731部隊の切れ者二木秀雄という男=加藤哲郎著「『飽食した悪魔』の戦後」

 コロナ禍で、ただでさえ気分が落ち込んでいるというのに、さらに輪を掛けて気分が落ち込む?本を読んでいます。とはいえ、推理小説を読むような感じで、結果が分かっていても、「次はどうなってしまうのか」とページが進みます。

 私淑する加藤哲郎一橋大学名誉教授が書かれた「『飽食した悪魔』の戦後 七三一部隊と二木秀雄『政界ジープ』」(花伝社)という本です。2017年5月25日に初版が出たので、もう4年前の本です。

 3850円というちょっと高価な本でしたし、内容に関しては既に加藤先生の講演会やセミナーなどで聴いていたので、「いつか買おう」と思っていたら、今になってしまいました(スミマセン)。私が購入した本は、2018年3月20日発行の第2刷で、少しは売れているというということなので大変嬉しくなりました。図書館で借りるにせよ、どんな形でも良いですから、多くの人に読んでもらいたいと思ったからです。

 実は、この本の258ページに、何と私の名前が出てきます!(笑)。私が「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」35号(2012年12月)に寄稿した「70年間誰も知らなかった謎の人物ー石島栄」という論文を引用してくださったのです。加藤先生の御自宅は「汗牛充棟」の比喩がピッタリで、市販本からこのような研究会の論文集までありとあらゆる文献を所有されて目を通しておられます。まさに博覧強記です。

銀座「山笑ふ」ランチA 1650円

 今ではよく知られるようになりましたが、731部隊とは、旧満洲(現中国東北部)ハルビン郊外に設置された関東軍防疫給水部本部が正式名称で、最高責任者の部隊長が、京都帝大医学部出身の石井四郎陸軍軍医中将だったことから石井(細菌)部隊などとも言われます。中国人の捕虜らを「マルタ」と呼んでおぞましい人体実験や生体解剖を行っていたと言われますが、資料や実験データを米軍に引き渡す条件で免責されて戦犯にもなりませんでした。しかも、戦後も731の残存部隊は鉄の結束で秘密を守り通したため、真相はヴェールに包まれていました。

 しかし、著名な推理作家森村誠一が1981年に出版した「悪魔の飽食 『関東軍細菌戦部隊』恐怖の全貌! 長編ドキュメント」(光文社)がベストセラーになり、多くの研究者、ジャーナリスト(常石敬一、近藤昭二、青木冨貴子各氏ら)によって関連本が(先行して)出版されるようになり、賛否両論も含め多くの人に認知されるようになりました。

 加藤氏の本は、これら先行研究書の成果を踏まえた上で、新たに、二木秀雄という731部隊第1部第11課(結核班長)の技師(高等文官の最高位で、武官の将校に相当)だった人物を主人公(とはいってもダーティーヒーローですが)にしています。

 この人は複雑怪奇な人で、金沢医科大学(現金沢大学医学部)で博士号を取得して731部隊に所属したエリート高官でした。この人、部隊では、結核菌だけでなく、捕虜に強制的に性行為をさせて梅毒に感染させる(抵抗した男女は射殺)など、この本ではちょっと読むに堪えない場面が出てきます。戦後は、郷里の金沢に戻り、優先的に早々と帰国して生き残り、後に大学教授や研究所所長や開業医などになった731の残存部隊の仮本部設立を任され、東京に出てからは右派大衆時局雑誌「政界ジープ」を発行したりします。(どういうわけか、この雑誌の第2号に「尾崎ゾルゲ赤色スパイ事件の真相」なる記事が掲載されます)1950年には、輸血用の血を確保する日本ブラッドバンク設立発起人となり重役に就任。当時の朝鮮戦争での需要で急成長し、1964年には商号をミドリ十字に変更しますが、同社は薬害エイズ事件で業績が悪化し、今の田辺三菱製薬に吸収合併されたことは皆さんも御存知の通りです。

江戸城 桜田門 (本文とは関係ありません)

 確かに凄惨な場面は、読むと気分が落ち込みますが、皆さんも勇気を出して目を塞がず、読んでほしいと思います。編注が巻末にではなく、同じページに出てくるので大変読みやすい本です。

 731部隊は、終わった過去の出来事で現代人には何ら関係ないという考え方は間違っています。コロナ禍で、ウイルスや感染症については、今は一番関心がもたれていることではありませんか。皮肉にも彼らは、最先端の病毒や感染症を人体実験した部隊だったのですから…。例えば、76ページにはこんな記述が引用されています。

 七三一部隊へは当時大正製薬より莫大な寄附金が投じられており、その見返りとして、サルバルサン六〇六号という梅毒治療薬の製造権が同製薬に与えられた。同製薬は戦後もサルバルサンを製造し続け、主要医薬品メーカーへと成長した。(山口研一郎「医学の歴史的犯罪」)

 大正製薬といえば、リポビタンDとかパブロンの風邪薬を出している会社でクリーンなイメージがありましたから、731部隊に関わっていた過去があったとは全く知りませんでした。

マルセル・プルーストを求めて

 日仏会館は、「近代日本資本主義の父」渋沢栄一と駐日フランス大使で詩人でもあったポール・クロデールによって1924年3月7日に設立されました。(渋沢は、幕末に徳川昭武のパリ万博視察の随行員として渡仏。フランスで会社や銀行などの制度やサン・シモン主義などに影響受けました)

 私は3年ほど前にやっと、大学と会社の先輩の推薦を得て会員になりましたが、コロナ禍で、月に数回、東京・恵比寿の同会館で開催される講演会や映画会などが中止となり、オンラインになりました。が、平日はなかなか時間が取れず、やっと今回、土日に開催されたシンポジウム「プルーストー文学と諸芸術」に参加することができました。

 プルーストと言えば、「失われた時を求めて」(1906~22年執筆、1913~27年刊行)です。全7巻16冊、3000ページに及ぶ大長編小説で、「20世紀最大の世界文学」という文芸評論家もいます。

 私自身は、もう40年以上も前の大昔の学生時代に岩崎力先生の授業で最初から原語で読みましたが、たった1ページ翻訳するのに、1週間掛かり、当然のことながら挫折。日本語も読み通すことがありませんでした。悲しいことに、知っているのは、第1巻「スワン家の方Du côté  de chez Swann」、第2巻「花咲ける乙女たちの影に À l’ombre des jeunes filles en fleurs」といった巻のタイトルと、第1巻に出てくる最も有名な「無意識的想起」の場面です。お菓子のマドレーヌを紅茶に浸して食べた瞬間、主人公が幼児に過ごしたコンブレーでの出来事や幸福感などが蘇ってくるというあの場面です。

 日仏会館が主催したシンポジウムは、日本とフランスの専門家20人以上をオンラインで繋ぎ、2日間でテーマが「プルーストと音楽」「プルーストと美術」「プルーストと教会/ 建築」など6以上で、休憩時間も入れて合計で11時間にも及ぶ長丁場でした。同時通訳の皆様には「大変お疲れ様でした」。

 正直申しまして、私自身は「失われた時を求めて」を完読していないので、さっぱり付いていけず「完敗」でした。ですから、小生が理解できたことだけ少し触れます(苦笑)。

 一つは、中野知津一橋大学教授の「プルーストと料理芸術」の講演の中で、あの有名なお菓子マドレーヌは、ホタテ貝の形をしているものとばかり思っていたら、19世紀では卵型が普通だったらしいということでした(アレクサンドル・デュマ「料理大辞典」1873年)。

 ホタテ貝は、フランス語で coquille Saint-Jacquesで、サン・ジャックは、キリストの弟子、聖ヤコブのことです。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並ぶキリスト教徒の三大巡礼地になっていることから、中野教授も、マドレーヌは巡礼の隠喩になっているかもしれない、といった趣旨の話もされていました。

◇ドビュッシーとランボーは会っていた?

