三島事件から半世紀、極めて個人的な雑観

 ◇三島割腹自決の衝撃

 11月25日は作家三島由紀夫が陸上自衛隊の市谷駐屯地で割腹自決した日で、今年はちょうど半世紀です。ということは、現在53歳ぐらいか、それ以上の方でないと、この事件を実体験した感想は書けないと思います。

 あの衝撃は今でも忘れられません。私は東京都下の中学生でした。当時、自分でもよく分からないのですが、剣道部に所属していて、この事件の第一報を知ったのは、剣道部の顧問の杉本教頭先生からでした。帰りがけの我々に学校の校庭で彼はこう言いました。「本日、日本で一番偉い方が亡くなりました」。

 日本で一番偉いのかどうなのか。当時、三島の作品を碌に読んでいなかったくせに、妙に反発心が湧き起きたことを覚えています。名前を知っていた三島作品は「潮騒」「永すぎた春」「金閣寺」など映画化された作品ばかり。ということは、まだ読んでおらず、小説は「仮面の告白」を既に読んでいたかどうか、記憶は曖昧です。

 三島主演の映画「憂国」(1966年)は見ていなくとも、切腹シーンで話題騒然となったことは覚えています。それが、実際、三島自身がミニチュア軍隊のような「楯の会」を結成して、メンバーとともに市谷駐屯地を襲撃して、本当に割腹してしまうのですから、興味よりも恐ろしさの方が先だったことを覚えています。当時は全共闘運動が盛んで、世間では左翼勢力の天下のような雰囲気だったせいか、極右の三島は恐ろしい人だ、憲法が改正され、徴兵制が敷かれ、戦争が始まる、といった恐怖心の方が強かったのでした。(私の少年時代は、親世代の戦争の記憶はまだ生々しく、私自身も徴兵制は復活すると思い込んでいました)

 翌日だったか、クラスの誰かが、朝日新聞の前日の夕刊を持ってきました。総監室で割腹自決した三島と三島を介錯した後自決した森田必勝の二人の首が並んだ写真が一面に大きく掲載されていました。この写真は、カメラマンが敷居の上から当てずっぽうにシャッターだけを押して隠し撮りしたら写っていたらしいのですが、個人的には「どうしてこんな写真を載せるんだろう」という気持ちが強かったでした。

◇50年後を予言した三島由紀夫

 まだ、中学生でしたから、政治も文学も思想も哲学も難し過ぎて関心すらなし。ビートルズやレッドツェッペリンに夢中でした。そのせいか、三島のクーデターまがいの行動には、滑稽と言えば生意気過ぎますが、正直、痛々しさを感じました。バルコニーで演説中は野次が飛び、三島本人も自衛隊員が同調して一緒に決起してくれることを期待していなかったようですし。

 半世紀を過ぎ、三島が生きた45歳をとうに過ぎた今の私は、三島が命を懸けて書いた「檄」文はある程度理解できます。それ以上に、檄文はまるで「予言の書」ではないかと思うようになりました。三島が憂いたように、「自衛隊はアメリカの傭兵」のような存在のままで、今でも莫大な資金でイージス艦など大量の米国製武器を買わされて続けています。日本国民の税金で。

 三島の死後、経済優先の弱肉強食の金融市場主義が蔓延って貧富の格差が拡大し、電車の中で化粧をしても恥とも思わない、三島が予言したような魂の抜けたような日本人ばかりになってしまいました。

 私は高校から大学にかけて、三島の主要作品は読破して、その煌めくような華麗な文体に眩暈し、日本文学史上最高の知性を持った文章家ではないかとさえ思ったことがあります。三島が自決する前夜に「最後の晩餐」をした東京・新橋の「末げん」に食事に行ったり、三島の遺児が成長して開店していた銀座の「宝石店」を探して見に行ったり、三島が夜な夜な通い詰めた新宿のバー「どん底」に飲みに行ったりし、結構、ミーハーなこともやったりしました。

それなのに、最後までアンビバレントの気持ちはなくなりませんでした。純真だった中学生の頃の反発心と、長じて文体に魅了された敬服心という相反する気持ちです。

◇ジャーナリズムの真骨頂

 今は、仮面を被った三島由紀夫よりも、幼少期病弱で祖母に溺愛された本名の平岡公威の方が興味があります。また、農商務官僚で、三島の死後も長命を保った実父平岡梓の方が興味があります。さらに、内務官僚で汚職の嫌疑で樺太長官の職を追われた三島の祖父平岡定太郎の方がもっと興味があります。

 三島のボディビルで鍛えた筋肉隆々で自身満々の姿は、己の弱さを隠すための方便だったのではないかと愚察しています。文学として、三島より、夏目漱石や芥川龍之介や太宰治の方に私自身が惹かれるのは、後者は、三島のように「弱さ」を隠すことなく、人間の「弱さ」を作品の中で正直に吐露してくれたからだと思います。

 三島没後50年ということで、新聞、テレビ、雑誌等で散々取り上げられ、未だに熱烈な信奉者が多いことも分かりました。でも、11月25日を過ぎれば、取り上げられる機会は減ることでしょう。

 それこそがジャーナリズムの真骨頂です。

哀れ、明智光秀の最期=ムック「戦国争乱」

 コロナ禍で、結局、休日は「我慢の三連休」になってしまいました。ひたすら、家に閉じこもって勉強をしていました。何の勉強ですかって? フリーランスの個人事業主として必須の簿記関係です。訳が分からなくなって、ここ数カ月、何度も何度も匙を投げ出したくなりました。まさか、この年まで受験生のような勉強をさせられるとは夢にも思っていませんでした。今でもよく分からず、フラストレーションが溜まります。

