仏像は太ったり痩せたりしていた?=山本勉著「完本 仏像のひみつ」

 山本勉著「完本 仏像のひみつ」(朝日出版社、2021年5月31日初版)を読了しました。「完本」と銘打っているので、大いに期待して読んだのですが、どうもお子ちゃま向けに書かれていました。お子ちゃま向けということで、筆者は、神のことを「カミ」、漆を「ウルシ」、渡来仏のことを「トライ仏」と明記しますが、よっぽどカタカナが好きなのか、カタカナで書けば易しく書かれたと思い込んでいるのか、そのどちらかなのでしょう。しかし、残念ながら、実に読みにくい。善光寺のことを「ゼンコージ」などと書かれると、「馬鹿にしてんのか?」と、さすがに頭に来てしまいます。

 仏像の種類として「如来」「菩薩」「明王」「天」の階層(筆者は「ソシキ」と書いてます!)があることなど基礎的なことは全て網羅されておりますが、筆者は東京芸大出身ということもあってか、仏像の技法や製法等の解説に重きを置いている感じです。「金銅像」「塑像」のほか、「脱活乾漆造り」「木心乾漆造り」「寄木造り」「割矧ぎ造り」などです。川口澄子さんのイラストもしっかり描かれているので分かりやすいです。

上野・東博「東福寺」展 釈迦如来坐像

 この本で面白かったのは、仏像もその時代、その時代の流行があり、年代によって太ったり、痩せたりしているという史実でした。飛鳥時代の7世紀は、例えば法隆寺の百済観音像に象徴されるように、薄っぺらい痩せ型で、奈良時代の8世紀は少しだけ横に長い楕円形、それが9世紀の平安時代になるとまん丸型となり、平安時代後期の11世紀になると、寄木造りを発明した定朝の影響で、また横にすごく長い楕円形になり、12世紀後半の鎌倉時代となると、今度は縦に少し長い楕円形に変化します。

 恐らく、仏像学者は、仏像の形から何世紀ごろの製作か、推量するんでしょうね。

 もう一つ、仏像を製作した人のことを、日本だけ「仏師」として認知されているようですが、仏像に仏師が自分の名前を台底などに墨で銘記するようになったのは、平安後期から鎌倉時代に活躍した運慶からだと言われているようです。勿論、飛鳥時代の渡来人の子孫である鞍作止利(法隆寺の釈迦三尊像など)や平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を造った定朝といった名前は残っており、特に有名ですが、ほとんどの仏師は知られていないようです。ただし、運慶さん前後になると、名前が明記されていなくても、仏像の耳の形を見れば、製作者が推定されるそうです。耳を見れば、これは運慶作、これは快慶作、これは康慶作とそれぞれ特徴があるので特定できます。

 仏像をお参りしている人の中で、一風変わって、特に耳ばかり見ている人は、仏像学者に間違いない、かもしれません(笑)。

【追記】同月同日

 と、書いたところ、著者の山本勉氏から直々にSNSでツイートがありました!(恐らく正真正銘の御本人だと思われます)

 ご紹介ありがとうございます。子ども向けの文体やカタカナ多用でご不快をあたえたとのこと、申しわけありません。巻末「仏像のひみつ最終顚末」に記したように、もともと子ども向けの展覧会からできあがった本ですので、文体や表記は展覧会でのそれらを継承していることをご理解いただけると光栄です

 吃驚です。小生も返信しました。

 ありま〜すびましぇん! 読まれてしまいました! まさか、ご本人の目に留まるとは想像もしてなかったもので…。でも、ごめんなさい。訂正しません。ゼンコージでは、やはり、子どもも馬鹿にしている感じです。幼い時こそ難しい漢字に親しむべきだという信念を持ってますもので。ただ、並行して読ませて頂いている「運慶✕仏像の旅」は最高です。大人向きのせいか?(笑)引き続き、感想文を書かさせていただきます!

入場料が2カ所で何と50円!=「半蔵門ミュージアム」で大日如来像、「たばこと塩の博物館」で「大田南畝 没後200年」展を鑑賞して来ました

 5月4日のみどりの日。大型連休の真っ最中、何処も異様に混んでいるので、恐らく、ほとんどの御上りさんが行かないと思われる都心の博物館を梯子しました。梯子といっても、「半蔵門ミュージアム」(千代田区)と「たばこと塩の博物館」(墨田区)の2カ所だけですが、いずれも予想が当たって空いておりました。しかも、入場料が前者は無料、後者はシニア料金ながらわずか50円で済みました。それでは申し訳ないので両館のミュージアムショップで書籍を購入してお許しを乞いました。本代は入場料の100倍以上掛かりましたが…(笑)。

半蔵門ミュージアム

 半蔵門ミュージアムは、運慶作と推定される木造大日如来坐像(1193年? 61.6センチ、重要文化財)がお目当てでした。2008年3月に、米ニューヨークで行われたクリスティーズのオークションで、新興宗教団体「真如苑」が約14億円で落札したあの有名な大日如来像です。

 この渓流斎ブログを御愛読して頂いている皆様だけは御承知でしょうが、最近の私は大日如来と密教にハマってしまい、「母を訪ねて三千里」じゃありませんが、大日如来が鎮座する寺院や博物館なら三千里歩いてでも追い求めたい気持ちだったのです(笑)。

 それが、こんな都心の美術館(半蔵門駅からゼロ分!)で、しかも無料で公開されているとは全く知りませんでした。真如苑の大日如来像は、もともと鎌倉初期に足利義兼(母が源義朝の従妹、妻が北条政子の妹)によって今の栃木県足利市に創建された樺崎寺(廃寺)に安置されていたと言われ、どういう経緯でニューヨークのオークションにかけられたのか不明ですが、明治の廃仏毀釈のゴタゴタで、誰か個人の手に渡っていたことでしょう。

 結局、海外に流出せず、日本に戻って、こうして無料で一般公開(2018年から)までしてくださるのですから有難いことです。半蔵門ミュージアムでは目下、「修験と密教の美術」特別展が開催中で、大日如来の化身と言われる不動明王像や両界曼荼羅なども拝観することができました。所蔵品は建物も含めて真如苑のプロパティですが、恐らく信徒の皆様による多額の御布施ということでしょうから、宗教の力を感じざるを得ませんでした。(全く関係ない話ですが、私が浪人時代、大学受験で通っていた東京・大塚の武蔵予備校に行ったら売却されていて、真如苑の施設になっていたので吃驚したことを覚えています。真如苑は1936年、真言宗醍醐寺で得度した伊藤真乗により開かれ、現在世界20カ国で100を超える寺院があり、信徒は100万人=国内90万人=同教団のHPより)

