六本木で葛飾北斎展を見て、神谷町で想い出に浸る

 連休の合間、5月2日は月曜日で、本来ならお仕事なのですが、有休を取得して東京・六本木のサントリー美術館まで足を運び、「大英博物館 北斎 ―国内の肉筆画の名品とともに―」展(1700円也)を観に行って来ました。

東京ミッドタウン(六本木)ガレリア

 平日だから空いているんだろう、という考えは甘かった。結構、暇人が多く、入るのだけでも長い行列で15分ぐらい待たされ、会場では展示物をそんなに間近に観たいのか、これまた、整然と一列になっての大行列です。私は公称180センチと背が高いし、後ろからでも十分観られるので、そんな律儀な日本人の列の後ろから、自分のペースで気に入ったものだけゆっくり眺めることにしたので、少しだけストレスが緩和されました。

東京ミッドタウン(六本木)

 当初は、出掛けるつもりは全くなかったのですが、テレビの歴史番組で葛飾北斎(1760~1849年)特集を見たら、急に、目下開催中の展覧会に行きたくなってしまったのです。

 番組では、勝川春朗をはじめ、北斎、宗理、為一(いいつ)、画狂老人、卍など30数回も画号を変え(弟子に売ったり、タダであげたりしたとか)、90年の生涯で何と93回も引っ越しした、といった逸話をやってました。引っ越しが多かったのは、掃除が嫌いで、今で言う「ゴミ屋敷」状態になってしまったので逃げるように引っ越ししたようです。

為朝図 葛飾北斎 一幅 江戸時代 文化8年(1811) 大英博物館 1881,1210,0.1747 © The Trustees of the British Museum(撮影:渓流斎)

 絵手本を3900点以上掲載した「北斎漫画」を出版したのは55歳の時。代表作の「冨嶽三十六景」のシリーズを書き始めたのが72歳というのですから驚きです。(数え年)

 晩年は、信州・小布施の豪商高井鴻山の招きで、江戸から240キロの道程を4度も通い、「男浪図」「女浪図」や「八方睨み鳳凰図」(岩松院蔵)などを完成しています。1849年、浅草の遍照院の仮住まいで、数えで90歳で亡くなりますが(墓所は元浅草の誓教寺)、直前に「あと5年長生き出来たら本物の画工になれただろう」と叫んだという、飽くことがない探求心は有名です。

 番組ではやっていませんでしたが、これだけの大天才なのに北斎の出自ははっきりしていません。江戸・本所割下水で川村某(職業不詳)の子として生まれたと言われ、幼名を時太郎、後年鉄蔵と改め。4、5歳の頃、一時、幕府御用鏡師中島伊勢の養子となったといわれます。詳細は不明ですが、本名は中島鉄蔵さんということでしょうか。天賦の才能があったとはいえ、かなりの稀に見る努力家だったのでしょう。

 実は、これでも、私自身は、「太田浮世絵美術館」や「すみだ北斎美術館」の常設展をはじめ、各地で開催された「北斎展」にはかなり足を運び、北斎の作品はかなり観ている方だと思っていました。今回のサントリー美術館での北斎展は大英博物館所蔵品ということでしたので、それほど期待していなかったのですが、開けてみたら吃驚ですよ。日本国内所蔵の作品より、量質とも遥かに充実していて、海外が日本を凌駕しているのです。これは、北斎作品の膨大なコレクターだった外科医ウィリアム・アンダーソン(William Anderson、1842~1900年)や小説家アーサー・モリソン(Arthur Morrison、1863~1945年)らとジャポニスムの流行のお蔭です。

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎 横大判錦絵 江戸時代 天保元~4年(1830~33)頃 大英博物館 2008,3008.1.JA © The Trustees of the British Museum 肉眼で見えるはずがない5000分の1秒の速さでシャッターを切った時に見える画像だそうです。やはり、北斎は天才だ!(撮影:渓流斎)

 さすが、ゴッホやマネ、モネらフランスの印象派の画家たちに多大な影響を与えたジャポニスムを代表する「世界の北斎」だけあります。少し大袈裟かもしれませんが、北斎は、ダビンチやミケランジェロらと肩を並べるのではないでしょうか。

 この北斎展は、確かに一見の価値があります。特に、北斎は風景画で有名ですが、「花鳥」作品には目を見張るものがありました。何故なら、花と鳥に限って、北斎は、伊藤若冲のように「細密画」のように描いているからです。

 人物画となると、役者絵ではなくて風景画の中に登場する人物は、細密画ではなく、目と鼻と口だけで省略したようにあっさり描いています。「どうしてなのかなあ?」と思いながら私は観察していました。この花鳥画と人物画の違いー。人物はいい加減に描くのに、花鳥は綿密に描くのは何故か?ーもしかしたら、これは、北斎の研究家でさえ今まで気が付かなかった私の新説かもしれない、とニヤニヤしながら観ておりました(笑)。

東京・六本木 brassrie “Va-tout”  魚ランチ1200円

 さて、広い東京ミッドタウン内のサントリー美術館(そう言えば、初訪問かな?赤坂のサントリー美術館は何度も行きましたが)を出て、目指すはランチです。既に、六本木駅近くの「シシリア」に決めておりました。あの森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」(朝日新書)に出ていた「四角いピザ」と「きゅうりのグリーンサラダ」を食べるためです。

 そしたら、アッジャパー、本日は青天なりではなく、本日は閉店なりでした。

 仕方がないので、当てもなく、東京タワーが前方に見える道(319号線)を真っすぐ10分近く歩いたら、ブラッスリーが見つかり、そこでランチすることにしました。仕方ない、なんて言っちゃ駄目でしたね。白身魚のソテーでしたが、写真の通り、銀座並みの価格で、量が少なくて参りました(苦笑)。店員さんは凄く感じ良かったですけど。

今最も日本で注目されている東京・狸穴の在日ロシア大使館

 店を出て、そのまま、真っ直ぐ、東京タワー方面を歩いて行ったら、警察官の数が多くなり、何事かと思ったら、今現在、日本では最も注目されている狸穴の在日ロシア大使館がありました。ここに出たんですね。

在日ロシア大使館前は、数人のデモと物々しい警戒

 ロシア大使館や、その向かいの外務省外交史料館には何度か取材で来たことがあるので、場所は知ってました。六本木駅からだと20分ぐらいでしょうか。私は、この辺りまでは、いつも神谷町駅から歩いてきたので、飯坂交差点を左折して神谷町に向かいました。

