質屋体験記ー遊ぶ金欲しさの放蕩息子の告白

遊ぶ金欲しさと、かつ丼をペロリと平らげたいがために、半世紀以上収集してきた切手を売り飛ばして来ました(笑)。

新聞の折り込みチラシに「高価買い取り」なる宣伝文句が目の前に飛び込んできたからです。

しかも、自宅から割と近い。自転車(笑)を全速力で飛ばせば、5分程度の同じ区内です。

「スタンダード・ショップ」なんて称してますが、実態は質屋でしょう。昨日まで、団子や和菓子を売っていたのを、クレープやワッフル屋と称するようなもんです(笑)。

切手は、かなりのコレクションでしたが、高望みはしませんでした。これでも色々と研究していて、額面の7割で引き取ると喧伝する質屋もありましたが、現実の実態は高くても6割と踏んでいました。

それに、お年玉年賀葉書の当選の切手も多くあったので、2〜3割かな?と覚悟しました。タダで仕入れたようなもんですからね(勿論、元手は掛かってますが)

結局、三十代前半の若い店長は、「5割」という裁定を下しました。「もうひと声」と言いたいところでしたが、最悪の想定を上回ったので我慢しました。どうせ、遊ぶ金ですからね(笑)。

若い店長は、もっとヤクザかかった男かと思ったら、何処にでもいそうなチャラいサラリーマン風で、雇われのチイママといったタイプ(笑)。「他に何かあれば引き取りますよ」というので、古い古いブランドのバッグを思い出し、「結構傷んでるんだけど、それでも大丈夫?」と聞いたら、「超オッケーすよ」と言うので、また自宅に戻って取りに行きました。

持ち込むと、店長は「あ、これは1989年製ですね」とズバリ当てるではありませんか。もう30年近く前です。当時はバブル全盛期で、フランス製の高級バッグですから、10万円ぐらいしたかと思います。

昔は高級バッグでも、最近は、誰もが持ち歩き、流石に目立つので使うのが恥ずかしくなり、押入にしまってました。チャックの先端の飾りのようなものが一つ欠けていたので、5000円で引き取ってくれれば御の字だと思ったら、本部に相談した雇われ店長さんは、ピッタリ5000円を提示するので、即断即決でした。

これら、バッグや切手をどうするのかと思って質問したら、この業者は、ネットオークションに懸けるか、最近めっきり増えた中国人や韓国人やアセアン諸国の観光客に、修繕せずにそのまま販売するんだそうです。

それが飛ぶように売れるんだとか!

私自身は、腐ってもネットオークションはやらないので、別に構いませんが、どれだけ外国人観光客にマージンを付けるのかは少し興味あります。

5000円で売った元私のバッグですが、恐らく7000円以上で売られるんじゃないないかなあ、と勝手に想像しながら、「大金が入ったことだし、かつ丼でもペロリと平らげるか」と藪蕎麦まで自転車を走らせるのでした。

おしまい

志村城〜赤塚城巡り 東京都板橋区に城跡があるとは…

昨日4日は、「山城歩き同好会」の皆様と一緒に、「志村城・赤塚城ハイク」に参加し、実に万歩計で2万5000歩も歩き、いい運動になりました。

場所は、東京都内の板橋区なのです。こんな都会に、まだ手付かずの自然が残されている(というか、保護されている)とは思いませんでした。そして、こんな所に戦国時代の武将が城を構えていたとは全く知りませんでした。我々は、室町、戦国時代といえば、京都や奈良など関西での出来事ならよく知っておりますが、同時代の関東地方で起きたことはほとんど無知です。

この時代でよく知られている武将は、 せめて、太田道灌ぐらいでしょう。だから、恐らく、応仁の乱の前哨戦とも言える享徳の乱(1455〜1483年)を知る人は、余程の歴史通です。

享徳の乱は、室町幕府8代将軍義政の治世で、鎌倉公方(足利尊氏の四男基氏の子孫が世襲)の足利成氏(しげうじ)が、関東管領(鎌倉公方の補佐として将軍が任命。上杉氏が世襲)の上杉憲忠を暗殺したことをきっかけに、関東地方で28年間も続いた内乱のことです。

