何の為の信仰か?=映画「典座」が公開へ

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 今夏に高野山と京都の浄土宗の寺院を巡ったせいか、仏教思想への興味が復活し、深まっています。何処かの特定の宗教集団に所属して、信仰にのめり込むというのではなくて、あくまでも、これからいつの日にか、あの世に旅立つに当たって、称名、念仏、もしくはお題目、またはアーメンでも何でもいいのですが、個人的に勉強して、納得したいものを見極めたいと思ったからです。

 我ながら、タチが悪いですね。お前は宗教を冒涜しているのか、と言われればそれまでですが、そんなつもりは毛頭ありません。

 しかし、オウム真理教事件以来、日本人は宗教に対して、特に強引な布施や寄付金を求める新興宗教に対して、警戒心を募らせるようになったのではないでしょうか。もしくは、「葬式仏教」などと揶揄される既成宗教に対する幻滅などもあるかもしれません。

 これは、あくまでも個人的な見解ながら、例えば、空海の思想は、真言宗の僧侶や門徒、檀家だけのものではないはずです。空海さんは、そんな排他的な人ではなかったはずです。それは、最澄でも、法然でも、親鸞でも、道元でも、栄西でも、日蓮でも、いかなる宗祖にでも言えるはずです。

 そんな個人的な「悩み」を、今夏お邪魔した京都・安養寺の村上住職に御相談したところ、御住職はお忙しいながら、面倒くさがらず、真面目に正面からお答えして頂きました。有難いことです。(二人のやり取りは私信ですので、ここでは公開致しません。悪しからず。)

そんな中、「生まれ出づる悩み」を抱えているのは凡俗の衆生だけかと思ったら、何と、お坊さんにも、それなりに色々と悩みを抱えているんですね。

 ドキュメンタリー映画「典座」は、全国曹洞宗青年会の主宰、製作で、富田克也監督がメガホンを取った作品ですが、10月4日から全国公開されます。全国公開とはいっても、東京から大阪までわずか5単館しかありませんが、見逃せませんね。

 映画の主人公は、曹洞宗の大本山永平寺で修行した山梨県都留市の光雲院の河口智賢(かわぐち・ちけん、1978年生まれ)副住職と、同じく永平寺で修行した三重県津市の 四天王寺の倉島隆行(くらしま・りゅうぎょう、1977年生まれ)住職という若い二人。智賢副住職は、普通の勤労者と同じように寺の仕事と家庭の問題で板挟みになる悩みを抱えながらも、今後の仏教の在り方を模索します。隆行住職も東日本大震災で被害を受けた福島でさまざまな支援活動を行いながらも、自分の無力感に苛まれたりします。二人の若い僧侶に対して、高僧青山俊薫(尼僧)がどんな助言を与えるかも見ものになっています。

 実は、私はまだ見たわけではなく、あくまでもネットで予告編を見ただけですが、映画のポスターにあるように、「何の為の信仰か?」「誰のために祈るか?」と、若い僧侶自らも悩んでいる姿が見られるようです。

 となると、僧侶の「弱さ」や宗教界の恥部などマイナス面まで見せてしまうことになり、全国曹洞宗青年会の一部の人からは、製作や公開の反対もあったようです。それでも、完成させ、来月から公開されるということですから、私も応援したくなります。

 このブログを読まれて、興味を持たれた方のために、映画「典座」の公式サイトをリンクしておきます。日程とわずか5館の公開劇場もあります。これは、宣伝ではありません。差し迫った思いを持つ私自身が興味を持っただけです。

?「人間失格 太宰治と3人の女たち」は★★★☆

 太宰治に関しては、誰でも麻疹(はしか)のように一度は罹って、若い頃に熱中するものです。

 小生の場合は、ちょっと度が過ぎていて、高校生にして、既に、全集収録の全作品と書簡まで読破し、それでももの足りず、山岸外史「人間 太宰治」、坂口安吾「不良少年とキリスト」、檀一雄「小説 太宰治」、野原一夫「回想太宰治」…等々、評伝まで読破する始末でした。

 ということで、昨日から全国公開された蜷川実花監督作品「人間失格 太宰治と3人の女たち」は見逃せませんでした。しかし、私が映画を観る際に最も参考にする日経新聞の映画評では、★がたったの二つ!「つまらないから、観るな」と言われているようなものですから、躊躇しましたが、時、既に遅し。ネットで切符を買ってしまいました。

 で、仕方なく重い腰を上げて観に行ったのですが、やはり「★★」は酷過ぎる。とはいえ、映画史上の名作かと言えば、そこまで行かないので、「★★★☆」と中途半端な採点をしてしまいました。監督の蜷川実花さんは、あの「世界のニナガワ」演出家の蜷川幸雄の娘さんですから、斬新な映像美は確かにDNAとして受け継がれているようです。

 最初の方の真っ赤な曼殊沙華の花々の中での太宰と子どもたちとの散歩、太田静子との伊豆の満開の桜の中での密会場面などは、映像美術として見事でした。しかし、後半の太宰の雪上での喀血シーンなどは興醒めするほど長過ぎて、目をつぶってしまい、カットしたくなりました。後半を15分ぐらいカットすれば、満点に近い作品でした。