 そう、神谷町は私にとって、とても感慨深い場所なのです。もう半世紀近い昔、学生時代に付き合っていた彼女が住んでいたので、よく遊びに行き、お金がないので、この近くの東京タワーの芝公園でよくデートしたものでした。

 神谷町は、彼女の祖母の家で、千葉県に両親ら家族と住んでいた彼女は、都内の大学に通うため、おばあちゃんの家に下宿していたのでした。おばあちゃんの趣味は詩吟でよくうなっていました。

実に懐かしい東京・日比谷線「神谷町駅」

 もう時効の話なので、神谷町に来たついでに、その彼女のおばあちゃんの家を探してみました。この辺りはもう昔の面影はなく、すっかり変わってしまいました。再開発されて高層マンションやビルが立ち並ぶようになりました。駅から5、6分だったので忘れるわけないのですが、いくら探しても見当たりませんでした。恐らく、現在、高層ビルを建築中のあの辺りがそうだったかもしれません。

 半世紀近く年月が経てば仕方ないでしょう。淡い青春時代の思い出が蘇ってきました。でも、あまり後ろ向きだと駄目ですね。北斎先生を見習って、もう少し頑張りますか。何しろ、「富嶽三十六景」は、70歳代初めの傑作なんですから!

大発見!!長三洲 真筆の極秘文書か?=宮さんお手柄ー「なんでも鑑定団」出演のお薦め

 皆さん御存知の宮さんから私に無理難題を押し付けて来られました(笑)。御尊父の遺品である厚手の和紙に書かれた文書を読み解いてほしい、と仰るのです。

 「読めない字も多く、歴史に弱い私では何も分かりません。渓流斎さんならどんな内容が書かれているか読み解いてくれるのではないかと、勝手ながらお問い合わせすることにしました。取り敢えず、文字を読み解いて文書内容を教えていただければありがたいです。古文書鑑定家になったつもりでご対応してください。(他の人に相談も可)忙しいのに変なお願いでご迷惑かと思います、無視していただいても構いません。」

 確かに私は歴史好きではありますが、残念ながら漢籍の素養はありません。「古文書鑑定家になったつもり」と言われても、荷が重過ぎますよお(苦笑)。

 でも、見てみると、上の写真の通り、大変達筆で、読みやすい。意味も全く分からないことでもない。最初の「明治十年之役」とは、西南戦争のことでしょう。続いて警視兵の中から選抜して「抜刀隊」と称する百人の部隊を編成して、西郷隆盛軍と戦ったのか? 一段落目の最後と末尾に出てくる「靖国祠」とは「靖国神社」のことでしょう。恐らく、抜刀隊の戦死者を靖国神社にお祀りした、という内容ではないか?(秀才の友人に目下、解読を依頼しております)

 それにしても、明治末か大正生まれの宮さんの御尊父が明治10年の西南戦争で戦っていたことはあり得ず、少なくともご祖父か、曽祖父が書かれた文書なのでしょう。それで、プライバシーながら、宮さんの御尊父のことやこの文書の入手経路などを伺ってみました。

 そしたら、この文書は、大分県出身のご祖父が生前、大分の古物商で手に入れたものを息子である宮さんの御尊父ら兄弟に形見分けされていたものの一対だった、ということが分かりました。

 となると、この作者は一体誰なのでしょう?

 よく見ると、最後に「三洲長炗」と署名が書かれています。えっ!?もしかして、もしかして、長三洲(1833~1895)のこと? 長三洲といえば、高野長英大村益次郎と並ぶ広瀬淡窓(1782~1856年)の愛弟子です。

 そこで調べて見たら吃驚。長三洲の本名は長炗(ちょう・ひかる)、三洲と号していたのです。天保4年(1833年)、豊後国(大分県)日田郡馬原村の儒家、長梅外の第三子として生まれたということですから、彼の書が大分県内の古物商に流れ、宮さんのご祖父が購入したということは辻褄が合います。

 これは本物ではないか??

 長三洲は幕末、尊王攘夷の志士となり、戊辰戦争では参謀として戦い、長州の桂小五郎の知遇を得て、維新後、木戸孝允となった桂小五郎の引きで、新政府に出仕しています。

 広瀬淡窓の門下ですから漢詩人としての名声は高く、明治になって、「漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉」と言われたのです。

 しかも、長三洲の門下生には伊藤博文、山縣有朋ら元勲をはじめ、信じられないくらい多くの逸才を輩出しているのです。

 これは凄いお宝じゃ、あーりませんか!「無理難題を押し付られた」なんて言ってすみませんでした。大変なお宝が宮さんのお蔵に眠っていたのですね。

作者不明 どなたか分かりますか?

 もう一つ、宮さんの御尊父の遺品の中に、別にご祖父から受け継がれた作者不明の水墨画もありました。うーん、この作者は誰なんでしょう?

 そこで、「テレビの『なんでも鑑定団』に出演されたら如何ですか?長三洲なら高額が出るかもしれませんし、恥をかくことはありませんよ」と薦めてみました。すると、御返事は「そ、そ、そ、そこまでやるつもりはありません。」とのこと。

 いやいや、駄目ですよ、宮さん。しっかり,、真贋を鑑定してもらい、内容も解読してもらい、その価値を確かめる手段はそれしかありませんよ!

和紙裏面文字

 もしかして、テレビ東京か、制作プロダクションのネクサスの関係者がこの記事をお読みくださって、宮さんにアプローチするかもしれません。

  「漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉」なんて、まさにテレビ向きのキャッチフレーズで、「絵」になるじゃありませんか(笑)。

 宮さん、勇気を出して! 私も大いに期待しております。

【追記】

 ネット情報ですが、長三洲は、「明治書家の第一人者で、水墨画や篆刻の腕前も一流」だったとありました。もしかしたら、例の作者不明の水墨画も長三洲作の可能性がありますね。

これからも新発掘が出る可能性も=「ポンペイ特別展」

 私は「有言実行」の人ですから、東京・上野の国立博物館で開催中の「ポンペイ特別展」を観に行って来ました。

 実は、単なる「便乗商法」に洗脳されただけですけどね(笑)。私自身、既にイタリア旅行した際にナポリ郊外にあるポンペイの遺跡を訪れたことがあるので、行こうか、どうしようか、迷っていたのでした。