入場料代わり

 真如苑といえば、有名芸能人が多く入信し、華々しい面がありますが、入場しても特にしつこく勧誘されるわけでもなく、信徒ではなくても、必要な人が必要な時にこうして無料でお参りさせて頂くことが出来ます。その点は高く評価したいと思い、ミュージアムショップで販売されていた書籍2冊を購入しました。特に「仏像のひみつ」(朝日出版社)の著者で宗教学者の山本勉氏が、この半蔵門ミュージアムの館長になっておられたので驚いてしまいました。

墨田区「たばこと塩の博物館」

 次に向かったのは、「たばこと塩の博物館」です。地下鉄半蔵門線の「押上」駅が最寄り駅の一つなので、半蔵門から地下鉄1本で行けました。

墨田区「たばこと塩の博物館」

 お目当ては「没後200年 江戸の知の巨星 大田南畝の世界」展です。JTが運営する「たばこと塩の博物館」は昔は渋谷の公園通りにありました。私がまだ20歳代の頃、原宿の岸記念体育会館にあった日本体育協会(体協)の記者クラブに詰めていた頃、昼休みのランチの帰り、仕事を少しさぼって、いやほんの少しだけ休み時間を延長してこの博物館を出入りしたものでした(笑)。博物館の人に聞いたら、渋谷からこの墨田区に移転したのは2015年でもう8年になるそうです。(押上駅から歩13分、錦糸町駅から歩21分ぐらい掛かります)

 押上といえば、東京スカイツリーの最寄り駅ですから、外国人観光客を含めて人が雲霞の如く群がっていましたが、「たばこと塩の博物館」はスカイツリーとは正反対の方向にありますから、人が少なく、むしろ寂しいぐらいでした。

東京スカイツリー(錦糸町駅付近)

 大田南畝については、個人的に、昔から大変気になる人物でしたが、この年になるまでついに勉強が手に回りませんでした。私自身が漢籍の素養がなく、あの文語体の崩し字(古文書)が読めなかったからでした。

 大田南畝は寛延2年(1749年)、御家人とは言いながら将軍警護の御徒役の下級武士として江戸牛込で生まれ(本名覃 =ふかし、通称直次郎)、幼い頃から多くの書籍に親しみ、神童の誉高く、博覧強記の典型みたいな人です。漢詩人・寝惚先生であり、狂歌師・四方赤良(よものあから)であり、戯作者・山手馬鹿人であり、随想家・大田南畝でもあり、号は蜀山人。いわゆるマルチタレントです。交流関係も華々しく、葛飾北斎、鳥文斎栄之、歌川豊国、山東京伝、上田秋成、酒井抱一、木村蒹葭堂、蔦谷重三郎、市川團十郎といった著名人が並びます。

 館内では、大田南畝の「万載狂歌集」「蜀山余禄」「浮世絵類考」などの恐らく貴重な「原本」(写本)が多く展示されておりましたが、残念ながら、こちとらは学がなくて何と書いてあるのか崩し字が読めませんでした。わずか200年前の出版物なのに、本当に情けないですね。

大横川親水公園(東京都墨田区)

 先述した通り、入場料は50円でしたので、またまた申し訳ないので、ミュージアムショップで浜田義一郎著「大田南畝」(吉川弘文館)を購入しました。はい、残された人生、古文書を含めまして、大田南畝先生についても勉強していきます。私自身、正統派よりも異端児を好むタイプで、正統派の短歌よりも、風刺と皮肉と諧謔に富んだ狂歌の方が好きなんですよ(笑)。

 大田南畝の本職は幕臣ですから、真面目に勤めたお蔭で、御徒役やから長崎奉行詰まで出世したりしてます。文政6年(1823年)4月6日に数えの75歳で亡くなりますが、死の三日前まで元気で「妾と芝居見物に行っていた」と年表で見つけて思わず苦笑してしまいました。

 大田南畝の菩提寺は白山の本念寺(日蓮宗)だということで、いつかお参りしたいと存じます。南畝を崇敬する永井荷風も度々お参りしたようです。

上野・東博の特別展「東福寺」と小津監督贔屓の「蓬莱屋」=村議会議員選挙も宜しく御願い申し上げます

 旧い友人のKさんの御令嬢Aさんが今回、福島県の裏磐梯にある北塩原村議会議員選挙に出馬されたことが分かり、吃驚してしまいました。投開票は4月23日(日)です。

 Aさんにとって、北塩原村は、幼少時から小学生まで育ち、その後、同じ福島県の会津若松市に引っ越しましたが、第二の故郷のようなものです。長じてから、北塩原村にある観光温泉ホテルで働いておりましたが、選挙に出るともなると、両立することは会社で禁じられ、仕方がないので、退職して「背水の陣」で今回の選挙活動に臨んでいます。

 2年ほど前、私もその観光ホテルに泊まって、Aさんに会った時、将来大きな夢がある話も聞いておりました。ですから、別に驚くこともないのですが、こんなに早く、実行に移すなんて、まさに「有言実行」の人だなあ、と感心してしまいました。

 政治というと、どうも私なんか、魑魅魍魎が住む伏魔殿の感じがして敬遠してしまいますが、Aさんの場合は全くその正反対で、彼女は、裏表がない真っ直ぐなクリーンな人なので、安心して公職を任せられます。とても社交的な性格なので、友人知人が多く、周囲で支えてくれる人も沢山いるように見えました。最年少の新人候補なので苦戦が予想されますが、是非とも夢を着実に実現してほしいものです。Aさんは、SNSで情報発信してますので、御興味のある方は是非ご覧ください。

上野・東博「東福寺」展

 さて、昨日は所用があったので会社を休み、午前中は時間があったので、上野の東京国立博物館で開催中の特別展「東福寺」を見に行きました(2100円)。当初は、予定に入れていなかったのですが、テレビの「新・美の巨人たち」で、室町時代の絵仏師で東福寺の専属画家として活躍した吉山明兆(きつさん・みんちょう)の傑作「五百羅漢図」(重要文化財、1383~86年)が14年ぶりに修復を終えて公開されると知ったので、「これは是非とも」と勇んで足を運んだわけです。平日なのに結構混んでいました。