 どうせ配役は忘れてしまうので、書き記しておきますと、太宰治役が小栗旬、放縦な太宰を支える妻・津島美知子役が宮沢りえ、「斜陽」のモデル太田静子役が沢尻エリカ、入水自殺をする最後の愛人山崎富栄役が二階堂ふみでした。他に、坂口安吾が 藤原竜也、伊馬春部が瀬戸康史、三島由紀夫が高良健吾。

 太宰の文学研究者は奥野健男ら数多おりますが、人となりの研究者としては、「山崎冨栄の生涯ー太宰治・その死と真実」などの著書がある長篠康一郎氏がピカイチでしょう。この人は長年、太宰治研究会の世話役をやっていて、毎年6月19日の太宰の命日に東京・三鷹の禅林寺で行われる「桜桃忌」で、18歳だった私もお会いして、太宰の旧宅を案内してくれるなどお世話になったことがあります。(2007年に80歳で亡くなられたようですから、当時はまだ48歳だったんですね。)当時は私も若かったので、その時に出会った明治大学文学部の学生の下宿で、男性4人、女性2人が夜明けまで飲み明かしたことを覚えています。名前は忘れてしまいましたが、その時に会った若尾文子に似た1歳年上の美しい女性が今でも忘れられませんね(笑)。2人だけでそっと下宿の外に抜け出して、太宰作品について、立ち話をしたことを覚えています。翌朝、池袋駅で、彼女は赤羽線に乗るというので、連絡先も聞かずに別れてしまいました。大変懐かしい思い出です。

 蜷川実花監督は、当然、長篠康一郎さんの作品も読んで映画に参考にしていることでしょう。でも、概ね事実に沿って映画化したというのでしたら、山崎冨栄の愛称が「スタコラサッチャン」だったことや、太宰を囲んだ飲み会では「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュー」なんていう戯れ歌を唄っていたことは初歩的知識として知っていたはずですから、映画に反映していなかったのが残念でした。

 残念といえば、太宰の遺作は「人間失格」ではなく、未完の「グッド・バイ」なので、妻への遺書として「人間失格」の原稿を添えたことは本当かなあ、と思ってしまいました。単行本になった「人間失格」の生原稿は出版社にあったわけですから、嘘くさく感じましたが、これは、現実とは違う映画の話でしたね。

 太宰に関しては、なまじっか、知識があるものですから、「人間失格」を主に執筆したのは、三鷹ではなく、埼玉県の大宮なので、何で、大宮のシーンを出さなかったのか、とか、出てくる子どもたちで、太宰の長女園子さんは、後に婿養子を取った津島雄二元厚生相の妻で、長男正樹君は知的障がいがあり、若くして亡くなったとか、次女里子さんは作家津島祐子になる、とか、太田静子の娘も現在作家の太田治子だなあ、とか、映画を観ていても、深読みして頭の中にごちゃごちゃと出てくるので、困ったものでした。

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 でも、全く、太宰治の小説を読んだことがなく、人間関係もほとんど知らない人がこの映画を観たら、単なる、我儘な小説家が主人公のエログロナンセンス程度しか思えないかもしれません。

晩年、流行作家になり、「人間失格」や「斜陽」は、今の若い人の間でも、太宰が「敵視」した文壇大御所の志賀直哉や川端康成よりも多く読まれていると聞きます。でも、晩年の頃の作品よりも、「富嶽百景」や「お伽草紙」などの中期の作品の方が明るくて個人的には好きですね。

太宰自身はわずか38歳で亡くなってしまいましたが、彼の作品はこれからも読み継がれていくことでしょう。三島由紀夫のように反発する人もいますが、「あなただけに」内緒で語り掛けるような文体は、誰も書けないでしょう。だから、他の多くの作家は死後すぐ忘れ去られてしまうのに、太宰だけはこうして没後70年以上経っても映画化されるような作家として残っているのです。

 

 

?「ジョアン・ジルベルトを探して」は★★★

ドトールのタピオカ・ミルクティー450円

 ここ何年も、何十年も好んで聴いているのは、ボサノヴァです。20世紀が生んだ偉大な作曲家として当然、レノン=マッカートニーが選ばれることでしょうが、私は迷わず、アントニオ・カルロス・ジョビンを押します。

 そのボサノヴァをつくった代表人物のもう一人が、歌手兼ギタリストのジョアン・ジルベルトです。彼が先月7月6日に、リオデジャネイロの自宅で88歳で死去したというニュースが流れた時は本当にショックで、ちょっと何も手に付かないほどでした。

 そんな人間は私だけでなく、世界中いたことでしょう。そんなわけで、先週封切された映画「ジョアン・ジルベルトを探して」(ジョルジュ・ガショ監督作品)を新宿シネマカリテまで観に行って来ました。

