中原親能と梶原景時を追撃した吉川友兼の子孫は戦国時代にどうなったのか?=「鎌倉殿の13人」

 相も変わらず、鎌倉幕府と中世史にはまっています。勿論、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響ではありますが、あまりにも知らないことが多過ぎました。

 近現代を知るには、やはり、幕末・明治維新にまで遡らないと本質が見えてこないし、幕末を知るには、戦国時代や関ケ原の戦いのことを知らなければ見えてこない。その戦国時代は、日本人に最も人気がある時代と言われていますが、これも、やはり、武家政権を初めて樹立した鎌倉幕府と中世史を知らなければ、さっぱり分からないーといった具合です。

 またまた、「いつも同じ」と批判されそうですが、「歴史人」最新号である7月号の「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」という便乗商法(笑)特集を読んでいたら、これまで、何を勉強してきたのか疑われるほど、知らないことばかり出てきました。

 例えば、その「鎌倉殿の13人」の一人、中原親能(なかはらのちかよし)です。北条時政・義時親子や大江広元、梶原景時らと比べると影が薄い、知る人ぞ知る玄人好みの人ですが、源平合戦では、源範頼軍の参謀役を果たし、平家滅亡後は、鎌倉で頼朝側近の公事奉行人となり、対朝廷外交を担った人でした。その親能の嫡男が大友能直で、その子孫が戦国時代の豊後と一時期九州六国の大名になった大友宗麟だというのです。へー、です。

 「鎌倉の13人」の大江広元の子孫は、戦国時代の長州の毛利氏、そして、御家人島津氏は、戦国時代は薩摩から九州全土まで制圧したあの島津氏で、両氏とも幕末の表舞台で活躍することは知ってましたが、中原親能⇒大友宗麟は、全く知りませんでした。

 大友宗麟は、キリシタン大名でしたが、領民のために南蛮人による西洋医学を取り入れた病院を建てたりして福祉という先見の明があり、今でも大分県民に崇拝されている戦国大名です。

 そして、もう一人。文楽や歌舞伎でもよく題材に取り上げられる有名な梶原景時ですが、最期は無残です。まあ、言ってみれば「謀叛」の嫌疑をでっち上げられて、御家人衆に弾劾されて鎌倉を追放されます。(梶原景時は、頼朝に密告などして、周囲の御家人から嫌われたのも理由でしたが)鎌倉幕府内はまさに血で血を争う粛清の嵐で、まるで「ゴッドファーザー」のマフィアのような、それ以上の血生臭い抗争が頻発します。比企能員も畠山重忠も和田義盛も、そして何よりも二代将軍頼家も三代将軍の実朝まで暗殺されますから、剥き出しの権力闘争です。

 梶原景時も、2万騎の兵を引き連れて頼朝を支援した最も恩顧のあるはずの上総広常を、頼朝の命令で暗殺しておりますが、今度は自分の番です。駿河国狐崎(きつねざき=現静岡市清水区)で追撃を受け、地元の武士・吉川友兼と一騎打ちとなりますが、両者相打ちとなり、景時と嫡男景季らは背後の山に退きつつ戦いますが、最期は討たれてしまいます。(駿河国の守護は、北条時政だったので、時政が最初から梶原景時の追い落としを狙っていたという説があるようですが、恐らく、その通りではないでしょうか)

 梶原景時と相打ちとなった吉川友兼は亡くなりましたが、その子の朝経が加増されて、梶原氏の所領だった播磨国揖保郡福井荘の地頭に任ぜられます。この人こそが、戦国時代の吉川氏の祖先だというのです。吉川氏は、戦国武将毛利元就の長門周防統一によって、毛利氏に組み込まれますが、家は存続します。「三本の矢」で有名な元就の正室の三兄弟のうち、長男隆元は毛利氏を継ぎますが、次男元春は吉川氏、三男隆景は小早川氏と養子縁組という戦略で平定されるわけです。

 この次男の吉川元春。「きっかわ・もとはる」と読みます。そこで、「吉川」という名字は、関西では「きっかわ」、関東では「よしかわ」と読む人が多いとばかり思っていたのですが、きっかわ氏がもともと、駿河出身だったとは、驚くばかりでした。

古代律令制の崩壊と中世武家社会の誕生=荘園を通して考える

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響で、鎌倉幕府、延いては、中世史に興味を持つようになりました。NHKの影響力は恐ろしい。

 と思ったら、博報堂系列会社の調査(今年1、2月、15~69歳男女652人回答)によると、生活者の1日当たりのメディア接触時間の平均が、2006年の調査開始以来初めて、スマホがテレビを抜いたというのです。スマホは1日、146.9分、テレビは143.6分だったとか。テレビよりも、スマホの影響力の方が大きくなった、ということです。(6月15日付日経朝刊)詳細は分かりませんけど、若者は圧倒的にスマホで、高齢者は、まだまだテレビかもしれませんけど。

 いずれにせよ、テレビの影響で、鎌倉幕府を勉強し直したら、これが滅法面白い。中世は、日本史の中でも特異な時代で、思っていた以上に大変革期の時代でした。でも、源頼朝が鎌倉幕府を開いたとか、承久の乱で、天皇の権威が失墜して武家政権の時代が確立した、といった政治面の話だけでは満足できず、たまたま会社の近くの書店で立ち読みして面白そうだった武光誠著「荘園から読み解く中世という時代」(KAWADE夢新書、2022年1月30日初版)という本を購入しました。(この書店は、築地の東劇ビルにあった「リブロ東銀座店」でしたが、5月末で閉店してしまいました!こうした偶然的な本との出合いがなくなってしまい、誠に残念です)

 この「荘園」の本は、古代から中世にかけて、日本人の経済的基盤となった荘園について詳述したもので、荘園というキーワードで日本の歴史を読み解いていくと、表に出てきた紛争や戦乱、政権交代などの原因がよく分かるのです。所詮、人間というものは、経済(=石高や金)によって動く生き物だということなのでしょうね(笑)。

 まず、702年に大宝律令が施行され、朝廷(=天皇)に租庸調の税金を納める律令制度が始まります。が、743年に墾田永年私財法が制定されたことで、租税だけで済むようになり、貴族や寺社が原野を切り開いて「初期庄園」(平安時代半ばから荘園)を始めるようになります。

