『獄中記』

 フィレンツェ

 

今年に入って、密かに読み続けている本があります。一日、数ページ読んでは、「箸休め」のように、本を置いて、ゆっくり感動に浸って、また翌日読むといった蝸牛のようなペースで読み進んでいます。一気に読んでしまうのがもったいないのです。

 

本の大海の中から、ようやく必要なものを見つけ出したような感覚です。もしかしたら、大変な名著で、この先、何十年も読み継がれる本なのかもしれません。読みながらも、偶然、鉱脈に当たったという手応えを感じています。

 

前置きが長くなりましたが、この本は、佐藤優著『獄中記』(岩波書店)です。佐藤氏に関しては、「恫喝悪党」鈴木宗男代議士と手を組んで、個人的に外務省を操ってきた影の人物というマスコミを通じた認識しかなかったのですが、二年前に彼の著作である『国家の罠ー外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を読んでから、その認識は百八十度変わりました。鈴木宗男氏とは、北海道で直接、何度かお会いして、その政治的情熱に触れることができ、以前の偏見を拭い去ることができました。

 

『国家の罠』では、国家に忠誠を尽くした一人の外務省の役人が、時の政権の政策転換の生贄として、国策として、罪状をでっちあげられたーというのが佐藤氏らの主張でしたが、その理論的根拠となる、いわゆる理論武装の種本のような著書がこの『獄中記』に当たります。

 

ヘーゲル『精神現象学』、ハーバーマス『公共性の構造転換』、カール・バルト『キリスト教倫理』…その旺盛な読書量には圧倒されます。しかも、ドイツ語、ラテン語、ロシア語、フランス語、チェコ語、ギリシャ語、アラム語…と語学の勉強に余念ありません。どういうわけか、数学のⅡ、Ⅲ、A、B、Cまで勉学まで励んでいます。獄中にありながら、国家の税金で三度の食事を与えられ、静かな環境で勉強に集中できるので、こんな有り難いことはないと感謝の言葉さえ、何度も書き連ねています。

 

大杉栄やドストエフスキーも驚愕するほどの勉強量です。

 

仮出所した後の佐藤氏の著作活動には目を瞠るものがありますが、こういう「基礎」があったからといことが、初めてこの本で分かったのです。

 

恐らく、この本は「公表」を前提に書かれたか、「公表」するに当たって、かなり、個人的な感慨部分は割愛されたように思います。何しろ、普通の囚人だったら、書きそうな、塀の外にいる家族や親しい人に対する恋慕の情や懐かしさや後悔や希望など、少なからず吐露すべき心情があるものですが、この記録には一切出てきません。半分ほどは、弁護士への手紙が収録されていますが、只管、裁判に勝つため、理論武装のための思索ノートに徹した感があります。

 

かといって、非人間的な側面は感じられません。読者に共感を拒絶していないため、読者もまるで著者と同じように独房に入って、一緒に思索を重ねているような錯覚さえ起こさせてくるのです。

 

ここで、二、三箇所、抜書きしてみます。

 

「拘置所の中にいると、入ってくる情報が極端に少ないので、思い煩わされることも少なくなります。現下の状況では、拘置所の中にいた方が心理的負担が少ないと思います。以前、インド仏教思想でナーガルジュナ(龍樹)の学説すなわち中観思想を勉強したときのことを思い出します。この学説によると、苦しみとか悩みというのは、人間が情報に反応して、様々な意識を抱くゆえに生じるということになります。余計な情報が入ってこなければ、思い煩うことも少なくなるわけです」(31ページ)

 

「プロテスタントから見れば、ルター、カルバンは英雄ですが、カトリックから見れば極悪人です。鈴木宗男先生にしても、二〇〇二年一月末までは外務省にとっては『守護天使』でした。今では『悪魔』です。」(88ページ)

 

「キリスト教神学では『何事にも時がある。時が満ちて初めて、次に進むことができる』という時間概念があります。今はじたばたしても仕方ありません。『時が満ちる』のを待って、ひたすら潜在力を付けることが賢明と考えています。他人を憎んだり、人間としての優しさを忘れ、自己中心的になるのではなく、あくまでも人間として崩れずに『時が満ちる』のを待ちます」(114ページ)

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