忠臣蔵外伝と葛飾北斎

木村東介著「女坂界隈」(大西書店、1976年初版)を読んでいたら、忠臣蔵外伝として意外な史実を教えてもらいました。

この本に所収されている「赤穂浪士討ち入り余話」というタイトルで書かれた短い論考です。

以前にも渓流斎ブログで取り上げましたが、木村東介(1901~92年)は、山形県米沢市出身で、若い頃、中野正剛門下の国粋主義団体「雲井塾塾長」として活動しながら、善隣書院主宰で書家の宮島詠二(大八)に諭されて、古美術商を生涯の仕事として捧げた人です。後年、ジョン・レノンと会って、彼の人柄に触れて、一緒に歌舞伎座で歌右衛門の「隅田川」を見た人でしたね。

木村東介は、文章家としても知られ、何冊かの著作を残しています。

さて、忠臣蔵ですが、言わずと知れた話で、饗応役の高家(こうけ)吉良上野介義央(よしなか)に意地悪された(と思った)赤穂藩主浅野内匠頭長矩(ながのり)が、江戸城松の廊下で、刃傷沙汰に及び、切腹を申しつけられ、赤穂浪士が吉良邸に押し入って仇討ちをして、本懐を遂げるというのが本筋です。

しかし、実は真相が不明な部分も多く、そんな単なる仇討ち話だけではないんですね。

まず、浅野内匠頭は、織田信長と豊臣秀吉(の五奉行だった)に仕えた浅野長政の五代目子孫に当たり、赤穂浅野家は長矩の代で断絶します。

そして、吉良義央は、「忠臣蔵」では悪役ですが、三河国吉良地方の領主としては、新田開発や水利事業などを行い、地元では名君として崇拝されています。

また、高家とは、幕府の儀式、典礼を管掌する位の高いお役目で、吉良上野介は、役高1500石、領地4200石に過ぎないのに、大名(1万石以上)並みに従四位上に任じられていました。一方の浅野内匠頭は、播磨赤穂藩の五万石の大名ながら、従五位下と官位が吉良上野介より低かったのです。

さて、木村東介さんに教えられたことは、元禄15年(1702年)の赤穂事件の38年も昔の寛文4年(1664年)5月のこと。上杉家四代綱勝が、鍛冶橋の吉良邸に招かれ、お茶を喫したところ、腹痛を起こし、手当の甲斐なく死去します。享年27。毒殺説も囁かれました。三〇万石の名門上杉家(関ヶ原の戦い以前は、会津若松120万石!)を恐れての幕府からの差し金説もあったようです。

上杉家は、室町幕府を開いた足利尊氏の生母を輩出する名門。その後、関東管領に任じられ、憲政の代で長尾景虎に家督を譲り、景虎は入道となって上杉謙信と名乗ります。その謙信公以降、景勝ー定勝ー綱勝と続きましたが、四代でお家断絶寸前。

そこで、吉良家が、子息三郎を上杉家の養子として五代目を継がせ、吉良三郎は、上杉綱憲と名乗ることになるのです。後に、上杉家は米沢に移封、そして15万石に減封され、「為せば成る」で有名なあの上杉鷹山(治憲)を輩出したりするわけです。

ということで、吉良家と上杉家との縁が浅からぬどころの話ではありません。

赤穂浪士が討ち入りした時、仇討ちに備えて、上杉藩の剣客小林平八郎を始め、鳥井利右衛門、須藤与一右衛門ら二十数人が吉良家の付人として派遣されたわけです。

そして、どういうわけか、上杉藩の剣客たちは赤穂浪士に大した抵抗をするわけではなく、潔く討ち死にしたといわれます。

もう一つ、意外な逸話として、この上杉藩の剣客小林平八郎の孫娘が宝暦10年(1760年)9月、本所松坂町と本所割下水の間に挟まれた辺りで、男の子を産み、時太郎と名付けられます。

この時太郎こそが、後の天才絵師葛飾北斎となるわけです。

凄い話っだったでしょう?

【追記】

イタリアのファッショ気取りだった若き木村東介が、宮島詠士に初めて会った際、師匠中野正剛の名刺と自分の「雲井塾塾長」の名刺を差し出すと、宮島詠士は、いきなり2枚の名刺をもみくちゃに握り潰してしまった。

その際に言った言葉。

「支那の何万何十万の無辜の民を殺し、幾多有為の日本青年の骨を中国の山河に晒して、一体何の得るところがある。中野の馬鹿者にそう言っておけ」

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