いざ古河へ=古河公方と古河城

古河と書いて、「こが」と読みます。「ふるかわ」ではありません。古代から中世、近世にかけて、一時、関東の中心として繁栄した城下町であり、宿場町でもありました。

 古代では「許我」と書いて「こが」と読み、何と今最も注目されている「万葉集」に二首も詠まれています。ご興味のある方はご自分で調べてみてください(笑)。

 奈良時代から渡良瀬川を利用した水運交通の中継地としても発展し、中世は第5代鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が関東管領の上杉氏に追われて、ここ古河の地に邸を移して、「古河公方」となりました。(下総古河は鎌倉府の領地=飛び地だったという説が有力です)

 古河はその後、小田原北条氏の支配下になりますが、江戸時代になると、古河城は最重要拠点の一つとなり、将軍の日光参社の際の宿泊地となったり、藩は老中首座を輩出したりします。

 当然、明治になると、憎っき徳川方の最大の敵地となりますから、廃城となり、打ち壊されて跡形もなくなりますが、かろうじて城下町の雰囲気だけはかすかに残っています。


古河駅西口から北西10分ほどにある杉並通りにはこうして武家屋敷跡が並んでいます。今は個人の住宅になっているようでしたが、詳細は分かりません。この辺りは面影が残っているせいか、観光用ポスターにも使われるそうです。

この武家屋敷跡の近くにあるのが、正定寺です。江戸時代に代々古河藩主を務め、江戸詰めでは老中職も歴任した土井家の墓所です。

 看板にある通り、東京・本郷にあった古河藩主土井家の下屋敷の表門をこちらに移築してきました。

境内には、初代古河藩主土井利勝公の像がこうして祀ってありました。


ここは、江戸町通りにある歴史作家永井路子の旧宅です。


 永井路子の旧宅は、お茶と茶器を扱う豪商だったそうです。実は、彼女は永井家の実子ではなく、実父は歴史学者だった来島清徳。生まれる前から母方の永井家の養子になる約束だったというのです。

 旧宅は、現在、彼女のちょっとした文学館となっており、入場無料。私はよほど怪しい人間と見られたのか、タダで入場させてもらった上、お茶まで御馳走になってしまいました(笑)。永井路子は、司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾ら直木賞作家を輩出した「近代説話」の同人だったことは知ってましたが(本人も直木賞受賞)、小学館の編集者だったんですね。歴史学者の黒板伸夫と結婚し、出版社時代は黒板という本名で仕事をしていて、当時、一緒に仕事をしていた後輩さんが先日、この旧宅を訪れ、「黒板さんは、黒板さんは…」といった話をこの旧宅の留守を預かっている人に話していたそうです。

 永井さんは現在94歳になられたそうです。

この永井路子旧宅の近くに、幕末から明治にかけて活躍した「最後の浮世絵師」河鍋暁斎の生誕地の碑があり、吃驚しました。知りませんでした。

河鍋暁斎、あの緻密な筆致が好きですね。彼は天才です。確か、埼玉県蕨市に彼の美術館があったと思います。いつか行ってみようと思っていながらまだ行ってません(苦笑)

 たまたま、この近くの江戸前通り沿いにあった「お好み焼き屋」さんに入って、ランチ(蕎麦入り特製お好み焼き750円とノンアルビール380円)を取りましたが、そこの女将さんが大の話好きで、この江戸前通りは、かつては一番の繁華街で、左右両通りはぎっしり商店が並んでいたのに、今や、御覧の通り、少ししか残っておらず、寂しい限りです、と溜息をついておりました。

 しかも、ここ古河市は、茨城県の西端の外れの外れ。県庁の水戸に行くのに3時間もかかり、遠くて困るとまた溜息です。ここからなら、栃木県の宇都宮や埼玉県の浦和(の県庁の所在地)に行く方が全然近いというのです。

 実は、古河に水戸直通の水戸線が通る話が大正の終わりか、昭和の初めにあったそうですが、古河市民は断ったんだそうです。女将さんによると、古河の人間はよそ者嫌いだとか。お蔭で、水戸に行くまで、栃木県の小山まで行って乗り換えなければならないといいます。

