アムール川 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
先週の土曜日に東京・高田馬場の早稲田大学で行われた20世紀メディア研究会のお話の続きです。
これは、電車の中でスマホでは書きづらい話で、本日は祝日のため、こうしてパソコンで書けるわけです(笑)。
昭和11年に、聯合通信社と電報通信社が、内外情勢を背景に国策として半ば強制的に合併させられてつくられた国際的な報道機関が同盟通信社であることは皆様もよくご存知のことでしょう。
その同盟は戦後、自主的に解散して、今の共同通信(社団法人、地方新聞、ゼネラルニューズ)と時事通信(それ以外の経済、国際、官公庁、水産、芸能、出版)と、今脚光を浴びている電通(広告)の3社に分裂しますが、当時は世界を代表する国際通信社としてブイブイいわせたものでした。
この同盟通信の代表的人物として、電報通信社の光永星郎、聯合通信の岩永祐吉と古野伊之助の3人はよく知られていますが、田中都吉(たなか・ときち、1877~1961)は知る人ぞ知る人物で、メディアの仕事をしている人でさえも、不勉強な人が多いので、意外と知られておりません。
田中都吉は、同盟通信の社長代行理事を務めた人ですが、国策通信社ですから、いわばお上(かみ)から送り込まれた官憲で、新聞の言論統制を一手に引き受けたゲッペルスのような人物と言う人もいるぐらい評判が悪いのです。
そんな人物を博士号のテーマとして研究している人がいまして、その人の研究発表を土曜日のメディア研究会で聴講したわけです。この方は30代後半か40代初めに見受けられましたが、本職は何と、戦前からある業界紙の現役記者さんでした。
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田中都吉は、外交官出身です。初代の駐ソ大使も務めました(1925~30)。初代文部大臣森有礼が設立した東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業した明治31年に外務省に入省します。当時の外交官・領事館試験の合格者は、明治27年から31年にかけての5年間で53人、明治32年から41年にかけての10年間が74人という超狭き門で、東京帝大出身が8割、東京高商出身が2割を占めていたといわれます。
田中都吉は、外務次官まで登りつめた翌年の大正12年、46歳で退官します。
途中ですが、田中は個人の著作を発表しておらず、新聞や雑誌等にインタビュー記事や論文を発表していた程度でしたので、謎に包まれた面が多いそうです。
ですから、なぜ、田中が46歳で外務省を退官したのか、まだよく分かっていないようです。
しかし、大正14年にはジャパンタイムスの社長に就任し、ジャーナリズムの世界に入ります。ジャーナリズムといっても、記者経験はありませんから、経営者としてです。
その後、駐ソ大使を経て、昭和8年(1933年)には今の日本経済新聞社の前身であり、三井物産の益田孝つくった社内報「中外物価新報」の流れを汲む「中外商業新報社」の社長に就任します。
そして、前述したように、昭和11年に同盟通信社の社長代行理事を兼任し、昭和16年には、全国の新聞連盟の評議会議長、理事長も兼任。翌年は、中外社長と同盟役員を辞任して、日本新聞会の会長に就任します。
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田中都吉が新聞社の経営者や全国の新聞社の協会の会長を務めた時期はちょうど戦時体制の真っ只中で、大政翼賛会、国家総動員法、国民徴用令などが発令された時期と重なります。
その中で、田中都吉が一貫して果たした役割は、メディアの言論統制でした。
記者を登録制度にして、中央官庁の記者クラブへの加盟条件にしたり、記者教育と称して錬成活動を推進したりしました。
田中は、日本新聞会会長として、昭和18年4月25日の編集最高幹部錬成会開会式で、「国家あっての新聞。言論の超国家的自由などということは有り得ない」とまで発言しております。今のNHK会長の発言と見まごうばかりの発言です。
私もまだまだ知らないことが多いのですが、田中は昭和18年から21年にかけて、貴族院議員も務めておりますから、情報局と連携して、新聞事業令などの励行にも関わっていたのかもしれません。
今は、多くの人が気づいていませんが、言論統制の時代で、政府が隠したがる真実が庶民の耳に入らず、一部の特権階級にしか入らないシステムになっていることは、渓流斎ブログの愛読者の皆さまでしたら、ご案内の通りです。
もはや、田中都吉が過去の時代の遺物と誰が断定できましょうか?