長谷川等伯「楓図」などを堪能しました=「京都・智積院の名宝」展ー東京・六本木のサントリー美術館

 月刊誌「歴史人」(ABCアーク)12月号の読者プレゼントでチケットが当選した「京都・智積院の名宝」展(東京・六本木のサントリー美術館、2023年1月22日まで)に本日、行って参りました。

 未だコロナ禍で、事前予約制なのかどうか、場所は何処なのか、初めて行くところなので色々と調べて行きました。あれっ?そしたら、サントリー美術館には一度行ったことがありました。何の展覧会だったのか?…忘れてしまいましたが、今年だったようです…。うーむ、認知力が大分、衰えてきたようです。寄る年波、仕方ないですね。(ブログの過去記事を調べたら、以前行ったサントリー美術館は、今年5月2日「大英博物館 北斎 国内の肉筆画の名品とともに」展でした。こういう時、ブログは便利です=笑)

 私は土曜日の朝は、よくNHK-FMの「世界の快適音楽セレクション」を聴いております。本日はクリスマスイブということで、特別番組をやってましたが、その中でも面白かったのが、「ゴンチチルーレット」です。ゴンチチというのは、この番組のMCで、ゴンザレス三上(69)とチチ松村(68)の2人のギターデュオというのは皆さん御存知だと思います。これまで26枚ぐらいのCDアルバムをリリースし、収録してきた曲は300曲以上あるといいます。それらの曲をアトランダムにシャッフルして番号が付けられ、番組の中で、彼らがその番号を言って、かかった曲が何という曲か本人たちに当ててもらうという余興でした。300曲以上あると、自分たち本人が演奏していたとしても、確かに忘れてしまうものです。早速、曲がかかると、2人は「覚えてないなあ」「分からないなあ」を連発。中には、自分たちの曲なのに「この曲、知らん」としらを切ったりするので大笑いしてしまいました。

 まあ、そんなもんです。私も自分が過去に書いたブログの記事もすっかり忘れています(笑)。

 評論家小林秀雄も、自分の娘さんから難しい現代国語の問題を聞かれ、「誰が書いたんだ、こんな悪文。酷い文章だ」と吐き捨てたところ、小林秀雄本人の文章だったりしたという逸話も残っています。

 全くレベルが違うとはいえ、私がサントリー美術館のことを忘れたのも、同じ原理と言えるでしょう(笑)。

六本木・サントリー美術館

 さて、やっと、展覧会の話です。

 目玉になっている「国宝 長谷川等伯『楓図』 16世紀 智積院蔵」と「国宝 長谷川久蔵『桜図』 16世紀 智積院蔵」は初めての寺外同時公開らしいのですが、土曜日だというのに結構空いていたお蔭で、ゆっくりと堪能することが出来ました。

 実は、私、狩野永徳よりも長谷川等伯の方が好きなんですが、特に、東京国立博物館蔵の六曲一双の「松林図屏風」(国宝)は、日本美術の頂点だと思っています。水墨画でこれだけのことを表現できる芸術家は他に見当たりません。ワビサビの極致です。勿論、水墨画と言えば、雪舟かもしれません。本人も雪舟の弟子の第五世を自称していたほどですけど、雪舟は完成し過ぎです。等伯は見るものに修行させます。想像力と創造力の駆使が要求されます。脳の中で色々と構成させられます。でも、うまく焦点が合うと、松林図という二次元の世界が立体化し、松の枝が揺れ動き、風の音が聞こえ、風が肌身に当たる感覚さえ覚えるのです。

 今回の等伯の「楓図」は、写実主義の色彩画で抽象性が全くないのですが、その分、力量が狩野永徳に優ることを暗示してくれます。天下人の秀吉から依頼されたようなので、まさに命懸けで描き切った感じがします。

 「桜図」の長谷川久蔵は、等伯の長男ですが、25歳という若さで亡くなっています。父親譲りのこれだけの画の力量の持ち主なので、本当に惜しまれます。

東京「恵比寿ビアホール」 チキンオーバーライス1150円 展覧会を見終わって実家に行く途中で、六本木はあまり好きではなくなったので恵比寿で下車してランチにしました。

  これら国宝含む名宝を出品されたのが京都の智積院です。真言宗智山派の総本山で、末寺が全国に3000もあるそうです。

 京都には何度も行っておりますが、智積院にはまだお参りしたことがありません。会場で飾られたパネル地図を見ると、三十三間堂の近くの七条通りの東山にありました。この地は、もともと、秀吉が、3歳で夭折した子息・鶴松の菩提を弔うために創建した臨済宗の祥雲禅寺があり、等伯らの襖絵もその寺内の客殿にあったものでした。

 祥雲寺はその後、真言宗の中興の祖で新義真言宗の始祖と言われる覚鑁(かくばん、1095~1143)興教大師が創建した紀伊の根来寺に寄進されますが、それは、根来寺が、根来衆と呼ばれる僧兵を使って秀吉方に反旗を翻し、徳川方についたためでした。江戸時代になって大坂の陣で豊臣家が滅び、根来寺の塔頭だった智積院が東山のこの地を譲り受け、現在に至っています。

見逃せません「創立150年記念特別展 国宝」=東京・上野の東京国立博物館

 東京・上野の東京国立博物館で開催中の「創立150年記念特別展 国宝」(12月11日まで)を観に行って参りました。

上野「東京国立博物館」

 未だコロナ禍のため、インターネットで、日時指定の「事前予約」でしか入れないので、申し込みサイトにアクセスしたところ、まず、土日の週末はあっという間に、既に完売、祝日も駄目。平日は、一応仕事に行っているので、仕方がないので、仕事が終わった金曜日の夜に予約し、その通り、行って参りました。(金、土は午後8時まで開館)

 随分、人気あるんですね。メディアはNHKと毎日新聞が主催なんですけど、大衆の情報収集能力は凄いものです(笑)。でも、庶民から言わせていただくと、観覧料一般2000円は高過ぎますよね。どなたかが新聞に投書してましたけど、東京国立博物館が所蔵する国宝を展示するわけですから、作品を運搬する運送料もそれ程かからない。第一、輸送で保険をかけることもない。どうしてそんなに高いのか?といった疑問は、私も同感してしまいました。

 「国宝展」の触れ込みは、「史上初 所蔵する国宝89件を全て展示」と「明治から令和までの東博150年の歩みを追体験」です。まず、前者の「国宝89件」は日本中の博物館の中で最大のコレクションです。(うち19件が刀剣)国宝は全国で1131件ありますが、東博でしか観られないのなら、この機会は逃せません(途中入れ替えあり)。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像