 そんな勉強の合間、気分転換に読んでいるのが、中央公論新社のムック「戦国争乱」です。今、個人的にも戦国時代への関心、興味が深まっているので、この本は異様に面白いですね。信長、秀吉、家康を中心に「桶狭間の戦い」から「大坂の陣」までの代表的な18の合戦と60人の武将を徹底的に分析しています。何と言っても、戦国時代を日本史の狭いジャンルに閉じ込めることなく、世界史的視野で位置付けているところが、この本の醍醐味です。

 今年6~7月に放送された「NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~」で、私も初めて知ったのですが、スペインの国王フェリペ二世は、宣教師を「先兵」に使って、日本をメキシコやフィリピンなどと同じように植民地化することを企んでいたといいます。この点について、この本でも詳しく触れられていて、清水克行明大教授によると、日本でのイエズス会の目的は二つあって、一つは純粋なキリスト教の布教。もう一つは、軍事大国日本を先兵にして中国・明の植民地化にあったといいます。イエズス会の創設者の一人イグナティウス・デ・ロヨラは、元々軍人でしたからね。本当は、日本を最初に植民地にする予定だったのが、自前で何万丁も火縄銃をつくってしまう世界最大級の軍事大国だった日本を攻め落とすことができないことを宣教師たちには早々に分かったようで、究極の目的の中国植民地化に切り替えたのでしょう。

 純粋な布教を目指したのは、宣教師ザビエル、巡察師バリニャーノ、司祭オルガンティーノらでした。彼らは、中国植民地化で政治利用を図った日本布教長のカブラル、日本準管区両長コエリョ、司祭フロイスらとの間で確執があったといいます。

 また、昨日22日のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でもやってましたが、あの歴史的な織田信長による「比叡山焼き討ち」についても詳しく解説してくれています。テレビでも、主人公の明智光秀は、比叡山焼き討ちは、信長の命令で不本意にも仕方なく参戦したように描かれていましたが、この本では違っていました。光秀は積極的に参戦したというのです。

 近年、明智光秀が大津市の土豪和田秀純に送った書状(1571年9月2日付)が見つかり、光秀は内応を約束した秀純には前日の戦勝を報告する一方、敵対する仰木村の民は皆殺しにすると記していたといいます。

 光秀はこの時期、足利将軍家と織田家の両方に仕え、どっちつかずの状態だっため、比叡山焼き討ちに積極的に参戦して、織田家臣として手柄を立てたかったのではないかと推測されています。実際、光秀は信長からその武功を認められ、焼き討ちした坂本の領地を与えられます。

 私も、実際、「明智光秀ゆかりの地」を訪ねて、今月初めに坂本城跡や光秀の菩提寺である西教寺に行ってきたばかりなので、文字だけで想像力が湧きました。

 本能寺の変の後の天下分け目の「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍に敗れた明智光秀は、大津の坂本城に逃げ帰る途中の京都市伏見区小栗栖の「明智藪」で、落ち武者狩りの農民によって殺害されます。秀吉は、確保した光秀の首を本能寺の焼け跡に晒し、次いで首と遺骸をつないで粟田口で大罪人を示す磔にしたと、この本に書かれていました。

 この部分を引用することはやや逡巡はしましたが、冷酷な戦国時代の実相だと思われ、敢えて引用しました。明日にも露のようにそこはかとなく消えてしまう命のやり取りをしていた戦国武将と比べれば、今のような平和な時代に生まれた現代日本人の悩みなど本当に取るに足らないものなのかもしれませんね。何度も書きますが、戦国時代に生まれなくてよかった。

しこりを残した浄土真宗本願寺派と高田派の争い=北陸の戦国興亡史

 昨日も取り上げた「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集ですが、全国でも異彩を放っているのが「『北陸』の戦国興亡史」です。文明6年(1474年)、加賀の守護富樫氏の家督相続争いに浄土真宗の本願寺派(一向宗)と高田派が分かれて戦い、弱体化した富樫氏を凌駕して本願寺の「加賀三箇寺(さんかじ)」(本泉寺、松岡寺、光教寺)が北陸の支配権を確立したりするからです。

 宗教とは何か、と思ってしまいますね。この本には軍事的戦略について詳細されていませんが、お寺のお坊さんや門徒たちが、武士という軍事専門集団に互角かそれ以上に戦って勝ってしまうということは、僧兵などという生易しいものではなく、武士と同じような鎧兜で武装し、弓矢や刀剣などの軍備は、武装集団以上だったのかもしれません。(一向一揆は農民だけでなく武士も参戦したようです)

 人を殺めることは仏教の戒律に反するはずですが、破戒してもそれに見合うメリットがあったからなのでしょう。寺院による支配権・自治権を持つということは経済的基盤を確立するということに他ならないからでしょう。寺社領から収穫される農作物を取り立てたり、領民から税を徴収したりしていたに違いありません。

 いずれにせよ、北陸地方は、他の日本各地と比べて、異様です。戦国武将同士だけの戦いではなく、浄土真宗の門徒らが参戦した三つ巴、四つ巴の争いで複層しています。そして、一向宗一揆が強かったのは、門徒たちが「死ねば極楽浄土に行ける」と信じて、命知らずにも勇敢に戦ったせいなのかもしれません。