 この庄園で働いていた農民の中には、農作物を貯め込んで裕福になり、「富豪層」と呼ばれ、その多くが10世紀に最下級の武士になったと考えられるといいます。同時に中央の上流貴族(公卿=左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議)社会から排除された中流貴族が地方に移住し、朝廷とのつながりを保つために自領を荘園にします。また、上流貴族から「卑しいもののふ」と蔑まれていた桓武平氏、清和源氏などの軍事貴族も郡司に代わって村落の小領主を束ねるようになったといいます。一方、朝廷から任命された国司は、現地に赴任せず、地元の小領主らに租税を納めさせ、その領収書を受け取るだけだったことから、「受領」と呼ばれたりしました。

 いわゆる摂関政治は、藤原道長、頼通親子でピークを迎え、頼通は日本最大の荘園の領主となります。しかし、この頼通とその弟の教通(のりみち)が皇室に送り込んだ后に、皇女しか生まれなかったことから、天皇の外戚として権勢を振るっていた藤原氏による摂関政治は崩壊します。この機会を逃さなかった後三条天皇は、息子の白河天皇に譲位して、自らは上皇として院政を敷こうとします。つまり、摂関家という母方から、上皇という父方によって、天皇の権威と影響力を取り戻そうとしたというのです。いやあ、この著者の武光氏の解説は、目から鱗が落ちるように、院政がスッと理解できました。後三条上皇は院政を始める直前に病没してしまいますが、この後三条天皇から日本の中世が開始するという学説が今は最も支持されているようです。

 院政を始めた白河上皇は、院領荘園の設置に取り掛かります。この時、源義家や平正盛・忠盛親子らは、警備を務める北面の武士の一員として白河院に接近し、その院の引き立てによって国司(受領)となり、財力をつけたことから、荘園は、武士台頭の経済的基盤になったわけです。そして、彼らの子孫である平清盛や源頼朝が、天皇や上皇を差し置いて、政権を握るようになります。

 承久の乱で、天皇らの荘園も没収されて、関東の御家人に分配されたので、鎌倉武士が獲得した領地を荘園とは呼ばないと思いますが(いや、御家人たちは、戦利品で獲得した荘園を所領地とした、という言い方の方が正しいので)、この荘園制度は、細々ながらも鎌倉、室町、戦国時代と引き継がれ、豊臣秀吉による「太閤検地」で終焉を迎えました。この古代から長い歴史のある荘園制度を終わらせた秀吉は、所領を守るために武装化した農民から「刀狩り」もしたわけですから、やはり、革命的な凄い人物だと改めて思いました。

【追記】2022・6・16

 鎌倉時代初めまで、京都の朝廷が最新の技術と学問と文化を独占していたといいます。それが、地方にまで技術や文化が浸透していったのは、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗など鎌倉新仏教の僧侶のお蔭だった、と著者の武光氏が書かれていたことを追記するのを忘れておりました。

 これまでの旧仏教(南都六宗)は、あくまでも、天皇皇族や貴族のための宗教で、国家鎮護が目的でした。それを、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、苦行をしなくても、庶民でも救われるという革命思想を唱えたのが法然でした。地方に布教した僧侶たちは、読み書き、算盤まで庶民に伝えたのではないでしょうか。

 日本にお茶を伝えたのが、臨済宗の開祖栄西だといいますから、それに伴う生け花やわびさびなど現代にまで伝わる日本文化を広めたのも新仏教の僧侶だったわけです。

 

千葉、大月、米子、臼杵…面白い地名の由来

  いつも渓流斎ブログを御愛読賜り、洵に有難う御座います。特にFacebookにポップアップすることは止めましたので、直接このサイトにアクセスしなければなりません。わざわざアクセスして頂きまして、本当に感謝申し上げます。

 さて、相変わらず、学者さんでもないのに本ばかり読んでいます。「本は捨てて、街に出なければ駄目ですよ」と寺山修司のような人生の先輩がおりますが、最近、どうも、映画さえ観に行く気がおきません。傲慢ですが、他人が作った妄想についていけなくなりました(笑)。

 古今東西の名作と言われる絵画、彫刻、陶磁器、青銅器、インスタレーションも見尽くしたので、美術館や博物館に行くのもどうも…と偉そうなことを言いたくなりますが、要するに、田舎の自宅からわざわざバスと電車を乗り継いで都心に出掛けるのが億劫になってきたということなのでしょう(笑)。

 今のところ、本の方が何よりも面白い、と正直に告白しておきます。

 「歴史道」(朝日新聞出版)21巻「伊能忠敬と江戸を往く」を読みましたが、この雑誌の伊能忠敬特集は飛ばし読みしてしまいました。映画とタイアップしたパブ記事(宣伝)であることが見え見えで、その宣撫活動に嫌気を指したからでした。それに、伊能忠敬なら、千葉県香取市にある伊能忠敬記念館にも行って、ちゃんと現地で取材して、関連本も読んだことがあるので、それほど驚くほどでもないと思ったからでした。

 それでも、この雑誌を買ったのは、古地図の読み方や日本全国の地名由来事典が掲載されていたからでした。

 例えば、徳川家康が1590年、小田原征伐の後に豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられますが、一面湿地帯の上、何度も洪水の被害に遭う難所でした。(小石川、赤坂、牛込は沼地だった)そのため、利根川と荒川の流れを変えたり、神田山を削って、日比谷の入江などを埋め立てしたりして、大改革を成し遂げたことはよく知られています。大雑把に言いますと、利根川の大半は銚子に流れを変え、行徳の江戸湾に注ぐ川を江戸川に、荒川が勢いを弱めて江戸湾に注ぐ支流が隅田川になります。

 また、佃煮で有名になった佃島は、家康が大坂摂津の佃村から連れて来た漁師集団(森孫右衛門一族33人)がつくった村だというのは知っておりましたが、彼らは単なる漁師ではなく、軍事船の船頭だったということをこの本で知りました。要するに、三河の家康は江戸土着の人たちを信用していなかったのです。佃村の森孫右衛門は、本能寺の変の後、逸早く、堺にいた家康の逃亡の水路を確保して助けたことから、家康から絶大な信頼を得ていたというのです。

