私事ながら、年に1回、眼の定期健診を受けなければなりません。「眼底検査」といって、実質、5分くらいでしょうが、それが50分か5時間くらい感じられる長さで、まさに拷問に近いものです。瞳孔を開く薬を付けられ、眼球にレンズを入れられて、100ワットぐらいの光を眼に当てられるのですから。検査が終わってもしばらく眼が見えません。回復するのに5,6時間は掛かりますので、その日は一日、使い物になりません。眼の有り難さをしみじみと感じます。
私が行く眼科医は、名医と評判の美人の女医さんなので、「お客さん」の数が半端じゃありません。受付は朝の9時からですが、1時間前から何人も並んでいます。9時を過ぎて行きようものなら、午前に受付ても、検診が午後3時とか、5時になってしまうのです。以前、私も6時間くらい待たされたことがありますが、今では事前に「午後4時になるので、また来てください」と受付の人が言ってくれます。
あ、今日はこんな話ではありませんでした。眼科に行くと、その日は眼が使えないので、ちょうど、図書館で借りてきた二代目玉川勝太郎の浪曲「天保水滸伝・笹川の花会」を聞くことにしました。駅に近い公園のベンチで平日の昼間に聞いていると、何か、オツなものです。
「天保水滸伝」は、調布先生が「是非とも聞きなさい」と奨めてくれたものでしたね。
ベンベンベン~ 利根の川風 袂に入れて 月に棹さす 高瀬舟~
なあ~んだ。聞いたことがある。一番、有名な浪曲だったんですね。
話は、天保の時代に、下総の笹川で渡世の稼業をしている繁蔵という男が、天保の飢饉で苦しむ世間の人に恩返しがしたいと思い「花会」を開こうとする。社会に還元できたら、もう1つ、角力道の祖と言われる野見宿祢(のみのすくね)の碑を諏訪神社の境内に建てるつもりです。花会は、「はながい」と発音していました。花札賭博のことでしょう。碑は「ひ」ではなく「し」とはっきり発音していました。江戸っ子ですねえ。
全国の親分衆に声を掛けるのですが、繁蔵と対立する飯岡の助五郎にも「形だけでも」ということで、繁蔵の子分の小南の正助が挨拶に行きます。生憎、助五郎親分は留守で、事情を詳しく知らない子分の荒町の寛太という若い者が土産物を受け取ってしまったので、帰ってきた助五郎がカンカンになって怒ります。
結局、助五郎は仮病を使って欠席し、助五郎の一の子分、洲の崎の政吉という男が代理で、花会に出席します。すると、そこには、仙台、肴町間宮の忠吉、伊達の信夫の常吉、信州、相の川の政五郎…と全国の錚々たる親分が列席しているではありませんか。6番目に紹介された病み上がりに無精髭を生やした男は、急に政吉に食ってかかる。「手前の親分がどんなに体が悪いか知らねえが、義理も礼儀も知らねえ野郎だあ!」
その男こそ、泣く子も黙るあの国定忠治だったのです…。
まあ、そんな話です。全部を聞かなければ分かりませんが、昔の人が涙を流しながら何度も聞いたんでしょうね。いつも同じ箇所で「いよ~忠治親分!」だの、客席から声がかかったんでしょうね。何か、古いDNAが騒ぐようです。
浪曲のおかげで、大正時代にラヂオ受信機が庶民の間に普及したという話を聞いたことがあります。
むべなるかな。