「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」その1

久しぶりに寝食を忘れて没頭してしまう本を読んでいます。鹿島茂著「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」(筑摩書房・1991年9月20日初版)です。他の本を読んでいて、巻末にあった何冊もの本の広告の中にこのタイトルの本を発見し、初めてその存在を知りました。

 そこで、図書館から借りてきました。27年も昔の本なのに新品同様です。こんな面白い本なのに、今まで誰一人も借りて読んでいなかったのかもしれません。私としてはとてもラッキーですが、何か複雑な気持ちです。

私は、本も含めてモノを収集する趣味が(あまり)ありませんが、絶版されていなければ、本屋さんに注文してもいいと思いました。著者の鹿島氏は、一度だけお会いした、いや、講演会の前列で間近でお目にかかったことがあります。横浜の大仏次郎文学館ででした。

大学教授という品格はありながら、ちょっと強面で、このジラルダンのように自信満々のオーラがムンムン出ていました。何ちゅうか、「俺より頭が良くて物識りで、賢い奴はいるのかい?」といった雰囲気を醸し出していました。脳みそが重いせいなのか、首を傾げることさえも気だるそうで、しかも、短気そうに見えて、何かちょっと気に障ることがあると、怒鳴られそうでした。(あくまでも個人の感想ですが、彼は名実ともに仏文学者の最高権威でしょう。彼の著作はできるだけ読みたいと思っております)。この本を書いたときは、鹿島氏は41歳です。共立女子大の助教授の頃でしょうか。 同年に「馬車が買いたい!」でサントリー学芸賞を受賞し、世間に名前が知られるようになったジュリアン・ソレルのように脂に乗ったところでした。

で、肝心のこの新聞王ジラルダンとは何者なのか?まあ、一言で言えば、今のジャーナリズムの原点をつくった人と言っていいかもしれません。「実業之世界」や「帝都日日新聞」などを創刊して「ブラックジャーナリズムの祖」とか「言論ギャング」とも呼ばれた大分県出身の野依秀市(1885~1968)すらも、このジラルダンと比べると、そのスケール大きさで小さく見えてしまいます。

エミール・ド・ジラルダン(1806~81)。伯爵アレクサンドル・ド・ジラルダン陸軍大尉の私生児として密かにパリで生まれる。小説「エミール」を発表して文壇デビュー。新聞「ヴォルール(盗人)」「ラ・モード」発行人、出版発行人として成功し、1831年、閨秀作家デルフィーヌ・ゲーと結婚。彼女のサロンには,オノレ・ド・バルザック、テオフィル・ゴーチエ,ヴィクトル・ユゴー,アルフレッド・ミュッセら若いロマン派詩人や作家が多く集った。1834年、下院議員に当選。1836年には、30歳にして、広告掲載で収益を重視した新聞「ラ・プレス」(La Presse)を一般紙の半額(年間40フラン)で売り出して、「新聞界のナポレオン」と称されるようになった。

これだけ、頭に入れておいて頂ければ、彼のおおよそのプロフィール(横顔)が分かるというものです。

以下はジラルダン自身が、すべて史上初めて考案したものでもなかったとはいえ、世間に受け入れられたり、成功したりしたものです。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

・1828年4月5日、ジラルダン21歳のとき、親友ロトゥール・メズレーとともに発行した週刊新聞「ヴォルール(盗人)」は、その名の通り、他の新聞から剽窃し、盗んできた記事を切り貼りして発行した新聞で、年間購読料22フラン(2万2000円)という安さだったので売れに売れた。

・パリの最新流行ファッションの動向については、地方に潜在読者がいると目論で、1829年10月3日に「ラ・モード」を発行。結局、購読者の多くは、パリの宮廷や社交界の流行に敏感な紳士淑女だったが、予約購読者に作家スタール夫人の胸像のレプリカを抽選でプレゼントするキャンペーンを実施。部数拡販のためだが、恐らく、こうした「懸賞」や「景品」のアイデアは、ジャーナリズムの歴史で、ジラルダンが初めて実行。

・「ラ・モード」の巻末には、当時最高の贅沢品でステイタスシンボルでもあった馬車の絵と製造元の名前と住所を掲載。馬車製造所から掲載料を取るシステムで、これまでどの新聞発行人も試みなかったカタログ販売風の紙面スタイルを採用した。

バルセロナ

・ジラルダンは、既成の新聞や雑誌と差別化するために、才能がある新人作家や画家の発掘に力を注いだ。その代表的な作家がバルザック、ウージェーヌ・シュー、フレデリック・スーリエ、ジョルジュ・サンド。画家はカヴァルニ。

・一転、ジラルダンは「ヴォルール」と「ラ・モード」を売却して1831年10月、実業家や進歩的農民の科学的、経済的知識を深化させることで、彼らを健全な政治的・社会的な判断力を持った人間に育てる目的で「ジュルナル・デ・コネッサンス・ジュティル」(実用知識新聞)を年間予約購読料4フランという超破格価格で発行。(当時の政治新聞は平均80フランだった)その事前宣伝費に6万フランも投入した。創刊1年後、ジラルダンの予想をはるかに超えて発行部数が13万2000部となり、彼は巨万の富を手に。

・この富は散財することはせず、出版業に進出。「フランス年鑑」(生活百科の暦)、「ポケット版フランス地図」、モリエールらの文学選集「文学パンテオン」などを発行した。

バルセロナ

・新聞宣伝キャンペーンとして、街角やメトロなどの壁に広告を貼る手法は、ジラルダンの創案と言われている。

ジラルダンは1836年7月1日に、予約購読料だけでは安定した新聞経営はできないということで、これまでになかった広告収入を重視した「新機軸の」紙面づくりの「ラ・プレス」(創刊巻頭文はヴィクトル・ユゴー)を発行して、これまた成功を収めます。とにかく、19世紀フランスは、毀誉褒貶の多いジラルダン抜きには語れません。その話はまた次回に。