 このほか、私自身が知らなかった勉強になったことを列挙します。

・古地図で、江戸の上屋敷(大名、家族、家臣が住む)は「家紋」、中屋敷(嫡男と隠居した先代が住む)は「🔷」、下屋敷(別荘、蔵)は「●」で表示された。

・千葉県は鎌倉時代の御家人千葉常胤に由来するのではなく、下総国千葉郡に由来する。千葉は茅が生い茂る土地「茅生(ちぶ)」が転化したという説が有力。

・山梨県の大月は、「大きな欅の木」が由来。欅の古称が「槻」で、「大槻」が、寛文検地の際、駒橋から月が一層大きく見えたことから、「大月」となった。

・長野県の安曇野は、白村江の戦い(663年)で水軍を率いた安曇比羅夫(あずみのひらふ)の一族が移住したという説あり。

・名古屋市の御器所(ごきそ)は、熱田神宮に献上する土器をつくっていたことから命名された(既報)。

・兵庫県の神戸。神社に租庸調を収める農民のことを神戸(「かんべ」または「かむべ」)と呼んだことから由来するので、全国にある。兵庫の場合は生田神社。

・鳥取県の米子は、「八十八の子」の意味。この地の長者が賀茂神社に詣でて、88歳の高齢で子を授かったから。

・大分県の臼杵は、臼杵古墳に由来する。出土した石甲(せっこう=甲冑をまとった武人の石像)が、逆さにすると臼と杵の形に似ていたことから。

・愛媛県今治(いまばり)の治は、「張」「針」「墾」が転訛したもので、開墾という意味。尾張も、本来は「小墾(おはり)」だった。

アダム・スミスの「国富論」と税金のお話

 東京国税局の現役職員(24)が、国の新型コロナウイルス対策の持続化給付金を詐取していた事件には本当に吃驚、唖然としました。(約10億円も不正受給してインドネシアに逃亡した詐欺師もおりましたが)

 本来なら税を徴収し、不正を糺す側の人間が、逆に不正受給という悪に手を染めていたとは! 例えは悪いですが、警察官が泥棒を捕まえたら、実はその泥棒は現役の警視正だったようなものです。いや、警視正ではなくて、巡査でもいいのですけど。(このオチは、警察官の階級を知らなければ面白くありません)

 持続化給付金に関しては、私自身、もし申請すれば、100万円ぐらい受給できると思っています。コロナの影響で、外国人観光客が途絶え、通訳ガイドの仕事がなくなってしまったからです。私が辛うじて所属している通訳団体からも、給付金の申請の仕方の案内メールが何度も来たりしましたが、私は結局、申請しませんでした。

 嫌だったからです。原資は国民の税金ですし、受給しても後ろめたかったからです。

 そもそも、税は主権国家の根幹をなすものです。税収がなければ、予算も組めず、国家として成立できません。だから、民主主義国家なら、国民は、政治家指導による税金の使い道は厳しくチェックしなければなりません。なんて、堅い話を書いてしまいましたが、ほとんどの人は、無関心でしょうね。ただし、納税、収税に関しては敏感です(笑)。

 ビートルズのアルバム「リボルバー」(1966年)1曲目に「タックスマン」という曲が収録されています。ジョージ・ハリスン作詞作曲のヴォーカルで、ポール・マッカトニーがリードギターという珍しい組み合わせです。歌詞は皮肉たっぷりです。「もし、車を運転するなら道路に課税しよう。…もし、散歩するなら脚に税金をかけましょう。だって、俺はタックスマン(徴税人)だからさ」といった調子です。

 徴税人と言えば、すぐにイエス・キリストの十二使徒の一人、マタイのことを思い起こします。古代ローマ帝国では、取税人とか収税官とかいったらしいですが、マタイはイエスの弟子になり、「マタイの福音書」の記者だという説もあれば、別人だという説もあります。当時でも嫌がられた税金徴収者が、聖なる使徒に変身するギャップは印象的です。

 徴税は古代国家が成立して以来あることでしょう。

 ところで、いまだしつこく、私は、ほんの少しずつアダム・スミスの「国富論」(高哲男・九州大名誉教授による新訳=講談社学芸文庫)を読み続けているのですが、今読んでいる下巻の後半部分で、スミスの時代の18世紀の税金の話が出てきます。土地や建物や貿易の関税やビール、ワイン、塩、タバコなどに掛けられた税金は現在でも当然のように受け継がれていますが、この時代、部屋の暖炉や窓にも課税されていたとは驚きでした。為政者たちは、「取れるものなら何でも取ってやろう」といった魂胆が丸見えです。

 この本には書かれていませんが、この時代は絶対王政ですから、王様が絶対的な権力を持っていました。国民から徴収した税金は、何に使われたのかなあ?まさか、王様が、中国や日本から陶磁器を買ったり、奢侈品を買ったり独り占めにしたわけではないだろうなあ?と素朴な疑問を持ちながら読んでいます。

 スミスの時代の主君は、ジョージ3世(1738~1820年)です。81歳と当時としては長寿で、在位も1760~1820年の約60年という長期間です。(世界最長はフランスのルイ14世1638〜1715年の在位72年で、先日6月6日には英国のエリザベス女王がそれに次ぐ在位70周年を迎えた)

 ジョージ3世の時代は、七年戦争、アメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオン戦争というまさに激動期でしたから、税金の大半は戦費に使われたのではないかと想像されます。他に街のインフラ整備にも使われたかもしれません。

 と、まあ取りとめもないことを書き連ねましたが、アダム・スミスの「国富論」は難解過ぎるので、こうして脱線しながら読まないと続けられないからでした(笑)。

 こんな難解な「国富論」を、このブログの愛読者でもある大阪の栗崎さんは、学生時代に原書(英語)で通読されたという話を聞いて吃驚してしまいました。世の中には秀才がいるんですね。

 【追記】2022年6月10日

 アダム・スミス(1723~90年、行年67歳)「国富論」上下(高哲男・九州大名誉教授新訳=講談社学芸文庫)をやっと読了できました。正直、ところどころをやっと理解できたといった感じです。

 結局、スミスが最後に言いたかったのは、「訳者解説」にあるように、植民地経営のため、軍隊を送り、返済できないほどの国債を発行して厖大な戦費を調達し、国民の富を浪費し続けてきた大英帝国の統治者=政治家を批判することにあったようです。政治家だけでなく、政治家にそのような政策を進めさせた一部の商人や、製造業者による重商主義政策もスミスの批判の対象になりました。

 アダム・スミスは、無神論者で、スコットランドのエディンバラで生涯独身を通しましたが、哲学者デイヴィビッド・ヒュームや化学者・医師ジョゼフ・ブラック、地質学者ジェイムズ・ハットンら親友との交友を楽しみました。また、毎週金曜日に開催される公演会で、ヘンデル、コレッリ、ジェミニアーニらの室内楽、協奏曲を愉しんでいたという面もあったようで、そこだけは、人間らしい近しさを感じました。モーツァルトとも同時代人ですね。

熱田神宮の草薙神剣は本物だった?

