何度も戦場になったウクライナの悲劇=山崎雅弘著「第二次世界大戦秘史」を読んで

 もう半年近く、山崎雅弘著「第二次世界大戦秘史」(朝日新聞出版)を少しずつ読んでいます。正直、一気にバーと読めないのです。書かれている内容があまりにも重すぎて前に進めなくなったりするからです。戦死者やシベリア流刑者らの数字だけはボンボン出て来ますが、そんな数字でも、れっきとした生身の人間で、理不尽な死に方をされた人ばかりですから、彼らの怨嗟と怨霊が見え隠れして、やり切れなくなります。

 副題に「周辺国から解く独ソ英仏の知られざる暗躍」とあります。我々は、第二次世界大戦について、歴史の教科書に載ってはいても、授業はそこまで進まず終わってしまいます。となると、自分で勉強するしかありません。それでも、大抵の第二次世界大戦史は、独、ソ、英、仏、米が中心で主役の書き方になっていて、彼らによって苦しめられたポーランド(犠牲者520万人)やチェコ、ハンガリーやフィンランドやノルウエー、バルト三国などについて詳述された歴史書は多くはありません。その点、この本は、画期的な本として学ぶべきことが沢山あります。

 初版は2022年2月28日になっていますから、著者は、当然のことながら、同年2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻については知らずに出版しました。それでも、まるで「予言」するかのように、本書ではウクライナの悲劇の歴史にも触れています。

  私自身の個人的な大胆な感想ではありますが、ヨーロッパは地続きですから、欧州諸国は、絶えず戦争をして領地を獲得し、戦争の度に国境が変わってきた歴史だったと言えます。弱肉強食で強力な国家しか生き残れないという歴史です。21世紀にもなって、何でロシアがウクライナに侵攻したのか理解できませんでしたが、プーチン大統領は、過去の歴史の顰に倣っただけで、彼は、戦争で勝てばいくらでも領地は分捕ることが出来て、国境なんかすぐ変更できると思っているのではないでしょうか。

 ウクライナは、大雑把に言えば、12世紀から14世紀にかけて栄えたキエフ公国に遡ることができます。ウクライナは20世紀になってソ連邦に組み込まれ、ロシアとの結びつきだけが強いイメージがありますが、一時は、後から出来たモスクワ公国より勢力が大きかった時期もありました。それが弱体化して、外国勢力に組み込まれます。14~15世紀は、リトアニア大公国の領土となります。リトアニアといえば、ソ連邦に組み込まれたバルト三国の一つで、小国のイメージがありましたが、その当時は、同じカトリック教徒が多いポーランド王国と結びついて領土拡大し、今のベラルーシやロシア西部まで勢力圏に含んでいたといいます。

五島列島 Copyright par Tamano Y

 リトアニアで驚いていたら、第二次世界大戦中は、一時期、ウクライナ南部はルーマニアの領土になっていたこともあったのです。ナチス・ドイツと結びついたルーマニア軍は1941年7月1日にウクライナ領などに侵攻し、10月にはオデーサ(オデッサ)が陥落。ルーマニア政府はヒトラーの承認を得て、オデーサをアントネスク市に改名するのです。親ナチ派のイオン・アントネスク大将の名前から取ったものです。ルーマニアは、同市を含むウクライナ南西一帯を「トランスニストリア」と称して自国領に編入します。

 1941年6月22日、ドイツはソ連との不可侵条約を一方的に破棄して、ソ連への軍事侵攻を開始します(バルバロッサ作戦)。この時、ソ連領であるウクライナも戦場になりました。キーウ(キエフ)もハルキウ(ハリコフ)も被害を受けます。語弊を恐れずに言えば、ウクライナが戦場になったのは、ロシア軍による侵攻という今に始まったわけではなかったんですね。先の大戦でも、中世でも多くの血が流されていたということです。

 ウクライナは肥沃な穀倉地帯ですから、敵国としては戦略として欠かせない領土だったのでしょう。

 繰り返すようですが、欧州は陸続きで、色んな民族が群雄割拠していますから、戦争によって、領土を拡大し、国境を変更していくことは特別ではなく、日常茶飯事だったことがこの本を読んで分かりました。

 歴史は学ばなければいけませんね。

討ち入り、拷問、切腹、暗殺の世界=永倉新八著「新撰組顛末記」

唐津の叔母が京都に旅行し、新選組が駐屯した壬生寺も参拝したらしく、お土産に永倉新八著「新撰組顛末記」(新人物文庫)を買い、郵便で送ってくれました。

 突然で、何の前触れもなかったので吃驚です。ちょうど、8月15日付の渓流斎ブログで、日暮高則著「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」(コスミック・時代文庫)を取り上げたばかりだったので、何か「偶然の一致」を感じました。こちらは、小説で、永倉新八が島原の芸妓小常との間に出来た娘の磯探しがプロットの中心になっていましたが、「新撰組顛末記」の方は、ノンフィクションといいますか、回想記です。映画やテレビや小説の新選組ものの「種本」としても有名です。

 幕末に新選組二番組長として活躍した剣豪・永倉新八は、近藤勇や土方歳三らとは違い、明治を越えて大正時代まで生き延びました。その最晩年に、北海道の小樽新聞社会部記者の加藤眠柳と吉島力の取材を受けて、新聞連載され、後にまとめられたのがこの「顛末記」です。時代の証言者の回想録ですから、面白くないわけありません。

