延吉はハングルだらけ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
最近、買い替えた「日本史小辞典」(山川出版)にも載っていませんでした。
私も、いつ頃知って、いつ頃興味を持ったのか忘れてしまいましたが(笑)、戦前の官憲による「でっち挙げ事件」として、「小林多喜二惨殺事件」「横浜事件」などと並ぶ歴史に残る事件としてインプットされておりました。
満鉄調査部(=シンクタンク)事件と合作社(=満洲の農協)事件のことです。
正確に言いますと、「興農合作社事件」と「南満洲鉄道調査部事件」のことです。
この全容をまとめた松岡將著「王道楽土・満洲国の『罪と罰』 帝国の凋落と崩壊のさなかに」(同時代社)を先ごろ、やっと、何とか読了しましたので、少し触れることに致します。
その前に、満鉄調査部事件をネットで検索してみたら、この渓流斎ブログが引っかかってしまうんですね。内容は、この「王道楽土ー」の目次を紹介した記事でした。
こちらは真剣になって調べたいのに、こういうのって、何か、白けるといいますか、背中が凍る気分ですねえ(笑)。
いかに、「合作社・満鉄調査部事件」に関する情報が、ネット世界では極めて少ない、という証明みたいなもんですね。
延吉はハングルだらけ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
正直に言いまして、著者の松岡氏に怒られてしまいますが、この本は、読んでいてあまり楽しい気分になれません。もちろん、エンターテインメント本ではないし、権力者が手段を選ばず、気に入らない人間を陥れていく過程は不快ですし、愛する日本が、真っ逆さまに凋落して、そして310万人も亡くなる太平洋戦争という哀しい不愉快な歴史的事実が列挙されていますから、楽しいわけありませんよね?
それでも、曲りなりにも「法治国家」が建前ですから、何とかして、法に照らし合わせて、時の権力者は、気に入らない人間を法の網で捕まえて、起訴して裁判にかけて罰する手続きを踏もうとします。
当時、満洲では、共産主義者ら「不逞の輩」を逮捕処罰するのには、「暫行懲治叛徒法」しかなかったため、慌てて、泥縄式に1941年12月27日に満洲国治安維持法を公布・施行します。この事件で適用されたのは、主に同治安維持法の「國體を変革する目的をもってその目的たる事項を宣伝した」という「宣伝罪」でした。(死刑または無期もしくは10年以上の徒刑)
すべては「國體護持」のためです。國體を変革し、國憲を紊乱し、国家の存立を急殆、衰退させるような、気に食わない反体制派は消してしまえ、という東條英機の「鶴の一声」と手口で、まさに罪もない人間を陥れた「罪つくりな話」でした。
繁華街は人、人、人 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
勧善懲悪ものの分かりやすいお話に仕立てて、登場人物を整理しますと―。
権力者たち=「二キ三スケ」の一人、東條英機=満洲関東憲兵隊(東京の憲兵司令官=陸軍大臣の直轄)司令官、関東軍参謀長、陸相、首相等を歴任。そして、東條の股肱の臣、加藤泊治郎=東京憲兵隊長、朝鮮憲兵隊司令官、東京憲兵司令部本部長等歴任=と鈴木貞一=企画院総裁等。戦後A級戦犯=、四方諒二=東京憲兵隊長等=は、「東條の三奸」と呼ばれたそうな。
興農合作社事件 (当局は、1941年10月28日に、新京憲兵隊から司令官に事件の全貌が報告されたことを記念して「1・28工作事件」と呼ぶ。「10・28工作事件」とは呼ばない。間違えたわけでなく、そう呼ぶ理由は、一つしかないだろう。「1・28事件」では、「10月28日事件」ではなく、「1月28日事件」になってしまうという、小学生でも思い付く考えが及ばなかった。それが、当時の日本の最高のベスト&ブライテストの知的レベルだったことになる) 1940年7月28日、満洲の首都新京(現長春)協和会中央本部実践部実践科主任平賀貞夫が検挙されたことが発端。主な検挙者は、平賀の友人で「秘密結社中核體」(実態は、なーんもなし)を結成した容疑の情野義秀、「満洲評論」の編集責任も務めた佐藤大四郎(一高中退)満洲濱江省綏化県農事合作社聯合会主事=獄死=(彼の甥は、フジサンケイ・グループ第3代議長の鹿内宏明氏=旧姓佐藤宏明)ら。1941年11月4日に50人以上が一斉検挙。前述した「宣伝罪」により、既決囚6人のうち3人が獄死。
満鉄調査部事件 1941年12月30日、興農合作社事件の被疑者として、熱海で検挙された満洲国協和会調査部参事鈴木小兵衛(東京帝大新人会出身、尾崎秀実=満鉄高級嘱託等、ゾルゲ事件で処刑=、菅原達郎=協和会総務部長等=、松岡二十世=著者松岡將氏の実父、協和会中央本部調査部、満洲映画参事等=らと東京帝大時代の同期)による同志に対する裏切りで、関東憲兵隊が創作した事件(満鉄調査部は、在満共産主義運動の温床体、母体であると関東憲兵隊は断定)。42年9月21日、第一次検挙者28人。43年7月17日の第二次検挙者は、石堂清倫=戦後評論家=ら9人。その前後に渡って、興農合作社事件関係を含む計44人が検挙(19人が釈放、5人が未決死亡、20人が有罪判決)。5人の死亡者は、満鉄新京支社調査室の守随一(東京帝大新人会出身、発疹チフス)、満鉄調査部総務課の發智善次郎(発疹チフス)、満鉄調査部の大上末廣(石堂の親友で、京大助教授、発疹チフス)、満鉄北支経済調査所の佐藤晴生(栄養障害)、満鉄上海事務所調査室の西雅雄(栄養障害)。1945年5月1日の最終公判後、大日本帝國の敗戦による満洲国と國體の崩壊で有耶無耶に。