 渓流斎ブログの「熱田神宮と「自宅高級料亭化」計画=名古屋珍道中(下)」で、「宝物館」の受付の女性と大口論寸前にまでいった話を書きました。

 熱田神宮には、「三種の神器」の一つである草薙神剣を所蔵されていると言われますが、壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに海中に沈んでしまったというので、「こちらの草薙神剣は本物ですか? 本物は壇ノ浦に沈んでしまったのではないですか?」と受付の人に聞いたら、「いえ、あちらは形代(複製?)でしたから、本物の神剣は非公開ですけど、ちゃんとこちらで所蔵しております。何なら、神職を呼びますかあぁぁーー!?」と怒られた話を書きました。

 正直、私自身はあれからずっと「わだかまり」を持っていたのですが、自宅書斎で積読になっていた古い雑誌「歴史道」第20巻「古代天皇の謎と秘史」特集(朝日新聞出版、2022年3月15日発行)の稲田智宏氏の書かれた「三種の神器に隠された真実」を読むと、少し疑問が氷解しました。

 稲田氏によると、三種の神器は、第10代崇神天皇が「畏れ多い」ということで、「本体」のほかに、新たに神鏡(八咫鏡=やたのかがみ)と神剣(草薙神剣)の「分身」を作らせたといいます。三種の神器の残りの八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)はそのままです。ちなみに、初代神武天皇と「欠史八代」と言われる二代綏靖天皇から九代開花天皇までは「神話の世界」で実在性を証明するのが乏しく、10代崇神天皇こそが初代天皇だという説があります。

アベノマスクがハンケチに変身?

 いずれにせよ、まず、八咫鏡の本体は伊勢神宮に伝わり、現在でも伊勢神宮の内宮に収められていて、壇ノ浦の戦いで沈んだのは「分身」の方で、しかも、無事に回収されて、宮中に伝わり、現在は皇居賢所にあるといいます。

 八尺瓊勾玉も壇ノ浦の戦いでいったん海中に投げ出されましたが、無事に回収されて、宮中に伝わり、現在は皇居の剣璽の間に収められているといいます。

 さて、最後は問題の?草薙神剣です。壇ノ浦の戦いで海中に沈んでしまい、回収できなかったのは、「分身」の方でした。「本体」の方は、そのまま尾張の熱田神宮に伝わり、現在も所蔵されているというのです。熱田神宮の宝物館の受付女性の主張は正しかったわけです!

 海中に沈んだ分身の剣の方は、その後、鎌倉時代に伊勢神宮が新たに「草薙剣」として再生して天皇に進上し、これが宮中に伝わり、現在、八尺瓊勾玉と同じく、皇居の剣璽の間に収められているといいます。

 とはいえ、「本体」の草薙神剣とは、そもそも、スサノオノミコトがクシイナダヒメを救うために退治した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたとされています。これが天照大御神の所有物となり、伊勢神宮に奉仕する初代斎宮・倭姫命に渡ります。倭姫命は、東国平定に向かう甥の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)にこの神剣を渡し、日本武尊は、途中の駿河国で、この剣で草を薙いで火を避けることができたことから、「草薙剣」の名前の由来になったといいます。(現在、静岡市清水区に草薙の地名が残っています)

 つまり、神話の世界の話なので、科学的エビデンスを示せと言われれば、難しいかもしれません。しかし、信仰の世界なので、熱田神宮の草薙神剣は「本体」であることを信じてお参りすれば良いだけの話です。

 私は熱田神宮では「健康長寿」のお守りを買いましたから、「本体」であることを信じることにしました。何か問題でも?

【追記】

 鎌倉幕府をつくった源頼朝は尾張生まれ、と聞いて、えっ?と思ってしまいました。

 実は、頼朝の生母由良御前(源義朝の正室)は、熱田大宮司・藤原季範の娘だったので、頼朝は熱田で生まれたのでした。

 頼朝も熱田神宮と関係があったとは驚き。

 宝物館の受付女性に、もし、このことを確かめるために、「本当ですか?」と聞いたら、女性は、今度は「本当です。何なら、大宮司を呼びますかあぁぁぁー!?」と怒られそうですね(笑)。

苗字の語源が分かった!=天下の大権威に盾突くとは…

 先週出たばかりの本郷和人著「日本史を疑え」(文春新書、924円、2022年5月20日初版)を読み始めたら止まらなくなりました。

 著者は、東京大学史料編纂所教授です。史料編纂所といえば、日本の国家の歴史研究では最高峰です。その教授といえば、オーソリティーの中のオーソリティー。著者は1960年生まれでもう還暦は過ぎていますから、天下無敵で誰に何の気兼ねもなく学説を開陳する権力を持っている、と言えるでしょう。

 著者はテレビ番組にもよく出演されているので、その顔を拝見した方も多いことでしょう。大江健三郎を真似して?黒い丸眼鏡をかけています。自信満々そうです。だからこそ、本の帯にも著者の顔写真が大々的に登場するものだと思われます。私自身は、高田純次さんから「テキトー男二代目」を拝命してもらいたいほど、中途半端な人間なので、そんな「二代目テキトー男」による暴言として聞いてほしいのですが、天下の日本一のオーソリティー様が、これだけ顔を晒して、恥ずかしくないのかなあ、という独り言です。

 タレントさんだったら、できるだけ顔を露出して、有名になることによって「信用」という詐欺のような虚業を大衆から獲得して、CMに出演して莫大な出演料を稼ぐ目的があるでしょうが、象牙の塔の住人の方々がそこまでする必要があるのかなあ、と思った次第。

 「別に好きでやってるわけではない。版元に言われたから」と抗弁されるかもしれませんけど、ごめんなさい。先ほどの言辞はあっさり撤回します。お好きにしてくださいな。著者とは面識もありませんし、恨みも何も全くありませんからね。でも、私は嫌ですね。よく知っている友人にも顔は晒したくないので、Facebookを見るのもやめたぐらいですから。(特に、Facebookで「いいね!」を期待する自分の浅ましさに嫌気がさした!!)

