フランス語は18世紀でも人口の20%しか話されていなかった!

 いい年こいて、いまだに身に付かないフランス語を勉強しています。専らNHKのラジオ講座「まいにちフランス語」ですが。

 今放送されている応用編「フランコフォニーとは何か」(講師は西山教行、ジャンフランソワ・グラヅィアニ両氏)は、知らなかったことばかりで大変勉強になります。

 フランス語を勉強した人なら誰でも知っている格言があります。

 Ce qui n’est pas clair n’est pas francais.(明晰ではないものはフランス語ではない。)

 18世紀のフランスの啓蒙主義作家アントワーヌ・ドゥ・リヴァロールの言葉ですが、確かにフランス語は文法がしっかりしていて、英語のような、どっちにでも意味が取れそうな曖昧さは微塵もありません。大袈裟な!

 そのせいか、フランス語は今より遙かに国際語として通用していました。フランス語を日常的に使っていた有名な外国人は、プロイセン(ドイツ)のフリードリッヒ2世、ロシアのエカテリーナ二世女王、米国の政治家・外交官ベンジャミン・フランクリン(仏語ではバンジャマン・フランクランと読みます)、女性遍歴で有名なイタリア・ベネツィアの作家カサノヴァらです。欧州全体でフランス語が使われていたのです。

 いや、これはさほど驚くべきことではありません。私が何よりも驚いたのは、18世紀のフランス本土で日常的にフランス語を使っていたのは、全人口のわずか20%しかいなかったという史実です。フランス語を使用していたのは、フランス王権のあるパリ近辺のイル・ド・フランス地方や北部のピカルディ地方などです。当時、83県のうち、15県しかなかったといいます。残りの80%はそれぞれの地域の言語ー例えば、バスク語やブルトン語やコルシカ語などを使っていたのです。

 そう言えば、日本だって、19世紀の江戸時代までは地域語が日常語であり、恐らく津軽藩と薩摩藩との間では言葉が通じなかったと思われます(笑)。

タコス・パーティー

 フランスではフランソワ1世(1494~1547年)が1539年、ヴィレル・コトレの勅令を発布し、行政、司法、教会等の文書をこれまでのラテン語からフランス語にするよう取り決めました。この勅令は、現代フランスでも有効といわれる最古の法とも言われますが、実質的な効力ではなく、象徴的な面が強いといいます。実際、2014年、当時のエロー首相は、閣僚が英語を多用しないようにこの勅令を参照したそうです。

 このように、16世紀にフランス語は公用語になったとはいえ、18世紀末になってもフランス語を話せるのは国民のわずか20%しかいなかったというのは、驚くほかありません。「まいにちフランス語」講師のグラヅィアニ講師によると、フランス語が仏全土に行き届くのは、19世紀の第三共和政(1875~1940年)になってからで、初等教育が義務化され、農村人口が都市に流れ込み、ラジオやテレビが普及してからだそうです。ただし、フランスとスペインに居住するバスク人の間でバスク語を使う人は300万人おり、フランスでバスク語しか出来ない人は現在でも2万人いるそうです。

 私はバスク人には大変興味があります。日本人なら誰でも知っている日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはバスク人ですし、仏作曲家のモーリス・ラヴェルも、キューバ革命のチェ・ゲバラ(アルゼンチン人)もバスク人だと言われています。

 何と言っても、スペインのバスク地方の街サン・セバスチャンは映画祭で有名ですが、何と言っても、三つ星のミシュラン・レストランが世界的にも多いグルメの街として知られていますからね。嗚呼、一度、行ってみたい!!

芸能事務所とマスコミと財界のゴールデントライアングル=「週刊ダイヤモンド」の「ジャニーズ帝国 最強ビジネスの真実」特集

 毎週月曜日発売の「週刊ダイヤモンド」11月18日号(880円)が「ジャニーズ帝国 最強ビジネスの真実」特集を展開していたので、思わず購入してしまいました。これでも、私は、かつて芸能担当記者を務めたことがあり、仕事としてその筋とは大いに関わっていたからです。

 ジャニーズ事件に関しては、薄々噂で知っていながら、ジャニーズ所属タレントを多く起用したマスコミも批判対象になりましたが、その具体例も書かれていました。その前に財界人を代表するサントリーの新浪剛史社長(経済同友会代表幹事)が痛烈に酷評して、自社CMからジャニーズ・タレントの起用から撤退しましたが、何となく自家撞着のような気がしています。それに、財界が全く批判の対象にならないこと自体がおかしいのです。

 つまり、テレビなどのマスコミでジャニーズ・タレントの出演が多くなればなるほど、露出度が増し、それが人気となり、テレビは視聴率を稼げる。お陰で広告主(スポンサー)からの収入も増える。スポンサーはスポンサーで、視聴率が高い番組に自社製品の宣伝を繰り返して売上増の恩恵を受ける。つまりは、財界は、マスコミとジャニーズを大いに利用していることになるからです。

 今回の事件は、芸能事務所とマスコミと財界とそれに、監督官庁である政官界を含んだエスタブリッシュメントが、排他的な鉄壁の独占禁止法に触れかねないカルテルを、阿吽の呼吸と同調圧力とその場の空気で「何となく」契約書なしに結ばれていたという「不都合な真実」があったということになります。

 さて、その旧ジャニーズ事務所とマスコミとのズブズブの関係が同誌の49ページに具体的に書かれています。大河ドラマ「風林火山」や朝の連続テレビ小説「ほんまもん」などを手掛けたNHKの元理事若泉久朗氏はジャニーズ事務所に「役員待遇で迎え入れられた」。フジテレビの中野由美子プロデューサーは、看板ドラマ「月9」で、嵐の松本潤を主演に起用した「ラッキーセブン」などを手掛け、2018年に出向し、その後、事務所本体と子会社の取締役を務め、関係が深いレコード会社のソニー・ミュージックエンタテインメントの役員を務めた小俣雅充氏も本体を含めて子会社3社の取締役を務めているといいます。

