「親鸞聖人伝絵」と大原問答と平等思想について

 このブログは、毎日書くことを自分に課しておりましたが、ここ1~2週間の連日の35度に及ぶ猛暑で、さすがに体力、気力、知力ともに衰え、書き続けることができませんでした。

 ということで、ブログは4日ぶりです。熱中症とコロナに苛まれる現代人は、生きているだけでも大変ですね。

 さて、難解な「ランボー詩集」は相変わらず牛の歩みで読み進んでいますので、その傍らに読んでいたのが沙加戸弘編著「はじめてふれる 親鸞聖人伝絵」(東本願寺出版、2020年3月28日初版)でした。

 今年6月21日付のこのブログで、浄土真宗の親鸞聖人(1173~1262年)が「教行信証」を執筆し、関東布教の拠点とした茨城県笠間市の稲田禅房西念寺をお参りしたことを書きましたが、その後、本屋さんでこの本をたまたま見つけて購入したのでした。法然上人や一遍上人の絵伝(いずれも国宝)は知っておりましたが、親鸞聖人伝絵があることは知りませんでした。

 この伝絵は、親鸞聖人の生涯で起きた画期的な出来事を絵巻にし、それに解説を加えたものです。四幅二十図あるようです。本願寺三代門首覚如が生涯をかけて康永2年(1343年)に完成したものです。「御絵伝」の絵を描いたのが浄賀法眼とされ、解説に当たる「御伝鈔」は覚如本人が書いたと言われています。普段は非公開だと思われます。

 御絵伝第2図「出家学道」では、親鸞聖人が9歳の時に出家得度される場面が描かれています。得度を依頼された慈円僧正は「15歳までは出家できません。これは規則です」と頑なに断ったものの、親鸞聖人がこれに応えて、あの後世になって有名になった歌を詠みます。

 明日ありと

 思う心のあだ桜

 夜半に嵐の 吹かぬものかは

 歌人でもあり「愚管抄」などの著書もある慈円は心の中で唸り、得度の式を行ったといいます。

 親鸞聖人自身は自ら教団をつくる意思はなかったと言われています。本願寺教団はつくったのは親鸞の曾孫に当たる覚如上人であり、その覚如がこの御伝鈔を書いているということは、この「親鸞聖人伝絵」には、結果的には本願寺教団の思想が色濃く反映されることになったようです。例えば、第6図「選択付属」では親鸞聖人が師の法然から著書「選択本願念仏集」の書写などを許される場面を取り上げる一方、晩年になって、親鸞が長男善鸞を義絶せざるを得なかった「事件」を「伝絵」として取り上げることはありません。

 また、承元元年(1207年)に、専修念仏停止(せんじゅねんぶつちょうじ)により、法然は讃岐に、親鸞は越後に流罪、その他4人が死罪となる「承元の法難」が起きます。この模様は、御絵伝第12図「法然上人配流」で描かれています。ただこの図の右端に「不機嫌な善恵房」が描かれています。解説によると、この善恵房が、配流される法然上人に対して「念仏をやめたら罪も軽くなりますよ」言ったので、師の法然から大いに叱責されたといいます。そういう史実があったのかどうか、あったとしても何故そのような不機嫌な善恵房を書かなければならなかったのか、については何らかの作者の意図が感じられます。

 法然には380余人という多くの弟子がいたと言われますが、「七箇条制誡」によると、初期の法然門弟190人の中で、綽空(後の親鸞)は86番目に名前が確認されるに過ぎなかったと言われます。一方の善恵房証空の方は、14歳から法然の側に仕え、「七箇条制誡」では法然門弟中、四番目に署名され、後に浄土宗の中の本派本流の鎮西派とは違う西山派を確立します。善恵房は、承元の法難の際には慈円の庇護により、かろうじて流罪を免れます。

 また、善恵房証空の孫弟子に当たるのが時宗の開祖一遍上人です。ということは、本願寺教団を設立して、この御伝鈔を書いた当時の覚如上人にとって、証空も一遍も同じ法然浄土宗の流れを汲むライバルではなかったかと思われます。わざわざ「不機嫌な善恵房」を描かせたのは、「法然の教えを忠実に守っている正統派は、我が教団だ」とアピールしたかったかのようにも見えます。別に誹謗する意図は全くありませんし、理解はできます。

親鸞が「教行信証」を執筆した稲田の西念寺

 話は変わって、先日22日に放送されたNHK「歴史発掘ミステリー」で「京都 千年蔵『大原 勝林院』」を取り上げていました。とても面白い番組でした。ただ、1点だけ気になったのは、大原三千院の北にあるこの勝林院を長和2年(1013年)に創建(復興)した寂源のことです。寂源は、19歳で出家する前は源時叙(みなもとのときのぶ)という右近衛少将でした。しかも、後に権力の最高位を手にする藤原道長の室倫子は時叙の姉。つまり、寂源は、道長の義弟に当たるのです(寂源の出家には諸説あり不明)。

 番組では、寂源が比叡山の僧侶を集めて論談し、比叡山の僧侶が、仏教は厳しい修行と苦行を経た我々僧侶だけが御教えを伝授する役目があると主張したのに対して、寂源は、信仰には優劣がなく、貴賤もなく、男と女の区別もなく、善人も悪人もなく、仏様は救ってくださる、と反駁したところ、その証拠として暗がりの阿弥陀如来坐像がパッと輝いたという逸話をやっておりました。その論壇の場には、最高権力者に昇り詰めながら、疫病などで荒廃する都の惨状を見て己の無力さと将来、自分自身が地獄に堕ちるのではないかと不安を抱いていた寂源の義兄の藤原道長が、影で見ていたとなっていました。

 この場面を見て「あれっ?」と思いました。

 浄土宗の開祖法然上人の生涯の初期の頃に、有名な「大原問答」というものがありました。文治2年(1186年)に、法然が顕真法印の要請により浄土宗の教義について、比叡山・南都の学僧と問答し信服させ、法然を一躍有名にした出来事でした。この大原問答が行われた所が、この大原・勝林院だったのです。私が「あれっ?」と思ったのは、これまでの皇族や貴族らを中心にした南都六宗の旧仏教に対して、法然が異議申し立てをして、老若男女、貴賤も善人も悪人も関係なく、念仏を唱えれば、皆平等に誰でも極楽浄土に往生することができるという非常に革命的な、ある意味では危険な思想を法然が初めて主張していたと思っていたからです。

 NHKの番組がもし史実だとしたら、法然よりも150年以上も昔に、寂源が革命的な「平等仏教」を説いていたことになります。しかも、道長政権という貴族政治が頂点を極めた時代で、いわば「貴族仏教」が頂点を極めていた時代です。法然が、寂源の思想を知っていたかどうか分かりませんが、場合によっては特筆もので、歴史を書き換えなければならないのではないかと思った次第です。

35年ぶりのランボー詩集

 最近、文学しています。残った夏休みの宿題を慌てて仕上げようとしている感じもします。

 文学ですから、儲かりません。はっきり言って、なくても困りません。といいますか、なくても生活に支障はきたしません。そういうものに、学生時代の一時期、命を懸けるほど熱中したことがありました。

 今でこそ堕落して、他人のこしらえたフィクションには目もくれずに、ビジネス書やブロックチェーンやMMT関連の書物にまで首を突っ込んで、不安な将来に備えていますが、かつては、経済に左右されない人生こそが美徳であると信じていた時期がありました。