 もう一つ、ピアニストで文筆家でもある青柳いづみこ氏の「プルーストとドビュッシー」も面白かったです。恥ずかしながら、私は、印象派の画家モネと音楽家ドビュッシーで学士論文を書いたのですが、不勉強でプルーストには全く触れませんでした。青柳氏によると、二人はあるサロンで知り合い、プルーストが自宅にドビュッシーを招いたのですが、ドビュッシーはどういうわけか、理由をつけてお断りしたというのです。

 ちなみに、ドビュッシーのピアノ教師はモーテ夫人でしたが、その娘マチルドと結婚したのが詩人ヴェルレーヌで、一緒に住んでいたそうです。ドビュッシーがピアノを習っていた時に、あの17歳のランボーがヴェルレーヌの自宅に押し掛けていたらしく、ドビュッシーはヴェルレーヌとランボーに会っていたのかもしれませんが、うっかりそこまで知らず、意外でした。まあ、この辺りの話に全く御興味がなければ、どうでもいい話かもしませんが…(笑)。

 一番興味深かったのは、作家水村美苗氏の「母語で書くということ」でした。御案内の通り、水村氏は御尊父の仕事の関係で、小さい頃から米国暮らしが長く、英語漬けの毎日でしたが、それに反発(?)するかのように、米国では日本の古典文学にのめり込み、帰国後は、夏目漱石最後の未完の小説「明暗」を、彼女が、漱石の文体を完璧に近い形で会得して「続明暗」を完成して脚光を浴びた人です。(一度、30年も昔に、私は水村氏にはインタビューしたことがあります。当時とほとんどお変わりないので吃驚)

 ですから、水村氏は母語に大変拘わった、今でも拘っている作家で、プルーストに関しても、「本人は”世界のプルースト”になるとは思わなかたとはいえ、一番、母語に拘った作家」と分析しておりました。「失われた時を求めて」は今でも、日本では、個人による翻訳が4件も同時に進んでいるといいます。プルーストが普遍的になったのも、フランス語という世界的な欧州文明の特権的な地位があったから。それに対して、プルーストと同世代の夏目漱石は、知性的には全く劣っていないのに、日本語のせいか、世界ではほとんど知られていないという分析もなるほど、と思いました。(他に水村氏は、作品が英訳されるとグローバル化を意識してしまう、といった本筋の話をされてましたが、省略)

 ◇若い仏人はプルーストが読めない?

 「失われた時を求めて」岩波文庫全14巻(2010~19年)を、1ページごとに厖大な量の注釈と絵画や建築写真を挿入して個人訳で完成させた京大名誉教授の吉川一義氏も「今の若いフランス人は、(注釈なしで)この作品を読めるかなあ」と面白いことを言うのです。フランス語の原語を読まれたことがある方は分かると思いますが、一文がとても長ったらしく、この名詞がどこに掛かるのか、外国人は大変苦労します。

 吉川氏はフランスのソルボンヌ大学に留学して、プルーストで博士号を取った学者ですが、博士号は同然ながらフランス語で書かなければなりません。本人は謙遜されますが、自信がないので、フランス人の友人に事前に添削してもらったら、引用したプルーストの原文まで直されたという逸話を紹介しておられました。

 やはり、フランス人でもプルーストは難しいんですね。これには私も大笑いしてしまいましたが。


 

「仙台藩士幕末世界一周」とhontoのこと

亀戸天神 藤棚 Copyright par Priest Syakushodou

本日は、人様のふんどしをお借りして相撲を取る所存。つまり、写真も文章も勝手ながら、大変優秀な皆様方から引用させていただくことに致します(笑)。

 写真は、最近、悪の道から離れて改心された釈正道老師。大変お忙しい中、上野山の東照宮の牡丹祭と亀戸天神の藤棚の写真を撮影して「寄進」してくださいました。

 文章は、最近、「ドライビング・ヒストリック・アメリカ」(同時代社)を上梓された松岡將氏。以下は、同氏から小生宛の私信メールで、個人情報もありますが、なるべく「素材」を生かして進めていきたいと存じます。(新聞協会の用語集に準拠して漢字に改めた箇所などあります)

上野・東照宮 牡丹祭 Copyright par Priest Syakushodou

 渓流斎様

(前・中略)

 ところで、「ドライビング・ヒストリック・アメリカ」(同時代社)の謹呈先の一人に、生粋の仙台っ子で、小生の東北学院中・高在学時の6年間一緒で、いつも仲良くトップを争そっていた三浦信なる人物(東北大工学部電気通信科から郵政省入りし、ジュネーブ在の国際電波割当委員会=当時=の事務局長などを歴任)がいるのですが、その彼から連絡があって、彼の五代前の祖先、仙台藩士玉蟲左大夫誼茂が、(「ドライビング・ヒストリック・アメリカ」第Ⅵ話にでてくる)ポーハタン号に乗艦してアメリカに行ったということを思い出して電話で教えてくれたのでした(不覚にも小生は寡聞にしてそれまで不存知)。

  早速、調べて見ると、玉蟲左大夫というのは仙台伊達藩の家臣で、その筆力を買われて仙台伊達藩の随員としてポーハタン号に乗って世界一周し、鋭い観察眼による「航米日録」なる長大な日誌を残していました。その後、戊辰戦役の際、奥羽越列藩同盟にあって、主要な役割を果たしたため、明治2年、戊辰戦役敗戦後捕縛され、仙台藩牢中で切腹した人物でした。明治維新後も勝海舟や榎本武揚の如くに存命であったなら、さぞかし“男を上げていたろうに”と思うと、まことに残念であるとともに、仙台藩の戊辰戦役敗戦処理が、明治大正昭和期に至るまで東北地方にもたらしたマイナスに、改めて想いを馳せつつ、ネット上で「うつつなく太守のブログ」玉虫左大夫のこと〜「仙台藩の坂本龍馬」と呼ばれた男の惜しむべき最期」という記事を発見して、彼の墓の所在を突き止め、そのネット上でのお墓参りもやったのでした。

 その後の旧友三浦君との電話連絡や小生の更なる調査で、岩波書店に「航米日録」が所収出版されていることのほか、玉蟲左大夫の残された三人の孫娘が、それぞれ山本、三浦、玉蟲姓を名乗り(明治22年の憲法発布時に玉蟲家のお家再興が許され、その際未婚だった三番目が婿取りをした――その孫が、有名な玉蟲文一)、その山本家の(小生と同じ年代の)玄孫、山本三郎氏が、2010年に、在仙台の「荒蝦夷」社から、「仙台藩士幕末世界一周」なる、玉蟲左大夫の「航米日録」のいわば現代語訳を出版していることを知りました。