 もう一つの「東博150年」ということは、「鉄道150年」と全く同じ明治5年に歴史が始まったということになります。薩長土肥の新政権が明治維新を起こしてわずか5年で鉄道を新橋~横浜間に敷設したことは驚愕的ですが、同じように、わずか5年で、身分の差がなく一般市民に美術工芸品を公開する「ハコ」をつくるという思想を現実化させたということも感心すべきだと思います。これは、初代館長を務めた元薩摩藩士で、幕末に英国留学して大英博物館などを体験した町田久成の功績が大きかったことでしょうが、町田一人だけでなく、当時の廃仏毀釈令によって仏像や仏具などが破壊されたり、海外に二束三文で売られたりした時代背景もあったかもしれません。同時に、幕末から明治にかけてパリやウイーンなどで開催された万国博覧会をきっかけにジャポニスムがブームになり、全国から日本文化の粋を集める博物館創設が喫緊の課題だったことでしょう。これも、背景には、欧米列強に負けないように、もっと好意的に言えば、欧米列強の植民地にならないよう「富国強兵」の国家主義思想があったかもしれません。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像 12世紀・平安時代

 さて、「国宝展」です。事前にネット予約したのに、「平成館」の入り口付近で雲霞の如く人が並んでいるのには吃驚しました。そして、人が列をつくって並んでいるのに、「優先券」か「スポンサー招待券」でも持っているのか知りませんけど、脇からスイスイ入場する輩が何人も何人もいて、少し腹が立ちました。

 10分ぐらい並んでやっと入場できましたが、会場内も空いているとは言えず、とぐろを巻く程ではありませんでしたが、やっと二列目の遠くから拝見できる程度でした。小生は背が高いので何の苦も感じませんでしたが。

上野「東京国立博物館」 菱川師宣「見返り美人図」11月13日まで展示

 写真を使わせて頂いている「金剛力士立像」と「見返り美人」は撮影オッケーのものですから、盗み撮りしたものではありません(笑)。

 私は東博にはかつて何度も足を運んでおりますので、何点かの「国宝」は何度も拝見しておりますが、改めて感心したのは、法眼円伊筆「一遍聖絵 巻第七」(1299年)(※鎌倉時代なのに、ほとんど劣化せず色彩が鮮やかで描写も緻密でした)と渡辺崋山の「鷹見泉石像」(1837年)(※鷹見泉石は古河藩家老。以前、古河市の城下町址を散策したので懐かしい。渡辺崋山は、冤罪の「蛮社の獄」で切腹。「門下生3000人」と言われた儒者の佐藤一斎も、「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴も崋山を擁護しなかったとドナルド・キーン著「渡辺崋山」に書かれていたことを思い出しました)でした。

 写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」などは重要文化財に指定されていましたが、浮世絵では最も有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が国宝にも重文にも指定されていなかったことは意外でした。

三門とは? 禅宗の名僧とは?=「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集

  外国人観光客の受け入れ制限緩和や全国旅行支援とやらで、銀座の街は、今や、お上りさんと外国人が際立って目立つようになりました。

 今朝の東京の気温は大体16度ぐらいでしたが、どうみても還暦を越えていそうな髭をたくわえたコーカサス系の外国人男性が、半袖のTシャツ一枚という真夏のような恰好で、ニコニコしていたので吃驚しました。こっちは、寒くて、中にベストまで着込んでいましたからね。

◇◇◇

 さて、「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集を読了しました。この手のムックは、判型がA4判に近い大きさなので、電車の中で読むにはちょっと勇気がいります。電車の中で大きな本を広げて読んでいる人は、まず見たことがありません。いるとしたら私ぐらいなものです(笑)。でも、私も分別が付き過ぎたので、家の中で静かに読むことにしたら、結構読むのに時間が掛かってしまいました。

 仏像の見方や、古寺巡礼に関する本はこれまで結構読んできましたが、やはり、奥が深いんですね。このムックで初めて知ることも多かったでした。

 例えば、お寺の本堂に入る前に大抵、三門(山門)がありますが、これは「空」「無相」「無願」の三解脱の象徴だといいます。「空」「無相」「無願」は仏教思想の根幹を成すものですから、もし御存知でなければ御自分で調べられたら良いと思います。

 私自身、自分なりにかなりの古寺名刹をお参りし、基礎的な仏教の知識や宗派や名僧について知っているつもりではありましたが、恥ずかしながら、このムックで私自身、多くのことを教えられました。

 まず、日本で初めて、国産独自の仏教宗派を開いたのは平安末期、法然(1133〜1212年)の浄土宗(1175年)だと思っておりましたが、史実はその半世紀以上前の良忍(1072〜1132年)の融通念佛宗(1124年、総本山=大阪市平野区の大念佛寺)でした。

 名僧については、特に禅宗関係で知らない人が多かったです。(以下、独自に調べたことも敷衍して書いております)

  臨済宗(達磨から6代を経た唐末の宗祖・臨済義玄が開いた)は、鎌倉時代に栄西が中国から持ち帰って開祖となり、京都に建仁寺などを建立したことは知っておりましたが、その後、様々な宗派に分かれて栄西派は衰えていったといいます。その後、室町時代になって、「応燈関」と呼ばれる3人の傑出した禅僧が現れ、復興し、現代までその隆盛がつながっているというのです。

 「応燈関」というのは、大応国師・南浦紹明(なんぽう・じょうみょう=1235~1309年)と大燈国師・宗峰妙超(しゅうほう・みょうちょう=1282~1337年)と無相大師・関山慧玄(かんざん・えげん=1277~1360年)の3人の名僧のことです。

 南浦紹明は、京都の大徳寺を開山した宗峰妙超の師です。その宗峰妙超は、花園上皇から自身の離宮を禅苑にするよう依頼されたのですが、病が重篤で、代わりに高弟の関山慧玄を推薦します。その関山が開山したのが京都の妙心寺です。

 臨済宗は現在15派に分かれており、全国に約6000の寺院がありますが、このうち約3500と半数以上が妙心寺派の寺院が占めるといいます。そして、京都の大本山妙心寺は、臨済宗系では最大規模の寺院だというのです。また、現代の臨済宗は、江戸中期の妙心寺派の白隠慧鶴(はくいん・えかく)の系統に連なるというのです。白隠といば、「禅画家」としてその名を最初に知ってしまったので、「えろうすんまへん」という気持ちです。

