東京渡辺銀行が破綻しました

目黒不動尊の鷹居松

この渓流斎ブログを、現在病気療養中ながら、病院にスマホやタブレットを持ち込んで、読んでくださっている方もいらっしゃいます。

レハビリ中の方もいらっしゃいます。本当に有り難いことです。

ですから、本来なら、もっとしっかりした少しはまともなことを書かなければならないとは思っておりますが、ま、こればかりは仕方のないことであります(苦笑)。

江戸切絵図

で、最近、江戸五色不動尊巡りをするなど、すっかり江戸散歩に嵌っております。

そんな中、次期首相心待の石破茂さんと同級生の泉麻人さんが書いた「東京いい道、しぶい道」(中公新書)を面白く拝読してます。

この人の場合、江戸散歩とは違い、せめて明治大正、大体は昭和30年代という比較的新しい時代の地図を片手に散歩しているため、少し物足りなさを感じますが、それでも、この渓流斎さえも知らなかったことまで出てきます(笑)。

例えば、彼は慶応ですが、よく野球の早慶戦が終わった後、早稲田は新宿へ、慶応は銀座へ繰り出す、という話を聞いたことがあります。私は、部外者なので、慶応のおぼっちゃまは、あの銀座の何処に繰り出すのか疑問に思ってました。

それが、泉さんが慶応の学生時代によく倶楽部(あの有名な広告学研究会)の仲間と行っていたのが「Brick」だと書かれていて、「なあんだ、あそこならよく行ったことがある」と安心したものです。比較的安いショットバーです。

著者が散歩中に、よく元結不動だの、小岩不動だの、結構不動尊が出てきて、「嗚呼、江戸市中には、五色不動尊以外にかなり不動尊があったんだ」と今さらながら思い出した次第。

彼によると、成田不動尊と幡ヶ谷不動と高幡不動が江戸郊外の三大不動尊らしいですが、高幡不動は日野市にあり、かなり有名です。日野は新撰組の近藤勇と土方歳三の出身地であり、彼らも高幡不動を信仰していたはず。この本を読んで、いつか行ってみようかと思いました。

伊達上屋敷が日比谷公園の中だったとは知らなかった!

また、この本では、西日暮里の開成学園辺りの俗に言う「渡辺町」を取り上げております。ここは、「東京渡辺銀行の渡辺治右衛門が宅地開発した由緒あるお屋敷街」とだけ著者は解説しているので、実に歯痒い。かゆいところに手が届かない、と言いますか、浅薄。ここまで書くのなら何故、もっと東京渡辺銀行のことに触れないのか、がっかりしてしまいます。

東京渡辺銀行は、昭和金融恐慌の引き金となったそれこそ由緒ある銀行でした。

実際は優良経営だったのに、何を血迷ったのか、片岡直温大蔵大臣が、昭和2年(1927年)3月14日の衆院予算委員会で、「渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。誠に遺憾です」などと発言し、預金者の取り付け騒ぎが起きて、本当に破綻してしまったのです。

まあ、歴史の教科書に出てくる話ですが、教科書には決して出てこない話として、歌舞伎評論家の渡辺保氏がおります。

彼は、何とこのこの渡辺財閥の御曹司で、まだ物心つかない幼い時分から、芝居好きの祖母に抱っこされて歌舞伎座に通っていたようです。

勿論、六代目も十五代目も生で観ていたことでしょう。(これで分かれば、貴方も歌舞伎通)。

逆に言いますと、歌舞伎は庶民の物見遊山ではなく、財閥の御曹司でなければ観られないような高価な芸術だったわけです。

ローマは一日にしてあらず。渡辺保氏の書く歌舞伎評がパンピーと違うのは年季が全く違うからです。

“東京渡辺銀行が破綻しました” への5件の返信

  1. 斎主高田さま、在京G喜門下のAsウーノです。おつな寿司や数年前拙稿エルベに舞うで版元ご紹介賜り、大変お世話になりありがとうございました。未完ですが^_^
     加藤力之輔画伯の京都個展の動画ありがとうございました。加藤さん奥さんも殊の外お喜びになった事でしょう。
     歌舞伎と東京渡邊銀行・破綻では、ぼつちやんと紙手巾という拙稿短編未完^_^を書く際、暖簾分け横浜渡邊銀行の末裔渡邊俊郎氏より、初代頭取富太郎の長男和太郎についてご教示あり。和太郎は不遇とされるロンドン時代の夏目金之助に可愛がられた若者で、下宿を世話し酒を呑み雑煮を喰らい、帰国後も和太郎が早世するまで漱石と愉快な親交を結んだ由。
    東京渡邊銀行ルーツはお江戸日本橋の鮮魚商明石屋にあり、吉原花魁の如く永らく歌舞伎座は高嶺の花、大衆化した今とは大分赴きを異にしてたようですね。コロナ禍に負けず、今後もコラム健筆期待してます。2020.4.18 Asウーノ拝

    1. 石川様
      コメント有難う御座います。
      G喜氏からはお噂はちょくちょく伺っています。
      扨て、凄い取材力で感服致しました。
      東京渡辺銀行のルーツが日本橋の鮮魚商明石屋だったとか、暖簾分けに横浜渡辺銀行があった話など寡聞にして知りませんでした。これはコメントではなく、本文に書かなくてはいけませんね(笑)。
      私より深い知識を披露されると商売上がったりですが(爆笑)。
      はい、大歌舞伎は、確かに高嶺の花でしたよね?

      1. Ola! 高田斎主さま、好奇心の赴くまま古今東西、自由自在に歩き回るご様子、さすがです。HP画面に追加。宜しくです。
        Asウーノも参加IJUMAA Big BandというJazz Bandも公演中止続いてます。因みに
        IJUMAAとはアラビア語圏で安息日、金曜日夜にリハなので付けたとか^_^

  2. 歌舞伎見物が財閥御曹司でなければ見られなかった、というのは過大評価です。渡辺氏自身、自分が歌舞伎を見始めたころは家も小市民生活だったと書いていますし、事実、私事にわたって恐縮ですが同年の私もサラリーマン家庭で育った芝居好きです。歌舞伎座でも下町の人々は旦那から若者まで幅広く、「今でも」見ることができます。かぶきは市民が育てた舞台芸術です。玉稿は楽しませていただいていますが折角のことですので投稿しました

    1. 旗森様 3年前に書いたブログにコメント頂き、誠に有難う御座います。書いた本人は忘れていました(苦笑)。さて、ご指摘有難う御座います。ただ、曖昧な書き方で誠に申し訳ないのですが、江戸時代の歌舞伎も決して庶民の娯楽ではなく、最上席は、今の金額に換算しても2~3万円で、今とほとんど変わらなかったいいます。大奥が忍びで繰り出した江島生島事件があったように、これでお取りつぶしなる山村座を含む江戸四座は、かなり敷居が高かったと思います。
      つまり、お上が許した櫓座の大歌舞伎以外に小芝居があっちこっちにあり、庶民はそちらに行ったことでしょう。
      明治になっても、高額さは変わらず、夏目漱石の随筆にも書かれています。当時は、川船で芝居茶屋に行き、そこで、途中で何度か食事をしてからまた観劇していたので、歌舞伎となると丸一日がかりだった、と書かれていました。(出典明示できず済みません) 

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