 そんなこんなで、三浦君が早速、手持ちの「仙台藩士幕末世界一周」を送ってくれ、現在、手許でパラ見していますが、500ページにも及ぶ立派な本であり、玉蟲左大夫の玄孫である著者の山本三郎氏の心意気を、改めて感じています。なお、数年前に亡くなられた彼は、小生の二期下の東北大法学部卒で東北放送の出身。どうやら、最晩年をもっぱら仙台で、「仙台藩士幕末世界一周」の執筆、出版、普及に充てたようです。

 小生にあっては、たまたま、ポカホンタスとの関連から、ポーハタン号に言及していたのだが、それが、今回のような“出逢い”となって、三浦信君ともども「お互い長生きした結果だ」と喜び合っています。

 そんな次第であるので、もし貴兄が、山本三郎著「仙台藩士幕末世界一周」(2010年、荒蝦夷)を未読であれば、(2300円+税という安価でもあり)騙されたと思って是非ご購入の上、あちこちチラ見して、「たった一世紀半前の日本とアメリカ」とに、想いを馳せて下さい。

敬具

亀戸天神 藤棚 Copyright par Priest Syakushodou

 如何ですか?このようなメールを頂けば、「仙台藩士幕末世界一周」を購入したくなりますよね。もう10年以上昔の本ですから、本屋さんにあるかどうか…。手始めに、いつも私が利用している楽天の通販で検索してみました。

 残念ながらヒットしませんでした。

 仕方がないので、アマゾンで検索してみました。(仕方ない、というのは、別にベゾスさんとお友達でもないし、会ったこともないからです)すると、3389円+送料257円でした。あれっ?松岡氏の話では、2300円+税という話じゃなかったでしたっけ?

 よく見たら、中古本でした。それが一番安く、一番高いものは1万円以上もしました。新品も一番安くて6640円です。あれ?話が違う。。。稀覯本になってしまったのか?ちょっと、手が出ませんね。

 諦めかけていたところ、hontoという本専門の通販サイトが見つかりました(後で分かったのは、これは大日本印刷が運営するオンライン書店でした!)ここでは「仙台藩士幕末世界一周」は税込み2310円(他に送料等440円)で売っておりました。

 これなら話が合うので、早速、会員登録して購入することにしました。このhontoというサイトはなかなか優れもので、色々検索すると、欲しい本の在庫がある全国の書店まで紹介してくれます。hontoから宣伝費を貰っているわけではありませんが(笑)、もし、御存知でなかった方にはお勧めです。

「冷戦期内閣調査室の変容」と「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」=第35回諜報研究会

 4月10日(土)午後にZOOMオンラインで開催された第35回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究所共催)に参加しました。ZOOM会議は3回目ぐらいですが、大分慣れてきました。S事務局長様はじめ、「顔出し」しなくてもオッケーというところがいいですね(笑)。今回私は顔出ししないで、質問までしてしまいました。勿論、露出されたい方は結構なんですが、私は根っからの照れ屋ですし、失礼ながら「野次馬根性」で参加していますから丁度いい会合です。インテリジェンスに御興味のある方は、気軽に参加できますので、私は主催者でもないのにお勧めします。

 でも、研究会は、素人さんにはかなり堅い内容で、理解するのには相当厳しいと思われます。お二人の報告者が「登壇」しましたが、正直、まだお二人の著書・訳書は拝読していないので、私自身もついていくのが大変でした。まあ、長年の経験と知識を総動員してぶら下がっていた感じでした。

岸俊光氏「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

◇「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

 最初の報告者は岸俊光氏でした。早大、駒大非常勤講師ですが、現役の全国紙の論説委員さんです。諜報研究会での報告はこれで4回目らしいのですが、私も何回か会場で拝聴し、名刺交換もさせて頂きました。そんなことどうでもいい話ですよね(笑)。報告のタイトルは「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」でした。

 何と言っても、岸氏は首相官邸直属の情報機関「内閣調査室」、俗称「内調」研究では今や日本の第一人者です。「核武装と知識人」(勁草書房)、「内閣調査室秘録」(文春新書)などの著書があります。

◇内調主幹の志垣民郎

 何故、岸氏が、内調の第一人者なのかと言いますと、内調研究には欠かせない二人のキーパースンを抑えたからでした。一人は、占領下の1952年4月9日、第3次吉田茂内閣の下で「内閣総理大臣官房調査室」として新設された際、その創設メンバーの一人で20数年間、内調に関わった元主幹の志垣民郎氏(経済調査庁から転籍、2020年5月死去)です。岸氏は志垣氏の生前、何度もインタビューを重ね、彼が残した膨大な手記や記録を託され、本も出版しました。

◇ジャーナリスト吉原公一郎氏

 もう一人は、ジャーナリスト吉原公一郎氏(92)です。彼の段ボール箱4箱ぐらいある膨大な資料を岸氏は託されました。吉原氏は「中央公論」の1960年12月号で、「内閣調査室を調査する」を発表し、一大センセーションを巻き起こすなど、内調研究では先駆者です(「謀略列島 内閣調査室の実像」新日本出版社 など著書多数)。吉原氏は当時、「週刊スリラー」(森脇文庫)のデスクで、内部資料を内調初代室長の村井順の秘書から入手したと言われています。私は興味を持ったのは、この「週刊スリラー」を発行していた森脇文庫です。これは、確か、石川達三の「金環食」(山本薩夫監督により映画化)にもモデルとして登場した金融業の森脇将光がつくった出版社でした。森脇は造船疑獄など政界工作事件で何度も登場する人物で、政治家のスキャンダルを握るなど、彼の情報網はそんじょそこらの刑事や新聞記者には及びもつかないぐらい精密、緻密でした。

 あら、話が脱線してしまいました。実は今書いたことは、岸氏が過去三回報告された時の何度目かに、既にこのブログで書いたかもしれません。そこで、今回の報告で何が私にとって一番興味深かったと言えば、内調を創設した首相の吉田茂自身が、内調に関して積極的でなかったのか、政界での支持力が低下して実力を発揮できなかったのか、そのどちらかの要因で、大した予算も人員も確保できず、外務省と旧内務省(=警察)官僚との間の内部抗争で、中途半端な「鬼っ子」(岸氏はそんな言葉は使っていませんが)のような存在になってしまったということでした。岸氏はどちらかと言えば、吉田茂はそれほど熱心ではなかったのではないかという説でした。

◇保守派言論人を囲い込み

 もう一つは、内調を正当化したいがために、先程の志垣氏らが中心になって、保守派言論人を囲い込み、接待攻勢をしていたらしいことです。その代表的な例が「創価学会を斬る」で有名な政治評論家の藤原弘達で、内調主幹だった志垣民郎と藤原弘達は東大法学部の同級生で、志垣氏は約25年にわたり接待攻勢を繰り広げたといいます。他に内調が接近した学者らの中に高坂正堯や劇作家の山崎正和らがいます。