 文学には社会を変革する力があると信じていたこともありました。

 それは新聞広告で目にした一冊の文庫本でした。

  中地義和編「対訳 ランボー詩集」(岩波文庫、2020年7月14日初版)です。何か見てはいけない広告を見てしまった感じでしたが、ずっと心の奥底に引っかかっていました。フランス象徴派詩人アルチュール・ランボー(1854~91)は、学生時代にかなりはまったことがありましたから尚更です。フランス語の原書は、文庫版では飽き足らず、高いプレイヤード版の全集も買いました。日本語は、小林秀雄訳、中原中也訳、鈴村和成訳などを経て、平井啓之ら共訳の「ランボー全集」(青土社)まで買い揃えました。それでも、難解過ぎて途中で挫折してしまいました。

 わざわざ、この本を買ったのは「対訳」としてフランス語の原文と和訳が並列していたからでした。

 しかし、正直に告白すると、途中で挫折したように、20代の頭ではさっぱり分かりませんでした。意味はどうにか取れても、作者の意図する本意や時代的背景などを熟知していなかったせいもありました。ランボーは15歳頃から詩作をはじめ、20歳で早くも筆を折りました。ということは作品の大半は、10代の少年が書いたものです。歴史に残る大天才を前にして、異国の軽輩が何か言うのも烏滸がましいのですが、極東に住む凡夫の若者はランボーの作品を理解することを諦めました。そして、邪道ながら、彼にまつわる逸話(ファンタン・ラトゥールの絵画など)を追いかけました。

 詩作をやめたランボーは、オランダ軍傭兵としてジャカルタに行ったり(後に脱走)、キプロスの採石場の現場監督をしたりしましたが、地元シャルルヴィル高等中学校時代の級友エルネスト・ドラエー(1853~1930)から文学への関心を問われると「あんなもの、もう考えもしないさ!」と答えたといいます(1879年)。

 その後、ランボーはイエメンのアデンにあるバルデー商会に雇われ、アビシニア(現エチオピア)のハラールの代理店に勤め、交易商人になります。主に象牙やコーヒーの取引やフランスからの工業製品や武器まで扱ったようです。しかし、アデンで膝の腫瘍が悪化します。風土病だったとも性病だったとも色んな説がありますが、フランスのマルセイユに戻り、コンセプション病院で右脚を切断し、1891年11月10日に同病院で死去します。まだ37歳という若さでした。

 若い頃のランボーと言えば、詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844~96)との不適切な関係を始め、ふしだらで酔いどれの破天荒な私生活が有名ですが、詩作を断ち切り、武器商人になった晩年の孤独で悲惨な生活とその早すぎる死が、彼の書いた難解な作品(「地獄の一季節」など)と見事に、結果的に「言行一致」してしまったことが、何百年経っても彼に惹き付けられる魅力になっていると言えるでしょう。

比類なき超天才児とその後の「没落人生」(本人は認めないでしょうが)とのギャップがあまりにも大き過ぎるので、謎が謎を呼ぶことになったのです。

プレイヤード版の「ランボー全集」。40年近い昔に買った本だが、当時7760円もした

 ということで、35年ぶりに改めて「ランボー詩集」の文庫本(1122円)を読み始めています。

 原文と対訳を熟読すると、何と1篇の詩を読むのに2~3日も掛かります。本当です。読書は主に通勤電車の中でしているので、48時間~72時間掛かるという意味ではありません。電車の中で、1篇の詩作品を読むと1日で読み切れず、2~3日掛かるという意味です。

 15~16歳の時に書かれた初期韻文詩は、見事な12音綴のアレクサンドランの定型詩になっていて、しっかり脚韻が踏まれています。アレクサンドランは、日本の短歌や俳句と同じようなものかもしれません。脚韻は、aabbだったり、 ababだったり色々ですが、韻を踏むために、主語と述語が倒置されたり、名詞と形容詞が入れ替わったり、形式を優先するために、意味は後回しで、かなりこじつけになったりして、外国人にとって理解するのに難儀することがあります。

 何と言ってもフランス語の語彙力には全く歯が立ちません。相手は15歳の少年でも、記憶力抜群の比類なき超天才ですから、異邦人の凡夫が勝てるわけがありません。

 ただ、年を取って、人生経験も豊富になり、既に世界各地を旅行し、分別も付き、大きな病気も体験し、他人からの裏切りや嘲笑も味わい、辛酸を舐めてきたお蔭で、人生経験の少ない少年には負けませんね(笑)。それに、自分で言うのも何なんですが、不断の努力による膨大な読書量で、ランボーには負けない教養なるものも身に着きましたから、怖れることはありません。

 そんな中で興味深かったことは、15歳の少年だというのに世の中の動きや時事問題にかなり関心があって、当時、普仏戦争(1870年)の最中で、スダンでプロシャ軍に降伏したナポレオン三世を揶揄、批判する詩まで書いていたことです。(15歳の自分はビリヤード場で遊び惚けていましたからえらい違いです。)この詩は、私も学生の頃に読んでいたはずですが、すっかり忘れています(苦笑)。当時のフランスは、世の中の動きや情報を知る手段として新聞ぐらいしかなかったでしょうが、15歳のランボーは「皇帝の憤激」という詩の中で、ナポレオン三世のことを「遊蕩に明け暮れた20年に酔いしれている」といった反帝政派のキャンペーンを文字ったり、「彼(ナポレオン三世)は、眼鏡をかけた協力者を思い出している」と書き、共和派から帝政派に鞍替えして首相になったエミール・オリビエのことを示唆したりしています。

 ランボーの10代は、普仏戦争とパリ・コミューンが起きた歴史的な激動期でした。当時のフランス人たちは、「遊蕩に明け暮れた」(遊蕩orgieには乱交パーティーという意味もある)だけでナポレオン三世のことを思い浮かび、「眼鏡をかけた協力者」だけで、オリビエ首相のことが何ら説明もなく分かったことでしょう。これでは、詩人というより、ジャーナリストですね。(そう言えば、19世紀のバルザックやフロベールらの小説は、例えば二月革命など当時の時代背景を忠実に再現したもので、フィクションというより、ジャーナリスティックでした)

学生時代の畏友と横浜でランボー詩集の「読書会」を開いて勉強していた20代後半の頃。1ページ読むのに1週間掛かった

 私が20代の頃に読んでさっぱり分からなかったことは、今ではネットのお蔭で、簡単に分かります。オリビエ首相だって検索すれは略歴とともに、眼鏡をかけた彼自身の肖像写真まで出てきますからね。今の若い人は羨ましい。

 文学していると、コロナ禍の現代を忘れて19世紀に逃避行できます。何と言っても、ヴェルレーヌはともかく(二人の直接の交際はわずか4年だったとは!ランボー17歳から21歳まで。ランボーの死後、無名だった彼を蘇らせたのはヴェルレーヌの尽力によるものだった)、学生時代に親しんだジョルジュ・イザンバール(ランボーの高等中学校の教師)とかポール・デメニー(イザンバールの友人で詩人)やジェルマン・ヌーヴォー(「イルミナシオン」の清書も手伝った詩人)らの名前がこの本にも出てきて、あまりにもの懐かしさに心が動揺し、涙が出てくるほどでした。

 恐らく分かってもらえないでしょうけど、私は、彼らのことを現代人より近しく感じてしまうのです。

 20代の私は純真無垢で、純粋芸術である(と思い込んでいた)文学に憧れを抱いていたことも思い出しました。

 でも、文学の実体は、なくても支障がない絵空事です。一人の人生を変えるほどの文学に出合えた人には「おめでとう御座います」と言うしかありません。

 文学だけでなく、生活も哲学も宗教も経済学も政治学も無意味かもしれません。パスカルがいみじくも言ったように、結局、「人生は大いなる暇つぶし」だと最近とみに感じています。

何とも不可解な「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」

Photo Copyright par Duc de Matsuoqua

 足利と鎌倉の旅行中、電車の中でずっと読んでいたのが、佐藤哲朗著「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」(河出書房新社、2020年4月30日初版)でした。