 つまり、白隠がいなかったら、今の臨済宗はなかったと言えるかもしれません。いわば中興の祖です。ということは、いくら宗祖や開祖が立派で偉大でも、その後を継ぐ弟子たちが大したことがなければ、その宗派は衰えてしまうということになりますね。

 また、曹洞宗についてですが、道元が中国の宋から持ち帰り宗祖となり、越前に大本山永平寺を開いたことは知っておりましたが、もう一人、大事な名僧がおりました。教団を全国展開した瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん=1268~1325年)です。曹洞宗では道元は「高祖」、瑩山は「太祖」と呼ばれるようです。ですから、曹洞宗の場合、大本山は道元の開いた永平寺のほかに、もう一つ、瑩山が開いた總持寺があるというわけです。總持寺は当初(1321年)、能登(石川県輪島市)に建立されましたが、明治になって横浜市鶴見に移転します。

◇西瓜も蓮根も筍も隠元禅師のお蔭

 明治になって、新政府は廃仏毀釈を断行し、それでも容認した仏教・寺院は「13宗56派」あります。その13宗の中で最後に開宗したのが、江戸初期、1661年の黄檗宗です。こちらも禅宗系で開祖は中国・明から招へいした隠元隆琦(いんげん・りゅうき=1592~1673年)です。大本山萬福寺を京都の宇治に建立します。

 隠元禅師が、インゲン豆を日本にもたらしたことは知っておりましたが、このほかに、スイカやレンコン、タケノコまでもそうだったんですね。また、急須を使った煎茶文化も黄檗宗を通して広まったといいます。

 大変勉強になりました。

ゴヤの「サバサ・ガルシア夫人」がお気に入り=「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」改訂普及版

 

 個人的にやっと自信を回復しつつあります。長いトンネルを抜けた感じです。

 この渓流斎ブログにまつわり、友人関係で悩んでいたのですが、些末な些細なことで、ブログも友人も私の人生のほんの一部だということを悟ることができ、スッと抜ける感じがしました。

このブログをたまに(笑)、読んでくださる都内にお住まいのNさんからは「もう一人の自分をつくられることが必要ではないですか」との助言も頂きました。

 そもそも、私自身、このブログで何か悪事を働いたとでも言うのでしょうか? カルト教団のように高額な寄付を強制したり、面会を強要したりしたわけでもない。自分の意見を述べただけで、言論の自由は憲法が保障してくれます。もっと自信を持っていい、と思い直したのです。

 とにかく落ち込んでいたのですが、その間、ジョン・レノンのアルバム「心の壁、愛の橋」(1974年発表)の中のNobody loves you という曲の歌詞を真面目に聴いて驚いてしまいました。

 Nobody loves you when you’re down and out

Nobody sees you when you’re on cloud nine

 Nobody loves you when you’re old and grey

Nobody needs you when you’re upside down

 と歌っているのです。意訳すれば、こんな感じでしょうか。

 人は、君が有頂天になっている時、関心すら示さないのに

 人は、君が落ち込んでいるのを見ると離れていくんだよ

 誰も、君が年を取って白髪になると露骨に嫌悪し

 君が動転していようものなら、なおさら必要とされないんだよ

 この時、ジョン・レノンは33歳という若造なのに、既に人生を達観しています。まるで、あと7年の生命しか残されていないことを予知しているみたいです。人は、自分の都合で、落ち込んでいる人間や弱者から離れていこうとする性(さが)があることをジョンは、自分の経験から見抜いたのです。

 私は、これまで真面目に、誠実に、律儀に友人たちと付き合ってきたのに、彼らが離れていったのは、彼らのせいであり、自分が誠実過ぎたからだと思うようになりました。

 逆に、これから、グレてやりますよ(笑)。鬼になりますよ。

 さて、この渓流斎ブログで度々、登場して頂いている松岡將氏が、またまた本を出版されました。「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」改訂普及版(同時代社、2022年8月9日初版、1980円)です。

 6月30日に、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」(5280円)の「改訂普及版」(同時代社、2750円)を出されたばかりですので、かなりのハイスピードといいますか、底知れぬバイタリティーです。

 改訂普及版は、原本と中身はほとんど変わっていないので「書き下ろし」とまでは言えませんが、写真はほぼ全部入れ替わっています。これについては、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが方針を変更して、サイト内の作品がパブリック・ドメインと判断されたものは、その「デジタル・イメージ」をダウンロードしても良く、一般利用が可能になったからだというのです。

 ということで、原本では、著者が直々にワシントン・ギャラリーで撮影した額縁付きの写真でしたが、今回はその額縁がなくなったデジタル・イメージに置き換わっております。

 著者も「あとがき」で、「額縁から抜け出してその肖像画そのままになった方が、『人』としての親しみをより強く感じさせられるような気がしてきている」と書かれております。

 また、判型がA4判からA5判と小型化したので、携行しやすくなりました。

 この36人の肖像画のうち、個人的に、再読して、迷いながら、たった1点だけ選んでみましたら、54~55ページ、スペインのフランシスコ・デ・ゴヤ作「サバサ・ガルシア夫人」(1806~11年)に決定しました。

 そしたら、あら吃驚。この本の表紙絵になっておりました。この作品を表紙に選んだ著者と感性が少し似ていたのかもしれませんね(笑)。

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」の「改定普及版」が出ました

 スマホ中毒の私でしたが、FacebookなどのSNSを控えたお蔭で、中毒から立ち直りつつあります(笑)。

 要するに、ご贔屓筋からの「いいね!」などが気になり、電車の中でも、歩いていても、寝ても醒めてもスマホをいじっている悪循環が続いていたようです。いい年をして、「餓鬼かあ~?」と叫びたくなります。

 アプリの「サウンド」も「表示」もオフにしましたので、何の通知も来なくなり、気にならなくなりました。これが本来の姿だと思えば良いのです。

銀座・イタリアン「エッセンス」Aランチ(コーヒー)1100円

 思い返せば、私が初めてパソコンを買ってインターネットを始めたのは1995年のことでした。当時は、まだダイヤル式接続で、ブラウザはネットスケープナビゲーターを使い、動画は夢のまた夢で、画像が1分ぐらいかけて出て来ると大喜びでした。メールなんかも1週間に1回チェックする程度でした。牧歌的時代でしたねえ。

 今では車内を見回すと、90%の人がスマホと睨めっこしている時代になりました。スマホ中毒から解放されると、やはり、最先端の人類があんなものに振り回されて気の毒に見えるようになりました。