 ドイツ人の作家マーク・フィッシャーが、日本人の友人から東京で聴かされたジョアン・ジルベルトの音楽に魅せられて、本人に会いたいという一心で、彼を求めてブラジルのリオデジャネイロなどを探し回り、結局会えずに空しく帰国したという本を出版。残念ながら、フィッシャー自身は、本が出版される1週間前に自ら命を絶ったといいます。

 この本をドイツ語の原文で読んで感銘を受けたフランス人のガショ監督が、フィッシャーが辿ったリオデジャネイロなど同じ道を辿りながら、ジョアン・ジルベルトを探し求めるという様子をドキュメンタリータッチで描いたのがこの作品です。

 映画では、フィッシャーが通訳兼アシスタントとして雇った、本の中で「ワトソン」と呼ばれた同じ女性を採用して、彼女のコーディネートで、ジョアン・ジルベルトと関係があった友人、知人らとインタビューしていくといった展開です。

 この中の最重要人物だったのが、ジルベルトの元妻で歌手のミウシャでしたが、彼女も昨年2018年12月27日に亡くなっていたんですね。(ミウシャはポルトガル語ではなくフランス語を普段使っていました!)

 ガショ監督がフィッシャーの足跡を辿るドキュメンタリーとはいっても、映画ですから、何らかの作為というか演出がありますから、ちょっとカメラワークも気になりました。

  ジョアン・ジルベルト自身は、2008年9月、生まれ故郷のバイーヤで開催されたボサノヴァ誕生50周年記念コンサートへの出演を最後に、10年以上も人前から姿を消し、ほとんど行方不明状態でした。映画で登場した、大親友だった音楽仲間のジョアン・ドナートは「45年も彼には会っていない」、ホベルト・メネスカルも「15年も会っていない」という始末でした。

 ジョアン・ジルベルトの奇人変人ぶりは徹底していて、ホテルの料理人とは何年も、1時間ぐらい電話で話をする仲なのに一度も会ったことがなく、料理を部屋まで運ぶボーイにも会おうとせず、ドアの前に食事を置いてもらうといいますし、コンサートでも「マイクの高さが気に入らない」「空調のせいで声が出ない」などという理由でキャンセルになったりする嘘か本当か分からない噂が飛び交うほどです。私は、幸運にも2003年の初来日の彼の公演(東京・国際フォーラム)を特権から(笑)、前から7番目の席で観ることができましたが、確か、その当日も、ホテルの空気清浄機の調子が悪かったとかいう理由で、公演時間が30分以上遅れたと記憶しています。でも、当時72歳とは思えない声量と、ギター1本による1時間半ぐらいのパフォーマンスはさすがプロ、圧倒されました。

新宿シネマカリテ

 さて、結局、ガショ監督は「ボサノヴァの神」ジルベルトに会えたのか?

これは映画を観てのお楽しみということで、私自身は観ていてイライラしてしまいました。元妻のミウシャとインタビューしている最中に、ジルベルト自身からミウシャに電話がかかってきたり、たまたま、ジルベルトとミウシャの間の娘であるミュージシャンのベベウがワールドツアーから1週間ほど帰国していたのに、なぜ、彼女に救いを求めなかったのか不思議でした。

また、ジルベルトのマネジャーと称する70歳代の長髪の男が、どうも詐欺師に見えてしょうがなく、それもイライラする遠因でした。

 映画を観ると、ジルベルトは長らくホテルで一人住まいが続いていたような感じでしたが、一部の訃報では、リオの自宅で家族に看取られて亡くなったという報道もありました。当然、ベベウも駆け付けたのかもしれません。

 今晩は、ジョアン・ジルベルトを聴いて過ごします。

 

 

「特別展 三国志」と特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」=上野の東博

蜀・劉備軍の要・関羽像(明時代15~16世紀、青銅製)

 何が哀しいのか、日曜日、気温34度の猛暑の中、東京・上野の東京国立博物館の平成館で開催中の「特別展 三国志」と、本館で開催中の特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」を観に出掛けてきました。

魏の曹操

 猛暑の中を、外出するようなおめでたい人間は少ないだろうし、お盆休みなので、都心は地方出身者が帰省していて、館内は空いているだろうと予測したからでした。

しかし、外れました。何処にも行くあてがない富裕でもなさそうな層(単なる個人的な勘違い)や、外国からの観光客でごった返し、陳列物の前は、二重三重のとぐろを巻く人だかりでした。

蜀の劉備

 この特別展に限ってなのか、国内の展覧会にしては珍しく、展示物の撮影はフラッシュさえ止めれば自由でした。それらの写真は、「個人の使用」なら許可され、館内の係りの人に「ブログにアップしてもいいですか?」と聞いたところ、「大丈夫です」と答えてくれたので、こうしてアップしているのです。 

呉の孫権

写真をバシャバシャ撮ったおかげで、一体何を撮ったのか、分からないものまでありましたが、ご勘弁ください(笑)。

「三国志」は、御案内の通り、後漢末期の2世紀に鼎立した魏・呉・蜀の三国の興亡が描かれた歴史書です。

 どういうわけか日本でも大人気で、江戸末期の忍藩の下級武士、尾崎石城さんの蔵書の中にも「三国志演義」があり、古代からほとんどの日本の知識階級は読んでいたと思われます。

