「宝くじで1億円当たった人の末路」は意外と、いや結構面白い

富山城

鈴木信行著「宝くじで1億円当たった人の末路」(日経BP社、2017年3月28日初版)は、昨年のベストセラーらしいですが、読んでみると意外と面白い。猛暑で読書する気力がなくても、サクサクと読めます(笑)。

まあ、悩み相談みたいなものです。大学教授や評論家らその筋の専門家がズバリ答えてくれるのです。

ですから、自分の興味があるとこだけ読めばいいのです。

内容は、表題のほか、

「事故物件を借りちゃった人の末路」

「『友達ゼロ』の人の末路」

「留学に逃げた人(学歴ロンダリング)の末路」

「外国人観光客が嫌いな人の末路」

「8時間以上寝る人の末路」

「禁煙にしない店の末路」

などなどです。

表題の「宝くじで1億円当たった人の末路」は、以前に色んな本を読んでいたので、答えはほとんど同じでした。

1億円にしろ、7億円にしろ、当選確率は交通事故に遭う確率よりかなり低い1000万部の1ですし、「宝くじとは、愚か者に課せられた税金」という「格言」は確かにその通りです。たとえ当たっても、トラブルに巻き込まれるのが必定で、かえって貧困になるというのは、ほぼ正解でしょう。

「事故物件を借りちゃった人の末路」は、あの相川探訪記者お勧めの事故物件公示サイト「大島てる」の運営者本人が登場して、サイトを立ち上げた経緯から、自殺した人の部屋は不思議と、また自殺者が出るような霊が霊を呼ぶ不思議な話まで飛び出します。本当に嘘みたいな話ですが、真実なので、科学では証明できない人間の心理や闇が働くということなんでしょう。ご興味ある方は、この章を読むだけでも価値があると思います(笑)。

私自身は、「『友達ゼロ』の人の末路」を興味深く拝読しました。回答者は、諸富祥彦明治大学教授。

個人的ながら、最近、どうも学生時代の旧友と次々と疎遠になってしまい、「昔はあんなに仲が良くて月に一回は飲みに行ったのに」「こちらに何か非でもあったのかなあ」などと勘繰りたくなり、長い付き合いだったため、かえって修復がうまくいかない状況が続いておりました。

しかし、この章を読んで少し救われました。人間には「群れることが好きなタイプ」と「苦手なタイプ」がいるそうです。(私は、圧倒的に後者=笑)

群れる、要するに、つるむことが好きな人は、「心を麻痺させて楽になれる」(幻想)、「友達が増えることで『自分には価値がある』と自信が持てる」(根拠なき自信)半面、「人間として成長できない」(孤独力を磨けない)、「同調圧力によるストレスで精神的に追い込まれる」、「年を取っても自分が何をどう感じていて、何を欲しているのか分からなくなる」といったデメリットがあるというのです。

ですから、諸富教授は「無理につるむ選択をする必要はない」とキッパリ宣言するのです。

「友達がいないと困った時に助けてくれる人がいない」という悩みも、「そもそも、広く浅くの表面的な関係で結ばれた友達が、いざという時に、本気であなたを助けてくれると思いますか。相手が苦しい時に自分の身を投げ出してでも何とかしようとする。そうした深い人間関係は『孤独を知った者同士』の間にこそ生まれる」という言葉は非常に説得力がありますね。

この本は何処からでも読めます。勿論、人生に正解があるわけではないので、正しい回答はないのかもしれませんが、貴方にもきっと参考になるアドバイスがあると思います。

同盟通信の異能の記者大屋久寿雄

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡ー通信記者と戦争」(花伝社、2014年7月25日初版)は、著者が5年以上の歳月をかけて執筆した800ページ以上にも及ぶ大変な労作でした。

大変歴史的、資料的価値が高い本で、明治時代の通信社の勃興期(中小さまざま100社以上の通信社が創立されては消えていったらしい)から、先の大戦の敗戦により、同盟通信が、社団法人共同通信社と株式会社時事通信社と広告会社電通の3社に分かれて再出発を果たすところまで、綿密に追っています。

著者は、元共同通信出身の記者らしいですが、比較的、公平に冷静に文献を掘り起こして分析しています。多くのガサツな学術書やネット情報では、「戦前の同盟通信は、現在の共同通信のこと」の一言で済まされる場合が多いですからね。

確かに、同盟通信の遺産のほとんどが共同通信に受け継がれました。時事通信の古いOBから言わせると「かまどの灰まで共同は持って行った」そうで、それでいて、大陸や南方など海外に派遣された何百人もの特派員ら「引揚者」を引き取る役目を時事通信は背負わされました。