上野・東博「ポンペイ特別展」

 紀元79年、ヴェスヴィオ山の噴火で、一瞬にして火山灰で埋没してしまったローマ帝国の古代都市ポンペイ。約1万人の市民が暮らしていたと言われ、1784年になって再発見され、今でも発掘作業が続いているといいます。まるで密封されていたかのように当時使われていた生活必需品からモザイク画、それに剣闘士場などまでそのまま出て来たのです。  

 私がポンペイの遺跡で印象的だったのは、子どもから大人まで火山灰で丸焦げになってしまったのか、多くの人が当時の姿勢のまま固まったように亡くなり、後で復元されたのか、石膏の形で展示されていたことでした。今回も数点だけ展示されていました。

上野・東博「ポンペイ特別展」女性頭部形オイノコエ(ヴェスヴィオ山周辺地域)

  私が小学校4年生か5年生だった頃に、「ポンペイ最後の日」という子ども向けの挿絵の多く入った本を読んだことがあり、子どもの頃からずっと気になっていて、長じてから遺跡訪問につながりました。

 で、今回の特別展ですが、行ってよかったです。正直、一般2100円は少し高いかなあと思いましたが、それだけの価値はありました。現地で見なかったものや、知らなかったことも多く、かなり収穫がありました。21世紀ですから、それなりにCGなどを多用した「見せ方」が工夫されておりました。

上野・東博「ポンペイ特別展」

 何と言っても、私の知識として欠けていたことは、ヴェスヴィオ山で埋没したのは南部のポンペイだけではなく、その北部にあったソンマ・ヴェスヴィアーナや西部のエルコラーノなどの古代都市も同じように埋もれてしまっていたという事実です。特にエルコラーノは、日本の東京大学も発掘チームとして参加しているらしいのですが、まだ、全体の4分の1しか調査が進んでいないというのです。発掘は細かい手作業ですからね。

 ということは、これからまだまだ「新事実」が発見される可能性があるわけです。

上野・東博「ポンペイ特別展」「アレクサンドロス大王のモザイク」(ファウヌスの家)

 今展で私が最も注目したのは、ポンペイで最大の敷地を誇った超お金持ちの貴族らしきファウヌス家の談話室に敷き詰められていたモザイク画「アレクサンドロス大王のモザイク」です。本物は現在修復中なので、レプリカとスクリーンでの再現でしたが、それでも大きさが分かって十分に満足でした。

 このモザイク画は、今回展示されている際に「アレクサンドロス大王のモザイク」という名称でしかなっていませんが、私が大学受験の際にボロボロになるまで使った世界史の副読本である「世界史地図」の表紙だったので飽きるほど見ていました。その図版の説明は「アレキサンダー大王とペルシアのダリウス3世とのイッソスの戦い」(紀元前333年)だったことを今でもはっきり覚えています。今の教科書では、アレキサンダー大王ではなく、アレクサンドロス大王と教えているんでしょうか。

 世界史の副読本の表紙絵がポンペイ遺跡からの発掘品だったことを知ったのは、もう何十年も昔ですが、ますますポンペイに憧れたものでした。

上野・東博「ポンペイ特別展」食卓のヘラクレス(ポッターロ地区別荘)

 いずれにせよ、ポンペイはローマ帝国に征服される前は、ギリシャのヘレニズム文化に色濃く影響を受けていたといいます。

 ですから、ギリシャ神話に登場する神々の彫刻がふんだんに出土しています。

上野・東博「ポンペイ特別展」エウマキア像(毛織物組合フォルム)

 それにしても、これだけ高度の文化と技術を誇ったポンペイが埋没したのは、西暦79年のことです。日本でいえば、まだ弥生時代です。神話を除けば、倭王権も登場していない時代です。いまだに所在地も実体もよく分かっていない邪馬台国の卑弥呼でさえ、「魏志倭人伝」に出てくるのが西暦239年頃ですからね。

 弥生時代で農耕が始まったとはいえ、日本人の多くは、まだ洞穴に住み、裸同然で木の実を取ったり、イノシシと戦ったりしていたのかもしれません。

 そんな時、海の向こうのローマ帝国ではこれだけ高い文明を築いていたわけですから、何処か日本史の世界が随分チマチマしたもののようにに見えてしまいます。

上野・東博「ポンペイ特別展」ネコとカモ(ファウヌスの家) こんな細密な絵を描いていたとは!

 まあ、そんなことを言っても始まらないですかあ(笑)。あくまでも、私は、我が祖国日本を愛していますからそれでいいんですよ。

 ローマ帝国さんにはあっさりと負けを認め、2000年経ったら、日本の国力を見せつけて、ポンペイ遺跡の出土品を展示した博覧会を開かせてもらえれば、それで十分で御座います。

東京・上野「グリーンパーク」冬季限定ハンバーガー1400円、グラスワイン700円

 ところで、コロナ禍の影響で、展覧会はネットによる予約制で切符を購入しました。お蔭で、それほど混まずにゆっくりと観ることができました。

 会場の国立博物館平成館は、2012年1月~2月に開催された中国・北宋の「清明上河図」展は大行列で、寒い中、2時間近くも外で待たされた経験があります。

 パンデミック終息後もこの予約制を続けてくれたら有難いです。国家権力を保持されている皆様、どうか宜しくご検討ください。

幸運にも多くの秘仏さまとお会いできました=「最澄と天台宗のすべて」

 東京・上野の東京国立博物館・平成館で開催中の「最澄と天台宗のすべて」に行って参りました。何しろ、「天台宗のすべて」ですからね。訳あって、会場を二巡してじっくりと拝観致しました。

 この展覧会は「事前予約制」で、私もネットで入場券を購入しました。一般2100円とちょっと高めでしたが、「伝教大師1200年大遠忌」ということで、大変素晴らしい企画展でした。

比叡山延暦寺 根本中堂内部(模擬)

 そんな素晴らしい展覧会なのに、読売新聞社主催ですから、読売を読んでいる方はその「存在」は分かっていたでしょうが、他の新聞を読んでいる方は知らなかったかもしれません。例えば、朝日新聞の美術展紹介欄には掲載していないほど意地悪の念の入れようですから、朝日の読者の中にはこの展覧会のことを知らない方もいるかもしれません。

 私は色々とアンテナを張ってますから大丈夫でした(笑)。先日このブログで御紹介した「歴史人」11月号「日本の仏像 基本のき」でもこの展覧会のことが紹介されていたので、しっかり予習して行きました。(展覧会では、最澄と徳一との「三一権実(さんいちごんじつ)論争」が出て来なかったので残念でした)