 内調が最も重視したのは日本の共産化を防ぐことだったため、定期刊行物「調査月報」「焦点」などでは、やはりソ連や中国の動向に関する論文が一番多かったことなども列挙していました。

小谷賢氏「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 もう一人の報告者は、小谷賢・日大危機管理学部教授でした。ZOOMに映った画面を見て、どこかで拝見したお顔かと思ったら、テレビの歴史番組の「英雄たちの選択」でゲストコメンテーターとしてよく出演されている方だったことを思い出しました。

◇「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 報告のタイトルは「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」で、岸氏の研究の内閣調査室も小谷氏の専門範囲だったことを初めて知りました。テレビでは、確か、古代から戦国、幕末に至るまで的確にコメントされていたので、歴史のオールマイティかと思っていましたら、専門は特に近現代史の危機管理だったんですね。

 テレビに出る方なので、テレビ番組を見ているような錯覚を感じでボーと見てしまいました(笑)。

 彼の報告を私なりに乱暴に整理すると、戦前戦中にインテリジェンスの収集分析の中核を担っていた軍部と内務省が戦後、GHQによって解体され、それらの空白を埋めるべき内閣調査室が設置されたが、各省庁の縦割りを打破することができず、コミュニティーの統合に失敗。結局、警察官僚の手によって補完(調査室長、公庁第一部長、防衛庁調査課長、別室長のポストを確保)されていくことになるーといったところでしょうか。

◇「省益あって国益なし」

 戦前も、インテリジェンス活動に関しては、内務省と外務省が対立しましたが、戦後も警察と外務省が覇権争いで対立します。小谷氏によると、警察は情報をできるだけ確保しておきたいという傾向があり、外務省は、情報は政策遂行のために欲しいだけで、手段に過ぎないという違いがあるといいます。いずれも、政府に対して影響力を持ちたいという考えが見え隠れして「省益あって国益なし」の状態が続いたからだといいます。これはとても分かりやすい分析でした。将来悲観的かといえば、そうでもなく、若い官僚の中には軛と省益を超えて国益のために活躍してくれる人がいるので大いに期待したいという結論でした。

◇歴史学者の役割

 小谷氏は、明治から現代まで、日本のインテリジェンス・コミュニティー通史を世界で初めてまとめたというリチャード・サミュエルズ(米MIT政治学部教授)著「特務」(日本経済新聞出版、2020年)の翻訳者でもありました。三島由紀夫事件のことも少し触れていたので、同氏の略歴を調べてみたところ、1973年生まれで、若い(?)小谷教授にとって、1970年の「三島事件」は生まれる前の出来事だったので、吃驚してしまいました。別に驚くことはないんでしょうが、歴史学者は、時空を超えて、同時代人として経験しないことまでも、膨大な文献を読みこなしたり、関係者に取材したりして身近に引き寄せて、経験した人以上に詳細な知識と分析力を持ち得てしまうことを再認識致しました。

見つかった! 海軍兵学校の跡が

銀座・イタリア料理店「La Grotta」

ここ最近、ブログのネタに困ると、すぐ「銀座ランチ」に飛びついてしまいます。

 手頃だということもありますが、これには深い訳があります(笑)。

 まず、職場が銀座なのですが、あと、どれくらい今の職場にいられるかどうか分かりません。あと3年ぐらいは働き続けたいのですが、早ければ今秋にもクビを切られてしまいます。

銀座・イタリア料理店「La Grotta」ランチ ロイヤル三元豚肩ロースのグリルステーキ200グラム フレンチフライ添え 1100円

 となると、そう易々と銀座を闊歩していられなくなります。ということは、銀座でランチもできなくなってしまうのです。ですから、これまで高額で、「敷居が高い」と敬遠していたお店でも、無理してでも行くことにしたのです。全部自腹です。取材費も落ちません。釈正道老師が誤解している青色申告の還付金もありませんよ。

 さてさて、私の職場は、かつては日比谷にありましたが、今は銀座にあります。職場が生活の中心になると、特にランチや夜呑みの店探しで職場近辺を探索します。おかげで、日比谷、新橋、虎ノ門、銀座、有楽町、築地、新富町、八丁堀、明石町辺りは、どんな狭い路地でも、外国人に通訳案内が出来るほど詳しくなりました(笑)。

 でも、おっとどっこいです。まだまだ知らない、行ったことがない路地も沢山ありました。

 今日は、気分を変えて、普段は散策しない路地に入ったら、上の写真の「石碑」を偶然、発見しました。

「海軍兵学寮跡」と「海軍軍医学校跡」の石碑でした。

海軍兵学寮」とは、明治2年(1869年)に前身である海軍操練所が設立された翌年に「海軍兵学寮」と改称されたものです。明治9年に「海軍兵学校」となりますが、明治21年(1888年)に広島県の江田島に海軍大学校が設置されると、同時に海兵学校も移転します。

 海軍軍医学校の前身は、明治6年(1873年)に創設された海軍病院付属学舎です。一時廃止されましたが、日露戦争前に医療スタッフ増強のため、軍医学校が再度設置され、明治41年(1908年)に芝山からこの築地に移転されました。昭和20年11月の閉校まで続きます。

 場所は、築地川の畔で、采女橋の近くです。

 現在、築地川は埋め立てられて、眼下に高速道路が走っています。この石碑は、「新橋演舞場」の対岸といいますか、裏手にあるというべきか、それとも「国立がん研究センター」の裏手にあるというべきか、まあ、その辺りにひっそりと建っています。

 石碑は、あまり宣伝していないので(笑)、まず、知っている人は少ないと思います。

 以前も、このブログに書きましたが、銀座のみゆき通りとは、明治天皇が宮城(皇居のことですよ)から海軍兵学校へ視察行幸される際に通られる道として名付けられました。

 海軍将校養成のエリート学校である築地の海軍兵学校はここにあったんですね!私は、てっきり、今の築地市場場外辺りにあったと思っていました。

江藤淳を再評価したい=「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」を読んで

 山本武利一橋大学・早稲田大学名誉教授が書かれた「検閲官 発見されたGHQ名簿」(新潮新書)の中で、江藤淳著「閉ざされた言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」(文藝春秋、1989年8月15日初版)がよく出てきて、自分自身は未読だったため、今さらながらでしたが探し求めて、やっと読了しました。なかなかの労作でした。この一冊を以って江藤淳(1932~99年)の代表作とする識者はいないのですが、私は代表作にしてもいいと思いました。

 何と言っても、今ではかなりGHQによる検閲の研究は進んでおりますが、江藤淳がこの本を上梓するまで、秘密のヴェールに包まれ、占領軍による検閲の実態を知る人はほとんどいなかったからです。著者もあとがきでこう記しています。

 敢えて言えばこの本は、この世の中に類書というものの存在しない本である。日本はもとよりアメリカにも、米占領軍が日本で実施した秘匿された検閲の全貌を、一次史料によって跡付けようと試みた研究は、知見の及ぶ限り今日まで一つも発表されていないからである。

 本書は、著者が1979年から80年にかけて9カ月間、米ワシントンの国立公文書館などに籠って、米占領軍が日本占領中に行った新聞、雑誌等の検閲の実態を調査し、雑誌「諸君!」に断続的に発表したものをまとめたもので、米国における検閲の歴史から、日本で実行した検閲の事案まで事細かく、微に入り細に入り詳述されています。

