嗚呼、我が青春の巣鴨、大塚、駒込

先日、川越に行く途中、大宮駅で電車の待ち合わせ時間が30分もあったので、駅構内の本屋さんに入り、「散歩の達人」(交通新聞社)誌が、「巣鴨、大塚、駒込」を特集していたのを見つけ、思わず、久し振りに買ってしまいました。

かつて、出身大学の東京外国語大学が東京都北区西ヶ原にあったため、この辺りはよく散歩したものでした。専攻していたフランス語にかけて「ふらふら同好会」なるものを結成して、御学友の皆さんと本当に目的地も決めずに近辺をフラフラして、最後は何処かの安い居酒屋に入って談論風発の哲学論議。帰りも千鳥足でフラフラしたものでした。

大学近くの染井霊園には二葉亭四迷芥川龍之介らのお墓があり、西巣鴨の「妙行寺」には四谷怪談のお岩さんのお墓がありました。その頃から掃苔趣味があったわけです(笑)。

また、大学近くには染井銀座や霜降銀座など、長~い古い商店街があり、今から考えても、とても恵まれていました。

大学は移転したため、学生相手の麻雀屋さんやお店は残念ながらつぶれてしまいました。よくランチに通ったのはスパゲティー(パスタなんて気の利いた言葉は当時なし)の「サニー」もなくなっていました。ご夫婦がやっていたお店で、学生たちの良き相談相手でもありました。

もう一つよく通ったのが、沢山食べると胃が少しもたれますが(笑)、安くてボリュームだけは多いとんかつの「みのや」、そして、よく行ったわけではありませんが、ジャズ喫茶の「厭離庵」。検索してみたら今でも健在のようでした。

◇駒込、巣鴨は三菱村だった!

この雑誌を買ったのは、「東洋文庫」のことが掲載されていたからでした。学生時代は、フランス関係で精一杯で、中国関係にほとんど興味がありませんでしたので、行ったことはありませんでした。ということで、当時付き合っていた彼女とよく行った六義園(当時は無料公開)の隣りにあることさえも知りませんでした。

東洋文庫は、三菱財閥の三代目総帥、岩崎久弥が今の価値で70億円と言われるほどの巨費を投じて、在上海の英国人アジア研究者モリソンから購入した東アジア関係の書籍2万4000冊を誇る収蔵文庫です。収集・分類・整理に当たって活躍したのが芥川龍之介の一高時代からの友人石田幹之助でした。このことは、以前にもこの《渓流斎日乗》で書いたことがあります。

何で、東洋文庫が六義園の隣りにあるのか、この雑誌を読んで初めて分かりました。この六義園は、元禄時代の赤穂浪士事件の際に、絶大な権力を握っていた五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保の別邸といいますか、隠居所だったことで知られ、私もそのことは知っておりました。

それが、明治維新後、新政府のものとなり、それを買い求めたのが三菱財閥だったのですね。何と、六義園内には岩崎邸も建てられていたとか。それどころか、今では都内の豪邸街として名高い駒込の大和郷(おおやまとごう)一帯も全て、岩崎様の敷地だったというのです。吃驚したなあ。

しかも、三菱岩崎様の御用邸の敷地は延々、巣鴨の方にまで続いていたというのです。そう言えば、巣鴨駅近くに「三菱養和会」があり、サッカーかホッケーのグラウンドなどもありました。学生時代、何で、ここにあるのかと不思議でしたが、昔から三菱様の敷地だったんですね。本当に魂消ましたよ。

◇大塚の予備校跡に新興宗教教団支部が

大塚は、予備校で一年通っていましたので、これまた懐かしい。今ではその予備校はつぶれて、10年ほど前にそこを訪れたら、今ではその敷地に、芸能人の信者も多い新興宗教の教団支部が建っていたことにはこれまた驚きました。

大塚は、恩師の故朝倉剛先生の行きつけで、小生も連れて行って下さった居酒屋「江戸一」(一度、劇団四季の浅利慶太氏が女優さんと一緒に飲んでいたのを遠くで拝見したことがありました。後にお二人は結婚)も懐かしいのですが、この雑誌には出てきませんでしたね。

巣鴨、大塚といえば、大塚の三業地帯を除けば、それほど高級というイメージではないのですが、どういうわけか、この雑誌で紹介されているお店は、ランチなのに1600円とか高めのものばかり。銀座より高い!