「北陸」の戦国興亡史を年表風にするとー。

1474年 応仁・文明の乱で東軍に属した加賀の守護富樫政親(まさちか)が、西軍に属した弟の幸千代(こうちよ)と家督争い。本願寺派を味方につけた政親が、高田派の専修寺を味方につけた幸千代を追放。

1475年 越前朝倉孝景、権勢を強めた本願寺派8世蓮如の吉崎御坊を攻め落とす。蓮如、吉崎を去り、山科に本願寺建立。

1487年 富樫政親が本願寺派の弾圧を始めたため、加賀一向一揆が勃発。本願寺派は政親居城の高尾城を落とし、政親自害に追い込む。

1493年 明応の政変。10代将軍足利義稙(よしたね)が畠山政長らを率いて、畠山義豊(義就の嫡男)を追討するために河内に出陣。その間隙に、細川政元が義稙と対立していた足利義澄を11代将軍に擁立。畠山政長、自害。

1506年 本願寺派加賀本泉寺の蓮悟、本願寺派9世実如(蓮如の第8子)の支援を仰ぎ、11代将軍義澄を擁す細川政元の要請で越前侵攻。10代将軍義稙を匿う越前の朝倉貞景、本願寺派と対立する高田派の勝鬘寺、本流院、称名寺などを味方につける。朝倉貞景、不意討ちで本願寺派の門徒を一掃。

1507年 細川政元、暗殺死。政元の養子澄元(11代将軍義澄派)と高国(10代将軍義稙派)の覇権争い。澄元の子晴元が高国を敗死に追い込み、12代将軍義晴を擁立。一向一揆の強大化を怖れた晴元、法華宗と結び、山科本願寺を焼却。本願寺派10世証如(実如の孫)、大坂の石山本願寺に移る。(後に織田信長が石山本願寺を攻略し、その跡地に豊臣秀吉が大坂城を建立することになります)

 以下略

 こうして見ると、同じ浄土真宗でも本願寺派と高田派は敵・味方に分かれて血と血で争う歴史があったことが分かります。

 学生時代の親友T君は神童で、中学校は三重県の地元の名門高田中学に通いましたが、この学校は浄土真宗高田派の学校でした。授業で宗教の時間があり、親鸞聖人の教えは熱心に教えてくれましたが、本願寺の話になると、「そういうものもある」と大変素っ気なかったんだそうです。浄土真宗といえば、西本願寺と東本願寺と築地本願寺ぐらいしか知らない人にとっては驚きです。

 でも、こうして歴史を見ると謎が解けましたね。先生は、550年も昔に起きたこと(本願寺派と高田派専修寺との争い)を忘れていなかったということなのでしょうね。

「戦国武将の国盗り変遷マップ」が面白い=「歴史人」

 今、とてつもない本を読んでいます。本というより雑誌ですが、永久保存版に近いムックです。「歴史人」という雑誌の11月号(KKベストセラーズ)で「戦国武将の国盗り変遷マップ」という題で特集しています。本屋さんでたまたま見つけました。(執筆は小和田哲男静岡大名誉教授ら)

 知らなかったことが多かったので勉強になります。私は、全国の「お城巡り」を趣味にしているので、大変参考になります。

 私自身の見立てですが、日本の歴史の中で、最も興味深い時代は、何と言っても「戦国時代」だと思っています。だから、多くの作家が戦国ものをテーマにしたり、NHK大河ドラマでもしばしば扱われたりするのです。人気面でも戦国時代がナンバーワンでしょう。これに続くのが、「幕末・維新」と「古代史」でこれでベスト3が出そろった感じです。

 そう言えば、「維新の三傑」と言われた人物でも、やはり戦国時代の信長、秀吉、家康の三巨頭と比較されると見劣りします。人間的スケールの大きさが違います。殺すか殺されるか生死の境目で生きざるを得なかった過酷な時代背景が戦国時代の英傑を産んだともいえます(幕末もそうですが)。勿論、個人的には一番生まれたくない時代ですけれど(笑)。だからこそ、憧れのない代わりに、そんな過酷な生死の境を生き抜いた英傑には感服してしまうのです。

 戦国時代とは、応仁の乱(1467年)から大坂の陣(1615年)までの約150年間を指します。まさに下剋上の時代で、食うか食われるかの時代です。臣下にいつ寝首をかかれるか分かりません。本書は「戦国武将の国盗り変遷マップ」と称していますから、時代ごとの勢力地図が示されて、その分布が一目で分かります。

 例えば、小田原北条氏の三代目氏康は、1546年の河越合戦(埼玉県川越市)で勝利を収め、扇谷上杉氏を滅亡させ、古河公方や関東管領家を弱体化することによって、ほぼ関東全域の支配権を確立します。しかし、氏康は1559年に氏政に家督を譲った後は、上杉謙信の侵攻に悩まされ、一時期は、北条氏の関東の領土は奪われて半減したりすることが、マップで一目瞭然で分かるのです。(氏政は後に奪還して北条氏の最大の領地を拡大しますが)

 内容は大学院レベルだと思います。私が学生時代に習った北条早雲は、出自の分からない身分の低い成り上がり扱いでしたが、実は、室町幕府の申次衆という高い身分の伊勢氏出身で、最近(とは言っても数十年前)の研究で、伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞)だったことが認定されました(北条に改名したのは二代目氏綱から)。早雲の姉(または妹)の北川殿が駿河の守護今川義忠に嫁いだことから、早雲も京都から駿府に下り、家督争いになった今川氏のお家騒動に積極的に関わり、氏親~義元の擁立に貢献します。戦乱の絶えない世で、今川家の軍師として活躍し、後に小田原を中心に、今川家をしのぐ領土を拡大していきます。