 これらは、まさに大企業が、霞ヶ関の官僚を天下り先として受け入れる態勢と瓜二つです。全く同じと言っても良いでしょう。お互い、ウインウインの関係なのです。

 そうそう忘れるところでしたが、タレントのカレンダー売り上げも馬鹿にならず、大手出版社9社との利権構造も明らかにされています。第1位は、マガジンハウスでKIng&Princeのカレンダーで9億5454万円、第2位は講談社(Snow Man)で9億0133万円、第3位は小学館(なにわ男子)で5億0789万円になっています。ジャニーズ帝国批判キャンペーンを行っていた「週刊文春」の版元文藝春秋は、カレンダー利権に預かっていませんでした。その一方、あまりジャニーズ批判をしない「週刊新潮」の版元新潮社は、SixTONESのカレンダーの利権で3億5497万円の売り上げがあり、第4位に食い込んでいました。道理で、週刊新潮はジャニーズ批判の舌鋒が鈍いはず。これで理由が分かるということです。

 逆に週刊文春がジャニーズを批判できたのは、カレンダー利権に預からなかったから、とも言えます。

 実は、私は芸能記者から離れて大分経ち、「Kis-My-Ft2」が読めないどころか、メンバーも誰一人知らず、顔と名前が一致しないことを告白しなければなりませんが、同誌の「巨大帝国のビジネスモデルとカネ」を読むと、その巨額さには圧倒されるばかりでした。こんな感じです。

・2022年のコンサートの興行収入は498億円(第1位は、KIng&Princeの60億3000万円)

・ファンクラブの年会費通算200億円超(各グループに付き入会金1000円、年会費4000円)

・隠れ資産「ジャニーズ不動産」=都心13物件で530億円(東京・港区赤坂の本社ビル、渋谷区神南のParkway Square、新宿区百人町の東京グローブ座など)。賃貸収入は年間15億円超。

(数字はいずれも推定評価額)

 さすが経済誌だけあって、よく調べております。

 ジャニーズ事務所の消滅後の今後の日本の芸能界はどうなるのか? 同誌52~53ページには「芸能事務所の相関図」が描かれています。これは芸能記者にとって必須のマル秘情報です。でも、恐らく、関係者に止められていると思われますが、相関図には芸能事務所の代表者名やその大本のことまで書かれていません。私はかつてレコード大賞の審査員をやったことがあるため、裏社会との繋がりまで熟知してしまいましたが、衆人監視のこのブログなんかに書けるわけがありませんよ(苦笑)。

 ジャニーズ事件はいわゆる氷山の一角であり、芸能界はもっともっと奥が深いのです。

量子宇宙論専攻の学生になりたかったなあ=松浦壮監修「はじめてでもわかる量子論」読了

 松浦壮監修「はじめてでもわかる量子論」(ニュートン新書、2023年7月10日初版、1100円)を読了しました。この本は、Newton別冊「知識ゼロから理解できる 量子論の世界」(ニュートンプレス、2023年5月10日初版、1980円)と同じ出版社(今年10月、ニュートンプレスは朝日新聞出版に買収され傘下となりましたが)なので、内容は全く、とは言わなくても、ほぼ同じでした。でも、体よく復習することが出来ました。Newton別冊は判型も大きく、カラー図版を多用しているので、素人にはより分かりやすかったでしたが、新書は何度も読み返して教科書のように使える利点があると思いました。

 Newton別冊については、このブログで過去に二度ほど取り上げております。

 ・2023年9月13日=「量子論の世界」に挑戦しています

 ・2023年9月23日=「状態の共存」と「量子のもつれ」を利用した量子コンピューター=Newton別冊「知識ゼロから理解できる 量子論の世界」

 内容が同じということで、上と同じようなことを書いてしまってはつまらないので、何か他のことを書くことにします。例えば、「状態の共存」です。これは、「一つの物体が同じ時刻に複数の場所に存在できる」という理論でしたね。仮想の箱の中で、1000万分の1以下のミクロの素粒子(電子)が観測後に左側にあることが結果的に分かったとしても、「もともと電子が左側にあった」わけではなく、「左右両方に共存する状態」が観測によって「左側に存在する状態」に変化したと捉える、ということでしたね。

 今回、新書でこの「状態の共存」をもう一度読んだ時、前回は雲をつかむような話でほとんど理解できなかったのに、よく分かるようになりました。つまり、普段の日常生活の中でも「状態の共存」がよくあるのではないか、と思ったのでした。これは、邪道で本来の科学的見地からかけ離れていることを最初に断っておかなければなりませんが(苦笑)、例えば、「左右両方に共存する状態」というのは、Y字路で、道に迷って、左に行こうか右に行こうか、どうしようか思案している頭の中の状態ではないか、とか、同窓会に参加しようか、しまいか迷っている状態が共存しているということかもしれない、とか、もしくは、アパレルショップに行って、青い服にするか白い服にするか思いあぐねている時、そんな時こそ「状態の共存」と言えるかもしれません。多分違うと思いますが(笑)、例えばの話だとしたら、理解の範疇に収まると思っております。「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」と悩むハムレットも、「状態の共存」だとしたら、分かりやすい(笑)。

 あまり素人が印象的なことを書いてはマズいと思いますが、ともかく、量子論は今後、量子コンピューターを筆頭に、レーザー光線、超感度センサー、半導体、スマートフォンなどに応用、利用され、今後ますます研究が飛躍的に進んでいくことは間違いありません。

 前回のブログにも書きましたが、量子論は、量子力学、量子化学、量子生物学、量子宇宙論と学問分野が末広がりです。私も、もっと若ければ、全てをご破算にして、量子論を専攻する学生になりたいぐらいです。それぐらい魅力がありました。