 この本は、2カ月前の6月13日に京都にお住まいの京洛先生からメールを頂き、その存在を知りましたが、最近になってようやく入手できたわけです。実は、「スパイ関三次郎事件」と言っても、小生にとっては初耳で全く知らず、著者もどういう人か分からず、メールを頂いただけでは、他の書物を差し置いて、万難を排してでもすぐさま読みたいという興味が湧かなかったのでした。ーというのが正直な気持ちでした。

 しかし、読み始めてみて、いきなり脳天をどつかれたような衝撃で、推理小説やサスペンスを読むよりも断然面白い。というより、読んでも読んでも、謎が深まり、何が真実なのかさっぱり分からず迷路にはまったまんま、読了してしまったのです。

 事件が起きたのは、戦後まもない昭和28年(1953年)7月29日。関三次郎(当時51歳)という北海道余市生まれで利尻島育ち。漁師をしていましたが漁船の転覆事故で行方不明となり、どうやら戦前は樺太(現サハリン)で暮らしていて戦後のどさくさで帰国せず、無国籍だった男が、北海道の宗谷岬から南へ約10キロ離れた海岸にずぶぬれになって上陸し、濡れた多額の紙幣を焚火で乾かしているところを地元民に見つかり、逮捕されたのが始まりです。

 当時は、米ソ冷戦の真っ只中。関は、ソ連のスパイなのか、それとも占領中の米軍のCIC(アメリカ合衆国陸軍防諜部隊)の工作員なのかー? 二転三転するどころか、四転も五転もして、結局、最後まで真相が分からない…。

 著者の佐藤哲朗氏は、元毎日新聞編集委員。社会部で公安や検察関係の取材が長いベテラン記者でした。1939年生まれといいますから今年で81歳。奇しくも樺太豊原(現ユジノサハリンスク)生まれの北海道育ち。中学生の時に、このスパイ関三次郎の公判を「社会科見学」(授業)の一環として傍聴した経験もある人でした。

 1972年の正月、当時、札幌で毎日新聞の司法担当記者をしていた筆者は、札幌地検の塚谷悟検事正らも出席する記者クラブとの新年会に参加します。塚谷検事正は、旭川地検次席検事時代の一番の思い出として、関三次郎という国際スパイ事件を取り上げ、「何せ、この事件には証拠というものが何一つなかった。頼りになるのは本人の供述だけ。しかも、それが法廷で二転三転。あまりの矛盾の多さに弁護側から『被告は少しおかしい』と精神鑑定請求まで出される始末だった。紆余曲折したが、関三次郎とソ連人船長の被告二人に有罪判決が出て一見落着した」と振り返ります。

 他社の記者たちは、そのまま聞き過ごしますが、佐藤記者だけは、裁判を傍聴した経験もあるこのスパイ関三次郎事件にのめり込み、翌日から社の資料室に入り浸ってこの事件を調べ始めます。

 1972年ということは今から48年も昔のことです。この本の「はじめに」よると、著者の佐藤記者が、それ以降に取材した関係者は数百人を超え、当然、関三次郎本人には延べ6回、長時間のインタビューをし、取材走行距離は延べ4万キロに及んだといいます。

 今から67年前の1953年に起きたこの事件は、当時はセンセーショナルな事件として、毎日のように大々的に報道されましたが、今ではこの事件のことを知る人は私を含めてほとんどいないのではないでしょうか。

◇問題三法が執筆継続の動機

 80歳を超えた老記者にこのような本を執筆して出版にまで漕ぎつけるような原動力になったのは、安倍政権の「数の力」によって、「特定機密保護法」(2013年12月、いわゆる「スパイ防止法」)、「安全保障関連法」(2014年7月、集団的自衛権の行使容認)、「共謀罪法」(2017年6月)の問題三法の成立があったからだ、と著者は「終章」で書きます。「スパイ防止法には、国家の『機密情報の漏洩防止』に狙いがあり、集団的自衛権行使には『戦争のできる国家体制』の確立、そして『共謀罪』法には『国民の言論封じ込め』と相互に関連があり、いずれも体制側にとって都合のいい法律であることは論を俟たない」と。

 そのために、67年も昔に起きた過去の事件を通して、現代の状況を見つめ直してほしいという著者の願望があったと思われます。

 とにかく、この本には、色々と問題を抱えた関三次郎の親族、知人、友人から司法・海上保安庁関係者、CIC関係者、ソ連巡回艇「ラズエズノイ号」関係者、それに、暴力団関係者、鹿地亘失踪事件関係者、公安関係者、元軍人、通訳らさまざまな人たちが登場し、何らかの関三次郎とのつながりや関連性があったことが分かってきます。

 数百人に及ぶ取材の末、最後に著者は、関三次郎とは、ソ連KGBと米CICのダブルエージェントだったのではないか、と推測しますが、関本人は最後までのらりくらりと記者の質問をはぐらかし、検事正だった塚谷悟も、この事件は「国家機密」だったことから、「公務員の守秘義務」を楯に最後まで真相を語ることなく亡くなったといいます。

 推理小説のように最後は謎解きで終わって爽快感があるような内容ではありませんが、半世紀にわたって真相を追い求めた著者の情熱と信念が伝わってくる良書、意欲作、歴史に残る好著だと言えます。

Photo Copyright par Duc de Matsuoqua

この本を読まないと日本の近代政治の本質が分からない=エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」

(8月4日のつづき)

 エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を先日読了しましたが、仕事が忙しくてなかなか書く時間が取れませんでした。本当です(笑)。

 前回も書きましたが、この本は、著者が米ハーバード大学に提出した博士号論文を基に書籍化したものです。となると、執筆したのは年齢を逆算すると著者28歳ぐらいのときです。読了して、第一の感想は「よくぞ、20代の若さでこれほどの内容をまとめ上げたものだ」と、世界的にも歴史的にも、著者の筆力というか力量というか、非凡なる才能に感服したことです。著者は日系米国人と思われますが、異国の政治状況の歴史をこれほどまで適格に分析し、「政治と暴力」をテーマを最後まで諦めることなく追跡して、読者の蒙を啓かせてくれたことに関しては、日本人の一人として感謝したいぐらいです。是非、多くの心ある人には読んで頂きたいです。

 色々と書きたいのですが、戦後のフィクサーとして活躍した笹川良一(1899~1995)と児玉誉士夫(1911~1984)の両巨頭と、安倍晋三現首相の祖父に当たる岸信介首相(当時)や大野伴睦衆院議長(同)らとの濃密関係等について、CIAの個人ファイルを参照しながら、著者はかなりの紙数を費やしていますが、ほとんど知られていることで、私も何度かこのブログに書いたことがあるので省略します。そこで、主に、私の知らなかったことを茲では敢て書いておきます。

院外団の登場

 明治末になると、帝国議会も開設され政党も力を付けてきたので、演説を暴力で妨害する壮士に代わって「院外団」なるものが形成されます。議員ではなく、暴力団組員や右翼が多かったのですが、若い野心家の学生たちも群がって来ました。その一人が、戦後、自民党副総裁も務めた大野伴睦です。当時、彼は明治大学の学生で、政友会の院外団で政治活動を始めます。これに対抗する憲政会は、院外団の中に早稲田大学の学生が付きます。東京専門学校=早稲田大学を創設した大隈重信は改進党を設立し、その流れで憲政会になるわけですからね。大学ラグビーの伝統戦、早明戦より、政治の世界でいち早く戦いの火ぶたが切られていたとは…(笑)。明治大学出身の政治家には、三木武夫、村山富市の両元首相を始め、松岡洋右、佐藤孝行、山口敏夫、萩生田光一、早稲田出身の政治家は、竹下登、森喜朗両元首相をはじめ、朝日新聞出身の河野一郎と橋本登美三郎や、三木武吉、岸田文雄ら数多。東京大学は例外ですが、極めて政治に近い大学だったんですね。

