一連の次期日銀総裁問題は、戦後初めて、「総裁空席」となり、京都大学院教授だった白川方明副総裁が総裁を代行するということで、一応の決着をみました。エコノミストの中には「今、日銀総裁がいなくても、大したことはない。ゼロ金利政策が続き、公定歩合の操作などという仕事もないし、世界経済に大した影響はない」と穿った味方をする人がいますが、政党間の抗争もからんでおり、私のような素人には何が起きていたのかさっぱり分かりませんでした。
よほど内部の事情に詳しい人か経済に精通している人しか、これらのゴタゴタについてはよく分かりませんよね。
そんな折り、昨日の日経と東京新聞がかなり詳しく裏舞台を解説してくれていたので、ほんの少しだけ、分かったような気がしました。こういう記事は本当に有り難いですよね。ネットだけ見ていては、何も分からないでしょう。ネットニュースには、解説記事が少なく、「結果ニュース」が多いので、誰が勝った、負けたとか、といった結果は分かっても、その背景や歴史や途中経過などが分からないからです。
部数減に悩む新聞業界は、解説、コラムによって、生き延びる道があるのではないでしょうか。
日経の「検証 日銀総裁空席」によると、「武藤敏郎総裁」の布石は、実に五年前にあったというのですから、驚きです。2002年12月26日、東京・赤坂プリンスホテル内で、当時の小泉純一郎首相が、武藤・財務省事務次官に「日銀副総裁を引き受けてくれ」と説得し、5年後の総裁昇格の布石まで作ったと書かれています。
そもそも、日銀総裁は、日銀出身者と大蔵(財務)出身者(事務トップの次官)の「たすきがけ人事」が慣例でした。それが、1998年に大蔵官僚によるいわゆるノーパンシャブシャブ接待汚職事件が明るみに出て、大蔵出身の松下康雄総裁が失脚、その後、速水優、福井俊彦と日銀出身者が二代続けて総裁になるという異例の事態が起きたのです。
武藤総裁の人事が民主党が多数を占める参院で「不同意」となっても、諦めずに福田首相が、元大蔵事務次官だった田波耕治・国際協力銀行総裁を候補に拘ったのは、背景に財務省による日銀総裁奪回という「10年来の悲願」があったというのです。
分かりやすいですね。
東京新聞の「こちら特報部」(部創設40周年だそうで、おめでとうございます)の「福田首相『武藤日銀総裁』固執のワケ」によると、背景に角福戦争(佐藤栄作首相の後継を巡って、田中角栄、福田赳夫両氏が激しい政争を繰り広げた)時代の宿縁があったというのです。
まず、福田康夫首相は、赳夫元首相の息子。小沢一郎民主党党首は、田中角栄元首相の直々の弟子であったことを押さえておいてください。
1974年に次期大蔵事務次官の人事を巡って、当時大蔵大臣だった福田赳夫氏(大蔵省主計局長出身のトップエリート)が、慣例に従って主計局長の橋口収氏(後に国土庁初代事務次官)を押したのに対し、田中角栄首相は、主税局長の高木文雄氏(後の国鉄総裁)を事務次官にしてしまうのです。このバトルは「角福代理戦争」とも呼ばれました。
この橋口収氏の娘婿が何と武藤敏郎氏だったのです。福田康雄首相は、自分の親父が橋口氏に対して果たせなかった「約束」の借りを、武藤氏を日銀総裁にすることによって返したかったのではないかというのが、当時をよく知る与党議員の口から漏れたというのです。
これも非常に分かりやすいですね。
日本の政治、人事は、いまだに、恐らくこれからも「浪花節の世界」だということがよく分かります。