 さて、昨日、拙宅に版元から本が届きました。著者は、皆様御存知の松岡將氏でした。「えっ?また新刊出されたの?」と吃驚したら、表紙は見たことがありました。2年前に出された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」(5280円)の「改定普及版」(同時代社、2022年6月30日初版、2750円)でした。

 2年で普及版を出されるとは、よっぽど評判で版を重ねていたのでしょう。確かに、「アングルのバイオリン」ながら、著者の写真撮影技術はプロ級でした。

 2年前の底本と今回の改定普及版と何処が違うのかと言いますと、まず大きさです。底本は大型のA4判のハードカバーでしたが、普及版は持ち運びも出来るソフトカバーのA5判です。

 中身のギャラリーの絵画の写真も、底本では額縁付きが多かったのですが、今回は額縁なしの画像です。これは、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの方針変更で、作品の中で、「パブリック・ドメイン」と明示されていたら、その作品の当該画像をダウンロードして一般利用が可能になったからだといいます。(著者の「あとがき」より)

 確かに、美術作品の場合、著作権はかなり厳しいです。個人が撮影した絵画の画像でも、新聞記事や出版物に掲載する際には著作権料が発生します。特に、MやPやFはうるさいことは、昔、美術記者だった私も経験上知っています(苦笑)。

 でも、ワシントン・ナショナル・ギャラリーがこうして「方針」を変更してくれたお蔭で、掲載写真がスッキリした感じになりました。

 恐らく、私自身はこの先、ギャラリーのある米ワシントンDCに行く機会が巡って来ないと思われますので、ワシントンに行ったつもりになって、この本を読みながら脳内で館内を散策しようと思っています。

 ついでに、スマホ中毒からも脱却するとしますか。

六本木で葛飾北斎展を見て、神谷町で想い出に浸る

 連休の合間、5月2日は月曜日で、本来ならお仕事なのですが、有休を取得して東京・六本木のサントリー美術館まで足を運び、「大英博物館 北斎 ―国内の肉筆画の名品とともに―」展(1700円也)を観に行って来ました。

東京ミッドタウン(六本木)ガレリア

 平日だから空いているんだろう、という考えは甘かった。結構、暇人が多く、入るのだけでも長い行列で15分ぐらい待たされ、会場では展示物をそんなに間近に観たいのか、これまた、整然と一列になっての大行列です。私は公称180センチと背が高いし、後ろからでも十分観られるので、そんな律儀な日本人の列の後ろから、自分のペースで気に入ったものだけゆっくり眺めることにしたので、少しだけストレスが緩和されました。

東京ミッドタウン(六本木)

 当初は、出掛けるつもりは全くなかったのですが、テレビの歴史番組で葛飾北斎(1760~1849年)特集を見たら、急に、目下開催中の展覧会に行きたくなってしまったのです。

 番組では、勝川春朗をはじめ、北斎、宗理、為一(いいつ)、画狂老人、卍など30数回も画号を変え(弟子に売ったり、タダであげたりしたとか)、90年の生涯で何と93回も引っ越しした、といった逸話をやってました。引っ越しが多かったのは、掃除が嫌いで、今で言う「ゴミ屋敷」状態になってしまったので逃げるように引っ越ししたようです。

為朝図 葛飾北斎 一幅 江戸時代 文化8年(1811) 大英博物館 1881,1210,0.1747 © The Trustees of the British Museum(撮影:渓流斎)

 絵手本を3900点以上掲載した「北斎漫画」を出版したのは55歳の時。代表作の「冨嶽三十六景」のシリーズを書き始めたのが72歳というのですから驚きです。(数え年)

 晩年は、信州・小布施の豪商高井鴻山の招きで、江戸から240キロの道程を4度も通い、「男浪図」「女浪図」や「八方睨み鳳凰図」(岩松院蔵)などを完成しています。1849年、浅草の遍照院の仮住まいで、数えで90歳で亡くなりますが(墓所は元浅草の誓教寺)、直前に「あと5年長生き出来たら本物の画工になれただろう」と叫んだという、飽くことがない探求心は有名です。

 番組ではやっていませんでしたが、これだけの大天才なのに北斎の出自ははっきりしていません。江戸・本所割下水で川村某(職業不詳)の子として生まれたと言われ、幼名を時太郎、後年鉄蔵と改め。4、5歳の頃、一時、幕府御用鏡師中島伊勢の養子となったといわれます。詳細は不明ですが、本名は中島鉄蔵さんということでしょうか。天賦の才能があったとはいえ、かなりの稀に見る努力家だったのでしょう。

 実は、これでも、私自身は、「太田浮世絵美術館」や「すみだ北斎美術館」の常設展をはじめ、各地で開催された「北斎展」にはかなり足を運び、北斎の作品はかなり観ている方だと思っていました。今回のサントリー美術館での北斎展は大英博物館所蔵品ということでしたので、それほど期待していなかったのですが、開けてみたら吃驚ですよ。日本国内所蔵の作品より、量質とも遥かに充実していて、海外が日本を凌駕しているのです。これは、北斎作品の膨大なコレクターだった外科医ウィリアム・アンダーソン(William Anderson、1842~1900年)や小説家アーサー・モリソン(Arthur Morrison、1863~1945年)らとジャポニスムの流行のお蔭です。

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎 横大判錦絵 江戸時代 天保元~4年(1830~33)頃 大英博物館 2008,3008.1.JA © The Trustees of the British Museum 肉眼で見えるはずがない5000分の1秒の速さでシャッターを切った時に見える画像だそうです。やはり、北斎は天才だ!(撮影:渓流斎)

 さすが、ゴッホやマネ、モネらフランスの印象派の画家たちに多大な影響を与えたジャポニスムを代表する「世界の北斎」だけあります。少し大袈裟かもしれませんが、北斎は、ダビンチやミケランジェロらと肩を並べるのではないでしょうか。

 この北斎展は、確かに一見の価値があります。特に、北斎は風景画で有名ですが、「花鳥」作品には目を見張るものがありました。何故なら、花と鳥に限って、北斎は、伊藤若冲のように「細密画」のように描いているからです。

 人物画となると、役者絵ではなくて風景画の中に登場する人物は、細密画ではなく、目と鼻と口だけで省略したようにあっさり描いています。「どうしてなのかなあ?」と思いながら私は観察していました。この花鳥画と人物画の違いー。人物はいい加減に描くのに、花鳥は綿密に描くのは何故か?ーもしかしたら、これは、北斎の研究家でさえ今まで気が付かなかった私の新説かもしれない、とニヤニヤしながら観ておりました(笑)。

