藤原氏を知らなければ何も始まらない

ここ2週間も日本の歴史を語るときに欠かせない「藤原氏」にはまっています。

倉本一宏著「藤原氏 権力者の一族」(中公新書・2017年12月25日初版)を読み続けていますが、なかなか読了できません(苦笑)。登場する人物を一人一人、「系図」で確かめて、人間関係を確認しながら読んでいるためです。

ですから、新書と言いながら、内容は濃密過ぎるほど深く、恐らく大学院の修士課程レベルではないかと勝手に思っています。この本だけで、理解することが難しいので、洋泉社ムック「藤原氏 至上の一族の正体」まで買ってしまったほどです。これを読むと、官位制や藤原氏から分かれる「近衛」「九条」「一条」などの公家一族の流れなどが一目で分かり、とても参考になります。

この本は、本人も「はじめに」に書かれておりますが、そして、以前私もこのブログで取り上げた「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中公新書)の続編に当たります。藤原氏は、天皇の外戚となって権力を握った蘇我氏のやり方をそのまま踏襲したことになります。倉本氏といえば、先に「戦争の日本古代史」(講談社現代新書)も読んでいましたので、その博学ぶり、碩学ぶりには感服を通り越しておりました。

倉本氏は、「古事記」はもちろん、藤原不比等が撰修に深く関わった「日本書紀」、「続日本紀」(仲麻呂)、「日本後記」(冬嗣)、「続日本後記」(良房)、「日本文徳天皇実録」(基経)、「日本三代実録」(時平)の「六国史」、「藤氏家伝」「日本紀略」…とほぼ全ての原本に当たり、想像もできないほどの文献を読破しておられるようで、まあ、とても生半可な気持ちで読んでいてはとてもついていけません。

この本の内容を一言でまとめるのはまず困難です。少なくとも言えるのは、中臣鎌子=藤原鎌足を祖とする藤原氏は、この後、1300年間も日本の支配層の中枢の中枢を占めて、歴史を動かしてきたことは事実であり、奇跡的です。途中で藤原氏が天皇に成り代わろうと乱を起こしたり、摂関政治時代は特に、藤原氏が、数多いる親王の中から次の皇太子、天皇まで決めており、何だか、「万世一系」の天皇制といわれても、実は「藤原制」ではなかったのか、と勘繰りたくなってしまったほどです。

藤原氏といえば、平安時代の藤原道長は誰でも知っているでしょうが、幕末の三条実美も、近現代の西園寺公望も近衛文麿も藤原氏の末裔と聞くと少なからずの人は驚くことでしょう。1300年間、ずっと日本を動かし続けてきたのです。

それだけではありません。平泉で栄華を誇った奥州藤原三代も藤原氏。今も名前が続いている佐藤は、左衛門尉の藤原から、加藤は、加賀の藤原から、伊藤は伊勢の藤原、後藤は備後の藤原から来ていると言われていますからね。

武将の源氏も平氏も藤原の血が流れているので、まさに藤原氏抜きに日本の歴史を語れないわけです。

本日は、ちょっと官位制についてだけ、触れます。21世紀の現代になっても、叙位叙勲の制度があることは御存知かと思います。公立の小中学校の校長や大学教授も、亡くなった後や、88歳の米寿を迎えた場合、叙位叙勲されます。

このうち、例えば、大体ですが、小中学校の校長は、「正六位」か「従六位」、高校の校長は「正五位」か「従五位」か「正六位」、大学教授は「正四位」か「従四位」辺りで叙位されます。

古代から貴族の叙位は21歳以上になると行われ、大宝律令で定められた蔭位制(高位の親のお蔭で位を引き継ぐ)によりますと、皇族の親王は従四位下からスタート。藤原氏のような超有力臣族ともなると、従五位下からスタートするのです。(親が正一位や従一位の場合)

現代の校長先生や大学名誉教授が亡くなったりした時の最高の叙位が、21歳の若者のスタート地点だったことが分かります。

簡単にこの叙位と職掌の関係で言いますとー。

正一位・従一位=太政大臣

正二位・従二位=左右大臣・内大臣

正三位=大納言

従三位=中納言

正四位下=参議

従四位上=左右大弁

正五位上=左右中弁

正五位下=左右小弁

従五位下=少納言

といった具合です。

これは、何も、江戸時代や古代、中世の話ではないのです。現代も脈々と続いているということが言いたかったのです。

だから、偽証の佐川元国税庁長官やセクハラの福田元財務事務次官らがどれくらいの位階なのか、ちょっと興味ありますねえ(笑)。

ダン・ブラウン最新作「オリジン」はなかなかの力作

「我々は何処から来たのか   我々は何者か   我々は何処へ行くのか」(ゴーギャン)、進化論か神による創造か、無神論か原理宗教主義か…といった根本的な人類の問題に挑むダン・ブラウンの最新作「オリジン」上下(角川書店、2018年2月28日初版)を読破して、「やられたなあ」と少し感服してます。

お馴染みのハーバード大学宗教象徴学者のロバート・ラングドンが活躍するシリーズ第5作です。前作の「インフェルノ」(2013年)以来4年ぶりです。私自身は、それほど熱心な愛読者ではありませんが、2004年に帯広時代に読んだ彼のシリーズ第2作「ダ・ヴィンチ・コード」以来久し振りの感動を味わえました。

