誰かウクライナ戦争を止める人はいないのか?

 私が子どもの頃、「サイゴン」だの「ダナン」だの「トンキン湾」だの、そして「ソンミ」といった、見たことも行ったことも聞いたこともない異国の地名を耳から自然と覚えてしまったものでした。

 ラジオやテレビで盛んにヴェトナム戦争を報道していたからでした。特に1968年3月16日、米軍兵により虐殺事件があったソンミ村は脳の奥深くに刻まれました。

 同じように、今の子どもたちは、「マリウポリ」や「ブチャ」「ボロジャンカ」というウクライナの地名が脳裏に刻まれることでしょう。

 そこでは民間人への非人道的な鬼畜が犯す大量殺戮と虐殺がロシア軍によって意図的に行われました。プーチン大統領は「下品でシニカルな挑発行為だ」などと頬かむりしていますが、生存者の証言や米国の衛星放送の写真などから、明らかに残虐行為が行われたことは事実です。

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 テレビでは、無残にも殺害されたウクライナの一般市民の遺体が、分からないように「加工」されて放送されていますが、1960年代、70年代のヴェトナム戦争では、かなり衝撃的な残酷な写真や映像が子どもでも見られたものでした。当時はプレスコードが甘かったからかもしれません。

 南ヴェトナム政府軍の男が、若い男性を「スパイ」と決めつけて、群衆の前でピストルで「処刑」したり、地雷を踏んだと思われる「ベトコン」のバラバラになった遺体を米軍兵が持ち上げて見せたり、殺害したベトコン兵士を脚に紐を付けて戦車で引きずっていたり、とても正視に耐えないものばかりでしたが、それによって戦争のおぞましさと悲惨さが伝わってきました。

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 勿論、ウクライナの残虐写真を公開するべきだなどと言うつもりは全くありません。今はネット社会ですから、その気になれば見ることができます。下半身だけが裸にされた不自然な女性の遺体もありました。ロシア兵による、そのあまりにも残虐な行為が想像できます。殺害された彼女たちは、さぞかし、辛く、酷く屈辱的な地獄の苦しみを強いられたことでしょう。

 何よりも、悲しみより憎悪が沸き起こってきます。しかし、憎悪の連鎖は避けなければなりませんが。

 平和な国々では、高価な寿司やステーキをたらふく食べ、ビールを飲みながら、プロ野球やサッカー、ゴルフなどを観戦して楽しんでいるというのに、ウクライナの惨状と悲劇はあまりにも不公正で不条理です。

 たった一匹の誇大妄想の霊長類のせいなのに、国際社会は何故止められないのでしょうか?

 戦争犯罪が認められれば、独裁者は裁判で絞首刑か毒殺刑が待っています。となると、自分だけは安全地帯に隠れて、自己保存意識だけは肥大した独裁者は「勝つ」まで戦争を続けることでしょう。「長期戦になるのではないか」という実に嫌な観測さえ流れています。

 もう、これ以上の犠牲者はこりごりです。

今さらながらの石川達三「生きている兵隊」

WST national Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 ここ数日、どうも気分が落ち込んで、不安定だったのは、この本でのせいでした。

 石川達三著「生きている兵隊」伏字復刻版(中央公論新社)という本です。

 この本は、確か辺見庸著「1937(イクミナ)」(金曜日、2015年10月22日初版)でも引用されていたと思いますが、他の本にも引用されていて、いつか読んでみたいと思っていました。

 この本を貸してくれたのは、遠藤君でした。彼は「貧困層」に入るほど稼ぎが少ない階級なのに、月に2万円も払って「トランクルーム」を借りています。自宅に収まりきれない蔵書を収容するためです。2万冊はあるといいます。死んでも天国に持って行くつもりなのでしょう。

私はその全く逆で、自分の蔵書は売ったか、なくしたかで、ほとんどないので、有難いことに、よく彼から借りています。

 「生きている兵隊」は、1937年から38年にかけての中国大陸戦線で、皇軍と言われた日本軍による中国の民間人殺害や姑娘(クーニヤ)と呼ばれた若い女性狩りなどがあからさまに描かれています。

 1937年12月、32歳の石川達三が、中央公論社の特派員として上海から南京までの中国戦線に派遣されて、自分の目で見て体験し、取材したことを小説仕立てにしたものですが、ほぼ事実に近いようです。人と人が殺しあう戦争という狂気の世界、そして自分もいつ殺されるのか分からない極限状態の中です。ろくに取り調べもせず、裁判にかけることなく、怪しいという容疑で、簡単に捕虜や民間人の首を切って処刑したりします。「従軍僧」と呼ばれた僧侶も、シャベルを武器に敵兵の頭を割ったりして殺害したりします。僧侶がそんなことを?!