大日本国粋会と大日本正義団

 次に、大正末から二つの主要国家主義団体が活動を活発化していきます。大日本国粋会と大日本正義団です。この両者は「明らかにヤクザ集団だった」と著者は結論付けています。

 国粋会は1919年10月、政友会の内相床次竹二郎(とこなみ・たけじろう=薩摩藩士出身)とヤクザの親分との協働で結成した組織(と著者は書いています)。1930年代の初めは、全国90の支部に増え、会員総数は20万人に達したと言われます。八幡製鉄所争議、野田醤油争議など多くの労働争議の鎮圧で威力を発揮します。

 正義団は1922年1月、酒井栄蔵というヤクザの親分によって設立。32年には、全国106カ所に支部があり、東京本部が7万人、大阪本部が3万5000人いたとされます。酒井は「東洋のムッソリーニ」と呼ばれ、実際、25年にはムッソリーニと会談しています。正義団も、大阪市電や東洋モスリンなどの争議を暴力で鎮圧する役割を果たします。

 正直、私自身は、国粋会も正義団もよく知りませんでした。明治以来の右翼組織を詳細に分析した立花隆の名著「天皇と東大」にさえもあまり取り上げられていなかったからです(うろ覚えの記憶ですが)。両組織とも国家主義的イデオロギーに根付いており、労働者と左翼に対して攻撃的であるという意味でイタリア・ファシストの黒シャツ隊やドイツ・ナチスの突撃隊とよく似ていた、と著者はいいます。ただし、シチリア発祥のマフィアは、反ファシストで、ムッソリーニはシチリアでの実権を握るため、マフィアを「犯罪集団」として徹底的に弾圧したことから、マフィアと国粋会・正義団とは異質なものだという見方を著者はしています。冷酷残忍な殺人集団と言われたマフィアは実は、反体制派の反ファシストだったというのなら今までのイメージが少し変わります。

 国粋会・正義団の主力メンバーは政治家、軍人、右翼活動家のほかに建設業経営者が多かったことから、ストライキを鎮圧しますが、被差別部落解放を目的とする社会主義的傾向を持った「水平社」までも標的にします(水国事件)。組織幹部の建設業経営者が彼らを労働者として雇う立場にあり、敵対する水平社の活動家が力を持つことを恐れたからだろうという著者の分析には納得しました。

 国粋会・正義団は、今から見れば眉をひそめたくなるほどの異様な暴力集団なのですが、ロシア革命後の世相の中、共産主義革命を恐れる当時は、広く国民に受け入れられたようです。驚いたことに、台湾総督府民政長官や満鉄総裁、東京市長などを歴任し、後世からも偉人として尊崇の念で語られるあの後藤新平が、国粋会の二代目総裁になることを希望していたといいますからね。信じられません。また、国粋会は「大アジア主義」で満洲事変が起きた翌月の1931年10月には「満洲国粋会」が創設されたという記録が残っているようです。

戦後、右翼団体の復活

 話は飛んで、1945年8月の日本の敗戦により、これらの右翼団体は解散させられますが、米軍の占領が終わった1954年、関東国粋会の梅津勘兵衛と木村篤太郎元法相は協働して博徒とテキ屋をまとめて「護国団」を結成します。1959年には、この護国団と国粋会を含む10を超える右翼団体が集まって「全日本愛国者団体協議会」を結成します。その幹部の顔ぶれは、1930年に浜口雄幸首相暗殺を企て、死刑宣告されるも1940年に釈放された佐郷屋留雄、1932年の血盟団事件の首謀者井上日召、1939年に政友会の中島知久平総裁狙撃を企てた三浦義一(あの室町将軍です)、1932年の五.一五事件で重要な役割を果たした橘孝三郎(評論家立花隆=本名橘隆志の親戚)らがいたといいます。これでは、まさに戦前の復活ですね。政治風土は「時間続き」で全く変わっていないと見るべきかもしれませんが。

 1959年6月には、護国団と松葉会(戦前は博徒らを含む土建業で出発し、戦後は浅草などの闇市を仕切っていた「関根組」が起こした政治団体、現指定暴力団)を含む右翼16団体からもう一つの右翼組織である「愛国者懇談会」が結成されます。いずれの右翼組織も、翌1960年の三池炭鉱労働争議や安保闘争などで、警察と一緒になって暴力鎮圧の要として活躍するわけです。

 かなり念入りに調べ上げた著書だと思います。繰り返しになりますが、こういう歴史的事実があったのだ、と多くの心ある人には読んでもらいたいと思います。

(一部敬称略)

エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を読む

 新聞の書評で、エイコ・マルコ・シナワ著、藤田美菜子訳「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」(朝日選書、2020年6月25日初版)の存在を知り、早速購入してこの本を読んでいます。「その筋」の本は、どういうわけか、小生のライフワークになっていますからね(笑)。きっかけは30年も昔ですが、芸能担当の記者になり、芸能界とその筋との濃厚な関係を初めて知り、裏社会のことを知らなければ芸能界のことが分からないことに気が付き、その筋関係の本をやたらと読みまくったからでした。

 この本は、副題にある通り、芸能界ではなく、政治の世界と暴力団との密接な関係を抉りだすように描かれています。暴力というか武力で政治を動かしてきた史実は戦国時代どころか古代にまで遡り、その例は枚挙に暇がありません。この本では、その中でも幕末の1860年(桜田門外の変があった年)から昭和の1960年(安保闘争、三池争議、浅沼社会党委員長暗殺事件があった年)までの100年間に絞って、多種多様な資料と史料を駆使して分析しています。それらは、幕末の志士(彼らは今で言うテロリストでもあった)に始まり、明治の壮士(暴力で敵対する政治家の演説を妨害した)、大正・昭和の院外団(大野伴睦が有名)、そして本物のヤクザの衆院議員(吉田磯吉、保良浅之助ら)を取り上げ、日本人でさえ知らなかった負の歴史を教えてくれます。

 著者のエイコ・マルコ・シナワ氏は1975年、米加州生まれで、米ウイリアムズ大学歴史学部教授という略歴が巻末に載っていますが、著者がどうしてこれほどまでに日本の近現代史に興味を持ち、その専門家になったのか、読者が知りたいそれ以上の情報は、何処にも、ネットにも掲載されていませんでした。名前から日系米国人と推測されるのですが、故意なのか、その点については全く触れていません。幕末明治の史料も相当読み込んでいると思われ、旧漢字も読めなければならないので、かなり日本語に精通した米国人であることは確かのはずです。

 この本の原著は、2003年に著者がハーバード大学の博士号を取得した論文だといいます。最初から一般読者向けに書かれなかったせいか、堅く、読みにくい部分もありますが、外国人から見る日本史は容赦がないので、そういう見方があったのか、と新鮮な気持ちにさえさせてくれます。日本人の学者が、これまであまり真摯に取り上げて来なかった暴力団と政治との濃厚接触関係という視点も外国人の学者だからこそできたのかもしれません。

 巻末の「謝辞」では、実に多くの日米両国の偉大な専門の歴史家にお世話になったか、実名を挙げて御礼の言葉を述べています。が、最初のイントロダクションで、「徳川幕府(1600~1868年)」と出てきたのには驚かされました。1600年は関ケ原の戦いの年で、まだ、徳川家康は全国統一を果たしていたとは言えない年。家康が征夷大将軍に任官された1603年が徳川幕府の始まりと日本では教えられています。また徳川幕府が終わったのも大政奉還の年の1867年でいいんじゃないでしょうか?

