周恩来と日本=牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」

 牧久氏の最新作「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館、2022年8月1日初版、3300円)をやっと読了しました。

 後半も涙なしでは読めませんでした。前回のこのブログで、この本の主人公は清朝最後の皇帝で満洲国最初の皇帝だった溥儀だ、と書きましたが、もう一人、溥儀の実弟で日本人嵯峨侯爵の娘・浩(ひろ)と結婚した皇弟溥傑も忘れてはいけません。同格の主人公ではないか、と思いました。

 溥儀と溥傑は、日本と中国の懸け橋になることを望みながら、運命に翻弄され、日中戦争と太平洋戦争、そしてソ連軍侵攻、捕虜収容所生活、さらには文化革命での紅衛兵による突き上げという世界史上、例に見ない過酷な体験をします。王朝が崩壊すると、たとえ皇帝だったとはいっても、単なる下層庶民になだれ堕ち、地獄の人生が待ち受けていることが詳細に描かれています。

 まさに、筆舌に尽くしがたい体験です。どれもこれも、清朝の王家である愛新覚羅家に生まれてしまったという運命によるものでした。

 溥傑・浩夫妻の長女慧生(えいせい)は、実に不可解で驚愕の「天城山心中事件」(昭和32年12月)で亡くなります。行年19歳。父親の溥傑はいまだに中国の撫順戦犯管理所に収容されたまま。溥傑が、妻の浩と次女嫮生(こせい)に16年ぶりに中国で再会できたのは、それから4年後の昭和36年5月のことでした。

 いまだに日中間で国交のない時代に、家族の再会に尽力したのが周恩来首相でした。周総理はその後、元皇帝ということで病院をたらい回しにされていた溥儀の入院手続きまで面倒みたりします。

 周恩来は、若き日に日本に留学した経験があります。第一高等学校(現東大)と東京高等師範学校(現筑波大)の受験には失敗しますが、明治大学などで学び、マルクス主義などを知ったのも、日本の河上肇の著作を通してだったといいます。著者も書いている通り、周恩来は親日派とまで言えなかったかもしれませんが、知日派だったことは確かでした。でも、溥傑の日本人妻の浩さんのことを大変気に掛けたりしていたので、「日本びいき」だったかもしれません。

 私はこの本を読んで、中国人周恩来を見直すとともに、尊敬の念すら抱きました。毛沢東は大躍進運動と文化大革命で2000万人とも3000万人ともいわれる人民を殺害したと言われますから、とても比べようがありません。(周恩来は、文革の際、劉少奇粛清で毛沢東に協力したりしてますが)

 若き周恩来が日本留学時代によく通ったと言われる東京・神保町の上海料理店「漢陽楼」(1911年開業)にまた行きたくなりました。

 また、この牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館)は、出来るだけ多くの人に読んでもらい、中国寄りでも日本寄りでもなく、中立的な歴史を知ってもらいたいと思いました。

「気分の落ち込みから守ってくれるのは歩数」=アンデシュ・ハンセン著「ストレス脳」を読んで

 徐々に健康も回復し、やっとビールも飲めるようになりました。さらには、恐々ながら高級アイスのハーゲンダッツも食べましたが、翌日、何ともありませんでした(笑)。

 これで、少しは生きる自信を取り戻しても良さそうなものですが、またまた、色々と御座いまして、すっきりしない毎日を送っています。

 それではいけないので、アンデシュ・ハンセン著、久山葉子訳「ストレス脳」(新潮新書、2022年7月20日初版、1100円)を読むことにしました。まさに、読むクスリです。ハンセンは、ちょうど1年ほど前に「スマホ脳」を読んで、大いに感心して、私がFacebookをやめるきかっけをつくってくれたスウェーデンの精神科医です。

 間違いないだろう、と、迷わず購入したのですが、体調の関係で読むのに少し時間が掛かってしまいました。でも、目から鱗が落ちると言いますか、逆説的ながら、脳の仕組みを明瞭に解明してくれて、生きる自信も回復しそうです。

 それほど難しいことは書かれていません。約20万年前に霊長類から進化した現生人類(ホモ・サピエンス)は、約1万2000年前に農業革命が起こして定住生活するまでに、狩猟採集生活を続けてきました。ですから、99%近く、現代人の脳には、狩猟採集生活時代の進化がそのまま残っているというわけです。それは、一言でいうと、脳は「生き延びる」ことを第一に進化していったということです。そのためには、ライオンや狼などの捕食者から一刻も早く逃げること、死に至る感染症に罹らないようにすること、餓死しないよう食物を確保すること、雨露を凌ぎ、暑さ寒さから身を守るーといったことを最優先に脳が進化していったというのです。

 「生き延びる」ことが最優先ということは、幸福感とは無関係で、残念ながら、脳は幸せになるように出来ていないというのです。これには驚きです。例えば、好きな人と結婚できても、直ぐに現実に直面して離婚したくなったり、豪華なプレゼントを貰っても、すぐその喜びは消え、もっと欲しい、と欲望にキリがないように脳がつくられているということか?

 著者によると、現代人の4人に1人がウツや強い精神的不安を経験しているといいます。とはいえ、人が不安になったり、気分が落ち込んでウツ状態になる、というのは、脳が正常に機能している証拠だと言える、とまでいうのです。不安信号は、これから何か危険が迫っているので警戒するように注意しているということ。ウツ状態になって外出を控えたくなるのも、感染症が蔓延していて、他人と接触を避けようとしていること、だと言うのです、ただし、これら危険信号は、狩猟採集生活時代の脳が過剰反応しているだけで、現代のような安心・安全世界ではあり得ず、まず当てはまりません(今の新型コロナやウクライナ戦争の話はおいといて)。つまり、免疫系の過剰反応や誇大妄想などが、精神疾患を引き起こしてしまう。脳はそういうメカニズムになっているというわけです。