このグチャグチャの大内乱の最中に、今回の赤塚城に入城したのが、千葉自胤(よりたね、1446〜94年)だと言われています。

残っている資料や史料が少ないので、諸説ありますが、千葉氏とは桓武平氏の流れを汲み、代々、下総周辺を支配していた守護で、今の千葉県の名前の由来になったようです。しかし、最終的に今の千葉県に住み着いて残ったのは、千葉自胤の子孫ではなく、千葉氏の正統性を主張した岩橋氏ですが、話が混乱するので省略します。

千葉自胤は、享徳の内乱では関東管領の上杉氏(つまりは、室町幕府)方でしたが、鎌倉から古河(茨城県)に本拠地を移した足利成氏(初代古河公方)に呼応した原胤房(たねふさ)らに千葉城を攻撃され、市河城に落ち延びますが、その間に、父、伯父、従兄弟らは自害。結局、上杉氏の支援によって、自胤とその兄実胤兄弟だけは、関東平野にまで逃げ延びます。

康正2年(1456年) のことで、兄実胤は、石浜城(東京都台東区)へ、自胤は、赤塚城(板橋区)に入城します。(単純計算すると、この時、自胤はまだ10歳ですから、長老が補佐する家臣団ということでしょう)

以上が前触れです。今回の探訪ハイクでは、この千葉自胤を中心に彼と所縁がある城や寺社仏閣、そして、彼ら一族(武蔵千葉氏)と自胤の菩提寺「松月院」にまで訪れることができたのです。

一行5人は、 都営地下鉄「志村坂上」駅で集合。駅前にある志村一里塚(国指定史跡、都内で残されている江戸時代の一里塚は、ここと北区西ヶ原の2カ所のみ)、その隣の斉藤商店(明治22年創業の竹細工屋さん)に寄った後、延命寺へ。

この寺は、千葉自胤死後30年も後の時代の話ですが、大永4年(1524年)、小田原の北条氏綱と扇谷上杉朝興とがこの地で戦闘となった時に、志村城主篠田五郎の家臣見次権兵衛が自邸を寺にしたものだといいます。(近くに立派な池のある見次公園もあります)江戸時代は、8代将軍吉宗が鷹狩に来た際、休息所になったとか。

続いて向かったのが、志村城跡。千葉自胤が赤塚城に入城した際に、前衛拠点として千葉一族の信胤が築いたとも、この地の志村氏が築いたとも言われ、不明だそうです。本丸跡には、今は400世帯も入る大型マンションが建っていて、そのマンションは、まるで天守閣のようでした。ここには、今回参加したNさんの実姉家族が住んでいるということで、一同吃驚仰天でした。

熊野神社

この隣の熊野神社は二の丸跡のようで、しっかり、「志村城跡」の石碑が立っておりました。

途中省略して、南北朝時代(1334〜40年)は、七堂伽藍を備えた大寺院だった(1561年の戦乱で上杉謙信によって焼失した、とも)といわれる「松月院大堂」と、神仏習合により隣接した「八幡神社」をお参りして、この近くの「松月院」へ。今回の主人公の千葉自胤のお墓もありました。自胤は、最後まで下総=千葉に戻りたかったようですが、願い叶わず、失意のうち、この「異国」の武蔵の土地で亡くなったということかもしれません。(しかし、小田原の北条氏に滅ぼされるまで、武蔵千葉氏の基盤を作りました)

この後、着いたのが、「東京大仏」で知られる浄土宗乗蓮寺。応永年間(1394〜1427)、今の板橋区仲宿に創建されましたが、道路拡張のため、1973年にこの赤塚の地に移転してきたばかりらしいのです。

大仏さまは大変風格ありました。生まれて初めて訪れましたが、ミャンマー人の旅行者と会い、「日本人より情報通だ」と感心。わざわざ鎌倉にまで行かなくても大仏様の御尊顔を拝することができると思ってしまいました(笑)。