何か、裏で意図があるのではないかと勘繰ってしまいましたよ(笑)。雑誌では、紹介されている店の中に「35年も長く続く老舗」みたいな文句がありましたけど、小生が学生時代にこの辺りをフラフラしていたのは、もう40年以上も昔ですからね。その店は、当時なかったわけです。嗚呼、溜息が出ますよ。

水道橋博士著「藝人春秋2」上下二巻を読んで

水道橋博士著「藝人春秋2」上下二巻(文藝春秋、2017年11月30日初版)を駆け足で読了しまた。「週刊文春」連載を単行本化したものでした。

ビートたけしの弟子である自称「芸人」。それが、自他ともに認めるように文章がうまい。よくいる田舎の秀才タイプで、文章のうまさは、多読乱読濫読によるものか、かなりの読書量から来る趣きです。

しかも、取材相手が、橋下徹、石原慎太郎、猪瀬直樹、立川談志、三浦雄一郎、田原総一朗ら周囲にいる有名人だらけですから、ネタ元には困りません。「取材元」と書いたように、著者の水道橋さんは、学者かジャーナリストのように、取材相手の文献やインタビューの過去記事をかなり読みこなして上で、相手に当たっていますから、相手のかなりの本音を引き出すことに成功してます。

文章のうまさというより、取材力が文章に現れている感じです。

ただ限界もあり、「大物のタブーに挑戦する」と言っておきながら、例えば、石原前都知事の「票田」である某新興宗教団体には触れず仕舞い。本人は著作で多く語っているのに、水道橋さんは、まるで態とその部分を避けて通り、三浦雄一郎氏との個人的な確執ばかり取り上げておりました。

その一方で水道橋さんは、他人を笑わすことが商売なのに、エピローグの中で、かなり重症の鬱病を再発して、この本、というより、週刊誌連載執筆の時の壮絶な体験まで告白してます。保険が効かない治療を行ったため、貯金が減っていく辛さや、家族以外に打ち明けられない仕事場での苦しみなども吐露してました。

同じような病に罹った作家北杜夫や開高健、ナインティナインの岡村隆史、泰葉、ジャーナリスト田原総一朗らの例も取り上げておりました。

著者は、「お笑い」と「作家」の二足の草鞋を履くことを後押ししてくれた恩人の一人に立川談志を挙げ、かなりのページを割いておりました。彼が亡くなったのは、2011年。ちょっと、あれからもう7年も経つとは、時間の流れが速すぎませんか?!(著者に従い、一部敬称略)

近代化を進めた幕府

「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集している「東京人」2月号の続きです。

この16ページに不思議な写真が掲載されています。セピア色の写真で、古いということは分かります。幕末にオランダ・ハーグに派遣された「幕府オランダ留学生」というキャプションがあります。

西周榎本武揚津田真道らが写っていますが、しっかり、当時最先端の洋装で髪型も1960年代のような長髪なので、キャプションがなければ、明治時代か昭和初期に撮影されたものと言われても納得してしまいます。

それが、撮影されたのが1865年と書かれているのです。最初は「ああ、幕末の写真か」という感想しかなかったのですが、よく考えてみれば、1865年といえば、慶応元年、まだ江戸時代じゃないですか。それなのに写っている彼らは、羽織袴はいいとして、丁髷頭じゃないのです。明治維新になる数年前からこんな格好していたなんて驚いてしまいました。

しかも、新政府ではなく、旧陋の徳川幕府が派遣した留学生ですからね。ということは、幕府は、無知でも無能でもなく、早くから洋学を取り入れ「近代化」に目覚めていたのです。(日本で最初の洋学研究機関は幕府が安政3年=1856年に設立した蕃書調所=ばんしょしらべしょ=で、以後、洋書調所開成所となり、明治後、帝国大学の源流となる)

(前列右から西周、赤松則良、肥田浜五郎、沢太郎左衛門。後列右から津田真道、布施鉉吉郎、榎本武揚、林研海、伊東玄伯)

同誌は、「幕府の遺産で行われた近代化」として、長崎と横須賀の製鉄所を挙げています。製鉄所とは、今の「造船所」ということで、明治になって軍艦の建造、海軍の創設につながります。