 以上は私がこの本を読んで勝手に斟酌したものですが、著者の言葉をそのまま引用すると、以下のようなものがあります。

 ・脳は精神的に元気でいるように進化せず、常に最悪の事態に備え(不安)、場合によっては自分を守るために引きこもらせる(ウツ)ようにした。

 ・過去に体験したトラウマをわずかでも思い出せるものは何であれ、脳に記憶を取り出させてしまう。…あなたにも時々思い出すような辛い記憶があるかもしれない。それは脳が、同じようなことが起きないようにあなたを守ろうとしているのだ。時々再体験させることで、前回どのように対処したのかを思い出させる。思い出すことで精神が悪くなったとしても、脳にしては大したことではない。脳は生き延びるために進化したのであって、幸福を感じるためではないのだから。

 ・なぜ孤独はリスクなのか? 長く孤独でいると睡眠も途切れがちになる。…独りで寝ている人は危険が近づいても誰にも教えてもらえない。だから、深く眠り過ぎず、直ぐに目が覚めることが重要だったのだ。

 さてさて、現代人がウツにならないようにするにはどうしたらいいのか?ー著者はあっけなく、回答を出しています。「運動すれば良い」というのです。精神科医として多くの患者を診察した結果、運動をしていた人がウツになる例はあまり見られなかったというのです。「毎日じっと座っている代わりに15分間ジョギングするだけで、ウツになるリスクが26%減る。1時間、散歩しても同じだけリスクが下がる。つまり、ジョギングのように心拍数の上がる運動は散歩の約4倍も効率的だということだ。15分以上走ったり、1時間以上散歩したりすると、さらに防御効果が高まる。」(175ページ)

 著者のハンセン氏は「最終的に、あなたを気分の落ち込みから守ってくれるのは歩数なのだ」とまで言い切ります。狩猟採集時代、人間は1日平均、1万5000~1万8000歩は歩いていましたが、今の西洋諸国の現代人の平均は5000~6000歩と、昔の人のわずか3分の1しか歩いていないというのです。 

 世界はパンデミックとなり、私も映画館や博物館に行くことは減り、部屋に引き籠って、本ばかり読んでおりました。そして、いつの間にか、心身ともに不調になっておりました。

 これからは、一日平均8000歩は歩くことを目標にして、免疫系の「過剰反応」から我が身を守ることにしますか。                                      

「徳川十六将」と阿茶の局のこと=恐るべき家康の人心掌握術

 またまたNHK大河ドラマの「便乗商法」と知りながら、「歴史人」8月号「徳川家康 天下人への決断」特集を購読してしまいました。いや、「タイアップ記事」かもしれませんが。

 2023年の大河ドラマは「どうする家康」が予定されています。戦国時代を終息させ、260年の太平の世をつくった徳川家康に関しては、私もある程度知識があるつもりでしたが、やはり、この本で初めて知ることが結構ありました。

 例えば、武田信玄との「三方ヶ原の戦い」で敗退した家康は、辛うじて命拾いをして浜松城にまで逃げ帰りますが、その途中で、家康の影武者になり、身代わりになって討ち死にしたのが夏目吉信という家臣でした。その彼の子孫に当たるのが、明治の文豪夏目漱石だったとは知りませんでした。ただ、夏目吉信の子孫はその後、旗本に取り立てられ、漱石の夏目家は代々、牛込の庄屋を務めていた家柄だったため、断定できないという説もあるようです。

 徳川家臣団のうち、「徳川四天王」と呼ばれた酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政は大体、履歴は分かっておりましたが、「徳川十六将」に関しては、整理できておりませんでした。というのも、徳川の家臣には、大久保や鳥居や松平や本多や酒井の名字が実に多いからです。

 徳川家臣団の中で、世間でも有名な「伊賀忍者」服部半蔵こと服部正成は、「徳川十六将」に入っておりました。でも、「三河物語」の著者でもある有名な大久保彦左衛門こと大久保忠教(ただたか)は、「十六将」に入っていません。その代わり、彦左衛門の兄で、家康の父の代から仕えていた大久保忠世(ただよ)と大久保忠佐(ただすけ)が「十六将」に選ばれています。

 大久保といえば、本多正信との権力争いで敗れた老中の大久保忠隣(ただちか)も有名です。彼は、大久保忠世の嫡男で、小田原藩主も務めました。忠隣は、「十六将」には入っておりません。

 本多正信も「十六将」に入っていませんが、江戸幕府草創期のブレーンの筆頭として活躍しました。三河の下級武士出身で、三河の一向一揆では一向宗門徒側に就きましたが、後に許されて大出世することになります。同じく一向宗側に就いて許され、その後、戦陣で活躍した武将として、渡辺守綱蜂屋貞次が「十六将」に選ばれています。このように、人質時代から苦労している家康は、家臣に対して寛大で、かつては敵だった今川や武田や織田氏の家臣を徳川家臣団に取り込んで拡大していきます。恐るべき家康の人心掌握術です。

 大久保忠隣を政争で追い落とした本多正信の嫡男正純は、逆に大久保家などからの恨みを買い、「宇都宮城釣天井事件」で二代将軍秀忠暗殺の嫌疑を掛けられ、改易させられます。

名古屋城

 徳川十六将の中で、私でもよく知っているのは鳥居元忠です(弟の忠広も十六将に選ばれています)。彼は、家康が今川の人質時代から過ごした古参の一人で、関ケ原の戦いの前哨戦と言われた伏見城の戦いで、西軍に敗れて自刃しています。その際の血染めの廊下が、京都の養源院(豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の二十一回忌に建立、火災で焼失したが、淀君の妹で二代将軍秀忠の正室お江により再建)の天井として使われています。私は以前にこの養源院を訪れたことがあるので、血染めの天井は、鳥居元忠の名前とともに強烈な印象として残っているのでした。

 家康は11男5女をもうけたと言われますから、正室と側室は、名家の娘から町娘に至るまで15人以上いたといいます。正室の築山殿は、母が今川義元の妹でしたが、武田氏に通じているという嫌疑で殺害されます。