同書の第17章には「共同は、同盟の総務、報道、連絡の3局と写真部から選んだ約1000人で発足。…これに対して時事は報道(主として旧海外局系)、経済、調査の3局から約250人で発足。外地からの引き揚げ社員で3年後には1000人を超えた。同盟の資産の中の通信社の生命ともいうべき国内専用線は共同に引き継がれた」と書かれています。

また、同盟通信の異能の記者で、戦後は時事通信に入社した大屋久寿雄は「将来のはっきりしない時事よりは、大磐石かに見える共同の方へ行くのは、人情であり、当然すぎるほど当然だった。かくて、時事は、共同に拒まれたノコリモノだけの救済収容機関と化したわけでした」と書き残しています。

この本では、この同盟通信の大屋記者にかなりのページを割いています。著者も、この大屋久寿雄の遺稿を入手できたことから、「いつかぜひとも出版したい」と「あとがき」に書いております。

大屋久寿雄とはどういう人物なのか?

フランス文学者の高橋治男というが方が1989年に、パリでフランスのプロレタリア作家アンリ・プーライユ(1896~1980)の書簡を調べていたところ、「オオヤ・クスオ」という日本人の書いた15通の書簡を発見し、1930年代の日本人が書いたものにしてはなかなかよく出来ていたことから、興味を持ち、2008年に「プーライユと文通した日本人ー大屋久寿雄」というブックレットを出版しています。

それによると、大屋久寿雄は1909年7月5日、福岡県生まれ。13歳の頃に医者だった父が病死したため、母親は3人の子供を連れて上京。大屋は成城第二中学に入ります。この時の同級生が大岡昇平です。(ちなみに、同じ1909年生まれの作家に太宰治と松本清張らがいます)。早熟な左翼の文学青年で、小説、戯曲、短歌までつくります。(大屋は書いた小説を当時小説家だった犬養健が住む東中野の自宅にまで見せにいったようです。のちに、大屋はハノイで軍属になっていた犬養と再会します。犬養健は、暗殺された犬養毅の子息で、ゾルゲ事件で連座。戦後法相)

高卒後、フランスのリヨン大学に留学し、パリでは作家の林芙美子の案内役を務めたりします。帰国後の33年に聯合通信にコネ入社します。(大赤字だった聯合は、36年に、反対する電報通信社を吸収合併して同盟通信を設立します)38年6月、29歳で仏領インドシナのハノイ特派を命じられ、同年12月に、重慶を脱出して昆明からハノイに潜入した汪兆銘の居所を突きとめようと手に汗を握る取材合戦に巻き込まれます。

汪兆銘の滞在先は分かったものの、中国から派遣された刺客によって、汪兆銘の側近の曽仲鳴が暗殺されるなど混迷状態となり、結局、世界的スクープになる汪兆銘との会見記事をものにすることはできません。それどころか、影佐禎昭大佐(引退した自民党の谷垣さんの祖父)率いる梅機関などによる「和平工作」に協力し、汪兆銘がハノイから上海に脱出する手助けをしたり、汪兆銘の脱出先に関する虚報記事を書いたりして、軍部に協力したりするのです。

大屋は「仏印進駐記」「戦争巡歴」などの著作を残しています。(大屋の後任の香港兼ハノイ特派員は前田雄二で、彼は東京帝大仏文科の学生時代、後のゾルゲ事件で連座して処刑されたアバス通信(今のAFP)記者ブーケリッチの牛込の自宅で会話のレッスンを受けていたそうです!)

大屋は、戦争末期は、日本放送協会(今のNHK)に出向し、「玉音放送」の後、海外編成部長としてマイクの前に立ち、「敗れはしたが、これは一時的なものです」と発言したことから、報道された米国で大変な物議を醸したりしたそうです。

前述しました通り、大屋は戦後、時事通信に入り、48年にカリエスを発症し、51年に42歳の若さでこの世を去ります。

◇◇◇◇◇

この本の著者鳥居英晴さんは、このブログで以前ご紹介した「北多摩通信所の傍受者たち」(けやき出版)の著者でもあり、傍受・通信所関係にはかなりご興味あるようで、今のラジオプレス(RP)の前身に当たる「蔽之館(へいしかん)」のことに触れたり、「極秘扱い」で当時ほとんど存在が秘匿されていた同盟通信の川越分室(埼玉県)の場所を突き止めたりします。

同盟川越分室は、当時、川越商業学校があったところでした。日本の運命を決めたポツダム宣言、トルーマン大統領の原爆投下声明、ソ連の対日宣戦布告などをここで傍受して政府に伝えたといわれます。