激しい戦闘の中で次々と戦友を失い、感覚が麻痺して人間性を失っていく兵士たち。読んでいて、自分自身も弾丸や手榴弾が飛び交う最前線に送り込まれたような気分で、読み進めるのが嫌になってきます。

巻末解説の半藤一利氏によると、この作品は、1938年2月発売の「中央公論」3月号で発表されましたが、書店に並ぶ暇もなく内務省通達で発売禁止。一般読者の目に触れるようになったのは戦後になってからだといいます。

 この作品で、石川達三は新聞紙法違反で起訴され、1939年4月の第二回公判で、禁錮4月、執行猶予3年の有罪判決を受けます。その理由は「皇軍兵士の非戦闘員殺戮、略奪、軍規弛緩の状況を記述したる安寧秩序を紊乱する事項を執筆したため」でした。

この本を電車の中で読んでいると、車内の周囲では若い勤労者が男女ともスマホ・ゲームに興じています。かといえば、中国人の2人が周囲を支配するような異様に大きな声でがなり合っています。彼らが何を話しているのか分かりませんが、この本を読んでいると、あまりにものギャップに頭が錯乱しそうになりました。

平成最後の終戦記念日に思うこと

8月15日。73回目の終戦記念日です。もしくは、平成最後の終戦記念日。

8月15日は、ポツダム宣言受諾を昭和天皇が玉音放送で国民に報せた日であるので、「終戦記念日」はおかしいという学者もおります。東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で降伏文書を調印した「9月2日」こそが終戦記念日だと主張します。

確かに8月15日時点で、アジア太平洋の全ての地域でピッタリと戦闘が終結したわけではなく、15日以降も特攻や散発的な戦闘がありました。

しかし、私自身、最近は、8月15日は終戦記念日でいいと思うようになりました。正確に言えば、9月2日は「敗戦記念日」です。文字通り、この日は外交上、国際法に則って、降伏文書に調印したわけですから。とはいえ、日本人は、敗戦記念日の9月2日をメモリアルデーにすることはないでしょうね。

◇◇◇

昨晩は、「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(中公新書)がベストセラーになった吉田裕・一橋大学名誉教授がラジオに出演していて、思わず耳を傾けてしまいました。

吉田氏によると、アジア・太平洋戦争では310万人(軍人・軍属230万人、民間人80万人)に及ぶ日本人犠牲者を出しましたが、その9割が1944年以降と推測されるというのです。この1年間だけで軍人・軍属の戦死者は200万人以上。日露戦争は9万人だったので異常に高い数字です。(第二次大戦の敗戦国ドイツが、占領国から追放された際の死亡者が200万人という事実にも卒倒しますが)

資料が残されていないので正確な数字は推計の域は出ないものの、その戦死者の内訳として戦闘による戦死者は3分の1程度で、残りは、餓死やマラリア、赤痢などによる戦病死と、戦艦などが撃沈されたことによる海没死、それに戦場での自殺と「処置」だったといいます。

1937年に始まった日中戦争が泥沼化し、40年から国民皆兵の徴兵が始まります。末期は、若者だけでなく中年までも、そして、健常者だけでなく身体・精神障害者までもが徴兵されるようになったことから、厳しい行軍でついていけなくなったり、上官による鉄拳制裁やリンチで自殺に追い込まれたりします。また、戦場に置き去りにされたり、足手まといとして「処置」という名の下で殺害されたりしたというわけです。

吉田氏は、その背景には、「当時は、人権や人命に対する著しい軽視があった」と指摘しておりました。戦前の日本社会は、職場で、学校で、家庭で、親や教師や上司らによる、今でいう暴行や暴力が頻繁に行われることが普通で、殴られたことがないのはよっぽどのインテリぐらいだったのではないかいうのです。