赤壁の戦い(208年、曹操対劉備・孫権連合軍 劉備の諸葛亮が曹操を退却させる)

 現代では吉川英治や柴田錬三郎らが小説化したり、横山光輝が漫画化したり、テレビの人形劇やゲームにもなったりしているので、若者たちにも親しみやすいのでしょう。若者客が目立ちました。

蜀 「揺銭樹台座」 富裕層の墓に置かれた「金のなる木」の台座。3世紀、土製。2012年、重慶市で出土。

私自身は、ゲームもやらないし、「三国志」も「三国志演義」も読んでいないという体たらくで、知っているのは、劉備が諸葛孔明をスカウトするために三度も足を運んだ「三顧の礼」などエピソードぐらいですからね。見ても、知識が薄いため、今ひとつ、力が入りませんでした(苦笑)。

曹操高陵で発掘された 一級文物「魏武王(ぎのぶおう)常所用(つねにもちいるところの)挌虎大戟(かくこだいげき)」。魏武王とは曹操のこと。この発掘で、曹操の陵だと証明された。

 特別展の最大の見どころは、上の写真の石牌(せきはい)です。2009年、河南省安陽市で発掘されたもので、この石牌には「魏武王が愛用した虎をも打ち取る大きな戟」と刻まれています。魏の武王とは曹操のことで、これにより発掘された墓が「曹操高陵」である証明になったというのです。

 2009年ということは、つい最近のことです。今後も新たな新発見が出で来るのかもしれません。

 その前に、魏の勢力は、高句麗を倒して、今の北朝鮮にまで及んでいたことを知り、驚いてしまいました。

 また、この特別展のおかげで、189年に後漢より遼東太守に任命された公孫氏が、一時期独立して、満洲、いや中国東北地方の南まで勢力を伸ばしていたことや、魏呉蜀の三国は結局、どこも全国統一できず、代わって「晋」が覇者となりますが、その晋の高官の一人が、あの書聖と言われた王義之の一族だったという新知識も得ることができました。

 猛暑の東博のもう一つの目的は、本館で開催中の特別企画「奈良大和四寺のみほとけ」を参拝することでした。「観覧料:一般620円」とありましたが、平成館の「三国志」の切符(前売り券1400円)を持っていたら、無料で観られました。何か得した気分です。

 でも、本館の第11室という狭い空間だけでしたので、ちょっと物足りなく、「岡寺」「室生寺」「長谷寺」「安倍文殊院」の奈良大和四寺を実際に訪れたくなりました。

 今の自分は、年を重ねたせいなのか、三国志の英雄よりも、仏像と対面した方がはるかに落ち着き、日本人として親和性を感じる気がしました。

 (本館の特別企画は勿論、写真撮影禁止でした。)

「図案対象」と戦没画学生・久保克彦の青春

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8月は哀しい。

昨日6日は広島原爆忌、9日は長崎原爆と日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍による満洲侵攻(その後のシベリア抑留)。そして15日の終戦(敗戦記念日は、ミズーリ号で降伏文書を調印した9月2日)。

 あれから74年も経ち、戦争を直接体験した語り部が減り、テレビでは特集番組さえ消えつつあります。

 嗚呼、それではいけません。

 最近、ほんのちょっとしたきっかけで知り、感動し、興味を持った藝術作品として、東京美術学校(現東京芸大)を卒業し、徴兵されて中国湖北省で戦死した久保克彦が遺した 「図案対象」 という7メートルを超す大作があります。

美術作品は、何百万語言葉を費やして説明しても実物を見なければ無理なので、ちょうど2年前の2017年8月にNHKの「日曜美術館」で放送された「遺(のこ)された青春の大作~戦没画学生・久保克彦の挑戦」をまとめたブログ(?)がありましたので、勝手ながら引用させて頂きます。

 これをお読み頂ければ、付け足すことはありません。

 私は、このテレビ番組は見ていません。「図案対象」を描いた久保克彦の甥に当たる木村亨著「輓馬の歌 《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春 」(図書刊行会、2019年6月20日初版)の存在を最近知り、興味を持ったわけです。

この「図案対象」はとてつもない前衛作品です。全部で5画面あり、抽象的な模様もあれば、戦闘機や大型船が描かれた具象画もあります。

久保克彦は23歳の時、東京美術学校の卒業制作としてこの作品を完成させましたが、2年後の25歳で中国大陸で戦死しており、作品についての解説は残しませんでした。

 しかし、その後、あらゆる角度から分析、解釈、照合、比較研究などの考察を重ねた結果、驚くべきことに、一見バラバラに見える事物の配置は、全て「黄金比」の法則に従って、整然と並べられていたことが分かったのです。

 黄金比というのは、人間が最も美しいと感じる比率のことで、それは、1:1.618…だというのです。

 この黄金比に沿って建築されたのが、古代ギリシャのパルテノン神殿や古代エジプトのピラミッド、パリの凱旋門、ガウディのサグラダファミリア大聖堂などがあり、美術作品としては、ミロのビーナスやレオナルド・ダビンチの「モナリザ」などがあります。

