支笏湖はデカ過ぎて、実につまらない湖でした。
でも、写真で見ると、実に素晴らしい湖に見えるでしょう?
これも、カメラマンの腕がいいからかもしれません。
特に、この写真は見事です。
日本最北の不凍湖。
日本を代表するカルデラ湖の雄姿を、ご覧ください。
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運河沿いをブラブラと散策していたら、お腹がすいてきたので、この「小樽運河食堂」に入ってみました。
蟹をたらふく食べたかったので、注文しましたが、正直、値段の割りには今ひとつでした。冷凍ものを解凍したばかり、といった感じで、ちょっと新鮮味に欠ける、というか…あまりうまく表現できません。安い焼酎で酔いつぶれてしまいました。
翌朝、文学館を目指しました。何と言っても、小樽といえば、小林多喜二、伊藤整を生んだ街です。
ところが、ぎっちょん、ちょん。
月曜日だったので、文学館は休みだったのです!
計画のなさ、でまた失敗してしまいました。
写真は旧日銀小樽支店です。現在、金融博物館になっていましたが、ここも閉まっていました。残念。
小林多喜二は、確か、北海道拓殖銀行に勤めていたのではなかったでしょうか?調べもせずに、書いています。
小樽の街には「ウォール街」と呼ばれるほど、金融関係の立派な建物が林立している通りがありました。この辺りです。アールデコ調というか、どれも装飾に凝っていて風情があります。東京のような、機能重視の「のっぺらぼう」とは比べられません。遥かに小樽の方が楽しめます。
80年も昔に伊藤整も多喜二もこの同じ場所を歩いていたと思うと、それだけで感動してしまいました。
小樽へは、全く予備知識も持たず、下調べもせず、素のまま、行ってしまいました。
ちょっと、後悔してます。
しかも、せっかく、史跡看板に詳しく書いてあったのに、メモも取らなかったので、ほとんど忘れてしまいました。
上の建物は、「金子元三郎商店」だったところで、現在は、土産物屋になっています。
金子は、漁業加工物から銀行業、不動産まで手広くやった事業家で、30歳にして小樽区長となり、のちに衆議院議員にもなっています。
彼は、明治24年、小樽で初めての日刊新聞「北門新報」を創刊したということでも歴史に名前を残しています。
東京から自由民権運動家の中江兆民を主筆と迎えますが、兆民はわずか1年で辞めています。その辺りの経緯については、いつか調べてみようかと思っています。
この建物は、北門新報の印刷所として使われたようです。
北門新報は、後年、札幌に進出し、北海道毎日新聞、北海道時事と合併して、北海タイムスとなり、現在の北海道新聞の礎となりました。
知床旅行の時、羅臼町のマッカウス洞窟に立ち寄りました。
ここに、光る苔があるというのです。
ヒカリゴケ?
ああ、そういえば、武田泰淳(1912-76)に名作「ひかりごけ」があったなあ、と思いながら、痛い膝と腰をかがめながら緑色にボーと光る苔を眺めてみました。
そしたら、何と言うことでしょう。
この光る苔こそが武田泰淳のひかりごけだったのです。
「ひかりごけ」は1954年の作品。北海道大学の助教授を辞めて作家に専念した武田泰淳が満を持して発表したものでした。
知床沖で難破した船の船長が死んだ船員の肉を食べて生き延びた実話を元に創作したもので、もともと、羅臼町長を1995年まで3期12年務めた佐藤盛雄さん(76)が「羅臼郷土史」に書いたものでした。
佐藤さんは、1953年に武田泰淳の訪問を受けて会ったといいます。
「実際に武田さんと会ったのは10分程度でした。あの頃丁度、洞窟のヒカリゴケが話題になっていた。別な場所であった事件とヒカリゴケを結びつけた武田さんの文学的発想は、さすがと思った」という佐藤さん。(この項、北海道新聞による)
そのひかりごけ。
よく分かりにくいですが、とくとご覧あれ。