特に人命軽視が甚だしい。フィリピンから奇跡的に生還した兵士も「兵隊は消耗品だった」と断言してます。まるで、日本の軍隊には「兵たん=ロジスティック」という観念がなかったかのようで、前線にいる兵士に対する補給を疎かにして、食物などは「現地調達」です。だから餓死者が出るのです。しかも、軍機保護法などで兵士には行き先も告げず、「行って来い」の片道切符のみで、二度と帰ってくるなと「玉砕」さえ命じます。

戦前も官僚制度ですから、辻政信牟田口廉也といった職業軍人であるエリート将官は優遇します。しかし、赤紙一枚で引っぱって来た兵士に対する扱いは将棋の駒の「歩」以下です。武器も、40年も前の日露戦争の「三八式歩兵銃」ですからね。圧倒的な武器弾薬と物資の補給を前線に送り、ある程度の兵士の人権を認め、戦死した場合、遺体を丁重に回収していた米軍とはえらい違いです。

そもそも、国力と技術力と戦力が全く違う米国に戦勝できるわけがなく、神風が吹くわけがなく、陰湿ないじめとリンチで自分より弱い者を自殺に追い込むのが、日本人の心因性でした。(記録には残っていませんが、かなりの精神疾患者が出たようです)

ですから、この73年前の敗戦は日本の歴史上最大の変革です。幕末も、戦国時代も、大化の改新も遠く及びません。

「他人を押しのけてでも」の立身出世主義、「余所者排除」の排他主義、「前例にありません」の事なかれ主義、「総理のご意向」の権威主義と忖度主義、友情よりも拝金主義、それでいて縁故主義と血統主義…と、臭いものに蓋をし、強きを助け、弱き挫く日本人の心因性は、将来も、そう大して変わるわけがありませんから、戦争は二度と御免です。

飢饉、戦争、そして大量の難民。。。

お盆休みに入り、テレビは「戦争もの」番組を放送するようになりました。

昨晩は、続けて見てしまい、今朝はちょっとテレビの見過ぎで片頭痛です(苦笑)。

その中で、NHK-BSの「映像の世紀」の「難民」は衝撃的でした。

・1920年代初頭に起きたソ連の大飢饉で、疫病と飢えで実に900万人もの人が亡くなっていたんですね。不勉強で知りませんでした。「映像の世紀」ですから、やせ細った子どもたちや路上で亡くなった人たちが映っていました。

番組では、レーニン政権はほとんど無策で、黙って見過ごしていた感じでした。国際世論の高まりで、世界各国から援助物資が届きますが、後に米大統領になるフーバー商務長官は、国内の物価抑制のために余った飼料を送るなど、人道的ではなく、極めて「政治的」だったことも明らかにしてました。

ヒトラー政権によるユダヤ人のホロコーストが600万人と言われてますから、900万人というのはとてもつもない数字です。番組では紹介されていませんでしたが、ソ連は、1932~33年にウクライナで起きた大飢饉でも、ほぼ計画的にウクライナを見捨てたフシがあり、600万人とも、一千数百万人ともいう餓死者を出したと言われています。「ホロモドール」と言われ、2006年のウクライナ議会で「ウクライナ人に対するジェノサイド」と認定されました。規模があまりにも大き過ぎます。

◇◇◇

・1936~39年のスペイン内戦では、50万人の難民が出ています。国境近くのフランスでは難民キャンプがつくられましたが、多くの人が亡くなったようです。

・この番組で初めて知ったのですが、第2次大戦で敗戦国となったドイツは、占領していたポーランドやチェコスロヴァキアなどから追放され、実に200万人もの難民が死亡したということです。伝染病や飢餓によるものが多かったでしょうが、強制労働や暴行をはじめ、広場でリンチのように殺された人もいたようです。まさに憎しみの連鎖です。(約1500万人のドイツ人が半ば強制的に占領地に移住させられたようです)

日本の敗戦後のシベリア抑留は約60万人で、約6万人が亡くなったとされていますから、この200万人という数字には驚愕しました。

・シオニズムの高まりにより1948年5月14日、ユダヤ人によるイスラエルが建国されます(ダビド・ベングリオン初代首相)。しかし、土地を強制的に追われたアラブ人は難民化します。その数は現在、500万人と言われています。パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長(1929~2004)が「ヒトラーのツケを我々パレスチナ人が払わさせられている」といった趣旨の発言は実に印象的で、心に残りました。