 最初から少しケチを付けてしまいましたが、この本から学んだことは大いにあったと断言できます。

 特に、政友会の衆院議員だった暴力団の親分、保良浅之助(1883~1975)については勉強になりました。その前に、この本の表紙にもなっている憲政会の吉田磯吉(1867〜1936)に触れなければなりません。

 吉田は、火野葦平の「花と竜」のモデルにもなった侠客です。荒くれ男が多い遠賀川沿いの北九州若松を根城に賭博場を経営し、筑豊炭坑の石炭を大阪に運ぶ若松港の発展に寄与するなど地元の大親分として一目置かれていました。反政友会候補として政界に打って出て初当選したのが1915年、以後32年まで衆院議員を務めます。労働争議では経営者側に有利なように介入したと言われます。この本には書かれていませんでしたが、彼の葬儀にはわざわざ東京から元首相の若槻礼次郎や民政党総裁の町田忠治までもが参列したことを、猪野健治著「侠客の条件―吉田磯吉伝」 (ちくま文庫) で読んだことがあります。

 一方の保良は、憲政会の吉田磯吉に対抗するために政友会から三顧の礼を持って迎え入れられた人物(衆院議員に当選)でした。勿論、吉田と同じ侠客です。賭場を開帳するヤクザの親分でしたが、山口県下関で身を落ち着けて、魚の運搬に使う竹籠の製造業を大きくし、朝鮮にまで進出して木箱の製造を始め、終いには山口、鳥取、熊本などに製材所や建設会社、製氷会社、下関駅前には山陽百貨店を開業し、兵庫、広島、大阪には数十の劇場まで経営するほどの実業家になります。そして、裏街道では「籠寅組」を率いていたといいますから、驚いてしまいました。この本は政治の話が中心なので、書いていませんでしたが、下関の籠寅組と言えば、その筋では名門中の名門。浪曲師広沢虎造の興行を巡って、神戸の山口組と敵対し、東京浅草で、籠寅組が山口組二代目の山口登組長を襲撃して重傷を負わせた(後にこの傷が元で死亡)武闘派だったからです。

 著者は、政友会が保良をスカウトする際、長州出身の田中義一首相が直々に説得し、その際に、恐らく国家機密を明かしたのではないかと推測しています。その機密事項とは、山東出兵失敗や張作霖爆殺事件の話だと思われるとまで書いています。仮初めにも籠寅組を率いるヤクザの親分と政界トップがここまで親しげな仲だったとは、同時代の日本人はともかく、後世の日本人はすっかり忘れているか、もしくは知らないことでしょう。

銀座「岩戸」アジ丼

 ついでながら、色々と政党が出てきたので、この本に沿って乱暴に整理してみます。

 明治維新の原動力になったのが、薩長土肥の四藩。それが自由民権運動が高まる中、明治一四年の政変が起こり、権力が薩長二藩に独占されます。薩摩が海軍、長州が陸軍を仕切るわけです。野に下った土佐高知の板垣退助は自由党を結党し、肥前佐賀の大隈重信は改進党(後の進歩党)を結党します。この両者は、一時期、隈板内閣をつくり、1898年に合併して憲政党を結党するなど密月があったものの、間もなく分裂します。1900年、旧自由党に、伊藤博文、星亨らが合流して結党したのが、政友会です。一方の反政友会の流れは、1913年、桂太郎による立憲同志会が結成され、16年には中正会などと合流して憲政会(27年に民政党に改称)となるわけです。憲政会の初代総裁加藤高明は、岩崎弥太郎の女婿となったことから「三菱の大番頭」と皮肉られ、後に首相になった人です。

 昭和初期に青年将校らによって「財閥と結託した腐敗政党」と糾弾されたのが、この政友会と民政党の二大政党のことです。政友会には三井財閥、民政党には三菱財閥がバックにいたことは周知の事実だったことから、血盟団事件では三井の総帥団琢磨らがテロで暗殺されたりするのです。(つづく)

【追記】

 続編は2020年8月8日付「この本を読まないと日本の近代政治の本質が分からない=エイコ・マルコ・シナワ著『悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治』」です。

 

 

「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」はお薦めです

 4連休中は、沖縄にお住まいの上里さんから航空便でお贈り頂いた安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」(青土社、2020年3月31日初版)をずっと読んで過ごし、読了しました。

 皆さんから「お前は、いつも人様から贈られた本ばかり読んでいるのお」と批判されれば、「責任を痛感しています。真摯に反省しております」と応えるしかありません。

 上里さんからは、これまで、大島幹雄著「満洲浪漫  長谷川濬が見た夢」 (藤原書店)や森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」(彩流社)など何十冊もの心に残る良書を贈って頂き、本当に感謝申し上げます。

 さて、安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」のことです。

 これでも私はかつて、「ゾルゲ研究会」(通称、すでに解散)なる会に属したことがあるので、ゾルゲ事件の関する書籍はかなり読んでおりますから、事件には精通しているつもりでした。

 もちろん、安田徳太郎(1898~1983、享年85)についてもゾルゲ事件に連座して逮捕された諜報団の一員だということは知っておりました。しかし、正直、医者だったということぐらいで、彼がどういう人物で、何故逮捕されたのかまではよく知りませんでした。諜報団の中で、それほど目立った動きをした重要人物でもなかったし、半ば当局がこじつけて諜報団の一員に仕立て上げたような感じもあったからです。

 本書を読んで初めて、安田徳太郎という人となりが分かりました。この本の著者は、徳太郎の長男一郎(1926~2017、享年91、元横浜市立大学文理学部教授、心理学者)ですから、徳太郎本人の少年時代の日記を始め、家族親族でしか知り得ない事柄が満載されています。(著者は文章を書く専門家ではないので、前半は読みづらいというか、分かりにくい箇所がありましたが、後半はすっきり読めました)

 まず驚くべきことは、徳太郎の縁戚関係です。労働農民党代議士でただ一人治安維持法に反対して暗殺された「山宣」の愛称で慕われた山本宣治は、従兄弟に当たり、ホトトギス派の俳人として名をなした山口誓子(せいし、本名新比古=ちかひこ)はまたいとこに当たります。

 また、同じようにゾルゲ事件で逮捕された作家の高倉テル(京都帝大時代、河上肇の影響でマルキストになる)は、徳太郎の妹つうの夫、つまり、義弟に当たります。

 このほか、徳太郎の進路に影響を与えた人として小説家の近松秋江まで登場します。

 徳太郎は、明治31年、京都市生まれ。旧制府立三中から京都帝大医学部を卒業したエリートで、日本で初めてフロイトの「精神分析入門」を翻訳して紹介した人でもあります。若い頃に大逆事件などを体験し、軍国主義が高まる中、三・一五事件など治安維持法による共産党弾圧を見聞し、昭和初期には東京・青山の一等地(とはいっても、当時の青山はファッション街ではなく、麻布連隊区司令部や第一師団司令部、陸軍軍法会議などがある「軍都」でした)に内科医を開業します。特高によって拷問死した日本共産党中央委員の岩田義道や作家の小林多喜二の凄惨な遺体を検分したりしたことも、当局からマークされる遠因になります。

 徳太郎のゾルゲ事件での逮捕容疑のきっかけは、この青山の内科医にゾルゲ諜報団の中心人物宮城与徳が昭和10年1月に「肺病で喀血した」と診察に訪れたことで始まりました。