【追記】この本を読了するのに3週間半、この拙文を書くのに3時間半かかりました。

「加藤廣さんお別れの会」

昨日23日(月)は、ついに日本新記録が樹立されましたね。埼玉県熊谷市で気温41.1度と、従来の記録を5年ぶりに更新しました。

そんな、もう脳みそが溶けちゃいそうな猛暑の最中、夏用ながらしっかり上下のスーツを着てネクタイを締めた集団が、東京・日比谷の帝国ホテルに参集しました。

今年4月に87歳で亡くなった、ベストセラー小説「信長の棺」(日本経済新聞出版)などで知られる作家加藤廣さんの「お別れの会」が行われたのです。小生も末席を汚しました。

主催者発表で70人の方が列席しました。

私は少し遅れて参加しましたが、加藤さんの交友の広さから次々と友人知人後輩や編集者らがスピーチして、参加した人同士と歓談する暇もなく、せっかく用意された帝国ホテルの高級料理や飲み物を飲食する暇がほとんどなく、少し勿体ない気がしました。

加藤廣さんは、私も参加していた「おつな寿司セミナー」(2014年9月13日解散)の仲間でした。

加藤さんが2005年、75歳の高齢で歴史小説家として鮮烈なデビューをできたのは、勿論、彼の文才によるところではありますが、「おつな」抜きでは実現できなかったことでしょう。まず、おつなの主宰者だったGさんが、メンバーだった日経文芸記者のUさんに取り次ぎ、Uさんは、元講談社の豪腕編集者K氏を加藤さんに紹介し、段ボール箱にぎっしり詰まった1000枚の原稿を少し縮めて、タイトルも変えて、デビュー作が生まれたのでした。

幸運だったのは、当時首相だった小泉純一郎氏が、「信長の棺」を絶賛しているという記事が朝日新聞に掲載され、これで一気に火が付いて、増刷が続きました。

「おつな」では25年以上のお付き合いでしたから、何十回もお会いしてましたが、「大作家」になられてからは、改めて私も何度か、インタビューをさせて頂きました。「信長の棺」から「秀吉の枷」「明智左馬助の恋」に至る「本能寺三部作」、週刊新潮に連載された時から読んでいた「謎手本忠臣蔵」といった歴史小説のほか、「信長軍団に学ぶ処世の法則」や「黄金の日本史」などの実用書まで次々と著作を発表し、ご高齢ながらそのバイタリティーはどこからやってくるのか、不思議なほどでした。

加藤さんは、新聞連載にしろ、週刊誌連載にしろ、連載前からほぼ完成していて締め切りの何日も前から原稿を渡していたそうです。とても、律儀な人でした。そして、自分にはとても厳しい苦労人でした。

おこぼれにも預かりました。東京・銀座の高級おでん「やす幸」や京都の先斗町の高級クラブ(名前は失念。京大の著名教授が出入りしていた会員制)などでご馳走になったりしました。

加藤さんはデビューして13年、気力を振り絞って駆け抜けました。以前は月に一度ぐらいお会いしていたので、何か、また、ふと再会するような錯覚に陥りましたが、遺影を見て、もうお会いできないと分かり、本当に寂しくなりました。

加藤さんは、少年時代からの夢だった小説家を75歳で実現したわけですが、後輩には素晴らしいお手本と生き様(という言葉は、あまり好きではありませんが)を見せてくれたと思っています。

加藤廣さんのご冥福をお祈り申し上げます。

「在満少国民望郷紀行」、年内にも出版か?

自称「老麒伏歷」の松岡宿老閣下、最近、都心の豪邸に引き篭もって、何かただならぬ野望に駆られて、何事かなさんと勤しんでおられたようですが、いつのまにか、「在満少国民望郷紀行」なる書籍の執筆、編集、校正に励んでおられていて、目下、「一次稿」を作成中であることが、渓流斎日乗の調べで明らかになりました。

 判型をA5判横(「松岡二十世とその時代」の大きさ)にするか、B5判横(週刊誌大)にするか、散々迷われたそうですが、結局、B5判(週刊誌大)にすることにしたそうです。

何次稿まで、編集校正されるのかは分かりませんが、恐らく、年内には完成して出版されることでしょう。

  旧満洲(現中国東北部)の「今と昔」を対比した解説本です。現中国政府は、ヤマトホテルにしろ、関東軍司令部にしろ、昔の建物を破壊せずにそのまま二次利用しているので、今旅行しても比較できます。

添付して頂いた本の校正写真を見る限り、かなり“イケてる”感じがしますね。

歴史的資料価値が高いものになるはずで、全国の小中高大学の図書館、自治体の図書館、中国の図書館にも納入してもらってもいいのではないでしょうか。

勿論、一般書として本屋さんに山積みされれば尚良し。

 松岡宿老は「普通の“本”と違って、“文章校正”だけでなく、写真の大きさや入れ場所(場合によっては取替)、“写真の注記”など、傘寿越えの『漲る力』でやることが一杯ありそうです」と張り切っておられます。