長崎製鉄所の産みの親の一人が、永井尚志(なおむね)で、長崎海軍伝習所の初代総監を務めます。製鉄所は、明治なって岩崎三菱に払い下げられ、今でも現役です。

横須賀製鉄所は、勘定奉行の小栗上野介忠順(ただまさ)と目付の栗本鋤雲の尽力で作られます。小栗は、幕吏中の俊才で、勝海舟と並ぶ逸材と言われておりましたが、戊辰戦争後、「逆賊」として捕らえられ、何の取り調べもなく、丹波国園部藩士原保太郎により、斬首に処せられます。斬首した原の名前が残っていることも凄い。栗本は、維新後、新政府に仕官することをよしとせず、「郵便報知新聞」主筆を務めるなど、ジャーナリストに転向します。

◇仕官を拒絶した幕臣、佐幕派

このように、幕臣たちは、榎本武揚、勝海舟ら一部を除いて、維新後、政界、官界に入ることをよしとしなかったため、ジャーナリズムや文芸、思想、学問の道に進み、名を残した人が多かったのです。

文芸・芸術界では、坪内逍遥二葉亭四迷が、徳川御三家の尾張藩士。幸田露伴は、江戸城に仕える表坊主衆の家柄。尾崎紅葉の父谷斎は江戸芝の根付師。樋口一葉の両親は、甲斐国出身ながら、幕末に江戸に出てきて、八丁堀同心株を買ったとか。夏目漱石は、牛込の名主出身なので、心情的には佐幕派。漱石の友人正岡子規は幕府方の松山藩士。「新撰組始末記」などで知られる子母澤寛の祖父は、上野の彰義隊で戦い、函館の五稜郭でも戦った幕臣で、北海道石狩の厚田村の開拓に加わった。天才絵師河鍋暁斎は、江戸は本郷三丁目の定火消しの子。(定火消し出身の絵師と言えば、「東海道五十三次」の歌川広重もそうでした)

ジャーナリズムでは、幕府の奥儒者、外国奉行、会計副総理などを歴任した成島柳北が先駆者。維新後「天地間無用之人」を自称して仕官を拒否し、今の銀座四丁目にあった反政府系の「朝野新聞」社長などを務めました。反政府系の「江湖新聞」から政府系御用新聞の「東京日日新聞」社長に転向した福地桜痴(源一郎)は、肥前長崎藩出身。新聞「日本」社長兼主筆の陸羯南は、陸奥弘前藩出身(正岡子規を社員に採用)。日本初の従軍記者と言われる東京日日新聞の岸田吟香(画家岸田劉生の父)は、美作津山藩出身。「国民之友」「国民新聞」などを創刊した徳富蘇峰は、肥後熊本藩出身。

思想・学問界の筆頭は福沢諭吉でしょう。咸臨丸や慶応義塾創立のことなど今更説明不要でしょうが、彼は豊前中津藩士ながら、近代化政策を推進する幕府は、優秀な子弟を幕臣として取り立てており、福沢は幕末の元治元年(1864年)に旗本になっていたことは意外に知られていないでしょう。その前々年の文久2年(1862年)、福沢は、遣欧使節団の通訳・翻訳者として同行し、帰国後、「西洋事情」を出版してベストセラーになっています。つまり、啓蒙思想家としての福沢の活躍は、明治ではなく、江戸時代から既に始まっていたのです。

徳川(沼津)兵学校初代頭取を務めた、フィロソフィーを「哲学」と翻訳した西周は、石見津和野藩出身。スマイルズ「西国立志編」などの翻訳家中村正直の父は幕府の同心。英エコノミストに倣って日本初の経済専門誌「東京経済雑誌」を刊行した田口卯吉は静岡藩士。東京・九州・京都帝大総長を歴任した山川建次郎とヘボンの後任として明治学院の第2代総理となった井深梶之助は、ともに「賊軍」会津藩出身。

以上、まだまだ書き足らず、ほんの一部しかご紹介できなかったのが残念です。

【追記】三休さんから以下のコメントがありましたので、本人の御了解を得て、追記致します。

…陸羯南は、弘前藩の出身だったんですね。初めて知りました。彼が採用した正岡子規とともに従軍記者として日清戦争に行ったのが、後の古島一念である古島一雄で、小生の田舎但馬豊岡藩出身です。東大生の正岡子規に日本新聞の紙面を与えて、正岡子規の俳句を発表させたのも古島一雄だと聞いています。因みに、初代東大総長の加藤弘之は、豊岡藩の隣の但馬出石藩の出身でした。また、第3代東大総長の浜尾新は、豊岡藩の出身で、古島一雄が東京に出た折、最初に寄宿したのは浜尾新の家であったと本で読みました。…