「恩赦と死刑囚」

先週12月19日に、「日本のスパイ王 秋草俊」の著者斎藤充功氏と、インテリジェンス研究所の山本武利理事長との3人で懇親したことを書きましたが、その斎藤氏から「当日、忘れてお渡しできなかった本です」ということで、郵送で、最新著書を送ってくださいました。

 それは、「恩赦と死刑囚」(洋泉社新書・2018年1月16日初版)という本で、タイトル通り、恩赦と死刑囚について書かれたノンフィクションでした。

 最終ページに著者のプロフィールも書かれています。お名前は充功(じゅうこう)さん、とお読みするかと思っていたら、充功(みちのり)さんとお読みするようでした。成功が充満している感じで、ご尊父は漢学者か何かのような凝ったお名前です。

 主な著書として「昭和史発掘 幻の特務機関『ヤマ』」(新潮社)などがあり、やはり、諜報関係がご専門かと思いきや、この本のような日本の刑法や恩赦等にもご興味があり、他に関連書も多く出されているようでした。

この本では、恩赦によって、死刑囚が無期懲役に減刑され、その後、保釈されて生還した人らを取り上げたり、過去の新聞記事から事件を辿り、遺族にインタビューしたりしています。まさに、新聞記者か、週刊誌のルポライターのように、足で稼いだ情報を元に書物としてまとめた感じです。

特に、2002年8月に千葉県松戸市で起きた「マブチモーター社長宅殺人放火事件」で死刑が確定した小田島鉄男死刑囚とは、彼の「身元引受人」となり、10年以上も面会したり、手紙のやり取りをしたりして交流を続け、病棟で彼の最期を看取り、葬儀まで列席する話は圧巻でした。(斎藤氏は「3650 死刑囚小田島鉄男 ”モンスター”と呼ばれた殺人者との10年間」(ミリオン出版)も出版しています)

スペイン・バルセロナ

「犯罪白書」などによると、戦後の恩赦は、昭和20年10月の第2次世界大戦終局恩赦(約42万人)に始まり、昭和27年4月のサンフランシスコ平和条約締結恩赦(約101万人)、昭和47年5月の沖縄本土復帰恩赦(約653万人)、平成2年11月の今上天皇御即位恩赦(約250万人)など12回あったようです。(となると、来年5月の新天皇御即位では、恩赦が行われることでしょう)

個人的には、随分、その数が多い気がしましたが、恐らくは、死刑から無期懲役に減刑されるのは稀なケースで、恩赦のほとんどが、選挙違反者の罪が軽くなるケースが多かったようです。となると、恩赦そのものが、やはり、政治的忖度そのものが働く感じがします。

特にマスコミを賑わす大事件は、世論の動向がかなり影響するのではないかと思われます。

スペイン・バロセロナ

ただ、冤罪で、罪のない人が拷問に近い自白で死刑になった人も、過去になきにしもあらずでしたから、恩赦そのものは、否定するべきではないでしょう。(恩赦が必ずしも冤罪の解消に直接結びつかないかもしれませんが)

先述のマブチモーター事件の小田島死刑囚は、小さいときから親に捨てられる複雑な環境で育ち、少年院を何カ所も渡り歩く生活でした。彼は、自分で「活字中毒」と言うほど読書好きだったので、家庭環境さえ良ければ、そして、悪の道にさえ進まなければ、全うな人生を、いや社会的に責任のある立派な人になっていたのかもしれません。犯罪者は特別ではなく、常人とは紙一重で、誰でも、ヒトは罪を犯してしまうものです。そういう意味では、悪を蔓延らせてしまうのは、環境や教育など社会的責任は否めない気がします。

もし、ブログを通して、斎藤充功氏と知り合わなかったら、恐らくこの本を読むことはなかったでしょう。深く考えさせられました。その一方で、斎藤氏が小田島死刑囚に面会し始めたのが、65歳の時だったといいます。斎藤氏の底知れぬ驚異的な好奇心には、脱帽するしかありませんでした。

この本を献本してくださった斎藤氏には平身低頭して、御礼申し上げます。

アレン著「シンス・イエスタデイ 1930年代アメリカ」

フレデリック・ルイス・アレン著「シンス・イエスタデイ 1930年代アメリカ」(ちくま文庫・1998年6月24日第一刷)をやっと読了しました。(最近、眼精疲労が酷くて困ります)この本は、まるで百科事典のようなクロニクルでした。(藤久ミネ翻訳、労作でした)

狂騒の時代・1920年代の米国を描いた「オンリー・イエスタデイ」の続編です。「オンリー・~」は、第1次世界大戦が終わった翌年の1919年から始まり、1929年のニューヨーク株式大暴落辺りで話は終わります。そして、この「シンス・~」は、大恐慌に始まり、1939年の第2次世界大戦勃発までが描かれます。著者のアレンが「シンス・~」のあとがきを書いた日付が1939年11月10日になっており、まさに同時進行の「現代史」を書いていたわけで、あとがきを書いている時点では、ヒトラーによるラインラント進駐やムッソリーニによるエジプト侵略、日本の中国進攻などは書き記していますが、まさか、何千万人もの死傷者を出す「世界大戦」にまで発展することは予想できなかったような書きぶりなので、勿論「第2次世界大戦」の表記はありません。(1932年にワシントンで起きた、退役軍人団体らによる恩給前払いデモを武力で排除して死傷者を出した事件。最高責任者は陸軍参謀のマッカーサーでしたが、名前まで明記されていませんでした。戦後になれば、超有名人となりますが、1939年の時点では、アレンにとって明記するほどの人ではなかったのかもしれません)

とはいえ、既に「古典的名著」と言われ、どんな歴史家もこれらの本に触れざるを得ないことでしょう。

アレン自身は、「ハーパーズ・マガジン」などの編集長を務めたジャーナリストとはいえ、現場で対象者に突撃インタビューするようなトップ屋でも探訪記者でもない、編集職のように思われ、多くのソース(情報元)は新聞や雑誌の記事などから引用していることを「あとがき」で明記しています。