上野・東博「東福寺」展

 「五百羅漢図」は明兆が50幅本として製作しましたが、日本に現存するのは東福寺に45幅、根津美術館に2幅のみです。それが、近年、第47号の1幅がロシアのエルミタージュ美術館で見つかったそうです。この絵は、ある羅漢が天空の龍に向かってビーム光線のようなものを当てているのが印象的です。明兆の下絵図(会場で展示)が残っていたお陰で、江戸時代になって狩野孝信が復元し、この作品も現在、重要文化財になって会場で展示されています。何で、この本物がエルミタージュ美術館にあるのかと言いますと、どういう経緯か分かりませんが、もともとベルリンの博物館に収蔵されていたものをドイツ敗戦のどさくさで、ソ連軍が接取したといいます。接取と言えば綺麗ですが、実体は戦利品として分捕ったということでしょう。ウクライナに侵略した今のロシアを見てもやりかねない民族です。

上野・東博「東福寺」展 釈迦如来坐像

 この東福寺展で、私が一番感動したものは、東福寺三門に安置されていた高さ3メートルを超える「二天王立像」(鎌倉時代、重要文化財)でした。作者不詳ながら、慶派かその影響を受けた仏師によるもので、異様な迫力がありました。撮影禁止だったので、このブログには載せられず、撮影オッケーの釈迦如来像を掲載してしまいましたが、「二天王立像」は、運慶を思わせる写実的な荒々しさが如実に表現され、畏敬の念を起こさせます。

 東福寺は、嘉禎2年 (1236年)から建長7年(1255年)にかけて19年を費やして完成した臨済宗の禅寺です。開祖は「聖一(しょういち)国師」円爾弁円(えんに・べんえん)です。34歳で中国・南宋に留学し、無準師範に師事して帰朝し、関白、左大臣を歴任した九条道家の「東大寺と興福寺に匹敵する寺院を」という命で東福寺を創建します。鎌倉幕府の執権北条時頼の時代です。特別展では、円爾、無準、道家らの肖像画や遺偈、古文書等を多く展示していました。

現在の上野公園は、全部、寛永寺の境内だった!

 ミュージアムショップを含めて、80分ほど館内におりましたが、お腹が空いてきたのでランチを取ろうと外に出ました。上野は久しぶりです。当初は、森鴎外もよく通ったという「蓮玉庵」にしようかと思いましたが、結局、東博からちょっと遠いですが、小津安二郎がこよなく愛したトンカツ店「蓬莱屋」に行くことにしました。

上野

 司馬遼太郎賞を受賞した「満洲国グランドホテル」で知られる作家の平山周吉さんの筆名が、小津安二郎監督の「東京物語」に主演した笠智衆の配役名だったことをつい最近知り(東京物語は何十回も見ているので、そう言えば、そうじゃった!)、その作家の方の平山周吉さんが、最近「小津安二郎」というタイトルの本を出版したということで、頭の隅に引っかかっていたのでした。上野に行って、小津と言えば「蓬莱屋」ですからね。

上野「蓬莱屋」「東京物語」定食2900円

 「蓬莱屋」に行くのは7~8年ぶりでしたが、迷わず、行けました。でも、外には何も「メニュー」もありません。「ま、いっか」ということで入ったのですが、前回行った時より、値段が2倍ぐらいになっていたので吃驚です。結局、せっかくなので、ランチの「東京物語」にしました。「商魂逞しいなあ」と思いつつ、流石に美味で、舌鼓を打ちました。上野の「三大とんかつ店」の中で、私自身は蓬莱屋が一番好きです。

 隣りの客が、昼間からビールを注文しておりましたが、私は、ぐっと我慢しました。だって、展覧会を見て、ランチしただけで、併せて5000円也ですからね。昔は5000円もあれば、もっともっと色んなものが買えたのに、お金の価値も下がったもんですよ。

長谷川等伯「楓図」などを堪能しました=「京都・智積院の名宝」展ー東京・六本木のサントリー美術館

 月刊誌「歴史人」(ABCアーク)12月号の読者プレゼントでチケットが当選した「京都・智積院の名宝」展(東京・六本木のサントリー美術館、2023年1月22日まで)に本日、行って参りました。

 未だコロナ禍で、事前予約制なのかどうか、場所は何処なのか、初めて行くところなので色々と調べて行きました。あれっ?そしたら、サントリー美術館には一度行ったことがありました。何の展覧会だったのか?…忘れてしまいましたが、今年だったようです…。うーむ、認知力が大分、衰えてきたようです。寄る年波、仕方ないですね。(ブログの過去記事を調べたら、以前行ったサントリー美術館は、今年5月2日「大英博物館 北斎 国内の肉筆画の名品とともに」展でした。こういう時、ブログは便利です=笑)

 私は土曜日の朝は、よくNHK-FMの「世界の快適音楽セレクション」を聴いております。本日はクリスマスイブということで、特別番組をやってましたが、その中でも面白かったのが、「ゴンチチルーレット」です。ゴンチチというのは、この番組のMCで、ゴンザレス三上(69)とチチ松村(68)の2人のギターデュオというのは皆さん御存知だと思います。これまで26枚ぐらいのCDアルバムをリリースし、収録してきた曲は300曲以上あるといいます。それらの曲をアトランダムにシャッフルして番号が付けられ、番組の中で、彼らがその番号を言って、かかった曲が何という曲か本人たちに当ててもらうという余興でした。300曲以上あると、自分たち本人が演奏していたとしても、確かに忘れてしまうものです。早速、曲がかかると、2人は「覚えてないなあ」「分からないなあ」を連発。中には、自分たちの曲なのに「この曲、知らん」としらを切ったりするので大笑いしてしまいました。

 まあ、そんなもんです。私も自分が過去に書いたブログの記事もすっかり忘れています(笑)。

 評論家小林秀雄も、自分の娘さんから難しい現代国語の問題を聞かれ、「誰が書いたんだ、こんな悪文。酷い文章だ」と吐き捨てたところ、小林秀雄本人の文章だったりしたという逸話も残っています。

