中華思想は今も健在か?

敬白

昨日は、チンピラに絡まれた話を書いたところ、多くの方から御心配等のコメントやメール頂きました。誠に忝く存じ候です。

やはり、チンピラ如きを相手にして、こちらが加害者(被害者の可能性の方がもっと高いですが=笑)になってしまってはとんでもない話ですからね。

一昨日は、あんなことが現実にありえるのか、「おい、ジジイ!」なんて、まるで時代劇のドラマを見ている感じでした(笑)。昨晩はよく眠れましたので、少し回復しました。

皆さまにはご心配をお掛けして申し訳御座いませんでした。

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さて、名古屋にお住まいの篠田先生お勧めで、所功、久礼旦雄、吉野健一共著「元号 年号がら読み解く日本史」(文春新書)を昨日から読み始めましたが、面白いですね。来年は平成最後の年で、改元されるわけですから、大変タイムリーな本です。それに、非常にマニアックです(笑)。恐らく、一般向けの元号に関する本で、これ以上詳しいものはないかもしれません。ただし、その前に、古代史関連の本を何冊か読んでおくことをお勧めします。一層面白くなると思います。

とはいえ、まだ読み始めたばかりです。篠田先生がこの本を薦めてくれるに際して、「信じられないでしょうが、天皇は昔、住む所がなくて、京都市内の公家らの家にお世話になって、転々として暮らしていた時代があったんですよ。それは、この本に書かれています」と言うのです。

えっ???本当なんですか?全く信じられませんでした。

篠田先生は、やたらと京の都の歴史に詳しく、今ある京都御所は、平安時代のものではなくて、徳川家康が整備したもので、「平安宮」はもともと、今の千本通り(かつては、朱雀大路と呼ばれ、京の南北のメインストリートだった)の北の一条から二条にかけてありました。西の右京が水はけが悪く、大雨が降ると不衛生で疫病がはやり、大火で大内裏も焼失するなどして廃れてしまい、都の中心は東の左京に移っていたといいます。戦乱などで、江戸時代になるまで、天皇といえども、大内裏を失って、定住先がなかった時期もあったわけです。

少し話が本筋が外れてしまいましたが、元号とは、漢の武帝が最初に制定したと言われ、周囲の「属国」は、中国の元号を使わさせられました。日本の最初の公式の元号は645年の大化ですが、その時代に、よくぞ「独立国」として頑張ったものです。(その前に、中国に隠れて、非公式に元号を使っていた時もあったようです)。

この本には「属国」とは書かれていませんが、「中華思想」には、周辺国の民族は文明のない野蛮な夷狄(いてき)として、朝貢させることが当然だと看做されておりました。勿論、そんな「属国」は中国の元号を使うのが当たり前ですから、個別に元号を称するなどとんでもないということになるのです。

皮肉にも、本家本元の中国では、清の時代で元号を使うのが最後で、今は西暦を使っているというのです。朝鮮半島も、一時的に独自か中国の元号を使っていましたが、今はありません。かつて越南と呼ばれて中国に朝貢させられていたベトナムにも元号があり、何と「大正」もあったそうです。(日本が「大正」を採用した際、森鴎外が友人宛ての手紙「何で、他の外国の例を調べないのだ」と憤慨したそうです)

ということは、日本は、ほとんど唯一、今でも元号を使っている国であり、「優等生」と言えなくもないですね。(台湾は、今も中華民国暦を使っているようです)。何しろ、朝鮮半島もベトナムも、今では漢字まで廃止してしまい、日本は「哲学」や「科学」や「経済」など独自の漢字を造語して、中国に逆輸出してしまうぐらいですからね。

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今回、中華思想の夷狄について調べてみたら、南蛮とは、スペインかポルトガル人のことかと思っていたら、本来はベトナムなど南方に住む夷狄民族を指していたんですね。

つまり、中国の皇帝らは、中華の四方に居住していた周辺民族を蔑称して、

「東夷」(中国東北地方、朝鮮半島、日本)

「北狄」(匈奴、鮮卑、韃靼、契丹、蒙古など)

「西戎」(ウイグルなど)

「南蛮」(ベトナム、カンボジアなど東南アジア、西洋人)

―と呼んでいたというのです。

中華思想とは、自分たちの「華夏」が世界の中心であり、それ以外の夷狄は「化外の民」ということになります。

ところで、昨日は、習近平主席ら指導部は、アフリカ53カ国の代表を呼んで、「中国アフリカ協力フォーラム」を開催して、600億ドル(6兆7000億円)も支援すると約束したようです。以前にこのブログで書いたスリランカの港の租借の例もあるように、背後に、どこか、今でも「中華思想」が健在のような気がします。

あれ?元号の話からずれてしまいましたね(笑)。

いずれにせよ、この本、先を読むのが楽しみです。

落合陽一博士の「結果として中国が正しかった」説には同感

テレビを見ると、どこもかしこも、2世、3世の政治家、俳優、タレント、料理研究家、財界人だらけです。日本の因襲、襲名制度健在なり。ご同慶の至りで御座いまする。

そう言えば、小生が影響を受けた敬愛するジョン・レノンと小野洋子さんの息子ショーンは、幾つになったのかな、と気になって調べたところ、彼は1975年10月9日生まれ。何と、今年43歳。ジョンが暗殺されたのが40歳ですから、そろそろ親父の年齢に近づいたのかな、と思ったら、もうとっくに越えてしまっていたんですね!