 ちなみに、新選組隊士本人の「聞き書き」の回想録は、昭和13年まで生き延びた池田七三郎(稗田 利八)を取材した当時東京日日新聞記者だった子母澤寛の「新選組聞書(稗田利八翁思出話)」などもあります。

 「新撰組顛末記」は、以前から読みたいと思っておりました。永倉新八の回想録ですが、小樽新聞の記者の書き方は、主語が「私」や「拙者」などではなく、「永倉新八」と他人行儀になっています(笑)。歴史の証言として客観的に残したいという表れなのかもしれません。また、江戸での清川(清河)八郎暗殺事件など、永倉新八自身が現場で立ち合っていないことも書かれているので、「新撰組通史」として残したいという永倉新八と記者の信念が伺われます。

五島列島 Copyright par Tamano Y

 有名な「池田屋事件」(1864年)では、永倉新八は、近藤勇、沖田総司、藤堂平助らとともに、最前線で斬り込みに立ち合ったので、その描写が生々しい。

 敵(長州の志士)は大上段にふりかぶって「エイッ」と斬りおろすを、青眼にかまえた永倉はハッとそれを引き外して、「お胴ッ」と斬り込むと敵は、ワッと声をあげてそのままうち倒れたので、さらに一太刀を加えて即死せしめ、再び縁側にかけ戻り、敵やあるとみるまにまたもひとりの志士が表口へ飛び込んでいくと、待ち構えた谷の槍先に突かれてあとずさりするところを追っかけていった永倉が一刀のもとに切り殺す。

 いやはや、今から158年前の出来事です。他に拷問あり、斬首あり、切腹あり、作り物ではなく史実なので、読むと胸が痛くなる場面が出て来ます。

◇◇◇◇◇

 相変わらず、ブッキッシュな生活です。他に読む本が沢山あるのに、面白いので、ついこの本を取ってしまいました。

 それにしても、自分は何でこうも真面目なんでしょう? 本ばかり読んでいるので、また温泉にでも行って静養したくなりました。

【追記】①

 143ページに、後に「油小路事件」で暗殺される新選組参謀・伊東甲子太郎が「もともと常陸水戸のわかれ宍戸藩士で鈴木姓を名乗っていた」と書かれていたので吃驚しました。伊東は、常陸志築藩士だったという説もありますが、もし、宍戸藩士だったとすると、最近知った驚くべき事実があるからです。

 それは、幕末の宍戸藩主(九代)は松平頼徳(よりのり)と言いますが、この人、天狗党の乱の鎮圧に失敗し、幕府からその責任を取らされて切腹した藩主でした。この頼徳の妹・高の曾孫に当たるのが平岡公威、そう、あの割腹自殺した作家の三島由紀夫だというのです。

 三島には、御先祖さまの血縁者に、切腹した藩主がいたとは、驚くほかありません。

【追記】②2022年9月1日読了

  何ともまあ、とてつもない時代を生き抜いた男の生涯でした。神道無念流の剣の達人。新選組では、沖田総司、斎藤一と並ぶ「三羽烏」と呼ばれた男。

 本文の最後の方に「死生のあいだをくぐること百余回、おもえば生存するのがふしぎなくらいの身を、大正の聖代まで生きのびて」と永倉新八は振り返っています。自分自身は、浪士組内部闘争、新選組内権力闘争、禁門の変、鳥羽伏見の戦い、甲州鎮撫、会津転戦と100回以上も生きるか死ぬかの戦闘場面に出くわしながら、辛うじて生き延び、その一方で、その途中で、新選組の近藤勇、沖田総司、土方歳三、原田左之助、靖兵隊の芳賀宜道、米沢藩の雲井竜雄といった「同志」をほとんど亡くしてしまったわけですから。

 日本の歴史上、こんな波乱万丈の生涯を送った人も稀でしょう。でも、永倉新八が生き延びたおかげで、明治新政府により、「憎き敵」であり、乱暴狼藉の悪辣集団の汚名と烙印を押されていた新選組の名誉を回復した功績は長く語り継がれることでしょう。

「自己肯定感が上がる人と付き合う」べきです

「歴史道」(朝日新聞出版)の最新号、第22巻「第二次世界大戦の真実」特集を読んでいます。

 第二次世界大戦は、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことで開始された、と歴史の教科書で習います。しかし、どうもそれだけでは「真実」は解明されないようです。

 同誌を読んでいると、この独軍がポーランド侵攻する1週間前の8月23日に締結された「独ソ不可侵条約」が戦争の元だということが分かってきます。これは、ドイツとソ連が結託して、ポーランドを分割しようという秘密条約だったからです。案の定、ソ連は、ドイツ侵攻の約2週間後の9月17日にポーランドに侵攻し、ドイツと協定した分割線までハゲタカのように獲物を食い尽くしています。(独ソ不可侵条約は1941年6月22日にドイツが一方的に破棄し、独ソ戦が開始されます。)

