忘れていました…「能登輪島」があったじゃないか!

 今年はお正月早々、マグニチュード7.6の能登半島地震が起き、先月末現在で死者241人、負傷者1299人という人的被害、それに8万件近い住家被害がありました。

 毎日ニュースで取り上げられていますが、いまだ再開できない漁業や、伝統工芸の輪島塗や酒蔵の復興など色々と問題を抱えていて、見聞きすることがつらいです。個人的には義援金を送る程度しか出来ず、忸怩たる思いをしていましたが、そうだ、復興の一助になるかもしれないので、ランチは石川県(他に、新潟、富山、福井)の郷土料理店にするべきだった、と今更ながら思いつきました。

 幸い、私がシマにしている銀座界隈は、全国の各府県の物産館が出店されており、そこで地元料理が食べられたりします。

東京都中央区銀座7-2-8 東建ビル 3F「能登輪島」 焼き魚定食1000円

 「そっか~、忘れていた!」ということで、昨日は銀座にある海鮮料理店「能登輪島」に行って来ました。以前は、よく通っていた店でしたが、最近のランチは、新富町ばかりに足を伸ばしていたので、行くのは数年ぶりでした。輪島市は特に、今回「震度7」と、志賀町と並び能登半島地震の中では最大の震度を経験しました。

 ランチでは焼き魚定食を選びましたが、1000円と銀座界隈にしては安いのです(今時、安くても1100円。1300~1500円が相場です)。上の写真の通り、焼き魚だけでなく、お刺身と鶏の唐揚げまで「おまけ」に付いてきますから、まさに「お買い得」で味も良いので、お勧めです。

 食事が終わって、会計の際に「地震は大変でしたね」とお店の人に声を掛けたところ、「ええ、大変でした」と本心で返って来ました。たった一言だけでしたが、如何に大変だったのか分かりました。

 皆さんも、東京・銀座界隈にお出でになったら、ちょっと能登半島地震のことを思い出して、昼でも夜でも、北陸・中部の郷土料理店や物産店(アンテナショップ)に立ち寄ってみたら如何でしょうか。

【ご参考】

・石川県アンテナショップ「いしかわ百万石物語・江戸本店」は、2024年3月に銀座から八重洲へ移転開業する予定。

「銀座・新潟情報館 THE NIIGATA(ザ・ニイガタ)」2024年5月末に銀座5丁目に移転開業する予定。

・富山県のアンテナショップ「いきいき富山館」は、有楽町駅前の東京交通会館地下1階

・福井県のアンテナショップ「ふくい食の國291」は、イートインもあり、銀座1丁目にあります。

「資本主義経済は、リスクを取っても良い人間が、リスクを取りたくない人間から利益を吸い上げるように出来ている」=山崎元著「経済評論家の父から息子への手紙」の名言です

 幸せとは何か-? 最近、個人的に、幸せとは「憂いがない」ことだと思うようになりました。「憂いがない」というのに、フランス語で丁度良い言葉がありまして、sans souci(サン・スーシー)と言います。18世紀のプロイセンのフリードリッヒ大王が建てた「サンスーシー宮殿」は有名ですから、聞いたことがあるかもしれません。

 人間、生きていれば色んな憂いがあります。その中でも将来の不安が一番かもしれません。具体的に言えば、将来の生活で、もっと具体的に言えばお金の心配です。私は、「経済音痴」を自称し、給料もほとんど、生活費や子どもたちの学費などで消え、若い頃は普通預金に入れたまんまでした。しかし、中年を過ぎて将来の不安もあり、投資も考えるようになりました。その時、一番お世話になった書籍は、経済評論家の山崎元氏が初心者向けに書いた易しい株式投資の本でした。もう15年ぐらい前かもしれません。彼の著作は何作も読みました。

 その山崎氏が今年1月に65歳の若さで亡くなったことには吃驚してしまいました。何しろ、私より若いですから。そんな山崎氏が「遺作」として「経済評論家の父から息子への手紙」(Gakken、2024年2月27日初版)を出版したことを知り、早速購入しました。

 通勤電車の中で直ぐ読了できました。内容はタイトル通り、経済評論家の山崎氏が東京大学に合格したばかりの18歳の息子に宛てた「私信」を元に、経済の仕組み、起業と投資の勧め、それに人間の究極の幸せとは何かといったことを、まさに「遺言」として説いたものでした。(あとがきで、息子さんの出身高校は、海城だと書かれていたのでこれまた吃驚。私の母校ではありませんか!)