私も年取るはずてす。

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そんなこんなで、今、若者のカリスマ落合陽一博士(筑波大学長補佐)の「日本再興戦略」(幻冬社、2018年1月18日初版)を読んでます。

彼は1987年生まれ、といいますから、私より一世代若い。著名作家落合信彦氏の御子息ということで、反発されるでしょうが、こちらも「落合二世」といった感じでしょうか。

世界的な科学雑誌の「別冊」の表紙を飾ったことがあるらしく、まさに現代の若者たちのカリスマと言われてますが、大変失礼ながら、もう少し、我々のような旧世代をコテンパンに圧倒するような瞠目すべき見解が、この本では展開されているのかと思いましたが、期待外れでした。

大和朝廷や出雲のことなども書かれていますが、やはり、専門家の倉本一宏氏らの著書と比べると全くといっていいくらい浅薄ですね。

ただ、御専門のデジタルメディア論に関しては、真っ当なことを仰っておりました。

日本のIT業界は、ホリエモンこと堀江貴文さんの逮捕で、変革の流れは止まってしまった、というのです。

米国のフェイスブックやツイッターが存在感を発揮する一方、「国産」のミクシィは死んでしまった、というのです。

今や、日本のネットユーザーの間では、米国のアマゾンやグーグルなしでは生活できないことでしょう。落合さんは、もう少し、日本が頑張ってたら、アマゾンが日本に進出した時に、せめて、例えば、楽天などと提携せざるを得なかったのではないかというのです。

「僕らは日本をIT鎖国できなかったせいで、中国のようにアリババやテンセントやバイドゥを生むことができませんでした。2000年代の日本は、IT鎖国した中国をバカにしていてグレートファイアウォールと揶揄していましたが、結果として中国が正しかったのです」と落合氏は結論付けます。

私も賛成ですね。

2000年代の日本は、大蔵省の不祥事などを受けて大規模な省庁改革が断行され、結局、大蔵省も通産省も解体され、いわゆる国家主導の「護送船団方式」も終焉してしまいました。

デジタルの世界は、「1」と「0」の世界ですから、一位にならなければ全く無意味です。二位も最下位も同じなのです。つまり、「オール」or「ナッシング」の世界です。

今のFAANG(フェイスブック、アマゾン、アップル、ネットフリックス、グーグル)といわれる米資本に制覇されてしまった日本の現状を見るにつけ、「結果として中国が正しかった」という落合説には同感してしまいます。

規則正しい生活を送って認知症を予防しませう

安いデジカメを買ってしまいました。約1614万画素もあるのに、8GBのSDカード付きで7999円という安さです。しかも、世界に誇る三菱系のNIKON。ただし、中国製でした(笑)。

実は、カメラはiPhoneのスマホで十分なんですが、来月スペインに行きますし、これから遅い夏休みを取って京都・奈良に行きますからね(笑)。

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ということで、今、京都行きの新幹線の中でブログってます。

今読んでいる築山節著「脳を守るたった一つの習慣」(NHK出版新書、2018年7月10日初版)によると、認知症を防止するには、毎日、ノートに決まったことを書くことが一番、と推奨されております。

まあ、北品川クリニックの築山所長に言われなくても、小生、こうして毎日ブログってますから、大丈夫ってことなんでしょうかねえ?あまり、他人様に迷惑かけてまで生き延びたくありませんからね。

[あっ!最後まで読んだら、駄目でした。スマホやパソコンに書いても駄目で、ノートという物理的に手に取って中身が読めるものに、血圧や体重や天気や温度を書かなければなりませんでした。]

さて、この本は実にわかりやく書かれてます。

脳の働きから、部位が大きく3層に分かれるというのです。奥から(1)脳幹(2)大脳辺縁系(3)大脳新皮質ーです。

(1)の脳幹は、生命を維持し、心臓や呼吸、体温を調節する自律神経を制御します。ですから、脳幹には負荷をかけず、「守る」ものと言われてます。今は音信不通の旧友が以前、脳幹梗塞を患ったことがありました。

(2)の大脳辺縁系は、脳幹の外側にあり、欲求など感情を司るところです。そのため、暴走を防ぎ「しつけ」なければいけません。

(3)の大脳新皮質は、大脳辺縁系の外側にあり、思考や理性を司るところです。いつも、何歳になっても、新たな情報に触れて「育て」ていかなければなりません。あたしゃ、やってます(笑)。

脳は怠惰ですから、少しでも楽をしたがるそうです。

この三つだけ覚えて、将来認知症にならないようにするために、どういう習慣を取ったらいいのか、と指南しているのがこの本です。

一言で言えば、毎日、規則正しい生活を送りなさい、ということでした。十二分に睡眠を取り、朝は決まった時刻に起きて、しっかりと朝食を摂る。夕食は軽めでいいといいますから、朝食が一番重要のようです。

あと、軽い運動も必要で、家事や掃除なども含めて、他人任せにしないで、自分のことは自分でする習慣を身に着けることがポイントだと、築山所長は、多くの患者を診てきた経験から導き出しておられました。説得力があります。