 全くレベルが違うとはいえ、私がサントリー美術館のことを忘れたのも、同じ原理と言えるでしょう(笑)。

六本木・サントリー美術館

 さて、やっと、展覧会の話です。

 目玉になっている「国宝 長谷川等伯『楓図』 16世紀 智積院蔵」と「国宝 長谷川久蔵『桜図』 16世紀 智積院蔵」は初めての寺外同時公開らしいのですが、土曜日だというのに結構空いていたお蔭で、ゆっくりと堪能することが出来ました。

 実は、私、狩野永徳よりも長谷川等伯の方が好きなんですが、特に、東京国立博物館蔵の六曲一双の「松林図屏風」(国宝)は、日本美術の頂点だと思っています。水墨画でこれだけのことを表現できる芸術家は他に見当たりません。ワビサビの極致です。勿論、水墨画と言えば、雪舟かもしれません。本人も雪舟の弟子の第五世を自称していたほどですけど、雪舟は完成し過ぎです。等伯は見るものに修行させます。想像力と創造力の駆使が要求されます。脳の中で色々と構成させられます。でも、うまく焦点が合うと、松林図という二次元の世界が立体化し、松の枝が揺れ動き、風の音が聞こえ、風が肌身に当たる感覚さえ覚えるのです。

 今回の等伯の「楓図」は、写実主義の色彩画で抽象性が全くないのですが、その分、力量が狩野永徳に優ることを暗示してくれます。天下人の秀吉から依頼されたようなので、まさに命懸けで描き切った感じがします。

 「桜図」の長谷川久蔵は、等伯の長男ですが、25歳という若さで亡くなっています。父親譲りのこれだけの画の力量の持ち主なので、本当に惜しまれます。

東京「恵比寿ビアホール」 チキンオーバーライス1150円 展覧会を見終わって実家に行く途中で、六本木はあまり好きではなくなったので恵比寿で下車してランチにしました。

  これら国宝含む名宝を出品されたのが京都の智積院です。真言宗智山派の総本山で、末寺が全国に3000もあるそうです。

 京都には何度も行っておりますが、智積院にはまだお参りしたことがありません。会場で飾られたパネル地図を見ると、三十三間堂の近くの七条通りの東山にありました。この地は、もともと、秀吉が、3歳で夭折した子息・鶴松の菩提を弔うために創建した臨済宗の祥雲禅寺があり、等伯らの襖絵もその寺内の客殿にあったものでした。

 祥雲寺はその後、真言宗の中興の祖で新義真言宗の始祖と言われる覚鑁(かくばん、1095~1143)興教大師が創建した紀伊の根来寺に寄進されますが、それは、根来寺が、根来衆と呼ばれる僧兵を使って秀吉方に反旗を翻し、徳川方についたためでした。江戸時代になって大坂の陣で豊臣家が滅び、根来寺の塔頭だった智積院が東山のこの地を譲り受け、現在に至っています。

見逃せません「創立150年記念特別展 国宝」=東京・上野の東京国立博物館

 東京・上野の東京国立博物館で開催中の「創立150年記念特別展 国宝」(12月11日まで)を観に行って参りました。

上野「東京国立博物館」

 未だコロナ禍のため、インターネットで、日時指定の「事前予約」でしか入れないので、申し込みサイトにアクセスしたところ、まず、土日の週末はあっという間に、既に完売、祝日も駄目。平日は、一応仕事に行っているので、仕方がないので、仕事が終わった金曜日の夜に予約し、その通り、行って参りました。(金、土は午後8時まで開館)

 随分、人気あるんですね。メディアはNHKと毎日新聞が主催なんですけど、大衆の情報収集能力は凄いものです(笑)。でも、庶民から言わせていただくと、観覧料一般2000円は高過ぎますよね。どなたかが新聞に投書してましたけど、東京国立博物館が所蔵する国宝を展示するわけですから、作品を運搬する運送料もそれ程かからない。第一、輸送で保険をかけることもない。どうしてそんなに高いのか?といった疑問は、私も同感してしまいました。

 「国宝展」の触れ込みは、「史上初 所蔵する国宝89件を全て展示」と「明治から令和までの東博150年の歩みを追体験」です。まず、前者の「国宝89件」は日本中の博物館の中で最大のコレクションです。(うち19件が刀剣)国宝は全国で1131件ありますが、東博でしか観られないのなら、この機会は逃せません(途中入れ替えあり)。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像

 もう一つの「東博150年」ということは、「鉄道150年」と全く同じ明治5年に歴史が始まったということになります。薩長土肥の新政権が明治維新を起こしてわずか5年で鉄道を新橋~横浜間に敷設したことは驚愕的ですが、同じように、わずか5年で、身分の差がなく一般市民に美術工芸品を公開する「ハコ」をつくるという思想を現実化させたということも感心すべきだと思います。これは、初代館長を務めた元薩摩藩士で、幕末に英国留学して大英博物館などを体験した町田久成の功績が大きかったことでしょうが、町田一人だけでなく、当時の廃仏毀釈令によって仏像や仏具などが破壊されたり、海外に二束三文で売られたりした時代背景もあったかもしれません。同時に、幕末から明治にかけてパリやウイーンなどで開催された万国博覧会をきっかけにジャポニスムがブームになり、全国から日本文化の粋を集める博物館創設が喫緊の課題だったことでしょう。これも、背景には、欧米列強に負けないように、もっと好意的に言えば、欧米列強の植民地にならないよう「富国強兵」の国家主義思想があったかもしれません。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像 12世紀・平安時代

 さて、「国宝展」です。事前にネット予約したのに、「平成館」の入り口付近で雲霞の如く人が並んでいるのには吃驚しました。そして、人が列をつくって並んでいるのに、「優先券」か「スポンサー招待券」でも持っているのか知りませんけど、脇からスイスイ入場する輩が何人も何人もいて、少し腹が立ちました。

 10分ぐらい並んでやっと入場できましたが、会場内も空いているとは言えず、とぐろを巻く程ではありませんでしたが、やっと二列目の遠くから拝見できる程度でした。小生は背が高いので何の苦も感じませんでしたが。