恐らく、本作もまた、トム・ハンクス主演で映画化されることでしょう。ですから、何となく、最初からハリウッド映画の脚本を読んでいる感じです。息もつかせぬ急激な場面とストーリー展開は相変わらずです。文章のうまさは、読者をグイグイ引きつけます。

銀座一丁目「日替わりチキン定食」850円

スペインはビルバオにあるグッゲンハイム美術館で、ラングトンの教え子で今や40歳の世界的権威の未来学者になったエドモンド・カーシュが、宗教界を揺るがす前代未聞の衝撃的な謎を解き明かす映像を発表するというところで、暗殺されます。その謎とは一体何か。カーシュは何を発表しようとしたのか。謎が謎を呼び、カトリック教会やスペイン王室まで巻き込む大騒動になり、謎を追跡するラングドン教授とスペイン王子と婚約した美術館の美人館長アンブラ・ビダル、そして、人工知能のウィンストンの活躍もあり、次第にその謎が明らかになっていくというお話です。

既に、これだけスマホが世界中に行き渡って、瞬時に情報が取れ、SNSで世界中が繋がってしまっている時代に、どういう目新しい物語が提供できるか、それは作家の腕の見せどころですが、本作では半分、成功し、半分は肩透かしのような感じもしました。

前半から散々、気を持たせた未来学者カーシュが明かしたかった驚きべき衝撃的な事実は、椅子から転げ落ちるほどそれほど衝撃的でもなく、極めて有り得る話で真っ当ですらあったからです。こんなんで殺人まで起きるとは…。

宗教か科学(無神論)か、で人類はかつてさんざん戦争まで起こして争い、いわば「炎上」を起こしかねない論争も、最後は、小説とはいえ、無難にまとめており、拍子抜けしました。

それでも、最後の巻末の「謝辞」では、著者がこの本を書くに当たってお世話になった編集者や科学者や宗教学者や歴史家らの名前を100人近く挙げていることから、かなり綿密に取材していたことが分かります。

著者のダン・ブラウンは、内村鑑三や新島襄らも留学した米アマースト大学出身で、英語教師から作家に転身。父は数学者、母は宗教音楽家、弟は作曲家、妻は美術史家というインテリ一家だったんですね。

いずれにせよ、この本を読んで、舞台になったスペイン・バルセロナにあるガウディのサグラダファミリア教会やビルバオのグッゲンハイム美術館に行きたくなりました。スペインだけは、これまで縁がなくて一度も行ったことがないからです。

カツカレーの起源に異説あり 「歴史の余白」から

浅見雅男著「歴史の余白」(文春新書)を読んでいたら、先日4月29日付の《渓流斎日乗》で御紹介した和田芳恵著「ひとつの文壇史」(新潮社)の中のエピソードが登場していたので、吃驚してしまいました。

著者の浅見氏は、手広く色んな古今東西の書籍を逍遥しているんだなあ、と感心してしまった次第。このエピソードとは、和田芳恵が新潮社の大衆文芸誌「日の出」の編集部にいて、かかってきた電話に「北条です」というので、てっきり、北条秀司の奥さんかと思ったら、何と「東条」の聞き違いで、東条英機の勝子夫人。用件は、北原白秋に揮毫してほしい、というものだったが、当時、東条は陸軍大臣で、夫人も少し上から目線だった、といったこぼれ話です。

著者の浅見氏は文章がうまいし、かなり調べ尽くしている感じです。「ある」ことは、文献を引用すればいいのですが、「ない」ことを証明するには、あらゆる文献を読み尽くさなければ、「なかった」と断定できません。ただし、「ある」と本人が日記の中で断定していても、それは実は「嘘」も多い。このように、歴史的事実を事実として認定する作業は、かなり難しいと告白しております。

繰り返しになりますが、「歴史の余白」では、面白い逸話で満載です。井伏鱒二が若い頃、森鴎外の「渋江抽斎」で、匿名でいちゃもんを付けていたとは知りませんでしたね。「十六代将軍」徳川家達(いえさと)は、長らく貴族院議長を務め、70年以上も家督を嗣子家定に譲らなかったことも、不勉強で知りませんでした。西郷隆盛の実弟西郷従道の逸話も読み応え十分。

築地「スイス」の千葉さんのカツカレー 880円

きりがないので、最後に「カツカレー」の起源を。一説では、プロ野球読売巨人軍の名選手だった千葉茂が戦後、東京・銀座の「グリル スイス」で考案したものだと言われ、私も信じてきました。銀座の「スイス」では今でも「千葉さんのカツカレー」という名前で売り出してます。

今日、昼休みに行ったら、ゴールデンウイークだというのに、銀座店は閉まっていたので、この日乗を書くためだけに、わざわざ、築地の「スイス」にまで行って、「千葉さんのカツカレー」を食べてきました。(スイス築地店は、かつては、銀座店のカレーをつくる作業場だったそうです。そう、女将さんが教えてくれました)