◇ 深大寺の国宝「釈迦如来倚像」と御対面

 大収穫だったのは、東京・深大寺所蔵の国宝「釈迦如来倚像」(7世紀後半の白鳳時代)を御拝顔できたことです。何と言っても「東日本最古の国宝仏」ですからね。いつか行くつもりでしたが、向こうから直々こちらにお会いに来てくださった感じです。倚像(いぞう)というのは椅子か何かにお座りになっている姿ですから、特に珍しいのです。日本では古代、その習慣がなかったので、坐像は多くても、倚像は廃れたという話です。

 深大寺には、もう半世紀も昔の高校生か大学生の頃に、何度か参拝に訪れたことがあるのですが、不勉強で、奈良時代の733年に創建され、平安時代の859年に天台宗別格本山となった寺院で、正式名称を「浮岳山 昌楽院 深大寺」だということまで知りませんでした。この寺には先程の国宝釈迦如来倚像のほかに、2メートル近い「慈恵大師(良源)坐像」があり、それも展示されていたので度肝を抜かれました。これは、日本最大の肖像彫刻で、江戸時代以来、205年ぶりの出開帳だというのです。まさに秘仏の中の秘仏です。「展覧会史上初出展」と主催者が胸を張るだけはあります。私もこんな奇跡に巡り合えたことを感謝したい気持ちになりました。

 秘仏と言えば、この「最澄と天台宗のすべて」展では他にも沢山の秘仏に接することができました。兵庫・能福寺蔵の重文「十一面観音菩薩立像」(平安時代、10世紀)、東京・寛永寺蔵の重文「薬師如来立像」(平安時代、9~10世紀)、滋賀・伊崎寺蔵の重文「不動明王坐像」(平安時代、10世紀)などです。

 この中で、私が何度も戻って来て、御拝顔奉ったのが、京都・真正極楽寺(真如堂)蔵の重文「阿弥陀如来立像」(平安時代、10世紀)でした。高僧・慈覚大師円仁の作と言われます。阿弥陀如来といえば、坐像が多いのですが、これは立像で、その立像の中では現存最古とされています。こんな穏やかな表情の阿弥陀さまは、私が今まで拝顔した阿弥陀如来像の中でも一番と言っていいぐらい落ち着いておられました。年に1日だけ開帳という秘仏で、しかも寺外初公開の仏像をこんなに間近に何度も御拝顔できるとは有頂天になってしまいました。(売っていた絵葉書の写真と実物とでは全くと言っていいくらい違うので、絵葉書は買いませんでした)

比叡山延暦寺 根本中堂内部(模擬)

 最澄(767~822年)は、平等思想を説いた「法華経」の教義を礎とする天台宗を開き、誰でも悟りを開くことができるという一乗思想を唱えましたが、比叡山に開いた延暦寺は仏教の総合大学と言ってもよく、後にここで学んだ法然は浄土宗、親鸞は浄土真宗(以上浄土教系)、栄西は臨済宗、道元は曹洞宗(以上禅宗)、日蓮は日蓮宗(法華経系)を開いたので、多彩な人材を輩出していると言えます。

 先程の阿弥陀如来立像を作成した円仁(山門派の祖)は、下野国(今の栃木県)の人で、「入唐求法巡礼行記」などの著書があり、唐の長安に留学し、師の最澄が果たせなかった密教を体得して天台密教(台密)を大成し、天台第三代座主にもなりました。一方、阿弥陀如来像を作成されたように、浄土教も広めた高僧でもあるので、天台宗というのは、懐が広い何でもありの寛容的な仏教のような気がしました。(その代わり、千日回峰があるように修行が一番厳しい宗派かもしれません)

 そもそも、天台宗そのものは、中国の南北朝から随にかけての高僧智顗(ちぎ)が大成した宗派ですから、中国仏教と言えます。もっとも、中国仏教はその後の廃仏毀釈で消滅に近い形で衰退してしまったので、辛うじて、日本が優等生として命脈を保ったと言えます。

 伝教大師最澄も、渡来人三津首(みつのおびと)氏の出身で出家前の幼名は広野と言いましたから、日本の仏教は今の日本人が大好きな言葉であるダイバーシティに富んでいるとも言えます。

上野でランチをしようとしたら、目当ての店は午後1時を過ぎたというのにどこも満員で行列。そこで、西川口まで行き、駅近の中国料理「天下鮮」へ。西川口は今や、神戸や横浜を越える中華街と言われ、それを確かめに行きました。

 最初に「訳あって、会場を二巡した」と書いたのは、会場の案内人の勝手な判断によって「第2会場」から先に見させられたためでした。第2会場を入ると、最澄の「さ」の字も出て来ず、いきなり「比叡山焼き討ち」辺りから始まったので、最初から推理小説の「犯人」を教えられた感じでした。時系列の意味で歴史の流れが分からなくなってしまったので、「第1会場」を見た後、もう一度「第2会場」を閲覧したのでした。

 そのお蔭で、円仁作の「阿弥陀如来立像」を再度、御拝顔することができたわけです。

JR西川口駅近の中国料理「天下鮮」の定番の蘭州ラーメン880円。やはり、本場の味でした。お客さんも中国人ばかりで、中国語が飛び交い、ここが日本だとはとても思えませんでした。西川口にはかたまってはいませんが、50軒ぐらいの「本場」の中華料理店があるといいます。その理由は、書くスペースがなくなりました。残念

 なお、私がさんざん書いた円仁作の阿弥陀如来立像は11月3日で展示期間が終了してしまったようです。となると、是非とも、京都・真正極楽寺(真如堂)まで足をお運びください。ただし、秘仏ですので、年に1度の公開日をお確かめになってくださいね。

 あ、その前に、この展覧会は来年5月22日まで、福岡と京都を巡回するので、そこで「追っかけ」でお会いできるかもしれません。

 円仁作の阿弥陀如来立像は、一生に一度は御対面する価値があります、と私は断言させて頂きます。

民藝運動に対する疑念を晴らしてくれるか?=小鹿田焼が欲しくなり

 東京・竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」(2022年2月13日まで)を観に行って参りました。観覧料一般1800円のところ、新橋の安チケット屋さんで期間限定券ながら半額以下のわずか790円で手に入りました(笑)。