 側室の中で注目したのは阿茶の局です。家康との間に子宝に恵まれませんでしたが、大変、聡明な人だったらしく、関ケ原の戦いで、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返る仲介をしたとも言われ、大坂の陣では、家康の意向で、本多正純板倉重昌らとともに和議の交渉役を果たしたといいます。また、秀忠の五女和子が後水尾天皇に入内する際に母代わりに入洛し、天皇から従一位を賜りました。

【徳川十六将】

 酒井忠次(1527~96年)、本多忠勝(1548~1610年)、榊原康政(1548~1606年)、井伊直政(1561~1602年)=以上「徳川四天王」、米津常春(1524~1612年)、高木清秀(1526~1610年)、内藤正成(1528~1602年)、大久保忠世(1532~94年)、大久保忠佐(1537~1613年)、蜂屋貞次(1539~64年)、鳥居元忠(1539~1600年)、鳥居忠広(?~1573年)渡辺守綱(1542~1620年)、平岩親吉(1542~1611年)、服部正成(1542~96年)、松平康忠(1545~1618年)

法華経とは何か?=田村芳朗著「日蓮 殉教の如来使」

 「ヤクルト1000」が売り切れ続出というニュースを思い出した昼休み、新橋演舞場近くで、ヤクルトおばさんを発見したので、注文してみました。ヤクルト1000が結構、ずらっと例の乳母車のようなボックスカーに並んでいたからです。

 そしたら、おばちゃん、「あら、すみませんね。ここにあるの全部、この辺の予約なんで、売り切れなんです。会社も早くもっと量産してくれたらいいんですけどねえ」と平謝りでした。

 実売価格1本140円(宅配向け)ということですが、ネットで500円以上で転売しているらしく、日本人のマナーが世界に知られてしまっております。

 さて、田村芳朗(1921~89年)著「日蓮 殉教の如来使」(NHKブックス・1975年10月1日初版)をやっと読了しました。日蓮聖人の遺文(著作や書簡など)が直接文語体のまま引用される箇所が多く出てきて、法華経というお釈迦様が最後に唱えた集大成と言われる大変奥深い教えの話ですが、難解で、何度も何度も同じ個所を読み返したりしておりました。

 驚いたことに、この本は1975年が初版だというのに、鎌倉幕府の成立を我々が学生時代に習った1192年ではなく、さり気なく1185年としているところでした。凄い先見の明があります。また、戦後30年という時期に出版されたわけですから、まだ戦中世代が40歳代以上の現役です。日蓮(1222~82年)が戦時中に国家主義(田中智学の国柱会など)として利用されたことなどに関してはツボを押さえて批判しています。

 管見によれば、鎌倉新仏教の中で、来世の浄土世界での幸福よりも、現世での利益(幸福)追求を強調したのは法然でも栄西でも親鸞でも道元でも一遍でもなく日蓮であって、その純粋さと過激さゆえ迫害されます。しかし、後世は、その時代その時代で都合良く解釈されて、利用されやすかったのではないかと思われます。新興宗教は神道系が多いのですが、仏教系では断然、日蓮宗系が多いのがその証拠なのではないでしょうか。

 しかし、またまた管見ながら、日蓮の思想哲学は、特定の団体や組織のものではなく、万人が自由に学んでも構わないと思っております。むしろ、特定の団体や組織だけのものに独占させるべきではないと思っております。

 国学者の平田篤胤に至っては、日蓮宗と浄土真宗が神社参拝を禁じたことから、日蓮と親鸞をかなり痛烈に批判しています。

銀座・ロシア料理「マトリキッチン」日替わり定食 デザート1100円

 何と言っても、釈迦牟尼仏が涅槃に入る前に説いたと言われる法華経を信奉したのは日蓮が最初でもなく、唯一でもありません。(サンスクリット語のナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラを南無妙法蓮華経と漢訳したのは鳩摩羅什だと言われています。)

 聖徳太子の著作「三経義疏」の中に法華経を註釈した「法華義疏」がありますし、法然も栄西も親鸞も道元も日蓮も学んだ総合仏教大学とも言うべき比叡山では、法華経は必須課目で、天台本覚思想の根幹とでも言うべきものでした。日蓮より23歳年長の道元が主著「正法眼蔵」の中で最も引用した経は、法華経でした。

 何も日蓮は、釈迦の説く法華経を拡大解釈したり、曲解したりしたわけでありません。素直に解釈した結果、法華経に書かれている「他国侵逼」(しんぴつ=他国侵入)と「自界叛逆」(自国内乱)が近いうちに起きることを「予言」してしまっただけでした。実際、この天災と戦乱の時代、日本は国難に襲われます。国難とは二月騒動(名越の乱と北条時輔の乱)といった内乱と二度にわたる蒙古襲来(元寇)という他国侵入のことです。

 時の権力者は日蓮の説法に一切耳を傾けることなく、逆に日蓮は、何度も法難(受難、迫害、弾圧)に遭います。中でも、1264年に地頭の東条景信に小松原(現千葉県鴨川市)で襲撃され、頭に傷を負った「小松原の法難」(この時、日蓮の信者だった天津=現鴨川市=の領主工藤吉隆が討死)や1271年、佐渡流罪が決定した後、相模依智(現神奈川県厚木市)にある佐渡の守護代だった本間重連の館に送られる途中、龍口(たつのくち)で斬首に遭いそうなった「龍口法難」が有名です。

 こうした国難と法難、それに天変地異と疫病流行等による病死や餓死者などに多く接した日蓮は、殉教者として、宗教者としての意志を堅固にしたと思われますが、残念ながら寒さの厳しい身延山(信者になった甲州の波木井氏が土地と住居を提供)で病を得て、常陸に湯治に行く途中の武蔵国池上で志半ばで亡くなります。行年60歳。しかし、志半ばだったことが逆に弟子たち(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の6長老)に艱難辛苦を克服して布教に邁進する原動力になったのではないでしょうか。