 全てを網羅することは出来ないので、私が不勉強で知らなかったことを少しだけ特筆したいと思います。

 ・ルーズベルト大統領から直接、検閲局長官に任命され、日本の検閲のプランを作って実行し、その総責任者だったバイロン・プライスは、AP通信専務取締役・編集局長だったこと。(肩書こそ立派ですが、「新聞記者あがり」が検閲のトップだったという事実は、同じように取材と原稿執筆を経験した同業記者として、苦々しい思いを感じました。)

 ・昭和16年12月19日に成立した日本の言論出版集会結社等臨時取締法は、戦後GHQ指令によって廃止を命じられたため、自由を抑圧した悪法の世評が定着しているが、罰則は最高刑懲役1年に過ぎない。これに対して、米国の第一次戦時大権法第303項が規定している検閲違反者に対する罰則は、最高刑罰金1万ドルまたは禁錮10年、あるいはその双方である。江藤淳も「罰則を比較するなら、米国は日本よりはるかに峻厳な戦時立法を行っていたと言わなければならない」と怒りを込めて(?)記述しています。

 こういった自国の検閲の歴史を持つ米国が、占領国の検閲をするわけですから、苛烈を極めたと言っても過言ではありません。

 ◇「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の断行

 それだけではなく、占領軍は、日本の軍部が如何に国民をだまして、戦争を遂行して犠牲を強いてきたかということを強調するために、「ウォー・ギルト(戦犯)・インフォメーション・プログラム」を断行します。その最たるものが、GHQのCI&E(民間情報教育局)がつくった「太平洋戦争史」と題する連載企画で、ほとんどあらゆる日本の日刊紙に連載させます。その一環として、GHQは、1945年12月15日付の「指令」で、「大東亜戦争」という呼称を禁止し、公文書では「太平洋戦争」の名称を使用するように命じます。このほか、「八紘一宇」など国家神道、軍国主義、過激な国家主義を連想させる用語の使用まで禁止します。

 よく知られているように、占領軍に歯向かう思想に通じるような「仇討ち」はもってのほかで、「忠臣蔵」などの上演、上映が禁じられました。

 このような検閲は、敗戦国だから甘んじて受け入れなければならなかったかもしれませんが、同じ敗戦国であるドイツはここまで酷くなかったことを著者は実証しています。

 実際の検閲例や組織など詳しいことを知りたい人は是非、本書を手に取ってください。

 ところで、私の世代は、このような米占領軍であるGHQが指導したプログラムの影響を色濃く反映された「戦後民主主義教育」を受けてきました。そのせいなのか、保守派論客だった江藤淳は、戦後民主主義に反動する右翼の巨魁という怖いイメージが少なからずあったことは否めません。

 しかし、私自身は、もう30年も昔に、彼が日本文藝家協会の会長を務めていた頃、2年近く、何人かの文藝記者と一緒に毎月のように懇談して、江藤淳の人間的側面に触れた経験があります。一言でいえば、真摯で誠実な人柄で、年少だろうが、人の話をよく聞いてくれる方でした。私は初めてお会いした時は拍子抜けしたことを覚えています。

 これはその後の話ですが、江藤淳(本名江頭敦夫)は、私が卒業した東京の海城学園の創設者である古賀喜三郎(海軍少佐)の曾孫に当たる人で、文藝家協会会長の後は、同学園の理事も務めました。事前に知っていたら、その話もできたのになあと残念に思いました。

 人間を右翼とか左翼とかイデオロギーで判断してはいけませんね。国際的な文学賞を受賞しながら、文化勲章を辞退した著名作家は「反日左翼」とか言われたりします。それは的外れの言い過ぎだと思いますが、もう30年も昔、この大作家とは何度も取材でお世話になったことがありました。ただ、自分の家族の売り出しには積極的なものの、短い随筆にせよ、作品発表に関してはメディアを選別したりするので、色んな意味でがっかりしたことを覚えています。勿論、作家としては当然の権利なのですが、偉大な思想家のイメージが崩れ、違和感を覚えました。

 今から振り返ると、江藤淳は生前、あれだけ孤軍奮闘したというのに、最晩年に不幸に見舞われ、気の毒な最期を遂げてしまいました。今年で没後22年にもなりますか…。若い人はもう知らないかもしれません。30年前に毎月のようにお会いした時は、70代の老人に見えましたが、実際は50代後半で、亡くなった時も66歳と、随分若かったことに今さらながら驚かされます。(早熟の秀才でした)

 私は、アメリカ仕込みの戦後民主主義教育を受けてきたせいで、正直に言えば、かつては少なからぬ反対意見を抱いていましたが、江藤淳を改めて再評価して、彼の著作を読んでいきたいと思っています。

【後記】

 「『新聞記者あがり』バイロン・プライスが検閲のトップだったという事実は、苦々しい思いを感じました」と書きましたが、再考すると、「新聞記者あがり」が、検閲担当に一番相応しいと思い直しました。前言を撤回するようで節操がないですが、メディアは、放送禁止用語や差別用語に敏感です。読者から訴えられないように言葉遣いに細心の注意を払って自主規制し、校正には念には念を入れます。この「自主規制」と「校正」を「検閲」に置き換えれば、そっくりそのまま通用するわけです。

スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店「ケテル」と「ローマイヤ」

 東京・銀座の電通ビル(1933年、横河工務所=三越本店、旧帝国劇場なども=設計、大林組の施工で建てられた電通本社二代目)

 《渓流斎日乗》TMは、ほとんど誰にも知られていないのですが、「世界最小の双方向性メディア」と銘打って、ほぼ毎日更新しております。

 でも、たまに、大変奇特な方がいらっしゃいまして、コメントを寄せてくださいます。洵に有難いことです。昨晩も小澤譲二さんという方から嬉しいコメントを頂きました。まだ面識はありませんが、かなり熱心にお読み頂いていらっしゃるようで、私の心の支えになってくださっております。

 「コメント欄」を御覧になる方はあまりいらっしゃらないと思いますので、重複になりますが、本日は、小澤氏のコメントを引用させて頂くことから始めます。一部省略致しますが、小澤氏は昨晩、こうコメントして頂きました。(一部、捕捉し、誤字等改めています)

かつて「ケテル」があった所(銀座並木通り) 今は、高級ブラント「カルチェ」の店になっています

 もうかれこれ20年も前ですが、私の友人ヘルムートが80年近く祖父の時代から続くドイツレストラン「ケテル」を銀座で経営していましたが、家賃高騰とイタリア飯ブームに押されて、やむなく店を閉めました。私の叔母や母も戦前、Mobo、Mogaの時代の頃に勤めていた朝日新聞社から近かったのでよくこの店に通っていた、と聞いています。

 えーーー!ですよ。

 私もこのコメントに返信したのですが、この「ケテル」は戦前、「ラインゴールド」という名前のドイツレストラン兼酒場で、ここでホステスとして働いていた石井花子(1911~2000年)が、客として通ったスパイ・ゾルゲ(1895~1944年)と知り合った所だと聞いたことがあったからです。石井花子は、ゾルゲの「日本人妻」とも言われ、「人間ゾルゲ」の著作もあり、私も読んだことがあります。(彼女には文才があり、とても面白かった。)ちなみに、「ケテル」は、閉店する前の1980年代~90年代に私は何度かランチしたことがあります。