ここは、実は、千葉自胤が構えた赤塚城の二の丸があった所だったらしく、境内にはしっかりと「二の丸跡」の石碑が建てられ、感激してしまいました。

実際の赤塚城本丸跡は、ここから歩いて10分ほど離れた赤塚溜池公園の高台にあり、今から562年前に千葉自胤らが、今の千葉県市川市での戦乱を逃れてここまで来たのだと思うと、感無量になりました。

この近くには、自胤が、赤塚城の鬼門除けのために、信州諏訪大社の分霊を勧請した赤塚諏訪神社があり、勿論、ここもお参りしました。

このほか、立ち寄った所はまだまだありましたが、主に歴史散歩中心に記述しました。

【京都の旅】西陣 今宮神社の「今宮祭」

こんにちは、皆さん。
迂生は”西陣のお祭り”と言われる、今宮神社の「今宮祭」が、5日から行われるので、一足先に、昨日、同神社に参拝に行ってきました。
 ポスターにあるように「神幸祭(しんこうさい)」は、5日、6日が「湯立祭(ゆたてさい)」、13日は「還幸祭(かんこうさい)」です。
 神幸祭は三基の神輿を中心に大勢の人が氏子区域を行列して歩き廻ります。
「湯立祭」は、同神社の境内で大釜にお湯沸かし、神楽女が笹の束を熱湯にくぐらせ、勢いよく参拝客に笹からしたたるお湯を浴びせかけます。お湯を浴びると、「無病息災」に過ごさせるという習わしです。例年、大釜の周りには、大勢の参拝の人が集まるのですが、今年も大勢の人がお湯を浴びにやってくると思いますね。
 今宮神社は正暦5年(994年)創建ですが、”玉の輿神社”の異名もあります。なぜだか分かりますか? 江戸時代、西陣の八百屋の娘の「お玉さん」が徳川家光の側室になり、お玉さんは5代将軍綱吉を生みます。
  あの有名な「桂昌院」です。女性乍ら「従一位」まで、位を昇りつめたわけですね。庶民の出身でしかも女性がここまで出世したわけで、文字通り「玉の輿」です。桂昌院は京都のいろんな神社仏閣に寄進していますが、信心深い人だった、と言えるでしょう。
  もし、皆さんに愛嬢がおられ「玉の輿」にのられる可能性があれば、一度、今宮神社に”お宮参り”されたらどうでしょうか(笑)。
 同神社の参道には、千年は続くという、あぶり餅のお店が二軒あります。「いち和」と「かざりや」です。
白味噌を使い、炭火で香ばしく焼いた、あぶり餅の味は、何とも言えません。
 「いち和」は創業1000年、「かざりや」は400年です。「いち和」は、もともとは「一文字屋和舗」が正式名称だったのですが、いまでは略して「いち和」になっています。
 昨日は「かざりや」で食べましたが、両者で、味が微妙に違うようです。「かざりや」の方が、少しだけ辛いような気がします。いずれにしろ、1000年、400年も続くというのは大変なことです。

 商売は時代によっては、浮き沈みがあり、道楽息子がいたりして、おかしくなり廃業する、と思うのですが、それだけ「商い」を続けられる、というのは凄いことですね。

昨日も、「かざりや」は、お客さんで一杯でした。時代劇のロケにも頻繁に使われていますが、新緑に囲まれて、境内周辺は、紅葉の青葉が際立っていました。

  この近所の新大宮通には「さかい」という冷やし中華の美味い店があります。今度、上洛されたらご案内しましょう。
以上 うまいめん食い村の村民第1号こと京洛先生でした。
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ギブソン破綻と大陸新報と記者の劣化

私は、少年の頃、ギター小僧でしたから、フェンダーやマーチン、ギブソンと聞くと、襟を正したくなります。

当時でも20万円、30万円は軽くしましたから、とても手に届くはずがなく、憧れの的でした。

ですから、昨日(米時間5月1日)、「ギブソンが破綻した」というニュースを聞いた時は本当に驚き、悲しくなりました。「ギブソンが危ない」という憶測記事が数週間前に流れていたので、覚悟はしておりましたが、やはり、寂しい。米裁判所に連邦破産法11条(日本の民事再生法)の適用を申請したらしく、負債は最大5億ドル(550億円)だとか。