通勤の行き帰り、電車の中ですぐ読めます。

「世界金融戦争」=実体を伝えていない日本のメディア

国際金融の世界がどうしても知りたくて読み始めた「世界金融戦争ー謀略うずまくウォール街」(NHK出版・2002年11月30日初版)の著者広瀬隆氏は「終章 アメリカ帝国崩壊の予兆」の最後の方で以下のように書いております。

《日本のメディアで濫用される”過激派”、”原理主義”、”テロリスト”という否定的な形容詞を”レジスタンス”、”パルチザン”、”百姓一揆”に置き換えれば、初めて世界で何が起きているかを知ることができる。(…)本書に記したことは、全て公開されているニュースと資料からの分析で、誰にでも可能な調査であるはずだ。日本におけるこれまでの報道に接して痛感するのは、私が狭い書斎で座布団一枚の上に座って分かるアメリカの大きな犯罪と過ちが、なぜ日本で明晰な頭脳を持つメディアの外信部記者に分からないのか、それが不思議でならないということである。》

メディアの外信部記者がそれほどまでに日本で明晰な頭脳をお持ちなのかどうか、議論の分かれるところかもしれませんが、それはさておき、確かに彼らが報道する欧米メディアの翻訳と映像の垂れ流しによって、日本の一般市民までもが「洗脳」されていることは確かです。

例えば、チェチェン人。彼らは2002年10月23日にモスクワの劇場を占拠し、ロシア人の観客800人以上を人質に取る事件を起こしました。これによって、チェチェン人とは人相も悪く、いかにも野蛮で獰猛なテロリストのイメージが焼き付けられました。

しかし、その前にロシア軍が1994年以降、チェチェン共和国に侵攻し、全人口110万人の1割近い10万人ものチェチェ人を虐殺していたのです。その理由は、カスピ海油田の石油を、アゼルバイジャンのバクーから黒海沿岸のロシアのノヴォロシスクにまで運ぶパイプルートの途中で、どうしてもチェチェン共和国を通過しなくてはならなかったからです。

広瀬氏はこう書きます。

《チェチェン紛争は、イスラム対ロシアの民族問題のように説明されてきたが、イスラム蜂起は結果に過ぎず、全くの嘘である。真の原因はこの油田採掘で莫大な利益を得るロシア富豪たちがエリツィン大統領の後ろで糸を引き、「アゼルバイジャン国際操業」の結成が引き金を引いた石油戦争だったのである。(…)大半のメディアは、チェチェンの住民がいかにロシア軍に殺されたか、その残虐さを伝えずに、いきなりチェチェンの抵抗運動を「テロリスト」と呼ぶことから物語をはじめる。ジャーナリズムの非道というほかない。》(一部校正)

「ジャーナリズムの非道」とは、凄い批判ながら、まさに、的確で、「何が報道されたのか」よりも、「何が報道されなかったのか」を問うことが重要なことが分かります。

この本を読むと、カスピ海油田は、ロシアだけの問題ではないことも分かります。前述のアゼルバイジャン国際操業社の出資者の顔ぶれには、英国のBPをはじめ、米国のベンゾイル(父ブッシュ元米大統領と濃厚な関係がある石油会社)、日本の伊藤忠まで著名企業が並んでいるのです。

これら石油企業の重役は米ホワイトハウス(大統領、閣僚)に潜り込み、ウォール街やロンドン・シティーの国際金融と手を結んで世界を支配している構図を複雑な人間関係や相関図を追って、この本で明らかにしています。

《グローバリズムとは、石油・ガスやクロムをはじめとする稀少金属などの地下資源を「先進国が安価に手に入れる」ための19世紀暗黒時代の貿易システムにほかならない。農地だった土地が工業化されると、大半の農民が土地を奪われて都会でスラム生活を送らなければならなくなり、彼らに代わって、世界的な穀物商社カーギルやモンサントのような大量生産方式の遺伝子組み換え農業、コカ・コーラ、マクドナルド、ケンタッキーに代表されるアメリカン・フードが入り込み、食糧の生産・貿易・流通システムを物量的に支配するようになる》

えっ!?グローバリズムは、夢と希望にあふれた、自由公平な貿易システムじゃなかったんですか?

《これが目に見える問題だが、グローバリズムの本当の恐ろしさは、別のところにある。文化面では、地域固有の文化が根絶やしされてきた。それぞれの生活習慣を楽しんできた人間にとって全く迷惑なことだ。アメリカとイギリスの通貨と文明に頼って生きるなど不愉快極まりない》

確かに、小生も、アングロサクソンの奏でる音楽に絶大な影響を受けて、常磐津、清元、長唄をそこまで熱心に聴いてこなかったなあ。。。

それに、銀行から盛んに宣伝してくる「ドル建て預金」などは、もってのほかですか。。。

《彼ら(国際金融マフィア)が政界と産業界の実権を握るため、彼らの発言だけがメディアに横行し、彼らだけが経済を論じ、あたかもほかに人間がいないかのようなジャーナリズム論を生み出す。(…)これが経済ファシズムでなくて何であろう。》

日本国憲法第13条では「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とうたわれております。

これは、経済とは、特権階級や経済団体や国際金融マフィアのものでははく、全ての日本国民が経済を論じることができる、と解釈できないことはありませんよね。

この本は、情報が多少詰め込まれ過ぎていて、決して読みやすくありませんが、特に、政治家と国際金融業界と石油や天然ガスなどの資源企業との強靭な結びつきがよく分かります。個別の具体的な事案や人物については、またこのブログで折を見て触れたいと思っております。