 石井花子は戦後、処刑されたゾルゲの遺体を探し当てて(雑司ヶ谷の共同墓地に埋葬されていた)、改めて多磨霊園に葬って非常に立派なお墓を建てました。2000年に彼女が亡くなった後、彼女の縁者がこの墓を管理していましたが、今年1月になって、墓所の使用権を在日ロシア大使館が譲り受けることになり、久しぶりにニュースになったことは皆さまご案内の通りです。ゾルゲは、ソ連の「大祖国戦争」を勝ち抜くことができた、今ではロシアの英雄ですからね。

銀座電通ビル 1936年、日本電報通信社(電通)は聯合通信社と合併させられ、同盟通信社となった。戦前は、同盟通信の一部(本体は日比谷の市政会館)と外国の通信社・新聞社が入居 ドイツ紙特派員ゾルゲと、諜報団の一員アヴァス通信社(現AFP通信)のブーケリッチもこのビル内で働いていた

 その石井花子をネットで検索してみたら、そこには「1941年10月4日のゾルゲの誕生日に銀座のドイツ料理店『ローマイヤ』で会食したのが最後の面会だった(ゾルゲ逮捕はその2週間後の10月18日!)」と書かれていたので、これまた吃驚。ローマイヤは、何も知らずに今年1月に初めて行った店じゃありませんか。

ということで、本日は再度、銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」に足を運びました。

 銀座並木通りの対鶴ビルにあった「ローマイヤレストラン」の店頭に立つローマイヤさん(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページから)※安心してください。お店の店長さんからブログ転載を許諾してもらいました!

 全く知らなかったのですが、そもそも、この店は、第一次世界大戦後にドイツ人捕虜として日本へ連行され、その後、祖国では食肉加工の仕事をしていた縁で帝国ホテルでの職を得てロースハムなどを生み出したアウグスト・ローマイヤ(1892~1962年)が1925年に銀座並木通りの対鶴ビルに開いたドイツ・レストランで、谷崎潤一郎の「細雪」などにも登場。ゾルゲやドイツ大使館員らが足繁く通った店でした。1991年、ビルの改装に伴い日本橋にビアレストランとして移転していましたが、2006年に別の経営者によって銀座8丁目に店舗が復活したというのです。(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページによると、現在の銀座あづま通りにある店舗は、2019年3月22日に新装開店したようです)

「ローマイヤ」は1921年に東京・大崎にハム・ソーセージ工場を建設し、製造開始したことから今年で創業100周年。

 ソ連赤軍(現ロシア軍参謀本部情報総局=GRU)のスパイだったドイツ人リヒャルト・ゾルゲがフランクフルト・ツアイトウング紙の特派員などとして勤務していた銀座電通ビルから「ラインゴールド」も「ローマイヤ」も歩いてほんの数分です。今も昔も、世界的な名声から(笑)、ドイツレストランはそう多くありませんから、恐らく、ゾルゲは週に何度もこれらの店に通ったことでしょう。

銀座「ローマイヤ」ランチ「豚ばら肉のロースト~中華風BBQソース~」コーヒー付で1100円

 あれから80年以上経って、ゾルゲも歩いたであろう同じ銀座の歩道を歩いたり、同じように食べたであろうドイツ料理を食したりすると、大変感慨深いものがあります。

 私はいつも歴史を身近に感じ、普通の人には見えない、現実には消え去ってしまったモノを想像することが好きなのです。

闇が深い占領期の検閲の史実=山本武利著「検閲官 発見されたGHQ名簿」

 山本武利著「検閲官 発見されたGHQ名簿」(新潮新書、2021年2月20日初版)を読了しました。

 実は、2月28日の渓流斎ブログで「占領期の検閲問題=三浦義一論文も削除、木下順二は検閲官だった?-第34回諜報研究会」という記事を書きました。この中で、この諜報研究会を主催するインテリジェンス研究所理事長の山本武利一橋大学・早稲田大学名誉教授が最近上梓された「検閲官」(新潮新書)を未読だったため、オンライン講演会で質問もできなかった、といった趣旨のことを書いたところ、この記事に目を留めて頂いた山本先生御本人から「まだ購入されていなかったら献本致しますよ」と、声を掛けて頂いたのです。

 一瞬、自分自身が、GHQ占領下の日本人検閲官か、総務省の高級官僚になったような気分に陥りましたが、せっかくの御厚意ですからお言葉に甘えてお願いしてしまいました。

梅は咲いたか、桜はまだかいな

 いつもながら、前置きが長くなりましたが、これはかなりの労作です。新書のスタイルですが、中身はかなり濃厚です。著者略歴で公表されている通り、山本氏満80歳の著作ですから、本当に頭が下がります。「GHQの検閲・諜報・宣伝工作」など長年にわたってライフワークとして取り組んできたインテリジェンス(諜報)研究の最新の成果が表れています。

 戦後、GHQによる検閲に関しては、江藤淳による先行研究がありますが、山本氏は江藤説を止揚(アウフヘーベン)している格好です。例えば、江藤説では、日本人検閲官は約1万人だった、としていたのに対して、山本氏は2万人余と訂正。また、長洲一二元神奈川県知事(1919~99年)ら東京裁判の検察側証人の事務所雇員を、江藤が検察官グループに入れてしまった誤りなどを山本氏は指摘しています。

 何しろ、GHQによる検閲を主導したCCD(民間検閲局)が閉鎖された時点(CCDは1949年10月31日廃止)での全国の本部・支部の所在地について、山本氏は長年追求してきましたが、ようやく資料が発見できたのが、アメリカ公文書館で、何と2019年11月のことだった、というのです。つい、最近ではありませんか!!江藤淳が「閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本」(文藝春秋、1989年)を発表した当時は、日本人検閲官だった人は誰一人証言する人はなく、メリーランド大学のプランゲ文庫などが全面的に公開されていなかった時代だったかもしれませんが、もしかしたら、今後も新資料が見つかるかもしれません。(本書では日本人検閲官の体験談がかなり採用されています)

ミモザ

 さて、私自身が、GHQによる検閲という史実を初めて知ったのはいつだったのか忘れてしまいましたが、少なくとも若い頃は、新聞雑誌の検閲や仇討映画や演劇の上映、上演禁止といったこと以外は、あまりよく知りませんでした。特に日本人のインテリによって電話が盗聴されたり、庶民の私信が開封されて英訳されたりしていたことなど、これは超機密の極秘事項だったので、多くの国民が知る由もなかった、というのが実情でしょう。

 本書では、その実体について、的確に教授してくれます。まず、敗戦後の日本を支配下占領軍GHQ(General Headquarters、連合国軍最高司令部)内で諜報、検閲を扱う総本部はG-2(参謀第2部)と呼ばれ、そのトップは、マッカーサーの忠臣チャールズ・ウィロビーでした。そのG-2の傘下には民事を扱うCIS(民間諜報部)と軍事・刑事を扱うCIC(対敵諜報部)が置かれ、このCISに属していたのがCCD(Civil Censorship Detachment、民間検閲局)でした。