 一方、九州の戦国武将は、島津氏や大友氏、大内氏ぐらいしか知りませんでしたが、佐嘉(佐賀)城を本拠地にした龍造寺氏が北九州で勢力を誇り、一時「三国鼎立」時代があったこともこの本で知りました。特に、龍造寺隆信(1529~84)は「肥前の熊」の異名を取り、少弐氏(冬尚)を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築きましたが、島津・有馬氏の連合軍との沖田畷の戦い敗れ、滅亡します。(代わりに肥前を治めたのが、龍造寺氏の重臣だった鍋島氏。ちなみに、お笑いの「爆笑問題」の田中裕二氏の祖先は、この龍造寺氏の家臣でしたが、敗退後に田中氏は武士をやめて帰農したことをNHKの番組でやってました)

 また、他の日にNHKで、専門家による戦国時代の最強武将を選ぶ番組をやってましたが、九州一の武将は立花宗茂が選ばれました。えっ?誰? 彼は大友家の猛将、高橋紹運の長男で、同じく大友家の重臣立花道雪の養子になりましたが、関ヶ原の戦いでは西軍に就いたため、改易されました。しかし、余程人望が高かったのか知略を怖れられたのか、二代徳川秀忠の時代に筑後柳川城主に復帰します。でも、この人、この雑誌ではちょこっとしか出て来ないんですよね。大きく取り上げられているのが、島津家の領地を拡大した島津4兄弟の義久と義弘です。この2人なら、さすがの私でも知っています。

 日本史上最大、最高の「成り上がり」は、武士でもない庶民から関白の地位にまで上り詰めた豊臣秀吉でしょうが、織田信長も、尾張の守護斯波氏の守護代の家臣からの成り上がりで、徳川(松平)家康も、三河の守護細川氏の家臣からの成り上がりで、名を残した戦国大名のほとんど(毛利元就、松永久秀らも)が室町時代の権威(守護職)を下剋上で倒して成り上がったことがよく分かります。

 ついでながら、前半で、畠山政就⇒畠山義就、細川勝元⇒細川政元といった明らかな単純ミスが散見し、どうなるかと思いましたが、それ以降はあまり誤植もないようです。

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」

 満洲研究家だと思っていた松岡將氏が、いつのまにか美術評論家になっていました。

 今年7月に「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(同時代社)を発行したばかりの松岡氏が、今度は、その「参百景」の補遺版に当たる「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像ー美の殿堂へのいざない・補遺」(同)を10月20日に初版刊行されたのです。1年に2冊も出版されるとはそのバイタリティーには脱帽です。松岡氏の略歴は巻末に誕生日まで詳細されておりますが、昭和10年生まれということは、今年85歳。頭が下がるばかりです。解説がうまく的確にまとめられています。

 7月の前著「参百景」では、ワシントンの在米日本大使館勤務時代を中心に何年も何年もナショナル・ギャラリーに通い詰めて、同館の新米学芸員以上の作品に対する知識をご披露されておりましたが、新著の「三十六肖像」も大変読み応え十分で、鑑賞し甲斐があります。

 これでも、小生は大学の卒論にクロード・モネを中心にした「印象派」を選び、記者になってからは文化部の美術担当になったこともあり、全国、全世界の主要美術館も巡り歩き、美術の知識はかなりあると自負しておりましたが、「三十六肖像」の画家の半分近くも知らなくて、自分の不勉強を恥じるばかりです。思えば、自分が詳しかったのは、泰西美術の中でも、バルビゾン派以降の写実派や印象派やキュービズムやバウハウスなど近現代ばかり。それもフランス中心の知識でした。ドイツ・ルネサンスもロシア・アヴァンギャルドもあまり知らないし、英国系は、ターナーかミレイかウィリアム・モリスぐらいです。

 例えば、本書では、ギルバート・スチュアート(1755~1828)とトマス・サリー(1783~1872)という米国人なら誰もが知っている画家が登場しています。何で知られているかと言いますと、二人とも肖像画が得意でスチュアートの描いジョージ・ワシントン初代米大統領は1ドル紙幣に、サリーの描いたアンドリュー・ジャクソン第7代大統領は20ドル紙幣に採用されているからだといいます。正直、私は知りませんでした。

 本書前半にイタリア・ルネッサンスのエルコレ・デ・ロベルティ(1455/56~1496)の「ジネブラ・ベンティヴォーリョ」の肖像画(1474/77)も取り上げられています。

 私自身、この絵も画家も知りませんでしたが、解説を読むと、ロベルティは、40歳余で早逝したため、残された作品が少ないが、後の批評家からレオナルド(・ダビンチ)と比肩するほど高い評価を受けている、とまで書かれています。

 取り上げられた画家の中には、意外とペストや肺結核で亡くなっている方が多いのですが、作品はこうして残り、芸術は永遠だなあ、と感じます

 色々と勉強になりました。

 私自身は、フランスびいきのせいか、ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748~1825)の「フランス皇帝ナポレオン:テュイルリー宮殿の書斎にて」(1812)のあまりにも細密でその精巧さに、改めて驚かされました。ナポレオンが目の前に立って、まるで生きているような感じです。
 勿論、写真が綺麗なせいかもしれません。撮影した松岡氏の玄人はだしの腕前です。もしかして、ライティングにもしっかりと気を配り、カメラが当時の最高機種だったかもしれませんが(笑)。