 この本は確かに面白いですが、最初は小言と言いますか、天下の著者に対して反対意見を述べたいと思います。菅原道真のことです。著者は「菅原道真は実力で出世した(文章博士から右大臣)、いわば最後の人」と手放しの称賛で、あくまでも「被害者」のような書き方です。が、本のタイトル通り、「日本史を疑え」に則していけば、道真は、かなり政治的野心があった人で、自分の娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとしことには全く触れていません。ただ、敵対する藤原時平らの陰謀で左遷させられた「可哀想な人」といった書き方です。(渓流斎ブログ 「菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ」

 東京大学史料編纂所教授ならこの史実を知らないわけがなく、「日本史を疑え」なら、学問の神様の功績だけ強調するだけでなく、斜に構えた視座も必要ではないかと思った次第。

 これで擱筆してしまうと、著者に大変失礼なので、弁護しますが、道真の項目以外は全面的に感服して拝読させて頂きました。特に一つだけ挙げさせて頂きますと、162ページの「名字に『の』が入らなくなった理由」です。蘇我馬子も藤原道長も平清盛も源頼朝も、間に「の」が入るのは、蘇我も藤原も平も源も、天皇が与えた「氏」だから、ということは以前、歴史好きの同僚から教えてもらい知っておりました。でも、何で鎌倉時代以降になると、「の」がなくなったことについては、全く気にも留めておりませんでした。

 北条時政も北条義時も千葉常胤も上総広常も足利尊氏も「の」が入りません。それは、北条も千葉も上総も足利も、天皇から与えられた「氏」ではなく、「苗字」だからだというのです。そして、この苗字とは、それぞれの「家」が本拠を置く土地=財産から由来しているというのです。北条も千葉も上総も足利もいわば地名です。三浦義澄も三浦半島を本拠地としていました。

 土地に根差した「苗字」ということで、「苗」を使っていたんですね。これで初めて苗字の語源が分かりました。

 以上、最初はイチャモンをつけましたけど、それは日本の国家の大権威さまに立ち向かうドン・キホーテのような心境だった、と御理解賜れば幸甚です。

【参考】

 ・「貴族」という用語は正確ではない。正一位~従三位=「貴」(「公卿」とも)、正四位~従五位=「通貴」(貴に通じる)。正一位~従五位までが「殿上人」。正六位以下=「地下人(じげにん)」(平氏も源氏も当初は地下人だった)

「ソ連侵攻の真実」を学びましょう=「歴史人」6月号

  今春は、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」上下と「ホモ・デウス」上下、平山周吉著「満洲国グランドホテル」など超大作を読むのに掛かりっきりだっため、他の本や雑誌があまり読めず、積読状態になっています(笑)。

 例えば、雑誌の「歴史人」(ABCアーク)、「歴史道」(朝日新聞出版)なんかもう4~5冊も未読です(苦笑)。でも、考えてみれば、世界の文明国の中で、日本ほど、これだけ歴史雑誌が毎月のように定期的に出版されている国はないのでは? 日本人は真面目なんでしょうね。何歳になっても、歴史から教訓を学ぼうとしています。

 それに、悪い意味ではなく、「歴史修正」が進んでいて、私が、もう半世紀昔の高校生の頃に学んだ「歴史」とは随分変化しています。例えば、当時、645年は「大化の改新」としか習いませんでしたが、今では「乙巳の変」となり、鎌倉幕府成立も「1192年」(いいくに)だったのが、1185年(いいはこ)が定説になりそうです。歴史の教科書から「聖徳太子」や「坂本龍馬」の名前が消える? ということも話題になりました。歴史学習も、パソコンのソフトと同じように「更新」しなければならないということなのでしょう。

 そこで、本日は、「歴史人」6月号の「沖縄戦とソ連侵攻の真実」特集を取り上げることに致します。私自身、前半の「沖縄戦」についてはある程度知っておりましたが、後半の「ソ連侵攻の真実」については、不勉強で知らないことが多かったでした。

 雑誌ですから、タイムリーにも今、進行中のロシアによるウクライナ侵攻も取り上げております。井上寿一学習院大教授の記事などを引用しますと、1997年、ロシア・ウクライナ友好協力条約が成立し、ウクライナの領土保全・国境不可侵などをうたったというのに、ロシアは2014年にクリミア半島を併合し、今年2月24日にはウクライナ全土の侵略を開始し、民間人を大虐殺するなど戦争犯罪を犯しています。

 つまり、ロシアという国は国際条約や国際法を破っても、不法者や犯罪者意識がサラサラなく、ならず者国家だということです。条約の一方的破棄と侵略は、この国のまさに「お家芸」であり、「伝統」だとも言えます。プーチンは、尊敬するスターリンの顰に倣ったとも言われますが、そのスターリンがしたことは、1945年8月9日、日ソ中立条約(41年4月に締結され、少なくとも46年4月までは有効だった)を一方的に破棄し、まずは満洲国に侵攻し、対日参戦したことでした(ヤルタ会談での密約)。

「歴史人」6月号 「沖縄戦とソ連侵攻の真実」

 満洲に侵攻したソ連軍は150万兵とも言われ、この特集号で初めて、その侵攻する師団がどのルートで制圧していったかなどの詳細が分かりました。対する日本の関東軍は70万兵とは言われていましたが、既にその前年から、グアム、沖縄、フィリピンなどに精鋭部隊は根こそぎ取られ、「張り子の虎」に過ぎなかったといいます。

 終戦時155万人の日本人が満洲、関東州にいましたが、そのうち死亡者は17万6000人、その半分近い7万8500人が開拓団の犠牲者だと言われています。また、ソ連軍は約60万人の日本人をシベリアに抑留し、劣悪な環境と十分ではない食事の収容所や強制労働で5万~10万人が死亡したといいます。シベリア抑留は日本人だけかと思いきや、ハンガリー人50万人、ドイツ人は何と240万人も強制奴隷労働で使役したといいます。