でも、千葉茂といっても、今のナウいヤングは誰も知らないでしょうね。あのミスター長嶋が付けていた背番号「3」をその前に付けていた名二塁手です。長嶋茂雄の現役時代を知るのはもう50歳以上ですからね。千葉茂を知るわけがありません。1950年代初めに川上哲治、青田昇らとともに、巨人軍の第2期黄金時代を築いた人ですので、実は私も彼の現役時代は知りませんけど。(野球評論家時代は知ってます)

いずれにせよ、まだまだ、食糧事情が十分ではなかった時代に、スポーツ選手のためにカレーの上にとんかつを載せた栄養満点のカツカレーを、千葉茂が考案したというのが定説だったのです。

それがこの浅見氏の本によると、既に戦前に平沼亮三という人が、自宅(とはいってもテニスコートや宿泊所などもあり、敷地3000坪)で、今のカツカレーと全く同じ料理が「スポーツライス」という名前で振る舞われていたというのです。

平沼は明治12年(1879年)生まれで、生家は横浜の大地主。幼稚舎から慶応で学び、大学では野球部のサードで4番。卒業後も柔道、剣道など26種類のスポーツをこなし、神奈川県議会議員、横浜市会議員、貴族院多額納税者議員などを歴任。このほか、日本陸上競技連盟などの会長も務め、1932年のロサンゼルス五輪、36年のあのヒットラーのベルリン五輪の日本選手団長を務めた華麗なる経歴の持ち主なのです。

この平沼の孫の一人が俳優の石坂浩二だというので少し驚いてしまいました。

やはり、カツカレーは平沼が、戦前に「考案」したということなんでしょうね。

和田芳恵著「ひとつの文壇史」を読んで

石川県にお住まいの小松先生のお勧めで、和田芳恵著「ひとつの文壇史」(新潮社、1967年7月25日初版)を読了しました。もう半世紀以上昔の本なので、図書館で借りましたが、私の大好きな昭和初期の風俗が手に取るように分かりました。

和田芳恵(1906〜77年)は、樋口一葉研究者で直木賞作家としても著名ですが、知らない方は名前から女性ではないかと思うことでしょう。そういう私も、彼が戦前に、新潮社の編集者として活躍していたとは知りませんでした。

本書は、その新潮社編集者時代の思い出を綴ったノンフィクションです。昭和6年から16年までのちょうど10年間の話です。昭和6年=1931年は、満洲事変の年、16年=1941年は真珠湾攻撃の年ですから、まさに我国は、軍部が台頭して戦争に真っしぐらに進んだ時代でした。

でも、文学の世界、それも、大衆文学の世界ですから、戦況や戦時体制に影響されるとはいえ、締め切りを守らないで雲隠れする作家や、原稿料を前借りする作家らの逸話が中心です。

昭和6年は就職難で、小津安二郎監督作品「大学は出たけれど」(1929年公開)の時代が続いておりました。和田芳恵は、同年3月に中央大学法学部を卒業しますが、その壁にぶち当たり、あらゆる手を尽くして就職先を探します。卒業生27人のうち、司法試験に合格して弁護士を目指す者が一人。この他、何とか就職できたのは和田を含めてわずか3人だったというのですから、就職氷河期どころではなかったわけです。

和田の場合、伯父が府立一中出で、その中で秋田県出身の同窓会の幹事が東京朝日新聞の学芸部長だった石川六郎(作家石川達三の叔父)だったので、その伝で朝日新聞に入社するか、和田の父親が、秋田師範の予備校のような学校だった積善学舎で、新潮社の創業者の佐藤義亮と同窓だったことから、そのコネで新潮社に入社する希望を持っていましたが、断り続けれられた末、漸く、新潮社に入ることができた話からこの本は始まっています。

入社して3年ほどは辞典編集部に配属されますが、昭和9年6月から「日の出」という大衆雑誌の編集部に移ります。この雑誌は、ライバル講談社の「キング」に対抗して創刊されたらしいですが、私自身は聞いたことがありませんでした。

和田芳恵が最初に担当したのが、鎌倉に住む長谷川四兄弟の長兄長谷川海太郎でした。一人で牧逸馬、林不忘、谷譲次と三つのペンネームを持つ流行作家です。「日の出」に谷譲次の筆名で「新巌窟王」を連載中だったのです。ちなみに、林不忘としての代表作は「丹下左膳」など時代小説、牧逸馬では「この太陽」や「めりけんじゃっぷ」物などがあります。しかし、それだけ無理したことで過労のため35歳の若さで亡くなります。(ちなみに、長谷川四兄弟の二男潾二郎は画家、作家、三男濬は、満洲で甘粕正彦満映理事長の最期を見届けたロシア文学者、四男四郎も作家)

この他、和田芳恵が編集者として会った作家はかなりの数に上ります、大佛次郎、武田麟太郎、吉川英治、山岡荘八、丹羽文雄、川口松太郎ら今でも読まれている作家が多く登場しますが、今ではすっかり忘れ去られた作家もかなりおりました。

昭和初期は、今のように娯楽が何でもあり、趣味が多岐に渡る時代ではありませんから、文学が大衆の楽しみの柱の一つだったことでしょう。そういった意味では本書は貴重な歴史の証言です。

新聞社崩壊は歴史の流れなのか!?