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 私は、黄金比については、映画化もされたダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」を2004年に読んで初めて知りましたが、結構、身近に使われていて、クレジットカードや名刺などの縦横比も「1:1.16」と黄金比になっているようです。

 それに、今何かとお騒がせのGAFAのグーグルやアップルのロゴもしっかり黄金比を使ってデザインされております。ご興味がある方は、そういうサイトが出てきますのでご参照してみてください。

 久保克彦が、黄金比を使って「図案対象」を制作したのは昭和17年(1942年)のこと。戦死しないで旺盛な創作活動を続けていたら、「ダビンチの再来」という評価を得ていたかもしれないと思うと、実に哀しい。

 

失われた時を求めて=見つかった?高悠司

国立国会図書館

 久しぶりに東京・永田町の国会図書館に行って来ました。病気をする前に行ったきりでしたから、もう5年ぶりぐらいです。当時、ゾルゲ事件関係の人(ドイツ通信社に勤務してゾルゲと面識があった石島栄ら)や当時の新聞などを閲覧のために足繁く通ったものでした。

 今回、足を運んだのは、自分のルーツ探しの一環です。私の大叔父に当たる「高悠司」という人が、東京・新宿にあった軽劇団「ムーラン・ルージュ新宿座」で、戦前、劇団座付き脚本家だったらしく、本当に実在していたのかどうか、確かめたかったのです。

 高悠司の名前は、30年ほど前に、亡くなった一馬叔父から初めて聞きましたが、資料がなく確かめようがありませんでした。正直、本当かどうかも疑わしいものでした。

表紙絵は松野一夫画伯

 それが、最近、ネット検索したら、やっと「高悠司」の名前が出てきて、昭和8年(1933年)5月に東京・大阪朝日新聞社から発行された「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」に関係者の略歴が出ていることが分かったのです。今回は、その雑誌を閲覧しようと思ったのです。

 最初は、雑誌ですから、「大宅壮一文庫」なら置いてあるかなと思い、ネット検索したらヒットしなかったので、一か八か、国会図書館に直行してみました。 

 何しろ5年ぶりでしたから、パスワードを忘れたり、利用の仕方も忘れてしまいましたが、「探し物」は、新館のコンピュータですぐ見つかりました。何しろ86年も昔の雑誌ですから、実物は手に取ることができず、館内のイントラネットのパソコン画面のみの閲覧でしたが、申請したら、コピーもしてくれました。カラーが36円、白黒が15円でした。

 国会図書館内では、一人で何やらブツブツ言っている人や、若い係の人に傲岸不遜な態度を取る中年女性など、ちょっと変わった人がおりましたが、税金で運営されているわけですから、多くの国民が利用するべきですね。

「 レヴュウ號」目次

 7月26日に発売され、同日付の産経新聞に全面広告を打っていた「月刊 Hanada」9月号には「朝日新聞は反社会的組織」という特大な活字が躍り、本文は読んでませんが、これではまるで朝日新聞社が半グレか、反社集団のようにみえ、驚いてしまいました。右翼国粋主義者の方々なら大喜びするような見出しですが、戦前の朝日新聞は、こうして、政治とは無関係な娯楽の芸能雑誌も幅広く発行していたんですね。

 とはいえ、この雑誌が発行された昭和8年という年には、あの松岡洋石代表が席を立って退場した「国際連盟脱退」がありましたし、海の向こうのドイツでは、ヒトラーが首相に就任した年でもありました。前年の昭和7年には、血盟団事件や5・15事件が起こっており、日本がヒタヒタと戦争に向かっている時代でした。

 そんな時代なのに、いやそういう時代だからこそ、大衆は娯楽を求めたのでしょう。このような雑誌が発売されるぐらいですから。

 目次を見ると、当時の人気歌劇団がほとんど網羅されています。阪急の小林一三が創設した「宝塚少女歌劇」は当然ながら、それに対抗した「松竹少女歌劇」も取り上げています。当時はまだ、SKDの愛称で呼ばれなかったみたいですが、既に、ターキーこと水ノ江滝子は大スターだったようで、3ページの「二色版」で登場しています。

 残念ながら、ここに登場する当時有名だった女優、俳優さんは、エノケン以外私はほとんど知りません。(先日亡くなった明日待子はこの年デビューでまだ掲載されるほど有名ではなかったみたいです)むしろ、城戸四郎や菊田一夫といった裏方さんの方なら知っています。

 面白いのは、中身の写真集です。(「グラビュア版」と書いてます=笑)「悩ましき楽屋レヴュウ」と題して、「エロ女優の色消し」とか「ヅラの時間」などが活写されています。それにしても、天下の朝日に似合わず、大胆で露骨な表現だこと!