 ということは、第二次世界大戦を始めた張本人はドイツのヒトラー一人だけというのは、大間違いで、ソ連のスターリンも一枚絡んでいた、というのが史実になります。日本では戦後民主主義教育によって、ソ連や社会主義が美化されて理想の国家のような幻想を抱かされた時期がありましたが、シベリア抑留の例を見ても、ソ連・ロシアはとんでもない国だと認識するべきだというのが普通の日本人の感覚です。21世紀になって、ロシアはウクライナに侵攻し、相も変らぬ蛮行を行ったので、すっかり「理想国家」の化けの皮が剥げてしまいましたから、今やロシアを擁護・美化する日本人は少なくなったと言えます。

北海道十勝 Copyright par Tamano Y

 世界史上、最大最悪のヒールを一人挙げろ、と言われれば、恐らく多くの人はナチスのヒトラーを挙げることでしょう。この本でも多くのことがヒトラーのことでページが割かれています。でも、自分自身が年を取ってみると、意外にもヒトラーは随分若かったことに気付き、驚かされます。1945年5月のベルリン陥落でヒトラーが自決したのは56歳。まだ、56歳と言いたいぐらい若かったんですね。何しろ、1933年1月、ヒトラーが首相の指名を受けたのは43歳の時でした。日本の岸田文雄首相が総理大臣に指名されたのが64歳ですから、如何に若いか分かります。ヒトラー絶頂期のベルリン五輪が開催された1936年8月の時点で、まだ47歳だったんですか…。レニ・リーフェンシュタールが残した映像を見ても60歳ぐらいに見えます。

 そう言えば、第二次世界大戦の米国の英雄ルーズベルト大統領はかなり高齢に見えましたが、病死したのは63歳だったんですね。日本を見ると、自決した近衛文麿は54歳、処刑された山下奉文は60歳、東条英機さえ63歳の「若さ」でした。

 高齢者になって見ると、こんな若者が戦争を指導してきたのか、という驚きの感慨です。

北海道 白髪の滝 Copyright par Tamano Y

 何が言いたいのかと言いますと、善悪の話は置いといて、子どもの頃にお爺さんに見えた歴史上の人物の年齢を超えると、どうも無力感というか自己嫌悪と自己否定に襲われてしまうのです。中原中也のように「お前は一体何をしてきたのだ」という思いに駆られてしまうのです。

 そんな時、新聞(日経 8月23日付朝刊)を読んでいたら、加藤俊徳著「脳の名医が教えるすごい自己肯定感」(クロスメディア・パブリッシング、1628円)という本の広告が目に飛び込んで来ました。この広告を読むと、「自尊感情」を高める脳の習慣として、

・1日「ほめ言葉」でしめる

・「朝散歩」を毎日する

・自己肯定感が上がる人と付き合う

 …などということが書かれていました。

 あれっ?この広告を読んだだけで、この本全部を読んでしまった気になってしまいました(笑)。そう言えば、私は、ほんの1人か2人ですが、私のことを否定するような人でも付き合ってきました。いけない、いけない。駄目ですねえ。しっかり、そんな交友関係は清算して、これからは「自己肯定感が上がる人と付き合う」べきですね(笑)。

 これは私だけではなく、皆さんにも同じことが言えるんじゃないでしょうか?

戦後ジャズブームに日本敗戦と米軍占領が欠かせない

 NHKの回し者ではありませんが、今夏のテレビの戦記物特集は、やはり、NHKが量質ともに圧倒して見応え十分でした。特に8月6日放送の「侍従長が見た 昭和天皇と戦争」(元海軍大将の百武三郎侍従長の「側近録」)と8月15日放送の「ビルマ 絶望の戦場」(牟田口廉也司令官によるインパール作戦失敗と敵前逃亡。ビルマ戦線での戦死者総計16万5000人。幹部連中のみ夜ごと芸者を揚げての宴会三昧。木村兵太郎ビルマ方面軍司令官の兵士置き去り敵前逃亡。商社日綿ラングーン支店長に「あとは宜しく」)は圧巻でした。

 それに比べ民放は…。タレントを露出して有名にして、有名を「信用」と錯覚・洗脳させ、CMに出演させてモノを売って稼ぐ「電波貸し」ビジネスに忙しく、視聴率の取れない戦記物なんぞ、やるだけ無駄といった感じでした。

東銀座「エッセンス」 アジフライ定食1200円+アイスコーヒー=1300円

 NHKはラヂオも充実していて、今、スマホアプリ「らじる★らじる」の「聴き逃しサービス」で、カルチャーラジオ 日曜カルチャー「クレイジーキャッツの音楽史」(全4回)にハマっています。お話は、音楽評論家の佐藤利明さん。この方、1963年生まれということですから、60年代のクレイジ―キャッツの全盛期をほとんど知らないはずなのに、今は音源も映画DVDもYouTubeもありますから、「遅れて来た青年」として追体験し、異様な執念でクレイジーキャッツの全てを調べあげています。(生前のメンバーにもインタビューしています)

 私は、50年代生まれですから、クレイジーキャッツ全盛期のど真ん中で、「シャボン玉ホリデー」や映画「無責任男」シリーズで育ったようなものです。それでも、佐藤さんの話を聞いていると、知らなかったことばかりで、「さすが音楽評論家」と感心したものです。

 クレイジーキャッツは、コミックバンドではありますが、もともとは正真正銘のジャズマンです。しかも、メンバーは大卒のインテリが多く、中には東京芸術大学(安田伸、64歳没)や早稲田大政経学部(桜井センリ、86歳没)出身者もいます。植木等は三重県の寺の住職の子息(父徹誠は、真宗大谷派僧侶で、戦時中、戦争反対を訴え、何度も投獄された)で東洋大卒。普段の人柄は、ニコリともしない超真面目人間だったというのは有名です。