 斜に構えて言えば、この本は、まだ世間知らずの息子に対して父親が説いた「処世術」です。私ももっと若い頃に読んでいたら大いに参考になっただろうと思いました。しかし、「人生哲学書」として読むとなかなか味があります。

 勿論、経済評論家の本ですから、投資に関する指南はまさに的を射ております。何よりも、「資本主義経済は、リスクを取っても良い人間が、リスクを取りたくない人間から利益を吸い上げるように出来ている」というのは、名言です。かなり、真相を突いていると思います。言い換えて、「世の中は、リスクを取りたくない人が、リスクを取って良いと思う人に利益を供給するように出来ている」とも言っております。

 まさに、その通りです。経済格差や世の中の不公平を叫んでばかりいても始まりません。このように、世の中の仕組みを知ることが先決です!!このリスクというのは投資と置き換えて良いかもしれません。世界の大富豪のほとんどが起業したりして自社株を保持し、その評価額が富裕層として反映されています。逆に言えば、投資しなければお金持ちにはなれないのです。(人生哲学で、別に大金持ちになる必要がないと確信している人には関係がない話ですが!)

 テレビにチャラチャラ出て(露出を優先して)、CMで1本8000万円も1億円も稼ぐような芸能人や文化人がおります。山崎氏の伝で言えば、その人は確かに強運の持ち主ではありますが、その人なりに、平凡なサラリーマンや公務員の道を選ばす、リスクを冒して今の自分の地位を築き上げた人ということになります。

 さて、これから、具体的に何に投資したら良いのか? 詳細は本書に譲りますが、山崎氏は、例えば、個別銘柄よりもインデックスファンドをお勧めしています。FXや仮想通貨、信用取引などはギャンブルだと断定しています。また、不動産投資も決して有利なものではなく、それは「不動産業者が自ら物件を保有するのではなく、客を探して売っている状況が雄弁に語っている」と説明しています。

 保険も、保険会社が得をして加入者が損をするように出来ていて(そうでなければ、保険会社はつぶれる)、山崎氏も「最近癌にかかったが、健康保険に加入していれば、民間のがん保険は不要だと改めて確認した」と言うほどです。

 いやあ、こういった助言だけでも、この本を買って良かったと思いました。著者が力説する通り、安心も、リスク(投資=本の購入)を取って初めて得ることができたということになりますか。

 

言葉が人類に暴力性を生んだ?…そう言われると困りますが

Ginza

 いやはや、たまたま見ましたEテレの「NHKアカデミア」に出演されていた人類学者の山極寿一氏のお話は、私にとっては「コペルニクス的転回」でした。そして、何よりも、自分は今まで何を信じて生きて、行動してきたのか、グサッと鋭利な刃物を突きつけられた感慨になりました。

 山極氏は、京大の総長まで務められた方であり、世界的なゴリラ学者であります。そういう人が何故、人間は現代になってもいまだに暴力的なのか、その起源はいつからなのかという問題を探索したことがこの番組のテーマになっていました。

 結論を先に書けば、霊長類の人類は700万年前にチンパンジーから枝分かれしてヒトとして歩み始めてから、当初はアフリカのサバンナで捕食者に囲まれ危険な状態だったので、どうしても協力して集団を作らなければならなかった。そこには共感が生まれ、食べ物の分配も行われ、平和的だった。しかし、1万年前に「言葉」が生まれ、同時に農耕定住生活となると、集団同士が食物や領地の争い等で暴力的になったというのです。

 山極氏に言わせれば、共感の力が暴発して、言葉による情報交換が人々を傷つけ、不安や戦争に駆り立てるようになったのではないかというのです。私は「記者」という職業を選び、40年以上も「言葉」を信じて仕事をしてきたので、まさに彼の説は、コペルニクス的転回の発想であり、衝撃を受けたわけです。人類は699万年間、平和だったのに、言葉の威力によって、わずか1万年前から暴力的になったというのですから。

小倉城

 山極氏が専門のゴリラは、決して暴力的な動物ではなく平和を愛好して、リーダーは仲間割れしないよう制裁したり、気を配ったりしているというのです。よく誤解されているのは胸を叩くドラミングで、これは相手を威嚇する意味ではなく、相手と戦わずして引き分けにする表現だったというのです。

 ゴリラは言葉を持っていないので、自分が見ている世界しか共有できない。一方の人間は、言葉を使うので、見た世界を言葉で表現する。それによって、同じ集団や共同体(せいぜい150人程度)以外に住む世界の別の人間にも情報が伝わる。それが、良い方向で伝わればいいのですが、誤解したり、曲解したりして、相手を傷つけたり、猜疑心、嫉妬心、敵対心などネガティブな感情が生み、人間を暴力的に至らしめる、というわけです。

 私は、言葉より、今はSNSや動画の方が影響が強いと思っていますが、同じことかもしれません。

 山極氏は、このように暴力性を生まないよう防ぐにはどのようにしたら良いのか、ズバリ処方箋を語っていました。それは、言葉に片寄り過ぎないようにして、身体的コミュニケーションを増やすことだというのです。一緒に、食事をしたり、スポーツをしたり見たり、音楽を聴いたり演奏したり、ボランティアをしたりすることによって、相手の気持ちや感情を理解するようにすれば良いというのです。