この「漲る力」は、落ちぶれた有力新聞社広告局が、藁をもすがるサプリメントの広告文句かと思ったら、在満少国民の間て歌われた歌詞に出てくるそうです。

銀座で生まれた通信社

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡」(花伝社・2014年7月31日初版)を読み始めました。滅法面白いのでやめられません。

著者の鳥居英晴さんは、あの「日本陸軍の通信諜報戦 北多摩通信所」を書いた人でした。元共同通信記者。このリーフレットのような薄い本を私は2257円(送料・手数料込み)で買ったことを先日のブログに書きましたが、こちらの同盟通信社の本は広辞苑のような分厚い本で800ページ以上もあります。定価は5000円プラス税ですが、ネットでは1万9524円で新本が売られていました。

鳥居氏は、この本を書くために生まれてきたのですね。こちらも、大変読み応えがあります。自分自身、今まで知らなかったことがたくさん書かれていて、色々教えられます。

しょっぱなから、「通信社は銀座で生まれた」とあります。(13ページ)

銀座なら私の庭みたいなもんですから(笑)、猛暑の中、汗を拭き拭き、この本に出てきた通信社や新聞社跡を辿って歩いてみました。ただし、全く、面影も何もなし。記念碑や看板もないので、ここに新聞社や通信社があったことさえ分かりませんでした。

御存知、銀座の象徴とも言うべき4丁目の和光。服部時計店。ここに、銀座に初めて進出した新聞「日新真事誌」の社屋がありました。1873年(明治6年)7月のこと。経営者は、英国人ジョン・レディ・ブラック。彼は1863年(幕末じゃないですか)に来日し、1867年10月(まだ幕末)に横浜で、英字紙ジャパン・ガゼットを創刊しています。

銀座5丁目、銀座中央通りにある「イグジット・メルサ」。以前は「ニューメルサ」と言ってましたが、最近名前を変えたようです。今は中国系企業に買収されたラオックスなどが入り、ほとんど中国人観光客の溜まり場になっています。

ここにあの東京日日新聞社(現毎日新聞)があったというのです!1877年(明治10年)のこと。後に主筆・社長を務めた福地桜痴(源一郎)はこの年に西南戦争を取材しています。福地は歌舞伎座を創設し、劇作するなど演劇界に名を残します。東京日日がここにあったとはねえ。

銀座1丁目1番地にある京橋三菱ビルディングで、今は三菱UFJ銀行などになってますが、ここに、東京日日新聞と同じ年の1877年(明治10年)、読売新聞社の社屋が建っていたというのです。

銀座の端っこ、道を渡ると京橋です。

読売新聞は、今のマロニエ通りにあるビルと、旧プランタン銀座にあったと聞いてましたが、最初はここだったんですか。尾崎紅葉の「金色夜叉」が連載されていた頃の明治期の読売はここにあったんでしょうか。

朝日新聞は1888年(明治21年)、京橋区滝山町4番地(現銀座6丁目の並木通り)に大阪から進出します。

星亨が、自身が発行した自由党系の「めさまし新聞」を大阪朝日の村山龍平に譲渡して、それが「東京朝日新聞」と改題されます。めさまし新聞の社屋が、同じ滝山町にあったのかどうかは不明です。

今はこのように高級ブランドショップと外資系高級ホテルになって、新聞社もすっかり不動産業となっております。写真の中の手前には当時ここで校正係として働いていた石川啄木の石碑が建っているので、ここに朝日新聞があったことが分かります。

文芸欄を創設して小説記者となった夏目漱石もここに通っていました。斜め向かいに、漱石も好きだった「空也もなか」があります。

鳥居氏の本によると、日本最初の近代的通信社とされるのは「時事通信社」(今の時事通信とはまったくの無関係)で、1888年(明治21年)1月4日、京橋区木挽町5丁目4番地で生まれた、といいます。今の銀座6丁目13ということで探しましたが、苦労しました。恐らく、上写真の今の銀座ウォールビルだと思われます。

当時は、この辺りは、三十三間堀川が流れていて、今は埋められて道路になっていますから、昔の地図と見比べて歩いていたら、本当に難儀しました。

ここは、牧久さんの書いた「特務機関長 許斐氏利」にも出てきた、戦後直ぐに東京温泉のあった所だったと思います。どちらも、看板も石碑も何もないので、この本を読んでいなかったら、さっぱり分からなかったことでしょう。