北野天満宮の「天神市」は毎月25日に菅原道真のご命日に開かれています

東京は、昭和45年以来の寒さで雪が積もったという事ですが、渓流齋先生におかれましてはお達者にお過ごしでしょうか?京洛先生です。

こちら京都も、昨日、今日と、雪や粉雪が舞い散り、寒い日々です。油断すると風邪をひきますね。


25日は「北野天満宮」で、新年最初の「初天神市」が開かれました。

渓流齋さんが数年前、この「天神市」を見に来られて、露店の多さに吃驚仰天。「凄い人と屋台の数ですね。想像以上です。露店がどれくらい出ているんですかね」と言われましたね。そして、目ざとく、その中の一軒から、古着、と言っても、殆ど新品に近い、丈夫そうな、上着を見つけて、自分の体格にピッタリで、手ごろの値段だ、と、分厚い財布から、ピン札を数枚出され、買い求められたのを思い出します(笑)。

…分厚くなかったすけど(渓流斎)


北野天満宮の「天神市」は毎月25日に菅原道真のご命日に開かれていますが、その年の最初の1月の「初天神」と12月最後の「終い天神」は、人出はいつもより多くなるので、昨日も朝から、境内と天満宮周辺の道端に古着、古道具、骨董、植木、手作り様々な工芸品や干物、漬物、饅頭など食品まで、千軒以上の露店に並んでいました。

「天神市」に掘り出し物を探しに来る人は、やはり、早めにやって来て、自分の審美眼で、掘り出し物、逸品を探したり、食い物に興味のある人は、美味くて安い物はないか、と人込みをかきわけたりして、あちこち、自分の好みに合った露店探訪を愉しむわけです。


最近、目立つのは、関東方面から日帰りでやってくる「オバサマ」達で、洒落たクラフト、西洋骨董、古着など、蚤の市の気分を味わいに見えていますね。

25日は「天神市」ですが、やはり毎月21日に開かれているのが、東寺の「弘法市」です。こちらも、弘法市と京都見物を楽しむために上洛する女性達が増えてきているようです。蚤の市巡りは、どんどん年齢が若返っている感じです。これも、女性のファッションの嗜好、多様性が影響しているのではないでしょうかね。


ご案内の通り、北野天満宮は、全国津々浦々にある天神社、約1万社の総本社です。受験シーズンを迎え、境内の「撫で牛」の祠のそばには、志望大学と名前が書かれた合格祈願のお札がドンドン増えています。

2月に入ると、「節分会」です。さらに、梅苑の梅も咲き始め、2月25日は、天神市とともに、恒例の「梅花祭」が同時に開かれます。
次から次に、年中催事があるのが京都市内のお寺・神社ですが、そのお陰で季節感を味わえるのも確かです。

「東京人」が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集してます

今年は「明治150年」。今秋、安倍晋三首相は、盛大な記念式典を行う予定のようですが、反骨精神の小生としましては、「いかがなものか」と冷ややかな目で見ております。

逆賊、賊軍と罵られた会津や親藩の立場はどうなのか?

そういえば、安倍首相のご先祖は、勝った官軍長州藩出身。今から50年前の「明治100年」記念式典を主催した佐藤栄作首相も長州出身。単なる偶然と思いたいところですが、明治維新からわずか150年。いまだに「薩長史観」が跋扈していることは否定できないでしょう。

薩長史観曰く、江戸幕府は無能で無知だった。碌な人材がいなかった。徳川政権が世の中を悪くした。身分制度の封建主義と差別主義で民百姓に圧政を強いた…等々。

確かにそういった面はなきにしもあらずでしょう。

しかし、江戸時代を「悪の権化」のように全面否定することは間違っています。

それでは、うまく、薩長史観にのせられたことになりまする。

そんな折、月刊誌「東京人」(都市出版)2月号が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集しているので、むさぼるように読んでいます(笑)。

表紙の写真に登場している渋沢栄一、福沢諭吉、勝海舟、後藤新平、高橋是清、由利公正らはいずれも、薩長以外の幕臣・賊軍に所属した藩の出身者で、彼らがいなければ、新政府といえども何もできなかったはず。何が藩閥政治ですか。

特集の中の座談会「明治政府も偉かったけど、幕府も捨てたものではない」はタイトルが素晴らしく良いのに、内容に見合ったものがないのが残念。出席者の顔ぶれがそうさせたのか?