 私も意地が悪いですが、本文中、ジャクソン大統領を第八代としたり(実際は第7代)、セザンヌのところで、1861年のところを1961年としたり、明らかな間違いを見つけてしまいました。恐らく、この本は売れると思いますので、第2刷の際に訂正されることでしょう。

【追記】

 FBからの読者であるK氏からのメッセージで、ワシントンの一連のスミソニアン博物館群の入場は無料だということを御教授頂きました。ワシントン・ナショナル・ギャラリーもその中に含まれるので無料です。K氏は、ワシントン出張の際、スミソニアン博物館に行けなくても、ワシントン・ナショナル・ギャラリーだけは行くようにしたそうです。

 また、私は知りませんでしたが、この一群の中にフリーア美術館があり、(ということは無料公開)、俵屋宗達の「松島図屏風」を所蔵しているそうです。明治に米実業家の手を経て海外に渡ったものですが、日本に残っていれば、勿論、国宝になった作品です。見たいなあ。

「お金の大学」で金融知識を身に着ける

 銀座のフルーツ大福「弁財天」 いちじく大福が1000円だとか…

 2011年の「安愚楽(あぐら)牧場」事件(和牛オーナー制度と称して約7万3千人から約4200億円もの資金を集めて経営破綻=豊田商事事件を超え史上最大)や今年の「ジャパンライフ事件」(大物政治家や磁気ネックレスなどを餌にして約1万人から約2100億円を集めて経営破綻)など、なかなか巨額詐欺事件はなくなりません。

 騙されるのは決まって高齢者ですが、あれもこれも、皆、金融リテラシーがないので簡単に騙されてしまうのです。高齢者と言えば、人生経験が豊富で、酸いも甘いも散々味わってきたはずです。現在の普通預金金利は、メガバンクでさえ、1000万円を1年間定期で預けても0.002%です。ということは、株にしろ債券にしろ、外貨建てにしろ、年利5%の金融商品があるわけないのです。ないとは断定できませんが、あってもほんのわずかで、そんな希少価値の商品を強欲者が赤の他人に教えるはずがありません。それなのに…。

 最大の理由は、特に昭和世代は、「お金は汚いもの」と小さい頃から蔑視され、お金について学校で全く教えられてこなかったからです。私もそうでした。

 確かにお金は魔物ですから、悪い側面がありますが、正しい使い方を知れば、悪徳詐欺師に引っかからないのです。

 ということで、お金の基礎知識を網羅した面白い本を見つけました。「今売れている本」として新聞の書評に載っていた上の写真の本です。

 若い世代を対象にしているのか、漫画を多用して、文章も「お子ちゃま」向きですが(失礼!)、中身はしっかりツボを押さえています。著者の両@リベ大学長という方は、履歴など詳細は不詳ですが、10代の高校生から早くも起業して、年間1億円以上の収益を得る一方、数々の失敗もされているようです。少なくとも金融に関する書籍をかなり読み込み、セミナーに参加し、関係者や大富豪から話を聞き、実際に実践されているようなので、かなり詳細で濃密な金融の知識の持ち主であることは確かです。著者はYouTubeもやっていて、総動画本数700本以上、再生回数5300万回超ということですから、ユーチューバーとしてもやっていけているようです。

 何故、この本を渓流斎ブログで取り上げたかと言いますと、彼の思想に共鳴したからです。つまり、お金にまつわる問題を早く解決して、最終的に「経済的自由」を得ることが目的だという思想です。はっきり言って、お金は煩わしいですからね。

 そのために、著者は五つのステップを推奨しています。それが以下の五つです。

(1)貯めるー支出を減らす力

(2)稼ぐー収入を増やす力

(3)増やすー資産を増やす力

(4)守る―資産を減らさない力

(5)使うー人生を豊かにすることにお金を使う力

なかなか良いですね。お金は貯め込んで使わないのも馬鹿らしい。死んであの世に持っていけないですからね。著者は、最終的に、自分で稼いだお金で慈善団体に寄付していることが(節税対策かもしれませんが)、素晴らしい。これが、この本に共鳴したもう一つの理由です。

 具体的にどうしたら良いのか、この本は指南書ですから大体書いてあります。個人的に賛同できないこともありますが、しっかり、メリットとデメリットも説明してくれているので、これまた共感できます。読者が自己責任で判断すれば良いのです。

(1)の「貯めるー支出を減らす力」では、スマホは格安SIMにした方が良いとか、1961年から日本は「国民皆保険」制度になったから、ある程度は社会保険でカバーしてくれる。だから、余分な保険は見直した方が良いとか、具体的にアドバイスしてくれます。

 サラリーマンでも、最近多くの会社が認めるようになった副業をしたり、個人事業主になったりして「節税」することも薦めています。

(3)の「増やすー資産を増やす力」で具体的な投資商品を薦める一方、(4)の「守る―資産を減らさない力」では、詐欺師に騙されないよう、絶えず金融知識は更新して勉強を怠らないことも薦めています(そこまではっきりと書いていませんが=笑)。

 私も、こういう本をもっと若いうちに読んでいたら、今頃、悠々自適だったんですがねえ。今もヒイヒイ通勤しています。

南北戦争と和製英語の話=松岡將著「ドライビング・アメリカ」から

 9月28日渓流斎ブログで「英語翻訳は難しい」とのタイトルで、日本人にとって英語学習が如何に大変であることを書いたところ、満洲研究家の松岡將氏から30年ほど前に書かれた自著「ドライビング・アメリカ」(日本貿易振興会ジェトロ出版・1992年2月24日初版)を送って頂きました(他にも理由があるのですが割愛)。