雨宮由希夫氏の書評・加藤廣著「秘録 島原の乱」

著名な文芸評論家雨宮由希夫氏から「書評」が届きましたので、本人のご了解を得て「渓流斎日乗」に掲載させて頂くことにしました。

雨宮氏は過日、東京・帝国ホテルで開催された「加藤廣氏のお別れ会」でもスピーチされた方で、先日もこのブログで取り上げさせて頂きました。

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書名:『秘録 島原の乱』 著者名:加藤廣 発売:新潮社 発行年月日:2018年7月20日 定価:¥1600E

本年4月7日 加藤廣氏が急逝された。享年87。『信長公記』の著者・太田牛一を主人公とした本格歴史ミステリー『信長の棺』で加藤廣が75歳近くの高齢で作家デビューを果たしたのは、13年前、2005年(平成17年)の初夏のころであった。

何よりも『信長の棺』という書名からしてすでに謎めいているが、この衝撃的なタイトルでわかるように、本能寺の変という歴史的な大事件の謎に焦点を当てるという手法で、歴史の闇と風塵に埋もれた真相に迫ったものである。

『秀吉の枷』『明智左馬之助の恋』の「本能寺三部作」、『求天記 宮本武蔵正伝』『謎手本忠臣蔵』『空白の桶狭間』等々、寡作ながらインパクトのある歴史小説を世に問うてきた加藤作品を貫くのは、それまでの常識あるいは通説とされている歴史事象を疑い、真実を追究するという独特の歴史観である。「人間の生きた真実の姿は一つしかない。その真実を探り当てるのが己の使命である」と言わんばかりの絶妙な歴史推理の手法で、読者の意表を衝く謎解きの面白さを通じて真相に迫ることで、“加藤(かとう)節(ぶし)”というべき独特の歴史小説の世界を造形した。

遺作となった本作品『秘録 島原の乱』は「小説新潮」2017年8月号~2018年4月号に断続的に連載され、「編集後記」によれば、単行本化に当たっては連載当時の原文のままにしたという。

本作品は『神君家康の密書』の続編であり、“加藤節”の集大成というべき作品。大坂城落城と共に豊臣秀頼は死んだとするのが通説だが、秀頼最期の場所である焼け落ちた糒倉から秀頼の遺骸が特定できなかったことも事実である。秀頼の薩摩落ち説や天草四郎の秀頼ご落胤説などの巷説を採り入れ、天草四郎は薩摩で生まれた秀頼の一子であるとして、大坂城落城から島原の乱までの江戸時代初期の歴史を背景に魅力あふれる物語を創り上げている。

 第1部「秀頼九州落ち」。慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣。炎上する大坂城。自死しようとする秀頼(23歳)が、明石掃部全登の手引きで、大坂城を脱出し大阪湾に浮かんだ後、一路九州・薩摩の地に落ち延びる。

関ヶ原合戦において西軍の主力の宇喜多秀家の先鋒を務め、大坂の陣では「大坂城の七将星」の一人として名を馳せたキリシタン武将・明石掃部は大坂城落城のとき自刃したとも、脱出して潜伏したとも伝えられるが、本書の明石掃部は、「再起を図られませ。豊臣家の再興には地に潜った全キリシタンが陰に陽に働きましょう」と秀頼をして捲土重来を期せしむ。かくして島津領に入った秀頼主従は島津家久治世下の薩摩谷山の千々輪城に居住し、来たるべき徳川との戦さに備える。当然ながら秀頼の行方は厳重に秘匿され、「秀頼の気の遠くなるような雌伏の時代が始まる」。

第2部「女剣士の行方」。時代背景は一変。大坂城の落城から、およそ10年後。主人公は柳生十兵衛三厳の片目を潰した手練れ、男装の若き女剣士の小笛である。寛永元年(1624)7月、豊臣恩顧の外様大名福島正則が配流地の信濃国川中島高井野村で客死する。正則の死を見届けた小笛は、家康が「秀頼の身命安堵」を約束したとされる密書を正則から託されて、真田幸村ゆかりの真田忍者・小猿らを連れて、秀頼おわす薩摩に向かう。

薩摩で小笛は秀頼に見初められる。「秀頼公のお世継ぎ作りが最も枢要な役目」と悟った小笛は〈小笛の方〉つまり秀頼の側室の一人となる。今や天下の大半が徳川に帰したのは明らかだが、側室となる前に、小笛自らの眼で天下の趨勢を見極めるべく旅に出て、雑賀孫市、真田幸村の三女阿梅らに遭い、孫市からは「豊臣の遺臣が立ち上がるときは豊臣に味方する」という確約を得る。

第3部「寛永御前試合の小波」。背景はまたしても一変。寛永14年(1637)5月初旬の江戸城内御撰広芝御稽古場における御前試合の場面。3代将軍家光の御前で行われた寛永御前試合の開催時期は寛永9年、15年説が有力だが、作家は寛永14年に時代設定し、「島原・天草の農民、キリシタンたちが圧政に抗して蜂起したのは寛永14年の10月に入ってからだが、この年は薩摩の島津家久を除く九州の主だった大名が江戸参覲中であった」と、島原の乱に結び付けている。

