会津藩の悲劇―筆舌に尽くしがたい

小倉城跡登山道=埼玉県比企郡

◇閲覧数が1日2400を突破!?

あんれまあ、驚きです。

今年9月1日からgooブログから思い切って独立して、世界最小双方向性メディア「渓流斎日乗」を立ち上げましたが、これまで閲覧数は1日50~80程度が続いていたのに、今日の閲覧数はいきなり2400を超えてます。

一体、世の中どうなってしまっているんでしょうか?

小倉城跡=埼玉県比企郡

◇会津藩を病的に忌み嫌った木戸孝允

しかも、昨日の「薩長史観の正体」には、史上3人目のコメントまで頂きました。赤羽彦作村長さま、有難う御座いました。

彦作村長は、福島は会津ご出身と漏れ伺っております。

この武田鏡村著「薩長史観の正体」(東洋経済新報社)には、薩長新政府による、幕僚として徳川に誠心誠意を尽くした会津藩への筆舌に尽くしがたい「処分」を明記しております。

会津藩士を病的に恐れ、忌み嫌った長州の木戸孝允による会津藩士と家族への極めて重い懲罰のことです。明治2年、新政府から会津23万石は没収され、家族らはペンペン草も生えない不毛の地と言われた極寒・下北半島の斗南藩3万石に強制移住させられたのです。

会津藩といえば、幕末の白虎隊の悲劇はつとに有名ですが、これは教科書に載せてもいいくらい酷いお話です。

小倉城跡=埼玉県比企郡

◇酷過ぎる懲罰

武田氏は、この本の中で、薩長閥の中で会津藩出身者として白眼視されながら、陸軍大将にまで登りつめた柴五郎の体験談を掲載しています。

「柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、到底足りない。…馬に食べさせる雑穀など食べられるものは何でも口にした。…塩漬けにした野良犬を20日間も食べ続けたこともあった。最初は喉を通らなかったが、父親から『武士は戦場で何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長の下郎どもに笑われるぞ』と言われて我慢して口にした。住まいの小屋に畳はなく、板敷きに稾を積んで筵を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹き付ける寒風で、炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で稾に潜って寝るが、五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるか分からない状態になった。…」

これは、あんまりですね。英傑桂小五郎に対する印象も随分変わってしまいました。

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