二葉亭四迷のこと

江戸歌舞伎発祥の地

(昨日の続き)

お約束ということで、昨日の太田治子著「星はらはらと」(中日新聞社)から。

二葉亭四迷の伝記で、まだ読書中ですが、「へ~、なるほど」と、取り敢えず、勉強になったことを列挙します。

・二葉亭四迷、本名長谷川辰之助は、元治元年(1864年)、江戸市ヶ谷合羽坂の尾州藩上屋敷生まれ。父吉数は、尾張藩御鷹場(おたかば)吟味役江戸詰めの下級武士。江戸市ヶ谷合羽坂尾州上屋敷は、維新後新政府により没収されます。そこには、山縣有朋の画策で陸軍士官学校がつくられ、昭和16年から敗戦まで、陸軍省、陸軍参謀本部が置かれます。敗戦後、米軍に接収されてここで極東国際軍事裁判が行われ、返還後、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を経て、現在、防衛省の敷地になっています。長谷川家は、バリバリの徳川の幕臣だったのですね。しかも親藩御三家。それで、二葉亭四迷が、最後まで明治の薩長藩閥政府に背を向けていた理由が分かりました。

・東京外国語学校露語科を中退して、職を転々とし、新聞、雑誌などに小説やロシア語翻訳を発表していた二葉亭四迷が、44歳にして朝日新聞ペテルブルク特派員になれたのは、明治41年に来日して、二葉亭が案内役を務めたロシアの作家兼新聞記者のネミーロウィッチ・ダンチェンコの推薦によるものだった。(病を得て、帰国途中のベンガル湾上で死去、享年45)

・転々としていた職業とは、内閣官報局雇員、東京外国語学校教授など。いずれも、短期間しか続かず、外国語学校教授を辞めた後は、満洲のハルビンまで行く始末。徳永商会の顧問になる予定も、不首尾に終わった模様。行動力があり過ぎる。(この事実を知っていたら、ハルビンに行った時、徳永商会を探したものを!)

・明治25年、二葉亭は本郷区菊坂に下宿。そのすぐ側に樋口一葉も住んでいたが、二人が直接会ったかどうかは不明。文語体の一葉は、言文一致の二葉亭より遥かに年長かと思ったら、一葉の方が8歳年下。二葉亭の「革新性」に目を瞠る。

・日本人で最初の世界共通語エスペラントの教本を書いたのが、二葉亭四迷だった。

・二葉亭四迷が、朝日新聞社の特派員としてロシアに居を定めたペテルブルクのアパートは、ドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフが住んでいた下宿としてモデルになったアパートやゴーゴリの「狂人日記」の舞台となったアパートのすぐ近くだった。

・現在、東京・御茶ノ水にあるロシア正教のニコライ聖堂の敷地は、維新後まもなくロシア大使館が建てられていた。その前は、駿河台の定火消(じょうびけし)屋敷跡だった。

・二葉亭四迷は維新の混乱を避けて、一時期、尾張名古屋藩に戻るも、再び上京して住んだ所が、飯田町定火消屋敷跡だった。この飯田町定火消屋敷跡は、現在の飯田橋駅に近い日本歯科大学と富士見小学校辺り。

・定火消とは、幕府常設の消防組織で、当初は、五千石前後の四人の旗本を組頭に、与力六騎、同心三十人で一つの組がつくられた。飯田町、半蔵門外、溜池の内、御茶ノ水、八代洲河岸、市ヶ谷佐内坂、赤坂門外、駿河台などに置かれ、火の見櫓も建てられた。

・蛇足ながら、著者の太田治子さんは全く触れていませんが、「東海道五十三次」「江戸名所百景」などで知られる浮世絵師歌川広重は、本名安藤重右衛門。もともとは、この定火消八代洲河岸の同心だった。「江戸名所百景」は、安政の大地震後の江戸復興の祈りを込めて製作したと言われ、広重の元職が定火消役だったからだという説が有力。

・この定火消八代洲河岸屋敷跡には、現在、東京・馬場先門交差点角にある昭和9年建築の「明治生命館」(明治安田生命保険相互会社ビル)=重要文化財=が建っております。

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