明けましておめでとうございます。京洛先生です。
渓流斎さんは、先日のブログで「茶屋四郎次郎」を取り上げておられましたが、京都には彼の邸宅があった址(中京区新町通蛸薬師下ると上京区小川通下長者町)に立札と石碑がそれぞれ立っておりますよ。
さて、本日は、京都でも意外と知られていない由緒ある料亭「左阿弥」をご紹介致しましょう。
実は、迂生も詳しくその由来は知りませんでしたが、いつも、墓参りなどで「東大谷」墓地(正式には、浄土真宗大谷派の「大谷祖廟」。地元では“東大谷さん“)から、円山公園の東側の道端を通り、知恩院(浄土宗総本山) に向かうと途中に料亭「左阿弥」があり、気になっておりました。
上の写真の通り、玄関には立て札が立ち、その由緒も記されております。もともとは、この円山公園の一帯は「安養寺」というお寺の境内でもあり、左阿弥は同寺の塔頭の一つだったということです。それが、江戸の「嘉永」年間に料亭に転身し、現在に至っているわけです。
貴人が今度、京都に見えた時にこの一帯を御案内しますが、円山公園までは、うるさい観光客が来ますが、この辺りまではほとんど来ません(笑)。今でも閑静で、法然、親鸞らが修行の場所に選んだだけのことがよく伝わってきます。
また、近年になってからは「御前会議」など、重要、重大な会議が開かれたり、京都で最初のホテル「他阿弥ホテル」がこの地で始まったということです。
寺内大吉著の「念仏ひじり三国志」を読むと、法然が「吉水(よしみず)」で布教する様を巧みな筆致で描かれておりますが、あれを読んで実地検証して、見て歩くのには、ここが最適の場所です。「吉水」という地名は、東山の山麓で美味しい水が流れ、溢れ出ているということから付けられたわけです。
八坂神社の裏手の円山公園一帯は、昔は「真葛ヶ原」と呼ばれ、淋しい場所だったのですが、今でも感じられます。
「安養寺」は、最澄が平安京を鎮護するために建てた古刹で、その塔頭の一つ「左阿弥」は、織田信長の甥・頼長が建てたものでした。(頼長の父は茶人の織田有楽斎。頼長自身も、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと言われてます)繰り返しになりますが、江戸期になって料亭になり、いろいろ変遷があったところです。日本の国家の将来を左右する「御前会議」もここで開かれたということですからね。貴人のような歴史好きにはたまらない一帯だと言えることでしょう(笑)。
「左阿弥」は、貴人が、足の負傷で途中で参拝を断念された埼玉の歴史の根源にもつながる「金讃(かなさん)神社」ほど古くはありませんが、新年、再度、挑戦されては如何でしょうか。
あの「金讃神社」は、本殿が無く、近くの御室山を御神体にして山を拝む古式にのっとる希少な神社です。古礼に従って本殿が無く、神体山を拝礼する旧官幣社は、全国でも金讃神社と、奈良・桜井の「大神神社」、長野の「諏訪大社」の三社だけです。
是非とも参拝に行かれて、霊気を浴びて来られることです。今年の「開運」間違いなしですよ。
以上お終い。