 書かれたものが30年以上前なので、当時は通用していても、今ではPC(ポリティカルコレクト)でアウトになってしまう表現(例えば「女子供」とか)や今では死語になった「マルキン」「マルビ」といった言葉も出てきますが(笑)、今読んでも不変の話が多く出てきますので、勉強になりました。

 それにしても、当時はインターネットもパソコンも普及しておらず、原稿は、頭と手書きで書いたものですから感服致します。

 松岡氏は農林省に入省しますが、1972年から76年にかけて外務省に出向し、米国の在ワシントン日本国大使館に勤務します。その間の1975年は、昭和天皇皇后両陛下の訪米という最大のイベントに遭遇し、大使館地下に直通電話を何本も引いて緊密連絡の指令塔になったり、シカゴ農場ご訪問の担当で下見検分に行って分刻みの日程をつくったりしたといいます。その辺りは「住んでみたアメリカ」(サイマル出版会、1981年)に詳しく、この「ドライビング・アメリカ」では、ジェトロの理事になり、天皇陛下が訪問したシカゴのバルツ農場を15年ぶりに再訪したことなども書かれています。

 本書では米国人には常識であっても日本人の多くが知らなかった米国史が出てきます。例えば、米大陸最初の英国人による植民は、日本でもあまりにも有名なメイフラワー号ではなく、これに先立つこと13年前の1607年4月のスーザンコンスタント号、ゴッドスピード号、ディスカバリー号の3隻によってその第1歩が印されたことを挙げています。

◇知られざる南北戦争

 また、松岡氏一家4人が住んだ米ワシントン郊外のヴァージニア州が南北戦争の激戦地だったことから、所縁の地を訪れたりします。南部連合が首府としたヴァージニア州リッチモンドと北部連合の首府が置かれたワシントンとの距離はわずか150キロで、今なら車で2時間だという距離には驚かされました。

 そして、この本を読んで初めて知りましたが、南北戦争は一人の農夫ウィルマー・マクリーンの自宅で始まり、また同じマクリーンの自宅で終わったという歴史的偶然が描かれています。簡略すると、1861年7月、ワシントンから南西約20キロ離れたブルランという所で、前線巡察中の南軍の将軍と参謀が、マクリーンの自宅で昼食中に、北軍の砲弾が飛来し、炸裂したのが南北両軍による戦闘開始のきっかけとなります。

 マクリーンは戦火を逃れるためにブルランを離れ、ヴァージニア州のアポマトックス村に農場を買い、移住して数年間は平和に暮らしますが、1865年4月9日、道を歩いていたところ、南軍のマーシャルと名乗る若い大佐から呼び止められ、「リー将軍がグラント将軍と会見するふさわしい場所はないか」と尋ねられます。マクリーンは最初は、近くの使われていない裁判所庁舎に連れて行きますが、マーシャル大佐は気に入らず、そこで、マクリーンは彼を自宅に連れて行くと、大佐はその広間が気に入り、両将軍の会見の場になったといいます。

 ということで、旅順要塞陥落で乃木将軍とステッセル将軍が会見した「弾丸あとも著しく、崩れ残れる民屋」旅順の水師営と違い、アポマトックスのマクリーン・ハウスは何の変哲もない家で、観光客も少なく、奥さんから「なあに、この広間。普通の家とちっとも変わらないじゃないの」とまで言われた逸話まで書いてしまっています。

 日本人で、南北戦争に興味がある人はそれほど多くありませんが、米国史にとっては欠かせない一大事件です。色々と諸説ありますが、この南北戦争では、グラント将軍率いる北軍の死者は約36万人で、リー将軍率いる南軍の死者は約28万8000人で合計64万8000人。第2次世界大戦の米軍の死者が31万8000人といわれていますから、如何に犠牲者が多かったかが分かります。

◇英語翻訳は難しい

 この本の後半では、この記事の最初に書いた「英語翻訳は難しい」例が沢山出てきます。「英語は簡単すぎるから難しいのではないか」という著者の結論は、私と全く同じなので吃驚してしまいました。

 今からもう60年以上も昔ですが、日本、米、カナダ、ソ連の4カ国がワシントンで「北太平洋のオットセイの保存に関する暫定条約」の交渉が行われた際、日本代表団の一人がオットセイが英語から出た言葉だと思い込んで、何度も「オットセイ」と発音を変えたりして発言したのに全く通じなかったという笑えない逸話も紹介しています。(この話はオチがあり、仕方なくオットセイの絵を描いたら、相手から「何だ、鳩か」と言われたとか)

 和製英語になっている単語が、当たり前ながら米国では全く通用しないことも本人の体験談として書かれています。全てに答えが書いていなかったので、老婆心ながら小生が英単語付で御紹介するとー。

自動車のハンドル⇒wheel (be behind the wheel で運転する)

パンク⇒ flat tire(punctureなら通じます)

バックミラー⇒ a rearview mirror

エンスト⇒ engine stall (stopは使わない)

ガソリンスタンド⇒ gas station(standじゃない)

取り敢えずこの辺で。

「禁じられた西郷隆盛の『顔』」=写真から消された維新最大の功労者

いつも何かと小生に気を遣ってくださるノンフィクション作家の斎藤充功(みちのり)氏から、出版社二見書房を通して本が送られて来ました。

 「禁じられた西郷隆盛の『顔』 写真から消された維新最大の功労者」(二見文庫、2020年10月25日初版)という本です。2014年に刊行された「消された『西郷写真』の謎 写真がとらえた禁断の歴史」(学研パブリッシング)を増補改訂した文庫版です。