東京・六本木 brassrie “Va-tout”  魚ランチ1200円

 さて、広い東京ミッドタウン内のサントリー美術館(そう言えば、初訪問かな?赤坂のサントリー美術館は何度も行きましたが)を出て、目指すはランチです。既に、六本木駅近くの「シシリア」に決めておりました。あの森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」(朝日新書)に出ていた「四角いピザ」と「きゅうりのグリーンサラダ」を食べるためです。

 そしたら、アッジャパー、本日は青天なりではなく、本日は閉店なりでした。

 仕方がないので、当てもなく、東京タワーが前方に見える道(319号線)を真っすぐ10分近く歩いたら、ブラッスリーが見つかり、そこでランチすることにしました。仕方ない、なんて言っちゃ駄目でしたね。白身魚のソテーでしたが、写真の通り、銀座並みの価格で、量が少なくて参りました(苦笑)。店員さんは凄く感じ良かったですけど。

今最も日本で注目されている東京・狸穴の在日ロシア大使館

 店を出て、そのまま、真っ直ぐ、東京タワー方面を歩いて行ったら、警察官の数が多くなり、何事かと思ったら、今現在、日本では最も注目されている狸穴の在日ロシア大使館がありました。ここに出たんですね。

在日ロシア大使館前は、数人のデモと物々しい警戒

 ロシア大使館や、その向かいの外務省外交史料館には何度か取材で来たことがあるので、場所は知ってました。六本木駅からだと20分ぐらいでしょうか。私は、この辺りまでは、いつも神谷町駅から歩いてきたので、飯坂交差点を左折して神谷町に向かいました。

 そう、神谷町は私にとって、とても感慨深い場所なのです。もう半世紀近い昔、学生時代に付き合っていた彼女が住んでいたので、よく遊びに行き、お金がないので、この近くの東京タワーの芝公園でよくデートしたものでした。

 神谷町は、彼女の祖母の家で、千葉県に両親ら家族と住んでいた彼女は、都内の大学に通うため、おばあちゃんの家に下宿していたのでした。おばあちゃんの趣味は詩吟でよくうなっていました。

実に懐かしい東京・日比谷線「神谷町駅」

 もう時効の話なので、神谷町に来たついでに、その彼女のおばあちゃんの家を探してみました。この辺りはもう昔の面影はなく、すっかり変わってしまいました。再開発されて高層マンションやビルが立ち並ぶようになりました。駅から5、6分だったので忘れるわけないのですが、いくら探しても見当たりませんでした。恐らく、現在、高層ビルを建築中のあの辺りがそうだったかもしれません。

 半世紀近く年月が経てば仕方ないでしょう。淡い青春時代の思い出が蘇ってきました。でも、あまり後ろ向きだと駄目ですね。北斎先生を見習って、もう少し頑張りますか。何しろ、「富嶽三十六景」は、70歳代初めの傑作なんですから!

大発見!!長三洲 真筆の極秘文書か?=宮さんお手柄ー「なんでも鑑定団」出演のお薦め

 皆さん御存知の宮さんから私に無理難題を押し付けて来られました(笑)。御尊父の遺品である厚手の和紙に書かれた文書を読み解いてほしい、と仰るのです。

 「読めない字も多く、歴史に弱い私では何も分かりません。渓流斎さんならどんな内容が書かれているか読み解いてくれるのではないかと、勝手ながらお問い合わせすることにしました。取り敢えず、文字を読み解いて文書内容を教えていただければありがたいです。古文書鑑定家になったつもりでご対応してください。(他の人に相談も可)忙しいのに変なお願いでご迷惑かと思います、無視していただいても構いません。」

 確かに私は歴史好きではありますが、残念ながら漢籍の素養はありません。「古文書鑑定家になったつもり」と言われても、荷が重過ぎますよお(苦笑)。

 でも、見てみると、上の写真の通り、大変達筆で、読みやすい。意味も全く分からないことでもない。最初の「明治十年之役」とは、西南戦争のことでしょう。続いて警視兵の中から選抜して「抜刀隊」と称する百人の部隊を編成して、西郷隆盛軍と戦ったのか? 一段落目の最後と末尾に出てくる「靖国祠」とは「靖国神社」のことでしょう。恐らく、抜刀隊の戦死者を靖国神社にお祀りした、という内容ではないか?(秀才の友人に目下、解読を依頼しております)

 それにしても、明治末か大正生まれの宮さんの御尊父が明治10年の西南戦争で戦っていたことはあり得ず、少なくともご祖父か、曽祖父が書かれた文書なのでしょう。それで、プライバシーながら、宮さんの御尊父のことやこの文書の入手経路などを伺ってみました。

 そしたら、この文書は、大分県出身のご祖父が生前、大分の古物商で手に入れたものを息子である宮さんの御尊父ら兄弟に形見分けされていたものの一対だった、ということが分かりました。

 となると、この作者は一体誰なのでしょう?

 よく見ると、最後に「三洲長炗」と署名が書かれています。えっ!?もしかして、もしかして、長三洲(1833~1895)のこと? 長三洲といえば、高野長英大村益次郎と並ぶ広瀬淡窓(1782~1856年)の愛弟子です。

 そこで調べて見たら吃驚。長三洲の本名は長炗(ちょう・ひかる)、三洲と号していたのです。天保4年(1833年)、豊後国(大分県)日田郡馬原村の儒家、長梅外の第三子として生まれたということですから、彼の書が大分県内の古物商に流れ、宮さんのご祖父が購入したということは辻褄が合います。

 これは本物ではないか??

 長三洲は幕末、尊王攘夷の志士となり、戊辰戦争では参謀として戦い、長州の桂小五郎の知遇を得て、維新後、木戸孝允となった桂小五郎の引きで、新政府に出仕しています。

 広瀬淡窓の門下ですから漢詩人としての名声は高く、明治になって、「漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉」と言われたのです。

 しかも、長三洲の門下生には伊藤博文、山縣有朋ら元勲をはじめ、信じられないくらい多くの逸才を輩出しているのです。

 これは凄いお宝じゃ、あーりませんか!「無理難題を押し付られた」なんて言ってすみませんでした。大変なお宝が宮さんのお蔵に眠っていたのですね。

作者不明 どなたか分かりますか?

 もう一つ、宮さんの御尊父の遺品の中に、別にご祖父から受け継がれた作者不明の水墨画もありました。うーん、この作者は誰なんでしょう?

