「古代天皇と古墳の謎」に迫る

 「歴史人」6月号の「古代天皇と古墳の謎」は、恐らく、現代の古代史学の最先端の学術を取り入れた「完璧版」に近いものではないかと思っています。(読み通すのに1カ月近く掛かりました)

 勿論、反対意見もあると思います。例えば、18ページの「ヤマト政権の真実」の中で、安田清人氏はこんな風に記述しています。

  かつて、(大和盆地の纏向=まきむく=遺跡の)箸墓(はしはか)古墳を邪馬台国の卑弥呼、あるいは後継者の台与(とよ)の墓とする説もあったが、邪馬台国は、北部九州にあった約30国からなる倭国連合の盟主であるクニ、すなわち地方王権のひとつに過ぎず、ここでいう倭王権とは無関係である。

 あれっ? こんなにキッパリと邪馬台国を九州と断定してしまっていいんですか? あれほど、「畿内説」と「北九州説」が長い間、侃々諤々、喧々囂々と論争され、確か、今でも決着ついていないはずなんですが、大丈夫なんでしょうか?

 この章の監修者に倉本一宏氏が立てられています。「なあんだ」。私自身は、倉本氏の「蘇我氏」「藤原氏」「白村江の戦」など結構、著書を愛読して彼の説を信頼し、私も「邪馬台国=九州説」なので、大賛成で、文句ありませんけど(笑)。

 それにしても、私が学生時代に古代史を習ったのは1970年代初めですからもう半世紀近い大昔です。その間の学問の進歩は目を見張るばかりです。第一、纏向遺跡も箸墓古墳も全く習ったことはありません。今は「倭王権」とか「ヤマト政権」とか言うようになりましたが、昔は「大和朝廷」と教えられていました。ついでに言えば、645年の「乙巳の変」なんか全く習っていません。「大化の改新」だけです。恐らく、「乙巳の変」を知っているか、知っていないかで、世代が分かると思います(笑)。(おっ!頷いている方がいらっしゃいますね)

 天皇についてもそうです。戦後になって昭和天皇が「人間宣言」され、ある程度のタブーから解放されて自由に研究されることができるようになりました。私の親の世代は戦前の昭和初期に教育を受けましたが、大正生まれの父親は「天皇陛下は神様で、学校では神武天皇から綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神…と全て覚えさせられた」と話していましたからね。

◇「三王朝交替説」

 これまで、天皇は「万世一系」で神武天皇以来現在に至るまで、血統が同じだということが戦前までは常識でしたが、1952年に水野祐博士が「三王朝交替説」を唱え、82ページに紹介されています。初代神武天皇をはじめ、二代綏靖天皇から九代開化天皇までの「欠史八代」まではフィクションで、実在する最初の天皇を十代崇神天皇とし、この王朝は十四代仲哀天皇まで続く。次に十五代応神天皇からは別の王朝で(大和の豪族葛城氏との縁戚関係が強い)、「残虐と記紀に書かれた」二十五代武烈天皇まで続く(この間、「倭の五王=讃、珍、済、興、武」が大陸から冊封を受ける)。最後は、近江の豪族息長(おきなが)氏出身と言われ、母方の越前育ちで、尾張の豪族の目子媛(めのこひめ)を妃として娶っていた二十六代継体天皇からで(継体天皇は、後に二十四代仁賢天皇の皇女手白香皇女=たしらかのひめみこ=を皇后とするので、自身が十五代応神天皇の末裔であるとの主張がフィクションなら、継体天皇は女系天皇だという見方をする学説もあります)この王朝が現在の天皇家まで続いているという説です。

 私はこの「三王朝交替説」には十分に納得します。いずれにせよ、畿内だけでなく、全国(特に毛野=けぬ=、吉備、出雲、筑紫など)に大きな古墳が存在するということは、地方にも天皇家に匹敵するような権力を持った豪族が存在していたということになります。(そもそも、天皇はもともと大王=おおきみ=呼ばれ、初めて天皇と称するようになったのは第四十代天武天皇からでした)

 大和の一豪族に過ぎなかった天皇家が、「倭王権」として全国統一するようになった背景には、やはり、高句麗や唐、新羅といった敵対する外国勢力に対抗するために中央集権的な強い国家を存立させる必要に迫られたのではないかと考えられます。その間に、出雲や吉備、筑紫(磐井の乱)といった豪族が倭王権に服属(もしくは同化)するようになったと考えれば、分かりやすい気がします。

 「歴史人」では古墳の話も多く図解入りで記述されています。日本最大の古墳は、世界遺産にもなった百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵ですが、全長486メートル、高さ33.9メートルの3段もあり、秦の始皇帝陵、エジプトのクフ王のピラミッドと並び「世界三大墳墓」だったんですね。知らなかった(苦笑)。「日本は凄い!」と右翼の人でなくても嬉しくなります。

 仁徳天皇陵は、5世紀中ごろに建設されましたが、大林組の1986年の試算によると、680万人日(一人一日分の労働量)を必要とし、工期は15年8カ月、工費796億円だといいます。それだけ、天皇家には絶大なる権力があったということになります。

 しかし、現在、天皇陵は宮内庁が厳重に管理し、学術研究でさえ禁止されているので、いまだに解明されていない謎だらけだとも言えます。何故なら、現在、天皇陵と比定されている所は、幕末の文久2年(1863年)、宇都宮藩の家老戸田忠至(ただゆき)が朝廷から山稜奉行を命じられ、修陵に当たり10人の研究顧問団が選ばれ、その筆頭格の谷森善臣(たにもり・よしおみ、1818~1911)が決定したものだからです。谷森は、天皇の近侍である舎人家出身ながら、現在の学問から見て必ずしも正しくない場所が散見されるといいます。(例えば、継体天皇陵は、大阪府茨木市の三嶋藍野陵と比定されていますが、実は、大阪府高槻市の今城塚古墳ではないか、という説が有力で、神武天皇陵を本居宣長らの丸山説を否定してかなり強引に白橿村山本の地として押し通したことなど)

 いつになるか分かりませんが、天皇陵の学術調査が認可されれば、古代史がまた大幅に変わっていくのではないかと、私なんか期待を込めて考えています。が、私が生きている間は難しいかなあ…?