 ちょうど1年前に出版され、小生もこのブログ(2019年9月26日付)で取り上げさせて頂いた「フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相」(二見文庫)の続編にもなっております。

 一応、帯にある通り、「明治維新史の暗部に切りこむノンフィクションミステリー」となっていますので、タネ明かしをしてしまうのはフェアではありませんが、結論を先に言ってしまいますと、結局、これまで出回っている西郷隆盛の「真顔」と言われていた写真は、東京歯科大学法人類学研究室の橋本正次教授による鑑定で「一致」に至らず、なおも探索作業が続いている…ということでした。

 著者は、「西郷写真」の存在を求めて、上野の西郷さん像をスタートして、二戸、大阪、下関、長崎、鹿児島…と関係者に会い、3年間かけて丹念に取材しています。そのフットワークの軽さはさすがです。

 斎藤充功氏が特に問題とした代表的な写真が、加治将一著「幕末 維新の暗号」(祥伝社、2007年)で再脚光を浴びた「フルベッキ群像写真」(幕末に来日したオランダ系米人宣教師フルベッキと息子を囲んで44人の武士が写ったもの。写っている武士たちは、坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文…ではないかと推定された)、明治2年から8年にかけて浅草で撮影された「スイカ西郷」と呼ばれる写真(西瓜のような頭をした人物が西郷ではないかと言われたが、法人類学者の鑑定では否定。医師小田原瑞苛が有力だが、確定にまで至っていない)、天皇の専属写真師、内田久一撮影の「大阪造幣寮前に集合した近衛兵と3人の指揮官らしき人物=その中央が西郷か?」、オーストリア人のスティルフリードによって盗撮された「横須賀造幣所を行幸中の明治天皇」などです。

 実際、写真がないと、参照できず、このように文字だけ並べても、お読みになっている方は何のことか分からないことでしょう。仕方がないので、ご興味のある方は本書を手に取って頂きたいと存じます。

 フットワークの軽い斎藤氏は、鹿児島県さつま町にある「宮之城島津家資料センター」を訪れ、加治将一著「西郷の貌」などで、西郷隆盛と同定している「一三人撮り」写真の史料根拠としていた「宮之城史」が、資料として存在しないことを同センター専門委員の川添俊行氏から引き出したことは、この本の手柄でしょう。

「スイカ西郷」に写る右端の男性が大久保利通と一致

 著者の斎藤氏は、法人類学の橋本教授とタッグを組んで、さまざまな「西郷写真」を鑑定し、結果的には西郷さんに「一致」と断定できる写真は見つかりませんでしたが、その過程で、思わぬ収穫がありました。

 「スイカ西郷」の写真で右端に立ち、西郷と思しき西瓜頭の男性の肩に手を掛けている男性が、大久保利通であるとほぼ確定できたことでした。有名な髭もじゃの大久保ではなく、まだ明治初期の若い頃の写真です。

 結局、西郷隆盛と断定できる写真は発見できませんでしたが、著者は「必ずどこかにあるはずだ」という確信を持っていることから、この続編が書かれるかもしれません。

 坂本龍馬も高杉晋作も桂小五郎=木戸孝允も大久保利通も幕末の志士と呼ばれた人たちのほとんどの写真が残っているというのに、維新最大の功労者である西郷隆盛の写真だけが残っていないのは何故か?ー 著者は、西郷隆盛が神格化されたり、反政府の象徴にされないように、明治の要人の誰かが故意に、隠したり、消したりしたのではないかという説を取っておりましたが、確かに、その通りなのでしょうね。

 「あるものをなかったことに」したのは現代の安倍政権下の官僚によって行われましたが(公文書破棄事件)、西郷写真の抹殺は、確かに明治維新史暗部のミステリーですね。

伊藤博文は女性、山縣有朋は邸宅

 昨日のこのブログで、日産と初代総理大臣伊藤博文とのほんのちょっとした関係に触れましたが、これには種本がありました。それは竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社、2017年6月1日初版)という本でした。

 昨年たまたま購入しておりましたが、読むことはなく、積読状態でしたが、昨日から読み始めたのでした。そして、そこに伊藤博文と日産とのほんの少しの関係が出てきてまたまたシンクロニシティを感じたわけです。

 この本は、文字通り、歴代総理大臣の家系と本宅・別荘などを探った異色の研究本です。

 伊藤博文は、かなりの漁色家として知られ、婚外子も多くいました。黒岩涙香が明治31年7月から9月にかけて「万朝報」紙上で、500人以上の顕官や資産家の「畜妾」を実名住所入りで赤裸々に暴露した「弊風一斑 畜妾の実例」という記事を連載しますが、その中で、伊藤博文については「大勲位侯爵伊藤博文の漁色談は敢て珍しからず世間に知られたる事実も亦甚だ多し」と書かれています。妾を囲うことが半ば当然と思われていた明治の世であってさえも、伊藤博文の漁色は飛び抜けていたというわけです。(伊藤博文が寵愛した一人に日本橋芳町(現人形町)の「小奴」という半玉がいたが、彼女は、後にオッペケペーの川上音二郎と一緒になり川上貞奴として知られる)