「友愛がなければ幸福ではない」とはどういうことなのか?=「アリストテレス ニコマコス倫理学」

 昨日の「哲学によって救われたお話=『アリストテレス ニコマコス倫理学』」の続きです。こうして毎日のようにお読み頂いております皆さまには大変感謝申し上げます。

 前回と同じように、NHKのEテレの番組とテキスト「アリストテレス ニコマコス倫理学」によって救われたお話をします。それは番組最終である第4回の「友愛とは何か」です。

 アリストテレスの倫理学では、人生の究極の目的とは、賢慮、勇気、節制、正義などの「徳」を身に着けて幸福を追求することでした。そして、この徳を身に着けるには単独で、自力だけで身に着けることは難しい。「友愛」がその助けになるとアリストテレスは説きます。そして、自分の殻に閉じこもって孤独でいるよりも、「友愛がなければ幸福ではない」とまでアリストテレスは言うのです。

 その友愛こそが、私自身、個人的に、ここ何年も何年も悩み抜いてきたことだったので、この番組を見て、またテキストを読んで、目から鱗が落ちるような感覚でした。悩みが解消したとか、なくなったというわけではありませんが、その悩み=友愛とは何か、といった難問の正体が分かったのです。(以下は、テキストの用語をそのまま使うのではなく、テキストから少し離れた自分独自の解釈や見解も展開しております。)

 アリストテレスによると、友愛には3種類あり、それは①人柄の善さに基づいたもの②快いものに基づいたもの③有用性に基づいたものーだと言います。また、友情ですから、その条件として、相手に善を願ったり、暗黙の了解でもいいですから、お互い認め合う「相互性」がなければなりません。

 この伝でいきますと、あれほど仲良くしていた友人と疎遠になったり、没交渉になったりする理由がよく分かりました。一番分かりやすいのは、③の有用性に基づいたものです。分かりやすく言えば、友人とはいえ、(しょうがなく)打算的に付き合っていたに過ぎなかったということになります。具体的に言えば、仕事関係の友人が挙げられます。何でもいいのですが、仕事上の付き合いで情報交換したり、一緒にお酒を呑んだりしてかなり親密になります。しかし、仕事(や担当)が変わったり、退職したりすれば、疎遠になります。「有用性」がなくなったからです。こちらが幾ら、仕事を離れてもプライベートでも友人だと思っていても、相手が「こいつはもう使い道がない」と思えば、年賀状やメールの返事も敢えてしなくなったりして、交際を絶ち切ります。つまり、理由は、こちらの落ち度とか何か相手に不愉快なことをしたわけではなく、相手が有用性がないから断ち切ったに過ぎなかったのです。こちらが誤解していただけで、最初から打算的な付き合いだったということになります。

 ②の快いものに基づいたものも、同じようなことが言えます。一緒にいて楽しいとか、バンド演奏して楽しいとか、話をしていて面白いといった刹那的な快楽にだけ基づいた友情では長続きしないということです。そのうち、ちょっとした意見の食い違いとか、相手の冷たい態度に接したりすると、もう顔も見たくないという状況になるわけです。友愛とは壊れやすいものなのです。

磐田市香りの博物館

 そこで、アリストテレスは「完全な友愛とは、徳において互いに似ている善き人々同士の友愛である」と述べ、①の人柄の善さに基づいた友愛に最も着目します。人柄はそう簡単には変わらないので、人柄に基づく友愛には持続性がある、とまで言っています。このテキストを執筆し、番組にも出演していた山本芳久東大大学院教授によると、アリストテレスの言う人柄の善い人というのは、単なる「お人好し」ではなく、人間として充実した在り方をし、そのことに「喜び」を抱きつつ日々の生活を送っている人だといいます。そういう人同士が親しい関係を結べば、相手への信頼関係の中で心が開かれ、自ずと楽しい時間を過ごすことができるといいます。

 なるほど。快楽や有用性に基づいた友愛とは全く違うものでした。つまり、相手が困っている時は、「有用性」がなくても、打算抜きで助けてあげるとか、お互いに認め合って、慰め合って、喜びも悲しみも共有することこそが「人柄の善さに基づいた友愛」だと言えるのです。

新富町

 しかし、アリストテレスに言わせると、このような友愛は稀なものだとも言います。何故なら、様々な徳を兼ね備えている人なんてそもそも少なく、そのような友愛を形成するには長い時間と吟味が必要だからだといいます。

 ただ少なくとも、個人的には、何人かの友人が疎遠になった理由が分かったことは大変な収穫になりました。「何でだろう?」「自分は何か悪い事でもしたのだろうか?」などと、これまでその理由が分からず悩んでいたのです。結局、彼らにはそんな複雑な理由があるわけではなく、単に飽きたとか、利用価値がなくなったから、という理由だったのです。

 うーむ、これもなるほどですね。SNSで、実際に会ったこともないのに、「お友だち」なった人が友愛と言えるかといえば、これは真の友愛ではないでしょう。友人の数の多さだけを自慢するための「ネタ」に過ぎないからです。

 アリストテレスの言う「友愛は稀なものだ」という主張もよく分かりました。有難いことに、こんな私でも、いまだに付き合ってくれている何人かの友人がおります。彼ら、彼女らを大切にして、これからも幸福を追求して生きていく所存で御座います。

哲学によって救われたお話=「アリストテレス ニコマコス倫理学」

 NHKのEテレで10月に放送された「100分de 名著」の「アリストテレス ニコマコス倫理学」があまりにも面白かったので、書籍(600円)まで買ってしまいました。

 テレビでは、タレントの伊集院光さんが毎回、落語に登場する与太郎のような役回りで、講師の先生(今回は、山本芳久東大大学院教授)に基本的なことを質問したり、自分の体験談や意見を開陳したりし、それはそれで大変面白かったのでした。

 でも、映像や動画から得る知識と、活字から得る知識とではやはり違いますね。何が違うかと言いますと、脳で処理する部分が違うんじゃないかと思っています。あまり勝手なことを言うと脳科学者から怒られるでしょうけど、映像から得る知識は、話し手の動作や声色などから感情的に処理するような気がします。活字は、活版印刷のように脳に刻み込んで情報を処理する感じです。