これでも、私は、いわゆるマスコミ業界に40年近く棲息して、禄まで食んで来ましたので、業界の動向は気になります。特に新聞業界は。

そしたら、自分が悲観的に想像した以上に、今はとんでもない事態に陥っていたんですね。畑尾一知著「新聞社崩壊」(新潮新書、2018年2月28日初版)を読んで深い、深い溜息をつきました。

著者は長年、朝日新聞社の販売部門を勤め上げた人で、2015年に60歳の定年で退職されたようです。「花形」と言われる記者職ではないため、傲岸不遜と産経出身の高山正之さんが週刊新潮で批判するような朝日タイプではなく、細かい数字を列挙して冷静に分析し、経済学者のような説得力があります。

冒頭で、いきなり、新聞読者はこの10年間で25%減少した事実を明らかにします。

2005年=5000万人だった読者が

2015年=3700万人と1300万人減少。つまり、25%も減少。

さらに、10年後は最低でも30%減少すると予想されることから、

2025年=2600万人。実に、20年間でほぼ半減、いやそれ以上大幅減少する可能性があると指摘するのです。

このほか、2015年は、若い人はともかく、最も新聞を読むべきはずの50代が40%未満に落ち、半分以上が新聞を読まないという衝撃的な事実が明らかになりました。道理で電車の中で、スマホゲームに熱中する50代を見かけるはずです。

新聞協会のデータによると、2005年(96社)の売上高2兆4000億円から、2015年(91社)は、1兆8000億円と25%減少。

2000年に読売1020万部、朝日830万部だったのが、2017年は、読売880万部、朝日620万部と激減です。

まさに「新聞社崩壊」という衝撃的事実です。

畑尾氏はズバリ、全国紙の中で朝日、読売、日経の「勝ち組」は生き残れるかもしれないが、毎日、産経の「負け組」は危ないと予測しています。つまり、倒産するということでしょうが、新聞メディアがなくなったら、社会的にどんな弊害が起きるか後で列挙することにして、著者は新聞衰退の根本的原因を三つ列挙してます。それは、

(1)値段の高さ

(2)記事の劣化

(3)新聞社への反感

です。

この中で、最も注目したいのが、(2)の記事の劣化。かつて、新聞社の入社試験は狭き門で、優秀な人材しか集まりませんでしたが、今では、業界の将来を悲観してか、優秀な人材は他の業種に移行し、新聞記者になるのは、出来損ないのコネ入社か、昔と比べて二流、三流の人材しか集まらなくなったようです。そうなれば、当然、記事も劣化するはずですなあ。。。

(3)の反感は、勿論、誤報問題が影響しているでしょうが、特に朝日新聞の記者は傲慢で、マンションの理事会に出ないで自己主張するとか、周辺住民の受けが悪く、その反発から購読をやめてしまう人がいるということで、私もそういう話は耳にしたことがあります。当然、その記者にはCS(顧客満足度)感覚などなく、危機意識は全くゼロです。

新聞衰退の危機に対して、畑尾氏は、色々と対策や打開策を提案していますが、果たして功を奏するか疑問ですね。

事情を知らない若い人は、別にネットニュースを見れば十分という人が多いですが、信頼できるネットニュースは、元をただせば、新聞社や通信社のニュース。「源流」のここが崩壊すると、時の権力者に都合のいいニュースか、ニュースに見せかけた企業のコマーシャルか、素人が噂を発信した裏付けのないフェイクニュースばかりになってしまうでしょう。

新聞社の本来が持つ権力を監視する機関が減れば、不都合な真実は隠され、まわりまわって、庶民に不利益が蒙ることになるわけです。

まあ、そういう世界を危機意識のない無学の市民が望めば、確実にそうなるはずです。

最近のクオリティーペイパーと自負する新聞も、広告の品質がかなり落ちてきました。昔なら絶対にオミットしていたサラ金まがいの広告や、福田財務事務次官(58)が泣いて大喜びしそうな恥ずかしい精力剤の広告が堂々と載るような末期症状です。

新聞社崩壊は、著者の予想より早く来てしまうのかもしれません。

デジタルネイティブからトークンネイティブの時代へパラダイムシフト

佐藤航陽著「お金2.0     新しい経済のルールと生き方」(幻冬社、2017年11月30日初版)を読了しました。

うーん。難しい。最初スーと読めはしましたが、もう一度読み返して、朧げな輪郭を掴んだ程度です。

もちろん、本書に出てくるハイエクの経済理論だのシェアリングエコノミーなどといったことは頭では理解できますよ。しかし、身体がついていけないといった感じなのです。

それもそのはず。著者は、1986年の福島県生まれで、まだ30歳代前半。物心ついた頃から周囲にデジタル機器があり、小学校での授業もパソコンで受けた世代。所謂、デジタル・ネイティブ世代。