 かなりの女好きの伊藤博文と並び、明治国家を建設するのに奮闘した人物として山縣有朋が挙げられます。彼は、「黒幕」「悪漢」「軍閥の巨魁」などと、戦後は悪いイメージが拡散されましたが、山縣は意外にも伊藤とは違って女性関係は地味だったというのです。山縣が妻にしたのは、山口県湯玉の庄屋の娘友子で、三男四女をもうけますが、次女の松子を除いて全て夭折し家庭的には不幸でした。

 山縣のいわゆる妾として名前が挙がるのは、新橋の芸妓吉田貞子(実家の日本橋の商家が没落して芸者に)ただ一人だったと言われています。(吉田貞子の実姉たきも新橋の芸妓で、こちらは三井財閥の大番頭益田孝に見初められた)

 山縣有朋が女性の代わり(?)に情熱を注いだのが邸宅、別荘、庭園でした。庭師七代目小川治兵衛の作庭による京都の「無鄰菴」や小田原の「古希庵」といった別荘や東京・目白の本邸「椿山荘」のほか、栃木県の那須野ケ原に農場まで経営していました。

 椿山荘は、山縣有朋が傘寿(80歳)を機に藤田平太郎男爵に譲渡されます。藤田平太郎の父は、長州奇兵隊出身で維新後「政商」となった藤田伝三郎で、建設・土木から電力開発、金融、新聞(大阪毎日新聞)まで経営した「藤田財閥」の創業者でした。藤田財閥の一角だった藤田観光は現在も優良企業で、ワシントンホテル、箱根小涌園、ホテル椿山荘東京などを展開していることで知られています。

 ま、有体に言えば、山縣と藤田の長州閥つながりで椿山荘はホテルとして残ったことになります。

 

「駅前食堂」の作者が決定=古谷綱武さんか?ミルクボールも応援

 渓流斎ブログの記事の中で、これまで一番コメントが多かったのが「駅前食堂」(2008年5月28日)という記事だと思われますが、昨日、春日芳彦さんという同世代の方からコメントを頂き、この随想「駅前食堂」(タイトルは違ったと思いますが)の作者が決定しました。

 「駅前食堂」は昭和40年代頃に全国の小学校の国語の教科書に掲載されていた随想で、駅前にある食堂に入った作者が、親子丼にするか、かつ丼にするか迷っていたら、ほっぺが真っ赤なお店の女の子から「親子丼も、かつ丼も両方美味しいですよお」とニッコリ笑われてしまい、また迷ってしまったという他愛のない話です。でも印象的な話でいつまでも忘れられませんでした。

 それなのに、作者は誰だったのか、結局作者はどっちを注文したのかさえも忘れてしまい、「果たしてどうだったのでしょうか?」と、このブログで読者の皆さんに疑問を投げかけたのでした。そしたら、12年も昔に書いたというのに、思い出したように、ポツリポツリとコメントを頂くようになったのでした。

 この経緯について真面目に書いても面白くないので、漫才師のミルクボールに登場してもらいましょう。

親子丼とちゃうやんけ!

 駒込「オカンが言うにはな、小学校の教科書に載っとった『駅前食堂』の作者は、昔TBSの『ニュースコープ』のキャスターをやっていた古谷綱正さんの兄で文芸評論家の古谷綱武さんだと言うんねん」

 熱海「えー、その人、昨日9月3日付の渓流斎ブログ『成瀬巳喜男に観る日本の戦前1930年代』に載っとった人やんけ。すごいシンクロニシティやなあ。古谷綱武さんは、新劇の神様、滝沢修の奥さんの文子さんのお兄さんだっちゅうからね。それにしても偶然やなあ偶然。それで決まりやんけ」

 駒込「俺もな、そう思ったんやけど、オカンが言うにはな、作者は曽野綾子さんちゃうかと言うねん。あの文体といい、クリスチャンらしい心配りといい、曽野さんとちゃうかと言うんねん」

 熱海「そっかー、ほなら、古谷さんとちゃうか、曽野綾子さんに決まりかあ…」

 駒込「それがな、オカンが言うにはな、曽野さんは、上皇后美智子陛下と同じ聖心女子大学出身やし、産経新聞御用達の愛国主義者とも言われとんし、第一、昔のお嬢様が一人でこきたない駅前食堂に行くんかい、と言うんなん」

 熱海「こきたないは言い過ぎやろ…、ほなら曽野綾子さんとちゃうかあ。ほんならオカンはもうちょっと詳しいこと言っとらんかったか?教えて」

 駒込「それがな、オカンが言うにはな、作者は男だろうし、奥さんは生活評論家の吉沢久子さんだと言うんねん」

 熱海「それじゃ、古谷綱武さんやないけ、これで決まりや。作者は男性でその奥さんが『100歳の本当の幸福』など沢山の著作がある評論家の吉沢久子さんなら古谷綱武さん以外にいない。古谷さんは成城高校時代、大岡昇平と富永太郎と同級生で文学に目覚め、太宰治や檀一雄らとも同人誌を発行し、演劇から人生論、児童文学に至るまで幅広く評論活動を続けた人や。これで決まりやんけ」

 駒込「それがな、オカンが言うにはな、まだ分からへんと言うんねん」

 熱海「何で分からへんのや、作者は古谷綱武さんに決まりやろ」

 駒込「それがな、オトンが言うには、作者は結局、親子丼を食べたらしいんやけど、昭和10年に成瀬巳喜男監督作品にも出ていた新劇の神様、滝沢修さんじゃないかと言うんねん」

 熱海「んなわけないやろ、いい加減にせいや。もーえーわー、失礼しましたあ」

 (コメントお寄せ頂いた皆様、誠に有難う御座いました)