議な御縁を感じました。

 この日はたまたま、どなた様かの法事があり、境内の本堂からお経が聞こえてきました。ここの御本尊様は、虚空蔵菩薩でした。

 河越合戦から約半世紀後の1590年、小田原北条氏は、豊臣秀吉に滅ぼされ、関東一円(主に武蔵国)は、三河出身の徳川家康に委任されたことは御案内の通りです。

 東明寺まで、JR川越駅から歩いて30分という話でしたが、50分ぐらい掛かり、結構それだけで疲れてしまいました。

 しかし、これからが本番です。川越城本丸御殿を目指します。(結局、東明寺から20分は掛かりました)

 途中で、川越城中ノ門と堀があったので見学しました。

 川越市内は、今ではすっかり商店街と住宅街になってしまいましたが、ここのお堀だけは歴史的遺産として残すことが決まったといいます。

 見ていると、往時が偲ばれ、きらびやかな商店が並ぶ観光地・川越が、実は、城下町だったことがこのお堀で分かります。

 中ノ門堀の仕組みは、上記の通りです。

 川越市役所の前に銅像があり、「あの人かな?」と思ったら、やはり、太田道灌でした。

 太田道灌は1456年、主君扇谷上杉持朝の命で、父道真(資清)とともに、河越城を築いた人です。(続いて、太田道灌は、岩槻城も築城したと言われていましたが、最近は、そうではなかったという異説が有力になっているようです。岩槻にあった太田道灌の銅像、あれは何だということになりますが…)

 翌57年には、古河公方に与する房総の千葉氏を抑えるために、武蔵国豊嶋郡に江戸城も築きます。

 後に関東の覇者となった家康が、この江戸城を拠点としたので、太田道灌を特別に英雄視したと言われています。でも、当たっていることでしょう。

 扇谷上杉氏の家宰だった太田道灌はあまりにも優秀だっため、主君上杉定正は自分の地位が脅かされるのではないかと不安と疑念を抱き、ついに道灌を謀殺してしまうからです。

 先日、お城に関連したテレビ番組を見ていたら、ある若い美人の女性タレントさんが、「江戸城ってどこにあるんですか?」と聞き、お城好きで知られる落語家から「皇居ですよ」と教えられると、「えー、知らなかった」と叫び、その落語家も見ていた私ものけぞって驚きました。

 皇居が江戸城だったことを知らなければ、明治維新も知らないだろうし、戦前まで言われていた宮城も知らないだろうし、徳川将軍も知らなければ、まさか、太田道灌のことも知らないだろうなあ、と思わず確信してしまいました。

 さて、話が脱線しているうちに、川越城本丸御殿に到着しました。

 川越は、昔から何度も行ったことがありますが、お城に行くのは何と今回が初めてです。この本丸御殿の近くに野球場があり、広い駐車場もあり、その辺りに昔、駐車したこともありましたが、当時は城にはさほど興味がなかったので、ここに本丸御殿があることなぞ、知るよしもなし。

 入るのに検温と消毒と、それに名前と電話番号まで書かされました。(本丸御殿、市立博物館、市立美術館の3館共通券で370円)体温36度4分。

 上の写真は、本丸御殿に移築された家老詰所です。

 明治初期に解体され、現ふじみ野市の商家に再築されていたのが、昭和62年に川越市に寄贈され、ここに移築されたとか。

 中では、御家老連中が真剣な表情で、評定しておりました。幕末は、三浦半島やお台場などの警備を川越藩は一手に任されるのですから、大変な重役です。

 中庭もなかなか風情があってよかったです。江戸時代にタイムスリップ。

 本丸御殿から少し南に位置する高台にあった川越城富士見櫓跡です。

 川越城は、天守がなかったらしく、この富士見櫓が藩内で一番高い建物だったそうです。昔は、ここから富士山がよく見えたそうです。

鳥良商店のユーリンチー定食858円

 川越城本丸御殿のあと、道路をはさんで隣りの川越市立博物館と同美術館を覗いてきました。それぞれ、かつては二の丸、三の丸があった所です。再び、三度、検温、消毒、名前と電話番号を明記。

 川越藩は、隙を伺う伊達藩などの東北に睨みを利かせる要所となる親藩ですから、代々の藩主は老中になるなど幕閣の逸材を輩出しました。

 特に有名な人は、三代将軍家光の小姓も務めたこともある、「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱(1596~1662)です。野火止用水や川越街道を整備したり、川越祭りを始めたのもこの人だといいます。

 彼は、何と言っても、中年の頃、島原の乱のために出兵し、最後は総大将として乱を平定しています。戦後、この功績で忍藩から3万加増されて6万石の川越藩に移封されたわけです。