 CCDには、郵便、電信、電話の検閲を行う通信部門(Communications)と、新聞、出版、映画、放送等を検閲するPPB(Press, Pictorial &Broadcasting)部門がありました。検閲対象については、例えば、1948年6,9月のリストでは郵便部門が75%と全体の4分の3を占めていました。つまり、GHQは、右翼、左翼の大物も含めて、日本国民の占領軍に対する「庶民感情」を一番知りたかったことになりますね。支配者として、統治の基準を暗中模索で探っていたか、問題人物は刑務所にぶち込むなどしていたのでしょうね。

 日本人検閲官は、かなりの高給で採用されたことを本書で初めて知りましたが、GHQのポケットマネーで給与が支払われたわけではなく、日本政府が賠償金代わりに負担させられていたというのです。まさに、踏んだり蹴ったりですね。

 江藤淳が追及していた当時は分からなかった日本人検閲官については、ほんの一部ながら、本人による手記などで分かってきています。2月27日の諜報研究会のオンライン講座で話題になった進歩派知識人の代表である劇作家の木下順二もその可能性大ですが、後に推理小説の大家となる鮎川哲也(1919~2002)は、「うしろめたい仕事だった」と回想し、ロッキード事件などの追及で「国会の爆弾男」の異名を持った楢崎弥之助(1920~2012、元衆院議員)も、福岡のCCDで検閲に携わった体験談を残しています。

 日本人検閲官は、英語の出来る東大や津田塾大などの若い学生が多かったようですが、興味深かったのは高齢者雇用です。例えば、斎藤玉男という人は、東大医学部を卒業した精神科医で、「智恵子抄」の高村智恵子が入院したゼームス坂病院を開設したり、東京府立松沢病院副院長などを歴任しながら、戦後は職がなく、猛烈な食糧難とインフレに悩まされていたことから、1948年にCCDに採用されます。斎藤は1880年生まれなので、この時、68歳です。他にも高齢者採用の中に、元大学教授や元外交官らエリート層がいましたが、著者の山本氏は「人生50年と言われた当時の60歳代は現在の90歳代に相当するだろう」と書いています。

参謀本部の高級幕僚は売国奴に

 検閲以外で、著者の山本氏が最も糾弾しているのが、有末精三中将や服部卓四郎大佐といった戦時中の参謀本部の高級幕僚だった元軍人で、彼らは専門知識を旧敵国に最高値で売り込み、占領の手助けをしたというのです。山本氏は「売国奴以外の何者でもない」と書いてますが、その通りですね。戦後直後の占領期には、帝銀事件、下山国鉄総裁事件、三鷹事件、松川事件などといった「陰謀事件」が多発し、キャノン機関による工作などGHQの影もちらついています。

 私自身、最近、戦国時代に夢中になって、少しだけ近現代史から遠ざかっていましたが、まだまだ勉強が足りないと実感しました。

占領期の検閲問題=三浦義一論文も削除、木下順二は検閲官だった?-第34回諜報研究会

Pleine lune, le samedi 27 fevrier Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨日27日(土)は第34回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研共催)にオンラインで参加しました。ZOOM参加は二度目ですが、どうも苦手ですね。どこか後ろめたい気持ちになり(笑)、こちらの機器と体調の関係で聞き逃したり、聞き取りにくかったりして、どうもいかんばい。あまりご参考にならないかもしれませんが、印象に残ったことを少しだけ翻案して書き留めておきます。

 報告者はお二人で、最初は短歌雑誌「まひる野」運営・編集委員の中根誠氏で、演題は「GHQの短歌雑誌検閲」。同氏には「プレス・コードの影ーGHQの短歌雑誌検閲の実態」(2020年、短歌研究者)という著作があり、今回の諜報研究会司会者の加藤哲郎一橋大名誉教授も「占領下の検閲で、短歌のジャンルでの研究は恐らく初めて」と発言されておりましたが、私も全く知らないことばかりでした。

◇右翼から左翼まで幅広く

 この中で、GHQは、短歌雑誌を(1)right (右翼)(2)left(左翼)(3)center(中道)(4)conservative(保守的)(5)liberal(自由主義的)(6)radical(急進的)ーの6種類に分類して検閲したことを知りました。

 例えば、(1)の右翼に当たる短歌雑誌「不二」の場合、国粋主義的、天皇の神格化・擁護、神道主義的、軍国主義的などの理由で、何首も雑誌掲載が削除されています。この雑誌の昭和22年4月号に掲載される予定だった右翼界の大立者で、後に「室町将軍」と畏怖されたあの三浦義一氏の「璞草堂残筆」という論文もdelete ではなく、suppressedという強い表現で全面削除されている資料写真を見たときは、感慨深いものがありました。

(2)の左翼的雑誌として代表される「人民短歌」の場合、共産主義の宣伝、連合国軍司令部批判、検閲への言及などで何首も削除されています。

 この他、「フラタナイゼーション」といって、米兵が占領国民と交わる場面を詠んだ短歌も削除の対象になっています。(前島弘「町角に進駐兵と語る女の顔の堪へがたき卑屈さ」=「日本短歌」)

 私は右翼でも左翼でもありませんが、こうして見ると、占領軍の容赦ない一方的な傲慢さが垣間見えると同時に、GHQは占領を「正当化」するのに必死で、民衆の反乱を抑えるのに苦心惨憺だったということが惻隠されます。(極めてマイルドに表現しました)

2・26事件で襲撃された東京朝日新聞社の85年経った跡地に建つ有楽町マリオン=2021年2月26日

 続く報告者は、インテリジェンス研究所理事長の山本武利氏で、演題は「秘密機関CCDの正体研究ー日本人検閲官はどう利用されたか」でした。山本氏は最近、「検閲官ー発見されたGHQ名簿」(新潮新書)を上梓されたばかりで、この本に沿って講演されておりましたが、小生はまだ未読だったため、残念ながら質問すらできませんでした。ということで、この後は、自分の疑問も含めた中途半端な書き方になってしまうことを御了承くだされ。

◇木下順二は検閲官だのか?