スペイン・サラゴサ

1930年代の米国といえば、華やかな20年代と比べ、どうしても大不況と、街に溢れる大量の失業者と自殺者などといった暗黒の時代のイメージがあります。ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」の世界です。 ルーズベルト大統領によるニュー・ディール政策もすぐ思い浮かびます。

 とはいえ、そんな恐慌の時代でも、オリンピックが開催(1932年のロサンゼルス大会!田中英光がボート選手として出場して「オリムポスの果実」を発表)され、万国博覧会(33年シカゴ、39年ニューヨーク)まで開催されているのです。しかも、ニューヨークの摩天楼を代表するクライスラー・ビルディング(30年)もエンパイア・ステート・ビルディング(31年)なども30年代に竣工しているのです。どうも、後世の人間から見ると、30年代は決して「暗黒の時代」だけではなかったような気がします。

ベニー・グッドマンらに代表される「スゥイング・ジャズ」の全盛時代でもあり、私自身はこの30年代の米国のポピュラー音楽は大好きです。

スペイン・サラゴサ

私の好きな映画でいえば、 1936年に公開されたチャップリンの「モダンタイムズ」を初めて見たときは驚愕したものでした。私が初めて見たのは1970年頃でしたが、「えっ?あんな大昔なのに、監視カメラのような大型スクリーンがあって、ロボットのような機械があったの?」と驚いたものです。つまり、1970年からみて、40年前の1930年代は戦前であり、過去の大昔の遠い遥かかなたの歴史の出来事に思えたからです。それほど文明は進んでいないと思ってました。

若かったからでしょうね。現在の2018年から1970年代を見ると、40年以上も昔ですが、自分が生きた時代なので、70年代はつい昨日の出来事に思えなくもないのですから、不思議です。

スペイン・サラゴサ

もう一つ、映画といえば、今や古典的名作と言われる「風と共に去りぬ」が1939年12月15日にカラーで大公開されています。日本が無声映画からやっとトーキーの時代に入った頃で、天然カラー映画なんてとんでもない時代です。(1937年に日本初の短編カラー映画「千人針」が製作されましたが、戦後51年の「カルメン故郷に帰る」が日本最初の長編カラー映画というのが通説)米国と日本の国力の差が、見上げるほど圧倒的だったことは、大衆芸術の格差を見ただけでも、これで分かります。

この本に書かれた内容は、映画「風と共に去りぬ」公開前の1939年11月までですから、当然、この映画のことは書かれていませんが、36年に出版されたマーガレット・ミッチェルの原作が大ベストセラーになったことは触れています。そして、映画化も決まって、主役が誰になるのか、街で噂になっている、といったことが書かれています。まさに、新聞記事と同じような同時代の記録です。

米国では、日本と違って、ジャーナリストは現代史家として看做されているからなんでしょう。「今の時代を活写してやろう」というアレンの意気込みや野心は半端じゃなく、その成果が作品に如実に表れています。

「ビンボーでも楽しい定年後」は、かゆいところに手が届く本

 獨協大学教授森永卓郎著「ビンボーでも楽しい定年後」(中公新書ラクレ、2018年10月10日初版)は、随分、あからさまなタイトルだと思いつつ、ついつい読んでしまいました。

 著者は大学教授だったという肩書きを今回初めて知りましたが(笑)、テレビに出て、走ったり、痩せたり、タレント活動もなさっている有名人で、いじられ役のようなキャラクターのため、どこか、信用できるかどうか不安な面がありました。でも、この本を読むと「庶民的な感覚」の「下から目線」でしたので、ご同輩の皆様には大いに参考になるかもしれません。

 私は斜に構えて物事を見る癖があるのですが、著者の飾らない性格で、何でも告白してしまう態度には共感してしまいました。例えば、彼には埼玉県所沢市の自宅近くに「B宝館」と称する、趣味で集めた12万点のミニカーやグリコのおまけなどを集めた展示館があるそうですが、収集に掛かった総額は何と3000万円!(その前に中古ビルを買い取り、内装にかけたお金が1億8000万円!) でも、コレクションをテレビ番組の中で鑑定してもらったら、200万~400万円の価値にしかならなかったそうです。

 まあ、私には全く興味がない御本人の趣味ですから、何とも言えませんが、わざわざテレビに露出して、10年間休みなく働き、自分のプライバシーを犠牲にしてまで稼いだお金が、10分の1になってしまうとは、これは同情するしかありませんね。

 新書ですから、新聞を読んでも分からなかったり、浅く書いてあることでも、突っ込んで、深堀してくれるので有難いです。例えば「マクロ経済スライド」なんて言われると、何だか、素晴らしい言葉で、物価が上がると年金も増えるものと勘違いしていたら、全く逆で、これからの「人生100年時代」。平均寿命が伸びて、年給受給者が増えて行くので、それに合わせて、年給支給額を減らしていきましょう、という誠にお上に都合の良い政策でした。「長生きせずに、さっさと早く死ね」と奨励しているようなものですね。

 著者の森永氏は61歳で、学生時代の同期は定年になってますが、ほぼ全員、定年後も働き続けているといいます(例外は一人だけ)。この年代は63歳からしか年金が降りないからです。でも、定年後の年収は、現役時代の2分の1か3分の1に大幅に減っている、と書きます。

 ちょっと、待ってください。あたしなんか、2分の1や3分の1どころか、8分の1ですよ!  ポテトチップスみたいなもんです(苦笑)。森永氏は、最高学府を出た方なので、同期の方は、大企業か、国家公務員の方が多いのではないでしょうか。現実の庶民の世界は、現役の8分の1だと公開しておきます。

森永先生の取材が足りないだけかもしれません。

スペイン・マドリード

 もう一つ、昨日のこのブログで、スマホのiPhoneの最新最高機種XSをかなりの高額で買い求めたことを皆様にご報告しました。端末が高額なら、毎月の通信料も約7000円と高額です。小生の場合は、まだiPad との契約があるので、毎月約9000円は払っているのです。

 そしたら、この本を読んだら、著書は「格安スマホで十分」とお勧めしているのです。森永氏は、試しに楽天モバイルのベーシックプランを契約したところ、月額がわずか1250円の負担で済んだというのです。まるでガラケー並みの安さです(通話は30秒当たり20円)。ただし、データ通信速度は、200kpbsと通常のスマホの1000分の1で、動画向きではないそうです。彼はメールとネットを見るぐらいなので、それで十分なのですが、どうしても動画が見たい人向きは、2GBまでの高速通信と10分以内の国内通話かけ放題のスーパーホーダイ・プランの2年契約で、それでも月額1980円なんだそうです。(数字は、この本に書いているものを写しただけで、最新情報は御自分で調べてください)

 楽天モバイルのスマホそのものの端末機種にどんなものがあるのか、それに代金はいくらなのか、といったことは書いてませんでしたが、「維持費」である通信費が、小生の5分の1で済んでしまいます。

 なあんだ、知らなかった…。早く言ってよ!!