 松平信綱の墓は、小生も子どもの頃からよく行ったことがある臨済宗妙心寺派の平林寺(埼玉県新座市)にあります。昔は、私の母校・東久留米第四小学校(廃校)からこの寺まで歩く「歩行会」があったり、友だちの誕生会があったりして、広い境内の野原でシートを敷いて飲食したり、鬼ごっこをしたりしていましたが、HPを見たら、今は、飲食は、禁止されているようです。

 世の中、世知辛くなりましたねえ。

岩槻大師~浄国寺~芳林寺=岩槻の英雄太田道灌

太田道灌公像

 最近、週末に時間があれば、関東近辺の「城巡り」を日帰りで蛮行していることは、このブログの熱心な愛読者の皆様には御案内の通りです。

 でも、先日、高野山に行ったおかげで、スイッチが入り、「寺社仏閣巡り」がそれに加わりました。お城と寺社は切っても切れない縁がありますから、まるっきり唐変木な話ではないのですが…(笑)。

岩槻大師

 そこで目指したのが、武蔵国岩付(現さいたま市岩槻区)にある「岩槻大師」です。大師が付きますから、当然、空海の真言宗の寺院です。ここの地下にある仏殿をお参りすると、四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという噂を小耳にはさんだので、行かないわけにはいきません(笑)。

岩槻大師

 この寺の正式名称は「光岩山釈迦院岩槻大師弥勒蜜寺」。パンフレットには「くしくも真言宗の宗祖弘法大師空海さまご誕生の年、光仁天皇の宝亀5年(774年)の草創と伝えられる」と書かれています。

 あれっ?真言宗とは、唐に留学した空海が恵果和尚(けいか・かしょう)に灌頂された密教を806年に日本に帰国して伝えたのではなかったのでしょうか?真言宗が成立したのも、高野山を開祖した816年という説が有力です。

 ま、堅いことは抜きにして、例の四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという「地下仏殿」にお参りしようとしたら、ちょうどその日に「得度式」なるものが本堂で行われていたため、お参りできませんでした。残念。

 そこで、前回書けなかった高野山のことを付記します。空海(774~835年)は60歳9カ月で入定しますから、高野山の壇上伽藍は、金堂や大塔などを建てただけで、未完成のままでした。そこで、壇上伽藍を完成させたのが、弟子の真然(804~891年)でした。真然は、空海の甥に当たり、空海の実弟である真雅(801~879年)から灌頂を受けました。

 東寺長者だった真雅は、清和天皇の信任が篤く、摂政藤原良房と結び貞観寺を創建し、死後、法光大師の諡号(しごう)を受けています。古代中世近世の政治史は、天皇、藤原家、武士だけでなく、仏法僧の世界が分からなければ理解できないことがこれで分かります。

  真然は、貞観18年(876年)、東寺長者真雅から「三十帖冊子」(空海が密教の典籍を書写した冊子)を借覧し、高野山に持ち帰ったので、これが後に、高野山と東寺との間に紛争が生じ、高野山が荒廃する原因となりました。

 真言宗を復興した中興の祖の一人と言われるのが平安中期から後期にかけて活躍した蓮待(れんたい=1013~1098年)で、全国を行脚した高野聖の先駆とみられ、「南無大師遍照金剛」という大師宝号を最初に唱えた僧侶だとも言われてます。

 ということは、真言宗の宝号である 「南無大師遍照金剛」は、空海が唱えたのではなく、空海入定後200年も経って生まれたことになります。

 ま、細かいことはこの辺にしておきます。。。

浄土宗 浄国寺

 次に訪れたのは、浄国寺です。

 実は、東武野田線岩槻駅の観光案内所で頂いた地図を手掛かりに岩槻大師を探したのですが、方向音痴の私は、道を間違えて、かなり時間をロスしてしまいました。

 が、岩槻大師から浄国寺への道順は迷わず行けました。境内はなかなか広かったです。

 何で、このお寺を訪れたかと言いますと、関東の寺社仏閣の来歴について、こと細かく書かれているネットサイトの「猫の足あと」に「関東の名刹寺院」として紹介されていたからです。

 浄国寺は「関東十八檀林」の一つのようですが、詳細は上の写真をお読み下さい。岩槻藩主を務めた阿倍家の墓もあります

曹洞宗 芳林寺

次に向かったのは芳林寺。岩槻駅の観光案内所で、「是非行かれるといいですよ」と勧められたのが、この芳林寺でした。

太田道灌ゆかりの寺だというのです。

太田道灌公像

 太田道灌は、この岩槻城だけでなく、河越(川越)城、江戸城を建てた戦国武将(扇谷上杉氏の家宰)で、特に江戸城を引き継いだ徳川家康らによって神格化されました。

太田道灌御霊廟

 太田道灌像は、東京の日暮里にもありますが、岩槻にもあるとは知りませんでした。

 岩槻市民も太田道灌への思慕が強かったですね。

 道灌の事績については、上の碑文によくまとめられています。

 今回は、ちゃんと「城巡り」と「寺社仏閣巡り」が一致しました。