この話好きの女将さんは私の目の前で、お好み焼きを焼いてくれて、70歳ぐらいに見えましたが、何と7人姉妹で、6番目だというから思わず笑ってしまいました。代々の商家で、商いはしょっちゅう替えているらしく、男の子が生まれるまで頑張った御尊父は、青果業を営み、古河市の青果市場をつくった偉い人だったとか。

日光街道沿いにあるお茶屋口跡。宿場町だった証ですね。

こちらは、かの有名な鷹見泉石の記念館、つまり旧宅です。入場無料には驚きました。

 渡辺崋山描く「鷹見泉石像」は、絵画の国宝第一号になった人でした。

渡辺崋山筆「鷹見泉石像」(国立博物館のHPより)

 以前、このブログで書きましたが、古河藩家老で、大坂城代詰めの頃に、大塩平八郎の乱が起き、その鎮圧の陣頭指揮を執った人でしたね。

 鷹見泉石は、隠居名で、家督後の名前は十郎左衛門。諱は忠常。本職は家老で、蘭学者とも言われますが、仕事が海外の最新情勢の情報収集と情報分析でしたから、蔵書の多さや、知り合った人間関係は、超弩級です。

それら鷹見泉石の膨大な資料を収蔵しているのが、旧宅の真向かいにある古河歴史博物館です。(入場料は、文学館などとの共通券で600円。ここは絶対に一見の価値があります。)

 鷹見泉石が知遇を得た人がずらりとパネルで紹介されていましたが、島津斉彬ら諸国の大名を始め、ジョン万次郎ら漂流から帰国した人、農学者の二宮尊徳、江戸琳派の酒井抱一、鈴木其一まで親睦を深めているのですから、まさに超人です。例のシーボルトとも交友していたようなので、鷹見泉石もよくぞシーボルト事件や蛮社の獄などに連座しなかったと思いました。

 渡辺崋山が捕縛されたのは、あの悪名高い鳥居耀蔵による讒言だったと言われています。渡辺崋山は、尾張田原藩という小藩の家老。一方の鷹見泉石は老中だった土井利位(としつら)の譜代大名の家老ということで、別格扱いだったのかもしれません。

きゃあ~、ヒトが写っている…

古河歴史博物館の入り口には、古河城の出城諏訪郭だったという記念碑がありました。

 実は、ウマズイめんくい村の赤羽村長さんからの情報で、古河歴史博物館の隣にある古河文学館の2階にレストランがあるということで、お腹が空いてきたので、そこでランチしようかと思ったら、残念、満席で断られてしまいました。

 仕方がないので、フラフラ彷徨った挙句、永井路子旧宅近くのお好み焼き屋さんを見つけて入り、先程書いた通り、そこで色んな地元の情報を得たので、怪我の功名(笑)だったかもしれません。

赤羽村長が指摘されたように、この文学館~歴史博物館~鷹見泉石旧宅辺りの石畳と城下町の雰囲気は最高ですね。とても落ち着いた静かな雰囲気で、何度でも来てみたいと思いました。

 文学館では、永井路子をはじめ、小林久三、佐江衆一ら古河市ゆかりの作家の作品などが展示されていました。

 鷹見泉石の曾孫に当たる鷹見久太郎が大正11年に創刊した童話雑誌「コドモノクニ」(野口雨情や北原白秋らが寄稿)のバックナンバーなども展示されてました。

さて、いよいよ、今回の「古河の旅」のもう一つの目的、古河公方様に会いにいくことでした。

 現在は、「古河公方公園」になっていますが、第5代鎌倉公方の足利成氏が康正元年(1455年)、鎌倉からここ古河の地に移り、舘を構えたところです。

ここには2年間ほど住んだ後、渡良瀬川流域の古河城に移ったとあります。

永井路子旧宅からここまで歩いて30分くらいかかりましたかね。でも、この上の碑を見つけた時は感激しました。

それ以上に感動したのは、古河公方公園から少し離れた川沿いに、この「古河城本丸跡」の碑を探し当てた時です。

道路には道案内の看板がなく、探索するには、古河駅の観光案内所でもらった地図だけが頼りでした。

 今や、渡良瀬川の堤防になってしまいましたが、ここに、あの古河城の本丸があったのかと思うと、打ち震える思いでシャッターを切りました。城好きの私にとって、この日のハイライトでした。

 持参したスマホの万歩計によると、この日は、2万2000歩、15.5キロ歩きました。