片や私は、御幼少の砌は、冷蔵庫も電気洗濯機もテレビもなかったアナログ世代。生まれて初めてワープロを買ったのが29歳。パソコンは39歳という「遅咲き」ですからね。

著者の佐藤氏は、学生時代から起業し、今や年商100億円以上の決済サービスアプリ等のIT企業を経営するいわゆる青年実業家です。

ただ、子どもの頃はお金に相当苦労したようです。兄弟3人と片親の4人世帯の年収が100万円も届かなかったこともあったようです。

その話は、ともかく、彼はデジタルネイティブ世代ですから、我々のような旧世代とは根本的に発想が違います。

スバリ言いますと、パラダイム(認識の枠組み)が全く違うのです。

本書のキーワードを三つ挙げるとしたら、「仮想通貨」「ブロックチェーン」「トークンエコノミー」でしょうか。

まず、仮想通貨というのは、中央銀行など中央に管理者がいなくても成り立って発行される仮想の通貨のことで、ビットコインなどがその代表例として挙げられます。旧世代は、胡散臭い目でみてますが。

ビットコインなどは、ブロックチェーンという技術が活用されています。これは、一定期間のデータを一つのブロック(塊)として記録し、それをチェーン(鎖)のように繋げていくことで、ネットワーク全体に取引の履歴を保存し、第三者が容易に改ざんできないようになってます。

…と、言われても、旧世代は理解不能ですね(笑)。

そして、最後のトークンとは、仮想通貨の根っこで使われているブロックチェーン上で流通する文字列のことを指す場合が多く、トークンエコノミーとは、このような仮想通貨やブロックチェーン上で機能する独自の経済圏のことを指し、正確な定義があるわけではないといいます。

… あら、そう来ましたか。

とにかく、仮想通貨は自分でやって、つまりは、買って大損するか、大富豪になってみなければ、それを支えている「塊鎖」とやら、「文字列」とやらも、その実態は分からないことでしょうね。

この本で感心することは、著者は究極的には、お金とは、単なる「道具」であると割り切っていることです。大賛成ですね。そして、デジタルネイティブ第一世代と呼んでもいい彼らは、旧世代を馬鹿にしているわけではなく、単なる歴史の流れで、自分たちはスマホが当たり前の世代で、次の第二世代は、仮想通貨が当たり前のトークンネイティブ世代で、自分たち第一世代はその架け橋になっているに過ぎないことを自覚しているのです。

恐らく、単に私自身が読み違えているのかもしれませんが、いずれにせよ、2020年代も間近に迫り、パラダイムも完璧にシフトしている現実が、この本から読み取ることができます。

華族の家族の物語

恐らく、現在、華族の研究家としては第一人者の浅見雅男氏が、軽いエッセイ風の読み物「歴史の余白」(文春新書2018年3月20日初版)を出版し、今、私も面白く拝読しております。

例によって、この本は、博多にお住いの吉田先生からのお勧めですが、浅見氏とは、一度だけ渋谷のおつな寿司でお会いしたことがあります。もう20年ぐらい昔でしょうけど、当時、浅見氏はまだ、文藝春秋の編集者をされておりました。

著者は、学者以上にあらゆる文献に目を通しておられますので、説得力があります。例えば、天皇の生前退位についても「神話時代や古代はともかく、中世以降は天皇が生前に皇位を退くことは珍しくなかった。江戸時代に限っても。107代の後陽成から121代の孝明まで15人の天皇のうち9人が生前に譲位している。その理由はさまざまだが、天皇は即位した以上、終身、皇位にとどまるという定めや慣行はなかったのだ」とはっきり書いております。

つまり、生前退位を否定する考え方は、明治薩長政権が皇室典範で決めた比較的新しいものに過ぎないと歴史的に証明しているのです。

この本を読んで、初めて教えられたことは多くありますが、明治維新をやり遂げた公家代表の一人で、御札の肖像画にもなった岩倉具視がおります。彼は公家の中でも低い身分で碌高も少なかっただけに、維新後の出世には周囲からの妬みややっかみが多かったそうです。それはともかく、その曽孫に当たる靖子が日本女子大附属高校時代に共産党のシンパとなり、あの有名な昭和8年の一斉検挙で逮捕され、市ヶ谷刑務所に収監。治安維持法違反の裁判が始まる前に保釈された渋谷の自宅で自裁してしまうんですね。

実に波乱万丈なのは、靖子だけではなく、その父親の具張(ともはる)です。岩倉具視の直系の孫に当たり公爵岩倉家を継ぎますが、新橋の芸者に大金を注ぎ込んで破産してしまうのです。具張の父具定(ともさだ=岩倉具視の子息で岩倉家を継ぎ、宮内大臣などを歴任)、明治34年8月22日付「時事新報」で、全国で50万円以上資産を持つ411人の一人として掲載されるほどの大富豪でしたが、具張はこれらを全て散財しただけでなく、100万円以上の借財を抱えてしまったといいます。

同じ元公家として、東坊城家があります。江戸時代の禄高は、岩倉家の倍の301石もあり、明治になって子爵となりますが、家督を継いだ徳長(よしなが)が、赤坂あたりの芸者に大枚を注ぎ込んで没落し、大正時代は「貧乏公家」との定評が立ってしまいます。この徳長の三女英子が、後の大女優入江たか子だと知り、吃驚してしまいました。

英子は、 最近、閉校するということで話題になった文化学院(与謝野晶子らも教壇に立った)を卒業して、新劇の舞台に代役で出演したのがきっかけで、スターの切符を手にし、家族の生活を支えたという話です。

入江たか子については、2016年12月27日付の《渓流斎日乗》で、成瀬巳喜男の「まごころ」の中でも取り上げましたが、驚くほど美しい戦前の無声映画の大スターだったとはいえ、本物の華族の娘だったとは。。。

最後におまけ。

「平民宰相」と呼ばれた原敬首相。歴代首相を務める人は、これまで全員、公侯伯子男の爵位を受けるのに、この人は断り続けて、爵位なしで宰相になったからなんだそうですね。

原敬の家系は、南部藩の重臣で、明治薩長からみると逆賊です。原敬には「薩長の田舎侍から爵位をもらってたまるか」という反骨精神があったんでしょうね。

経済学は人々を幸せにできるのか?