かくして、この御前試合に、増田四郎なる類い稀なる謎の美少年(13歳)が薩摩示現流の東郷藤兵衛の代理として登場。四郎は将軍家指南役柳生但馬守宗矩の三男・柳生又十郎宗冬を撃ち破ってしまう。衆道好みの将軍家光は四郎に懸想。宗冬の兄の柳生十兵衛は四郎の母は小笛なのかと疑うが、家光はまさか四郎が秀頼の子であるとはつゆ知らない。「肥後での一揆」を命令する島津家久、島津には何か胡乱な気配があると察知する老中松平伊豆守信綱。小猿らは宇土城址で加藤清正の隠匿した火薬と鉄砲類を掘り起こす一方、一揆の拠点とするに足る廃城を探すべく、天草諸島や島原半島を動き回っている。そうした中で、四郎はキリストの再来として天草島原の農民たちから“神の子”と崇められる。

寛永14年10月の蜂起を目前にして、四郎の父・秀頼死す。この壮大な一揆の推進者であり、最大の金主でもある秀頼は労咳を患いながらも徳川政権転覆を夢見て薩摩で45歳まで生きていた。

第4部「救世主のもとに」。寛永14年(1637) 10月26日、島原の乱の首謀者たちは“神の子”天草四郎時貞を一揆軍の総大将とし決起した。明石掃部の指導宜しく殉教の決意固い切支丹となった時貞は天草島原の信徒や農民を結束させ、リーダーとして仰ぐに相応しい人物に成長していた。

島原の乱は純然たる切支丹一揆だったのか、宗教とは無縁の単なる百姓一揆だったのか意見の分かれるところである。一揆勃発の原因は領主の苛政であるが、島原藩主の松倉勝家はこの百姓一揆を切支丹一揆と主張し、徳川幕府も島原の乱を切支丹弾圧の口実に利用した。島原の乱は長年の苛政に虐げられてきた島原天草の農民の反抗が切支丹信仰と結びついた激しい農民反乱であると観るのが正しいであろう。その上で、作家は、その実質的な指導者は福島正則に与した豊臣の遺臣たちであったとし、剣豪小説や伝奇小説の面白さを加味し、歴史小説に仕立てている。

終章「原城、陥落す」。寛永15年2月27日、凄惨な落城の日。幕軍の総攻撃、酸鼻を極めた掃討で、一揆軍に加わった老若男女37000人余りはことごとく惨殺され、天草四郎も討ち取られたとするのが通説であるが、本作品で作家は、原城抜け穴の出口で脱出逃亡者を待ち構える宮本武蔵と柳生十兵衛の前に、実は女であった天草四郎と母親の小笛があらわれるシーンを造形している。

荒唐無稽な作り話ではない。用意周到、まさに“加藤(かとう)節(ぶし)”炸裂。通説、正史の名のもとに歴史の闇に打ち捨てられた人々が浮かび上がる面目躍如の歴史小説である。(平成30年8月17日 雨宮由希夫 記)

平成最後の終戦記念日に思うこと

8月15日。73回目の終戦記念日です。もしくは、平成最後の終戦記念日。

8月15日は、ポツダム宣言受諾を昭和天皇が玉音放送で国民に報せた日であるので、「終戦記念日」はおかしいという学者もおります。東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で降伏文書を調印した「9月2日」こそが終戦記念日だと主張します。

確かに8月15日時点で、アジア太平洋の全ての地域でピッタリと戦闘が終結したわけではなく、15日以降も特攻や散発的な戦闘がありました。

しかし、私自身、最近は、8月15日は終戦記念日でいいと思うようになりました。正確に言えば、9月2日は「敗戦記念日」です。文字通り、この日は外交上、国際法に則って、降伏文書に調印したわけですから。とはいえ、日本人は、敗戦記念日の9月2日をメモリアルデーにすることはないでしょうね。

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昨晩は、「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(中公新書)がベストセラーになった吉田裕・一橋大学名誉教授がラジオに出演していて、思わず耳を傾けてしまいました。

吉田氏によると、アジア・太平洋戦争では310万人(軍人・軍属230万人、民間人80万人)に及ぶ日本人犠牲者を出しましたが、その9割が1944年以降と推測されるというのです。この1年間だけで軍人・軍属の戦死者は200万人以上。日露戦争は9万人だったので異常に高い数字です。(第二次大戦の敗戦国ドイツが、占領国から追放された際の死亡者が200万人という事実にも卒倒しますが)

資料が残されていないので正確な数字は推計の域は出ないものの、その戦死者の内訳として戦闘による戦死者は3分の1程度で、残りは、餓死やマラリア、赤痢などによる戦病死と、戦艦などが撃沈されたことによる海没死、それに戦場での自殺と「処置」だったといいます。

1937年に始まった日中戦争が泥沼化し、40年から国民皆兵の徴兵が始まります。末期は、若者だけでなく中年までも、そして、健常者だけでなく身体・精神障害者までもが徴兵されるようになったことから、厳しい行軍でついていけなくなったり、上官による鉄拳制裁やリンチで自殺に追い込まれたりします。また、戦場に置き去りにされたり、足手まといとして「処置」という名の下で殺害されたりしたというわけです。