 クレイジーキャッツは当初、キューバン・キャッツとして、1955年4月、萩原哲晶(ひろあき)とデューク・セプテットのハナ肇(工学院土木科中退、63歳没)と犬塚弘(徳川家康直参の旗本の家柄。文化学院卒、現在93歳)が中心になって結成されますが、メンバーの入れ替えを経て、1957年までにフランキー堺とシティースリッカーズの谷敬(後に谷啓、中大中退、78歳没)と植木正(等、80歳没)らも加わり、1960年には石橋エーターロー(青木繁の孫、福田蘭童の子息、東洋音楽学校卒、66歳没)が結核療養で代役となった桜井センリを加え、7人のメンバーが固定します。

 クレイジーキャッツの最大のヒット曲は「スーダラ節」ですが、作詞が青島幸男(早大卒、74歳没)、作曲がクラリネット奏者だった萩原哲晶(東京音楽学校、後の東京芸大出身、58歳没)。この名コンビが、クレイジーキャッツの名曲を生みだします。ミュージシャンの大瀧詠一が「クレイジーキャッツは日本のビートルズだ」と評したらしいですが、ロックとコミック音楽とジャンルは違っても1960年代を代表するミュージシャンとしては共通したものがあります。となると、青島幸男=萩原哲晶はレノン=マッカートニーみたいなものと言えるかもしれません。(「無責任一代男」「ハイそれまでよ」「ゴマスリ行進曲」などはこのコンビ。萩原哲晶は、前田武彦作詞で「エイトマンの唄」まで作曲していたとは!)

 佐藤利明さんの「クレイジーキャッツの音楽史」が何で面白いのかと言いますと、単なる音楽史に留まらず、戦後文化史になっているからです。何で、戦後になって、日本にジャズブームが起きたのか? 一言で言えば、日本が戦争で負け、米軍に占領されたからです。米軍は兵士の慰問のため、北海道から沖縄まで、駐留米軍基地に娯楽施設を作りました。そこでジャズを演奏すると、高額なギャラが貰えるということで、若者が楽器を習得して殺到します。その中で、メキメキと腕をあげてプロになる若者も出ます。クレイジーキャッツはその代表かもしれませんが、テナーサックスの松本英彦、原信夫とシャープ&フラットや萩原哲晶とデューク・オクテットなど米軍基地にお世話にならなかったバンドはありません。アイドルグループ「ジャニーズ」をつくったジャニ―喜多川もそうですし、後に裏方のプラダクションに回って「ナベプロ」を創業する渡辺晋(とシックス・ジョーンズ)らもそうです。

 その渡辺晋がナベプロをつくったきっかけは、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効されたため、日本駐留の米軍基地が縮小されたためでした。同時に娯楽施設も封鎖され、日本人のジャズマンも基地での仕事を失うようになったからだというのです。

 この話を聞いて、「なるほどなあ」と思いました。日本の戦後音楽史には、敗戦と占領期の米軍進駐とジャズが欠かせなかったという話には、実に、目から鱗が落ちるような思いでした。日本は戦時中は、敵性音楽は禁止していましたからね。もし、日本が勝っていたら、浪花節と都々逸と軍艦マーチの世界だったかもしれません。

銀座、ちょっと気になるスポット(6)=新橋停車場跡と幻の凱旋門

 銀座、と銘打ちながら、またまた銀座からちょっと離れた新橋のスポットです。でも、私の銀座にある会社から歩いていける距離にありますからいいじゃないですか(笑)。

旧新橋停車場 開業150年

 明治5年に開業した新橋停車場跡です。昔はこんな立派な「復元建物」はなかったのですが、2003年に、こんな豪勢な駅舎が「復活」しました。

 明治にこの新橋停車場が開業したお蔭で、銀座への表玄関となり、横浜居留の外国人たちも次々と「文明開化」のシンボル・銀座に繰り出したということですから、ここも「気になる銀座のスポット」として十分通用することでしょう。

 不勉強な私は、40歳ぐらいまで日本最初の鉄道駅である新橋駅は、今のJR新橋駅だとばかり思っていたのですが、明治の新橋駅はそこから東へ650メートル程離れた、地名で言うと汐留にありました。今の汐留は、日本テレビや電通や共同通信などのマスコミの豪奢な高層ビルが林立しています。(電通本社ビルは3000億円で不動産会社に売却されたようですが)

新橋停車場 開業150年

 今年は、ちょうど鉄道開業150年ということで、この駅舎の跡に出来た「旧新橋停車場」内の「鉄道歴史展示室」で企画展が開催されています。主催は東日本鉄道文化財団ですから、JR東日本関連の建造物だったということが分かりました。

新橋停車場 開業150年

 何と言っても、驚くべきことは、日本最初の鉄道である新橋~横浜間(約29キロ)が開通したのは明治5年9月という事実です。明治維新からたった5年しか経っていないじゃありませんか! 欧米列強からの植民地化がよっぽど脅威だったのか、日本は「文明開化」「富国強兵」「脱亜入欧」をスローガンに、次々と西洋文明を取り入れます。