東京国際映画祭2023(有楽町)

 まず、テキストを購入するぐらい番組で感激したことは、私自身、倫理学に関して間違って解釈していたことでした。倫理学というのは、「こうするべきだ」とか「こうしなければならない」といった「人の道」を説く学問だと思っていたのです。こちらは、18世紀のプロイセンの哲学者イマヌエル・カント(1724~1804年)が確立した哲学で「義務論的倫理学」と呼ばれます。

 しかし、紀元前4世紀の古代ギリシャのアリストテレス(紀元前384~322年)の倫理学は全然違うのです。「人生の究極の目的とは幸福になることだ」と説いているのです。ただし、幸福になるのには、他人を押しのけたり、人の道に反するなど手段を選ばないことは推奨しません。「人は徳を身につけてこそ初めて幸福を実現することができる」とアリストテレスは説きます。これを「幸福論的倫理学」、もしくは「徳倫理学」と呼ばれます。

 アリストテレスは今から2300年以上昔の人ですから、こちらの方が、本家本元だったんですね(苦笑)。私は、ここ数年、人類学や進化論や宇宙論や量子論などにはまってしまい、「人生とは何か」「人生の意味と目的は何か」などについて哲学的ではなく、科学的に考えていました。その結果、人生には意味も目的もなく、生物学の見地からは、地球46億年、いずれ人類は滅亡し、「生き永らえることだけが目的」だと実に虚無的な結論に達してしまいました。しかしながら、このアリストテレスの哲学に従えば、人生の最終目的とは幸福を追求することだというのです。肩の力がふっと抜けました。毎日が苦悩の連続だったので、「なあんだ、幸せになっていいんだ」と思いました(笑)。

東銀座「トレオン16区」ランチプレート1500円

 ただし、繰り返しになりますが、そのためには徳を積まなければなりません。アリストテレスによると、人間にはこの徳(ギリシャ語で「アレテー」=単越性、力量の意味)は生まれながらにして備わっていないので、後天的に努力して身につけなければならないというのです。その徳はたくさんありますが、アリストテレスは最も重要な徳として四つ挙げています。

 ①賢慮(判断力)

 ②勇気(困難に立ち向かう力)

 ③節制(欲望をコントロールする力)

 ④正義(他者や共同体を重んじる力)

 です。本日はこれぐらいにしておきますが、これだけ読んだだけでは恐らく理解できないと思われますので、原典に当たってみるのが一番かもしれません。全10章ありますが、何冊か翻訳が出ています。これは最初に書くべきでしたが、「ニコマコス倫理学」とはどういう意味なのかと思いましたら、ニコマコスとはアリストテレスの子息のことで、同書は、そのニコマコスがアリストテレスが自ら設立したリュケイオン学園での講義をまとめて編纂したものだといいます。原題は、ギリシャ語で「タ・エーティカ」といい、これは「エトス」(習慣)や「エートス」(性格、人柄)から派生し、「人柄に関わることなど」という意味なのだそうです。つまり、倫理学というのは後付けで、同書では、アリストテレスは単に?人間の習慣によって出来る人柄について述べていることになります。そして、人間のエートス(人柄)は1000年経っても2000年経っても変わらないので、現代でも十分通用して、こうして今でも熱心に読まれているのだと思います。

 次回はこの番組とテキストを読んで救われた「友愛」について触れたいと思います。

世界史的に見ても稀有な超大物スパイ=オーウェン・マシューズ著「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」を読了しました

 「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房、6270円)をやっと読み終わりました。途中で図書館で予約していた本が2冊も届いたので、途中何度か休止していたので、読了するまで25日間掛かりました(苦笑)。人名索引まで入れれば、540ページ以上ありますから熟読玩味すればそれぐらい掛かるでしょう。

 私は校正の仕事もしておりますので、どうも誤字脱字に関しては、小姑のように指摘したくなります。職業病だと思って、堪忍してください。何カ所かありましたが、特に気になったのは、129ページで「地政学雑誌」編集者の名前が、クルト・フォヴィンケルになっていますが、135ページ以降ではクルト・ヴォヴィンケルになっているのです。「フォ」と「ヴォ」の違いですが、日本語では別人になってしまいます。

 そう言えば、思い出すことがあります。私は映画監督のルキノ・ヴィスコンティが大好きなのですが、彼の代表作に「神々の黄昏」があります。楽聖ワーグナーのパトロンである狂王のバイエルン王の話です。その主人公の名前がタイトルになっていますが、当初は「ルードウィッヒ」でしたが、そのうち訂正されて「ルートヴィヒ」となりました。ドイツ語の Ludwigをどう発音するかですが、当初は英語読みしていたのかもしれません。やはり、現地語読みが正しいはずです。日本の映画配給会社にドイツ語が堪能な方は少ないかもしれませんが、頑張ってほしいものです。

 私は学生時代にフランス語を専攻した「仏語屋」なので、本書で335ページで気になる箇所がありました。ヴーケリッチが東京で勤務した通信社アヴァスがありますが、ここでは「ハヴァス」と誤記されているのです。アヴァス通信社は現在のAFP通信社に引き継がれた近代通信社では世界最古(1834年創業)と言われ、ここから英国のロイター通信(1851年創業)などが独立しています。アヴァス通信の創業者はCharles-Louis Havas で、フランス語のH(アッシュ)は発音しないので、Havasは「ハヴァス」ではなく、「アヴァス」と発音します。

 やはり、小姑のように細かくて失礼しました。

 内容については、英国人の父とロシア人の母を持つオックスフォード出身の英国人ジャーナリストが書いた現在手に入るゾルゲ伝の最高の出来と言えそうですが、日本人の研究者から見ると少し物足りない感も無きにしも非ずです。ロシアの公文書館での資料分析はなかなか日本人は出来ませんが、最近の日本では、みすず書房の「現代史資料 ゾルゲ事件」全4巻(小尾俊人編集)の「定番」に加え、思想検事・大田耐造が遺した「ゾルゲ事件史料集成」全10巻(不二出版)なども公開されるようになり、事件に関する「新発見」も表れているからです。