 同書では何故なのか理由は書かれていませんが、鎌倉時代に日蓮宗はあれほど迫害されたというのに、室町時代になると京都町衆のほとんどが日蓮、ないし法華信徒になったといいます。(そう言えば、織田信長の本能寺も日蓮宗でした)琳派の祖と言われる本阿弥光悦も、徳川家康を支援した豪商茶四郎二郎も、それに狩野永徳や長谷川等伯まで日蓮信者だったといいます。江戸期に入っても、浄瑠璃作家の近松門左衛門や浮世絵の菱川師宣、葛飾北斎までも熱心な信奉者だったと言われます。北斎は「日蓮上人一代図会」を残しています。

 日蓮自身は、次々と押し寄せる人生の荒波と苦難のせいか、大著を残しておらず、その代わりに短編が無数に存在しているといいます。古来、どの書を基準とするか論議された結果、「立正安国論」(39歳)と「開目鈔」(51歳)、「勧心本尊抄」(52歳)を三大部、これに「撰時抄」(54歳)と「報恩抄」(55歳)を加えたものを五大部と呼ぶようです。私はまだ一冊も読んだことがありませんので、いつか読んでみたいと思っております。

 最後に、法華経とは何か? 妙法蓮華経のことで、妙法とは宇宙の絶対的真理、蓮華とは、五濁乱漫の現世でも白蓮を咲かせよという教えで、特別な修行をした出家者だけでなく、老若男女隔てなく、全ての人間が平等に救済されるという思想です。

【追記】

 最近の文献学によると、法華経は、釈迦最晩年の作ではなく、釈迦入滅後、数百世紀を後の紀元40~220年頃に成立したというのが有力のようです。

 第1の序品から第22の嘱累品(ぞくるいほん)までが原型で、第23の薬王菩薩本事品から第30の馬明菩薩品までは後世に追加されたと言われています。しかも、追加部分は、オカルト、呪術的思想や男女差別思想などがあり、後世の創作だと言われています。

 日蓮聖人は、1222年生まれということですから、今年はちょうど生誕800年の記念の年でした。

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」の「改定普及版」が出ました

 スマホ中毒の私でしたが、FacebookなどのSNSを控えたお蔭で、中毒から立ち直りつつあります(笑)。

 要するに、ご贔屓筋からの「いいね!」などが気になり、電車の中でも、歩いていても、寝ても醒めてもスマホをいじっている悪循環が続いていたようです。いい年をして、「餓鬼かあ~?」と叫びたくなります。

 アプリの「サウンド」も「表示」もオフにしましたので、何の通知も来なくなり、気にならなくなりました。これが本来の姿だと思えば良いのです。

銀座・イタリアン「エッセンス」Aランチ(コーヒー)1100円

 思い返せば、私が初めてパソコンを買ってインターネットを始めたのは1995年のことでした。当時は、まだダイヤル式接続で、ブラウザはネットスケープナビゲーターを使い、動画は夢のまた夢で、画像が1分ぐらいかけて出て来ると大喜びでした。メールなんかも1週間に1回チェックする程度でした。牧歌的時代でしたねえ。

 今では車内を見回すと、90%の人がスマホと睨めっこしている時代になりました。スマホ中毒から解放されると、やはり、最先端の人類があんなものに振り回されて気の毒に見えるようになりました。

 さて、昨日、拙宅に版元から本が届きました。著者は、皆様御存知の松岡將氏でした。「えっ?また新刊出されたの?」と吃驚したら、表紙は見たことがありました。2年前に出された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」(5280円)の「改定普及版」(同時代社、2022年6月30日初版、2750円)でした。

 2年で普及版を出されるとは、よっぽど評判で版を重ねていたのでしょう。確かに、「アングルのバイオリン」ながら、著者の写真撮影技術はプロ級でした。

 2年前の底本と今回の改定普及版と何処が違うのかと言いますと、まず大きさです。底本は大型のA4判のハードカバーでしたが、普及版は持ち運びも出来るソフトカバーのA5判です。

 中身のギャラリーの絵画の写真も、底本では額縁付きが多かったのですが、今回は額縁なしの画像です。これは、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの方針変更で、作品の中で、「パブリック・ドメイン」と明示されていたら、その作品の当該画像をダウンロードして一般利用が可能になったからだといいます。(著者の「あとがき」より)

 確かに、美術作品の場合、著作権はかなり厳しいです。個人が撮影した絵画の画像でも、新聞記事や出版物に掲載する際には著作権料が発生します。特に、MやPやFはうるさいことは、昔、美術記者だった私も経験上知っています(苦笑)。

 でも、ワシントン・ナショナル・ギャラリーがこうして「方針」を変更してくれたお蔭で、掲載写真がスッキリした感じになりました。

 恐らく、私自身はこの先、ギャラリーのある米ワシントンDCに行く機会が巡って来ないと思われますので、ワシントンに行ったつもりになって、この本を読みながら脳内で館内を散策しようと思っています。

 ついでに、スマホ中毒からも脱却するとしますか。

日蓮の旅、8月に身延山へ

 8月の夏休みは、日蓮宗の総本山身延山久遠寺に行くことにしました。昨夏、お参りする予定でしたが、コロナ禍の影響でキャンセルせざるを得なかったのでした。今年はそのリベンジで、義理と人情で同じ宿を予約しました。

 身延山は、あの水戸黄門さまも御宿泊されたという宿坊に泊まり、帰りは、海音寺潮五郎と高浜虚子が定宿にしていたという武田信玄の秘湯・下部温泉のホテルに一泊することにしました。

 最近、鎌倉時代の歴史を勉強したおかげで、大分、知識が増えました。私自身は、日本史の中で、鎌倉新仏教にはかなり興味がありましたので、その政治的、経済的、社会的背景が分かって大変参考になりました。つまり、鎌倉新仏教が生まれる土台や基盤が少し分かったということです。

 その鎌倉新仏教の代表とも言える浄土宗(法然)の知恩院、浄土真宗(親鸞)の東西本願寺、臨済宗(栄西)の建長寺、建仁寺など、曹洞宗(道元)の永平寺、時宗(一遍)の清浄光寺といった総本山、大本山にはかつてお参りしたことはありましたが、日蓮宗の総本山(祖山というらしいですが)だけはまだお参りしたことがなかったので、死ぬ前にいつか是非お参りしたいと思っておりました。