上野「東京国立博物館」 菱川師宣「見返り美人図」11月13日まで展示

 写真を使わせて頂いている「金剛力士立像」と「見返り美人」は撮影オッケーのものですから、盗み撮りしたものではありません(笑)。

 私は東博にはかつて何度も足を運んでおりますので、何点かの「国宝」は何度も拝見しておりますが、改めて感心したのは、法眼円伊筆「一遍聖絵 巻第七」(1299年)(※鎌倉時代なのに、ほとんど劣化せず色彩が鮮やかで描写も緻密でした)と渡辺崋山の「鷹見泉石像」(1837年)(※鷹見泉石は古河藩家老。以前、古河市の城下町址を散策したので懐かしい。渡辺崋山は、冤罪の「蛮社の獄」で切腹。「門下生3000人」と言われた儒者の佐藤一斎も、「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴も崋山を擁護しなかったとドナルド・キーン著「渡辺崋山」に書かれていたことを思い出しました)でした。

 写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」などは重要文化財に指定されていましたが、浮世絵では最も有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が国宝にも重文にも指定されていなかったことは意外でした。

三門とは? 禅宗の名僧とは?=「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集

  外国人観光客の受け入れ制限緩和や全国旅行支援とやらで、銀座の街は、今や、お上りさんと外国人が際立って目立つようになりました。

 今朝の東京の気温は大体16度ぐらいでしたが、どうみても還暦を越えていそうな髭をたくわえたコーカサス系の外国人男性が、半袖のTシャツ一枚という真夏のような恰好で、ニコニコしていたので吃驚しました。こっちは、寒くて、中にベストまで着込んでいましたからね。

◇◇◇

 さて、「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集を読了しました。この手のムックは、判型がA4判に近い大きさなので、電車の中で読むにはちょっと勇気がいります。電車の中で大きな本を広げて読んでいる人は、まず見たことがありません。いるとしたら私ぐらいなものです(笑)。でも、私も分別が付き過ぎたので、家の中で静かに読むことにしたら、結構読むのに時間が掛かってしまいました。

 仏像の見方や、古寺巡礼に関する本はこれまで結構読んできましたが、やはり、奥が深いんですね。このムックで初めて知ることも多かったでした。

 例えば、お寺の本堂に入る前に大抵、三門(山門)がありますが、これは「空」「無相」「無願」の三解脱の象徴だといいます。「空」「無相」「無願」は仏教思想の根幹を成すものですから、もし御存知でなければ御自分で調べられたら良いと思います。

 私自身、自分なりにかなりの古寺名刹をお参りし、基礎的な仏教の知識や宗派や名僧について知っているつもりではありましたが、恥ずかしながら、このムックで私自身、多くのことを教えられました。

 まず、日本で初めて、国産独自の仏教宗派を開いたのは平安末期、法然(1133〜1212年)の浄土宗(1175年)だと思っておりましたが、史実はその半世紀以上前の良忍(1072〜1132年)の融通念佛宗(1124年、総本山=大阪市平野区の大念佛寺)でした。

 名僧については、特に禅宗関係で知らない人が多かったです。(以下、独自に調べたことも敷衍して書いております)

  臨済宗(達磨から6代を経た唐末の宗祖・臨済義玄が開いた)は、鎌倉時代に栄西が中国から持ち帰って開祖となり、京都に建仁寺などを建立したことは知っておりましたが、その後、様々な宗派に分かれて栄西派は衰えていったといいます。その後、室町時代になって、「応燈関」と呼ばれる3人の傑出した禅僧が現れ、復興し、現代までその隆盛がつながっているというのです。

 「応燈関」というのは、大応国師・南浦紹明(なんぽう・じょうみょう=1235~1309年)と大燈国師・宗峰妙超(しゅうほう・みょうちょう=1282~1337年)と無相大師・関山慧玄(かんざん・えげん=1277~1360年)の3人の名僧のことです。

 南浦紹明は、京都の大徳寺を開山した宗峰妙超の師です。その宗峰妙超は、花園上皇から自身の離宮を禅苑にするよう依頼されたのですが、病が重篤で、代わりに高弟の関山慧玄を推薦します。その関山が開山したのが京都の妙心寺です。

 臨済宗は現在15派に分かれており、全国に約6000の寺院がありますが、このうち約3500と半数以上が妙心寺派の寺院が占めるといいます。そして、京都の大本山妙心寺は、臨済宗系では最大規模の寺院だというのです。また、現代の臨済宗は、江戸中期の妙心寺派の白隠慧鶴(はくいん・えかく)の系統に連なるというのです。白隠といば、「禅画家」としてその名を最初に知ってしまったので、「えろうすんまへん」という気持ちです。

 つまり、白隠がいなかったら、今の臨済宗はなかったと言えるかもしれません。いわば中興の祖です。ということは、いくら宗祖や開祖が立派で偉大でも、その後を継ぐ弟子たちが大したことがなければ、その宗派は衰えてしまうということになりますね。

 また、曹洞宗についてですが、道元が中国の宋から持ち帰り宗祖となり、越前に大本山永平寺を開いたことは知っておりましたが、もう一人、大事な名僧がおりました。教団を全国展開した瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん=1268~1325年)です。曹洞宗では道元は「高祖」、瑩山は「太祖」と呼ばれるようです。ですから、曹洞宗の場合、大本山は道元の開いた永平寺のほかに、もう一つ、瑩山が開いた總持寺があるというわけです。總持寺は当初(1321年)、能登(石川県輪島市)に建立されましたが、明治になって横浜市鶴見に移転します。

◇西瓜も蓮根も筍も隠元禅師のお蔭

 明治になって、新政府は廃仏毀釈を断行し、それでも容認した仏教・寺院は「13宗56派」あります。その13宗の中で最後に開宗したのが、江戸初期、1661年の黄檗宗です。こちらも禅宗系で開祖は中国・明から招へいした隠元隆琦(いんげん・りゅうき=1592~1673年)です。大本山萬福寺を京都の宇治に建立します。

 隠元禅師が、インゲン豆を日本にもたらしたことは知っておりましたが、このほかに、スイカやレンコン、タケノコまでもそうだったんですね。また、急須を使った煎茶文化も黄檗宗を通して広まったといいます。

 大変勉強になりました。

ゴヤの「サバサ・ガルシア夫人」がお気に入り=「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」改訂普及版

 