◇◇◇

もう一つの番組は、NHKスペシャル「”祖父”が見た戦場」でした。小野文恵アナウンサーが77歳の母親と一緒に、戦死した祖父小野景一郎衛生一等兵(享年34)の足跡を求めてフィリピンに行く話でした。

米国の国立公文書館の記録で、米軍は日本兵の遺体を一人ずつ数えていた資料が見つかり、5万人以上の死亡場所が分かりましたが、名前や所属は分からず、結局、昭和20年6月か8月に戦死した小野アナの祖父の最期の場所は分かりませんでした。

ほとんど玉砕でルソン島だけでも20万人以上が戦死したと言われます。私の大叔父もレイテ島で戦死しているので、どうも個人的にフィリピンと聞いただけで気が重くなります。

小野アナは、奇跡的に生還した90歳を超える元日本兵を訪ねますが、その中のお一人が「兵隊は消耗品のようだった」と話していたことが印象的でした。番組では、司令官や指揮官が誰でその後どうなったのか、までは触れていませんでしたが、一兵卒は、食料がなくて餓死したり、自決したりした者が多かったということです。それでいて、東京の大本営は「永久抗戦」つまり、時間稼ぎのために、玉砕するまで戦え、と安全地帯にいて命令するのですから、あの時代とはいえ呆然としてしまいました。

※数字は、諸説あります。

「新聞と戦争」

 

先週から「新聞と戦争」(朝日新聞出版)を読んでいます。日本を代表する天下の朝日新聞が、戦時中にどんな報道をしていたのかー。当時を知る記者や文献にできるだけ当たって、自戒を込めて振り返った話です。

 

昨年から今年にかけて、夕刊で連載されたものをまとめたもので、連載時から時折、読んでいましたが、こうしてまとまって読むと、ジグゾーパズルが解けるようによく分かります。ただし、順番を変えただけで、連載記事にそれ程加筆していないようで、新聞記事ならいいのですが、単行本として読むと、まるで、俳句か短歌を読んでいるようで、場面の展開が早く、何か尻切れトンボの記事も散見します。読者の一人として、「あ、これからこの人どうなってしまったのだろう?」といった感じで置いてきぼりを食ってしまう感覚に襲われてしまいました。

 

それでも、この本の資料的価値や質の深さには何ら恥じるものはありません。

 

本書では、何回も書いていますが、朝日を含め、新聞は、1931年9月18日に起きたいわゆる満州事変を境に論調を百八十度転換します。それまで、軍部の横暴を批判し、軍縮論を唱えていた朝日新聞も、この日をきっかっけに、日本軍による満洲の植民地化を諸手を挙げて賛成し、はっきり言って軍部と行動を伴にしていきます。(当時は、大不況の真只中で、東北では娘を売る農家もあり、人口問題、食糧問題は今と比べ物にならないくらい緊急の課題だったという世相もあります。)

 

なぜ朝日は、論調を変えたのかー?ということを76年後になって、現役の記者が、自問自答しながら、歴史的事実を追っていきます。確かに専門家向きの本で、一部の好事家しか手に取らないかもしれませんが、面白くないわけがありません。

 

この本については、また触れると思います。

水木しげる「総員玉砕せよ!」

 

妖怪漫画の水木しげるさん(85)の自伝的戦記漫画「総員玉砕せよ!」を脚色したドラマ(西岡琢也作、香川照之主演)が、昨晩、NHKスペシャルで放送されました。よく知られているように、水木さんは、数少ない激戦区ラバウル戦線の生き残りです。左腕を失って帰還しました。

 

今だから、当時の軍幹部の無謀、無自覚、無責任、無定見は非難できますが、その渦中にいた当事者の庶民は何も抗弁も反抗もできず、玉砕という名の狂的な方法で殺害されたのに等しいことが分かりました。特に、最後に出てくる陸士出身の木戸参謀(榎木孝明)は、「司令部に報告義務がある」と言って逃げてしまうところなど、100パーセント、水木さんが見た事実だと思います。

 