5月2日付朝日新聞夕刊の記事によると、ギブソン破綻の原因は、ギターをあまり使わない「ヒップホップ」が人気を集める一方、ロック音楽が低迷し、エレキギター市場も縮小傾向が続いていたからなんだそうです。そのせいで、ギブソンは、日本のティアックなど音響メーカーを買収して多角経営を図ったのですが、それも裏目に出たようです。(再建後は、ギター製造に専念するらしい)

ギブソンは1894年創業といいますから、ロックなんてありません。もともとは、カントリーやジャズ、ブルースギターを中心に始めたのでしょうが、記事を書いたのは若い記者のせいか、一言も触れていません。ギブソンを愛用したギタリストとして、「ルシール」と名前を付けて愛用したB・Bキングは当然出て来なければならないし、何と言っても、レスポールギターの生みの親である名ギタリストのレス・ポールは最重要人物です。恐らく、若い記者は知らなかったのではないでしょうか。

批判ついでに、同じ朝日新聞夕刊の社会面に「戦時下の上海  幻の雑誌」「井伏・壷井ら有名作家ずらり」といった見出しで、太平洋戦争末期に上海で発行され、これまで「幻の雑誌」とされてきた日本語の雑誌が北京などで見つかり、その内容が明らかになった、と報じてます。

北京の図書館で見つかった雑誌は、月刊「大陸」で、これまで日本の公共図書館では所在が確認できなかったといいます。そこには井伏鱒二や壷井栄ら有名作家らも寄稿していたといいます。それはそれでいいのですが、この雑誌「大陸」について、「日本軍などの支援で創設された新聞社『大陸新報社』が1944年に上海で創刊した」としか書いておりません。

大陸新報社=朝日新聞ですよ!ブラックジョークかと思いました。山本武利さんの「朝日新聞の中国侵略」(文藝春秋)を読んでいないんでしょうかね?大陸新報は、朝日新聞が昭和14年に、帝国陸軍とグルになって、大陸利権を漁る方便として創刊した新聞なのです。侵略の急先鋒みたいなもんです。その事実をひた隠しにしているとしたら、随分と悪意がありますね。

もし、その事実を知らないで若い記者が書いたとしたら、不勉強というか、記者の質が劣化したと言わざるを得ません。

大陸新報と朝日新聞との関係を知っていて、わざと書かなかったとしたら、これはまた酷い話です。原稿を見たデスク、整理部か編成部か知りませんが、校正と見出しを付ける部署も含めて、「証拠隠滅」と言われてもしょうがないでしょう。

「新聞社崩壊」(新潮新書)を書いた畑尾一知さんが心配した通り、このままでは、記者とデスクの劣化で本当に新聞社は崩壊してしまうかもしれませんよ。

トロリーバスは覚えてない。新宿「イーグル」にて

昨晩は、高校時代の古い友人と会って歓談しました。K君が独立して社長になったというのでそのお祝いでした。も1人、S君も参加しました。

場所は、新宿の二幸の地下にあるバー「イーグル」です。えっ?二幸はもうない?そうですか、今はスタジオ・アルタとか言ってますね。もう30年近く前からですか(笑)。

イーグルは、学生時代によく行っていた店でした。あの、古き良き昭和時代を感じさせる内装は昔と変わらず。店の人にいつからやってるのか、聞いたところ「創業52年になります」と答えが返ってきました。

高校時代の同級生ですから、同い年なのですが、記憶が違うので笑ってしまいました。

友人2人は、子どもの頃、銀座や上野などではトロリーバスが走っていた、というのです。昭和初期じゃあるまいし、私は全く覚えてないのです。

「よくパンタグラフが、バチバチと火花を散らしていたのを覚えてるよ」とK君は言うのです。

私自身、銀座や日比谷で都電が走っていたのはよく覚えてますが、トロリーバスは、やはり覚えてませんね。

2人は子どもの頃は、都内の北区に住んでいたので、しょっちゅう都心に連れて行ってもらったのでしょう。私は、東京郊外の西武池袋線沿線の都下が自宅だったので、一番近い都心は池袋だったのです。