 まず、CCDというのはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)内に設立された秘密機関「民間検閲局」のことで、2万人余の日本人を使ってメディアや郵便、通信などの検閲を行っていたところです(第4区と呼ばれた朝鮮半島南部では朝鮮出身者を採用)。山本氏は「検閲で動員されるのは英語リテラシーのある知的エリートで、彼らは戦争直後の食糧難と生活苦から逃れるためにCCDに検閲官として雇用され、旧敵国のために自国民の秘密を暴く役割を演じた」と断罪されておりました。当時の検閲者名簿リストを入手し、この中に、Kinoshita Junji(1946年11月~49年9月、試験で90点の高成績) という名前があり、「夕鶴」で知られる著名な劇作家木下順二ではないか、と、先程の著書「検閲官」の中でも問題提起されており、今回もその衝撃的な発言をされておりました。

 木下順二本人は、著作の中ではGHQとの関係について、一切書いていないので、別人説もあり、山本氏も「百パーセント確実な証拠はない」としながらも、木下順二と関係が深かった出版社の未来社の関係者や木下順二の養女らから山本氏が直接聞いた証言(中野好夫の紹介でCCDで働いていた)などから、「本人ではないか」と結論付けておりました。

 講演の後の質疑応答で、「木下順二の世界」などの著作がある演劇研究家の井上理恵氏から「木下は熊本のかなり古い惣庄屋の出で、裕福だったので、生活苦などで協力するのは考えられない。当時は『オセロ』の翻訳が終わり、自分の作品を書いている時期で、生活が大変だったとは思えないし、関係者の証言もどこまで信用できるかどうか…。これから私自身も調べていきます」などと発言されていました。

Mont Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 このほか、CCDは、「ウオッチ・リスト」といって右翼、左翼かかわらず「要注意人物」のブラックリストを作って、彼らの郵便物や通信を監視していたようですが、私自身が興味を持ったのはメディア検閲でした。全国に検閲場所があったようですが、大阪では朝日新聞大阪本社がその会場だったとは驚きでした。朝日新聞社自体はその事実に関してはいまだ非公表を貫いているようですが、朝日の社員も検閲に協力していたということなんでしょうか?

 東京での新聞雑誌などメディア検閲の場所は、日比谷の市政会館だったようです。ここは、戦中の国策通信社である同盟通信が入居していた所で、戦後すぐに同盟が解散して、占領期は共同通信社と時事通信社が同居していた時期に当たります。ということは、英語ができる共同と時事の社員もGHQの検閲に協力していた可能性があります。これらは、後で、質問すればよかったかな、と思ったことでした。

【追記】

早速、山本武利理事長からメールが送られて来まして、朝日新聞も共同、時事両通信社も場所を提供しただけで、社員による検閲はなかったのではないか、という御見解でした。

 東京の市政会館には全国紙だけでなく、全ての地方新聞が集まって来ますし、大阪の朝日新聞にも相当数の新聞雑誌が集まってくるので、GHQの CCDにとっては、メディアを検閲するのに大変都合が良かったので、もしかしたら半ば強制的に選んだのかもしれません。

とはいえ、新聞社、通信社側も同じビル内なので、何らかのメリットが色々あったのではないか、というのが山本理事長の推測でした。

 

「新疆ウイグル自治区の現代史」と「感染症と情報と危機管理」=インテリジェンス研究所主催「諜報研究会」を初めてZoom聴講

Tokyo landscape Copyright par Duc de Matsuoqua

◇「Zoom会議」初体験

 土曜日、生まれて初めて「Zoom会議」なるものに参加しました。インテリジェンス研究所(山本武利理事長)主催の「第33回 諜報研究会」の講演です。

 参加、とは言っても、聴講といいますか、舞台のそでからそっと覗き見するような感じでしたが…。でも、割合簡単に聴講できました。iPadにZoomのアプリをダウンロードし、主催者から送られてきたメールの「ミーティングに参加する」というタッグをクリックしただけで、簡単に繋がりました。

 新型コロナの影響で、同研究所の講演会はもう一年近くZoomで開催されていましたが、私の場合、長時間に耐える家のWi-Fi環境が整っていなかったため、見合わせておりました。今回参加できたのは、携帯スマホを楽天モバイルに換え、これは無制限にデータが使えてテザリングを利用すれば、パソコンなどに繋がることも分かり、早速試してみたのでした。

 今時の大学生は、ほとんどこうしたオンライン授業が主流になった、と聞いてますが、やはり、講義は「生の舞台」には劣りますね。ま、言ってみれば、歌舞伎の舞台中継をテレビで見ているようなものです。

◇複雑な新疆ウイグル自治区の成立

 肝心の講演ですが、お二人の講師が登壇しました。最初は、東大先端科学技術研究センターの田中周(あまね)特任研究員による「新疆における中国共産党の国家建設:1949-1954年の軍事的側面を中心に」で、もう一人は、加藤哲郎一橋大学名誉教授で、「パンデミックとインテリジェンス」のタイトルで、実に複雑な奥深い、そして何よりも大変難解な講義をされておりました。

 最初の田中氏の新疆ウイグル自治区の「歴史」は、全く知らないことばかりでした。新疆ウイグル自治区といえば、イスラム教のウイグル族が住む地区で、最近では、米トランプ政権のポンペオ国務長官が「中国政府はウイグル族に対してジェノサイド(集団虐殺)を犯している」と非難し、次のバイデン政権のブリンケン国務長官も同意を表明して、俄然、世界的にも注目されていることは皆様ご案内の通り。

 田中氏の講演は、1949年~54年の中国共産党政権による”新疆併合””の話が中心で、そこに、ソ連スターリンの意向や、毛沢東や周恩来は新疆を早く「併合」したくても、他の地域との戦闘などでなかなか進出できなかった(毛沢東の実弟毛沢民は、新疆のウルムチで暗殺された)ことや、新疆地区内部にも共産党派と反共派と国民党派などが複雑に絡み合っていたことなどを初めて知りました。

 確か、中国には56の民族があり、宗教も違えば文化も言語も違います。広大な面積の全土を「統一」することは至難の業です。中国共産党が新疆ウイグル自治区を何よりも欲しかったのは、同地区には「白と黒」の経済の要(かなめ)があったという話が一番興味深かったでした。白とは綿花で、黒とは石油のことです。

◇核実験の場になった新疆

 そして、何よりも、ある参加者が「質問コーナー」で指摘されておりましたが、1960年の中ソ対立をきっかけに、中国共産党は核武装に踏み切り、その核実験を行ったのが、この新疆ウイグル自治区だったというのです。その質問者の方々らは、2011年の東日本大震災と福島原発事故の後、密かに放射能測定器を持参してこの地区に入ったところ、いまだに福島のホットスポットより高い放射能の測定反応があったという話には驚いてしまいました。

◇旧内務省官僚の復活

 続く、加藤一橋大名誉教授による「パンデミックとインテリジェンス」は、映画「スパイの妻」や731石井細菌部隊の話あり、スパイ・ゾルゲ事件の話あり、太田耐造ら「思想検察」を中心にした戦時治安維持の話あり、戦後も、旧内務省官僚の復活と再編を目論むような危機管理と国家安全保障体制の話(今、菅首相と最も頻繁に面会しているのは警察官僚出身の北村滋・内閣情報官=1956年12月生まれ、東大法学部卒、1980年警察庁入庁=であること)などあり、あまりにも複雑多岐に渡り、勿論、いずれも共通の「糸」で繋がりますが、ちょっと一言でまとめるには私の能力の限界を越えておりました。

◇世界でも遅れている日本の感染症対策

 ただ、一つ、特筆したいことは、今の新型コロナウイルス感染症対策の専門家会議の主要メンバーは、国立感染症研究所(⇦伝染病研究所)、医療センター(⇐陸軍病院)、慈恵医大(⇦海軍病院)関係者らが含まれているとはいえ、感染症研究については、日本は戦後、がん研究やゲノム分析の方に人材や資源を投入したため、大幅に予算も削減され、先端研究の面で大きく世界から取り残されてしまったという事実です。

 ですから、日本先導のワクチン開発がなかなか進まなかったという指摘には大いにうなずかされました。