木戸参謀は、部下を無意味に玉砕させておいて、自分だけは戦後もぬくぬくと生き延びたことでしょう。日本人はトップに立つ人間ほど卑怯なのですが、その典型なものを見せ付けられました。

 

水木さんは、10日付の東京新聞でインタビューに応えていました。戦記ものを書くのは、戦死した戦友たちが描かせるのかなあ、と言っています。「戦死した連中のことを考えるとわけがわからんですよ。何にも悪いことしていないのに、殺されるわけですからね。かわいそうだ」と語っています。

 

これ以外で、水木さんは大変貴重なことを言っています。

「好きなことをばく進してこそ人生です。カネがもうかるから嫌いなことでもするというのには、水木サンは我慢できないですねえ。人は我慢しているようですけどね。見ていられない。気の毒で。嫌いなことをやるのは馬鹿ですよ。…嫌いなことをするのは、私からみると意志が弱いように見えるねえ。自分の方針を貫かない。従順であったり。特に優等生に多いですよ、従順なのがね。世間が『こうしなくては』って言うとそっちの方向に行くって人が案外多い。好きなことにばく進する勇気とか、努力が少ない。私から見ると、必ず成し遂げるというのがない。命がけになれば選べることですよ。それをやらずに文句ばっか言っている」

 

最後に水木さんは、18歳ぐらいの時、生き方を真似ようと10人ぐらいの人からゲーテを選んだというのです。そのおかげで、ゲーテは水木さんの模範となり、幸せをつかんだといいます。戦場にもエッカーマン著「ゲーテとの対話」(岩波文庫、上中下3冊)を持って行き、暗記するくらい読み、ボロボロになった本を持ち帰ったそうです。

ポールよ、おまえもか!

ローマ

ロックファンを自認する作家のYさんが、「『9・11』以降、ロックは死んだ」といったような主旨のエッセイを書いていました。

古い話ですが、2001年の9月11日の同時多発テロに際し、たまたまニューヨークに滞在していた元ビートルズのポール・マッカートニーが、ショックを受け、その後、ニューヨークで支援コンサートを開催しました。Yさんは、深夜にテレビで、そのコンサートの中継を見ていたら、ポールが「米・英軍の軍事行動に関して全面的に支援する。テロを撲滅しよう!」と叫んで、聴衆から拍手喝さいを浴びていたというのです。(残念ながら、ポールがコンサートを開いたことは知っていましたが、私は、この映像は見ていませんでした)

その時、Yさんは思ったそうです。「その軍事行動で、殺されるアフガニスタンやイラクの市民はどうなるの?ああ、これで、ロックは死んだなあ」

1950年代から若者に圧倒的な支持を得たロックミュージックは、かりそめにも、現体制に対する反逆のシンボルでもありました。60年代にヒッピーやフラワームーヴメントなど、今のフリーターの魁みたいな若者もいましたが、スタンスとしては、既得権を崩して、反逆しようというのが根底にありました。

そのシンボル的存在がビートルズで、特にジョン・レノンは「平和を我らに」などを歌い、愛と平和を訴えて、反戦デモ行進に度々参加しました。その挙句の果てが、CIAに付け狙われることになり、「CIAによるジョンの暗殺説」なるデマが飛び交うほどでした。

そのビートルズの片割れのポールが、年老いてこの有様だったとは…。

日本にポールに相当する人はいませんが、例えば、元キャロルの矢沢永一が、自衛隊のイラク派遣支援コンサートを開催するようなものだ、と言えばいいのかもしれません。

同時期、来日したローリング・ストーンズの面々がインタビューに出ていて、当時のイラク戦争(今も続いていますが)について見解を求められると、ロン・ウッドは「戦争なんて、何であろうと、とんでもない!」と首を何度も振って拒絶反応を明確にしていました。

英国国家から「サー」の称号を得た貴族のポールが体制的なメッセージをして何が悪い?と言われれば、それまでですが、あまりにも体制的な色が付いた音楽は、個人的には、もう聴く気がしませんね。