しかし、明治で活躍した賊軍人士を「政治家・官僚」「経済・実業」「ジャーナリズム」「思想・学問」と分かりやすく分類してくれているので、実に面白く、「へーそうだったのかあ」という史実を教えてくれます。

三菱の岩崎は土佐藩出身なので、財閥はみんな新政府から優遇されていたと思っておりましたが、江戸時代から続く住友も古河も三井も結構、新政府のご機嫌を損ねないようかなり苦労したようですね。三井物産と今の日本経済新聞の元(中外商業新報)をつくった益田孝は佐渡藩(天領)出身。

生涯で500社以上の株式会社を起業したと言われる渋沢栄一は武蔵国岡部藩出身。どういうわけか、後に最後の将軍となる一橋慶喜に取り立てられて、幕臣になります。この人、確か関係した女性の数や子どもの数も半端でなく、スケールの大きさでは金田一、じゃなかった近代一じゃないでしょうか。

色んな人を全て取り上げられないのが残念ですが、例えば、ハヤシライスの語源になったという説が有力な早矢仕有的は美濃国岩村藩出身。洋書や文具や衣服などの舶来品を扱う商社「丸善」を創業した人として有名ですが、横浜正金銀行(東京銀行から今の三菱東京UFJ銀行)の設立者の一人だったとは知りませんでしたね。

日本橋の「西川」(今の西川ふとん)は、初代西川仁右衛門が元和元年(1615年)に、畳表や蚊帳を商う支店として開業します。江戸は城や武家屋敷が普請の真っ最中だったため、大繁盛したとか。本店は、近江八幡です。いわゆるひとつの近江商人ですね。

田中吉政のこと

話は全く勝手に飛びまくりますが(笑)、近江八幡の城下町を初めて築いたのは、豊臣秀吉の甥で後に関白になる豊臣秀次です。

秀吉は当初、秀次を跡継ぎにする予定でしたが、淀君が秀頼を産んだため、秀次は疎まれて、不実の罪を被せられ高野山で切腹を命じられます。

まあ、それは後の話として、実際に近江八幡の城下町建設を任されたのが、豊臣秀次の一番の宿老と言われた田中吉政でした。八幡城主秀次は、京都聚楽第にいることが多かったためです。

田中吉政は、近江長浜の出身で、もともとは、浅井長政の重臣宮部継潤(けいじゅん)の家臣でした。しかし、宮部が秀吉によって、浅井の小谷城攻略のために寝返らせられたため、それで、田中吉政も秀吉の家臣となり、秀次の一番の家臣になるわけです。

それが、「秀次事件」で、秀次が切腹させられてからは、田中吉政は、天下人秀吉に反感を持つようになり、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、徳川家康方につくわけですね。山内一豊蜂須賀小六といった秀吉子飼いの同郷の家臣たちも秀次派だったために秀吉から離れていきます。

 田中吉政は、関ヶ原では東軍側について、最後は、逃げ落ち延びようとする西軍大将の石田三成を捕縛する大功績を挙げて、家康から久留米32万石を与えられます。
 そうなのです。私の先祖は久留米藩出身なので、個人的に大変、田中吉政に興味があったのですが、近江出身で、近江八幡の城下町をつくった人だったことを最近知り驚いてしまったわけです。
 明治に活躍したジャーナリストの成島柳北(幕臣)らのことも書こうとしたのに、話が別方向に行ってしましました(笑)。
 また、次回書きますか。

 

養老孟司著「遺言。」を読む

最近、することといえば、髭も剃らず、運動もせず、息もしないで、本ばかり読んでいます。

これ以上、頭が良くなってどうするつもり?(爆笑)

その中で、養老孟司著「遺書。」(新潮新書・2017年11月20日初版)を非常に、非常に期待して読み始めたんですけど、正直、あんまり…でしたねえ。

大ベストセラーになった「バカの壁」などの「衝撃度」に比べると、どうも…です。プロパガンダによると、「著者25年ぶりの書き下ろしで、50年後も読まれるに違いない」とのことですが、それは果たしてどうなることでしょうか…。

25年ぶりの書き下ろしなのに、これまで、養老氏が牛が汗をかくほど沢山の著書を発表されていたのは何だったのか、と言いますと、いわゆる「語り下ろし」で本人が書いたわけではない。安河内君を始め、優秀な新潮社の編集者が耳で聞いてメモをして、あたかもゴーストライターのように、編集者が書いていたわけですねえ。

「そっちの方が面白かった」とは口が裂けても言えませんが、本人の講演や対談は爆笑したくなるほど面白いのに、文章となると魅力度が落ちてしまうのか。やはり、理系だから、と言いたくなってしまいます。だから、あまり文系をバカにしてはいけませんよ(笑)。

不満だったのは、エントロピーの話が出てきても、クオリアの話が出てきても、「1冊の本になってしまう」だの、「詳しいことは茂木健一郎に聞いてくれ、というしかない」などと丸投げしてしまって、途中で置いてきぼりにされてしまうことでした。「書き言葉」じゃありませんよね?