 43ページからの「劇評」には、川端康成やサトウハチロー、吉行エイスケら当時一流の作家・詩人も登場しています。

レヴュウ関係者名簿

 巻末は、「レヴュウ俳優名簿」「レヴュウ関係者名簿」となっており、私のお目当ての「高悠司」は最後の54ページに掲載されていました。

 高悠司(高田茂樹)(1)佐賀縣濱崎町二四三(2)明治四十三年十一月三日(3)ムーラン・ルージュ(4)文藝部プリント(6)徳山海軍燃料廠製圖課に勤め上京後劇團黒船座に働く(7)四谷區新宿二丁目十四番地香取方

 やったー!!!ついに大叔父を発見しました。

 一馬叔父からもらった戸籍の写しでは、大叔父(祖父の弟)の名前は、「高田茂期」なので、ミスプリか、わざと間違えたのか分かりませんが、出身地と生年月日は同じです。(4)の文藝プリントとは何でしょう?同じムーラン・ルージュの伊馬鵜平(太宰治の親友)はただ文藝部とだけしか書かれていません。(5)は最終学歴なのですが、大叔父は、旧制唐津中学(現唐津西高校)を中退しているので、わざと申告しなかったのでしょうか。

 (6)は前歴でしょうが、徳山海軍燃料廠の製図課に勤めていたことも、劇団黒船座とかいう劇団に所属していたことも今回「新発見」です。 確か、大叔父は、旧制中学を中退してから佐賀新聞社に勤めていた、と一馬叔父から聞いていたのですが、その後、「職を転々としていた」一部が分かりました。

 (7)の香取さんって誰なんでしょうか?単なる大家さんなのか、知人なのか?新宿2丁目も何か怪しい感じがしますが(笑)、ムーラン・ルージュまで歩いて行ける距離です。想像力を巧みにすると面白いことばかりです。

いずれにせよ、この雑誌に掲載されている当時あったレビュー劇団として、他に「ヤパン・モカル」「河合ダンス」「プペ・ダンサント」「ピエル・ブリヤント」などがあったようですが、詳細は不明(どなたか、御教授を!)。「ムーラン・ルージュ」の関係者として6人だけの略歴が掲載されています。そのうちの一人として、天下の朝日新聞社によって大叔父高悠司が選ばれているということは驚くとともに、嬉しい限りです。

繰り返しになりますが、大叔父高悠司こと高田茂期は、ムーラン・ルージュを辞めて、満洲国の奉天市(現瀋陽市)で、阿片取締役官の職を得て大陸に渡り、その後、徴兵されて、昭和19年10月にレイテ島で戦死した、と聞いています。33年11カ月の生涯でした。

遺族の子息たちはブラジルに渡り、その一人はサンパウロの邦字新聞社に勤めていたらしいですが、詳細は分かりません。

この記事を読まれた方で、高悠司について他に何かご存知の方がいらっしゃっいましたら、コメントして頂けると大変嬉しいです。ここまで読んで下さり感謝致します。

ジャニー喜多川さん亡くなる

Copyright par Duc de Matsuoqua

長年、ジャニーズ事務所を率いてきたジャニー喜多川さんが亡くなりました。享年87。

父親が真言宗の僧侶で、布教のため渡米したため、ジャニーさんはロサンゼルス生まれ。ビートルズがデビューした1962年、30歳の時に芸能事務所を設立して、多くの男性アイドルを育てたことは周知の通り。熱中したアイドルの名前を言えば、女性の歳がバレてしまう、とまで言われました。

私のような古いおじさん世代は、ジャニーズからフォーリーブスぐらいまで。このあとの光GENJIだのたのきんトリオだのV6だのSMAPだの嵐だの名前を知っている程度。アイドルはオネエちやんに走ってしまいました(笑)。

ジャニーさんには、若い男の子の才能を見抜く独特の感性と鑑識眼がありました。これは天性の才能なので一代限りでしょう。タレントがさまざまなスキャンダルに見舞われても、事務所がビクともしなかったのは彼の功績です。

これだけの功績を挙げながら、「裏方」に徹して、マスコミ嫌いで知られ、殆どメディアには登場しませんでした。私も芸能記者時代、広報担当のSさんを通じてメリー喜多川さんには会えましたが、ジャニーさんとは会えませんでした。

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インタビューに応じても、顔写真の撮影は厳禁。だから、野球帽をかぶりサングラスを掛けた「配り写真」ぐらいしか新聞やテレビに出てこないのです。(共同通信配信の素顔の写真はありましたが)

ザッカーバーグのフェイスブックとは真逆の人生哲学ですね。ヒトは世間に顔を晒してすぐ有名になりたがりますが、ジャニーさんは、派手な芸能界とはいえ、自分は演出家であり、プロデューサーという職業を自覚して、裏方に徹しました。その点は大変尊敬します。

僧侶だったお父さんの影響もあったのかもしれませんね。

ということで、ジャニーさんの御尊父が僧侶として修行された真言宗総本山高野山に、これから行って来ます!(羽田空港にて記憶で書きました。「ユー、やっちまいな」)

ショパンの何という曲だったか・・・?