 しかも、日蓮は、私の亡父が、個人的に最も関心を寄せていた人物の一人であり宗教でした。とはいえ、特定の団体や組織に入会することは嫌って、独り書斎で関連書籍を収集して読んでいる程度でしたが…。私なんか読めない難解な専門書が多くありましたが、今回は私でも読める本を何冊か実家から借りてきました。そのうちの一冊が、この田村芳朗(1921~89年)著「日蓮 殉教の如来使」(NHKブックス・1975年10月1日初版)です。田村氏は当時、東大教授。もう半世紀近い昔の本なので、表現が少し古い箇所がありますが、日蓮の膨大な遺文を第一次史料として、実証的に検討した評伝です。実証的というのは、後世に日蓮を神格化して書かれたものや、呪術的、奇跡的行為などは極力排除して、日蓮の真の実体に迫ろうとした意欲作という意味です。

 当時の書評は知りませんが、恐らく熱烈な信者や宗教界からは、日蓮が自称した「旃陀羅(せんだら)が子」という出自を始め、神懸りなカリスマ性がそれほど強調されていないということで批判されたかもしれません。私自身は、この本こそ、人間日蓮に真に迫っていると大変評価していますが…。

鎌倉・長勝寺

 昨夏、「身延山に行こう」と思い立ったのは、佐藤賢一の小説「日蓮」(新潮社)に感銘を受けたからでした。小説ですから、「講釈師見て来たような嘘を言う」部分もあるかもしれませんが、関連文献を相当渉猟していたようで、史実を忠実に再現し、しかも人物像が生き生きと浮かび上がって、大変面白い魅力ある読み物に仕上がっていました。

 今回は、かなり鎌倉幕府の知識が増えたので、この本を再読すればもっと面白く読めるかもしれません。例えば、日蓮の代表的主著と言われる「立正安国論」を幕府の最高権力者だった最明寺入道に提出しましたが、この最明寺殿とは第5代執権北条時頼のことで、時頼と聞けば、色んなことが思い浮かびます。出家しても、息子の時宗が執権になっても、「院政」に習って、最高権力者の地位に就いていたこと。南宋の僧蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を創建したこと。また、執権時代は、前将軍・藤原頼経の側近だった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して起こそうとした武力行動を鎮圧したこと(名越の乱)。そして、有力御家人であった三浦氏や千葉氏を滅ぼしたことなどが挙げられます。

 8代執権時宗の時代では、二度にわたる蒙古襲来(文永・弘安の役)に加え、六波羅探題の北条時輔による反乱など内憂外患に苛まれました。つまり、内乱と海外侵略です。

 この二つを「予言」したと言われるのが、日蓮が北条時頼に提出した「立正安国論」ということになります。すなわち、日蓮は、正法が消えうせた時には、国土に様々な災難が起き、それは法華経に書かれている他国侵逼(しんぴつ=他国侵入)と自界叛逆(自国内乱)のことだと喝破したのでした。

 承久の乱の翌年(1222年)に安房の漁師の子として生まれた日蓮は、北条時頼、時宗と同時代人ですから、上に掲げた内乱や蒙古襲来によって、結果的に予言が的中し、経験したことになります。

鎌倉・龍口寺

 しかし、「立正安国論」等は時の為政者や宗教界では全く受け入れられず、逆に弾圧、挑発されて依怙地になった日蓮は、他宗派を攻撃し始めます。そのいい例が、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言です。これで幕府や地頭からだけでなく、他宗派からも恨みと反感を買い、何度も訴えられて伊豆や佐渡島に流罪となります。特に、文永8年(1271年)、佐渡流罪を問う裁判に引き立てるために、鎌倉の日蓮の草庵を襲って逮捕したのが、平左衛門尉頼綱でした。佐藤賢一の「日蓮」を読んでいた昨年はあまりピンと来なかったのですが、今では平頼綱といえば、北条氏の伊豆時代から仕えた古い御内人(みうちにん)だということが分かります。8代執権時頼と9代執権貞時の執事として大きな権勢を振るった人です。ライバルの安達泰盛を霜月騒動で滅ぼしますが、逆に彼の恐怖政治を恐れた執権貞時によって誅殺されました(平禅門の乱)。

 一介の無名の僧に過ぎなかった(当時)日蓮は、北条時頼や平頼綱といった時の権力者の存在を知り、蒙古からの国書到来など一部の人しか知り得ない内外情勢の事情に通じていました。かなりの情報通です。そんな俗世間から離れた聖界の人が、何処から情報を得るのか不思議でしたが、田村芳朗氏の「日蓮 殉教の如来使」には、早い段階(1256年)で日蓮に帰信した人の中に、北条氏一門の名越光時(あの名越の乱で、伊豆に流された人)の重臣である四条金吾頼基や武蔵池上郷の地頭池上宗仲(後に屋敷に池上本門寺を建立)・宗長兄弟がいたことが書かれていました。恐らく、このような日蓮に帰依した武士たちが、日蓮に当時の政治情勢を伝えていたと思われます。(となると、内乱も他国侵入も「予言」ではなく、確かな情報に基づいた確信だったのではないかと思われます。)

 とにかく、この時代は大地震など天変地異が続発し、飢饉や疫病がはびこって、鎌倉の道端でも屍が累々といった状況で、巷では飢えた物乞いが群れをなし、まともな薬や医療もなく加持祈祷のみが頼りでした。

 数多の迫害や法難(龍の口など)に遭いながらも、最後まで自己の信念を貫き通した日蓮は、こうした国難と人心の不安といった惨状を間近に見て、黙っていられなかったと思われます。