吉田氏は、その背景には、「当時は、人権や人命に対する著しい軽視があった」と指摘しておりました。戦前の日本社会は、職場で、学校で、家庭で、親や教師や上司らによる、今でいう暴行や暴力が頻繁に行われることが普通で、殴られたことがないのはよっぽどのインテリぐらいだったのではないかいうのです。

特に人命軽視が甚だしい。フィリピンから奇跡的に生還した兵士も「兵隊は消耗品だった」と断言してます。まるで、日本の軍隊には「兵たん=ロジスティック」という観念がなかったかのようで、前線にいる兵士に対する補給を疎かにして、食物などは「現地調達」です。だから餓死者が出るのです。しかも、軍機保護法などで兵士には行き先も告げず、「行って来い」の片道切符のみで、二度と帰ってくるなと「玉砕」さえ命じます。

戦前も官僚制度ですから、辻政信牟田口廉也といった職業軍人であるエリート将官は優遇します。しかし、赤紙一枚で引っぱって来た兵士に対する扱いは将棋の駒の「歩」以下です。武器も、40年も前の日露戦争の「三八式歩兵銃」ですからね。圧倒的な武器弾薬と物資の補給を前線に送り、ある程度の兵士の人権を認め、戦死した場合、遺体を丁重に回収していた米軍とはえらい違いです。

そもそも、国力と技術力と戦力が全く違う米国に戦勝できるわけがなく、神風が吹くわけがなく、陰湿ないじめとリンチで自分より弱い者を自殺に追い込むのが、日本人の心因性でした。(記録には残っていませんが、かなりの精神疾患者が出たようです)

ですから、この73年前の敗戦は日本の歴史上最大の変革です。幕末も、戦国時代も、大化の改新も遠く及びません。

「他人を押しのけてでも」の立身出世主義、「余所者排除」の排他主義、「前例にありません」の事なかれ主義、「総理のご意向」の権威主義と忖度主義、友情よりも拝金主義、それでいて縁故主義と血統主義…と、臭いものに蓋をし、強きを助け、弱き挫く日本人の心因性は、将来も、そう大して変わるわけがありませんから、戦争は二度と御免です。

読売新聞を拡張した最盛期の人々

読売新聞副社長、日本テレビ会長などを歴任した氏家斉一郎談・塩野米松聞き書き「昭和という時代を生きて」(岩波書店、2012年刊)をやっと読了しました。

刊行された翌13年に氏家さんは84歳で亡くなっておりますから、「遺言」めいた話でしょうが、やはり肝心なことは「墓場まで持っていく」と公言されていたように、はっきりとしたことは分かりませんでした。

特に彼が「暗躍した」社屋の東京・大手町の国有地払い下げや、中部読売創刊に関わり、地元の中日新聞との熾烈な闘いなど、もう少し内情を知りたかったですね。

ご本人は読売新聞経済部の敏腕記者だったので、御自分で執筆すればよかったと思われますが、余計なお世話でしょう。しかし、残念ながら、同じ読売新聞の内情を暴いた御手洗辰雄著「新聞太平記」(鱒書房)、佐野眞一 著「巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』」( 文藝春秋)、魚住明著「渡邊恒雄 メディアと権力」(講談社)などと比べると「読み劣り」してしまいます。

とはいえ、政界、官界、財界に次ぐ「第四の権力」と一時(的に)言われたマスコミの内情がよく分かります。国有地払い下げにしろ、「社会の木鐸」と世間で思われていたマスコミが、実は、向こうの人間(政官財)に取り入って、いや、食い込んで、一緒になって狂言回しの役目を演じていたわけですから、そりゃあ、一介の政治記者如きが「天下国家」を論じたくなることがよく分かります。

新聞記者はあちこちで情報を収集して、スパイみたいに、と書けば怒られるので、止めときますが(笑)、とにかく、コーディネーターのような働きをして、政治家や官僚を動かします。昭和30~40年代の右肩上がりの高度成長期ですから、やりたい放題で自分の思い通りになる感じなのです。何しろ、氏家さんは渡辺恒雄氏とともに、大野伴睦を一国の首相に担ぎ上げようとしたりするのですから、もはや記者の域を超えてます。

◇◇◇

氏家さん本人も述懐してますが、非常に運に恵まれたジャーナリストでした。キューバのカストロ首相には気に入られて2度も会っているし、ベトナムのホー・チ・ミン主席には会いに行ったら、亡くなって、スクープ記事を書くことができ、日本代表として葬儀に参列したりします。

「読売中興の祖」務台副社長には目を掛けられ、50歳そこそこで取締役に大出世します。セゾングループの堤清二さんや徳間書店の徳間康快さんら多くの友人に恵まれて左遷の雌伏期間中に救われたりします。

氏家さんが読売に入社したのは昭和26年。彼は、昭和25年末の時点で、毎日新聞が408万部でトップ、朝日新聞が395万部、そして、読売新聞はわずか186万部だったと記憶しています。読売は、もともと、東京のローカル紙だったからです。

それが、「販売の神様」務台さんの豪腕で、大阪に進出し、九州に進出し、中部に進出し…全国制覇を果たして、ついに世界一の1000万部にまで部数を伸ばすのですから、氏家さんらは、ちょうど新聞拡販戦争のど真ん中で熾烈な取材合戦を繰り広げていたわけです。