 ゾル事件に関して、日本人は、やはり、満洲やノモンハン事件、対ソ戦戦略、対米戦争について一番関心がありますが、欧州のジャーナリストの手になると、当然のことながら「独ソ戦争」の話に重点が置かれている感じがしました。これは、ヒトラー率いるナチス・ドイツが、独ソ不可侵条約を締結しているにもかかわらず、「バルバロッサ作戦」と極秘に計画されたソ連侵攻(41年6月22日)ですが、オット駐日ドイツ大使に深く食い込んだ「ジャーナリスト」ゾルゲが見事にスクープするのです。もっとも疑心暗鬼の塊の「粛清王」スターリンからは信用されませんでしたけど。

 でも、この独ソ戦争は、世界史的に見れば特筆に値するほど壮絶で悲惨な戦争でした。何しろ、ドイツ軍の戦死者は約350万人、ソ連軍約2700万人で合わせて約3000万人もの死者を出しています。特にソ連の戦死者は人口の約16%。ロシア人が「大祖国戦争」と呼ぶのも無理もありません。

 この独ソ戦の最中に、大日本帝国軍が北進してシベリアに攻め込んだりしたら、歴史にイフはありませんが、恐らくソ連は崩壊していたことでしょう。それほど、日本軍が「北進するか南進するか」はソ連赤軍第4部のスパイ・ゾルゲにとって最大の関心事でした。これも、近衛内閣嘱託で政権の中枢にいた元朝日新聞上海特派員の尾崎秀実によって「南進情報」が齎され、ソ連軍にとってドイツ戦だけに集中できる多大な貢献をしたわけです。

 ゾルゲは確かに、ソ連赤軍第4部の情報将校ではありましたが、ドイツ新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」等の契約特派員とナチス党員を隠れ蓑に、ドイツ大使館に「特別席」が用意されるほど食い込みました。この本を読むと、ナチス親衛隊上級大将だったシェレンベルクやドイツ国家秘密警察ゲシュタポのマイジンガー大佐らはスパイではないかという疑いつつも、ゾルゲをドイツ大使館から追い出すことなく、銀座での飲み仲間になったりしています。さらには、何なのか具体的には書かれていませんでしたが、ゾルゲはソ連や日本の機密情報をシェレンベルクらに伝えたりしています。

 となると、ゾルゲはソ連のスパイではありますが、本人が好むと好まざるとにかかわらず、結果的にはドイツと日本を含めた三重スパイだったと私は思いました。何故なら、私も経験がありますが、ジャーナリストとして相手に取材する際、どうしても相手が話したがらない情報を聞き出したい時は、こちらが持っている極秘の情報を小出しにして教えて引き出すことが取材の要諦でもあるからです。だから、国際諜報団の一員であるヴーケリッチも尾崎秀実も宮城与徳らにも同じようなことが言えます。

 著者は最後に「ゾルゲは欠点だらけの人物だが、勇敢で聡明で、執拗なまでに非の打ち所なきスパイであった」と結論付けています。私もこの見解に賛同するからこそ、「三重スパイ説」は、疑いないと思っています。それが彼を貶めることはなく、世界史的に見ても稀有な、今後も出現することはない超大物スパイだったという威信は汚れないと思っています。

世界的な経営者が験担ぎ好きの苦労人だったとは=永守重信著「運をつかむ」

 どういうわけか、この《渓流斎日乗》が最近、幾何学級数的に随分とアクセス数が増えまして、驚きを禁じ得ません。勿論、わざわざ、アクセスして頂いている皆々様方のお蔭ではありますが、私自身は、筆名を改名したからではないかと睨んでいます。何故なら、今年7月、筆名を「高田謹之祐」と改名した途端、急にアクセス数が増加したからです(笑)。

 これは、改名を勧めて頂いた運勢鑑定師の古澤鳳悦師の全面的なお蔭ではありますが、実は、私自身はこのように目に見えないものを信じたり、験を担いだりすることが案外好きなのです(笑)。(別に、いかがわしい宗教にのめり込んで多額の財産をお布施したりはしません。目に見えないものを信じている、といっても軽い気持ちであることはお断りしておきます。)

 さて、最初から「験を担ぐ」話から始めたのは、先ほど、永守重信著「運をつかむ」(幻冬舎新書)を読み終えたばかりだったからです。永守氏は、今や売上高1兆円超、従業員11万人も抱える世界一の総合モーターメーカー日本電産(現ニデック)を築き上げた誰もが知る有名な経営者です。私は、皆さんと同じように、直接、永守氏とお会いしたことはなく、メディアを通してでの独断的印象ですが、大胆不敵で怖いもの知らず、絶えず部下を叱責して信長のようなおっかねえ(恐ろしい)人物であると勝手に思っておりました(失礼!)。 

 でも、この本を読むと、そんな印象が変わりました。絶えず部下を叱責することは合っていましたけど(ただし、信長とは違い、叱った後、必ずフォローして社員が辞めないように配慮しています)、大胆不敵で怖いもの知らず、は間違っていました。永守氏は、自分自身は大変な小心者で臆病で、子どもの時からかなりの心配性だったと告白しているのです。でも、その方が経営者に向いている、と付け加えていますが。

 そして、何よりも、永守氏はやたらと「験を担ぐ人」だということが分かりました。創業7年目に会社倒産の危機に陥った時、「その人のお告げは当たる」と評判の京都・八瀬の九頭竜大社の教祖に半信半疑で会いに行き、「あなたの運命は次の節分で変わる。それまで何とか持ちこたえなさい」というお告げを信じて、金策に奔走しながら必死の営業努力を続けました。そして迎えた節分の日、米IBM社から大量の精密小型モーターの注文が飛び込んできたというのです。他にも教祖さんのお告げが当たることがあり、永守氏はすっかり信じて、毎月の九頭竜大社のお参りは欠かさないといいます。