時事通信社は、三井物産初代社長益田孝(鈍翁、茶人としても有名)が出資して社主となった会社で、政府の御用機関だったと言われます。益田は、社内報だった「中外商業新報」(後の日本経済新聞)も発行してますから、ジャーナリズムの世界にかなり食い込んでいたんですね。

銀座8丁目7-3の並木通り角に喫茶店「プロント」がありますが、ここはかつて、「新聞用達会社」があった所でした。同社は、改進党系の郵便報知新聞(後に報知新聞と改題)の社長矢野文雄が1890年(明治23年)1月10日に設立しました。当時の住所は、京橋区日吉町20番地。

この新聞用達会社と先ほどの益田孝の時事通信社が1892年(明治25年)5月9日に合併して「帝国通信社」となるのです。やはり、改進党系ですが、当時は、「国際通信社」と並ぶ二大通信社でした。

この「プロント」の斜め向かい側の銀座8丁目にある、今バー「ブリック」がある辺りに、国民新聞社があったというのです。

国民新聞は、1888年(明治21年)に民友社を起こした徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊。蘇峰も改進党に近い立場だったようです。

銀座6丁目の交詢社。福沢諭吉の提唱でつくられた日本最初の実業家社交クラブ。ここに福沢が創刊した時事新報社がありました。

時事新報、国民新聞、報知新聞は、戦前を代表する新聞でしたが、戦後、いずれも廃刊します。

交詢社通りを有楽町駅に向かった隣の隣のビルは、今、ヴェルサーチェなどが入居していますが、ここには、光永星郎が起こした日本電報通信社(後の電通)が1906年(明治39年)に本社を構えた所でした。

このビルの並木通りを渡った真向かいにホーン商会ビルがあったと言われます。このホーン商会ビルには、米AP通信社と英ロイター通信社などが入居していました。後に同盟通信社を設立する一人、古野伊之助は、新聞広告を見て、AP通信社の給仕としてジャーナリストとしての第一歩をここで踏み出すことになります。

何か、非常に感慨深いものがありますねえ。

鳥居英晴著「日本陸軍の通信諜報戦ー北多摩通信所の傍受者たちー」

2018年7月1日付「蔽之館~陸軍中野学校跡巡り」で書きましたインテリジェンス研究所の山本武利理事長ご推薦の参考文献を早速手に入れて読んでみました。

鳥居英晴著「日本陸軍の通信諜報戦ー北多摩通信所の傍受者たちー」(けやき出版)です。2011年3月14日初版なので、もう書店には置いてないだろうと思い、あまり好きでないアマゾンで探したところ、やはり中古本でしたが、見つかりました。

送料・手数料込みで2257円です。正直「ちと高いなあ」と思いましたが、どうしても知りたかったことがあったので、背に腹は代えられません(あ、表現が間違いかも?=笑)

3日ほどして、汚い手書きの字で郵便小包が自宅に届きました。「誰だろう?」送り主の名前を見ると「鳥居英晴」とありました。「うーん、どこかで聞いたことがあるなあ」と、思いつつ思い出せません。そのまま、夕食を摂ってくつろいだ後、先程の小包を開けると何と薄っぺらいブックレットが出てきたのです。

注文した本でした。「えーー、こんなんで2000円?」後を見たら、定価が980円(税別)でした。てっきり、浩瀚の専門書だと思っていたので、「やっぱり、ぼられたかなあ」とがっかりしてしまいました。

そして、驚いたことに送り主は、鳥居英晴さん。著者、ご本人だったのです。著者自身が、アマゾンと契約していたんでしょうか?

またまた、前置きが長くなりましたが、著者の名誉のために弁護しますと、中身を読みますと、値段だけの価値がありました。著者は、1949年生まれの元共同通信社記者で、2002年に退社、と略歴にありましたから、定年まで社に残らず、52,3歳で退職してフリーランスになったようです。そりゃ、取材費も出ないので大変だったことでしょう。

で、中身ですが、陸軍の北多摩通信所は、東京市北多摩郡久留米村(現東久留米市)にあったということで、かつて父が勤めていた東久留米市上の原の運輸省航空交通管制本部にあったのかと思いましたら、西武池袋線東久留米駅から小金井街道を南下して西武新宿線花小金井駅に行く途中の前沢を越えた滝山東交差点付近にあったというのです。当時の住所は、久留米村前沢1470番地。今は住宅街になっているようです。

ここに陸軍参謀本部が昭和8年(1933年)10月10日、北多摩通信所を隠密裏に完成させるのです。受信室には、高速度用の短波受信機が5台設置されていたなどと記録されていますが、昭和12年(1937年)7月7日に支那事変(日中戦争)が勃発すると、100人に増強されます。通信手の勤務は、日勤、前夜勤、後夜勤、明けの4交代制で、外国の電波を傍受した信号をいったん紙テープに記録し、それを読み取りながらタイプライターで打つのが任務でした。