しかし、それも遠い昔の話。今では若い人の新聞離れで、天下の読売も700万部とも650万部とも、かなり落ち込んだという話を聞いたことがあります。

既に新聞の影響力は落ち込み、政治家を動かすどころか、利用されて、読売新聞は「御用新聞」とも「自民党機関紙」とも「政界広報紙」と揶揄されるようになりました。

もっとも、氏家さん本人は、最後の方で「新聞は反権力であってはいけない。国益に反してしまうことがあるからだ。せいぜい非権力であるべきだ」と語っていましたから、昔ではなく、今のこのような読売新聞をつくったのは、渡辺氏であり、氏家さんであることがこの本を読むとよく分かります。

2人とも若い頃はバリバリの共産党員だったのに、後年はバリバリの反共・体制護持派になるのですから、人間の抱く思想の不可解さを印象付けます。

◇◇◇

読売新聞について、もっとご意見があれば、コメント御願い致します。私自身は、これまで読売の悪口ばかり書いてきましたが、今、経済面が一番充実していて分かりやすく、抜群に面白いのは読売だと思っているので毎日欠かさず読んでおります。

老人力がつき始めました

有楽町「魚や旬」の魚づくしランチ980円=刺身(鯛、マグロ)、煮魚(鯖味噌)、焼き魚(鮭)、揚げ物(白身魚フライ)という豪華メニュー(焼き魚が写ってません)

私はあまりテレビは見ませんが、テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」は結構見てます。

これでも、大学の卒論は「印象派」でしたし、長じてからは美術担当記者も仕ったこともあり、芸術に関する見る眼と教養はかなりのものと勝手に自負しております(笑)。それでも、この番組の鑑定士は半端じゃない知識と経験の持ち主で、私の知らない作家が出たりして、大変勉強になります。

大体欠かさず見てはいるのですが、たまに、見逃すこともあり、再放送を見たりします。我ながら随分熱心ですねえ(笑)。再放送は、大体、5~6カ月前に既に放送されていたものです。ですから、一度見たかどうか、忘れてしまっているのです。部分部分で、「あ、確か前に見たな」と分かるのですが、まだらボケ状態で、他の部分は全く初めて見たような気がするのです。

これは実に悲しいものがありますね。あれだけ、夢中になって見て、半年経って忘れて、また初めて見るように見ているのですから、あの時の半年前の時間は何だったのか、今消費している時間は何なのか、と空しくなってしまいます。

また、フランス語も英語も、単語は覚えて半年も経つと全く雲散霧消して脳裏から消え去ってしまうのです。哀しい。

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そこで、思い出したのが、赤瀬川源平さん(1937~2014)の「老人力」です。ご説明するまでもないでしょうが、これは「物忘れが激しくなった」と否定的に考えずに、「老人力がついてきた」と前向きに考えようと逆転の発想を提唱したものです。「老人力」(1998年)はベストセラーになりました。あれから、もう20年も経つんですね。

提唱したのが1997年といいますから、ちょうど彼が還暦の60歳のときだったんですね。

個人的ながら、「老人力」がベストセラーになる前に、私も老人力がついて何の著作か忘れてしまいましたが(笑)、一度、彼にインタビューしたことがあります。かなり和気藹々とした会話が続き、彼の偉ぶらない飾らないところに感銘を受けたものです。その3カ月後ぐらいに、ある文壇パーティーで再会したので、「この間は、大変お世話になりました」とご挨拶すると、「…どちら様でしたっけ…」と怪訝そうな表情を浮かべるのです。その時、彼は50代でしたが、既に老人力がつき始めていたということなのでしょうか。

勿論、私以上に毎日のように色んな人と会っているので、一度だけ会っただけの三文記者などいちいち覚えていないでしょうが、当時はかなりショックでした。(当時の私は、取材で年間500人ぐらいの人と名刺交換してましたが)

優秀で才能がある人でさえそうなんですから、まして凡人をやですね。

旧制中学・高校の学制を並べたくなりました

神戸にお住まいの山口先生のお勧めで、氏家斉一郎(1926~2001)談・塩野米松聞き書き「昭和という時代を生きて」(岩波書店・2012年11月15日初版)を読み始めております。

氏家氏といえば、読売新聞の副社長から系列の日本テレビの会長にまで登り詰めた人で、ナベツネこと渡辺恒雄・読売新聞主筆の「片腕」ぐらいの知識しかありませんでしたが、この本を読むと、これまで全く知らなかったことのオンパレードで「へー、そうだったのかあ」と感心しきり、という凡俗な新聞用語が飛び出してくるほどです。

氏家さんは、大正15年(1926年)5月17日、東京生まれ。小生の亡父と同い年でした。(渡辺恒雄さんも同年5月30日生まれ。同い年ながら、氏家さんとは同窓の東京高等学校の1年上だったようです。)この本を読んで、父親の世代が青春時代にどんな時代の空気を吸っていたのかよく分かりました。

まだ、読売新聞社に入社する前の学生時代の話のところを読んでいますが、どうも、旧制の学制が戦後と随分様変わりしたため、読みながら、ここでちょっと整理したい欲望に駆られました。

その前に、「氏家」という名前は非常に変わった名前で、どこかの武将か由緒ある名家と思ってましたが、やはり、「信長公記」に出てくる「美濃の三人衆」の一人・氏家直元(大垣城主)がご先祖さまだったようです。