 個人的にやっと自信を回復しつつあります。長いトンネルを抜けた感じです。

 この渓流斎ブログにまつわり、友人関係で悩んでいたのですが、些末な些細なことで、ブログも友人も私の人生のほんの一部だということを悟ることができ、スッと抜ける感じがしました。

このブログをたまに(笑)、読んでくださる都内にお住まいのNさんからは「もう一人の自分をつくられることが必要ではないですか」との助言も頂きました。

 そもそも、私自身、このブログで何か悪事を働いたとでも言うのでしょうか? カルト教団のように高額な寄付を強制したり、面会を強要したりしたわけでもない。自分の意見を述べただけで、言論の自由は憲法が保障してくれます。もっと自信を持っていい、と思い直したのです。

 とにかく落ち込んでいたのですが、その間、ジョン・レノンのアルバム「心の壁、愛の橋」(1974年発表)の中のNobody loves you という曲の歌詞を真面目に聴いて驚いてしまいました。

 Nobody loves you when you’re down and out

Nobody sees you when you’re on cloud nine

 Nobody loves you when you’re old and grey

Nobody needs you when you’re upside down

 と歌っているのです。意訳すれば、こんな感じでしょうか。

 人は、君が有頂天になっている時、関心すら示さないのに

 人は、君が落ち込んでいるのを見ると離れていくんだよ

 誰も、君が年を取って白髪になると露骨に嫌悪し

 君が動転していようものなら、なおさら必要とされないんだよ

 この時、ジョン・レノンは33歳という若造なのに、既に人生を達観しています。まるで、あと7年の生命しか残されていないことを予知しているみたいです。人は、自分の都合で、落ち込んでいる人間や弱者から離れていこうとする性(さが)があることをジョンは、自分の経験から見抜いたのです。

 私は、これまで真面目に、誠実に、律儀に友人たちと付き合ってきたのに、彼らが離れていったのは、彼らのせいであり、自分が誠実過ぎたからだと思うようになりました。

 逆に、これから、グレてやりますよ(笑)。鬼になりますよ。

 さて、この渓流斎ブログで度々、登場して頂いている松岡將氏が、またまた本を出版されました。「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」改訂普及版(同時代社、2022年8月9日初版、1980円)です。

 6月30日に、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」(5280円)の「改訂普及版」(同時代社、2750円)を出されたばかりですので、かなりのハイスピードといいますか、底知れぬバイタリティーです。

 改訂普及版は、原本と中身はほとんど変わっていないので「書き下ろし」とまでは言えませんが、写真はほぼ全部入れ替わっています。これについては、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが方針を変更して、サイト内の作品がパブリック・ドメインと判断されたものは、その「デジタル・イメージ」をダウンロードしても良く、一般利用が可能になったからだというのです。

 ということで、原本では、著者が直々にワシントン・ギャラリーで撮影した額縁付きの写真でしたが、今回はその額縁がなくなったデジタル・イメージに置き換わっております。

 著者も「あとがき」で、「額縁から抜け出してその肖像画そのままになった方が、『人』としての親しみをより強く感じさせられるような気がしてきている」と書かれております。

 また、判型がA4判からA5判と小型化したので、携行しやすくなりました。

 この36人の肖像画のうち、個人的に、再読して、迷いながら、たった1点だけ選んでみましたら、54~55ページ、スペインのフランシスコ・デ・ゴヤ作「サバサ・ガルシア夫人」(1806~11年)に決定しました。

 そしたら、あら吃驚。この本の表紙絵になっておりました。この作品を表紙に選んだ著者と感性が少し似ていたのかもしれませんね(笑)。

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」の「改定普及版」が出ました

 スマホ中毒の私でしたが、FacebookなどのSNSを控えたお蔭で、中毒から立ち直りつつあります(笑)。

 要するに、ご贔屓筋からの「いいね!」などが気になり、電車の中でも、歩いていても、寝ても醒めてもスマホをいじっている悪循環が続いていたようです。いい年をして、「餓鬼かあ~?」と叫びたくなります。

 アプリの「サウンド」も「表示」もオフにしましたので、何の通知も来なくなり、気にならなくなりました。これが本来の姿だと思えば良いのです。

銀座・イタリアン「エッセンス」Aランチ(コーヒー)1100円

 思い返せば、私が初めてパソコンを買ってインターネットを始めたのは1995年のことでした。当時は、まだダイヤル式接続で、ブラウザはネットスケープナビゲーターを使い、動画は夢のまた夢で、画像が1分ぐらいかけて出て来ると大喜びでした。メールなんかも1週間に1回チェックする程度でした。牧歌的時代でしたねえ。

 今では車内を見回すと、90%の人がスマホと睨めっこしている時代になりました。スマホ中毒から解放されると、やはり、最先端の人類があんなものに振り回されて気の毒に見えるようになりました。

 さて、昨日、拙宅に版元から本が届きました。著者は、皆様御存知の松岡將氏でした。「えっ?また新刊出されたの?」と吃驚したら、表紙は見たことがありました。2年前に出された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」(5280円)の「改定普及版」(同時代社、2022年6月30日初版、2750円)でした。

 2年で普及版を出されるとは、よっぽど評判で版を重ねていたのでしょう。確かに、「アングルのバイオリン」ながら、著者の写真撮影技術はプロ級でした。

 2年前の底本と今回の改定普及版と何処が違うのかと言いますと、まず大きさです。底本は大型のA4判のハードカバーでしたが、普及版は持ち運びも出来るソフトカバーのA5判です。

 中身のギャラリーの絵画の写真も、底本では額縁付きが多かったのですが、今回は額縁なしの画像です。これは、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの方針変更で、作品の中で、「パブリック・ドメイン」と明示されていたら、その作品の当該画像をダウンロードして一般利用が可能になったからだといいます。(著者の「あとがき」より)

 確かに、美術作品の場合、著作権はかなり厳しいです。個人が撮影した絵画の画像でも、新聞記事や出版物に掲載する際には著作権料が発生します。特に、MやPやFはうるさいことは、昔、美術記者だった私も経験上知っています(苦笑)。

 でも、ワシントン・ナショナル・ギャラリーがこうして「方針」を変更してくれたお蔭で、掲載写真がスッキリした感じになりました。

 恐らく、私自身はこの先、ギャラリーのある米ワシントンDCに行く機会が巡って来ないと思われますので、ワシントンに行ったつもりになって、この本を読みながら脳内で館内を散策しようと思っています。