 そこで、「テレビの『なんでも鑑定団』に出演されたら如何ですか?長三洲なら高額が出るかもしれませんし、恥をかくことはありませんよ」と薦めてみました。すると、御返事は「そ、そ、そ、そこまでやるつもりはありません。」とのこと。

 いやいや、駄目ですよ、宮さん。しっかり,、真贋を鑑定してもらい、内容も解読してもらい、その価値を確かめる手段はそれしかありませんよ!

和紙裏面文字

 もしかして、テレビ東京か、制作プロダクションのネクサスの関係者がこの記事をお読みくださって、宮さんにアプローチするかもしれません。

  「漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉」なんて、まさにテレビ向きのキャッチフレーズで、「絵」になるじゃありませんか(笑)。

 宮さん、勇気を出して! 私も大いに期待しております。

【追記】

 ネット情報ですが、長三洲は、「明治書家の第一人者で、水墨画や篆刻の腕前も一流」だったとありました。もしかしたら、例の作者不明の水墨画も長三洲作の可能性がありますね。

これからも新発掘が出る可能性も=「ポンペイ特別展」

 私は「有言実行」の人ですから、東京・上野の国立博物館で開催中の「ポンペイ特別展」を観に行って来ました。

 実は、単なる「便乗商法」に洗脳されただけですけどね(笑)。私自身、既にイタリア旅行した際にナポリ郊外にあるポンペイの遺跡を訪れたことがあるので、行こうか、どうしようか、迷っていたのでした。

上野・東博「ポンペイ特別展」

 紀元79年、ヴェスヴィオ山の噴火で、一瞬にして火山灰で埋没してしまったローマ帝国の古代都市ポンペイ。約1万人の市民が暮らしていたと言われ、1784年になって再発見され、今でも発掘作業が続いているといいます。まるで密封されていたかのように当時使われていた生活必需品からモザイク画、それに剣闘士場などまでそのまま出て来たのです。  

 私がポンペイの遺跡で印象的だったのは、子どもから大人まで火山灰で丸焦げになってしまったのか、多くの人が当時の姿勢のまま固まったように亡くなり、後で復元されたのか、石膏の形で展示されていたことでした。今回も数点だけ展示されていました。

上野・東博「ポンペイ特別展」女性頭部形オイノコエ(ヴェスヴィオ山周辺地域)

  私が小学校4年生か5年生だった頃に、「ポンペイ最後の日」という子ども向けの挿絵の多く入った本を読んだことがあり、子どもの頃からずっと気になっていて、長じてから遺跡訪問につながりました。

 で、今回の特別展ですが、行ってよかったです。正直、一般2100円は少し高いかなあと思いましたが、それだけの価値はありました。現地で見なかったものや、知らなかったことも多く、かなり収穫がありました。21世紀ですから、それなりにCGなどを多用した「見せ方」が工夫されておりました。

上野・東博「ポンペイ特別展」

 何と言っても、私の知識として欠けていたことは、ヴェスヴィオ山で埋没したのは南部のポンペイだけではなく、その北部にあったソンマ・ヴェスヴィアーナや西部のエルコラーノなどの古代都市も同じように埋もれてしまっていたという事実です。特にエルコラーノは、日本の東京大学も発掘チームとして参加しているらしいのですが、まだ、全体の4分の1しか調査が進んでいないというのです。発掘は細かい手作業ですからね。

 ということは、これからまだまだ「新事実」が発見される可能性があるわけです。

上野・東博「ポンペイ特別展」「アレクサンドロス大王のモザイク」(ファウヌスの家)

 今展で私が最も注目したのは、ポンペイで最大の敷地を誇った超お金持ちの貴族らしきファウヌス家の談話室に敷き詰められていたモザイク画「アレクサンドロス大王のモザイク」です。本物は現在修復中なので、レプリカとスクリーンでの再現でしたが、それでも大きさが分かって十分に満足でした。

 このモザイク画は、今回展示されている際に「アレクサンドロス大王のモザイク」という名称でしかなっていませんが、私が大学受験の際にボロボロになるまで使った世界史の副読本である「世界史地図」の表紙だったので飽きるほど見ていました。その図版の説明は「アレキサンダー大王とペルシアのダリウス3世とのイッソスの戦い」(紀元前333年)だったことを今でもはっきり覚えています。今の教科書では、アレキサンダー大王ではなく、アレクサンドロス大王と教えているんでしょうか。

 世界史の副読本の表紙絵がポンペイ遺跡からの発掘品だったことを知ったのは、もう何十年も昔ですが、ますますポンペイに憧れたものでした。

上野・東博「ポンペイ特別展」食卓のヘラクレス(ポッターロ地区別荘)

 いずれにせよ、ポンペイはローマ帝国に征服される前は、ギリシャのヘレニズム文化に色濃く影響を受けていたといいます。

 ですから、ギリシャ神話に登場する神々の彫刻がふんだんに出土しています。

上野・東博「ポンペイ特別展」エウマキア像(毛織物組合フォルム)

 それにしても、これだけ高度の文化と技術を誇ったポンペイが埋没したのは、西暦79年のことです。日本でいえば、まだ弥生時代です。神話を除けば、倭王権も登場していない時代です。いまだに所在地も実体もよく分かっていない邪馬台国の卑弥呼でさえ、「魏志倭人伝」に出てくるのが西暦239年頃ですからね。

 弥生時代で農耕が始まったとはいえ、日本人の多くは、まだ洞穴に住み、裸同然で木の実を取ったり、イノシシと戦ったりしていたのかもしれません。

 そんな時、海の向こうのローマ帝国ではこれだけ高い文明を築いていたわけですから、何処か日本史の世界が随分チマチマしたもののようにに見えてしまいます。

上野・東博「ポンペイ特別展」ネコとカモ(ファウヌスの家) こんな細密な絵を描いていたとは!