通信は暗号ではない普通文のことを「平文」ということをこの書で知りました。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の日に当直だった小泉重之(大正11年生まれ)の手記「流転の人生行路に思う」(平成12年)によると、米軍による対日戦争開始命令の電文は、暗号ではない平文だったといいます。

北多摩通信所は昭和18年8月1日、陸軍中央特種情報部(特情部)通信隊と改称され、松岡隆中佐(関東軍特種情報部)が隊長として着任します。松岡中佐は終戦の日、「傍受という仕事をしていたことが分かると戦犯になる恐れがあり、危ない。所属は明らかにしないこと。東京を離れ、山の中に隠れているように」と指示して姿を消したそうです。

これについて、先程の手記を残した小泉重之通信手は「先程まで所長であった男は臆面もなく我々を放置して早々にその姿を消してしまった。…職業軍人のこの無責任極まる恥さらし行為は誰にも咎められることもなく、旧官舎に居座ったまま生活を続ける図々しさであった」と批判してます。

インパール作戦を断行して兵士が餓死する最中、自分だけは早々と飛行機で逃げ帰った牟田口廉也の例を思い起こさせるものがあります。

戦局が悪化すると、特情部は、東京都杉並区高井戸の老人ホーム「浴風園」に疎開したり、国際電気通信社や逓信省の施設を借りて、兵庫県小野、埼玉県上福岡、同岩槻、北海道北広島、福岡県二日市(現筑紫野市)、千葉県白浜などにも受信所を設置します。

広島の原爆投下については、米軍は事前に予告していたことをこの書で初めて知りました。昭和20年5月、先に紹介した小泉通信手が二世の女性傍受員から「特殊爆弾によって広島を攻撃するから非戦闘員は至急退去せよ」といった警告をVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)が放送したことを聞かされるのです。小泉は情報部に報告しますが、当時は原爆の「げ」の字も理解できるわけもなく、徒に混乱を招くばかりだろうから、周知することなく恐らく握りつぶされたのだろうと推測しています。

全体的に読みにくい箇所もありましたが、貴重な資料となる本でした。

私が子どもの頃(小学生から高校生にかけて)、よく行った「外人プール」と呼んでいたプールは、東久留米のすぐ隣の埼玉県新座市西堀の米軍施設大和田通信所内にありました。

私はその水深2メートル近い深いプールで、ガブガブ水を飲みながら、水泳を習得し、プールサイドでは、FEN(極東軍事放送)が流れ、ドアーズやクリームやジミ・ヘンドリックスらの曲を覚えました。よく考えれば、ベトナム戦争真っ只中だったんですね。

この大和田通信所は、もともと大日本帝国海軍の傍受施設だったことがこの本で初めて知りました。

若者と老人との間で階級闘争が始まるのか?

五木寛之著「孤独のすすめ」(中公新書ラクレ・2017年7月10日初版)は、タイトルから、てっきり、孤独になることをすすめている話かと思ったら、何と、今は「嫌老時代」で、働かないで、高級外車を乗り回したり、海外旅行に行ったりして遊んで暮らしている老人と、彼らの年金を支え、しかも将来自分たちの年金が確実に保証されていない若者との間の「階級闘争」の時代になるといった予言の書でした。

分からないでもありませんが、「階級闘争」なんて、19世紀的な、日本で言えば1920~30年代か、せめて1960~70年代の全共闘世代風の古さで、何となく違和感を覚えつつ、一気に読んでしまいました。

東久留米「松屋」かき玉蕎麦 800円

上記の「階級闘争」は、何も私が言っているわけではありませんからね。少し引用しますとー。

・私もたまに感じるのだけど、若者が集まるコーヒー店などに高齢者が足を踏み入れると、すーっと空気が冷める気配になる。(100ページ)

・結論を言えば、「嫌老感」はやがて、一種の「ヘイトスピーチ」にエスカレートしていく危険性がないではない、と私は見ています。…「働かない人間たちが、優雅に生活を楽しんでいるじゃないか」「なぜ、生活の苦しい自分たちが、高齢者たちのために身銭を切らなければならないのか」「あいつらは社会の敵だ、排除しろ!」(110ページ)

まあ、こういった調子です。

五木さんは、最後の「おわりに」で、人間不信や自己嫌悪から逃れるいい手段として、「回想の力」を挙げ、これによって乗り越えることができると力説しておられます。

これがなければ、身もふたもない話で終わってしまいますので、唯一の救いです。

本文の中で、五木さんが昔、パリで買った高級靴を買ってそのままにしておいたのを引っ張り出してきたら、当時の60年代に起きたことを色々と思い出しり、昔の流行歌を聴いて、青春時代の思い出に浸ったりする話などにも触れてます。