 ついでに、スマホ中毒からも脱却するとしますか。

六本木で葛飾北斎展を見て、神谷町で想い出に浸る

 連休の合間、5月2日は月曜日で、本来ならお仕事なのですが、有休を取得して東京・六本木のサントリー美術館まで足を運び、「大英博物館 北斎 ―国内の肉筆画の名品とともに―」展(1700円也)を観に行って来ました。

東京ミッドタウン(六本木)ガレリア

 平日だから空いているんだろう、という考えは甘かった。結構、暇人が多く、入るのだけでも長い行列で15分ぐらい待たされ、会場では展示物をそんなに間近に観たいのか、これまた、整然と一列になっての大行列です。私は公称180センチと背が高いし、後ろからでも十分観られるので、そんな律儀な日本人の列の後ろから、自分のペースで気に入ったものだけゆっくり眺めることにしたので、少しだけストレスが緩和されました。

東京ミッドタウン(六本木)

 当初は、出掛けるつもりは全くなかったのですが、テレビの歴史番組で葛飾北斎(1760~1849年)特集を見たら、急に、目下開催中の展覧会に行きたくなってしまったのです。

 番組では、勝川春朗をはじめ、北斎、宗理、為一(いいつ)、画狂老人、卍など30数回も画号を変え(弟子に売ったり、タダであげたりしたとか)、90年の生涯で何と93回も引っ越しした、といった逸話をやってました。引っ越しが多かったのは、掃除が嫌いで、今で言う「ゴミ屋敷」状態になってしまったので逃げるように引っ越ししたようです。

為朝図 葛飾北斎 一幅 江戸時代 文化8年(1811) 大英博物館 1881,1210,0.1747 © The Trustees of the British Museum(撮影:渓流斎)

 絵手本を3900点以上掲載した「北斎漫画」を出版したのは55歳の時。代表作の「冨嶽三十六景」のシリーズを書き始めたのが72歳というのですから驚きです。(数え年)

 晩年は、信州・小布施の豪商高井鴻山の招きで、江戸から240キロの道程を4度も通い、「男浪図」「女浪図」や「八方睨み鳳凰図」(岩松院蔵)などを完成しています。1849年、浅草の遍照院の仮住まいで、数えで90歳で亡くなりますが(墓所は元浅草の誓教寺)、直前に「あと5年長生き出来たら本物の画工になれただろう」と叫んだという、飽くことがない探求心は有名です。

 番組ではやっていませんでしたが、これだけの大天才なのに北斎の出自ははっきりしていません。江戸・本所割下水で川村某(職業不詳)の子として生まれたと言われ、幼名を時太郎、後年鉄蔵と改め。4、5歳の頃、一時、幕府御用鏡師中島伊勢の養子となったといわれます。詳細は不明ですが、本名は中島鉄蔵さんということでしょうか。天賦の才能があったとはいえ、かなりの稀に見る努力家だったのでしょう。

 実は、これでも、私自身は、「太田浮世絵美術館」や「すみだ北斎美術館」の常設展をはじめ、各地で開催された「北斎展」にはかなり足を運び、北斎の作品はかなり観ている方だと思っていました。今回のサントリー美術館での北斎展は大英博物館所蔵品ということでしたので、それほど期待していなかったのですが、開けてみたら吃驚ですよ。日本国内所蔵の作品より、量質とも遥かに充実していて、海外が日本を凌駕しているのです。これは、北斎作品の膨大なコレクターだった外科医ウィリアム・アンダーソン(William Anderson、1842~1900年)や小説家アーサー・モリソン(Arthur Morrison、1863~1945年)らとジャポニスムの流行のお蔭です。

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎 横大判錦絵 江戸時代 天保元~4年(1830~33)頃 大英博物館 2008,3008.1.JA © The Trustees of the British Museum 肉眼で見えるはずがない5000分の1秒の速さでシャッターを切った時に見える画像だそうです。やはり、北斎は天才だ!(撮影:渓流斎)

 さすが、ゴッホやマネ、モネらフランスの印象派の画家たちに多大な影響を与えたジャポニスムを代表する「世界の北斎」だけあります。少し大袈裟かもしれませんが、北斎は、ダビンチやミケランジェロらと肩を並べるのではないでしょうか。

 この北斎展は、確かに一見の価値があります。特に、北斎は風景画で有名ですが、「花鳥」作品には目を見張るものがありました。何故なら、花と鳥に限って、北斎は、伊藤若冲のように「細密画」のように描いているからです。

 人物画となると、役者絵ではなくて風景画の中に登場する人物は、細密画ではなく、目と鼻と口だけで省略したようにあっさり描いています。「どうしてなのかなあ?」と思いながら私は観察していました。この花鳥画と人物画の違いー。人物はいい加減に描くのに、花鳥は綿密に描くのは何故か?ーもしかしたら、これは、北斎の研究家でさえ今まで気が付かなかった私の新説かもしれない、とニヤニヤしながら観ておりました(笑)。

東京・六本木 brassrie “Va-tout”  魚ランチ1200円

 さて、広い東京ミッドタウン内のサントリー美術館(そう言えば、初訪問かな?赤坂のサントリー美術館は何度も行きましたが)を出て、目指すはランチです。既に、六本木駅近くの「シシリア」に決めておりました。あの森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」(朝日新書)に出ていた「四角いピザ」と「きゅうりのグリーンサラダ」を食べるためです。

 そしたら、アッジャパー、本日は青天なりではなく、本日は閉店なりでした。

 仕方がないので、当てもなく、東京タワーが前方に見える道(319号線)を真っすぐ10分近く歩いたら、ブラッスリーが見つかり、そこでランチすることにしました。仕方ない、なんて言っちゃ駄目でしたね。白身魚のソテーでしたが、写真の通り、銀座並みの価格で、量が少なくて参りました(苦笑)。店員さんは凄く感じ良かったですけど。

今最も日本で注目されている東京・狸穴の在日ロシア大使館

 店を出て、そのまま、真っ直ぐ、東京タワー方面を歩いて行ったら、警察官の数が多くなり、何事かと思ったら、今現在、日本では最も注目されている狸穴の在日ロシア大使館がありました。ここに出たんですね。

