フォロ・ロマーナ
持田鋼一郎著「高島易断を創った男」(新潮新書)を読了しました。
有楽町の三省堂で、目立つ所に平積みになっていて、手に取ってみたら面白そうだったので、買ってみることにしたのです。
偶然とはいえ、こんな面白い物語は、本当に久しぶりでした。まさに、「血湧き、肉躍る」といった表現をしても大袈裟ではないと思いました。子供の頃にワクワクして読んだ「ジャン・クリスト伯」や「岩窟王」や「ああ無情」の感動に近いかもしれません。ハラハラドキドキで、これからどうなってしまうのか、手に汗を握る感じでした。
初版をみると、2003年8月20日でした。4年近く前に出版されたのに、話題になったことさえ知りませんでした。でも、大型書店でいまだに並べられていることから、ロングセラーなのでしょう。知る人ぞ、知る世界です。
この本は、まさに「高島易断」を創った呑象高島嘉右衛門の伝記です。私も、高島呑象といえば、易者としか名前を知りませんでした。どういう人だったのか、まるっきり知りませんでした。しかし、この予備知識が全くなかったおかげで、彼がどうなってしまうか、ハラハラドキドキしながら、ページを捲るのが惜しいくらい、寝食を忘れるくらいこの本に没頭してしまったのです。
もし、私のような経験をしたいのなら、この先は読まない方がいいかもしれませんよ。粗筋を書いてしまいますから。
まず、高島嘉右衛門(1832-1914年)は、易者ではありましたが、本職ではないということです。本職は、幕末から明治にかけての激動期に生きた実業家だったのです。晩年に隠棲した横浜に高島町の名前を残しています。「占いは売らない」と言って、鑑定はしても金銭を取らなかったと言います。莫大な資産を作ったので、その余技でやっていたものと思われがちですが、已むに已まれぬ事情があって、易をやるようになったのです。彼が「易経」を本格的に修行したのも、獄中だったぐらいですから。まさに、波乱万丈といって言い生涯でしょう。現代人がどんなに逆立ちしても敵わない濃密さです。彼の一生と比べれば、私のそれは、芥子粒みたいなものです。
今の銀座通りの裏手に当たる江戸三十間堀町に材木商兼建築請負業の長男として生まれ、(幼名清三郎)、抜群の記憶力で、早くから商才を発揮し、元服してまもなく、佐賀の鍋島家江戸藩邸奥方居宅の普請で、請負金額の約1割3分、450両の利益を得て幸先のいいスタートを切ります。しかし、これは、彼の波乱万丈の生涯の序の口です。簡単に記すと…
●17歳で岩手の南部藩の採鉄・製鉄事業に参画するが、失敗。
●22歳で父嘉兵衛が亡くなり、父親の莫大な借金を背負う。(父嘉兵衛の名前を継ぐ)
●23歳。安政2年(1855年)の大地震による大火を「予想」して、事前に材木を買い占めて、材木の売却と鍋島家の請負工事などで、2万両の利益を得る。
●24歳。安政3年(1856年)8月の暴風雨による江戸の河川の氾濫で材木が流失。南部藩の建設工事で、約定料金のうち2万5千両を支払われず、昨年の利益を全部吐き出しても、2万両(今の約1億円)の負債が残る。
●安政6年(1859年)27歳。鍋島藩家老の田中善右衛門の紹介で横浜に伊万里焼などの佐賀特産品販売の「肥前屋」を開店。
●横浜の居留外国人との金貨密売事件で指名手配。箱根湯本で逃亡生活を送るものの、自首し、伝馬町の牢に入獄。万延元年(1860年)、28歳。古畳の間にあった「易経」を発見し、これまで他人を恨み、自分を嘲ていた愚かさに気がつき、この難解な「易経」すべて暗記する。
●慶応元年(1865年)33歳、赦免。名前を嘉右衛門と改める。「江戸所払い」となり、再起をかけて横浜で材木店を始める。通訳を雇って、外国人との商談を発展させ、イギリスの公使館建設を請け負う。1万ドル以上の利益を手にする。
●維新後は、ガス会社を設立したり、横浜に下水を敷設したり、旅館や学校を創ったり、北海道に農場を作ったり、八面六臂の活躍。伊藤博文に請われて、日清・日露戦争の戦局を占ったりして、悉く的中する…
大正3年(1914年)、82歳で没。
確かに、著者は、高島の孫の後藤達さんらに直接話を聞いたり、高島自身の著作などに当たって、依拠しているので、全面的に高島嘉右衛門の「偉人伝」的な書き方に終始しています。
維新後の高島は、伊藤博文、大隈重信、陸奥宗光、副島種臣らに接近して、「政商」に近い行動を取っています。批判的な記述が全くないので、少し、読み足りない部分はありますが、それらを差し引いても、彼の生涯は驚きの連続です。
読了後、溜息が出てしまいました。