 この幕末~維新を経て、明治の時代に生きた人たちは余程バイタリティーがあったのか、「失われた30年」の現代人とは異質にさえ感じてしまいます。

 さて、この旧新橋停車場を今回、気になるスポットに選んだのは、またまたですが、「歴史人」9月号「連合艦隊の真実」特集を読んでいたからです。

 この中で、日露戦争で連合艦隊司令長官だった東郷平八郎が、ロシアとの日本海海戦で大勝利を収め、帰国した際、恐らく、鉄道で横浜からこの新橋停車場に降り立ちます。

 その新橋停車場広場の前に、間口は58尺(約18メートル)、奥行きは26尺(約8メートル)、軒の高さ42尺(約13メートル)。地面から最頂部までの高さは60尺(約18メートル)の「戦役記念陸海軍歓迎凱旋門」が建てられ、東郷大将以下軍人が戦勝パレードをし、大群衆が詰めかけたというのです。

「歴史人」9月号 「連合艦隊の真実」特集の東郷平八郎司令長官 下写真が新橋の凱旋門

 旧新橋停車場は、実は何度も行っていたので、それほど「気になるスポット」ではなかったのですが(笑)、この新橋停車場広場前にあった凱旋門がどこにあったのか、確かめたくて行ってみたのです。何か「記念碑」でもないかどうか、広場があった辺りを探したのですが、見つかりませんでした。停車場内の「鉄道歴史展示室」の受付にいた50歳ぐらいの男性にも聞きましたが、「凱旋門? 分かりませんねえ。知りません。広場の前は、昔は川が流れていたんじゃないでしょうか」と仰るのです。

 江戸切絵図で確かめてみたら、新橋停車場の前の広場の先は、川ではなく、江戸城のお堀がありました。明治になっても堀にはそのまま水が流れていたのでしょう。

 残念ながら、凱旋門跡の記念碑は見つかりませんでしたが、その代わりに、立派な「芝地区旧町名由来」の案内板がありました。

 それによると、江戸城のお堀は、明治には汐留川と呼ばれていたようです。凱旋門のことが何も書かれていないことが残念です。

 凱旋門は新橋だけではなく、日比谷や上野や浅草や麻布といった東京市内のほか、千葉県木更津などにも建てられたようですが、それぞれ史跡として記念碑があるのかどうか、少なくとも私は知りません。

 そう言えば、秋葉原の万世橋停車場前には、日露戦争で殉死した広瀬武夫中佐(「杉野は何処~♪」のあの旅順口攻防の広瀬中佐)の銅像がありましたが、GHQの命令により撤去されたようです。

 新橋の凱旋門も、もし残っていたとしたら、パリの凱旋門のように日本の「観光資源」になっていたのかもしれません。

 でも、凱旋門を残そうものなら、日本の軍国主義復活を危惧するマッカーサーが許しはしなかった、ということだったのでしょう。そう、勘繰りたくなりました。

77回目の終戦記念日に思ふ

 いつも渓流斎ブログを御愛読賜り、誠に有難う御座います。最近、驚くべきことに1日のアクセス数が「3000」台を達成することが多くなっております。普段は1日「300」とか多くても「500」ですので、「どないしたんやあ?」といった心境になります。

 よくよく調べたところ、今年1月17日に配信した「比企氏一族滅亡で生き延びた比企能本とその子孫の女優=『鎌倉殿の13人』」のアクセスが異様に多いことが分かりました。ということは、NHKの大河ドラマを御覧になっている方が、たまたま暇つぶしに検索したら、私のブログが出てきたということなのでしょう。まあ、「通りすがり」ということで、この異様なアクセス数も一過性だということが分かりました(笑)。

銀座「マトリキッチン」デザート

 昨日は8月15日。77回目の終戦記念日でした。戦後生まれが今や8割を超えるといいますから、ますます戦争体験者が減り、防衛費増強が叫ばれる中、今後の日本はどうなってしまうのか心配です。終戦記念日の昭和20年8月15日から77年経ち待ちましたが、昭和20年から見ると、77年前はちょうど明治維新の年、明治元年(1868年)なんですね。欧米列強に追いつけ追い越せという「富国強兵」策で、日本は、日清、日露、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争と戦争に明け暮れていました。

 この明治から昭和にかけての先人たちについて、後世の安全地帯にいる私が一方的に批判するつもりはありません。むしろ、あの19世紀から20世紀にかけての帝国主義、植民地主義で世界がしのぎを削っている中、日本が植民地化されないための苦肉の策の軍国主義はある程度、致し方なかったと思っています。当時最も尊敬された人物は軍人さんでしたからね。

 ただ、あの時代は「人権」思想がなかったのが問題です。東北の飢饉で娘が身売りされていたのは人身売買であり、いまだに奴隷制度が残存していたことになります。維新で、封建時代を打破できたと思ったら、明治以降は公侯伯子男の爵位のある身分社会が温存され、陸士・海兵を出たエリートだけが優遇される階級社会でしたので、一兵卒などは虫けら同然の扱いです。兵站(ロジスティックス)の概念すらなく、飲食物は「現地調達」にして補給がないので、戦死者の大半は餓死でした。ランチサンドにチョコレートまで付く恵まれた米兵とはえらい違いです。(インパール作戦の司令官牟田口廉也も、それに続くビルマ戦線の司令官木村兵太郎も、「あとは宜しく」と自分たちだけが飛行機に乗って戦場と白骨街道から脱出、いや逃亡しています。併せて16万5000人の戦死者を出したというのに)