 スターリンの悪行はこれだけではありません。8月11日から樺太侵攻を開始します。南樺太は、日露戦争で薄氷の勝利を収めた日本が1905年のポーツマス条約によって割譲された日本領土でした。ソ連軍は、兵力に劣る日本を圧倒し、17日、王子製紙と炭坑で栄えた樺太最大の恵須取(えすとる=人口4万人)を制圧、25日には南端の大泊に進駐し、樺太全島の占領を完了します。その後、疎開する民間人を乗せた小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3船が、北海道留萌沖で、ソ連軍潜水艦によって撃沈され、1700人以上の民間人が犠牲になります。これで、ロシアによる民間人虐殺はウクライナで始まったわけではなく、お家芸だったことが分かります。

 ちなみに、樺太の後に、ソ連軍によって占拠される国後、択捉、歯舞、色丹の「北方四島」は、幕末の1855年、日露和親条約で取り決められた日本領土でした(樺太は日露両国雑居地とした)。また、その後、明治になった1875年には、択捉島の隣りの得撫島(うるっぷとう)からカムチャッカ半島に近接する占守島(しゅむしゅとう)までの21島のことを「千島列島」と称し、ロシアは樺太を、日本は千島列島を交換して領有する条約が締結されました。(千島・樺太交換条約)

 スターリンの目論見は、樺太と千島列島の占領だけではありませんでした。北海道の釧路と留萌を結ぶラインの北半分を占拠するつもりだったのです。もし、それが実現していたら、日本も朝鮮半島やベルリンの二の舞になっていたところでした。

 それを阻止したのが、日本の最北端のカムチャッカ半島との国境近い占守島での激戦でした。占守島(しゅむしゅとう)とはいっても、私の世代では知らない人がほとんどです。が、私の親の世代は知っていました。ソ連軍が占守島に侵攻したのは、何と「終戦」が終わった8月18日でした。司馬遼太郎の戦車学校時代の上官だった池田末男連隊長(陸軍大佐)らの戦死もありましたが、第91師団歩兵第73旅団など日本軍守備隊は、札幌にいる第5方面軍司令官樋口季一郎中将の指揮で、死力を尽くして防衛して時間を稼ぎ、ソ連軍が足止めを食らっている隙に、米軍が北海道に進駐し、スターリンの北海道分割という野望は挫かれます。

 8月21日に休戦協定が締結されますが、占守島での日本軍の死傷者600~1000人に対して、ソ連軍は1500~4000人だったと言われます。

 北の大地では、8月15日は終戦でも何でもありませんでした。

 今ではこの史実を知る人は少ないのではないでしょうか?

 

エリート群像と名もなき庶民の声=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、やっと平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読了できました。565ページの大作ですから、2週間以上掛かりました。登場人物は、巻末の索引だけでも、ざっと950人。まさに、大河ドラマです。

 満洲と言えば、最初に出て来るのは、東条英機(関東軍参謀長)、星野直樹(満洲国総務長官)、岸信介(満洲国総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)、鮎川義介(日産コンツェルン⇒満洲重工業総裁)の「ニキ三スケ」です。それに加えて、何と言っても「大杉栄殺害事件」の首謀者から満映理事長にまで転身した甘粕正彦(昭和19年1月、甘粕は、芸文協会の邦楽部長藤山一雄に対して、「藤山さん、あれは私ではないよ」と呟くように言った。=41ページ)と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」です。(この名称は、著者が「勝手に命名した」と「あとがき」に書いております。)

 とはいっても、この7人のうちに章を立てて取り上げられているのは、星野直樹と松岡洋右の二人だけです。勿論、残りの5人と満洲事変を起こした板垣征四郎と石原莞爾は、陰に陽に頻繁に「脇役」として登場し、完全に主役を食っている感じです。そんな彼らについては多くの紙数が費やされていましたが、731細菌部隊の石井四郎や満洲国通信社の阿片王・里見甫、作家の長谷川濬、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明らはほとんど出てきませんでした。(著者は「あとがき」で、取り上げたかったが、残念ながら出来なかった人物として、「もう一人の男装の麗人」望月美那子、「満洲イデオローグ」評論家の橘樸=たちばな・しらき=、「満蒙開拓の父」加藤完治らも挙げています。)

 その代わりに多く取り上げられていたのが、小林秀雄や長与善郎、八木義徳、榛葉英治、島木赤彦といった文学者と「満洲の廊下トンビ」小坂正則(報知新聞新京支社長⇒満映嘱託など)、石橋湛山(東洋経済)、石山賢吉(ダイヤモンド社)、「朝日新聞の関東軍司令官」武内文彬(奉天通信局長)、「女優木暮美千代の夫」和田日出吉(時事新報⇒中外商業新報⇒満洲新聞社長。坂口安吾が振られた美人作家矢田津世子とも付き合っていた艶福家)といったジャーナリストたちです。彼らは、満洲関連の多くの文献を残しているせいかもしれません。

 著者も「あとがき」に書いているように、この本が主眼にした時代は「ニキ三スケ」の時代で、初期の満州事変や末期のソ連軍侵攻の悲劇にはそれほど触れられていません。従って、登場する中心人物は、「白紙に地図を書くように」これまでにない新しい国家をつくろうとする野心と理想に燃えたエリートたちで、筆者も「満洲国は関東軍と日系官僚が作った国家であったから、近代日本の二つの秀才集団である軍人と官僚は欠かせなかった」と振り返っています。軍人では、植田謙吉(関東軍司令官)、小磯国昭(関東軍参謀長)、岩畔豪雄(関東軍参謀)、官僚では、古海忠之(大蔵省⇒総務庁次長)、大達茂雄(内務省⇒国務院総務庁長)、「満洲国のゲッベルス」武藤富男(司法省⇒総務庁弘報処長)、「満洲の阿片行政の総元締め」難波経一(大蔵省⇒専売公署副署長)らに焦点が当てられ、意外な人物相関図や面白い逸話が披露されています。

 一つ一つご紹介できないので、是非、手に取ってお読み頂けれたらと存じます。好評なら、今度は「もう一人の男装の麗人」望月美那子や「満洲イデオローグ」評論家の橘樸らを取り上げた「続編」が出るかもしれません。

