「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」は人類必読書ではないでせうか

東北学の権威である赤坂憲雄・学習院大教授が、「必読書」として多くの人に勧めておられた石光真人編著「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」改版(中公新書2017年12月25日)を読了しました。初版は、1971年5月25日発行とありますから、もう47年も昔。遅ればせながら、死ぬ前にこの記録を読んで本当によかったと思いました。

私がこれまで読んだ本の中でもベスト10に入るぐらいの感銘を受けました。この本を読むには、居住まいと襟を正して、正座しなければならないという境地になります。

武士道の本質が初めて分かったような気がしました。巷間あふれる小説や講談の類いは嘘臭く興醒めしてしまいます。「葉隠」でさえ、頭の中で考えられた口先だけの論法にさえ思えてしまいます。

この本については、この《渓流斎日乗》でも以前に触れたことがあります。柴五郎は、陸軍大将にまで昇り詰めた英雄的軍人でした。明治33年に起きた義和団事件の際、北京駐在武官(中佐)だった柴は、その冷静沈着な行動で列強諸国から一目置かれる存在でした。義和団事件の詳細については、あの不愉快な(笑)東洋文庫所蔵の「北京籠城」(平凡社)に講演速記として掲載されております。

しかし、この栄光なる柴大将の過去は、実に悲惨で、壮絶な艱難辛苦の連続だったのです。それが、この「遺書」に書かれています。安政6年(1859年)、会津藩士として会津若松に生まれた柴五郎は、薩長革命軍による東北征伐=会津戦争という動乱の中、祖母と母と姉妹らは、会津城下で、「薩長の手に掛かるのなら」と自害して果ててしまうのです。柴五郎、時に満九歳。五郎だけは、いずれ戦力となる武士の男として成長せよ、と田舎に預けられていた時でした。柴五郎は、その時を回顧してこう書きます。

…これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし。…

その後、降伏した会津藩士らは、下北半島にある極寒の、しかも火山灰地の不毛の斗南に追放され、作物が取れず、ぼろ家は襖も障子もなく吹き曝しで、赤貧洗うが如くという以上に餓死寸前にまで追い込まれます。

時に犬の肉しか食べるものがなく、柴少年は嘔吐を催している中、父から「やれやれ会津の乞食藩士どもも下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまで生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と厳しく叱責されたことなども書き残しております。

その後、柴少年は、細い伝手を辿って東京に出て、下僕といいますか、奴隷のような生活をして辛酸を舐め、幸運なことに陸軍幼年学校の試験に合格して、何とか生き抜き、「遺書」は陸軍士官学校の3年期で終わっています。陸軍大将柴五郎は、自分の手柄については語りたがらない人物だったようです。

この「遺書」を編纂し、第二部として柴五郎の評伝を書いた石光真人は、近現代史や満洲関係に興味がある人なら誰でも知っている露探(ロシア情勢の情報専門家)石光真清の御子息だったんですね。この真清の叔父に当たるのが、「遺書」にもよく出てきた、柴五郎を陸軍幼年学校の受験を勧めた恩人野田豁通(青森県初代大参事)で、その関係で、二人は親交を結んでいたわけです。

子息の石光真人は、東京日日新聞の記者などもしていたことから、晩年の柴五郎は、「遺書」の編集等を任せたようです。

柴五郎は、「日本は負ける」と予言していた敗戦直後の昭和20年12月3日、死去。享年87。実兄の柴四朗(白虎隊の生き残り)は、東海散士の筆名で政治小説「佳人之奇遇」書いたジャーナリスト、政治家。

この本で、維新の動乱に翻弄され、賊軍の汚名を着せられた会津藩士の武士道の魂に触れました。「武士は食わねど高楊枝」のような痩せ我慢の精神かもしれませんが、どんなにどん底に堕ちても、絶対に不正は働かず、あくまでも真摯に誠実に生き抜くといった精神です。

自分も襟を正したくなります。同時に、今年の「明治維新150年記念式典」も手放しで喜んで祝いたい気持ちもなくなってしまいました。

少なくとも、60歳の佐川宣寿国税庁長官(旧会津藩出身。都立九段高〜東大〜大蔵省)のように「差し押さえ物件を格安で仕入れて東京・世田谷区に大豪邸を建てた生涯収入8億円の官僚」(週刊文春)のような恥辱に満ちた名前を歴史に残して死にたくないものです。

【追記】

会津戦争で編成された隊の編成は以下の通り。四方位神に則ってます。

【東】青龍隊(36歳〜49歳)国境守護

【西】白虎隊(16歳〜17歳)予備(悲劇として語り継がれます)

【南】朱雀隊(18歳〜35歳)実戦

【北】玄武隊(50歳以上)城内守護

戊辰戦争で、会津藩士の戦死者は約3000人、自害した女性は233人といわれてます。勿論、柴五郎の祖母、母、姉妹も含まれていることでしょう。

これほど、会津藩が蛇蝎の如く敵視されたのは、藩主松平容保が京都守護職に就き、新撰組、京都見廻組を誕生させ、「池田屋事件」や禁門の変などで、長州藩士や浪士を多く殺害したことが遠因。長州桂小五郎(木戸孝允)はその復讐の急先鋒で、宿敵会津藩の抹殺を目論んでいたといわれます。

靖國神社には、戦死した会津藩士は祀られていません。