でも、あんまし、不満ばかり言ってはいけません。

・動物の社会とヒトの社会は明らかに違う。「同じ」つまりイコールの理解が、ヒト社会を特徴づける。「同じ」つまりイコールつまり交換が、ヒト社会の特徴を創り出す。

・ヒトとチンパンジーの成育を比べると、生後3年まではどうみても、運動能力にしても、チンパンジーが上。ところが、4歳から5歳になっていくと、ヒトはどんどん発育が進むが、チンパンジーは停滞してしまう。認知能力で差が出る。

・覚醒しているヒトの脳と、寝ているヒトの脳とでは、消費するエネルギーがほとんど違わない。呼吸や循環もそうだが、脳は死ぬまでひたすら休みなく働いている。

などといったところは、まさに蒙を啓いてくださいました。

有難う御座いました。かつ、失礼仕りました。

でも、タイトルは中身と全く関係ない。個人的趣味かもしれませんが、変です。どうにかなりません…よね?(笑)。

川越、かわごえ、カワゴエ

埼玉県川越市の喜多院

ちょっと御縁があり、思いついて、「小江戸(こえど)」の川越を散策してきました。

小江戸とは、江戸時代の雰囲気を残した城下町のことで、小江戸と名前が付くところは、全国には他に彦根市ぐらいしかないようです。

単なる江戸情緒を残した城下町なら、全国にはかなりあるかもしれませんが、「小江戸」となると、他に、「伝統的な祭りがあること」などといった条件があるようです。(川越祭りを、川越氷川神社を祭神として始めたのは、「知恵伊豆」こと、川越5代藩主松平伊豆守信綱です。新座市の平林寺にお墓がありますね。)

さて、このように、川越市は、皆さまご存知の通り歴史のある町です。15世紀に扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰太田道灌が江戸城、岩附城とともに、河越城をつくったことで発展しましたが、平安時代初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で慈覚大師円仁が、天台宗の星野山無量寿寺を建立し、その後、関東天台宗の本山となったことから、中世は寺町として栄えていたことでしょう。

天海上人像

この無量寿寺は、北院、中院、南院と分かれており、中院が中心でしたが、江戸時代になると、あの江戸の町を風水等による都市計画(魔除けの方角に目黒、目赤、目黄、目白不動尊などを配置し、江戸城本丸の鬼門の方角に上野寛永寺、裏鬼門に増上寺を建立した)で名を馳せることになる天海上人が家康の招きで、1599年に住職に就き、北院を中心にして、北院を喜多院に改名します。中院は南に移転して、そこに仙波東照宮を建てます。そして、南院は廃院となります。(天海上人は、その後、2代秀忠、3代家光にまで使えて、108歳まで生きたとか)

仙波東照宮は、日本の三大東照宮の一つなんだそうです。(他の二つとは、日光と久能山。家康は、久能山で亡くなった後、日光に祀られる前に、家康の遺体は、仙波東照宮でしばらく留め置かれたそうです)

話は遡りますが、慈覚大師円仁は、無量寿寺を建立する際に、大津市坂本の日吉神社の御神体をお運びして、近くに日枝神社も建立します。上の写真でも看板が見えますね(笑)

日枝神社の「ひえ」は、天台宗の比叡山延暦寺の比叡(ひえい)から来たという説があり、日枝神社は、天台宗系ということで辻褄が合います、

多宝塔

喜多院の境内には、多宝塔があります。規模は小さいですが、高野山の塔に似ています。

大正浪漫通り

川越市は、36万人の人口(北海道十勝地方と同じですが、十勝は岩手県ほどの面積があります)ながら、年間650万人もの観光客を誇るそうです。その理由は、東京都心に近いことと、色んな時代の「観光資源」をうまく保存しているからに他ありません。

川越は、恐らく、古代、中世から火災が多い街で、江戸時代は織物業が盛んで、染料を煮詰めたりするのに使う藁の火が、残り火として風に煽られて引火して、町中に広まる大火事になったという説が一つあります。