【追記】

 私の父親が九州の片田舎から上京して、初めて住んだのが東京・蒲田(私は此処で生まれました)で、近くに池上本門寺があったことから、日蓮に興味を持ったようでした。

 何しろ、私の子供の時の家族旅行が千葉県の誕生寺(日蓮生誕地)だったぐらいですから(笑)。

 鎌倉への関心は、小学校5年の時の遠足が原点です。バスガイドさんが車内で「七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎 名将の剣投せじ古戦場」と文部省唱歌「鎌倉」を歌ってくれました。お土産にカルタを買ったら、「日蓮の龍ノ口の法難」があって、急に稲光が起きて、日蓮を処刑しようとした武士たちが恐ろしくなって逃げたカードもありました。

 そんな記憶があるので、日蓮聖人からは逃れられません。

斯波も細川も畠山も一色も足利氏で村上源氏だった=皇族と藤原氏が1300年以上も政権中枢を担う国日本

 最近の渓流斎ブログは、歴史のことばかり書いています。小生を、鬼の首を取ったように誹謗中傷する気の毒な人がいるからです。気の毒というのは、明らかに拙ブログを読まないで中傷するからです。何か被害妄想のようで、自分のことが書かれたと誤解していると思われますが、歴史上の人物なので、残念ながら、生きている貴方のことであるわけありません。それが、読んでいない証拠です。

 歴史を勉強すると、人間というものは、古代から、豹変、裏切り、日和見、我田引水、滅私奉公、お家大事だけを信奉して生きて来たことが分かります。我々は彼らの子孫なのです。歴史上の人物がこの有り様ですから、彼らのDNAを受け継いでいる生きている人間は尚更、豹変したり、心変わりしたりすることが分かります。

 例えば、鎌倉時代だけを見ても、凄まじい粛清と権力闘争の嵐です。源義経、源範頼、上総広常、比企能員、畠山重孝、阿野全成、平賀朝雅、梶原景時、三浦泰村…と根も葉もなくても「謀反の疑い」を理由に、中には一族もろとも滅亡させられています。

 その半面、鎌倉時代の権力闘争に辛うじて生き残った一族の子孫は、次の室町・南北朝時代どころか、戦国時代、幕末、明治、昭和、現代と権力の中枢に返り咲いたりしています。武士も大名も御先祖様が、桓武平氏、清和源氏だったりすると、皇族の末裔ということになりますから、結局、日本という国は、皇族(天皇家)とその外戚の藤原氏が1300年以上も政権中枢を担ってきた国だということになります。

 以前にこのブログにも書きましたが、「鎌倉殿の13人」の一人、公文所寄人・中原親能の子孫が戦国時代の豊後の大名大友宗麟で、初代政所の別当大江広元の子孫が、戦国時代から幕末に歴史の表舞台で活躍する毛利氏でした。

 「鎌倉殿の13人」の中には入っていませんが、島津氏の祖である島津忠久は、清和源氏流と言われていますが、源頼朝の有力の御家人となり、薩摩、大隅、日向、越前と異例にも4カ国もの守護職に任じられました。この島津氏は、戦国時代、幕末明治と九州の大名として存続し、昭和天皇の第5皇女が島津家に嫁がれるなど、天皇家と姻戚関係になっています。

鎌倉五山の第5位 浄妙寺

 また、「鎌倉殿の13人」の中に入っていない超有力御家人が、足利義兼(よしかね)です。「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目。栃木県足利市の足利氏館をつくった人と言われ、1188年に鎌倉五山の第5位の浄妙寺(臨済宗建長寺派)を創建しました。

 何で、足利義兼が超有力御家人なのかといいますと、ズバリ、室町幕府を開いた足利尊氏の御先祖さまだからです。義兼は、源義経を始め、河内源氏一族でさえ粛清の嵐に巻き込まれる中、辛うじて生き残ったわけです。それだけではありません。足利氏の分派といいますか、流れを汲む子孫には、室町幕府の将軍を補佐する「三管領」である斯波氏も、細川氏も、畠山氏がいるからです。つまり、斯波も細川も畠山も、足利氏であり、村上源氏だったというわけです。

 ちなみに、斯波氏は、足利家氏が陸奥斯波郡を領地としたから。細川氏は、足利義季が三河細川郷を領地としたから。そして、畠山氏は、足利義純が、北条氏によって滅亡させられた畠山重忠の旧領を与えられ、しかも、足利義純は、畠山重忠の正室だった女性を自分の妻にして畠山氏を存続させています。

 また、室町幕府の侍所長官である所司に任ぜられた四家を「四識」と言いますが、主に山名氏、一色氏、京極氏、赤松氏の四家が務めました(当初は、清和源氏の土岐氏、畠山氏も入れた六家。赤松氏が没落して三家に)。山名氏は、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子孫義範が、上野国多胡軍山名(現群馬県高崎市)に所領を得たから。一色氏は、足利公深が三河国吉良庄一色に本領を得たから。京極氏は、承久の乱で戦功で近江守護に任じられた佐々木信綱の四男氏信が京都の京極高辻に館を構えたから。赤松氏は、村上源氏の一流で、九条家領播磨国佐用郡佐用荘赤松村を本拠とし、赤松則祐が最盛期で、室町時代、播磨・美作・備前の守護となりますが、関ケ原の戦いでは西軍に属し、一族は戦死ししたため、断絶します。

 こう見ていくと、日本史上で貴種ではなかった者が天下を取ったのは、農民出身と言われる豊臣秀吉ただ一人だと思われます。信長の織田家も、清和源氏の美濃守護土岐氏の家臣である守護代に過ぎなかったのが、一種の下剋上で這いあがり、やはり足利氏の支流である今川義元を破ってからは、天下取りまであと一歩のところまでいきます。徳川家康の祖先松平家は河内源氏の新田氏の末裔を自称していますが、否定する学者もいます。

 このブログの最初の方で、「日本という国は、皇族とその外戚の藤原氏が1300年以上も政権中枢を担ってきた国だ」と書きましたが、その良い例が、先の大戦中に首相を務めた近衛文麿です。近衛家は、藤原北家嫡流で公家の五摂家筆頭。代々、摂政関白を務めた公爵家です。

 もっと最近では平成5年から翌年にかけて内閣総理大臣を務めた細川護熙氏です。彼は肥後細川家の第18代当主です。この細川氏と言えば、足利氏であり、足利氏と言えば、村上源氏で、皇族の末裔ではありませんか。