 6月29日付のこのブログで、ポーランド映画「Cold War あの歌、2つの心」の感想文を書きました。

 実は、その中で、映画中に引用されていた、恐らくショパンだと思われるピアノ曲の題名がどうしても思い出すことができず、ブログでは「ショパンの作品」と誤魔化していたのでした。(後で、直しておきましたが=笑)

 私の趣味といえば、音楽ぐらいでして、お小遣いも本かCDばかり買っていた時期がありました。音楽のジャンルは、ロックからポップス、クラシック、ジャズ、ボサノヴァと洋楽中心でしたが、幅広く聴いて、レコードも集めていました。だから、映画に使われるクラシックやポップスなら何の曲か、大抵分かります、と書いておきます。(ついでに、「Cold War」のエンディング曲で使われたのは、グレン・グールド演奏のバッハの「ゴルドベルク変奏曲」に間違いないと思います)

 勿論、ショパンも何枚か持っています。映画を観た後、家に帰って、ショパンのピアノ曲ならタイトルぐらい簡単に分かると高を括くりながら、確認のために、自分の持っているCDをかけまくりました。当初その曲は、エチュードの「革命」か、ポロネーズの「軍隊」かと思い込んでいたのですが、どうやら違うようでした。

 そこで、ポリーニ演奏の「ポロネーズ」「エチュード」「マズルカ」、ポゴレリッチ演奏の「前奏曲」「ノクターン」、そして、ホロヴィッツ演奏の「ショパン・ピアノ曲集(ワルツ、スケルツォ、バラード、即興曲)」を何時間かかけて聴きまくりましたが、どうしても見つかりません。ブログはこうして苦労して書いているのです(笑)。

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 最後の手段として、音楽大学を出て、ピアノ教師をやっていたGさんです。彼女に「この曲、タイトルは何?」と聞くことです。ものの数秒で答えが返ってくると思ったのでした。でも、どう伝えるか?

 頭の中で浮かんでいる例の曲を口ずさんでみましたが、我ながら音痴で、音程が取れず駄目でした。仕方がないので、ラルゴかレントのサビの部分だけ、ギターで弾いてみて、それを録音添付してメールで送ってみました。

 で、結局、私の伝え方が悪かったのか、答えは「よく分からない。お役に立てず、ごめんなさい」でした。実は、私が送ったメールは彼女に届いたのですが、彼女からの返信はどういうわけか私には届かず、再度、電話で確かめてみたのでした。

 電話で、いろいろやり取りして、下手に口ずさんでいくうちに、彼女は「それなら『幻想即興曲』かもしれない…」と言うのです。

 その曲が入ったCDは、家になかったので、ユーチューブで確認しました。…なあんだ、その通り。ごめいさん、「幻想即興曲」でした。ショパンは39歳の若さで亡くなりますが、この曲は死後、出版された遺作でした。プロでも難曲と言われる弾くのにとても難儀する曲でした。でも、大変な名曲です。 タイトルを思い出す間、この曲は、ずっと私の頭の中を回っていました。なかなか思い出せないので、歯がゆくてしょうがありませんでした。

 Gさんから、最近、小生の書くブログは難しくて、ついていけない、なんて言われちゃったもんで、今日はこんな脱線した話で誤魔化しました(笑)。

【後記】

自宅にアルトゥール・ルビシュタイン演奏の「ショパン全集」(RCA Victor)があり、当然ながら「幻想即興曲」はディスク10に収録されておりました。原題は、Impromptus No.4 Op66 in C-sharp mionor “Fantasie Impromptu”

何度聴いてもいいですね。

?「Cold War あの歌、2つの心」は★★★★★

  今月上旬に予告編を観て、どうしても、何としてでも観たかったポーランド映画「Cold War あの歌、2つの心」を有楽町で観て来ました。満員でした。監督、脚本は「イーダ」でアカデミー外国語映画賞を受賞したパベウ・パブリコフスキ監督。 同作品は昨年の第71回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞しました。

 日本人は、「灰とダイヤモンド」や「鉄の男」「カティンの森」などで知られるアンジェイ・ワイダ監督作品が大好きで、ポーランド映画には馴染みがあります。この作品も、私の直感に違わず感動的な映画でした。CGやFXなどを多用するこけおどしのようなハリウッド映画とは一線を画します。製作費をかけられなくても、効果的な音楽が実にいいのです。胸にジーンと、お腹にはズシリと効いて、終わってもしばらく席から立ちあがれませんでした。

 東西冷戦下の1949年から1964年までの15年間の話です。ポーランドの舞踊歌劇団に所属するピアニスト兼音楽監督ヴィクトル(トマシュ・コット)と若い歌手ズーラ(ヨアンナ・クーリグ)が、愛し合いながらも、時代に翻弄される物語です。

 監督のパブリコフスキは、私の同世代ですが、この作品は両親を参考にして製作したようで、「両親に捧ぐ」と献辞られていました。パブリコフスキ監督は、子ども時代、冷戦下で育ったわけで、この映画の中に出てくるように、舞踊歌劇団がソ連・スターリンの政治的プロパガンダに利用されたり、ヴィクトルが強制収容所か監獄に入れられてしまう話などは事実として見聞し、フィクションとして反映したものと思われます。