 民藝運動の指導者柳宗悦先生(1889~1961年)の本職は、宗教哲学者だと思うのですが、私自身は、その著書「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を数年前に読んで初めてその偉大さが分かった遅咲きの学徒だといっていいかもしれません。

銀座・民芸品店「たくみ」

 でも、私自身は、若い時から「民藝」には大変興味を持っていて、その代表的陶芸家である濱田庄司も河井寛次郎も大好きです。東京・駒場の「日本民藝館」にも訪れたことがあります。7月には、民藝の作品を販売する「銀座 たくみ」に行ったりしたぐらいですから。

 とはいえ、最近では、少し、民藝に関しては疑惑に近い疑念を持つようになりました。今では民藝はすっかりブランド化したせいなのか、例えば、銀座の「たくみ」で販売されている作品などは庶民には手が届かない高価なものが多かったでした。本来、民藝とは貧しい田舎の農家の殖産興業のために、伝統を失いかけていた陶芸を復活させたり、貧農の鋤や鍬など農作業具にさえ「日本の美」を見つけたり、無名の職人に工芸品作成を依頼したりした庶民的な運動だとばかり思っていたからです。

 古い言い方ですが、これでは、民藝とはプチブルか、ブルジョワ向きではないかと思った次第です。ただ、これは単に自分が誤解していただけなのかもしれませんが。

 なぜなら、柳宗悦自身は学習院出身のブルジョワ階級(父楢吉は、津藩下級武士出身で、海軍軍人、最終軍歴は少将)です。国内全域だけでなく、中国、朝鮮、欧州にまで取材旅行し、よくこれだけ国宝級の作品をコレクション出来たものだと感心します。ただ、その財源は一体何処から来たものかと不思議に思っておりましたが、この展覧会を見て、彼は稀代のプロデューサーだったからではないかと睨んでいます。

 恐らく、柳宗悦が日本で初めて「メディアミックス」を考え出したのではないかと思います。本人は、雑誌「工藝」等の発行や膨大な著作を量産して出版活動に勤しみ、毎日新聞などと連携して広報宣伝活動し、三越や高島屋など百貨店と提携して販売活動まで促進するといった具合です。

 いわば、民藝のブランド化、権威付けに成功したのではないでしょうか。

東京国立近美の近くには江戸城の石垣が残っていて感動で打ち震えます

 不勉強のため、この展覧会で初めて知ったのは、柳宗悦の弟子である吉田璋也(1898~1972年)という人物です。この人は鳥取市出身の耳鼻科医で、師匠以上に民藝運動に邁進した人でした。地元鳥取市に「民藝館」を建て、作品を販売する「たくみ」を併設し、おまけに民藝の陶磁器やお椀やインテリアの中で食事ができる「たくみ割烹店」まで開いたりしたのです。

 また、鳥取砂丘の天然記念物指定の保護運動の先頭に立ったのが、この人だったというのです。他に、民藝作品のデザインをしたり、著述もしたり、医者をしながら、マルチなタレントを発揮した人でした。

東京国立近美の真向かいが毎日新聞東京本社(パレスサイドビル)。地下鉄東西線「竹橋」駅とつながっています

 「民藝の100年」と銘打っている展覧会なので、民藝運動とは何だったのか、再考できる機会になると思います。私は、民藝とは富裕層向けではないかと思いましたが、他の人は違う考えを持つことでしょう。でも、私は古い人間なので、こういう調度品に囲まれると心が落ち着き、欲しくなります。

 見終わって、ミュージアムショップを覗いてみましたが、結局、2600円の図録は迷った末、買いませんでした。他にも買いたいものがあったのですが、やはり、我慢して買いませんでした。

ちょうど昼時で、毎日新聞社地下の「とんかつ まるや」(特ロース定食1000円)でランチ

 でも、家に帰って、それを買わずに帰ったことを無性に後悔してしまいました。「それ」とは、大分県日田の小鹿田焼(おんたやき)です。1600年頃に朝鮮から連れてこられた陶工によって開窯された小石原焼(福岡)の兄弟窯だそうですが、近年、寂れていたものを柳宗悦とバーナード・リーチらによって再評価されて復活した焼き物で、今では民藝の代表的作品です。

 特に「飛び鉋」(とびかんな)と呼ばれる伝統技法の模様の皿が魅惑的で、この皿に盛った食べ物は何でも旨くなるだろうなあ、と感じる代物です。五寸皿が一枚2200円とちょっと高め。「ああ、あの時買えばよかった」と後悔してしまったので、結局、通販で買うことに致しました。注文して手元に届くまで1カ月以上掛かるということで、届いたら、皆様にお披露目しましょう(笑)。

【追記】

 柳宗悦のパトロンは、京都の何とかというパン屋さんだということを以前、京洛先生に聞いたことがありますが、どなただったか忘れてしまいました。柳宗悦は関東大震災で被災して京都に疎開移住したことがあるので、その時に知り合ったのかもしれません。

 同時に柳宗悦が「民藝」と言う言葉を生み出したのは、京都時代で、この時初めて、柳は濱田庄司から河井寛次郎を紹介されます。その前に柳は河井寛次郎の作品を批判していたので、河井は柳になかなか会おうとしなかったという逸話もあります。

備前焼のぐい吞みをゲット=友人Y君から

 何の風の吹き回しなのか、岡山出身の友人Y君から備前焼のぐい吞みをもらってしまいました。

 Y君は先週、高齢の親御さんの介護のために1週間近く岡山に帰郷していたのですが、そのついでに倉敷の大原美術館にあるエル・グレコの「受胎告知」を再見しに行き、またまたそのついでに商店街で備前焼専門店で見かけた「ぐい呑み」が小生に合うんじゃないか、とわざわざ買って来てくれたのです。

 焼き物は、備前に始まり、備前で終わる。

 と、彼に対して釈迦に説法のような偉そうなことを言いながら、私が銀座で高価な備前焼の湯飲み茶碗を買ったことを自慢したことを彼は覚えていたのかもしれません。もしくは、内心、彼は「備前は俺の地元だぜい」と馬鹿にしていたのかもしれません。それでもー。

 「これから寒くなるし、これで熱燗でも呑むとうまいよ」

 さりげなく、彼はプレゼントしてくれたのです。プレゼントなので、さすがに値段を聞くわけにはいきませんが、お店の「陶備堂」のホームページを見て吃驚です。かなり敷居が高く、入るのに勇気がいりそうな高級店です。何と言っても、「倉敷最古の備前焼専門店」と銘打っていますからね。

備前焼 紀文春氏 1975年備州窯入社、伝統工芸中国支部展、茶の湯造形展等入選

 また、このぐい吞みの作者の紀文春氏は、1975年に備州窯入社と略歴にありますので、この道、半世紀近い大ベテランさんです。

 「陶備堂」のHPを見ると、この店の「お抱え作家」の中に、「人間国宝」の伊勢崎淳氏がおり、彼の壺は77万円、茶碗が55万円の価格が付いておりました。

 紀文春氏の場合は、そこまでは行かないと思いますし、「箱入り」ではなかったので、それほど高価なぐい吞みではなかったかもしれません。(そうじゃなければ、気軽にお酒は呑めましぇん!)