東京・銀座「わのわ」お刺身定食1000円

 ただ、本書に登場する人物は、ほとんど陸士―陸大を出た超エリート軍人か、東京帝大を出て高等文官試験に合格した超エリート官僚ばかりです。皆、新しい国をつくろうと燃えた人たちでしたが、その下には何百万、何千万人という漢人、満人、蒙人、鮮人(当時の名称)ら虐げられた人がいたことも忘れてはいけません。

 巻末年表を見ると、歴史的に、漢人が「化外の地」(中華文明が及んでいない野蛮な土地)として相手にもしていなかった満洲の地を最初に侵略したのはロシアで、1900年のことでした。満州に東清鉄道を敷設し、ハルビンなどの都市を建設していきます。それが、1904~5年の日露戦争での大日本帝国の勝利で、日本の満洲での権益が拡大していきます。

 昭和初期、金融恐慌などに襲われた日本にとって、満洲は理想の希望に溢れた開拓地で、「生命線」でもありました。一攫千金を狙った香具師もいたでしょうが、職や開拓地を求めて大陸に渡った日本人も多くいます。先日、名古屋で14年ぶりに会った旧友K君と話をしていて、一番驚き、一番印象に残った話は、私も面識のあったK君の御尊父が、16歳で満洲に渡り、満鉄に就職したことがあったという事実でした。16歳の少年でしたから、この本に出て来るような東京帝大出のエリートとは違って、「使い走り」程度の仕事しかさせてもらわなかったことでしょう。

 それでも、そこで、かなり、日本人による現地人に対する謂れのない暴行や差別や搾取を見過ぎて来たというのです。「それで、すっかり親父はミザントロープ(人間嫌い)になって日本に帰ってきた」と言うのです。

 K君の親父さんは、本に登場するような、つまり、字になるような有名人ではありませんでした。が、私自身は、身近な、よく知った人だったので、活字では分からない「真実」を目の当たりにした感じがしました。お蔭で、聞いたその日は、そのことが頭から離れず、ずっと、頭の中で反芻していました。

【参考】

 付 「傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

 「細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

(つづき) 

 やはり、予想通り、平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)にハマって、寝食を忘れるほど読んでおります。昭和時代の初めに中国東北部に13年半存在した今や幻の満洲国を舞台にした大河ドラマです。索引に登場する人物だけでも、953人に上ります。この中で、一番登場回数が多いのが、「満洲国をつくった」石原莞爾で56回、続いて、元大蔵官僚で、満洲国の行政トップである総務長官を務めた星野直樹(「ニキサンスケ」の一人、A級戦犯で終身刑となるも、1953年に釈放)の46回、そして昭和天皇の32回が続いています。

 私は、この本の初版を購入したのですが、発行は「2022年4月20日」になっておりました。それなのに、もう4月30日付の毎日新聞朝刊の書評で、この本が取り上げられています。前例のない異様な速さです。評者は、立花隆氏亡き後、今や天下無敵の「読書人」鹿島茂氏です。結構、辛口な方かと思いきや、この本に関してはかなりのべた褒めなのです。特に、「『ニキサンスケ』といった大物の下で、あるいは後継者として働いた実務官僚たちに焦点を当て、彼らの残した私的資料を解読することで満洲国の別のイメージを鮮明に蘇らせたこと」などを、この本の「功績」とし特筆しています。

 鹿島氏の書評をお読みになれば、誰でもこの本を読みたくなると思います。

 とにかく、約80年前の話が中心ですが、「人間的な、あまりにも人間的な」話のオンパレードです。「ずる賢い」という人間の本質など今と全く同じで変わりません。明があれば闇はあるし、多くの悪党がいれば、ほんの少しの善人もいます。ただ、今まで、満洲に関して、食わず嫌いで、毛嫌いして、植民地の先兵で、中国人を搾取した傀儡政権に過ぎなかったという負のイメージだけで凝り固まった人でも、この本を読めば、随分、印象が変わるのではないかと思います。

 私自身の「歴史観」は、この本の第33回に登場する哈爾濱学院出身で、シベリアに11年間も抑留されたロシア文学者の内村剛介氏の考え方に近いです。彼は昭和58年の雑誌「文藝春秋」誌上で激論を交わします。例えば、満鉄調査部事件で逮捕されたことがある評論家の石堂清倫氏の「満洲は日本の強権的な帝国主義だった」という意見に対して、内村氏は「日本人がすべて悪いという満洲史観には同意できません。昨日は勝者満鉄・関東軍に寄食し、今日は勝者連合軍にとりついて敗者日本を叩くというお利口さんぶりを私は見飽きました。そして心からそれを軽蔑する」と、日本人の変わり身の早さに呆れ果てています。

 そして、「明治11年(1878年)まで満洲におったのは清朝が認めない逃亡者の集団だった。満鉄が南満で治安を回復維持した後に、山東省と直隷省から中国人がどっと入って来る。それで中国人が増えるんであって、それ以前の段階でいうならあそこはノーマンズ・ランド(無主の地)。…あえて言うなら、満洲人と蒙古人と朝鮮人だけが満洲ネーティブとしてナショナルな権利を持っていると思います。(昭和以降はノーマンズ・ランドとは言えなくなったが)、ロシア人も漢民族も日本人も満洲への侵入者であるという点では同位に立つ」と持論を展開します。

銀座「大海」ミックスフライ定食950円

 また、同じ雑誌の同じ激論会で、14歳で吉林で敗戦を迎えた作家の澤地久枝氏が、満洲は「歴史の歪みの原点」で、「日本がよその国に行ってそこに傀儡国家を作ったということだけは否定できない」と糾弾すると、内村氏は「否定できますよ。第一、ソ連も満洲国に領事館を置いて事実上承認してるから、満洲国はソ連にとって傀儡国家ではない」とあっさりと反駁してみせます。そして、「それじゃ、澤地さんに聞きたいけど、歴史というものに決まった道があるのですか? 日本敗戦の事実から逆算して歴史はこうあるべきだという考え、それがあなたの中に初めからあるんじゃないですか?」と根本的な疑問を呈してみせます。