 この他、永守氏は、1944年生まれの「二黒土星」で、ラッキーカラーは緑であることから、ネクタイは全てグリーンに統一して、実に2000本も揃えているといいいますから、その「験担ぎ」ぶりは徹底しています。

 また、永守氏は挫折知らずで、連戦連勝で個人零細企業を世界的な大企業に急成長させたエリートの敏腕経営者だと思っていました。しかし、実は貧しい農家出身で、辛うじて奨学金を得て教育を受けることが出来、血みどろの努力を積み重ねた結果であることが分かりました。それに、連戦連勝ではなく、失敗や挫折は数知れず、100億円もの損失を計上したこともあったといいます。それだけに、「8勝7敗の勝ち越しで行ければ、上等だと思え」と書いています。

 この本は運命について書かれていますから、例えば、

 ・偶然の運にかけるような人生は、まっとうな人生として確立されることはない。宝くじで大金が当たった人は、それによってかえって不幸になるケースも多いそうだ。

 ・「人との縁」はすなわり「運」と言っても良い。新しい仕事も幸せな出会いも、皆、縁が運んでくれる。人の縁に恵まれている人は、運にも恵まれるものだ。

 ・ただ縁があるだけでは駄目だ。この人なら信頼できるとか、この人のために何とかしようといったことを思わせるものがその人に備わっていなくてはいい縁にならない。

 ・縁には一期一会のものも沢山あるが、出来ればずっと続くいい縁にした方がいい。運は縁によって運ばれるものであるから、人から好かれることはとても大事である。

 …といった箴言が並びます。

 嗚呼、残念。私はもう「終わった人」なので、この本を高校生ぐらいの時に読んでいたら、その後の人生、全く変わっていただろうなあ、と思いましたよ。

元朝日新聞論説委員の隈元信一さん逝く、行年69歳

 元朝日新聞論説委員の畏友隈元信一さんが、10月17日午前6時7分、都内の病院で亡くなられました。行年69歳。10月23日が誕生日だということで、あと少しで70歳の誕生日を迎えるはずでした。2年前の2021年夏に発病し、余命3カ月から半年と医者から宣告されたようですが、激痛を乗り越えて、よくぞ闘病生活を耐え抜いたと思います。覚悟はしておりましたが、やはり、哀しいし、寂しい思いです。

 隈元さんは2017年に朝日新聞を退社後、放送評論が専門のフリージャーナリストとして活躍されていました。何冊か本を出版していますので、この渓流斎ブログでも何回か「本名」で登場させてもらっています。

 ・2017年12月18日付「【書評】「永六輔」を読んで」

 ・2022年2月16日付「激震の1990年代の放送界を振り返る=隈元信一著『探訪 ローカル番組の作り手たち』を読みながら」

 などです。それらの記事に私と彼との出会いや個人的な交流などを書いていますので、御面倒ながらそちらをご参照ください。

 また、会員でしか読めませんが、ネットの「論座」で13回に渡って闘病記を連載されていました。今、検索したら、ウイキペディアになるほどの「有名人」でした。

 大学の講師なども務めましたが、異様に行動力のあるジャーナリストで、日本全国だけでなく、アジア、特に韓国とインドネシアの演劇や音楽などの文化にも幅広く精通し、何年間か滞在していたこともありました。ですから、交際範囲が異様に広く、フェイスブックの「お友達」も1000人以上といいましたから、凄いの一言です。これは、以前のブログに書きましたが、彼が闘病入院中、有志の方が隈元さんの本(「探訪」)の出版基金募集を呼び掛けたところ、その年の2021年末の時点で361人の応募があったといいますから、彼の実質を伴った「人徳」が証明されたようなものでした。

私もよく行っていた王子のmam-and-pap bookstoreも閉店してしまい本当に本当に残念です

 隈元さんとは30年以上のお付き合いでしたが、大変お忙しい人だったので、それほど頻繁にお会いしていたわけではありません。でも、何年振りかに会っても、そのギャップやスパンを感じさせず、いつも気さくで親しみ深く接してくれました。小生を弟のように可愛がってくれた、と言っても良いでしょう。

 彼の取材での得意技は、あの奇人さんとも言うべき永六輔さんに非常に食い込んだように、一旦、この人だと思った取材相手は最後まで離さない粘り強さにあったと思います。まだ本や文章には書かれていない、多くの人から直接得たいわゆるヒューミント情報を多く持っていましたから、かなり説得力がありました。それでいて、彼の性格なのか、茲では書けない、かなりシビアというかシニカルな批判も多々ありました。ただ、持って生まれた洞察力は人より抜きんでいて、彼の想像や推測した通りに、物事や人事が進んでいく有り様を見て、舌を巻いたことが何度もありました。

 クマモッチャン、もうあの「隈元節」が聞けないと思うと、本当に残念で、心の底から悲しみが込み上げて来ます。御冥福をお祈り申し上げます。

【追記】

 このブログを読んだ満洲研究家の松岡將氏から早速メールを頂きました。5年前に隈元さんとは一度拙宅でお会いしたことがあったというのです。「まだお若いのに本当に残念です。ご冥福を祈るのみです」といった趣旨の内容でした。

 そうでした、そうでした。すっかり忘れておりました。隈元さんの東大の卒論のテーマが「満洲問題」だということを聞き、「それなら松岡さんを知らないと潜りだよ!」と言って、松岡氏のご自宅に押し掛けたのでした。この時、満洲国の総務庁次長だった古海忠之氏の御子息も参加しました。調べたら、渓流斎ブログ2018年4月9日付 「久しぶりの満洲懇話会」にその模様を詳しく書いておりました(笑)。

 この時、松岡氏から高価な「獺祭」を振る舞われました。いつもながら、本当に御迷惑をお掛けしました。

船着場は古代、「戸」と呼ばれていた=吉見俊哉著「敗者としての東京」

 待ちに待った吉見俊哉著「敗者としての東京」(筑摩選書、2023年2月15日初版)を読んでいます。「待ちに待った」というのはどういう意味なのかお分かりですよね?(笑)2週間以内に返却しないといけないので、目下半分ほど読み進んでいたオーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)は休止しております。そんなこと、いちいちお断りする必要はないかもしれませんが(笑)。

 I read promiscuously.