浜松城

学生時代は、夏目漱石や古典文学、サルトルやカミュなどの哲学など専ら人文科学に熱中していたため、社会科学、特に経済学の勉強は疎かにしておりました。

まあ、経済学については斜に構えていたところがあり、敬遠していたわけです。それでも、森嶋通夫氏や宇沢弘文といった世界的な経済学者の名前だけは知っており、老境に入り、少しずつ彼らの著作を読み始めております。

でも、門外漢なので、専門書は歯が立ちません。手始めに、宇沢弘文著「経済学は人びとを幸福にできるか」(東洋経済新報社、2013年11月7日初版)を読んでみました。これは、講演会の速記録やエッセイ風の読み物でしたので、読みやすかった。結構知らなかった、蒙を啓いてくれる箇所が多かったので、また、備忘録のため、換骨奪胎で列挙したいと思います。

浜松城

・1929年の大恐慌の時、高名な経済学者サミュエルソンの父親は、インディアナ州ゲーリー(日本の八幡のような鉄鋼の街)のUSスチール社の職工だったが、1920年代初頭はかなり景気が良く、全てのお金をはたいて、フロリダの別荘用地を買ったが、それが詐欺で一晩でゼロになった。これが、サミュエルソンの子どもの頃の大恐慌の思い出。

・第二次大戦の終わった1945年の夏にフリードリヒ・ハイエクとフランク・ナイトがスイスの避暑地モンペルランで一緒になり、戦後の荒廃から回復する経済的基盤を考えるモンペルラン・ソサイエティの原型みたいなものを作る。2人は、シカゴ学派の中心的人物だったが、それが後に、弟子である金儲け主義で新自由主義のミルトン・フリードマンとジョージ・スティグラーに取って変わってしまう。ナイトは80歳過ぎた晩年になって、フリードマンとスティグラーの最近の言動は目に余るものがあるとして、この2人の破門宣言をした。

・英国のシドニー&ビアトリス・ウェブ夫妻は、フェビアン協会を作った新しいタイプの労働運動の指導者だった。この夫妻が英国で初めて作った労働者階級のための大学がロンドン・スクール・オブ・エコノミクスだった。(今やあのトマ・ピケティも学んだ世界一流の大学として有名です。インテリ・ロックンローラー、ミック・ジャガーも通ったとか)

・ケネディ政権などの国防長官を務めたマクナマラは、ベトナム戦争でキル・レシオ(殺戮比率)を使って、ベトコン1人殺すのに何万ドルかかるか戦略・戦術を考えた。このキル・レシオはマクナマラ自身が考えた概念で、太平洋戦争中、日本爆撃の全責任を負っていた司令官カーティス・ルメイ少将の目に止まり、マクナマラはグアム島に呼ばれ、そこで日本攻略の作戦を練った。(如何に安上がりで日本人庶民を殺戮できるかを考えたってことでせう)

・第一次大戦に従軍した米帰還兵にフーバー大統領がボーナスを約束したのに、なかなかそれを履行しないので、数万の帰還兵が1932年5月にワシントンでデモを行った。このデモを共産主義者が煽動しているという根拠がない理由で鎮圧した司令官がマッカーサーだった。フーバー大統領が中止命令しても聞かなかた。徹底的に弾圧し、幼児まで殺されたという記録が残っている。米国人のマッカーサーに関するイメージは、このボーナス・アーミー事件の影響力が大きい。(日本人は誰も知らない)

浜松城

・ケインズは、第二次大戦中も、政府代表というポストを利用して結構酷いことをやっている。その代表が、印象派絵画の買い占めだった。ドイツ軍がパリ侵攻前にフランス政府から名画の疎開を要請された際、個人的に安く買い占めたという。この事実は、ブルームズベリーの一員だった女流作家ヴァージニア・ウルフの日記に残されている。

・シカゴ大学哲学科のジョン・ドラン教授はベトナム反戦運動で逮捕され大学を追われた。「ノーム・チョムスキーはえらい。彼は反戦運動で54回も逮捕されている。それに比べると自分は1回しか逮捕されていない」とドランは話したが、彼の場合、みせしめのためか、懲役10年という重い刑だった。

・私がシカゴ大学にいた頃、ジョーセフ・スティグリッツという天才的な頭脳と魅力的な人柄を持った学生がいた。それから何年かして彼をスター・プロフェッサーとしてシカゴ大学に招いた。2001年、スティグリッツはノーベル経済学賞を受賞した。

・ケンブリッジ大学をトップで卒業する学生の大部分は、イートンやラグビーなど名門パブリック・スクールの教師になることだという。少し成績が落ちる学生は、研究者を志すか、公務員を志望する。一番成績の悪い学生は銀行に行くという。(あら、日本とじぇんじぇん違う=笑)

他人の不幸は蜜の味なのか?