 長い孫引きになってしまいましたが、石堂氏や澤地氏の言っていることは、非の打ち所がないほどの正論です。でも、当時は、そして今でも少数派である内村剛介の反骨精神は、その洞察力の深さで彼らに上回り、実に痛快です。東京裁判で「事後法」による罰則が問題視されたように、人間というものは、後から何でも「後付け」して正当化しようとする動物だからです。内村氏は、その本質を見抜いてみせたのです。

 この本では、鹿島氏が指摘されているように、有名な大物の下で支えた多くの「無名」実務官僚らが登場します。「甘粕の義弟」星子敏雄や型破りの「大蔵官僚」の難波経一、満洲国教育司長などを務め、戦後、池田勇人首相のブレーンになり、世間で忘れられた頃に沢木耕太郎によって発掘された田村敏雄らです。私もよく知らなかったので、「嗚呼、この人とあの人は、そういうつながりがあったのか」と人物相関図が初めて分かりました。 

 難点を言えば、著者独特のクセのある書き方で、引用かっこの後に、初めてそれらしき人物の名前がやっと出てくることがあるので、途中で主語が誰なのか、この人は誰のことなのか分からなくなってくることがあります。が、それは多分私の読解力不足のせいなのかもしれません。

 著者は、マニアックなほど細部に拘って、百科事典のような満洲人脈図を描いております。細かいですが、女優原節子(本名会田昌江)の長兄会田武雄は、東京外語でフランス語を専攻し、弁護士になって満洲の奉天(現瀋陽市)に住んでいましたが、シベリアで戦病死されていたこともこの本で初めて知りました。こういった細部情報は、ネットで検索しても出てきません。ほとんど著者の平山氏が、国会図書館や神保町の古書店で集めた資料を基に書いているからです。そういう意味でも、この本は確かに足で書いた労作です。

傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、ようやく平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読み始めております。索引を入れて565ページの超大作。百科事典に見紛うばかりのボリュームです。

 この本の存在を知らしめて頂いたのは、満洲研究家の松岡將氏です。実は、本として出版される前に、ネット上で全編公開されていることを松岡氏から御教授を受けました(現在、閉鎖)。そこで、私も画面では読みにくいので、印刷して机に積読していたのですが、他に読む本が沢山あって、そちらになかなか手が回りませんでした。ついに書籍として発売されるということでしたので、コピーで読んでいたんではブログには書けない気がして購入することにしたのです。

 最初に「あとがき」から読んだら、松岡將さんが登場されていたので吃驚。ウェブ連載中にたびたび間違いを指摘されたそうで(笑)、著者からの感謝の言葉がありました。松岡氏は索引にも登場し、彼の著書「王道楽土・満洲国の『罪と罰』」等も引用されています。

 「あとがき」にも書かれていましたが、著者の平山周吉氏の高校時代(麻布学園)の恩師だった栗坪良樹氏(文芸評論家、元青山女子短大学長)が、松岡將氏の母方の従弟に当たるという御縁もあります。著者プロフィールで、平山氏は、「雑文家」と称し、本名も職歴も詳しく明かしていないので、「世界的に影響力のある」このブログでも詳しくは書けませんが(笑)、某一流出版社の文芸誌の編集長などを歴任されたそうで、「週刊ポスト」で書評も担当されています。

東銀座「創作和食 圭」週替わりランチ1500円

 振り返ってみれば、私の「満洲」についての関心は、松岡氏からの影響もありますが、知れば知るほど、関係者や有名人がボロボロ出てくる驚きがあり、大きな森か沼にはまってしまったような感じなのです。

 「ニキサンスケ」の東条英機、星野直樹、岸信介、松岡洋右、鮎川義介を筆頭に、吉田茂、大平正芳、椎名悦三郎、何と言っても「主義者殺し」から満映理事長に転身した甘粕正彦と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」、731細菌部隊の石井四郎、満洲国通信社の阿片王・里見甫、「新幹線の父」十河信二、作家の長谷川濬、檀一雄、澤地久枝、評論家の石堂清倫、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明、李香蘭、木暮美千代、歌手の加藤登紀子、指揮者の小澤征爾、岩波ホールの支配人だった高野悦子…と本当にキリがないほど出て来るわ、出て来るわ。

 もう出尽くしたんじゃないか、思っていた頃に、この「満洲国グランドホテル」に出合い、吃驚したと同時に感服しました。これでも、私もかなり満洲関係の本を読んできましたが、知らなかったことが多く、著者は本当に、よく調べ尽くしております。目次から拾ってみますと、「小林秀雄を満洲に呼んだ男・岡田益吉」「『満洲国のゲッベルス』武藤富男」「『満洲の廊下トンビ』小坂正則」「ダイヤモンド社の石山賢吉社長」「関東軍の岩畔豪雄参謀、陸軍大尉の分際で会社を65を設立す」「誇り高き『少年大陸浪人』内村剛介」…、このほか、笠智衆や原節子らも章が改められています。

躑躅

 キリがないので、最小限のご紹介に留めますが、小林秀雄を満洲に呼んだ岡田益吉とは、読売新聞~東京日日新聞の陸軍担当記者から、満洲国官吏に転じ、協和会弘報科長などを務めた人。東日記者時代は、永田鉄山参謀本部第二部長から、国際連盟脱退の決意を聞き、大スクープ。満洲時代は、「張作霖事件」の首謀者河本大作と昵懇となり、「張作霖の場合民間浪人を使ったので、機密が民政党の中野正剛らに漏れ、議会の問題になったので、今度(柳条湖事件)は現役軍人だけでやった。本庄繁軍司令官は翌年の3月、河本が本庄に告白するまで知らなかった」ことまで引き出します。

 「満洲の廊下トンビ」小坂正則とは、岡山県立第一商業を出た後、渡満し、満洲では、秘密警察的存在だった警務司偵輯室員と報知新聞記者などの二足の草鞋を履き、同郷の土肥原賢二大佐(奉天特務機関長)や星野直樹・総務庁長(間もなく総務長官と改称)ら実力者の懐に飛び込み、その「廊下トンビ」の情報収集力が買われ、諜報員と記者の職を辞しても、複数の嘱託として「月収3000円」を得ていたという人物です。

 まあ、人間的な、あまりにも人間的な話です。とにかく、この本を読みさえすれば、複雑な満洲人脈の相関図がよく分かります。(この話は多分、つづく)