アングロ・サクソンの植民地主義者と何の変わりもないじゃありませんか。

日本を愛したジョン・レノンだったら、どんな行動を取っていたでしょうね。

「父親たちの星条旗」

クリント・イーストウッド監督の話題の映画「父親たちの星条旗」を丸の内ピカデリーで見てきました。

新聞も雑誌も大きく取り上げ、辛口の映画評論家も満点に近い評価を与えていたので、大いに期待して見に行ったのですが、正直、無名の俳優を採用したせいか、登場人物と名前がほとんど一致しなくて、困ってしまいました。そういうことに触れた評論家は一人もおらず、「彼らはやはりタダで見て勝手なことを言ってるんだなあ」と再認識しました。

もちろん、この映画に取り組んだクリント・イーストウッドの勇気と業績はいささかも揺るぎのないものであることは変わりはありません。

これまでの戦争映画といえば、「正義の味方」アメリカが、悪い奴ら(日本やドイツ)を懲らしめて、苦しみながらも勝利を収めるといった「予定調和」的な作品が多かったので、観客(もちろん連合国側の)は安心して見ていられたのです。しかし、この映画に登場する戦士たちは、何と弱弱しく、あまりにも人間的に描かれていることか。兵士たちも当時20歳前後の若者たちが多かったせいか、登場する兵士たちも皆、少年のようにあどけなく、戦場では恐怖におびえて、子供のように泣き叫んでいる。硫黄島で米軍は、約6800人が戦死し、約2万1800人が負傷したということですから、実態に近い描き方だったと思います。

主人公のブラッドリーが凱旋演説で「本当のヒーローは(硫黄島の擂鉢山に星条旗を揚げた)我々ではなく、戦場で死んでいった戦士たちです」といみじくも発言した通り、ヒーローに祭り上げられて生き残ったインディアン系のアイラは、死んだ戦友たちに対する申し訳ないという悔悟の念で、アル中が遠因で不慮の死を遂げたりしてしまうのです。

この映画では、星条旗を揚げたヒーローたちが、戦時国債を売るための「人寄せパンダ」に利用され、最後はボロ衣のように捨てられてしまう有様を冷徹に描いています。そこでは、登場人物に対する感情移入ができなければ、カタルシスもありません。かつてのハリウッド映画が避けてきたような題材です。それを態々、映画化したクリント・イーストウッドの勇気には感服しました。

12月には日本側から硫黄島の戦いを描いた「硫黄島からの手紙」が公開されます。予告で見ましたが、こちらの方が面白そうです。もちろん、見に行きます。

 

ああ、レイテ島…

幕別町札内

「週刊文春」6月1号に載った「『厚労省遺骨集団』は『英霊の遺骨』を見捨てていた!」を読んで大変な憤りを感じています。

簡単に内容を説明するとー。

旧日本軍の戦没者は240万人といわれているが、まだ124万柱の遺骨しか収集していない。例えば、フィリピンのレイテ島では、8万人以上の日本軍兵士がほぼ全滅したのだが、戦後60年も経つというのに、まだほとんど回収されず、とうもろこし畑に散骨され、畑のこやしになっている。それなのに、厚生労働省の2002年の白書では「遺骨収集はおおむね終了」と発表している。厚生労働省は現在、戦没者の遺族らの作る民間団体に遺骨収集を任せているが、最近になって、フィリピン大学のフランシスコ・ダダール教授に遺骨の「鑑定」を任せるようになった。ダダール教授は「これは、日本人の遺骨ではない。フィリピン人の遺骨だ」などど、取捨選択しているが、その鑑定の仕方は単なる目視。つまり、カンで行っていたわけだ。ダダール教授は、単なる考古学者で法医学の専門家ではない。「私がやっていることは、当てずっぽうです」と告白しているくらいだ。

こうして、日本兵と思われていた遺骨もダダール教授のおかげで、「帰国」できなくなってしまったようなのです。要するに厚生労働省が遺骨収集事業から一刻も早く手を引きたいという目論みがミエミエです。

週刊文春も「こんなデタラメな鑑定士を雇い、戦没者や遺族を愚弄する厚労省の責任は限りなく重い」と追及していますが、この記事を後追いした新聞がないのも腹が立ちます。

レイテ島といえば、私の父親の叔父に当たる茂期さんという人が34歳でそこで戦死しています。彼は昭和7年頃から、新宿にあった「ムーラン・ルージュ」という劇場で、高悠司というペンネームで劇作家として活躍したそうです。この大叔父のことを思うと、今回の記事は他人事にはとても思えません。

本当に腹が立ちます。