寛政4年(1792年)に建てられた呉服店「大沢家」(現在、民芸品店)。国指定重要文化財。個人の住宅が重文となるのは、全国でもここだけ。唯我独尊(笑)です。

明治に入ってからも、大火災は続き、特に明治26年(1893年)の大火では、川越の町の3分の2が灰燼になったと言われています。

そこで、街の商人は、盛んに防災用の蔵をつくるようになり、それが、今でも商店として使われ、大切な観光資源に発展したわけです。

加えて、川越は、あの憎き米軍による空襲がなかったので、奇跡的に古い歴史的建造物が生き残ったわけです。

川越の町のシンボル「時の鐘

川越城主酒井忠勝が約400年前に、藩の民に時を知らせる為に作り、その後、大火で何度も消失し、これは四代目。

現在のものは、明治26年の大火後再建されたもので、明治天皇からも寄付が寄せられたそうです。

毎日、午前6時と正午と午後3時と午後6時の4回、鐘が鳴ります。

高さは約16メートルで、江戸時代は、これ以上高い建物の建設は禁止されたそうです。

菓子屋横丁で最も古い松陸

寛政8年(1796年)創業で、菓子屋横丁で一番の老舗。

かつては、横丁には70軒ほどの菓子屋があったそうですが、今22軒。

それでも、かなりの観光客が押し掛けておりました。

着物着ている、2〜3人一組の若い女性も多く見かけましたが、彼女たちが話している言葉は、中国語でした。

残念なことに、川越城本丸跡に今回は行く時間がなかったので、次回挑戦したいと思います。

最近の渓流斎、「城博士」を自称してますから(笑)。

小川洋子さんとフランスの出版社

「博士の愛した数式」などで知られる小説家の小川洋子さんが、1月17日付の東京新聞夕刊で、興味深いエッセーを書いていました。

海外で彼女の小説を初めて翻訳出版してくれたのは、何と英米ではなく、フランスの出版社で、その出版社の社長からプレゼントされたスコット・ロスのチェンバロCDバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を聴くと、今は亡きその出版社社長ユベール・ニセン氏のことを思い出す、といった内容でしたが、「フランス専門家」を自称している(笑)私ですから、その出版社がどこなのか気になってしまいました。

パリのガリマール社なら有名ですから、誰でも知っているでしょうが、この出版社は、南仏アルルで、羊小屋から起業して今でも本社はアルルにあるというのです。

※※※※※

それは何という名前か、すぐ分かりました。

ニセン社長の娘フランソワーズが後を継ぎ、彼女は昨年5月に、何とマクロン大統領によって文化大臣に任命されて驚いた、と小川さんが書いてあったからです。

それは、在日仏大使館の日本語ホームページですぐ分かりました。フランソワーズ・ニセン文化大臣が社長を務める出版社は「アクト・シュド」という会社でした。綴りが分からなかったのですが、散々調べてフランス語でActes sud ←クリック だと分かりました。「南のアクション」といった意味でしょうか。(社長は、昨年5月から代わってました。さすがに文化大臣と兼任で会社を切り盛りできないでしょう)

HPは立派ですが、大変失礼ながら、地方の小さな出版社でしょう。それなのに、かなりの点数の書籍を揃え、極東の小説家の作品にまで目を配って翻訳書まで出してしまうなんて、なかなかのものです。

小川洋子さんは、フランソワーズが文化大臣に指名されたことについて、「出版文化が尊重されているような気がして、私まで誇らしかった」とまで書いています。

ここを読んで、私も異様に感激してしまったわけです。

 

エッセーでは、4年前にフランソワーズの息子さんが10代の若さで亡くなった話など、色々書いてありましたが、さすが作家だけあって、短いエッセーでも大変読ませるものがありました。

天橋立の歌はそういうことでしたか…大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」続編

大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)は、読了するのに結構時間がかかりました。普通、新書なら1~2日で読めてしまうんですが、これは6日ほどかかりました。読みながら、丁寧に、著者がつくった「女系図」を参照していたからでしょう。

でも、これが決め手です。著者の大塚氏も、あとがきで「女系図は作ってびっくりの連続でした」と本人も大発見したことが結構あったようです。

この本を取り上げるのは2回目ですが、今日は前回取り上げたかったことを引用してみます。

流動的だった天皇の地位

…天皇というと現代人は絶対的なものと考えがちだが、「大王」と呼ばれていた天武天皇以前の彼らの地位は流動的だった。「古事記」「日本書紀」では天皇とされていない人物も、古くからの伝承を伝えた「風土記」では天皇とされていたりする。…

