Kさんのこと

  帯広動物園

 

スポーツジャーナリストのKさんが先月21日に亡くなりました。52歳の若さでした。昨年8月に二度目の脳内出血で倒れ、約11ヶ月間、意識を回復しないまま、旅立たれました。

 

Kさんは、私のかつての先輩で、アイスホッケーの専門記者として、知らない人はいない存在でした。J大学のアイスホッケー部で活躍し、社会人になってからは記者としてアイスホッケーを取材し、彼ほどアイスホッケーに全身全霊、徹底的に精魂を傾けた人は私は知らず、恐らく空前絶後でしょう。

 

しかし、はっきり言って、アイスホッケーは一部の熱狂的なファンはいるものの、マイナースポーツです。会社組織も専門記者を置くほど余裕がありません。Kさんは、次第に追い詰められるような形で1998年に組織を辞めて、フリーに転向します。しかし、その翌年の99年に名古屋で取材中のアイスホッケーリンクで、最初の脳内出血で倒れてしまいます。

 

Kさんは一人っ子で、会社を退職する前後の時期に、母親、続いて父親を亡くす不幸に見舞われています。そしてまた、その時期に自宅を全焼する不運にも遭っています。独身の不規則な食生活と心労が重なったせいなのかもしれません。一命は取り留めたものの、右半身に後遺症が残りました。

 

私がKさんと再会したのは、2002年頃でした。新橋の居酒屋で、他にもう二人いました。その頃は、言語障害はほとんど回復し、相変わらずの毒舌家でしたが、さすがに丸くなった感じでした。それでも、アイスホッケーに対する情熱は失っておらず、いつか本を書くようなことも話していました。「ボチボチやっていくよ。おめえも色々あると思うけど頑張れよ」。それが彼から聞いた最後の言葉でした。(そう言えば、私に対する彼の口癖は「おめえみていに、もてねえからよお」でした。若い頃、N君と私とKさんの三人で三宅島に遊びに行ったこともありました。懐かしくて涙が出てきます)

 

7月4日に彼の母校のJ大学で「お別れ会」がありました。残念なことに私は仕事で行けませんでしたが、200人くらいの人が弔問に訪れたそうです。彼は、独身の一人っ子で天涯孤独の身でしたが、多くの友人知人、先輩後輩に恵まれた人でした。6月29日付の北海道新聞(夕刊)では、彼の友人のK編集委員が長い長い追悼文を寄稿していました。一介のアイスホッケー記者の追悼文にしては異例のことではないでしょうか。それだけ、彼は周囲から愛されていたのでしょう。

 

私はお別れ会に行けなかったので、個人的に追悼することに致しました。噂で聞いた話では、彼が残した遺産は、国庫として没収されてしまうそうです。最後までお世話をした親しい従兄はいるのですが、財産を相続できるのは、法律で二等親までだそうです。遺言でも残せばよかったのですが、本人は志半ばで再び倒れるとは思わなかったのでしょう。もう一つ、生前の彼に一千万円近い借金をした人もいたそうです。借用書もなかったので有耶無耶になるのではという話でした。

 

色々話を聞くと、心が痛み、かくもプライベートなことながら記しましたが、Kさんは最後まで信念を持って自分の好きなことをやり遂げたのではないでしょうか。それだけが救いです。

 

合掌

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