 まあ、そんなことを言っても始まらないですかあ(笑)。あくまでも、私は、我が祖国日本を愛していますからそれでいいんですよ。

 ローマ帝国さんにはあっさりと負けを認め、2000年経ったら、日本の国力を見せつけて、ポンペイ遺跡の出土品を展示した博覧会を開かせてもらえれば、それで十分で御座います。

東京・上野「グリーンパーク」冬季限定ハンバーガー1400円、グラスワイン700円

 ところで、コロナ禍の影響で、展覧会はネットによる予約制で切符を購入しました。お蔭で、それほど混まずにゆっくりと観ることができました。

 会場の国立博物館平成館は、2012年1月~2月に開催された中国・北宋の「清明上河図」展は大行列で、寒い中、2時間近くも外で待たされた経験があります。

 パンデミック終息後もこの予約制を続けてくれたら有難いです。国家権力を保持されている皆様、どうか宜しくご検討ください。

幸運にも多くの秘仏さまとお会いできました=「最澄と天台宗のすべて」

 東京・上野の東京国立博物館・平成館で開催中の「最澄と天台宗のすべて」に行って参りました。何しろ、「天台宗のすべて」ですからね。訳あって、会場を二巡してじっくりと拝観致しました。

 この展覧会は「事前予約制」で、私もネットで入場券を購入しました。一般2100円とちょっと高めでしたが、「伝教大師1200年大遠忌」ということで、大変素晴らしい企画展でした。

比叡山延暦寺 根本中堂内部(模擬)

 そんな素晴らしい展覧会なのに、読売新聞社主催ですから、読売を読んでいる方はその「存在」は分かっていたでしょうが、他の新聞を読んでいる方は知らなかったかもしれません。例えば、朝日新聞の美術展紹介欄には掲載していないほど意地悪の念の入れようですから、朝日の読者の中にはこの展覧会のことを知らない方もいるかもしれません。

 私は色々とアンテナを張ってますから大丈夫でした(笑)。先日このブログで御紹介した「歴史人」11月号「日本の仏像 基本のき」でもこの展覧会のことが紹介されていたので、しっかり予習して行きました。(展覧会では、最澄と徳一との「三一権実(さんいちごんじつ)論争」が出て来なかったので残念でした)

◇ 深大寺の国宝「釈迦如来倚像」と御対面

 大収穫だったのは、東京・深大寺所蔵の国宝「釈迦如来倚像」(7世紀後半の白鳳時代)を御拝顔できたことです。何と言っても「東日本最古の国宝仏」ですからね。いつか行くつもりでしたが、向こうから直々こちらにお会いに来てくださった感じです。倚像(いぞう)というのは椅子か何かにお座りになっている姿ですから、特に珍しいのです。日本では古代、その習慣がなかったので、坐像は多くても、倚像は廃れたという話です。

 深大寺には、もう半世紀も昔の高校生か大学生の頃に、何度か参拝に訪れたことがあるのですが、不勉強で、奈良時代の733年に創建され、平安時代の859年に天台宗別格本山となった寺院で、正式名称を「浮岳山 昌楽院 深大寺」だということまで知りませんでした。この寺には先程の国宝釈迦如来倚像のほかに、2メートル近い「慈恵大師(良源)坐像」があり、それも展示されていたので度肝を抜かれました。これは、日本最大の肖像彫刻で、江戸時代以来、205年ぶりの出開帳だというのです。まさに秘仏の中の秘仏です。「展覧会史上初出展」と主催者が胸を張るだけはあります。私もこんな奇跡に巡り合えたことを感謝したい気持ちになりました。

 秘仏と言えば、この「最澄と天台宗のすべて」展では他にも沢山の秘仏に接することができました。兵庫・能福寺蔵の重文「十一面観音菩薩立像」(平安時代、10世紀)、東京・寛永寺蔵の重文「薬師如来立像」(平安時代、9~10世紀)、滋賀・伊崎寺蔵の重文「不動明王坐像」(平安時代、10世紀)などです。

 この中で、私が何度も戻って来て、御拝顔奉ったのが、京都・真正極楽寺(真如堂)蔵の重文「阿弥陀如来立像」(平安時代、10世紀)でした。高僧・慈覚大師円仁の作と言われます。阿弥陀如来といえば、坐像が多いのですが、これは立像で、その立像の中では現存最古とされています。こんな穏やかな表情の阿弥陀さまは、私が今まで拝顔した阿弥陀如来像の中でも一番と言っていいぐらい落ち着いておられました。年に1日だけ開帳という秘仏で、しかも寺外初公開の仏像をこんなに間近に何度も御拝顔できるとは有頂天になってしまいました。(売っていた絵葉書の写真と実物とでは全くと言っていいくらい違うので、絵葉書は買いませんでした)

比叡山延暦寺 根本中堂内部(模擬)

 最澄(767~822年)は、平等思想を説いた「法華経」の教義を礎とする天台宗を開き、誰でも悟りを開くことができるという一乗思想を唱えましたが、比叡山に開いた延暦寺は仏教の総合大学と言ってもよく、後にここで学んだ法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗(以上浄土教系)、栄西は臨済宗、道元は曹洞宗(以上禅宗)、日蓮は日蓮宗(法華経系)を開いたので、多彩な人材を輩出していると言えます。

 先程の阿弥陀如来立像を作成した円仁(山門派の祖)は、下野国(今の栃木県)の人で、「入唐求法巡礼行記」などの著書があり、唐の長安に留学し、師の最澄が果たせなかった密教を体得して天台密教(台密)を大成し、天台第三代座主にもなりました。一方、阿弥陀如来像を作成されたように、浄土教も広めた高僧でもあるので、天台宗というのは、懐が広い何でもありの寛容的な仏教のような気がしました。(その代わり、千日回峰があるように修行が一番厳しい宗派かもしれません)

 そもそも、天台宗そのものは、中国の南北朝から随にかけての高僧智顗(ちぎ)が大成した宗派ですから、中国仏教と言えます。もっとも、中国仏教はその後の廃仏毀釈で消滅に近い形で衰退してしまったので、辛うじて、日本が優等生として命脈を保ったと言えます。

 伝教大師最澄も、渡来人三津首(みつのおびと)氏の出身で出家前の幼名は広野と言いましたから、日本の仏教は今の日本人が大好きな言葉であるダイバーシティに富んでいるとも言えます。

上野でランチをしようとしたら、目当ての店は午後1時を過ぎたというのにどこも満員で行列。そこで、西川口まで行き、駅近の中国料理「天下鮮」へ。西川口は今や、神戸や横浜を越える中華街と言われ、それを確かめに行きました。

 最初に「訳あって、会場を二巡した」と書いたのは、会場の案内人の勝手な判断によって「第2会場」から先に見させられたためでした。第2会場を入ると、最澄の「さ」の字も出て来ず、いきなり「比叡山焼き討ち」辺りから始まったので、最初から推理小説の「犯人」を教えられた感じでした。時系列の意味で歴史の流れが分からなくなってしまったので、「第1会場」を見た後、もう一度「第2会場」を閲覧したのでした。

