麻久佐
今日は8月15日。終戦記念日です。
戦後、71年ともなりますと、戦争を知らない戦後生まれが8割という圧倒的多数を占め、今年は、特に終戦記念日なんかよりも、リオデジャネイロ・オリンピックや、SMAP解散の芸能ニュースの方が一部の人にとっては重要ではないでしょうか?
それでも、敢えて、今日は、終戦記念日を取り上げます。
1945年8月15日は、正確に言いますと、ポツダム宣言を受諾したことを昭和天皇が、国民に向かって、「玉音放送」で伝えた日です。(ポツダム宣言受諾は、その前日14日の午後11時に、中立国のスイスとスウェーデンを通じて、連合国に伝えられました。この14日から15日にかけてのクーデター未遂事件などを描いたのが、半藤一利著「日本のいちばん長い日」です)
戦後民主主義教育を受けた私の世代は、よく「8月15日は、終戦記念日じゃない。日本が負けた日なんだから、本当は敗戦記念日なんだよ」と教えられたものです。
私も長らく、そう信じておりました。
しかし、歴史的事実を冷静に見つめていくと、やはり、8月15日は、「終戦記念日」だということが分かります。つまり、大日本帝國陸海軍及び政府は、ポツダム宣言というの名の降伏勧告文書を受け入れて、戦闘行為は止めると宣言したことに過ぎないからです。
「過ぎない」という言い方は、語弊があるかもしれません。ただ、歴史的事実は、大日本帝國は、受諾を宣言しただけで、海外を見れば、満洲でも樺太や北方列島でも戦闘状態、というより一方的な殺戮、略奪、強姦、暴行が、国際条約を破棄して侵攻した決して許してはならないソ連軍によって行われていたわけですから。
それに、8月15日が過ぎても、特攻突撃に出陣した将軍もいました。
「ポツダム伍長」だった私の父親のような帝國陸軍の一兵卒も然り。8月15日で、「解散」とすぐ郷里に帰してくれたわけではなく、8月末まで、上官の炊事当番として、毎日食事を作っていたと聞いたことがあります。
では、「敗戦記念日」がいつか、となると、やはり、9月2日ということになるでしょう。1945年同月同日、東京湾に停泊する米艦ミズーリ号で、梅津美治郎参謀総長(63)と重光葵外相(58)の全権代表が、降伏文書に署名した日ということになります。
重光外相は、駐華公使だった1932年の第一次上海事変後の天長節祝賀記念式典(上海)で、弁当爆弾を投げつけられて負傷し、右脚を切断しておりました。ミズーリ号の甲板上で、この重光の歩く義足と杖の音が響き渡りました。
梅津、重光は、ともに大分県出身で、極東国際軍事裁判(東京裁判)ではA類戦犯となり、梅津は終身刑で服役中に病死、享年67。重光は禁錮7年、戦後恩赦で公職に復帰し、衆院議員に3回当選して、改進党総裁、日本民主党副総裁などを歴任しました。湯河原の別荘で急死、享年69。
今から思うと、降伏文書に署名した2人ともまだ若かったんですね。
世界の何処の国を見ても、自国の「敗戦記念日」を徹底させる国は、皆無に近いのではないでしょうか。
先の大戦では、日本人だけでも310万人もの人々が亡くなりました。(ソ連は2000万人、ドイツは700万人、中国は1300万人、米国は29万人)
だから、せめて「終戦記念日」だけでも、末代に伝えて式典を行い続ける意義はあると思います。