「懐古趣味でもいいじゃないか。人間だもん」という声が聞こえてきそうですが、相田みつをさんの言葉じゃなかったでしたね(笑)。

チョムスキー「誰が世界を支配しているのか?」とは、どんな原則や価値観が世界を支配しているのかということ

ノーム・チョムスキー著「誰が世界を支配しているのか?」を辛うじて読了しました。読破で はありませんね。やっと、読み倒したといった感じです(笑)。

原著「Who rules the World?」by Noam Chomsky  は、欧米知識人の間で大ベストセラーになったらしいですが、その知的レベルの高いこと!

翻訳者の一人である大地瞬氏は「訳者あとがき」の中で、「読みだしたら止まらなくなり、2度読んだ」そうで、版権が日本でまだ取得されていなかったことから、出版社に掛け合って翻訳書を出したといいます。

この本については、前回にも書きましたが、今年90歳になるMIT名誉教授チョムスキー氏による傲慢な「世界の支配者」に対する批判です。

本書の中で特に割かれているのは、1960年代のベトナム戦争、キューバ・ミサイル危機、パレスチナ・イスラエルの中東問題、イラン問題、地球環境問題などです。彼は、国家転覆、大量虐殺…陰に陽に指令する支配者層に対するアンチテーゼの事実を列挙して批判しています。

例によって、目を引いた箇所を換骨奪胎で引用させて頂きます。

・「誰が世界を支配しているのか?」というのは、結局、「どんな原則や価値観が世界を支配しているのか」ということだ。(「世界」とは、ワシントンとロンドンの政治支配者の世界ということ)

・「フォーリン・アフェアーズ」誌とは、支配者階級の間で最も権威のある雑誌だということだ。

・中央銀行である日本銀行は、日本政府が51%の株式を所有しているが、米FRB(連邦準備制度理事会)は、12の連邦準備銀行が株式を持ち、米政府は株式を所有していない。つまり、FRBの実権支配者は私企業ということになる。

・ジョン・ロックは、植民地の管理者だった。

・NAFTAもTPPも、保護主義の要素が強く、決して「自由貿易協定」ではない。「自由」は御用メディアが使う「不当表示」だ。内容の多くは貿易とは関係ない。投資家の権利を守る協定なのだ。おかげで、労働組合の多くが切り崩された。経営者が「労組をつくるなら、工場をメキシコに移転する」と脅したからだ。これには「政府による確実な支援」があった。

この辺にしておきます。

 

パソコンのトラブルで疲労困憊 チョムスキーの「誰が世界を支配しているのか?」も問題山積で重すぎる話

ここ2,3日、先日買い換えたばかりのDell パソコンでちょっとトラブってます。

Wi-Fiの接続で、通信速度が極端に遅くて、うまく繋がらないと思ったら、原因はルーターが「節約モード」になっていたためで、「節約モード」をオフにしてやっとスムーズに繋がり、解決しました。

そしたら、今度は、Windows10のエクプローラーEdgeとかいうのが、うまく起動しません。どうやら買ったばかりなので、うまく初期化されていない感じで、すぐ「IMEが無効です」とバッテンが表示されて、フリーズしてしまいます。

相手は機械ですから、こっちがイライラしても始まりませんが、時間ばかり無駄に流れて疲れてしまいます。

今日は会社の富士通のパソコンまでご機嫌斜めで、社内無線LANで繋がってますから、アップデートを指令され、再起動をかけたら、今度は、ワードもブラウザーもフリーズ(もしくは応答なし)ばかりするようになり、仕事が何度も中断されて余計疲れました。

幸い会社には技術担当の青年がいるので、診てくれますし、個人用パソコンの方は、この機種を勧めてくれたITに詳しい石田先生がいるので、何度もメールで問い合わせて、救って頂きました。感謝深謝多謝です。

先達はあらまほしけれ、ですね。

銀座「能登輪島」 能登ランチ定食850円

そんな中、今、寸暇を惜しむようにして、ノーム・チョムスキー著、大地瞬、榊原美奈子訳「誰が世界を支配しているのか?」(双葉社、2018年2月25日初版)を読んでますが、内容が深刻過ぎて、心苦しいといいますか、読み進めるのが辛いです。

チョムスキーは、「生成文法理論」を提唱して現代の言語学に革命を起こした言語学者で、私の学生時代から既に著名で、雲の上の存在のようなオーソリティーでした。今はどうしているのか、学生時代の友人の安田君という奇才が熱烈に信奉していたことを思い出します。