マドリードからサラゴサへ

アレン著「オンリー・イエスタデイ 1920年代・アメリカ」で学ぶ現代史

スペイン・ラマンチャ地方

近現代史といっても、これまで、自分でも、どうも偏って勉強してきた感じがします。

私は、特に、昭和2年の金融恐慌に始まり、翌年の張作霖暴殺事件、満洲事変、五・一五事件、二・二六事件、やがて開戦に至る一連の日本軍部の台頭とスパイ・ゾルゲに代表される諜報活動ばかりに目を向けてきたわけです。

しかし、それでは足りません。もっと、世界史的視野がないと、何で日本は、あんな無謀な戦争に突き進まざるを得なかったのか理由が見えてきません。

となると、ターニングポイントは第1次世界大戦だったような気がしてきます。天文学的数字の賠償金を押し付けられたドイツは、超インフレに悩まされ、やがてナチス・ヒトラーを選択して、破滅的な第2次大戦に突き進みます。ヴェルサイユ体制下で、国際連盟を提唱しながら参加しなかった不可思議な米国。金本位制から離脱した大英帝国は没落し、覇権とともに、基軸通貨も米ドルに奪われてしまいます。近代経済学はこの時代のケインズに始まったという識者もいます。

ということで、前置き長くなりましたが、手始めに、フレデリック・ルイス・アレン(1890~1954)著「オンリー・イエスタデイ 1920年代・アメリカ」(ちくま文庫)を、色々と忙しくて1カ月近くかかりましたが、ようやく読破しました。今、その続編の「シンス・イエスタデイ 1930年代」を読んでいるところです。

もともと、世界大恐慌の引き金を引いた1929年の株価大暴落「暗黒の木曜日」には興味がありましたが、1920年代そのものについてはよく勉強していませんでした。

でも、米国人にとっては、最も懐かしい思い出がある「古き良き時代」だったことが、この本を読んで初めて分かりました。それは「クーリッジ(当時の大統領)景気」とも呼ばれました。第1次大戦で疲弊した落ち目の欧州を尻目に、米国は経済的繁栄を謳歌したのでした。何しろ、針子から靴磨きまで、こぞって株に投資する時代でした。フォードを始め、自家用自動車が大衆にも行き渡るようになり、映画のほか、ニューメディアとしてラジオが生まれ、誇大広告も盛んになりました。発明王エジソンの創業したGEは、電気冷蔵庫や洗濯機を売り出します。フロリダへの過剰な不動産投資、そしてバブルがはじけて、恐慌へ。。。

スペイン・ラマンチャ地方

まるで、私の同年代に体験した現実の原点を見るかのようです。昔の話なのに古びていない。人間の心因性は変わらないことが分かります。「ローリング20s」とか「狂騒の20年代」とも呼ばれ、その風俗はフィッツジェラルドが「華麗なるギャツビー」(1925年)で活写しています。ホームラン王ベーブ・ルースの全盛期、世界ヘビー級王者のジャック・デンプシーら大掛かりなプロボクシング興行、禁酒法の時代で、シカゴではアル・カポネらギャング団が暗躍。大西洋を単独横断して一躍ヒーローに祭り上げられたリンドバーグ…この本では、ほぼ時系列のクロニクルの形式で、非常に細かい統計数字も拾って描かれているので、後世の歴史家や経済学者がどうしても参照しなければならないほど、信頼できるノンフィクションの力作になっています。

著者のアレンは、米ハーバード大学大学院で、名誉法学博士号を得て、「ハーパーズ・マガジン」などの編集長を歴任したジャーナリストです。「オンリー・イエスタデイ」が出版されたのは、1931年のことで、この時、アレンはまだ41歳という若さ。とにかく、当時のジャーナリズムの水準の高さには驚かされます。(日本では1975年になってやっと、藤久ミネ氏によって翻訳出版されました)

景気の良い20年代は、女性のスカートの丈の長さがどんどん短くなっていったのに、失業者があふれる不景気になった30年代になると、また長くなった、といった逸話も出てきます。著者の観察眼には脱帽しました。

私の知っている1960年代はミニスカートが流行しましたが、高度経済長期で、景気が良かったということなんでしょうね。

「カタロニア讃歌」はノンフィクション文学の金字塔

近未来小説「1984年」やスターリン批判を暗喩した「動物農場」などで知られる英作家ジョージ・オーウェル(1903~50、本名エリック・アーサー・ブレア、享年46)がスペイン内戦(1936~39)に参加してその内幕を描いた「カタロニア讃歌」(1938年初版、鈴木隆、山内明訳、現代思潮社)を大変遅ればせながら、今頃読んでおります。

「何で今さら?」と訝しがる皆様も多数おられることでしょうが、たまたま私はオーウェルの熱心な読者ではなかったため、この歳になるまで読んでいなかった、と正直に告白しておきます(でも、これから彼の代表作は読んでいくつもりです)。

何で、読もうかと思い立ったのは、以前にもこのブログに書きましたが、今年9月に初めてスペイン旅行を体験したからでした。スペイン旅行に行く前に読むべきだったかなあ、と思いましたが、やはり、帰国して読んだ方がよかったという結論に達しました。何故なら、この本に出てくるバルセロナもサラゴサもマドリードも、実際に行って、その土地の大地を踏み、その土地の空気を吸ったため、地理感覚ができたので、ビルバオやバレンシアや色々と他に出てくる地名も読んだだけで身近に見当がつくからです。