歴史は学び直しが必要=「キーパーソンと時代の流れで一気にわかる鎌倉・室町時代」

 相変わらず、鎌倉幕府と中世史にハマっています。

 というのも、結構、関連書籍を衝動買いしてしまい、積読状態になっていたからです(苦笑)。

 この本は中身を見ずに、タイトルと、監修が今は時めく東大史料編纂所の本郷和人教授ということで、信頼してネットで買ってしまいました。

 でも、買ってすぐ後悔してしまいました。どぎついイラストで、どう見ても、お子ちゃま向けで、大人が電車の中で読むには恥ずかしくて憚れるほどでした。

 11ページに「1392年 足利尊氏が幕府の最盛期を築き、ついに南北朝合一」と大きな活字で出てきますが、これは明らかに足利尊氏ではなく、足利義満の間違いでしょう。尊氏は1358年に53歳で亡くなっていますからあり得ません。こんな間違いを碩学の本郷大先生が見抜けないわけがなく、恐らく、名前を貸しただけで、この本を読んでいないんだろうなあ、と思われます。これで、「監修」というのは、本を売るための手段だということが分かります。間違っているかもしれませんけど。

 でも、全体的に、教科書のようにツボを押さえた記述で、年表や地図や系図などが盛り込まれていますので、大変分かりやすいです。私自身は、何故、鎌倉幕府が滅んだのかその理由が知りたかったのですが、腑に落ちる解説をしてくれました。

 元寇では、御家人だけでなく、非御家人まで全国から動員されました。しかし、元の連中を神風で?追い払っても、幕府には恩賞として与える所領があるわけではなく、次第に御家人たちの不満が執権の北条氏に向けられます。それに呼応して、権力奪回を図る後醍醐天皇が不満武士をたきつけて、倒幕運動に邁進し、ついに、足利高氏・新田義貞軍が幕府を滅ぼします。結局は、経済問題だったということが分かりました。

 最初にイチャモンを付けましたけど、この本はよく出来ています。私の高校時代の教科書ではほとんど取り上げられなかった、というか、私の世代では習わなかった「平禅門の乱」(1293年)や「中先代の乱」(1335年)、「観応の擾乱」(1350年)などにも触れらています。

 また、我々の世代は、源頼朝の挙兵から平氏の滅亡まで、「源平合戦」「源平の争乱」などと習っていましたが、最近では「治承・寿永の乱」と呼ぶらしいですね。源氏対平氏の単純の構図ではなく、例えば、頼朝の下に馳せ参じた千葉氏も上総氏も畠山氏も三浦氏も坂東平氏だったからです。

 もう言わずもがなですが、鎌倉幕府の成立が、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年ではなく、守護・地頭が設置された1185年の方が今の多くの教科書で採用されているといいます。

 それに、戦前は、天皇中心の国家主義の高まりの中、南北朝時代の「南朝」が正統であり、「楠木正成が忠臣で、足利尊氏は逆賊」と教科書で教えられました。(戦後は、南朝正統論の支配から解放され、足利尊氏も客観的に評価されるようになりました。)

 やはり、歴史は学び直さなければいけませんね。

「和田義盛の乱」、三浦義村裏切りの真相

 「歴史人」7月号(「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」特集)をやっと読了しました。戦国時代の豊後の大名大友宗麟の御先祖さまが、「鎌倉殿の13人」の中原親能だったとか、梶原景時を追撃した駿河の武士・吉川友兼が、戦国時代の吉川氏の御先祖さまだったとか、教えられることが多く、色々と勉強になりました。

 でも、誤植や間違いが多過ぎました。私が発見しただけでも7カ所はありました。特に酷かったのは、「8代執権・時宗の祖・一遍もまた武士層に心の支えを与えていた」と105ページに書かれていることです。時宗(じしゅう)の開祖一遍上人が、8代執権北条時宗(ときむね)の祖になってしまっています! 明らかに筆者の記憶違いなのでしょうが、校正の段階で気付くはずです。編集長も目を通していないのではないでしょうか?

 名前の漢字の間違いも結構見受けられましたし、商品価値を貶めてしまうことになります。繰り返しになりますが、これらは校正の段階で直せるはずです。もう優秀な人材が出版界に入ってこなくなってしまったということなのでしょうか?

 あまり批判しても、しょうがないので、最終的にはこの本(雑誌)を買って良かった、と私は思っていることを強調しておきます。本当に色んなことを教えてもらいました。

 最後に一つだけ、取り上げてみますと、「和田義盛の乱」のことです。侍所の別当(長官)も務めた最有力御家人の一人である和田義盛は、三浦義明の孫であり、三浦一族です。乱を起こす直前に、一族の三浦義村からの支援を得るために起請文まで交わしたというのに、結局、最終的に三浦義村は裏切って、北条義時側に付きます。とても不可解で、さっぱり理由が分からなかったのですが、この本には、考えられる真相が列挙されていて、それを読んで初めて納得できました。

 まず、三浦義村にとって、和田義盛は、父方の従兄弟に当たりますが、北条義時は、母方の従兄弟でもあったのです。義村が、義盛よりも義時側に付いたのは、三浦一族の中で、義村がトップに立ちたかったからで、侍所別当など大出世している和田義盛は目の上のたん瘤だったというわけです。そういうことだったら、理解できますね。

 鎌倉幕府の初期は、血と血で争う権力闘争で、親子だろうが、兄弟だろうが、従兄弟だろうが関係ありません。むしろ、幕府御家人の幹部連中は、ほとんど全て、政略結構で姻戚関係を結んでいますから、義父だったり、義兄弟だったり、乳母子同士だったりします。

 「古今著聞集」巻十五「闘諍」の中に、寝返った三浦義村が千葉胤綱(千葉常胤の曾孫)から「三浦の犬は友を食らう」(三浦は同族を裏切った)と詰め寄られた話が出てきます。