 宮城は沖縄出身の画家で、1920年に渡米、27年には米共産党日本人部に入党し、コミンテルンによる派遣で昭和7年(1932年)に日本に戻り、本部から指令されるまま、ゾルゲの下で諜報活動に従事した男でした。診察以外でも「諜報活動」のため、度々医院を訪れるようになった宮城与徳は、昭和15年の初めに「ドイツ大使館にいる私の友人が肺炎で危篤なってます。先生、例の肺炎の特効薬を下さいませんか」と頼み込んできました。徳太郎は「宮城さんの友人がナチ・ドイツ大使館にいるというのはおかしな話だ」と思いながらも薬を渡します。数日後、宮城が「おかげで、友人は全快しました」と御礼にやって来ます。これが、この本のタイトルにもなっている「ゾルゲを助けた医者」につながるわけです。

 徳太郎は昭和17(1942)年6月に逮捕され(尾崎秀実やゾルゲらが逮捕されたのは、前年昭和16年10月)、治安維持法、軍機保護法、国防保安法違反の罪名で起訴されますが、結局、治安維持法違反の一つだけで昭和18年(1943)年7月に仮釈放されます(判決は懲役2年、執行猶予5年)。この中で、面白い逸話が書かれています。

 裁判が終わって、徳太郎は平松検事に挨拶に行き、「正直言ってこの事件は何が何だかさっぱり分からないのですが、真相は何なんですか?」と尋ねます。すると、平松検事は「分かるわけない。わしらでさえ分からないのだから。コミンテルンというが、実際(ゾルゲ)はソ連赤軍第4本部の諜報機関(所属)なんだよ」と答えたといいます。

 徳太郎を逮捕し、取り調べに当たった警視庁青山署の高橋与助・特高警部は「てめえこのやろう、ふざけやがって、ゾルゲの命を助けたな。この国賊、非国民が。天皇陛下に申し訳ないと思わないのか」と怒鳴りまくり、髪の毛を引っ張ったりしましたが、コミンテルンとの関係ばかり追及したといいます。一方の司法省の検事たちは、ゾルゲの自白で、ある程度、真相を分かっていたということになります。

 実際、ゾルゲは赤軍4部から派遣されたスパイであり、コミンテルンは、徳太郎が釈放される1カ月前の1943年6月10日に解散していたわけですから。

 この本は、ゾルゲ事件に関心がない人でも、明治末に生まれた若者が、大正デモクラシーと米騒動と労働争議と昭和恐慌、軍国主義まっしぐらという日本史の中でも稀に見る激動の時代を生き抜いた様子を読み取ることができます。

 他にも、青山にあったすき焼き料亭「いろは」の創業者木村荘平(葬儀社「東京博善」=現廣済堂グループ=の創業者でもあり、女性関係が盛んで30人の子持ち。八男荘八は、画家で永井荷風の「濹東綺譚」の挿絵担当、十男荘十は直木賞作家)の話など、意外と知られていない色々な逸話も描かれていますので、お薦めです。

 ちなみに、著者の安田一郎は3年前に亡くなっているので、編者として本書の出版にこぎ着けたのは一郎の次男で徳太郎の孫に当たる安田宏氏(1960〜、聖マリアンナ医科大学教授)です。

橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」はどうも…

 世間では誰にも認められていませんが、私は、「フランス専門」を僭称していますので、橘木俊詔著「”フランスかぶれ”ニッポン」(藤原書店、2019年11月10日初版)は必読書として読みました。大変面白い本でしたが、途中で投げ出したくなることもありました(笑)。

 「凡例」がないので、最初は読み方に戸惑いました。

 例えば、「長与(専斎)に関しては西井(二〇一九)に依拠した」(53ページ)や「九鬼周造については橘木(二〇一一)に詳しい」(104ページ)などと唐突に出てくるのです。「えっ?何?どうゆうこと?」「どういう意味?」と呟きたくなります。

 (これは、後で分かったのですが、巻末に書かれている参考文献のことで、まるかっこの中の数字はその著書が発行された年号のことでした。学術論文の形式なのかもしれませんが、こういう書き方は初めてです)

 著者は、経済学の専門家なので、「フランスはケネー、サン=シモン、セイ、シスモンディ、ワルラス、クールノーなど傑出した経済学者を生んだ」(180ページ)と筆も滑らかで、スイスイと進み、それぞれの碩学を詳細してくれますが、専門外の分野となると途端にトーンがダウンしてしまいます。

 例えば、世界的な画家になった藤田嗣治の章で、「乳白色の裸婦」を取り上げた部分。「絵画の手法などについては素人の筆者がどのような絵具や顔料を用い、キャンバスにどのような布地を用いたのか、…などと述べる資格はないので、乳白色の技術についてはここでは触れない」。 えっ?

 「ドビュッシーは女性関係も華やかであったが、これまで述べてきたようにフランスの作家や画家の多くがそうであったし、別に驚くに値しないので、詳しいことは述べない」。 えっ?待ってください。また?

 「物理学に疎い筆者が湯浅(年子)の研究内容を書くと間違えるかもしれないし、読者の関心も高くないであろうから、ここでは述べない」。 もー、勘弁してください。少しは関心あるんですけど…。

 ーまあ、ざっとこんな感じで、読者を2階に上げておいて、「この先どうなるんだろう」と期待させておきながら、さっと階段を外すような書き方です。

 そして、画家の久米桂一郎(一八六六-一九三四)の次の行の記述では、

 「浅井忠(一九三五-九〇) 黒田清輝(日本西洋絵画の開拓者は、美術学校出身ではなく、東京外国語学校出身だったとは!←これは私の感想)や久米桂一郎よりも一〇年早く生誕している」と書かれているので、「おかしいなあ」と調べたら、浅井忠は(一八五六-一九〇七)の間違いでした。日本の出版界で最も信頼できる藤原書店がこんなミスをゆめゆめ見逃すとは!悲しくなります。

 文句ばかり並べましたが、幕末・明治以来「フランスかぶれ」した日本の学者(辰野隆、渡辺一夫ら)、作家詩人(永井荷風、木下杢太郎、萩原朔太郎、太宰治、大江健三郎ら)、画家(藤田嗣治ら)、政治家(西園寺公望ら)、財界人(渋沢栄一ら)、ファッション(森英恵、三宅一生、高田賢三ら)、料理人(内海藤太郎ら)ら歴史的著名人を挙げて、平易に解説してくれています。(私は大体知っていたので、高校生向きかもしれません)

 ほとんど網羅していると言っていいでしょうが、重要人物である中江兆民や評論家の小林秀雄についてはごく簡単か、ほとんど登場しないので、もっと詳しく解説してほしかったと思いました。

 それとも「私の専門外なので、ここでは詳しく触れない」と著者は抗弁されるかもしれませんが…。

 (6年前に「21世紀の資本」のトマ・ピケティ氏が、日仏会館で来日講演された際に、橘木氏も同席して、橘木氏の御尊顔を拝見したことがあります。「経済格差問題」の権威として凄い方だと実感したことは、余談ながら付け加えておきます。)

「慶喜が敵前逃亡しなければ」「孝明天皇が急死しなければ」「錦の御旗が偽造されなければ」=松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」

(7月13日のつづき)

 松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社)が異色の幕末史となっているのは、これまで「薩長史観」で洗脳に近い形で教え込まれていた常識や史実が、百八十度、ひっくり返ってしまうことです。

 例えば、「松下村塾」を開き、維新の原動力となり、精神的支柱になった長州藩の吉田松陰のことです。偉人です。神格化され、明治になって本当に神になって松陰神社(東京都世田谷区)に祀られた人です。吉田松陰は安政の大獄で刑死となりましたが、文久3年に高杉晋作、伊藤俊輔(博文)らによって、毛利藩主の別邸に改葬され、明治15年になって、そこにそのまま松陰神社が建てられたのです。