 「敗者としての東京」は実に面白い、と太鼓判を押しておきます。これでも、東京~江戸に関する地層(武蔵野台地など)に関して、ある程度知っているつもりでしたが、本書で初めて知る事も沢山ありました。もっとも、この本は、かなり先行研究からの引用が多く、また、私が以前読んだ文献とは異にする見解を取り入れたりしていますが、大変読み応えがあります。

 以下は私が知らなかったことを列挙していきます。

東銀座「宝珠稲荷神社」

 ・古代、朝鮮半島からの渡来人たちは東京湾内にも入って来た。船を停めるのに適した場所は船着場から湊となり、それらは一般に「戸」と呼ばれた。実際東京湾岸から利根川にかけて、松戸青砥(かつては青戸)、花川戸(浅草)などがあるが、渡来人が湊として利用していたと考えられる。また、今の杉並区の高井戸や清瀬市の清戸なども川の船着場だったと考えられる。

 ・最初に渡来人が関東進出の拠点としたのは、浅草の浅草寺で、浅草観音は628年創建と伝わる。このほか、多摩川流域の狛江の狛は「高麗」と推測され、埼玉県新座市は「新羅」から由来すると言われる。

 ・埼玉県高麗郡(日高市、飯能市、鶴ヶ島市の全域と、狭山市、川越市、入間市、毛呂山町の一部)は高麗神社高麗川などがある。戦乱を逃れて渡来した高句麗人が716年に武蔵国に集められて出来た。(この項は、この本には書かれていません)

 ・荒川の「荒」は、古代朝鮮半島の東南部にあった「安羅(あら)国」の安羅に由来するという説もある。

銀座「マトリキッチン」

 ・鎌倉時代、江戸前島(今の東京日本橋から銀座辺りの島)に開かれた港は江戸湊と言われ、浅草とともに交易の中継地として栄えていた。西国から様々な商品が運び込まれ、利根川上流で採掘された鉱物資源や飼育された馬が江戸湊から西国に売られていった。この要衝を秩父平氏の中心をなした江戸氏が支配していた。しかし、源頼朝は江戸氏の勢力を削ぐために、現在の兵庫県尼崎で水運業をしていた矢野氏を連れてきて、江戸前島から浅草にかけての一帯を支配させた。この矢野氏は摂津国池田の多田荘を根拠地にした清和源氏の流れを汲む多田源氏。多田荘には多田銀銅山があり、そこで採掘された鉱物を鍛冶屋が武器や貴金属にしていた。川筋では牛馬が飼育され、皮革の加工も盛んで、造船も行っていたという。

 ・この矢野氏は矢野弾左衛門と呼ばれる家系となり、浅草に巨大な屋敷を構えて、代々、皮革業者や芸能民ら被差別民の総元締めになった。(弾左衛門は幕末まで13代続いた=この項目は、この本には書かれていません。詳細は、部落解放同盟東京都連合会のホームページをご参照ください)

 長くなるので、本日はこの辺りで止めておきます。著者の吉見氏は「序章」の中で、「富と人口が集中し、世界最大規模を誇る都市東京は、少なくとも3度占領されてきた。1590年の家康、1868年の薩長連合軍、1945年の米軍によってである」と書いております。「1868年の新政府軍」と書かずに「薩長連合軍」と書き、「1945年の進駐軍」とは書かずに「米軍」と書くところは私も共鳴します(笑)。江戸の街は、徳川家康がつくった、と言われているのに、わざわざ、占領者として「1590年の家康」と著者が挙げたのは、江戸は、家康の前に後北条氏が治め、それなりの交易や神社仏閣などの文化もあり、古代には秩父平氏の江戸氏が治めていた時代もあり、何も、徳川家康が初めて江戸を文明化したわけではないことを意味しているんじゃないかと私は捉えました。

 【追記】

 途中、後半の第7章辺りから、著者吉見俊哉東大教授の個人的なファミリーヒストリーとなり、あれれ?と拍子抜けしてしまいました。私もこの渓流斎ブログで取り上げたことがありますが、あの有名な闇の帝王・安藤昇さんは、著者の吉見氏の親戚だということで、「ヤクザ安藤昇とその周辺」に関して、かなりのページ数を費やしておりました。親戚というのは、安藤昇さんは、吉見教授の祖母の妹山田知恵の長男だということです。

ゾルゲが愛した銀座のバー、レストラン=情報提供求めます

 相変わらず、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)を読んでおります。

 昭和8年(1933年)9月13日、ソ連赤軍第4部の諜報工作員、リヒアルト・ゾルゲは、前任地の上海での任務を終え、モスクワからベルリン、米国、カナダを経由して横浜港に上陸します。この時、「2年間の任務」の約束だったはずの諜報活動が、逮捕されるまで8年もの長期に渡ること(プラス3年間の巣鴨刑務所拘置)をゾルゲは知りません。

銀座電通ビル 1936年、日本電報通信社(電通)は聯合通信社と合併させられ、同盟通信社となった。戦前は、同盟通信の一部(本体は日比谷の市政会館)と外国の通信社・新聞社が入居 ドイツ紙特派員ゾルゲと、諜報団の一員アヴァス通信社(現AFP通信)のブーケリッチもこのビル内で働いていた

 独新聞社特派員を隠れ蓑にした東京でのおどろおどろしいスパイ活動は、既に何百冊もの本に書かれていますので、何か、変わった趣向はないかなあ、と思いながらこの本を読んでいました。そしたら、尾崎秀実を含めたゾルゲ諜報団は、バーやレストランに関して、かなり高級店を利用していることが分かりました。特に、ゾルゲに関しては、「酒」と「女」で情報収集に励んでいたことがモスクワ当局にでさえ知れ渡っていました。まさに、007ジェームズ・ボンドです。

 私は以前、この渓流斎ブログで「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」(2021年3月19日)を書いたことがあり、大変好評で、コメントまで頂いたことがありました。

銀座並木通りの対鶴ビルにあった「ローマイヤレストラン」の店頭に立つローマイヤさん(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページから)※安心してください。お店の店長さんからブログ転載を許諾してもらいました!