市街戦になったバルセロナ中心部のカタルーニャ広場やランブラス通りは、一人で1時間半ほどぶらついたので懐かしくなりました。もっとも、もしこの本を先に読んでいたら、同書に出てくるコンティネンタル・ホテルやファルコン・ホテル、それに治安部隊が占拠したカフェ・モカ(跡)を探す「歴史散歩」をしていたのではないかと思います。

それはともかく、スペイン内戦では、ジョージ・オーウェルのように、多くの外国人が「外人部隊」として参戦しました。米作家アーネスト・ヘミングウエイ、仏作家アンドレ・マルローらもそうです。また、人民戦線側で戦ったスペインの詩人ガルシア・ロルカは戦死しております。

「カタロニア讃歌」は、オーウェルの従軍記であり、ノンフィクション文学の金字塔でしょう。歴史資料としても価値があり、後世まで読み継がれることでしょう。何しろ、非常に文学的水準が高い文章です。これが、34歳前後で執筆されたかと思うと、やはり彼は天才だったんですね。(世界的にも1930年代のジャーナリストの書く文章は大変水準が高い。スパイ・ゾルゲの「本職」だった独紙特派員として書いた「二・二六事件」を分析した記事などはとても日本人には書けない硬質な分析。同じ諜報団だった仏通信社特派員のブーケリッチの記事を読んでも内容の深さに圧倒されます)

スペイン・コルドバ

オーウェルは1936年12月末、「新聞記事でも書くつもり」で英国からスペインに渡り、POUM(マルクス主義統一労働者党)の反ファシスト市民軍の兵士として、アラゴン前線に参戦します。最前線で3カ月半。37年4月末に休暇でバルセロナに戻り、同年5月の市街戦に巻き込まれます。この後、再びアラゴン前線に戻りますが、そこで負傷し、6月にバルセロナに戻ると、POUMの弾圧事件が起こり、オーウェルらは命からがらスペインから脱出します。

と書きますと、わずか半年程度の内戦体験に過ぎないと思う方が多いかもしれませんが、その微に入り細に入る戦場と市街戦の描写は、臨場感と緊迫感と弛緩にも溢れ、まるで同じような体験をしているような感覚に陥ります。

アラゴン戦線に投入されながら、驚くことに、オーウェルら兵士には最初は武器や弾薬さえ支給されないのです。3日目になってやっと支給されます。それが、1896年の日付の入ったドイツ製のモーゼル銃だったのです。オーウェルは「40年以上も前のものだ」と嘆くのです。

しかし、笑ってはいけません。日本だって、第2次世界大戦中に兵士に配給された武器は「三八式歩兵銃」だったのですから。三八式は改良版とはいえ、日露戦争の頃のものですから、40年前の武器を使っていたことになります。

歴史的結果として、反乱軍だったフランコ将軍率いるファシスト派が、ドイツとイタリアの支援を受けて、外国人有志やソ連などの支援を受けた人民戦線政府を打倒して、フランコ独裁体制が1975年まで続きます。

スペイン・コルドバ

人民戦線側が敗北した最大の理由は、共和国政府内での対立と内部分裂、いやそれ以上に内部での権力抗争が大きかったからでしょう。この本では、オーウエルが所属したPOUMのほか、PSUC(カタロニア統一社会党)、FAI(イベリア・アナーキスト連盟)、CNT(労働国民連合)、UGT(労働者総同盟)などの思想や運動方針の違いなどがかなり詳しく説明されております。

21世紀の人間が冷静に観ると考えられませんが、コミュニズムもアナーキズムもイデオロギーが万能の力を持っており、当時は共産主義が輝かしい平等社会を築いてくれるものという幻想があったのかもしれません。でも内部闘争により、POUMはトロツキストして迫害追放されます。市民らも戦いにうんざりして、革命運動から心が離れていきます。

この本では、「カタロニア人は常々、アンダルシア人のことを未開人種として見下していた」などどオーウェルの観察眼の鋭い描写が、ここかしこに出てきます。この本を読んでいると、まるで1930年代のスペインにいるようです。

「保守の真髄」を読みながら考える

今年1月に自ら命を絶たれた保守派の評論家で社会経済学者、西部邁さん(享年78)の遺書とも言うべき最期の著書「保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱」(講談社現代新書、2017年12月20日初版)を少しずつ読んでおります。

少しずつというのは、英独仏伊西語を始めラテン語、ギリシャ語まで難解な横文字のカタカナ言葉が多く、その度につかえてしまうので、スラスラと読めないからです。

自分の無学と不勉強を棚にあげてこんなことを言ってはいけませんね(苦笑)。西部さんのお書きになったものは、新聞や雑誌などなら読んだことはありますが、一冊にまとまった著書はこれが初めてのような気がします。気がする、というのは、それだけ、熱心な読者ではなかったということかもしれません。

スペイン・コルドバ

でも、この本を読んで共鳴する部分がかなりありました。西部さんに対する世間のレッテルとして、「左翼からの転向右翼」とか、「反グローバリズム」とか、「日本の対米追従批判」など多くあり、本人は「無視され続けてきた」と述懐しておりましたが、傾聴すべき論点はこの本の中にかなりありました。

ただ、「原発推進」「核武装」「国防費倍増」などといった彼の主張には同調できませんでしたが。

かつて東大教授を務めたことがあったせいか、この本では、学生にも分かりやすく説明したいといったような意気込みを感じられました。分かりやすく説明調で口述されているからです。

いつものように、感銘した部分を換骨奪胎で引用させて頂き、管見も付記しておきます。

スペイン・コルドバ

・「スマホ」という名の小さな薄い箱に精神を吸い取られてらちもないゲーム事に明け暮れする男女の群れを眺めていれば、文明は紊乱の段階を過ぎて没落に至っているのではないかとの思いが、…日々深まりゆくばかりなのである。(P20)⇒(管見)全くの同感です。