 8月15日に終戦にはなりましたが、軍隊は即日解散されたわけではありません。9月2日に米戦艦ミズリー号降伏文書の調印でやっと全面的に武装解除されたと言えます。私の父は大学受験に失敗したため、17歳で志願して帝国陸軍の一兵卒になり、19歳になる2日前の18歳で終戦を迎えましたが、炊事当番だっため、1週間ほど上官の食事を作るために残された、と聞いたことがあります。戦争が終わっても特権階級から奴隷のように使役されたわけです。

新橋「奈良県物産館」 柿の葉寿司ランチ1200円

 大東亜共栄圏の高邁な理念と思想だけは、GHQと東京裁判が断罪するほど酷くはなかったのですが、統治する日本人のエートスが「強い者にはこびへつらい、弱者には虎の威を借りて傲岸不遜に振舞う」では、盟主としての資格は全くありません。迷惑を掛けたアジアの人々に対して反省だけでは足りないと思っています。(現地の人たちは、欧米列強から解放を謳いながら暴力で支配する日本よりもましだと欧米を選んだのです)

 日米開戦からわずか半年で、日本はミッドウェーで大敗し、それからは玉砕に次ぐ玉砕で、挙句の果てには鬼畜と見下していた外国人から歴史上初めて占領・支配される始末です。(開戦時、米国のGNPは日本の12倍もあったという無謀な戦争)日本史上最悪の時代でしたが、日本人は痛い目に遭わなければ分からない民族です。もし、連戦連勝だったら、今でも戦争を続けていたことでしょう。それは、ウクライナに侵攻したロシアを見れば分かります。

◇旅行キャンセルし、夏休み返上

 さて、目下、お盆休みとなり、私も今頃、日蓮宗の総本山身延山にお参りに行っていたところでした。しかし、コロナの第7波の感染が拡大して、感染者数も高止まりし、おまけに、先月7月は個人的に病気をして1週間も会社を休んでしまったことから、旅行はキャンセルしてしまいました。身延山のキャンセルは2年連続2度目です。

 ということで、夏休みは返上して、しっかり、出勤しております。

新橋「奈良県物産館」 かき氷950円

 あ、そう言えば、先日、このブログを読んでくださる都内にお住まいのNさんからは「もう一人の自分をつくられることが必要ではないですか」との助言も頂いたことを書きました。どうしようか、ずっと考えていたのですが、もう一人の自分は、何も日本人にすることに拘る必要はない。一層のこと、フランス人にしようということで、名前も考えました(笑)。

 François Hautchamp ( フランソワ・オウシャン)です。

 フランソワは、アッシジの聖フランチェスコに由来するらしいですが、フランス人にはよくある名前です。国王や、ラブレー(作家)、ミッテラン、オランド(大統領)もフランソワです。オウシャンは私の造語で、Hautは高い、champ は田んぼという意味です。オウシャンは、マルセル・デュシャンみたいでいいじゃないですか(笑)。

 もう一人の自分、フランソワ・オウシャンはバカロレア試験を控えた1970年代のリセの学生という設定です。これから、サルトル、カミュに加え、ポール・ヴァレリーやレヴィストロース、メルロー・ポンティー、アンリ・ベルクソン、ミシェル・フーコーらを読破しなければ、試験にすら臨めないといった状況です。

 パスカルを例に出さなくとも、人生はどうせ暇つぶしです。好きなことをすれば良いのですが、個人的に、今さら、「呑む、打つ、買う」にのめり込む年齢(とし)ではあるまいし、です。

 1970年代のフランス人の学生フランソワ・オウシャンがもう一人の自分…いいんじゃないでしょうか?!

 

書き下ろし長編時代小説「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」は力作です

 今年6月でもうFacebookのチェックはやめたのですが、大学と会社の先輩でもあった日暮高則氏から出版社を通して、拙宅に本が送られてきました。書き下ろし長編時代小説「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」(コスミック・時代文庫)という本です。

 あれっ? 日暮さんは今年2月25日に「板谷峠の死闘」(コスミック・時代文庫)を出版されたばかりで、私も早速購入して、この渓流斎ブログに「感想文」を書いたばかりなのに、もう新刊を発表されたんですか!?

 しかも長編です。相当前から何作か、書き溜めていたのかもしれません。

 文庫本なので2~3日で読めるかと思ったら、結局、読了するのに1週間以上掛かってしまいました。実は、私はこれでも「新選組フリーク」なので、ちゃんと史実に沿っているのかどうか、チェックしながら読んでいたからでした。嫌な性格ですねえ(笑)。

 いくら小説だからといって、あまりにも史実からかけ離れていると荒唐無稽で、興醒めしてしまいます。あの司馬遼太郎は、作品を書くのに、馴染みにしている神保町の高山書店から最低トラック1台分の書籍を購入して、膨大な資料を読み込んで執筆していたと言われていますから、たとえフィクションでも史実にそれほど逸脱しない、あれだけの物語が書けたのだと思います。

 そこで、この「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」はどうでしょう? 永倉新八はあまりにも有名です。物語の主軸になっている京都・遊郭島原の芸妓との間にできた娘探しや、明治24年の大津事件の犯人津田三蔵と永倉新八が出会っていたというのは、作者が長編小説に仕立てるために苦心したフィクションであることは明々白々なので、それらは良しとしましょう。