 こんな感じで、マシューズ著「ゾルゲ伝」に出てくる東京・銀座の飲食店を探索しようかと思いましたら、残念ながら、90年もの歳月が経てば、もう跡形も痕跡すら残っていません。著者によると、1934年当時、銀座界隈には2000軒以上のバーがあったといいますが、ゾルゲの行きつけの飲食店等として、例えば、こんな店が出てきます。

 1、銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」、ヘルムート・カイテル(ケテル?)が経営するドイツビアホール兼バー「ラインゴールド」

 2、銀座のバー「こうもり」

 3、1934年創業の「銀座ライオン」(今も当時の建物のままあります!ゾルゲはもっとこじんまりとした本格的なバーの方を好んだとか)

 4、有楽町の「ジャーマン・ベーカリー」

 5、ゾルゲとヴーケリッチが定期的に会うことになった銀座のレストラン「フロリダ・キッチン」

 6、最新のタンゴが演奏された「フロリダ・ダンスホール」「シルバー・スリッパー」

 7、無線技師マックス・クラウゼンと待ち合わせをした数寄屋橋のバー「ブルーリボン」

 最初の1番の「ローマイヤ」と「ケテル」については、先述した「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」(2021年3月19日)で取り上げていますので、御面倒でもこちらをご参照ください。「ラインゴールド」は、ゾルゲの最愛の日本人伴侶、石井(三宅)花子が、「アグネス」の名前でバイエルン風の衣装を着てホステスとして働いていたドイツビアホールで、マシューズ著「ゾルゲ伝」によると、経営者はドイツ人のヘルムート・「パパ」・カイテル(中国のドイツ植民地青島出身で、第一次大戦で日本軍の捕虜となり、日本人女性と結婚し、1924年に「ラインゴールド」を開業)です。カイテルとは恐らく、ケテルと同一人物で、彼はドイツ料理店「ケテル」とドイツバー「ラインゴールド」の2軒を経営していたと思われます。「ラインゴールド」の場所は西銀座5丁目となっているので、銀座5丁目5の「ケテル」とは少しだけ離れています。「ケテル」は、駐日ドイツ大使オットーと食事、「ローマイヤ」は、独大使館海軍アタッシェ、ヴェネッカーらと食事に、「ラインゴールド」は石井花子らを目当てに個人的に通ったと思われます。

 2番目のバー「こうもり」に関しては、そこでウエイトレスとして働いていたケイコがゾルゲに恋をし、それを知らないゾルゲは美しい欧州人女性を店に連れて来たことから、ケイコは絶望して自殺を決意をするも、ドイツ人の経営者に止められた逸話も残っています。

かつて「ケテル」があった所(銀座並木通り) 今は、高級ブラント「カルチェ」の店になっています

 もっと詳しい情報がないものか、とネットで検索していたら、世の中にはマニアの方がいるもので、「スパイ・ゾルゲが愛したカクテル」というタイトルで、洋酒評論家の石倉一雄さんという方が2011年11月から翌月にかけて、8回に渡って連載されている記事を発見しました。ゾルゲがどんな酒を呑んでいたのか「推測」する話が中心ですが、当然ながら通ったバーについての記述もあります。

 「こうもり」については、ドイツ語で「フレーデルマウス」と呼ばれ、隠れ家的バーで、無線技士クラウゼンと毎週落ち合う店を、7番の「ブルーリボン」からこの「フレーデルマウス」に変更したといいます。石倉一雄氏はとてつもない人で、この「フレーデルマウス」(ふくろう)に関しては、織田一麿のリトグラフ作品に「画集銀座第一輯/酒場フレーデルマウス」(1928年)という作品があり、東京国立近代美術館で見られると紹介しています。あのホステスのケイコさんの命を救った経営者はドイツ人のボルクと書いています。凄い人ですね。

 7番の数寄屋橋の「ブルーリボン」については、石倉氏は、日本バーテンダー協会の会誌「ドリンクス」の落合芳明編集次長の「『ブルーリボン』には一瓶30銭のビールを頼めば無料で食べられるサンドイッチがあった」という証言から「当時の一流バーの一軒だったと推すことができる」と書いております。

 また、6番の「シルバー・スリッパー」は、「外国特派員が頻繁に訪れていた」と書いていましたが、何処にあったかについては書かれていませんでした。

銀座8丁目に現在もある舶来品専門店「オサダ」。この辺りにゾルゲが利用した「フロリダ・キッチン」があったと思われます。銀座の同盟通信社の目と鼻の先です

 話は前後しますが、ゾルゲとヴーケリッチが会っていた5番のレストラン「フロリダ・キッチン」は、これまたネット検索すると、銀座8丁目5の輸入洋品店「オサダ」(今もあります!)の隣りにあったようです。

 調査研究に長けた石倉氏は、モスクワからゾルゲに送られて来た諜報活動費は、今のお金に換算すると月額300万円だったことを明らかにしています。まあ、それだけあれば、銀座の高級バーを豪遊できるわけですね。

 いずれにせよ、1~7番に挙げたゾルゲが愛した銀座の飲食店の場所は、一部を除き、はっきり確定できません。もし御存知の方がいらっしゃれば情報提供して頂くと大変有難いです。小生が早速、現地(跡地)に足を運んで写真を撮って来ます。

銀座8丁目にある輸入品専門店「オサダ」

このように(笑)。