トルファン・ベゼクリク千仏洞  Copyright par Matsouoqua-sausai

今話題の中野信子著「シャーデンフロイデ   他人を引きずり下ろす快感」(幻冬舎新書、2018年1月20日初版)を読了しました。

著者は、テレビで売り出し中の「美人脳学者」で、出版広告も彼女のアップの顔写真が掲載されて、思わず手に取ってみたくなります。

それにしても、「シャーロンフロイデ」、じゃなかった、「シャーデンフロイデ」って何ですかね?

以前、これまた「美人公認会計士」として売り出された女性が著書を山のように出版して、「セレンディピティ」なる煙に巻くような言葉を流行らせましたけんど、そんな類いの言葉なんでしょうか?(今、あのマヨラーでしたっけ?美人公認会計士さんは、最近メディアに出なくなりましたね。どうしちゃったのかしら?)

いやはや、シャーデンフロイデの話でした。何やら、ドイツ語で、直訳すると「毒の喜び」となるらしく、誰かが失敗した時に、思わず湧き起こってしまう喜びの感情なんだとか。

「他人の不幸は蜜の味」と訳せばいいのかもしれません。まあ、妬みや嫉妬などの感情から来る復讐心みたいなもんかもしれませんが、彼女は、心理学者ではなく、脳学者ですから、そんな感情が何処から来るのか冷静に脳を解剖、いや分析してます。

それは、愛情ホルモンとか、幸せホルモンなどと俗に呼ばれる「オキシトシン」という物質が、毒の喜びに関係しているというのです。

話せば長くなってしまいますので、なるべく早く簡潔に書きたいのですが、(ご興味のある方はこの本を読まれればいいと思います)オキシトシンが厄介なのは、「人のため」とか、「社会正義のため」などといった感情になって、公共交通機関の中で暴行を働いたり、ネットで匿名という安全地帯にいて罵声を発したりするという複雑なものだというのです。

二律背反、絶対的自己矛盾の西田哲学みたいです。

芸能人や政治家の不倫に関しても、社会的に抹殺しかねないほどのブーイングが巻き起こるのも、それを認めてしまえば、社会秩序や倫理や道徳が保てないという危機感から来るというのです。

本人は、正義感でやっているので、糾弾や攻撃行動は終息するまで止むことはありません。

例によって、以下に備忘録として換骨奪胎で列記します。

・心理学者バリー・シュワルツは「選択肢が多いと迷ってしまい、幸福度が下がる」と主張。人間の脳は「考えたくもないけど、間違いたくもない」と虫のいい働きをする。

→皆んながやっているから、人気があるから、多くの人が選んでいるから、有名だから、などといった理由で人は簡単に物事を決めてしまうんですね。

・本当かどうか確認しようのないことでも、占い師に言われたことをそのまま実行したり、高額セミナーにはまったりするのは、「自分が進むべき方向を自分で決めたくない」という思いが根本にある。

・「神の名のもとに」ある教義に判断を任せれば、自分は考えなくて済むし、自分の行動に責任を取らなければならないという不安や恐怖を肩代わりしてもらえる。

→ 止むことないテロも宗教の名を借りる傾向が強いのはそのせい?

・長らく米作地域だった日本は、集団を尊重する志向性の高い人々が淘汰の結果、生き残った。麦作地域のように合理的で冷たい判断は、いかにそれが正しくとも集団にとっては正しくない。火山大地のため米作に適さなかったり、米作よりも海運が盛んだった薩摩や長州が、より合理的な意思決定をして大きな節目を作ったのは示唆的。

・脳内のセロトニンは、不安を感じにくくする物資で、セロトニントランスポーターの密度が高い人は、楽観的な判断を下す傾向がある。日本人の98%は、このセロトニントランスポーターの密度が低い。つまりは、セロトニンが低く、不安を抱きやすい。これは、自然災害が多い日本という環境で、心配症の方が予防対策を講じて有利で、生き延びやすかったからではないか。

・セロトニンが多い人間は、思い切った投資をしたり、遊びにも大胆にお金を使うことができる脳を持っている。しかし、セロトニンが少ない日本人は不安を抱きやすく、老後を心配したりして、大胆にできる人が少ないと考えられる。

→ このように、脳科学的に分析してくれると、毒の喜びも、社会正義心も、そして大胆な行動が取れないのも、「なあんだ、脳がそうなっているだけで、俺のせいじゃなかったのか」と安心してしまい、思考停止になりそうですね(笑)。

「埼玉」の由来は「人を幸せにする心」、古代は東日本の中心地だった!