・かつてマルクスは、賃金がサブシステム・ミニマム(最低生存水準)に抑えられ労働者は単なるプロレタリー(レタリー=子孫をプロ=産むだけの存在)に落とされるのだから、いずれプロレタリアの反逆が起こるものと予想した。(P26)⇒(管見)プロレタリーの意味を知る人は少ないでしょう。

・モダンを近代的と訳したのは、日本文化における取り返しようのない錯誤であった。…モダンとは「最近の時代」のことではなく、それがモデルとモードの類似後であることから察しられるように、「模型の流行する時代」つまり「模流」とでも訳されるべき言葉であった。(P36など)⇒(管見)モダニズムとは、近代主義ではなく、模流主義ということですか。あまりピンときませんが、この方が正確なのでしょう。

・デモクラシーは素直に訳せば「デーモス(民衆)のクラティア(政治)」ということなのであるから、そしてクラティアはクラトス(力)からやってきた言葉であるから、「民衆の支配」とされるべきであった。(P84)⇒(管見)デモクラシーとは、民主主義ではなく、民衆支配ということですか。危ない。チャーチルの予見が当たりそう。

・ビューロクラット(官僚)はビューロ(「帆布」のこと、つまり組織)あるところに必ずいなければならない職員のことである。…誰も指摘しないことだが、公務に従事するという意味で役人は半ば政治家なのである。(P91)⇒(管見)かつて、日本の民主党が事務次官会議を廃止したことは、やはり、荒唐無稽だったことになりますね。

・我が国ではインテリと称されている学者や評論家やジャーナリストたるスペシャリスト(専門人)は、物事の側面についてのみの考察に傾いているので、その意見は臆説(思い込み)であることが少なくない。(P94)⇒(管見)専門バカとはよく言ったもので、専門以外のことは全く何も知らないのに、得意科目の専門を「思い込み」と言われれば、インテリの存在価値がなくなりますね(笑)。

スペイン・コルドバ

・コンスティチューションは憲法である前に国体つまり国柄のことである。(P100)⇒(管見)「この国のかたち」ということですか。

・リバティといい、フリーダムといい、自由は過剰な抑圧や恐怖や貧困からのエマンシペーション(解放)ということを意味する言葉である。(P104)⇒(管見)リベラリズムも本来は、抑圧、恐怖、貧困からの解放ということになるわけですね。

・マネーという言葉の由来はイタリアのモネータ寺院がコインを鋳造したことにあるという。(P135)⇒(管見)2017年11月14日付の日経の記事によると、モネータ(moneta)とは、英語のマネー(money)の語源となったラテン語で、紀元前ローマで女神「ユーノー・モネータ」を祭る神殿に貨幣鋳造所が併設されていたのに由来するとあります。

・経済という学問はそもそもの始まりからして「経綸問答」(中江兆民)でなければなるまい。ここで「綸」は「倫」もまたしかりだが、「物事の筋道」ということにほかならず、その「事」にはつねになにほどか貨幣以外のほかのメディアも関与するにきまっている。(P138)⇒(管見)このあと、西部氏は、集団なら権力も慣習も価値も関わるのに、貨幣の振る舞いだけ取り出して人間・社会を論じる結果、「貪欲」が独り歩きする、と喝破しております。今の経済は、株や為替など金融中心ばかりなので、これにも深く同意するしかありません。

新興宗教の今、現在は厳しそう 伸びる教団と縮む教団

Shallow men believe in luck. Strong men believe in cause and effect.

ー Ralph W Emerson(US poet, philosopher and essayist, 1803~82)

最近、とても気に入っている箴言があります。米国の詩人エマーソンの言葉です。原文は、上述しましたが、意訳するとこんな感じでしょうか。

浅はかな人間は運命や占いを信じる。でも、人に左右されない意志が固い人間なら自分の蒔いた種は最後まで刈り取る。

かなり意訳しましたが、私自身は今まで、随分、自分の運のことばかり考えていたなあ、と反省しました。「こうなったのは、運が悪かったからだ」とか、「ついてない人生だなあ」とか。。。

どうして、こうも不運ばかり続くのだろうかー? 今から15年ほど前に、北海道帯広市に住んでいた時は、地元新聞社主催の風水教室に通ったり、霊媒師に厄祓いしてもらったり、自己啓発本を読んだり、スピリチュアルな浄水を飾ったりしました。

危ないところでしたが(笑)、どこの団体にも組織にも入らなかったお蔭で、今からこうして冷静に振り返ることができると思っております。

国立西洋美術館

帯広市は、人口わずか16万人の都市でしたが、あらゆる宗教集団の寺社仏閣、教会、修行道場、祈祷所等がありました。既成伝統宗教だけでなく、新興宗教も、幕末の天理教、金光教から創価学会、エホバの証人、末日聖徒(モルモン)教(「英会話教室があります」と勧誘してきました)、それに統一教会までありました。

当時の私は、心が隙間だらけでしたから、どこかの教団に入りかねない状況ではありましたが、最終的には、性格的に組織や団体が嫌いだったせいで、どこにも入会しませんでした。

で、今日、何が言いたいのかといいますと、経済週刊誌「ダイヤモンド」10月13日号の特集「新宗教の寿命 伸びる教団 縮む教団」を読んで、随分状況が変わったものだ、と隔世の感を覚えたことです。「宗教年鑑」(文化庁)によると、平成元年の1989年に主要新宗教教団の信者数が2637万人だったのが、2016年には1591万人と4割も激減していたというのです。

若者はスマホに忙しくて、信仰にすがるほどではなくなったということなのでしょうか。

信者数が少なくなった原因については、日本社会の少子高齢化の影響や教団内の「内部分裂」と世代交代などがあるようですが、この特集では、なかなか、興味深いことが書かれております。