備前焼 ぐい吞み(紀文春作)工房:岡山県和気町

 本当に、それでも、わざわざ、小生のために買って来てくれるとは…。その「心意気」だけでも感謝感激です。

 実は、Y君とは、趣味嗜好も、性格も、育ちも全く違い、どちらかと言えば、気も合わないのですが(笑)、彼と知り合ったお蔭で、これまで自分自身、若い頃は全く興味がなかった経済や金融について関心を持つことができるようになりました。彼がいなかったら、ケインズの「一般理論」やハイエクの「隷属の道」やトマ・ピケティの「21世紀の資本」などまず読むことはなかったと思います。

 その点、彼には大変感謝しています。彼のお蔭です。たとえ、趣味や気が合わなくても、いや、合わなかったからこそ、別の世界を知ることが出来たわけですから。やはり、持つべきものは有形文化財(お金)ではなく、無形文化財(友人)ですよ。

 Tu ne penses pas?

福井のソウルフード「ソースカツ丼」と「越前おろし蕎麦」

 「何で、そう毎日、ブログを書き続けるのですか?」

 「そこに山があるからです」

 何か、あと余命幾ばくも無い菅義偉首相の記者会見みたいになってしまいましたが、今日もネタがないので、郷土料理企画と致しましょう。銀座の郷土ランチです。

 本日は、今でもフランスで博士論文執筆で一生懸命に頑張っているAさんのことを思い、彼女の故郷、福井県にしました。銀座には1丁目に「食の國 福井館」があります。大雨の中、速足で行って来ました。

 福井県といえば越前であり、越前だと蟹ですか。あ、それで話は終わってしまいますね。福井の最大の名所旧跡は道元の開いた永平寺かもしれませんが、やはり、私は戦国武将の朝倉義景を思い浮かべます。織田信長に滅ぼされた悲劇の武将ですが、天下統一の野心がなく、優柔不断なところが自らの身を滅ぼした感じです。朝倉氏の一乗谷城跡は、日本の100名城にも選ばれているので、いつか、一度は行ってみたいと思っています。

 ついでに、私は城好きですから、高校時代に大変お世話になった英語の大庭先生の故郷である越前大野城と、現存する日本最古の天守閣を持つ丸岡城にも行きたいです。長生きしなきゃいけませんね。

銀座「食の国 福井館」まん福セット1220円

 さて、「福井館」です。店の奥に「イートイン」コーナーがありました。今、コロナ禍なので、5席ぐらいです。何をしようかなあ、と考えましたが、結局、朝倉義景も食べたかもしれない「越前おろし蕎麦」と「福井のソウルフード」と、ここで自称している「ソースカツ丼」の2種類が入った「まん福セット」を注文しました。(郷土館の食事は、最初にレジで食券を買うことは、先日の「しまね館」で学習しました。)

「越前おろし蕎麦」 というのは大根おろしに鰹節をまぶした冷やし蕎麦と簡単に言えるかもしれませんが、古風な味でした。いつ頃から名産になったのか知りませんけど、やはり、古風な味なので、勝手ながら、朝倉義景も食べていたことにしましょう(笑)。

  「ソースカツ丼」 は、極薄いとんかつがソース漬けで揚げられているので、調味料をかけることなく、そのまま食すようです。Aさんとは、福井県の食べ物について、蟹以外は、あまり詳しく話をしたことはありませんでしたが、名産なんでしょうか。私はむしろ、若狭から京都に鯖街道がつながっている通り、越前は「鯖寿司」が名産かと思っていました。でも、ここのイートインでは残念ながらメニューにありませんでした。(お弁当はあるようでしたが)

 その代わり、「チカッペカレー」という地元の人しか分からないネーミングのカレーがありましたが、ちょっと勇気が出なくて、今回は注文しませんでした。

 「福井館」の人たちは皆、感じが良かったので、食事が終わって、郷土名産品を少し覗いてみました。実は、気に入ったものがあれば、越前焼でも買おうかなあ、と思ったのですが、これも残念ながら、置いていませんでした。銀座より遥かに広い南青山にある「福井館」の方にはあるようでした。(確か、南青山にはAさんと一度、一緒に行ったことがあります。越前焼のことを知らず買いませんでしたけど)

 何しろ、越前焼は歴史があり、平安末期に始まったらしく、一時衰退したものの、戦後に復活し、「日本六古窯」の一つに選ばれているぐらいですからね。

 私は以前、福井県の地酒である「梵」の滑らかな味わいが気に入って愛飲したことがあったので、越前焼は、その「梵」に合った御猪口がいいかなと思ったのです。うーむ、そう書いているうちに、「梵」も越前焼の御猪口も急に欲しくなってきました(笑)。

 

 

ワクチン狂詩曲第108番=そして銀座・諸国民芸品店「たくみ」へ

 Covid-19ワクチン2回目を巡って、最近、私の周囲では色んな話を聞きます。勿論、「何ともなかった」という人もいますが、よくない話が多いのです。

築地「天辰」のっけ定食 1200円

 例えば、会社の同僚のA氏は、先週土曜日に2回目のモデルナを接種したのですが、その日の夜に39度近い高熱が出てダウン。日曜日も熱が引かず、月曜日も体調が良くなかったので、会社を休んだほどでした(火曜日に回復)。

 健康自慢のB氏の場合、2回目のファイザーで、それほど重くはなかったのですが、翌日は酷い倦怠感に襲われて、何もやる気が起きなかったといいます。

 Cさんもファイザー2回目で、打って4~5時間後に腕が痛くなり、12時間後の翌日には39度近い熱が出て、1日では下がらず、解熱剤カロナールを飲んで、やっと抑えたとか。「やっぱり、体内に衝撃あるワクチンなんだね」と知らせてくれました。