 そのお蔭で、円仁作の「阿弥陀如来立像」を再度、御拝顔することができたわけです。

JR西川口駅近の中国料理「天下鮮」の定番の蘭州ラーメン880円。やはり、本場の味でした。お客さんも中国人ばかりで、中国語が飛び交い、ここが日本だとはとても思えませんでした。西川口にはかたまってはいませんが、50軒ぐらいの「本場」の中華料理店があるといいます。その理由は、書くスペースがなくなりました。残念

 なお、私がさんざん書いた円仁作の阿弥陀如来立像は11月3日で展示期間が終了してしまったようです。となると、是非とも、京都・真正極楽寺(真如堂)まで足をお運びください。ただし、秘仏ですので、年に1度の公開日をお確かめになってくださいね。

 あ、その前に、この展覧会は来年5月22日まで、福岡と京都を巡回するので、そこで「追っかけ」でお会いできるかもしれません。

 円仁作の阿弥陀如来立像は、一生に一度は御対面する価値があります、と私は断言させて頂きます。

民藝運動に対する疑念を晴らしてくれるか?=小鹿田焼が欲しくなり

 東京・竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」(2022年2月13日まで)を観に行って参りました。観覧料一般1800円のところ、新橋の安チケット屋さんで期間限定券ながら半額以下のわずか790円で手に入りました(笑)。

 民藝運動の指導者柳宗悦先生(1889~1961年)の本職は、宗教哲学者だと思うのですが、私自身は、その著書「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を数年前に読んで初めてその偉大さが分かった遅咲きの学徒だといっていいかもしれません。

銀座・民芸品店「たくみ」

 でも、私自身は、若い時から「民藝」には大変興味を持っていて、その代表的陶芸家である濱田庄司も河井寛次郎も大好きです。東京・駒場の「日本民藝館」にも訪れたことがあります。7月には、民藝の作品を販売する「銀座 たくみ」に行ったりしたぐらいですから。

 とはいえ、最近では、少し、民藝に関しては疑惑に近い疑念を持つようになりました。今では民藝はすっかりブランド化したせいなのか、例えば、銀座の「たくみ」で販売されている作品などは庶民には手が届かない高価なものが多かったでした。本来、民藝とは貧しい田舎の農家の殖産興業のために、伝統を失いかけていた陶芸を復活させたり、貧農の鋤や鍬など農作業具にさえ「日本の美」を見つけたり、無名の職人に工芸品作成を依頼したりした庶民的な運動だとばかり思っていたからです。

 古い言い方ですが、これでは、民藝とはプチブルか、ブルジョワ向きではないかと思った次第です。ただ、これは単に自分が誤解していただけなのかもしれませんが。

 なぜなら、柳宗悦自身は学習院出身のブルジョワ階級(父楢吉は、津藩下級武士出身で、海軍軍人、最終軍歴は少将)です。国内全域だけでなく、中国、朝鮮、欧州にまで取材旅行し、よくこれだけ国宝級の作品をコレクション出来たものだと感心します。ただ、その財源は一体何処から来たものかと不思議に思っておりましたが、この展覧会を見て、彼は稀代のプロデューサーだったからではないかと睨んでいます。

 恐らく、柳宗悦が日本で初めて「メディアミックス」を考え出したのではないかと思います。本人は、雑誌「工藝」等の発行や膨大な著作を量産して出版活動に勤しみ、毎日新聞などと連携して広報宣伝活動し、三越や高島屋など百貨店と提携して販売活動まで促進するといった具合です。

 いわば、民藝のブランド化、権威付けに成功したのではないでしょうか。

東京国立近美の近くには江戸城の石垣が残っていて感動で打ち震えます

 不勉強のため、この展覧会で初めて知ったのは、柳宗悦の弟子である吉田璋也(1898~1972年)という人物です。この人は鳥取市出身の耳鼻科医で、師匠以上に民藝運動に邁進した人でした。地元鳥取市に「民藝館」を建て、作品を販売する「たくみ」を併設し、おまけに民藝の陶磁器やお椀やインテリアの中で食事ができる「たくみ割烹店」まで開いたりしたのです。

 また、鳥取砂丘の天然記念物指定の保護運動の先頭に立ったのが、この人だったというのです。他に、民藝作品のデザインをしたり、著述もしたり、医者をしながら、マルチなタレントを発揮した人でした。

東京国立近美の真向かいが毎日新聞東京本社(パレスサイドビル)。地下鉄東西線「竹橋」駅とつながっています

 「民藝の100年」と銘打っている展覧会なので、民藝運動とは何だったのか、再考できる機会になると思います。私は、民藝とは富裕層向けではないかと思いましたが、他の人は違う考えを持つことでしょう。でも、私は古い人間なので、こういう調度品に囲まれると心が落ち着き、欲しくなります。

 見終わって、ミュージアムショップを覗いてみましたが、結局、2600円の図録は迷った末、買いませんでした。他にも買いたいものがあったのですが、やはり、我慢して買いませんでした。

ちょうど昼時で、毎日新聞社地下の「とんかつ まるや」(特ロース定食1000円)でランチ

 でも、家に帰って、それを買わずに帰ったことを無性に後悔してしまいました。「それ」とは、大分県日田の小鹿田焼(おんたやき)です。1600年頃に朝鮮から連れてこられた陶工によって開窯された小石原焼(福岡)の兄弟窯だそうですが、近年、寂れていたものを柳宗悦とバーナード・リーチらによって再評価されて復活した焼き物で、今では民藝の代表的作品です。

 特に「飛び鉋」(とびかんな)と呼ばれる伝統技法の模様の皿が魅惑的で、この皿に盛った食べ物は何でも旨くなるだろうなあ、と感じる代物です。五寸皿が一枚2200円とちょっと高め。「ああ、あの時買えばよかった」と後悔してしまったので、結局、通販で買うことに致しました。注文して手元に届くまで1カ月以上掛かるということで、届いたら、皆様にお披露目しましょう(笑)。

【追記】

 柳宗悦のパトロンは、京都の何とかというパン屋さんだということを以前、京洛先生に聞いたことがありますが、どなただったか忘れてしまいました。柳宗悦は関東大震災で被災して京都に疎開移住したことがあるので、その時に知り合ったのかもしれません。

 同時に柳宗悦が「民藝」と言う言葉を生み出したのは、京都時代で、この時初めて、柳は濱田庄司から河井寛次郎を紹介されます。その前に柳は河井寛次郎の作品を批判していたので、河井は柳になかなか会おうとしなかったという逸話もあります。