当時は、今のパルコがある所は、丸物デパートでしたが、これは2人とも覚えてました。また、池袋駅前では、片脚や片腕をなくした傷痍軍人がアコーディオンを弾きながら、よく物乞いしてましたが、そのことも2人とも覚えてました。

でも、それは昭和40年前後ですから、「戦争が終わって20年経っても、いたんだなあ」とK君は感慨深げでした。

やはり、東京オリンピックが開催された昭和39年前後で、東京の街並み、雰囲気はすっかり変わってしまいました。

あと、S君が超高級腕時計ロレックスを、中古なので某国で破格の安い価格で買ったのはいいのですが、自動巻なのでメンテナンスに5万円も掛かると言われたそうです。「こんなんじゃ、もう一個買えちゃうよ」と彼も苦笑いでした。

ほんなこんなで、くだらないバカ話をしているうちに、4時間も長居してしまいました。

エスカルゴなんかちょっと変わったおつまみを頼み、一杯300円のジムビーンの水割りを7〜8杯も呑んでしまいました(笑)。

カツカレーの起源に異説あり 「歴史の余白」から

浅見雅男著「歴史の余白」(文春新書)を読んでいたら、先日4月29日付の《渓流斎日乗》で御紹介した和田芳恵著「ひとつの文壇史」(新潮社)の中のエピソードが登場していたので、吃驚してしまいました。

著者の浅見氏は、手広く色んな古今東西の書籍を逍遥しているんだなあ、と感心してしまった次第。このエピソードとは、和田芳恵が新潮社の大衆文芸誌「日の出」の編集部にいて、かかってきた電話に「北条です」というので、てっきり、北条秀司の奥さんかと思ったら、何と「東条」の聞き違いで、東条英機の勝子夫人。用件は、北原白秋に揮毫してほしい、というものだったが、当時、東条は陸軍大臣で、夫人も少し上から目線だった、といったこぼれ話です。

著者の浅見氏は文章がうまいし、かなり調べ尽くしている感じです。「ある」ことは、文献を引用すればいいのですが、「ない」ことを証明するには、あらゆる文献を読み尽くさなければ、「なかった」と断定できません。ただし、「ある」と本人が日記の中で断定していても、それは実は「嘘」も多い。このように、歴史的事実を事実として認定する作業は、かなり難しいと告白しております。

繰り返しになりますが、「歴史の余白」では、面白い逸話で満載です。井伏鱒二が若い頃、森鴎外の「渋江抽斎」で、匿名でいちゃもんを付けていたとは知りませんでしたね。「十六代将軍」徳川家達(いえさと)は、長らく貴族院議長を務め、70年以上も家督を嗣子家定に譲らなかったことも、不勉強で知りませんでした。西郷隆盛の実弟西郷従道の逸話も読み応え十分。

築地「スイス」の千葉さんのカツカレー 880円

きりがないので、最後に「カツカレー」の起源を。一説では、プロ野球読売巨人軍の名選手だった千葉茂が戦後、東京・銀座の「グリル スイス」で考案したものだと言われ、私も信じてきました。銀座の「スイス」では今でも「千葉さんのカツカレー」という名前で売り出してます。

今日、昼休みに行ったら、ゴールデンウイークだというのに、銀座店は閉まっていたので、この日乗を書くためだけに、わざわざ、築地の「スイス」にまで行って、「千葉さんのカツカレー」を食べてきました。(スイス築地店は、かつては、銀座店のカレーをつくる作業場だったそうです。そう、女将さんが教えてくれました)

でも、千葉茂といっても、今のナウいヤングは誰も知らないでしょうね。あのミスター長嶋が付けていた背番号「3」をその前に付けていた名二塁手です。長嶋茂雄の現役時代を知るのはもう50歳以上ですからね。千葉茂を知るわけがありません。1950年代初めに川上哲治、青田昇らとともに、巨人軍の第2期黄金時代を築いた人ですので、実は私も彼の現役時代は知りませんけど。(野球評論家時代は知ってます)