銀座「デリー」よくばりカレーランチ1120円

 何か、モデルナもファイザーも関係なく、副反応があるようです。私も今週土曜日の24日に2回目のモデルナを打つので、髷を切って、白装束を着て会場に向かうつもりです(笑)。

 とはいえ、私の住む地方自治体では、国家から配給されるモデルナ・ワクチンの供給が途絶え、26日以降の接種を延期するなんて言っております。私の場合もどうなるか分かりませんが、延期された人たちにとっては、「えーー、怒るでよおーー」でしょうねえ。

銀座に異様な雲?いえいえ飛行機雲でした

 さて、銀座に民芸運動の作品を販売する「たくみ」というお店が8丁目にあることを知り、昼休みに初めて足を運んで覗いてみました。

 民芸運動の中心人物、柳宗悦については、白樺派の人ぐらいで、ほとんど知らなかったのですが、昨年、彼の著作「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を読んで、初めて浄土思想とは何たるものかを理解することができ、人生の恩人と感じるようになり、彼の民芸運動について再度、関心を持たざるを得なくなったわけです。

 銀座には「のれん会」があって、一番有名なのは、「銀座百点」という小冊子を出している「銀座百店会」です。逆に言いますと、この小冊子ばかり読んでいると、「銀座百店会」に加盟していない銀座の名店を知らないことになります。

 民芸のお店「たくみ」を私が知ったのは、「銀座15番街」という小冊子からでした。「銀座百店会」に加盟していないか、加盟できないお店の「のれん会」だと思われます。と思って、HPを見たら、銀座15番街とは、「昭和41 年(1966年)、銀座7 丁目・8 丁目の店舗が中心となり会を発足させた」とのことでした。

銀座・民芸品店「たくみ」

 猛暑の中、早速、この「たくみ」に行って参りましたが、私も大好きな河井寛次郎先生の焼き物が一点、鍵のかかったガラスケースに入っておりまして、値段も100万円也でした。

 ムフフフフ、手が出ないことはないのですが、さすがに「即断即決」とはいかず、何も買わずにすごすごと帰って来ました。

 ただ、会津の民芸品「赤べこ」が、私がネットで買ったものより安く売っていたので、「なあんだ。ここで買えばよかった」と、地団駄も踏んできましたよ。

藤原道長=傲慢、悪人説は間違い?

 先日NHK-BSで放送された「英雄たちの選択」の「藤原道長 平安最強の権力者の実像」は、これまでの通説、俗説、定説を引っ繰り返すようで実に面白かったです。

 道長と言えば、三人の娘(彰子=しょうし、あきこ、妍子=けんし、よしこ、威子=いし、たけこ)を三代の天皇(一条、三条、後一条)にわたって后として送り込み(一家三后)、「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」と歌って、天皇の外戚として権勢を振るった最高権力者というのが定説ですが、感情の起伏が激しくても、結構、神経症で寝込んだりするなど人間味があって、強運の持ち主だったことが分かりました。

 古代史の権威の倉本一宏氏も「道長は多面性を持った人物で、繊細でありながら豪放、寛容でありながら残忍、生真面目でありながらいい加減」と分析しておりましたが、意外にも、とても人間らしくて共感してしまいました。

 何しろ、藤原兼家の五男として生まれたので、最初から陣定(じんのさだめ=左大臣から参議に至る約20人で政策決定する)の要職に付ける立場ではなかったのに、兄の道隆、道兼が相次いで亡くなったことから、一条天皇の母后だった姉の詮子の推挙で「内覧」という重職に抜擢されます。これが、出世階段を昇るきっかけとなり、道長は、最後まで姉詮子に対する感謝の念を忘れませんでした。

 有名な「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」という歌は、娘威子が後一条天皇の中宮に決まった祝宴の席で詠まれたもので、権力の絶頂期とはいえ、何という傲岸不遜で、これ以上ないほど不忠とも言えます。

 しかし、この歌を書き留めたのは、道長のライバルの藤原実資(さねすけ)で(「小右記」)、道長自身は、「御堂関白日記」(国宝)に「歌を詠んだ」としか書いていないといいます(ちなみに、道長は一度も関白の職に就いていないので、題は後から付けられたもの)。道長に詳しい倉本氏によると、歌が祝賀会の二次会で詠まれたらしく、(飲み過ぎていて)本人も覚えていなかったかもしれないというのです。

 これは面白い史実ですね。

 倉本氏も、この「望月の歌」によって、藤原道長=悪人、不忠、傲慢説が広まり、これによって、残念ながら、平安貴族そのものが悪で、この後勃興する武士の方が立派だというのが日本史の通説になったのではないかと指摘しておりました。確かに、そうかもしれませんね。(当然のことながら、倉本氏は、戦国武将より平安貴族贔屓です)

 その一方で、もう少し注目しなければならないことは、教養人だった道長の文化に対する貢献です。これまで、藤原家の間で権力闘争が激しく、政権が安定していませんでしたが、道長が絶対的権力を握ることによって、国内も安定して国風文化の華が開くのです。道長は、一条天皇の后におくった彰子には、教育係の女官として、和泉式部(和歌)、赤染衛門(歌人、歴史)、そして紫式部(物語)といった後世に名を残す超一流人を付けるほどです。

 道長の最大の政争相手だった藤原伊周の姉妹の定子も一条天皇の女御(后)でしたが、その定子の女官が「枕草子」の清少納言で、紫式部と清少納言の仲が悪かったというのは頷けますね。また、一条天皇は、「源氏物語」のファンで、続きを読みたいがために、作品が手元にある彰子のもとに足繁く通ったという逸話には納得してしまいました。文化の力、畏るべしです。

 話は一挙に江戸時代に飛びますが(笑)、五代将軍徳川綱吉は、三代将軍家光の四男として生まれ、全く将軍職の芽がないので舘林藩主となります。しかし、四代家綱に後継ぎがいなかったため、予期しなかった将軍になってしまいます。綱吉には「生類憐みの令」を発した悪い将軍という後付けのネガティブなイメージがあります(内分泌異常で、身長が124センチしかなかったらしい)。この綱吉の時代に元禄文化が華開くというのは、何となく、傲慢な悪い印象がありながら、国風文化を開いた道長との共通点を連想してしまったわけです。