ということで、古代は、大王=天皇になるための権力闘争が凄まじかったようです。例えば、記紀によると、第21代雄略天皇は二人の兄や従兄弟らを含む6人も殺害させたようです。当時は、武内宿禰を祖とする葛城氏の方が権力を持っていて、葛城氏の血を引くツブラノ大臣らが最有力候補でしたが暗殺されました。

井上満郎著「古代の日本と渡来人」によると、7世紀の畿内の人口のほぼ30%は渡来人だったという。京都=山城国は、もともと「渡来人の里」だった。(京都平安京を開いた桓武天皇の生母高野新笠は、百済出身でしたね=「続日本紀」による)

※著者は、渡来人の秦氏は、中国の秦の始皇帝に祖を持つ、という見解でしたが、小生は古代史の泰斗上田正昭氏が主張する「秦氏は、秦の始皇帝とは無関係で、朝鮮の新羅系の渡来人」という説に賛同します。

天橋立 Copyright par  Mori Kawsaki

大江山いくのの道の遠ければ まだふみも見ず天橋立

という百人一首にも載る有名な歌があります。

作者は小式部。母親はあの「和泉式部日記」で知られる和泉式部です。誰に宛てた歌かといいますと、当代一のプレイボーイ、著者の大塚氏に言わせると、「インテリ女喰い」の藤原定頼という貴人です。

この定頼。光源氏のように輝き、モテててモテてしょうがない、といった感じです。大塚氏が、歌集を読むだびに系図をつくっているうちに、「こいつ、よく出てくるなあという奴がいる」。それが、この藤原定頼だったのです。

何しろ、お相手した方々が半端じゃない。先ほどの小式部のほかに、紫式部の娘大弐三位、相模、大和宣旨といった当代一流のインテリ女性だったのです。

もちろん、定頼も出自はピカイチ。父親は、四納言の一人と言われた知識人の藤原公任、母親は、昭平親王(村上天皇の子)の子で、しかも、藤原高光(父師輔、母雅子内親王)の娘の「腹」でした。(ただし、天皇家の外戚になりそこねて、公任は権大納言、定頼は権中納言止まりで終わる)

前述の「大江山…」の歌の背景は以下の通りです。

小式部の母和泉式部が、夫藤原保昌について丹後国に下ったとき、京で歌合があり、その時、定頼がふざけて小式部に「丹後の国にやった使いはもう帰ってきましたか?どんなにハラハラしているでしょう」と声を掛けた。和泉式部は名高い歌詠みです。その娘の小式部はどうせ、母親に歌を代作してもらっているだろう。その使者はもう帰ってきたのかい?とからかったというのです。

それに対する答えが、「大江山…」。意味は、「大江山を越えて行く生野の道は遠いので、まだ踏んでみたことがないの、天橋立は。まだ文も見ていません」。

なるほど、そういう意味で、そういう返歌だったんですか!勉強になりました。

(私も天橋立の写真を現代の小式部さんにお借りしました=笑)

江戸時代は正妻率がわずか20%

平安時代は父親より、母親が誰かによって身分が決まってしまいます。「胤(たね)より腹が大事」と前回書きました。しかし、それは、平安中期まで。平安後期になると、院政時代となり、父権が強大となり男系社会になります。

著者は、平安から江戸時代までの権力者の母親がどういう出自か全て調べあげ、母親が正妻である比率を割り出します。それによると、平安時代の摂関藤原家は、正妻率が77%、鎌倉時代の将軍源氏の正妻率は67%、執権北条家は56%、室町時代の将軍足利家は、47%。そして、江戸時代の将軍徳川家は何と20%にまで急落するのです。徳川将軍の母になった側室の中には、八百屋や魚屋といた平民の娘までいるらしいのです。

これはどうして?

平安時代は、天皇家に代わって外戚の藤原氏が権力を握り、鎌倉時代は源氏に代わって、北条氏が実権を掌握。室町の足利将軍も外戚の日野家に左右されていた。「吾妻鏡」の愛読者だった徳川家康が、こうした歴史を読み、外戚に権力を握らせないように、徳川家の政権が未来永劫続くよう願いを込めて、「暗に正妻や外戚を重視しないようにしたのではないか」という著者の洞察。誠に見事でした。

嗚呼、残念。他にも書きたいことがあるのですが、この辺で。