彼の祖父氏家広雄は帝大を出て弁護士になった人。父貞一郎も東京帝大法学部を出て、財閥「古河合名」の理事を務めた人。彼の従兄弟に当たる氏家純一は、野村ホールディングスの会長と経団連副会長も務めた人で、いわば、華麗なる一族だったんですね。

さて、彼の小学校は、昭和8年に入学した桃園第三尋常小学校(昭和16年から国民学校に名称変更)という公立学校でした。当時は、私立より公立の方が有名中学への進学率が高かったそうです。(他に、本郷の誠之小学校、青山師範附属小学校、番町小学校など)ちなみに、桃園第三小学校の出身者には、津島雄二氏(自民党元津島派会長、作家太宰治の女婿)や私も以前親しくさせて頂いた女優の三田佳子さんもそうなんだそうです。

当時の有名中学とは、旧制の府立中学です。(実は、早稲田中、武蔵中、麻布中、成城中など名門私立中学も既にありました)氏家さんが旧制中学に入学するのは昭和14年(1939年)4月ですが、その年までにあった11の旧制府立中学を並べてみますとー。

・府立一中→都立日比谷高校

・府立二中→都立立川高校

・府立三中→都立両国高校

・府立四中→都立戸山高校

・府立五中→都立小石川高校

・府立六中→都立新宿高校

・府立七中→都立墨田川高校

・府立八中→都立小山台高校

・府立九中→都立北園高校

・府立十中→都立西高校

・府立十一中→都立江北高校

氏家さんが入学した中学は上記のナンバースクールではなく、今は無き東京高等学校尋常科でした。これは、日本初の七年制の官立高校で、東京帝国大学の附属中学・高校の位置付けだったそうです。(90%近くが東大進学)旧制中学は5年制で、成績がよければ4年で卒業。旧制高校は3年制(ところが、戦時体制の昭和18年から2年制)。つまり、普通なら8年で大学(3年制)進学するところを、7年で大学進学するので、相当なエリート校だったのでしょう。

同期に歴史学者になる網野善彦(1928~2004)らがいました。同い年ながら一学年上に渡辺恒雄氏。氏家さんは昭和19年に、そのまま東京高校に進学。渡辺氏は高校を2年で繰上げ卒業し、入隊しますが、昭和20年の敗戦で、氏家さんは召集を免れます。戦後は、旧制高校を2年制にしていたのを3年制に戻す運動にも加わります。

ちなみに、氏家さんの父親は、自分と同じように第一高等学校に行ってほしかったようです。旧制高校の名門ナンバースクールは一高から八高まで8校ありました。

一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)

このほか、ナンバースクール以外で全国に創設された高校で、浦和水戸東京静岡松本福岡広島新潟高校などが東京帝大進学の上位校でした。

何か、今もあまり変わっていないような気がします。

おさらいですが、戦前は、小学校6年~中学5年~高校3年~大学3年(計17年)ということになり、新制の6~3~3~4年(計16年)より1年長いですね。飛び級があったからでしょうか。(他に専門学校や陸軍士官学校、海軍兵学校などのコースもあり)

旧制高校出身者は、もう90歳以上でしょう。できれば、もっとお話が聞きたいと思いました。

文芸評論家雨宮さんのこと

先月23日(月)に東京・帝国ホテルで開催された歴史小説家の「加藤廣さんお別れ会」のことを書きましたが、その時、会場でスピーチされた文芸評論家の雨宮由希夫さんが、何と吃驚、かの著名なロシア文学者内村剛介(1920~2009)の甥っ子さんだっということが、関係者への取材で明らかになりました。

おっと、どこか、国営放送のニュース風の口調になってしまいましたね(笑)。

いやあ、これは本当の話です。

当日、かなり多くの方々のスピーチがありましたが、雨宮さんのお話はとても印象的でしたので、よく覚えております。

2005年、加藤さんの本格デビュー作「信長の棺」が発表されたとき、 同氏は東京の三省堂書店に勤務されており、同書店のメール・マガジン「ブック・クーリエ」に「書評」を連載されておりました。

そこに、「本来歴史学者がやらなければならない事件の解明を物書きの罪業を背負った新人作家が代わってやってのけた。驚異の新人の旅立ちと、新たな『信長もの』の傑作の誕生に心より拍手喝采したい」と書いた記事を、加藤さんが目にして感動し、本能寺3部作の「明智左馬助の恋」の「あとがき」の中で、「雨宮氏の温かい言葉には、あやうく涙腺まで切れそうになったことを告白しておきたい」と書いてくださったというのです。

雨宮さんは、スピーチの中で「『あやうく涙腺まで切れそうになった』のは私の方です。駆け出しの書評家で、実績らしい実績のなかった私にはこれ以上の光栄なことはないと感涙にむせばずにはおられませんでした」と応じておられました。このくだりが、とても印象的だったのです。

銀座「保志乃」いわし定食 980円

その後、関係者への取材で、雨宮さんは「参列者が懇談している中でスピーチなどふつうは誰も聞いていないものですが、しわぶき一つなく、雑談もなく、皆様が聞き入ってくれたことには恐れ入りました」と感想を述べられていたそうです。

雨宮さんの本名は敢えて秘しますが、内村剛介の甥っ子ということで、シンポジウムや哈爾濱学院の同窓記念式典にも必ず出席されていたようです。