馬加

城壁に上る Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 「馬加」と書かれていれば、普通の人は、バカと呼んでしまうことでしょう。

 正解は…

 ちょっと、ためておきましょう(笑)。

 室町時代です。

 学校の歴史では、時間が少ないせいか、どうしても、室町時代となると、京都の足利政権ということで、3代義満北山文化の金閣寺、8代義政東山文化の銀閣寺でお仕舞いですが、実は、室町幕府は、完璧に全国制覇していたわけではなく、坂東では色んな豪族が派遣を争っていました。

 簡略しますと、足利尊氏は関東を支配下に置くために、息子の足利基氏(二男とも三男とも四男とも諸説あり。ちなみに、尊氏の嫡男義詮は第2代将軍に)を「鎌倉公方」として派遣します。

 この鎌倉公方の権力が絶大だったかと言えば、そうでもなく、この鎌倉公方の「執事」役だった関東管領の上杉氏(足利尊氏の母方の家系)が次第に勢力を拡大し、ついには、鎌倉公方を圧倒してしまいます。鎌倉公方の足利氏は、ついに、現在の茨城県の古河市にまで逃れ、「古河公方」と呼ばれるようになります。

 この古河公方は、後に第8代将軍義政(東山文化の銀閣寺)と対立したため、京都室町政権は、義政の異母兄政知を鎌倉公方として派遣しますが、古河公方勢力の反抗に遭い、鎌倉に入城できず、手前の伊豆堀越に留め置かれます。これが、代々引き継がれる「堀越公方」です。

 さて、「馬加」の話でした。

 これで、「まくわり」と読みます。ご存知でしたか? 今の千葉県の豪族で、最後は滅亡して血筋は絶えましたが、地名の「幕張」としてその名前が現代にも残っています。(幕張にある馬加城跡は、現在マンションになっていて往年をしのぶ碑さえないようです)

 馬加氏の中で最も有名な武将が、馬加康胤(まくわり・やすたね)です。

 1455年、鎌倉公方の足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を謀殺したことから「享徳の乱」が起こります。この混乱に乗じた今の千葉一帯を支配下に置いていた千葉氏の重臣原胤房(はら・たねふさ)が千葉城を急襲し、この時に馬加康胤も原軍に加担し、千葉氏宗家を滅ぼします。

 しかし、馬加も、将軍足利義政から派遣された東常縁によって討ち取られたと言われます。

 以上、馬加のお話はこれでお仕舞。

 追加情報としては、「嵐」の相葉君(とはいっても、私の全く知らない人ですけど)の実家は、この幕張で、中華料理店「チャイナハウス 桂花楼」営んでいるそうです。

【追記】教養と薀蓄溢るる海老不羅江先生は、古河公方のことを「ふるかわ こうほう」とお呼びになってましたね。
「こが くぼう」でっせ(笑)。

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