 同神社の由緒では、「吉田松陰先生は、世界の中の日本の歩むべき道を自分自身が先頭となり、至誠、真心が人間を動かす世界を夢見て弟子たちと共に学び教えていきました。新しい時代の息吹が松下村塾の中に渦巻き、次の時代を背負う多くの俊才、逸材を生み出したことは、広く世界の人々が讃える所であります」などと稀に見る立派な教育者で、思想家となっております。しかし、松田氏の「斗南藩」では、彼は、黒船のペリー提督や南紀派中心人物である水野忠央(ただなか=紀州藩江戸定府家老)、老中間部詮勝(まなべ・あきかつ=越前鯖江藩主)ら要人暗殺を企てて若者を煽動したテロリストだったと書かれています。

 松田氏は「神社の創建以降、松陰の顕彰に最も熱心だったのは、山縣(有朋)だった。…軍拡にまい進した『日本陸軍』の父である。対外戦争の時代、国家が『愛国』『殉国』の権化としての松陰像を称揚していったが、まさか、暗殺、テロで政権に歯向かおうとした人を子どもに修身で教えるわけにはいかない。松陰の負の横顔は隠され、軍国主義に都合のいい側面だけを利用したのである」と書いていますが、彼が参考にした文献は、萩博物館特別学芸員・一坂太郎著「吉田松陰ー久坂玄瑞が祭り上げた『英雄』」という本でした。萩の人が、地元の英雄を批判していたのです。松田氏は「松陰のお膝元の人が刊行したので、一坂氏に有形無形の圧力がかかるようになったという」ことまで明かしています。

 ということで、この「斗南藩」を読了しましたが、やはり、敗者からの視点で描かれているとはいえ、読んでいて、腹立たしくなったりして「切歯扼腕」状態でした。歴史に「イフ」はない、とはよく言われますが、(1)「鳥羽伏見の戦いの最中、もし徳川慶喜が、大坂城からわずかな側近だけを連れて逃げ出さなかったら」(2)「もし、孝明天皇が急死しなければ」(3)「もし、岩倉具視らが『錦の御旗』を偽造しなかったら」歴史は全く違ったものになっていたことでしょう。

 (1)については、「徳川慶喜が大坂城を脱走したのは慶応4年1月6日の夜9時ごろ。随行は松平容保(会津藩主)とその実弟松平定敬(桑名藩主)、老中板倉勝清ら数人。慶喜に『一緒に来い』と命じられた容保は、庭でも散歩するのかと思い、ちり紙も持たずに従ったという」。総大将が敵前逃亡してしまえば、前線の兵士は梯子を外された格好で、これで敗戦が決まったようなものです。

 (2)の35歳の若さで崩御された孝明天皇については、著者は岩倉具視を黒幕としたヒ素による毒殺説を支持しています。孝明天皇は、会津藩に対する信任が厚く、その証拠として本書では宸翰(しんかん=天皇の直筆の文書)まで掲載しています。反幕府の公家や薩長にとって、会津シンパの孝明天皇が邪魔だったのかもしれません。

(3)の「錦の御旗」が偽造だと知らずに、「賊軍」には与したくはないと、戊辰戦争の最中、土佐藩、淀藩(初代藩主稲葉正成の妻は三大将軍家光の乳母春日局)、津藩、彦根藩…と次々と官軍、実は薩長軍に寝返ってしまいます。畏るべし。

 その後、「朝敵」「賊軍」となって孤軍奮闘とした会津藩は、最期は有名な白虎隊の悲劇などがあり壊滅し、明治になって23万石の領地を没収されます。作物も碌に育たない火山灰地の北僻陸奥の極寒地3万石の斗南藩に追放されます。会津藩の表向きの石高は23万石ですが、幕府預け領などを合わせ、一説には67万9000石だったといいます。当然のことながら、多くの餓死者を出し、漁業や林業、そして酪農業などで活路を見出していくのです。

 いずれにせよ、「維新の英傑」と言われている西郷隆盛も大久保利通も木戸孝允も「五百円札になった」岩倉具視も本書では「善人」として描かれていません。歴史にイフがなく、敗者側からの歴史では、どうしても、「たら」「れば」の話になってしまいますが、これまで、「定説」となっていた誤謬を多くの史料・資料から訂正していることは本書の功績でしょう。

蛇足ながら、著者の松田氏が特別論説編集委員を務める東奥日報社につながる青森県初の言論機関「北斗新聞」を明治10年に創刊したのは、小川渉という斗南藩士だった人でした。

また、秋篠宮紀子妃は、会津藩士で斗南藩に移植し、大阪市長などを歴任した池上四郎の曾孫に当たるといいます。となると、将来、天皇になられる悠仁さまも、会津・斗南(藩士)の子孫になります、と著者は最後に結んでいました。

 この本を贈ってくれた畏友小島君には感謝申し上げます。

「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社)を読んで

  高校時代、クラスで一番の人気者の小島君が本を贈ってくれました。松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社、2020年3月20日初版)という本です。彼は現在、青森県で医療関係の仕事に従事しています。関東出身だと思いますが、すっかり「東北人」になりきり、愛郷心も半端じゃありません。

 高校時代の彼は、休み時間になると、いつも周囲から可愛がられ、口を尖らして「やめろよ、やめろよ」と大声を出していたことから、「タコ」と綽名を付けられていました。森崎君が付けたと思います。

 そんな彼も今では大先生です。彼とは、(仕方なく始めた)フェイスブックで数十年ぶりにつながり、FBを通じて、小生のブログを彼は愛読してくれているらしく、今回も「本を差し上げます。何もブログにアップしてもらうつもりはありません。売り上げに貢献したいだけです」とのメッセージ付きで送ってくれました。彼はジャーナリストと同じように、いやそれ以上に日々のニュースや歴史に関心があるようです。青森県を代表する県紙東奥日報を応援する気持ちが大きいのです。

 彼がこの本を贈ってくれたのは、恐らく、私が2018年2月25日にこのブログで書いた「『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』は人類必読書ではないでせうか」を読んでくれたせいかもしれません。実は、私もこの本で初めて「斗南藩」の存在を知りました。

 幕末、「朝敵」「賊軍」となった会津藩は、23万石の会津の地を没収され、作物も碌に育たない北僻の陸奥の極寒地3万石の斗南藩に追放されるのです。会津藩士で、後に陸軍大将になる柴五郎について書かれた前掲の「ある明治人の記録」の中で、

「柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、到底足りない。…馬に食べさせる雑穀など食べられるものは何でも口にした。…塩漬けにした野良犬を20日間も食べ続けたこともあった。最初は喉を通らなかったが、父親から『武士は戦場で何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長の下郎どもに笑われるぞ』と言われて我慢して口にした。住まいの小屋に畳はなく、板敷きに稾を積んで筵を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹き付ける寒風で、炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で稾に潜って寝るが、五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるか分からない状態になった。…」

 とまで書いておりました。そこまで悲惨な生活を強いられたのでした。

 藩祖保科正之(二代将軍秀忠の嫡外子で、三代将軍家光の異母弟)以来、天皇に対する尊崇の念が篤かった会津藩が、何故に「朝敵」の汚名を着せられなければならなかったのかー。そんな不条理を少しでも解明して、名誉を回復したい、といった義憤が、東北人である著者にこの本を書かかせるきっかけになったようです。藩祖保科正之は、四代将軍家綱の「将軍補佐役」として幕政の中心に就き、特に、明暦の大火で江戸市中が灰燼に帰した際、江戸城天守を再建せず、町の復興を最優先したことで名を馳せた人物でもあります。