そもそも、何で畑違いの経済誌が宗教なんか特集するのか、最初意外な気がしましたが、宗教には、宗教法人として認められた無税のお金があったり、入会金や年会費などかなりカネが絡むわけですから、「経済」そのものです。「東洋経済」も今年9月1日号で「宗教 カネと権力 宗教界のタブー解明」を特集しておりましたね。その号は買い忘れてしまいましたが…(笑)。

週刊ダイヤモンド誌の「新宗教の寿命」では、新宗教の現在の最新情報が満載されております。換骨奪胎で列挙しますとー。

・創価学会は、今年90歳になった高齢の池田大作名誉会長が2010年から表舞台から消え、実権は原田稔会長、谷川佳樹主任副会長ら「四人組」と呼ばれる執行部が握っている。

・学会支持政党の公明党は、自民党の補完勢力となり、集団的自衛権や共謀罪、安保関連法などを是認。池田名誉会長の意に反するとして一部の会員が反発し、除名処分になり、内部にひずみが生じている。

・右翼団体「日本会議」の支持母体だった生長の家は、安倍政権の憲法解釈変更や安保関連法案の強行採決を批判し、「日本会議」も「時代錯誤的」と切り捨て、明確に決別した。保守傾向を強める公明党=創価学会に対抗し、生長の家は、右派から左派に急旋回した。

・多くの新宗教の会員が減少している中、成長を続けているのが真如苑。その要因は、「霊能者」になるまで家元制度(最低8人は新信者を獲得する)のような修行の仕組み、信者を離脱させないように「導き親」と「導き子」との濃密な関係により、ピラミッド型組織を形成し、さらには、霊能者が独立・分裂しないように「接心」は、東京都立川市にある真如苑の精舎内でしかできないことにする工夫などが挙げられる。

・新・新宗教「ワールドメイト」は1984年、深見東州教祖が設立。年間110億円の収入があり、講演会やコンサートなどイベント事業に熱心だ。オバマ前米大統領やトニー・ブレア元英国首相ら大物政治家まで招聘する。オバマ前大統領について、深見氏は「数千万円では呼べません。5億円まではいきませんでしたが」と、ダイヤモンド誌のインタビューに応えている。

・深見氏(67)は、半田晴久の本名で、みすず学院などの予備校や高級時計販売などの実業も行っているが、顔写真入りで広告宣伝活動を開始したのは60歳になってから。(そう言えば、最近、この方の顔と名前を見ない日はないぐらいですね。特に、毎日新聞紙上では)

・静岡県熱海市にある「MOA美術館」の運営で知られる世界救世教は、今年6月の理事会で岡田陽一教主を追放する決議をし、内紛状態。

・かつて霊感商法などで社会問題になった統一教会は、2012年9月に文鮮明教祖が死去した後、分裂状態にある。現在、文教祖の妻韓鶴子総裁派の「世界平和統一家庭連合」と三男文顕進氏の「FPA」と四男文國進氏と七男文享進氏の「サンクチュアリ教会」の三つに分裂している。

以下略で、詳細は、引用させて頂いた▼「ダイヤモンド」誌10月13日号の特集「新宗教の寿命 伸びる教団 縮む教団」に譲ります。

邪馬台国の久留米・八女説、鎌倉幕府成立、咸宜園、吉田ドクトリン…は「日本史の論点」で学びました

アルハンブラ宮殿の天井画(イスラムは偶像崇拝を禁止しているのに、このような具象画があるのは極めて珍しいとか)

中公新書編集部編「日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇まで」(中央公論新社、2018年8月25日初版)も、スペイン旅行の際に持って行った本でしたが、なかなか面白くて、往復の飛行機内では、かかっている映画で面白い作品が少なかったので、専ら読書に耽っておりました。

第1章の古代が倉本一宏・国際日本文化研究センター教授から始まり、中世は今谷明・帝京大学特任教授、近世が大石学・東京学芸大学教授、近代は清水唯一朗・慶大教授、現代が宮城大蔵・上智大教授と、「今一番旬」と言ったら語弊があるかもしれませんが、最先端の歴史家を執筆陣に迎え、最新の「学説」を伝授してくれます。

歴史は時代を映す鏡ですから、その時代によって変化するものです。最近では、学校の教科書から聖徳太子や坂本龍馬の名前が消えると話題になったり、鎌倉幕府の成立が、これまでは、「いい国つくろう」の1192年(源頼朝の征夷大将軍就任)だったのが、壇ノ浦の戦いで平家が滅び、頼朝が守護・地頭を置く文治勅許を獲得した1185年が、現在学界では圧倒的な支持を得ていることなど初めて知り、勉強になりました。

「日本史の論点」ですから、各時代で、長年論争になってきた「課題」が取り上げられています。

例えば、畿内説と九州説との間で論争が続いてきた「邪馬台国はどこにあったのか」。古代の倉本一宏氏は、纏向(まきむく)遺跡発掘により畿内説が学界では優勢になっているのものの、同氏はあえて九州説を取っていました。邪馬台国の邪馬台は「やまたい」ではなく、「やまと」と読むことが適切だとして、福岡県の久留米市と八女市とみやま市近辺が筑紫の中心だったと考え、この地域で灌漑集落遺跡が発見されれば、そここそが邪馬台国の可能性が高い、という説を立てておられました。

ちなみに、小生の先祖は、久留米藩出身なので、遺跡が見つかればいいなあと応援しております。

古代史専門の倉本氏はこうも力説します。「武家が中央の政治に影響力を持ち、政治の中心に座ったりすると、日本の歴史は途端に暴力的になってしまった。…もちろん、『古代的なもの』『京都的なもの』「貴族的なもの」がいいことばかりではないことは、重々承知してはいるけれども、苦痛を長引かせるために鈍刀で首を斬ったり、…降伏してきた女性や子供を皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ないものであった」と。

これは、「古代=京都=公家=軟弱・ひ弱=陋習=ネガティブ」「中世以降=武士=実力=身分差別なく能力主義で這い上がれる=ポジティブ」といった固定されたイメージを覆してくれるものでした。