 さすがに、愛し合う二人の結末がどうなるかは茲では書けませんけど、密告と裏切りが蔓延る冷戦下という非常事態でなかったのなら、あれほど、二人は狂おしいほど燃え上がることはなかったのかもしれません。

 何と言っても、この映画が良かったのは音楽が良かったからでした。ポーランドの伝統的なマズルカのような民族舞踊曲を始め、ヴィクトルがパリに亡命してからのジャズは、当時の時代を見事に再現している感じでした。(ヴィクトルは、あの難曲中の難曲、ショパンの「幻想即興曲 op66」をいとも易々と弾いてましたが、ショパンはポーランドが生んだ大作曲家・ピアニストでしたものね)

 21世紀だというのに、全編モノクロで撮影されていて、最初、何でそんなアナクロな手法をパブリコフスキ監督は取るのか理解できなかったのですが、観ているうちに分かりました。白黒でなければ、1950年代の「ジャズ・エイジ」のパリの雰囲気を表せなかったのではないか、と。(火災に遭う前のノートルダム寺院も出てきました)

 そうなると、ズーラの着る民族衣装も色彩豊かに見え、ズーラの唇には、強烈に派手で真っ赤な口紅が塗られていることが見えてくるのです。

 映画では、ヴィクトルとズーラの二人が別れたり、再会したりする15年間の軌跡を辿っていますが、演じる二人とも見事に老けていくので、メーキャップにしても凄いなあ、と思いました。特に、ズーラ役のヨアンナ・クーリグは、最初は10代の女子高生ぐらいにしか見えなかったのに、最後は、中年太りのために本当に体重を増量して、背中まで肉付きがよくなっていて、同じ人とは思えないくらいでした。

 彼女は、失礼ながら、超美人ではありませんが、華があってオーラがあり、しかも素晴らしい歌唱力もあって、誰でも心惹かれる名女優といっていいでしょう。私もすっかり、ファンになってしまいました。

 恐らく、この映画、日本でも大ヒットするんじゃないでしょうか。そう予言しておきます(笑)。

?「居眠り磐音」は★★★★、そして随時随所無不楽

  当初観るつもりはなかったのですが、高知にお住まいの岩崎先生から大いに薦められて時代劇映画「居眠り磐音」(本木克英監督)を観て来ました。(話は全く別ですが、岩波ホールの「ニューヨーク公共図書館」を観ようかと思ったら、一般2000円、シニアでさえ1500円ですからね。最近値上がったらしいですが、これでは映画は裕福な特権階級のものとなり、ますます映画館離れが進むのでは?)

 さてさて、「居眠り磐音」の主役は、豊後関前藩を脱藩した浪人・坂崎磐音役の松坂桃李(時代劇初主演だとか)。一見、軟弱そうに見えますが、なかなかの剣豪で、滅法腕が立ちます。(変な居眠り剣法には笑ってしまいますが)

 人気作家佐伯泰英の「居眠り磐音」シリーズが原作なので、内容はしっかりしているんですが、この映画では、ちょっと悲劇やら何やらを一辺に詰め込み過ぎていて、次から次に起こる騒動や事件でちょっと疲れてしまいました。

 観終わっても、何か途中で、話が終わっていない感じなので、これから続編が次々とつくられることでしょう。何と言っても、時代背景を綿密に考証した佐伯氏の原作人気シリーズですから、種は尽きないことでしょう。

 あらすじに触れると、これから御覧になる人には迷惑なので触れませんが、エンターテインメントとしてうまく出来ているので、小生のように細かいところにいちゃもんつけないで、そして、矛盾も軽くすっ飛ばして観ていれば、大いに楽しめるでしょう。

 何しろ、絵に描いたような「勧善懲悪」劇です。今の世の中は複雑過ぎるので、大いに泣けて、すっきりしますよ。

随時随所無不楽

 話は変わって、昨晩は、仕事で、裁可が長引いたため、「働き方改革」だというのに、普段よりも3時間も夜遅くまで一人で会社に居残っていたのですが、たまたま、京都の京洛先生からメールが来ました。

 手持無沙汰だったので、愚痴めいたことを返信したところ、京洛先生は「まあ、顔を出して、モグモグやっていれば何がしかを頂戴できるのですから、有難いと思わないと罰が当たりますよ。『随時随所無不楽』。意味が分かりますか?(笑)。『どんな時でも、どんな所でも、楽しみを見つける』という意味です。沢柳政太郎の座右の銘です。えっ?沢柳政太郎も知らない?(笑)東北、京都帝大総長を歴任した文部官僚で成城学園の創立者。狩野亨吉、幸田露伴、尾崎紅葉らと『帝大』の同期ですが、清廉潔白な人だったそうです」と仰るではありませんか。

 さすが、物識りの京洛先生です。小生、勿論、沢柳政太郎も「随時随所無不楽」 (随時随所楽しまざる無し) などいう銘も知りませんでした。

 お蔭さまで、手持無沙汰の3時間も「随時随所無不楽」という言葉だけで、充実したものとなりました。