いずれにせよ、まだまだ、食糧事情が十分ではなかった時代に、スポーツ選手のためにカレーの上にとんかつを載せた栄養満点のカツカレーを、千葉茂が考案したというのが定説だったのです。

それがこの浅見氏の本によると、既に戦前に平沼亮三という人が、自宅(とはいってもテニスコートや宿泊所などもあり、敷地3000坪)で、今のカツカレーと全く同じ料理が「スポーツライス」という名前で振る舞われていたというのです。

平沼は明治12年(1879年)生まれで、生家は横浜の大地主。幼稚舎から慶応で学び、大学では野球部のサードで4番。卒業後も柔道、剣道など26種類のスポーツをこなし、神奈川県議会議員、横浜市会議員、貴族院多額納税者議員などを歴任。このほか、日本陸上競技連盟などの会長も務め、1932年のロサンゼルス五輪、36年のあのヒットラーのベルリン五輪の日本選手団長を務めた華麗なる経歴の持ち主なのです。

この平沼の孫の一人が俳優の石坂浩二だというので少し驚いてしまいました。

やはり、カツカレーは平沼が、戦前に「考案」したということなんでしょうね。

「猫都の国宝展」と目黒雅叙園の裏話

ゴールデンウイークは人出が多いので、出掛けるのはあまり好きではありませんけど、不可抗力により、東京・目黒のホテル雅叙園内の「百段階段」で開催中の「猫都の国宝展」を観に行ってきました。

猫にまつわる置物やら絵画やらをあの東京都指定有形文化財の「百段階段」の座敷に222点も展示されていて、結構、見応えありました。

入場券は、当日1500円というので、ちょっと高い気がして、庶民らしく、事前に新橋辺りで前売り券を準備しておきました(笑)。

そんな話をしたところ、物知り博士の京洛先生は「雅叙園ですか。。。松尾国三さんですね」と、思わせぶりな発言をしてケムに巻くのでした。

明治維新後、大名屋敷、別邸を摂取されて空き地となった目黒一帯は、内務省衛生局の初代局長などを務めた医学者の長与専斎が広大の敷地を所有していたと言われます。専斎の長男称吉は医師(妻は後藤象二郎の娘)、二男程三は実業家(日本輸出絹連合会組長)、三男又郎は病理学者で東京帝大総長、四男岩永裕吉は同盟通信社(戦後、時事通信社などに)初代社長、五男長与善郎は、あの著名な白樺派の作家です。

この中の岩永家に養子に行った四男裕吉は、同盟通信社が国策で電報通信社(戦後、電通に)と合併させられて設立される前に、自ら聯合通信社を設立した際に、その設立資金を捻出するために、所有地を目黒雅叙園に売却したと言われます。その相手が細川力蔵で、雅叙園は、昭和6年に日本初の総合結婚式場として開業します。(中華料理の円形テーブルは、細川の考案と言われてます)

力蔵亡き後、細川一族による経営が行われてきましたが、 戦後の昭和23年にその経営権を握って雅叙園観光を設立したのが、京洛先生が仰っていた松尾国三でした。(その後、複雑な経緯で、今では米国のファンドが経営権を取得し、所蔵する重要文化財級の絵画、彫刻、天井画などは散逸したようですが、全略。)

松尾国三は、旅芸人一座の歌舞伎役者から、一念発起して、芸能プロモーターとなり、大阪の新歌舞伎座などの劇場経営、横浜ドリームランドなどのレジャー施設の経営者(日本ドリーム観光取締役社長)にまで出世した波乱万丈の人物です。晩年は、大元のオーナーだった大阪の千日デパートの火災で、責任を問われました。

私はこの人について、演劇人に与えられる「松尾芸能賞」の創設者としか知りませんでしたが、陰では「昭和の興行師」「芸能界の黒い太陽」と言われていたらしいですね。興行の世界ですから、裏社会との繋がりやら、そりゃ色々とあったことでしょう。