 それを言ったら、始まりません。初代将軍源頼朝は、平氏滅亡の最大の功労者で、異母弟でもある源義経と源範頼まで自害・暗殺に追い詰めています。

 二代将軍頼家も三代将軍実朝も暗殺され、有力御家人だった「坂東武者」比企能員も、畠山重忠も、梶原景時も北条時政の陰謀で誅殺され、そして、時代は下って、三浦泰村(義村の次男)も五代執権北条時頼によって一族が滅亡され(宝治合戦)、北条氏に対抗できる御家人がいなくなり、北条家の独裁政権が確立します。(ちなみに、時頼は、鎌倉大仏をつくり、蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を創建した人です。)

 鎌倉幕府の初期は、いつ何時、寝首をかかれてもおかしくないマフィアの抗争みたいな時代です。戦乱と疫病と飢饉で明日のの命も知れず、元寇という国難も起きました。貴族や武士だけでなく、民衆も何か精神的に縋りたいものが欲しいことはよく分かります。だからこそ、浄土宗、禅宗、日蓮宗など鎌倉新仏教が生まれ、彼らに支持され発展したのでしょう。

 運慶、快慶ら仏師が活躍した「写実主義」の時代でもあり、彼らの仏像や作品は今でも感動します。でも、命がいくつもあっても足らない鎌倉時代に生まれなくてよかった、と私なんかつくづく思ってしまいます。

上総介の本当の意味とは?=「鎌倉殿の13人」の上総広常

  相変わらず、「歴史人」7月号の「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」特集を読んでいます。複雑な人物相関図なので、真面目にこの本を、他の本に掲載されている系図などを参照したりして読むと、読了するのに2~3週間は掛かる情報量があります。

 鎌倉幕府と中世史に興味が湧いたのは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響です、と以前、このブログでも書きましたが、正直、ドラマは見ていてつまんないですね。戦記物の話なのに、三谷幸喜の脚本は、橋田壽賀子のファミリードラマみたいだからです。源平合戦のドラマなら、以前なら必ずといって良いぐらい出てきた、例えば、那須与一の扇の弓射だとか、熊谷直実と平敦盛との一騎打ちだとか、「見るべきほどのことは見つ」と壇ノ浦の戦いで最期の言葉を残した平知盛とか、奥州平泉の戦いでの弁慶の立ち往生などは、ワザとらしく、ことごとく故意に省略しおります。本人は、革新的に描いたつもりのようですが、画竜点睛を欠きますね。見たくもない親子、きょうだい間や御家人同士の嫉妬や憎しみ合いを重視している家族劇、心理劇を見せつけられている感じがします。

 そもそも三谷さんは合戦シーンを書くのが苦手なようです。6年前の「真田丸」でも重要な関ケ原の戦いの合戦場面が全く出て来ないので唖然としました。合戦シーンは人馬が多く登場し、ロケに莫大な費用が掛かります。となると、制作費が少なくて済む三谷さんは、「NHK泣かせ』ではなく、「NHK喜ばせ」です(笑)。だから、何度も大河ドラマの脚本家に指名されるんでしょうね。

 批評はこれぐらいにして、「歴史人」に戻りますと、87ページにこんな記述があります。

 (上総)広常は「介(すけ)」を称する地方官人で、受領(国司)からすれば使用人レベル。京にあっては院のそば近くにも寄れない卑小な存在。…

 と書かれていますが、何かの間違いではないかと思います。何故なら、上総国は、そのトップの長官職に当たる「守(かみ)」には皇族が任命されるからです。つまり、上総守は名誉職で、実際は次官に当たる上総介がトップだからです。ですから、「上総介が使用人レベル」という言い方はどうかなあ、と思うわけです。(それに、上総広常は2万騎の兵を引き連れて、頼朝に従った大豪族でした。)

 このような、トップに皇族が任命される国は、他に上野、常陸などがあり、「親王任国」と呼ばれます。皇族が実際に地方のトップとして任地に赴任する場合は少なく、実体は、その次官の上野介や常陸介がトップになるわけです。(古代より四等官は「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」の順です、)

 ですから、歴史上、忠臣蔵で有名な吉良上野介や幕末の小栗上野介は出てきても、何とか上総守や上野守や常陸守は見かけないわけです。

 上総介といえば、戦国時代の織田信長がこの上総介を称していました。実際、信長の織田家は、地方の領主からやっと尾張守護代にまで這い上がって来た「成り上がり者」に過ぎません。(その当時の尾張守護は斯波氏)。何故、信長が上総介と称したのかというと、尾張守護代より上総介の方が格上だと思ったからだという説があります。私もそう思います。

 と思ったら、ネット情報ですが、こんな記事が出てきました。 

 桓武平氏の祖である高望王が平姓を賜った直後、上総介に任官し、「坂東平氏」が始まります。高望王の長男国香、次男の良兼、また五男良文の孫で、「平忠常の乱」で知られる忠常も上総介を名乗っていました。ということで、坂東平氏にとって「上総介」とは、平氏一門の総領格を意味しました。(一部換骨奪胎)

 なるほど、そいうことでしたかあ。

 信長の本名は、「平朝臣織田上総介三郎信長」というのだそうです。織田家は平氏の末裔を自認しているので、坂東平氏のトップである棟梁の意味を込めて上総介を自称したということかもしれません。

 ちなみに、徳川家康は新田氏の末裔を自称したので、源氏です。新田氏は、源頼朝と同じ河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が最も有名です。

 以前、日本近世史の専門で2年前に亡くなった山本博文・東大史料編纂所教授の本を読んでいたら、江戸時代になると、大岡越前守とか吉良上野介とかいう役職は必ずしもその実態が伴うものではなく、「官職」として売買され、自分の好きな国の守や介を自称できたというのです。ただし、江戸城がある武蔵国の守や介は「畏れ多い」ということで自称も他称もできなかったようです。

 あ、そうそう、大老職も本来、老中を長年務めた人の名誉職だったようで、井伊氏の大老職も、田沼意次から買った、と山本博文の著書(何の本だったか失念)に書かれていました。

 いつの世も、「金次第」ということなのかもしれません。