川越市

谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書、2017年9月15日初版第2刷)を読んでます。

凄く楽しみにして読み始めたので、大変残念でした。誤植が多いのです。

前半に、「言明天皇」が出てきますが、明らかに「元明天皇」の間違い。1回や2回の間違いならよくあることですが、これが、4回も5回も続いて「言明天皇」とあると、確信的です。「えっ?最近の歴史教科書では名前が変わったの?」と、こちらで何度も辞典や事典で調べ直したほどです。

元明天皇は、平城京に遷都し、「古事記」「風土記」を編纂した女帝として有名です。

もっと酷いのは、79ページの地図です。新座市、和光市、志木市など埼玉県南部と練馬区など東京都北部の地図なのですが、清瀬市の隣が、何と「東村山市」と明記されているのです。「東久留米市でしょ!!!」と大声で叫びたくなりました。

東久留米市は、あの渓流斎先生がご幼少の砌、野山を駆けずり回った由緒ある土地柄です。ありえなーい。

著者は、信州松本の御出身で、筑波大学教授などを歴任された学者です。この辺りの土地勘はないでしょうが、あまりにもおそ松君です。それ以上に、出版社(KKベストセラーズ)の編集者・校正者も見抜けないんでしょうかねえ?劣化を感じます。

と、最初からかなり貶してしまいましたが、この本から教えられること多とします。著者は「地名の由来を歩く」シリーズを既に、京都、奈良など5冊も刊行されており、地名の歴史の専門家でしょう。手馴れています。新聞記者のように自分の足で歩いて取材している辺りは、感心します。

誤記以外は素晴らしい労作です。以下、いつものように換骨奪胎で。

・さいたま市大宮区に鎮座する氷川神社は、武蔵国の「一宮(いちのみや)」とされている。古代の武蔵国の国府が置かれたのは、今の東京都府中市。ここにある大国魂(おおくにたま)神社は、武蔵国の「総社」なので、一宮の氷川神社の方が格上である。(「総社」とは、当該国の格式が高い神社(多くは6社)をまとめて勧請して祀った神社のこと。)

・ということで、古代、武蔵国の中心は、府中ではなく、埼玉だったのではないか。

神の御魂(みたま)には大きく「荒(あら)御魂」と「和(にぎ)御霊」の二つに分かれる。荒御魂とは、「荒く猛き神霊」、和御魂とは「柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂」のこと。この和御魂には、さらに二つの神霊があり、一つは「幸(さき)御魂」で「人に幸福を与える神の霊魂」。もう一つは「奇(くし)御魂」で、「不思議な力を持つ神霊」のこと。

埼玉は、前玉(さきたま)から転じたもので、この前玉は、幸御魂(さきみたま=人に幸福を与える)から来たものだった。

・「続日本紀」によると、元正天皇の霊亀2年(716年)、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国にいる高麗(こま)人(=高句麗からの渡来人)1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡(こまのこおり)を置いた」とある。高麗郡は、今の日高市から飯能市にかけての丘陵地。恐らく、高句麗から亡命した若光王が朝廷に願い出て許されたからではないか。

・一方、新羅からの渡来人を移住させた地域に「新羅郡(しらぎのこおり)」を置く。今の志木市、和光市、新座市辺り。志木は、新羅から転訛されたものと言われ、新座は、新羅郡から新座(にいくら=新倉とも)郡になったことから由来すると言われる。

(上田正昭著「帰化人」によると、百済系の漢氏=あやのうじ=は、軍事=鉄器や馬なども=、土木、外交などに強く、蘇我氏と結びつき朝廷内で台頭します。法隆寺「釈迦三尊像」をつくった止利仏師や蝦夷を征伐したとして知られる坂上田村麻呂らも漢氏の子孫です。

新羅系の秦氏=はたのうじ=は、大蔵官僚となり大和朝廷の財務を司ります。聖徳太子や藤原氏との結びつきが強く、国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦河勝=はたのかわかつ=が創建したもので、御本尊様は、聖徳太子から賜っています。神奈川県秦野市も、秦氏が移住した土地です。)

・和光市は、江戸時代は、「上新倉村」「下新倉村」「白子村」と言われ、白子宿は繁栄していた。新羅はかつて、志楽木(しらぎ)と書かれ、それが転じて白木となった説がある。白子も語感的に新羅をイメージさせる。恐らく、今の和光市が、古代新羅人の移住先の中心地ではなかったか。

・朝霞市は、近世以降、膝折村と言われていた。これは、応永30年(1423年)、常陸国の小栗城を攻め落とされた城主の子息小栗助重が逃げ延びて、この地に来たとき、馬が勢い余って、膝を折って死んでしまったという伝説から付けられたという。膝折村から朝霞町になったのは昭和7年のこと。東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部をこの地に移転させ。開場日に朝香宮殿下の御臨席を賜り始球式が行われた。この朝香宮の名前を頂くことにしたが、そのままでは畏れ多いので、この地に発生する朝霞(あさぎり)にちなんで朝霞町にしたというもの。

・昭和天皇の弟宮秩父宮は、従来なら「三笠宮」など畿内の山の名から命名されていたのを、あえて、武蔵国の名山である秩父から命名された。秩父の歴史に深い理解があったものとみられる。地元民は大いに喜び、秩父宮は今では秩父神社の御祭神として祀られている。

・川越は、平安末期、桓武平氏の流れを汲む秩父氏がここに進出して荘園を開き、秩父重綱の子重隆以降は河越氏と名乗る。この重隆の孫重頼の娘「郷御前(さとごぜん)」は、源義経の正室。この史実は意外と知られていない。