と書いたところ、これを読んだ京洛先生から「雅叙園は、住友銀行の磯田会長が、愛嬢可愛さで、”天下の詐欺師”伊藤寿永光と、あの許永中に巨額融資をした舞台になったところですよ。迂生は、松尾国三夫人の松尾ハズエさんが存命中に、雅叙園の一室で取材をしたことがありました」との補足説明がありました。

なるほど、そういうことでしたか。。。

※もし、この記事にご興味を持たれましたら、関連記事の「目黒と岩永裕吉」(2016年5月7日)も併せてお読みください。

生まれて初めて胡蝶蘭買いました

ゴールデンウィーク真っ盛りの中、生まれて初めて胡蝶蘭を買いました。

胡蝶蘭といえば、銀座のバーやサパークラブの開店祝いに必ず飾られる必須アイテムです。

派手好きな出版社が、大作家さまの出版記念パーティーを一流ホテルで開催する際にも、いの一番で登場するあの可憐で質実な華です。

銀座の花卉店での相場は安くても2〜3万円。恥ずかしくない地位の方々でしたら、5万、10万円は、ポンと叩いて買い求める代物では御座いませんか。

まさに高嶺の花。庶民には所詮縁のないものと諦めておりましたが、自宅近くの農協ストアで、半額サービスで売っていたのです。ただし、切花ですけど。

これなら、ワイのポケットマネーでも買えるわいなあ、と上の写真の猫ちゃんの顔をして、思い切って買ったわけです。

生まれて初めて買った胡蝶蘭。あまり匂いがしないんですね。まあ、一週間ぐらいもって楽しまさせてくれればそれでいいと思ってます。

気になるお値段ですか?  それは内緒です。「秘密」の花園と言うくらいですからね(笑)。

でも、金額を聞いたら、絶対に腰を抜かすと思います(爆笑)。

和田芳恵著「ひとつの文壇史」を読んで

石川県にお住まいの小松先生のお勧めで、和田芳恵著「ひとつの文壇史」(新潮社、1967年7月25日初版)を読了しました。もう半世紀以上昔の本なので、図書館で借りましたが、私の大好きな昭和初期の風俗が手に取るように分かりました。

和田芳恵(1906〜77年)は、樋口一葉研究者で直木賞作家としても著名ですが、知らない方は名前から女性ではないかと思うことでしょう。そういう私も、彼が戦前に、新潮社の編集者として活躍していたとは知りませんでした。

本書は、その新潮社編集者時代の思い出を綴ったノンフィクションです。昭和6年から16年までのちょうど10年間の話です。昭和6年=1931年は、満洲事変の年、16年=1941年は真珠湾攻撃の年ですから、まさに我国は、軍部が台頭して戦争に真っしぐらに進んだ時代でした。

でも、文学の世界、それも、大衆文学の世界ですから、戦況や戦時体制に影響されるとはいえ、締め切りを守らないで雲隠れする作家や、原稿料を前借りする作家らの逸話が中心です。

昭和6年は就職難で、小津安二郎監督作品「大学は出たけれど」(1929年公開)の時代が続いておりました。和田芳恵は、同年3月に中央大学法学部を卒業しますが、その壁にぶち当たり、あらゆる手を尽くして就職先を探します。卒業生27人のうち、司法試験に合格して弁護士を目指す者が一人。この他、何とか就職できたのは和田を含めてわずか3人だったというのですから、就職氷河期どころではなかったわけです。

和田の場合、伯父が府立一中出で、その中で秋田県出身の同窓会の幹事が東京朝日新聞の学芸部長だった石川六郎(作家石川達三の叔父)だったので、その伝で朝日新聞に入社するか、和田の父親が、秋田師範の予備校のような学校だった積善学舎で、新潮社の創業者の佐藤義亮と同窓だったことから、そのコネで新潮社に入社する希望を持っていましたが、断り続けれられた末、漸く、新潮社に入ることができた話からこの本は始まっています。