 永倉新八は松前藩江戸定府取次役の子息として生まれ、神道無念流の剣客に。近藤勇の天然理心流道場「試衛館」の食客になった縁で、新選組では二番組隊長に。あの池田屋事件では近藤勇らとともに正面から斬り込み、すっかり名を上げた剣士…。フムフムその通りです。新選組時代の朋友島田魁は、維新後も生き延びて京都・西本願寺の太鼓楼の寺男になっていた?…うーん、確かに史実はその通りです。藤堂平助は、伊勢藤堂藩主の御落胤だったという異説まできっちりと抑えています。著者は、新選組フリークが驚くほど、かなり細かく調べ尽くしています。

 でも、永倉新八が江戸で近藤勇らと別れた後、芳賀宜道らと幕臣らを集めて組織した隊のことを「靖共隊(せいへいたい)」と80ページに書かれていますが、これは「靖共隊(せいきょうたい」もしくは、「靖兵隊(せいへいたい)」の書き違いでしょう。また、永倉新八ら靖共隊が行軍途中で原田左之助と別行動を取ったのが、「小山付近」(81ページ)となっていますが、これも、「山崎宿(千葉県野田市)」の間違いではないでしょうか。

 あと、二つ、三つ、隊士の死因について、通説とは違うものが散見されましたが、通説を取らなかったということで済むかもしれませんが、194ページに「明治二十九年(一八九六年)は、…この時、日本は日清戦争の真っ最中」と書かれていますが、明らかに勘違いですね。日清戦争は1894~95年で、前年に終わっていますから。

 いやあ、今、校正の仕事もしているので、誤字脱字や事実関係について、つい過敏に反応してしまうのは、「職業病」なのです。意地悪ではないので、2刷になった時に訂正されたら良いと思います。

 というのも、この本は力作なので必ずや増刷されると思うからです。これから読まれる方の楽しみがなくなるので、内容については触れられませんが、元新選組の永倉新八と大津事件の津田三蔵に接点があったなどという発想は、誰にも出来るものではありません。それでいて、もし、老境を迎えた永倉新八が明治24年、その2年前に開通したばかりの鉄道(東海道線)に乗って京都に行き、芸妓小常との間に出来た娘磯を探しに行ったとしたら、その年に起きた大津事件の報道に身近で接していたことになり、もしかして津田三蔵にも会ったかもしれない、と読者に思わせることに成功しています。

 また、大阪堂島の米相場の先物売買についてもかなり調べて描写されています。

 新選組ファンでなくても、複雑な人物関係と物語の構成について、関心すると思います。日暮氏の作家としての力量がこの一冊で証明された、と私は思いました。

 【追記】2022年9月1日

 永倉新八の回想記「新撰組顛末記」(新人物文庫)の181ページに「永倉新八がかねてなじみを重ねていた島原遊郭内亀屋の芸奴小常が、かねて永倉の胤を宿していたがその年の7月6日に一女お磯を産んで…」とあります。また、229ページには「新撰組時代に京都でもうけた娘の磯子にあって親子の対面をする。磯子はそのころ女優となって尾上小亀と名のっていた。」とあります。

 小常も磯も実在人物だったことが分かります。

「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントにまたまた当選してしまいました

 にゃんとまあ、またまた、また、月刊誌「歴史人」(ABCアーク)の読者プレゼントに当選してしまいました。

 「歴史人」はここ数年、毎月買い続けて、毎月、読者プレゼントに応募しているので、いつだっけ? 何月号のプレゼントが当たったのかなあ、と思ったら、やはり8月号でした。

 しかも、上記写真の通り、「徳川家康公 御家紋 御花押」入りの彫刻グラスと「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトルの二つもです。

 えっ? 何で? 何かの間違いなのでは? いや、確かに間違いなんでしょうけど、開けてしまいましたし…この際、有難く拝受仕り候、ということで、そこんとこ宜しくです。

「徳川家康公 御家紋 御花押」入りの彫刻グラス

 欲しかった家康公のグラスでは、シーバスリーガルか、ジャック・ダニエルか、奄美大島の黒糖焼酎「里の曙」を家康公の気分になって、オン・ザ・ロックで飲むつもりです。

 「マイ・ボトル」は世の中に溢れていますが、「マイ・グラス」をお持ちの方はさぞかし少ないでしょう(笑)。

「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトル

 意外にも当選してしまった「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のクリアボトルは、うーん、何にしましょう? こちらなら返品しましょうか? ただし、御社が、返送用段ボールと郵送料を持って頂くという条件付きですよ(笑)。

 もし、こちらも当選品として受け取って良いなら、冷やした麦茶か何かを入れて、会社に持って行くことにしますか。

 そう言えば、私は「歴史人」は毎月購入して、このブログに「感想文」を書き、応募葉書にはいつも、酷い誤字脱字を指摘して、切磋琢磨されるよう叱咤激励しております。もしかしたら、私は「歴史人」の回し者に見られるかもしれませんが、単なる愛読者です。内容が良いので、いつも勉強させて頂いているだけで御座います。

 いずれにせよ、私を選んでいただいたABCアーク社の編集部か広告部か販売部か分かりませんけど、皆様、誠に有難う御座いました!