他にも色々取り上げたいのですが、あと2点ほど。まずは、近世を執筆した大石氏によると、江戸時代は義務教育はなかったが、人々は知識に対して貪欲で主体的に勉強したといいます。その一例として、大分県日田市(天領)にあった「咸宜園(かんぎえん)」を挙げております。

これは、1817年(文化14年)、儒学者の広瀬淡窓(たんそう)が設立したもので、全国から生徒が集まり、1897年(明治30年)に閉鎖されるまでの80年間で、5000人近くの人が学んだといいます。生徒たちは何年間もここに下宿して勉強し、長州の大村益次郎も学んだ一人だったそうです。

◇吉田ドクトリン

話は飛びますが、永井陽之助(東工大教授)や高坂正尭(京大教授)らの説を引用して「現代」を執筆した宮城氏によると、戦後の吉田茂路線(ドクトリン)とは、「軽武装」と「経済」を重視する政治的なリアリズムだったといいます。

そして、1951年のサンフランシスコ講和会議に池田勇人蔵相の秘書官として随行した宮澤喜一(後の首相)は、54年に吉田が首相の座を追われて鳩山一郎政権が成立すると、危機感を持ったといいます。56年には「暴露本」のような「東京ーワシントンの密談」(中公文庫)まで出版します。その理由について、宮澤は、五百旗頭真氏らのインタビューで、GHQによって追放されていた鳩山や岸信介といった「戦前派」が復活して、彼らの信条通りの政治が実現すれば、明らかに戦前に遡ってしまい、せっかく、吉田茂や池田勇人と一緒になってつくった戦後の一時代が終わったと思ったからだといいます。

同じ自民党でも、昔は、中選挙区だったせいか、派閥があり、同じ保守でも思想信条がハト派からタカ派まで両極端な政治家が同居したいたことが分かります。

言うまでもないことですが、今の安倍晋三首相は、「戦前派」の岸信介元首相の孫に当たります。安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を目指して憲法改正を主張するのは、遺伝子のせいなのかもしれません。

まだまだ、書きたいのですが、この辺で。

 スペイン・アルハンブラ宮殿

「青年の樹」のモデルの藤木氏

これでも私は昔、映画に出演したことがあります。長身痩躯で美男子でしたからねえ(笑)。

でも、出演と言っても端役、いや、これも言い過ぎで、台詞もない単なるエキストラを学生時代にアルバイトで何本かやっただけでした。

その中に「青年の樹」という作品がありました。1977年公開の東宝映画(西村潔監督)で、主演は、三浦友和と檀ふみ。後から知ったのですが、原作は石原慎太郎の同名の小説(1959~60年、「週刊明星」連載)で、既に60年に石原裕次郎と北原三枝のコンビで日活で映画化されており、これが二度目でした。

横浜の港を舞台にした作品で、ヤクザ和久組の跡取りとして生まれた主人公が東京の大学に入学し、「苦闘の末、二代目となる青春怒号篇」ということですが、もう40年以上も昔なので、内容はすっかり忘れてしまっております(笑)。学生役でしたから、衣装も私服で、そのまんまでした。

撮影現場は、立教大学だったかなあという程度の記憶ですが、主役の三浦友和さんが学食で食事する場面で、彼が箸を口元に持って行くと「カット」。食べようとすると「カット」。それをアップで撮ったり、少し離れて撮ったり、右から撮ったり、左から撮ったり、そのたんびに、「カット」の連続。「えっ?これで演技できるの?」という感じでした。

溝口健二監督らが映画のことをよく「シャシン」と言ってましたが、本当に映像ではなく、写真を撮っている感じでした。そう言えば、昔は映画のことを活動写真と言ってましたからね。「あー、こうして映画が撮影されているのかあ」と思うのと同時に、「俳優って、あまり面白くないなあ」と生意気に思ってしまい、それ以来、俳優志望をやめてしまいました(笑)。

檀ふみさんは、憧れの女優で、私も大ファンの檀一雄先生のお嬢様ですからね。サインをもらいたかったのですが、彼女は勉強家でいつもロケバスの中で本ばかり読んでいて近づけない雰囲気でした。

気張った私は、単なる主役の背景になる学生なので、目立ってはいけないのに、カメラを見てしまったりして、「おい!そこの! エキストラなんだから、目立っちゃ駄目なんだよ。何やってんだよ!」と助監督に大声で怒られたことを覚えています。それで、エキストラも嫌になって、アルバイトもやめた気がします。

さて、この石原慎太郎著「青年の樹」にはモデルがいました。横浜港運協会会長で、藤木企業会長・横浜エフエム社長の藤木幸夫氏です。少し、毀誉褒貶のある方で、陰では全国的に有名な「横浜のドン」と呼ばれ、地元政財界を仕切っているという噂の持ち主です。これもまた、噂の領域を出ませんが、菅官房長官のパトロンとも言われ、横浜市がカジノを誘致した場合、一番の顔役になる人とも言われています。

その彼の半自叙伝「ミナトのせがれ」(神奈川新聞社、2004年8月18日初版)を読むように、と名古屋にお住まいの篠田先生が貸してくれました。その本の帯に石原慎太郎氏が「私はかつて、若き日の著者をモデルに『青年の樹』を書いたことがある…」と推薦文を書いていたので、自分も上述したことを思い出したわけです。

藤木氏は、早稲田大学政経学部卒のインテリながら、父親の藤木幸太郎が一代で築き上げた港湾荷役業会社を継いだ二代目です。腕力だけが頼りのかつての荷役業者には「酒と女とバクチ」にはまるヤクザな荒くれ者が多かったのです。それを父親は、自分の腕力と交渉力と良き先輩に恵まれ、カタギだけを育てたことで、全国船内荷役協会の会長まで昇り詰めます。同協会副会長が神戸の田岡一雄甲陽運輸社長だったことから、「田岡のおじさん」とは公私にわたる家族ぐるみの付き合いで、そこから世間の誤解も招いたります。

藤木氏は、中国に何度も何度も渡り、大連港の荷役業務を整備して中国政府から表彰されたり、横浜オランダの名誉領事に選ばれたりする逸話は読み応えがありました。