チョムスキーは1928年、米ペンシルベニア州生まれですから、今年90歳です。マサチューセッツ工科大学(MIT)名誉教授。1960年代のベトナム反戦運動から筋金入りの反政府主義者で、何度も投獄された経験の持ち主です。

ですから、この本も反体制=反米、政府批判の書と言ってもいいでしょう。何しろ、アメリカという国の成り立ちである先住民の大虐殺にも触れ、裏庭である中南米には親米政権になってもらわないと困るので、CIAによる反米国家の転覆(チリのアジェンデ政権など)や、「世界制覇」を維持するためのイラク、イランに対する封じ込め、親イスラエル寄り政策によるパレスチナ人の虐殺への直接的、間接的加担、そしてゴールドマン・サックスなどによる金融支配など、これでもか、これでもかと抽出し、白日の下に晒し出します。

比較的進歩的で、穏健派と言われた民主党のケネディやクリントンやオバマ大統領についても、「共和党のブッシュよりひどい」とコテンパンに批判します。

パレスチナ問題にせよ、地球環境問題にせよ、本書でこれだけ多く問題提起されると、とても、とても、安穏には暮らせず、まともな神経では立ち向かえないと思いました。

正直、逃げ出したくなりました。

さて、一体、誰が世界を支配しているのか?ーチョムスキーによると、「世界」とは、ワシントンとロンドンの政治支配層のことで、彼らの意にそぐわない輩のことを「テロリスト」とか「過激派」とかレッテルを貼り付けて、最後は殲滅するというのです。

個人的に以前から「正義」というのは胡散臭いと思ってきましたが、正義というものは、そういう脈絡で主張されていくものなのですね。

細川護熙元首相まで藤原氏の末裔だった

倉本一宏著「藤原氏」(中公新書)をやっと読了できましたので、書評ではなく、備忘録として書いてみたいと思います。

登場人物を一人一人、家系図で追いながら、いちいち人物相関図を確かめていたので、通読するのに2週間以上掛かりました。 前回書いた時は「大学院の修士課程レベル」と書きましたが、訂正します。「大学院の博士号課程レベル」でした。ここに登場する天皇、藤原氏、皇后、中宮、家系図、分家図を全て諳んじて言うことができれば、博士号取得は間違いないことでしょう。

それでは行きます。

・藤原鎌足を継いで中心に立った二男の史(ふひと)は、鎌足が亡くなった時、まだ14歳だった。幼少期は、百済系渡来人田辺氏の許で、養育された。権力取得した後は、史を「等しく比べる者がいない最高名」として不比等と改名した。

・藤原氏の礎を作った不比等の四兄弟が、その後の藤原氏の繁栄の祖を作る。(1)南家の武智麻呂(2)北家の房前(3)式家の宇合(4)京家の麻呂ーの4人だ。あいにく、この4人とも同じ疫病で亡くなった。何の疫病だったのか、この本には書かれていなかったが、洋泉社ムックの「藤原氏」には、天然痘と書いてあった。

・「御堂関白記」を残した藤原道長は、関白には就ていなかった。内覧と太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)と左大臣のみ。天皇の外戚を利用して、摂関政治の頂点に立った。

・道長のピークはちょうど今から1000年前の寛仁2年(1018年)10月、三女威子を後一条天皇の中宮に立て、二次会の宴席で、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という有名な句を詠んだ。道長の21年間に及ぶ絶対的な権力政権により、政治が安定し、女房文学の繁栄がもたらされた。(道長の末子長家の子孫が和歌を司る冷泉家)

・道長は1028年に62歳で死去。道長を継いだ頼通は、4人の妃を後宮に入れたが、皇子を儲けることが出来ず、外戚の地位を得られなかった。これが摂関政治の衰退に繋がり、院政の道を開く。道長の死後は、頼通より4歳年長の姉彰子(一条天皇の皇后で、後一条天皇と後朱雀天皇の母。紫式部、和泉式部らが仕えた)が権力を握ったが、頼通は51年間もの超長期政権を築いた。

・北家冬嗣の兄である参議真夏を祖とする日野家からは、親鸞や、室町八代将軍義政の室となった日野富子らがいる。

・北家魚名の五代目に当たる秀郷は、承平・天慶の乱を鎮圧したとして有名だが、その後、「武将の祖」と仰ぎみられ、奥州藤原氏、足利氏、北面の武士佐藤義清(西行)らを輩出する。戦国武将の大友氏、立花氏なども秀郷の子孫を自称するも確かな証拠はないらしい。

・現代の細川護熙元首相は、熊本藩主の子孫としてよく知られているが、母親温子(よしこ)は、近衛文麿の娘で、実は藤原氏の末裔でもあった!