 確かに、契約や条約締結などは言葉のやり取りで済むはずですが、例えば、わざわざロシアのプーチン大統領が、北朝鮮の金正恩総書記に会うために平壌にまで出かけたりするのは、まさに握手したり、食事を一緒にしたりして身体的コミュニケーションを図って、初めて信頼関係が生まれるからなのでしょう。

 山極氏は若い人からの質問に面白い助言をしていました。

 友達と一緒に夕焼けを見たら良いよ。言葉が出ないでしょう。感動して言葉が見つからないでしょう。人間も自然と付き合うことで相手に近づけて、相手の気持ちも分かるかもしれませんよ。

 うーん、確かにそうですね。しかし、「言葉が人類に暴力性を生んだ」と言われると私は困ってしまいます。何しろ、言葉だけを頼りにこれまで生きてきた人間ですから。。。

大谷さん結婚、それで?

Higashi-Ginza

 ドジャースの大谷翔平選手、ご結婚おめでとう御座います。日本時間、昨日の夕方からこの話題で持ちきりで、民放なんか、政倫審(政治倫理審査会)の大事なニュースまで飛ばして、この話題ばかり放送しているんですからね。

 恐らく、これから書くことは直ぐ古びてしまうと思いますが、お相手はどなたかと思ったら、顔写真どころか、名前すら明かさないというのです。交際していたことすらどこのマスコミにも感づかれず、この徹底した秘密主義には脱帽です。それでも、SNS隆盛時代ですから、皆さん好き勝手に飛ばしています。こういった「飛ばし記事」は、昔だったら、東京スポーツや日刊ゲンダイや「噂の真相」の独壇場だったんですが、今や「普通の人」の発表舞台になってしまいました。

 私はそれほど暇ではないのですが、気になるので、検索してみたら、お相手は、いずれも身長180センチを超えた元バレーボール選手、元バスケットボール選手らの名前が挙がっていました。世界中から注目されますから、そりゃあ大変でしょうね。ご同情申し上げます。

東銀座「紹興苑」 香港焼そば1000円

 さて、またまた私事ですが、このごろ、どうも自信がなく、ビクビク、オドオド生きている気がしております(本日は、満員の駅構内でクソガキからいきなり足で蹴られました)。何も悪いことをしているわけではなく、毎日、往復3時間のバスと満員電車に乗って通勤し、真面目に仕事をし、帰りに悪所に通うことなく、飲みにも行かず、瞬きもせず、真っすぐ帰宅しています。しかも、電車の中では量子力学の難解書を読み、家に帰れば、錆び付いたフランス語を紙の辞書を引きながら勉強しているぐらいです。嗚呼、それなのに、それなのに。誰からも褒められもせず、苦にもされず、木偶の坊と呼ばれるだけです。甲斐性なし扱いです。何か悪いことでも、私、しましたか?

 これでは、ビクビク、オドオド生きてしまうのも仕方ないですね(苦笑)。最近、私が住む地域でも、毎日のように微震が続いているので、「大災害や事件、事故に巻き込まれたら嫌だなあ」といった不安がないことはありませんし、残り少なくなった人生を如何に生きるか? お前は一体何者で、何のためにこの世に生まれてきたのか? といったアポリアが頭の中で堂々巡りしているので、そりゃあ、心が不安定になっても当たり前です。

 一番の薬は、「考えないこと」でした。何しろ、回答がないのです。頭の中で堂々巡りしているだけですから、エントロピーが増大し、考えるだけで時間の無駄なのかもしれません。

 再読している「時間の終わりまで」(ブルーバックス)の著者ブライアン・グリーン氏によると、我々という人類といいますか生命は、自然法則に支配された膨大な粒子が集合してできた物理的存在だというのです。我々の行為や思考は全て、粒子の運動に帰着していることから、自由意志が入り込む余地がないというのです(シュレーディンガー説)。つまり、我々が自由に選択しているようにみえるものは、自然法則が最も基本的な姿で働いているところを我々は見ていないからで、我々には自由な意志で考えたり行動したりしているように強く感じられるとしても、実のところ、それは物理法則に完全に支配されて動き回る粒子たちの複雑なプロセスであることが分かるといいます。

 ちょっと難しい書き方ではありますが、理論物理学者の目から見れば、人間とは「物理法則に支配されている粒子が詰め込まれ袋」に過ぎず、結局、意識や思考も物理法則に支配されているというわけです。

確かに、量子論学者さんから見れば、意識しようが、思考しようが、不安になろうが、人間というものは所詮、「粒子の袋」に過ぎないんですね。文学から見ればあまりにも救いようがない話ですが、科学が見れば、それこそが真実なのでしょう。

最初から、Et Alors?(だから何なのさ?)という話でした。