 元禄文化の代表人物には、美術工芸に尾形光琳・乾山、菱川師宣、文学に井原西鶴や松尾芭蕉、近松門左衛門らがいます。この時代に、こんな凄い文化人が集中して活躍していたとは、何とも不思議です。

マルセル・プルーストを求めて

 日仏会館は、「近代日本資本主義の父」渋沢栄一と駐日フランス大使で詩人でもあったポール・クロデールによって1924年3月7日に設立されました。(渋沢は、幕末に徳川昭武のパリ万博視察の随行員として渡仏。フランスで会社や銀行などの制度やサン・シモン主義などに影響受けました)

 私は3年ほど前にやっと、大学と会社の先輩の推薦を得て会員になりましたが、コロナ禍で、月に数回、東京・恵比寿の同会館で開催される講演会や映画会などが中止となり、オンラインになりました。が、平日はなかなか時間が取れず、やっと今回、土日に開催されたシンポジウム「プルーストー文学と諸芸術」に参加することができました。

 プルーストと言えば、「失われた時を求めて」(1906~22年執筆、1913~27年刊行)です。全7巻16冊、3000ページに及ぶ大長編小説で、「20世紀最大の世界文学」という文芸評論家もいます。

 私自身は、もう40年以上も前の大昔の学生時代に岩崎力先生の授業で最初から原語で読みましたが、たった1ページ翻訳するのに、1週間掛かり、当然のことながら挫折。日本語も読み通すことがありませんでした。悲しいことに、知っているのは、第1巻「スワン家の方Du côté  de chez Swann」、第2巻「花咲ける乙女たちの影に À l’ombre des jeunes filles en fleurs」といった巻のタイトルと、第1巻に出てくる最も有名な「無意識的想起」の場面です。お菓子のマドレーヌを紅茶に浸して食べた瞬間、主人公が幼児に過ごしたコンブレーでの出来事や幸福感などが蘇ってくるというあの場面です。

 日仏会館が主催したシンポジウムは、日本とフランスの専門家20人以上をオンラインで繋ぎ、2日間でテーマが「プルーストと音楽」「プルーストと美術」「プルーストと教会/ 建築」など6以上で、休憩時間も入れて合計で11時間にも及ぶ長丁場でした。同時通訳の皆様には「大変お疲れ様でした」。

 正直申しまして、私自身は「失われた時を求めて」を完読していないので、さっぱり付いていけず「完敗」でした。ですから、小生が理解できたことだけ少し触れます(苦笑)。

 一つは、中野知津一橋大学教授の「プルーストと料理芸術」の講演の中で、あの有名なお菓子マドレーヌは、ホタテ貝の形をしているものとばかり思っていたら、19世紀では卵型が普通だったらしいということでした(アレクサンドル・デュマ「料理大辞典」1873年)。

 ホタテ貝は、フランス語で coquille Saint-Jacquesで、サン・ジャックは、キリストの弟子、聖ヤコブのことです。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並ぶキリスト教徒の三大巡礼地になっていることから、中野教授も、マドレーヌは巡礼の隠喩になっているかもしれない、といった趣旨の話もされていました。

◇ドビュッシーとランボーは会っていた?

 もう一つ、ピアニストで文筆家でもある青柳いづみこ氏の「プルーストとドビュッシー」も面白かったです。恥ずかしながら、私は、印象派の画家モネと音楽家ドビュッシーで学士論文を書いたのですが、不勉強でプルーストには全く触れませんでした。青柳氏によると、二人はあるサロンで知り合い、プルーストが自宅にドビュッシーを招いたのですが、ドビュッシーはどういうわけか、理由をつけてお断りしたというのです。

 ちなみに、ドビュッシーのピアノ教師はモーテ夫人でしたが、その娘マチルドと結婚したのが詩人ヴェルレーヌで、一緒に住んでいたそうです。ドビュッシーがピアノを習っていた時に、あの17歳のランボーがヴェルレーヌの自宅に押し掛けていたらしく、ドビュッシーはヴェルレーヌとランボーに会っていたのかもしれませんが、うっかりそこまで知らず、意外でした。まあ、この辺りの話に全く御興味がなければ、どうでもいい話かもしませんが…(笑)。

 一番興味深かったのは、作家水村美苗氏の「母語で書くということ」でした。御案内の通り、水村氏は御尊父の仕事の関係で、小さい頃から米国暮らしが長く、英語漬けの毎日でしたが、それに反発(?)するかのように、米国では日本の古典文学にのめり込み、帰国後は、夏目漱石最後の未完の小説「明暗」を、彼女が、漱石の文体を完璧に近い形で会得して「続明暗」を完成して脚光を浴びた人です。(一度、30年も昔に、私は水村氏にはインタビューしたことがあります。当時とほとんどお変わりないので吃驚)

 ですから、水村氏は母語に大変拘わった、今でも拘っている作家で、プルーストに関しても、「本人は”世界のプルースト”になるとは思わなかたとはいえ、一番、母語に拘った作家」と分析しておりました。「失われた時を求めて」は今でも、日本では、個人による翻訳が4件も同時に進んでいるといいます。プルーストが普遍的になったのも、フランス語という世界的な欧州文明の特権的な地位があったから。それに対して、プルーストと同世代の夏目漱石は、知性的には全く劣っていないのに、日本語のせいか、世界ではほとんど知られていないという分析もなるほど、と思いました。(他に水村氏は、作品が英訳されるとグローバル化を意識してしまう、といった本筋の話をされてましたが、省略)

 ◇若い仏人はプルーストが読めない?

 「失われた時を求めて」岩波文庫全14巻(2010~19年)を、1ページごとに厖大な量の注釈と絵画や建築写真を挿入して個人訳で完成させた京大名誉教授の吉川一義氏も「今の若いフランス人は、(注釈なしで)この作品を読めるかなあ」と面白いことを言うのです。フランス語の原語を読まれたことがある方は分かると思いますが、一文がとても長ったらしく、この名詞がどこに掛かるのか、外国人は大変苦労します。

 吉川氏はフランスのソルボンヌ大学に留学して、プルーストで博士号を取った学者ですが、博士号は同然ながらフランス語で書かなければなりません。本人は謙遜されますが、自信がないので、フランス人の友人に事前に添削してもらったら、引用したプルーストの原文まで直されたという逸話を紹介しておられました。

 やはり、フランス人でもプルーストは難しいんですね。これには私も大笑いしてしまいましたが。