入社して3年ほどは辞典編集部に配属されますが、昭和9年6月から「日の出」という大衆雑誌の編集部に移ります。この雑誌は、ライバル講談社の「キング」に対抗して創刊されたらしいですが、私自身は聞いたことがありませんでした。

和田芳恵が最初に担当したのが、鎌倉に住む長谷川四兄弟の長兄長谷川海太郎でした。一人で牧逸馬、林不忘、谷譲次と三つのペンネームを持つ流行作家です。「日の出」に谷譲次の筆名で「新巌窟王」を連載中だったのです。ちなみに、林不忘としての代表作は「丹下左膳」など時代小説、牧逸馬では「この太陽」や「めりけんじゃっぷ」物などがあります。しかし、それだけ無理したことで過労のため35歳の若さで亡くなります。(ちなみに、長谷川四兄弟の二男潾二郎は画家、作家、三男濬は、満洲で甘粕正彦満映理事長の最期を見届けたロシア文学者、四男四郎も作家)

この他、和田芳恵が編集者として会った作家はかなりの数に上ります、大佛次郎、武田麟太郎、吉川英治、山岡荘八、丹羽文雄、川口松太郎ら今でも読まれている作家が多く登場しますが、今ではすっかり忘れ去られた作家もかなりおりました。

昭和初期は、今のように娯楽が何でもあり、趣味が多岐に渡る時代ではありませんから、文学が大衆の楽しみの柱の一つだったことでしょう。そういった意味では本書は貴重な歴史の証言です。

投資に大失敗した話

昨日は、北朝鮮のKimリーダーと、韓国のMoon大統領との歴史的会談の瞬間を会社のテレビで見ました。

午前9時29分、あの体格の良いKimリーダーが板門店の軍事境界線を徒歩で跨いで、韓国のMoon大統領とガッチリ握手した瞬間、とても信じられない気分でした。

思えば、去年の今頃、こんなことが起きるなんて夢にも思っていませんでした。北朝鮮は、ボンボン、ミサイルを発射して威嚇し、米国との全面戦争が避けられない雰囲気で、勿論、日本にもいつミサイルが落下してくるか分からない緊迫した状況でした。

この不安定な地政学的な世相の影響で株価が乱高下して、お陰で、私も生まれて初めて懸けた投資が大失敗して、かなり高額の損失を蒙ってしまいました。

この投資は、友人から勧められたもので、米国の投資会社が運用するファンドで、投資業界に精通した日本人の投資家ということで、盲目的に信頼して、預けたところ、「授業料」にしてはあまりにも高額で卒倒しそうな大損失を蒙ってしまいました。

この投資は、最初から不愉快な躓きがありました。まず、米国のファンドなので、ドル建て送金しなければなりません。その手続きのために、三菱東京UFJ銀行銀座支店の窓口に行ったところ、散々たらい回しして、散々待たせた挙句、何と、理由もなく拒絶するんですからね。(結局、ドル建て送金は、新生銀行で済ませ、為替に関しては、TTSだのTTBだの色々と詳しくなりました=笑)

おばさん銀行員の態度があまりにも傲慢で不愉快だったので、「潰れてしまえ!三菱UFJ!」と呪詛しましたが、いまだに潰れずに営業しているようですねえ(笑)。

銀行は庶民のことを陰で「ドブ」と呼んでいるらしいので、銀行の未来はないでしょう。どこの銀行もやっとリストラが始まりました。

あれっ?何の話をしてるんでしょうかね?(笑)

東銀座「中華料理店」レバニラ定食890円

米国に住む友人の今村君に投資の相談をしたところ、「投資は自己責任です」と、一言、英語で答えが返ってきました。

冷たい奴だなあ、と一瞬思いましたが、確かにその通りで、一番的確なアドバイスだと後で気がつきました。

実は、正直に失敗談を書いたのは、世を儚んで立ち上がれない程、落ち込んでないからです。痛い目に遭ったのに、まるで他人事です。これではいけない。自分に対する戒めとして忘れないようにするため告白しました。