周恩来と日本=牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」

 牧久氏の最新作「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館、2022年8月1日初版、3300円)をやっと読了しました。

 後半も涙なしでは読めませんでした。前回のこのブログで、この本の主人公は清朝最後の皇帝で満洲国最初の皇帝だった溥儀だ、と書きましたが、もう一人、溥儀の実弟で日本人嵯峨侯爵の娘・浩(ひろ)と結婚した皇弟溥傑も忘れてはいけません。同格の主人公ではないか、と思いました。

 溥儀と溥傑は、日本と中国の懸け橋になることを望みながら、運命に翻弄され、日中戦争と太平洋戦争、そしてソ連軍侵攻、捕虜収容所生活、さらには文化革命での紅衛兵による突き上げという世界史上、例に見ない過酷な体験をします。王朝が崩壊すると、たとえ皇帝だったとはいっても、単なる下層庶民になだれ堕ち、地獄の人生が待ち受けていることが詳細に描かれています。

 まさに、筆舌に尽くしがたい体験です。どれもこれも、清朝の王家である愛新覚羅家に生まれてしまったという運命によるものでした。

 溥傑・浩夫妻の長女慧生(えいせい)は、実に不可解で驚愕の「天城山心中事件」(昭和32年12月)で亡くなります。行年19歳。父親の溥傑はいまだに中国の撫順戦犯管理所に収容されたまま。溥傑が、妻の浩と次女嫮生(こせい)に16年ぶりに中国で再会できたのは、それから4年後の昭和36年5月のことでした。

 いまだに日中間で国交のない時代に、家族の再会に尽力したのが周恩来首相でした。周総理はその後、元皇帝ということで病院をたらい回しにされていた溥儀の入院手続きまで面倒みたりします。

 周恩来は、若き日に日本に留学した経験があります。第一高等学校(現東大)と東京高等師範学校(現筑波大)の受験には失敗しますが、明治大学などで学び、マルクス主義などを知ったのも、日本の河上肇の著作を通してだったといいます。著者も書いている通り、周恩来は親日派とまで言えなかったかもしれませんが、知日派だったことは確かでした。でも、溥傑の日本人妻の浩さんのことを大変気に掛けたりしていたので、「日本びいき」だったかもしれません。

 私はこの本を読んで、中国人周恩来を見直すとともに、尊敬の念すら抱きました。毛沢東は大躍進運動と文化大革命で2000万人とも3000万人ともいわれる人民を殺害したと言われますから、とても比べようがありません。(周恩来は、文革の際、劉少奇粛清で毛沢東に協力したりしてますが)

 若き周恩来が日本留学時代によく通ったと言われる東京・神保町の上海料理店「漢陽楼」(1911年開業)にまた行きたくなりました。

 また、この牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館)は、出来るだけ多くの人に読んでもらい、中国寄りでも日本寄りでもなく、中立的な歴史を知ってもらいたいと思いました。

銀座、ちょっと気になるスポット(5)=国旗掲揚塔

 銀座という華やかなショッピング、飲食街の一角にどういうわけか、国旗掲揚塔があります。

銀座国旗掲揚塔

 銀座4丁目の三越百貨店から東銀座の歌舞伎座に向かう途中にありますが、目立たないのでほとんどの人は気が付かないで通り過ぎてしまうと思います。

 私も今年1月に「発見」しましたが、それまで、全く気が付きませんでした。

 現在も使われていると思いますが、個人的にまだ国旗が掲揚されている場面は見たことはありません。

銀座国旗掲揚塔奉賛会

 この塔を建てたのは「銀座國旗掲揚塔奉賛会」と、土台にプレートがありました。

皇太子殿下御降誕記念 京橋旭少年団 昭和9年5月

 漢字の旧字体から見て、戦前に建てられたと思われましたが、その通りでした。

 昭和9年5月に「皇太子殿下御降誕記念」として京橋旭少年団が建立したようです。

 皇太子殿下とは、現在の明仁上皇陛下のことで、昭和8年12月23日生まれですから、その5カ月後に建てられたことが分かります。

「京橋旭少年団員」 団長:会津半治

 京橋旭少年団の団員については、会津半治団長以下の名簿がずらりと記載したプレートもありました。ざっと70人近い人の名前が刻まれています。相談役や顧問の方もいるので、全員が少年ではないのかもしれません。

 京橋~は、銀座は昭和18年まで東京市京橋区だったので、そう命名されたのでしょう。

 国旗掲揚塔はここだけかと思いましたら、都内に結構多いことが分かりました。日本橋室町などには「皇太子殿下御成婚記念碑・国旗掲揚塔」があります。この皇太子殿下とはやはり、現在の明仁上皇陛下のことで、昭和34年4月10日、美智子さまとのご結婚を祝して、各地に国旗掲揚塔が建てられていました。

 他に代々木などにも国旗掲揚塔がありますが、これは昭和39年の東京オリンピック開催を記念して建てられたものです。正確に数えておりませんが、都内に結構あります。昨年(2021年)の二度目の東京五輪は盛り下がりましたから、国旗掲揚塔の建立はなかったのでは?

 おっ!「皇太子殿下御降誕記念・国旗掲揚塔」は他にもありました。渋谷区千駄ヶ谷、板橋区成増…。恐らく昭和9年に建立されたことでしょう。好事家でしたら、全て調べて本まで出すことでしょうけど、私はそこまで体力も気力もありましぇん。