成島柳北、永井荷風、谷崎潤一郎のこと

 キタイスカヤ街にて  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 皆さんは、わざわざ、この渓流斎ブログの過去の記事を振り返られることはないと、中国的核心的利益として、確信しておりますが、結構、過去記事は訂正、修正、割愛、改訂されております。

 結論が全く逆になっていることもありますので、腰を抜かされることでしょう(笑)。

 かつて、「メディアを売る男」が、ブログは、タスマニアかマダガスカルのサーバーに永久保存されて消えることはない、と豪語しておりましたが、歴史的事実として、小生の過去のブログは抹消されて、永久になくなったことがあります。

 「メディアを売る男」が如何にいい加減かということです。

 キタイスカヤ街にて  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 さて、今、太田治子著「星はらはらと 二葉亭四迷の明治」(中日新聞社)を少しずつ読んでいるところです。

 実に面白いです。

 太田治子さんは、ご説明するまでもなく、作家太宰治の遺児で、母親は名作「斜陽」のモデルにもなった太田静子さんで、正式な夫婦ではなかったので、かなり苦労して育ったようです。というのは、わざわざ書くまでもなく、ご存知のことと思われます。

 彼女は、太宰の文才の血を引いておられるようで、明治の伝記ものが得意ですね。

 いつぞや、「夢さめみれば…洋画家浅井忠と明治」を走り読みしたことがあるのですが、浅井忠の漢籍の先生だった成島柳北のことに触れた文章が今でも思い出深いです。

 ロシアではなく中国です  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 成島柳北は、ご案内の通り、明治のジャーナリストで、今の東京・銀座4丁目の四つ角の「和光」にあった「朝野新聞社」の社長兼編集局長を務めたことがあります。成島家は代々幕臣で、将軍侍講という要職にありました。外国奉行なども務めましたが、明治維新になって、新政府のすべての役職を断って、家督を養子に譲って向島に隠居します。

 ここが、誰にでもできない凄いことです。函館の五稜郭に籠もって最後まで新政府に抵抗して戦いながら、あっさり降伏して新政府の要職を歴任した榎本武揚とは全く違うところです。この最期の函館戦争では、新撰組副長土方歳三が戦死しました。

 私は、どうもひねくれ者で、どんな弁解があろうが、榎本武揚のように体制に阿って出世する人間は大嫌いです。

 批評の神様にまで崇め奉られた小林秀雄も、以前書いた通り(2016年7月19日「戦争について」)、戦中は戦意高揚の宣撫活動を得意として多くの読者を獲得し、戦後は「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と開き直って、さらに多くの読者を獲得したことについて、若い頃は喝采していましたが、今は何てゲスい人だったんだろうと思うようになりました。

 それより、戦中、軍部当局によって出版停止を命じられて、細々と食いつないで名作「細雪」を書き続けた谷崎潤一郎の方が遥かに、はるかに偉い。尊敬に値すると思います。

 もう一人、戦時中、同級生だった人物が威張り散らす姿を見て、最後まで当局に抵抗し続けた永井荷風散人も、心の底から尊敬しています。

 戦後は、それでも二人とも、芸術家として最大の栄誉である文化勲章を受章しているんですからね。授与した日本の国家も凄いもんです。

 永井荷風も愛読した成島柳北は、自著「墨上隠士伝」でこう書きます。

 「われ歴世鴻恩(こうおん)をうけし主君に、骸骨を乞ひ、病懶(びょうらん)の極、真に天地閒無用の人となれり、故に世間有用の事を為すを好まず」

 太田治子さんは「『天地間無用の人』 すさまじい言葉だと思う。他人に言われたら激怒するのが当然である。しかし自分からそう言ってしまったとしたら、何と気が楽になることか」と書いています。

 私は、この文章を読んで、成島柳北に大変好感を持ちました。

 あれ、前置きが長すぎて、太田さんの「二葉亭四迷」のことを書く紙数が尽きてしまいました(苦笑)。

 次回また。

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