在日ロシア大使館前は、数人のデモと物々しい警戒

 ロシア大使館や、その向かいの外務省外交史料館には何度か取材で来たことがあるので、場所は知ってました。六本木駅からだと20分ぐらいでしょうか。私は、この辺りまでは、いつも神谷町駅から歩いてきたので、飯坂交差点を左折して神谷町に向かいました。

 そう、神谷町は私にとって、とても感慨深い場所なのです。もう半世紀近い昔、学生時代に付き合っていた彼女が住んでいたので、よく遊びに行き、お金がないので、この近くの東京タワーの芝公園でよくデートしたものでした。

 神谷町は、彼女の祖母の家で、千葉県に両親ら家族と住んでいた彼女は、都内の大学に通うため、おばあちゃんの家に下宿していたのでした。おばあちゃんの趣味は詩吟でよくうなっていました。

実に懐かしい東京・日比谷線「神谷町駅」

 もう時効の話なので、神谷町に来たついでに、その彼女のおばあちゃんの家を探してみました。この辺りはもう昔の面影はなく、すっかり変わってしまいました。再開発されて高層マンションやビルが立ち並ぶようになりました。駅から5、6分だったので忘れるわけないのですが、いくら探しても見当たりませんでした。恐らく、現在、高層ビルを建築中のあの辺りがそうだったかもしれません。

 半世紀近く年月が経てば仕方ないでしょう。淡い青春時代の思い出が蘇ってきました。でも、あまり後ろ向きだと駄目ですね。北斎先生を見習って、もう少し頑張りますか。何しろ、「富嶽三十六景」は、70歳代初めの傑作なんですから!

大発見!!長三洲 真筆の極秘文書か?=宮さんお手柄ー「なんでも鑑定団」出演のお薦め

 皆さん御存知の宮さんから私に無理難題を押し付けて来られました(笑)。御尊父の遺品である厚手の和紙に書かれた文書を読み解いてほしい、と仰るのです。

 「読めない字も多く、歴史に弱い私では何も分かりません。渓流斎さんならどんな内容が書かれているか読み解いてくれるのではないかと、勝手ながらお問い合わせすることにしました。取り敢えず、文字を読み解いて文書内容を教えていただければありがたいです。古文書鑑定家になったつもりでご対応してください。(他の人に相談も可)忙しいのに変なお願いでご迷惑かと思います、無視していただいても構いません。」

 確かに私は歴史好きではありますが、残念ながら漢籍の素養はありません。「古文書鑑定家になったつもり」と言われても、荷が重過ぎますよお(苦笑)。

 でも、見てみると、上の写真の通り、大変達筆で、読みやすい。意味も全く分からないことでもない。最初の「明治十年之役」とは、西南戦争のことでしょう。続いて警視兵の中から選抜して「抜刀隊」と称する百人の部隊を編成して、西郷隆盛軍と戦ったのか? 一段落目の最後と末尾に出てくる「靖国祠」とは「靖国神社」のことでしょう。恐らく、抜刀隊の戦死者を靖国神社にお祀りした、という内容ではないか?(秀才の友人に目下、解読を依頼しております)

 それにしても、明治末か大正生まれの宮さんの御尊父が明治10年の西南戦争で戦っていたことはあり得ず、少なくともご祖父か、曽祖父が書かれた文書なのでしょう。それで、プライバシーながら、宮さんの御尊父のことやこの文書の入手経路などを伺ってみました。

 そしたら、この文書は、大分県出身のご祖父が生前、大分の古物商で手に入れたものを息子である宮さんの御尊父ら兄弟に形見分けされていたものの一対だった、ということが分かりました。

 となると、この作者は一体誰なのでしょう?

 よく見ると、最後に「三洲長炗」と署名が書かれています。えっ!?もしかして、もしかして、長三洲(1833~1895)のこと? 長三洲といえば、高野長英大村益次郎と並ぶ広瀬淡窓(1782~1856年)の愛弟子です。

 そこで調べて見たら吃驚。長三洲の本名は長炗(ちょう・ひかる)、三洲と号していたのです。天保4年(1833年)、豊後国(大分県)日田郡馬原村の儒家、長梅外の第三子として生まれたということですから、彼の書が大分県内の古物商に流れ、宮さんのご祖父が購入したということは辻褄が合います。

 これは本物ではないか??

 長三洲は幕末、尊王攘夷の志士となり、戊辰戦争では参謀として戦い、長州の桂小五郎の知遇を得て、維新後、木戸孝允となった桂小五郎の引きで、新政府に出仕しています。

 広瀬淡窓の門下ですから漢詩人としての名声は高く、明治になって、「漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉」と言われたのです。

 しかも、長三洲の門下生には伊藤博文、山縣有朋ら元勲をはじめ、信じられないくらい多くの逸才を輩出しているのです。

 これは凄いお宝じゃ、あーりませんか!「無理難題を押し付られた」なんて言ってすみませんでした。大変なお宝が宮さんのお蔵に眠っていたのですね。

作者不明 どなたか分かりますか?

 もう一つ、宮さんの御尊父の遺品の中に、別にご祖父から受け継がれた作者不明の水墨画もありました。うーん、この作者は誰なんでしょう?

 そこで、「テレビの『なんでも鑑定団』に出演されたら如何ですか?長三洲なら高額が出るかもしれませんし、恥をかくことはありませんよ」と薦めてみました。すると、御返事は「そ、そ、そ、そこまでやるつもりはありません。」とのこと。

 いやいや、駄目ですよ、宮さん。しっかり,、真贋を鑑定してもらい、内容も解読してもらい、その価値を確かめる手段はそれしかありませんよ!

和紙裏面文字

 もしかして、テレビ東京か、制作プロダクションのネクサスの関係者がこの記事をお読みくださって、宮さんにアプローチするかもしれません。

  「漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉」なんて、まさにテレビ向きのキャッチフレーズで、「絵」になるじゃありませんか(笑)。

 宮さん、勇気を出して! 私も大いに期待しております。

【追記】

 ネット情報ですが、長三洲は、「明治書家の第一人者で、水墨画や篆刻の腕前も一流」だったとありました。もしかしたら、例の作者不明の水墨画も長三洲作の可能性がありますね。