 歴史のほとんどは「勝者」側から描かれたものです。となると、この本は、「敗者」側から描かれた歴史ということになります。そして、歴史というものは、往々にして、敗者側から描かれた方が誇張や虚栄心から離れた真実に近いものが描かれるものです。

 2年前のブログにも書きましたが、これほど会津藩が賊軍の汚名を着せられたのは、藩主松平容保(かたもり)が京都守護職に就き、新撰組などを誕生させ、「池田屋事件」や禁門の変などで、長州藩士や浪士を数多く殺害したことが遠因だと言われています。長州藩士桂小五郎はその復讐心に燃えた急先鋒で、宿敵会津藩の抹殺を目論んでいたといわれます。

 となると、会津藩が京都守護職に就かなければ、これほど長州からの恨みを買わなかったことになりますが、本書では、若き藩主容保が、何度もかたくなに固辞していた京都守護職を「押し付けた」のは、越前藩主で、政事総裁として幕政に参加していた松平春嶽だったことを明かしています。

 会津藩主松平容保は、もともと美濃の高須藩主松平義建の六男(庶子)でした。高須藩は、御三家尾張藩の支藩だったということもあり、容保の兄慶勝は尾張藩主、茂徳(もちなが)は高須藩主、尾張藩主、一橋家当主、弟の定敬(さだあき)は桑名藩主となり、「高須四兄弟」と呼ばれました。特に、末弟定敬は、京都所司代に任命され、京都守護職の兄・容保とともに京都の治安維持役を任されます。これが後に、薩長土肥の志士たちから「会津、桑名憎し」との怨嗟につながるのです。

 桑名藩は、徳川家康譜代の重臣で、四天王の一人と呼ばれた本多忠勝が立藩したので、徳川政権に最も近い藩の一つだと知っていましたが、幕末になって、会津と桑名にこのような関係があったとは…。色々と勉強になりました。

 幕末は、日本史の中でも人気が高く関連書も多く出版されています。しかし、殆どが勝者側の勤王の志士が主人公で、会津、桑名など時代遅れの先見の明のない無学な田舎侍扱いです。

 本書を読めば、そうでなかったことがよく分かります(つづく)。

松岡將写真・文「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(同時代社)

 「有言実行の人」です。

 まさかこんなに早く企画が実現するとは思ってもみませんでした。

 私のブログが本になりました。いや、間違いました。言葉足らずでした。屡々、私のブログに掲載させて頂いている写真(WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua)が本になりました、というのが正確です。

 7月7日に同時代社から刊行される「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(4800円+税)という美術書のことです。

 写真と文は、近現代史・満洲研究家の松岡將氏です。1970年代初頭といいますから、もう今から半世紀近い昔。30歳代後半の農水省のエリート官僚だった松岡氏は在ワシントン日本国大使館勤務を命じられました。丸4年間の滞米生活を送った折、まさに公私ともに通い詰めた所がワシントン・ナショナル・ギャラリーでした。自宅から車でわずか20分という近距離だったこともあり、週末のプライベートの時だけでなく、日米農産物貿易交渉に関わる日本の国会議員や政府関係者、米国の上下両院議員、米農務省高官らとの接遇場所や空いた時間に案内するなど訪問回数は、幾何学級数的(多いという意味です)。ついでに撮った写真も何百枚、何千枚だったようです。詳しくは分かりませんが、そのカメラ装備も、ライカのようなプロ仕様だったと思われます。欧米の美術館のほとんどでは写真撮影は問題はないのですが、フラッシュ撮影は禁止でしょう。恐らくプロカメラマンのように照明まで配備できなかったかもしれませんが、驚くほど画像が鮮明で、画素数もかなり高感度です。

 実は、この有り余るほどのギャラリーの写真を松岡氏は最初、持て余していたようです。彼は、有難いことに、このブログの愛読者でして、私が適当に選んだ写真とブログの記事とのあまりにもの乖離(つまり合っていないこと)を嘆かわしく思われたらしく、ある日、「この写真をブログに御自由に使ってください」と、小生に添付メールで送ってくださったのです。

 そのうち、「ギャラリーの写真をまとめた本をいつか出したい」という話を伺ったのが、1年半ほど前でしたか。それが、「ある出版社に企画を持ちかけています」と聞いたのが、昨年の今ごろ。「著作権は大丈夫かなあ」と心配しつつ、その後、コロナ禍もあり、「企画の実現は随分先のこと」とこちらで勝手に思っていたところ、予告もなく、この本が「贈呈」として送られてきたのです。もう吃驚です。

 表紙の写真は、レオナルド・ダビンチ作「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」(1474~78)です。ダビンチの作品が欧州の美術館以外で所蔵されているのは、ここしかないそうです。この名作は、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの創設者アンドリュー・メロンの長女エルサ・メロン・ブルースAilsa Mellon Bruce (1901~1969)が1967年に購入したといいます。長い美術史から見れば、つい最近のことではありませんか。

 ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、世界の有名美術館の中でもごく新しい美術館で、実業家・銀行家で米財務長官などを歴任したアンドリュー・メロン(カーネギー・メロン大学に名を遺す)が1931年に個人でエルミタージュ美術館などから取得した収集品を米国民に寄贈する形で、当時のルーズベルト大統領と米議会の同意で1937年にワシントンDCの地で着工し、1941年に開館した美術館だったのです。近現代史、昭和史のど真ん中じゃありませんか。

 松岡氏はさすが近現代史研究家ですから、「あとがき」の中で、1931(昭和6)年は満洲事変が勃発した年、1937(昭和12)年は支那事変(日中戦争)が開始した年、ギャラリー開館2カ月前の1941(昭和16)年1月は、陸相東条英機大将が「生キテ虜囚ノ辱メヲ受クルナカレ」とする「戦陣訓」を全軍に示達した、などと書いておられます。

 そして、「ナショナル・ギャラリーは全長238メートル、戦艦大和は全長256メートルで、大きさはほぼ同じだった」などと過去の御自身の著作からも引用しています。日本が軍国主義に邁進している時に、米国は着々と文化を育成していたのです。

 本書では、肝心の美術作品については13世紀末の宗教画辺りから、ルネサンスを経て、近世、近代の写実主義、印象派辺りまで網羅しています。ダビンチ、ラファエロ、レンブラント、モネ、ゴッホら巨匠の名前は、表紙写真の帯に出ている通りです。

オランダの聖ルチア伝説のマスター「天上の聖母マリア」(1485/1500年)WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 私はかなりの面倒臭がり屋ですから、松岡氏からお借りした写真をブログに掲載する際、わざと(笑)キャプションを掲載しませんでしたが、この本ではしっかりと、作品名、年代、作者まで明記されていますので、長年、渓流斎ブログを見て「この写真の作品は何だっけ?」と悩んでおられた方々は、一気に解消されます。(松岡氏は、特別に思い入れのある作品については、個人的なコメントを添えています。例えば、上の写真の「天上の聖母マリア」については「ワシントン駐在となる数年前に母を失ったばかりの私の心を、仏画にも似て癒してくれるものだった」などと…)

 かつては王侯貴族ぐらいしかこのような美術作品に触れることができなかった時代と比べれば現代人は本当に恵まれています。しかも、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、米国民のために設立された美術館なのに、「文化は人類共通の財産」として、異邦人(しかも設立当時は敵性国人!)にも自由に開放しているところが本当に素晴らしい。松岡氏もあとがきで、「(写真を)このまま自分一人のものとしておくのは、いかにも勿体ない。出来れば何とかこれを多くの人々と共有することができないか、と思うようになった」ことが、出版の動機だったことを明かしています。

 この「世界初」の書評(?)を読まれて御興味を持たれた方は、是非手に取って御覧になって頂ければ私も嬉しいです。