日本史を書き換える新発見=NHKスペシャル「新・幕末史」

 10月16日(日)と23日(日)に放送されたNHKスペシャル「新・幕末史」はかなり見応えがありました。16日は 「第1集 幕府vs列強 全面戦争の危機」、23日は 「第2集 戊辰戦争 狙われた日本」というタイトルでした。2年前にも同様のシリーズで、戦国時代を取り上げて、日本史に留まらず、世界史的視野で、その同時代のスペインなどの列強国や宣教師たちがいかにして日本の植民地化を企んだりしていた事実がバチカンなどの資料から発見され、その斬新的な番組制作の手法に圧倒されました。

 今回も、英国国立公文書館のほか、当時のロシアやプロシア(ドイツ)などの列強の極秘文書が初めて公開され、幕末の戊辰戦争などが、単なる日本国内の内戦ではなく、英、仏、蘭、米、露、プロシアの列強諸国による分割植民地統治に発展しかねない事態まであったとは驚くばかりでした。

 私も、市井の幕末史好きですから、ある程度のことは知っておりました。徳川幕府方にはフランス(ロッシュ公使)、反幕の薩長方には英国(パークス公使)がついて、互いに武器と軍事顧問団を派遣して、英仏の代理戦争のようになっていたこと。大量殺戮が可能になった新兵器のガトリング砲などは米国の南北戦争で使用された「余りもの」だったこと…などは知っておりましたが、ロシアとプロシアの動向については盲点でした。

 ロシアは1853年のクリミア戦争で英国などに敗退すると、極東侵略政策に転換し、日本を植民地化しようと図ります。そのいい例が、対馬です。1861年にロシア海軍の拠点のような要塞を対馬につくり、半年間も駐在していたのです。それを外国奉行だった小栗忠順の粘り強い交渉と、英国の進出で辛うじて難を切り抜けたりしていたのです。明治になって、新政府は徳川幕府の弊害や無能論ばかり教育で教え込んできましたが、実際は、小栗上野介ら有能な幕閣がいたわけです。(21世紀になって、ロシアはウクライナに侵攻しましたが、「他国侵略」というロシア人気質は19世紀から全く変わらず、連綿と続いてきたことが分かります。)

◇プロシアは北海道植民地化を計画

 プロシア(ビスマルク首相)は、戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の会津藩と庄内藩に食い込み、新潟港に武器を調達する代わりに、北海道を植民地化しようと企てていたことが、残された極秘文書で明らかになりました。そんな史実は、どこの教科書にも載っていなかったことですし、全く知らなかったので驚いてしまいました。

 番組では特に英国の公使パークスの動向に注目していました。1866年の長州征伐の際、幕府がフランスから武器を調達するために、ロンドン銀行から融資を申請したところ、パークスはロンドン銀行に対してその融資を止めさせています。逆に、商社ジャーディン・マセソン(長崎のグラバーが有名)を通して、長州に武器を調達しています。また、戊辰戦争の際には、パークスは、フランス、オランダ、プロシアなど列強6カ国の代表者を徴集して、内乱終結まで武器援助などをしない不関与の「局外中立」を認めさせたりしていました。そのお陰で、フランスは徳川幕府の軍事顧問団を引き上げざるを得なくなり、結果的に幕府方が不利になりました。(でも、箱館戦争では榎本武揚率いる幕府軍にフランスの軍事顧問団が付き添っていたはずで、その辺り、番組では詳しく検証してませんでした)

 こうして見ていくと、特に英仏など列強諸国が干渉していなければ、佐幕派が勝っていたのかもしれませんし、日本の歴史も変わっていたのかもしれません。戊辰戦争を世界史の中で見ていくと様相が変わるぐらいですから、海外の歴史学者が日本の幕末史に注目するのもよく分かりました。

 (番組の再放送やオンデマンド放送などもあるようです)

1100万年の類人猿ダヌビウス・グッゲンモンから始まった?=ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」

 会社の後輩、と言ってもあまり若くない高齢者ですが、毎日、通勤の際に、上野駅から会社がある銀座まで歩いて来ているという話を聞いて吃驚してしまいました。

 首都圏にお住まいでない方は、感覚的に分からないかもしれませんが、その距離は、約5キロ。時間にして1時間5分か10分掛かるというのです。天候が悪い日は、午前の行きではなく、帰りの夕方にしたりして、無理はせず、1日1回、「遠足」するそうです。お蔭で、毎日1万5000歩は歩くそうです。

 常軌を逸している!

 と、思いましたが、よく話を聞くと、ダイエットが目的だというのです。その努力が実って、わずか半年で、10キロもの減量に成功したそうです。

 これで、驚きから尊敬に変わりました。

 ヒトは、歩くことが大切なんですね。逆に歩けることがヒトをして霊長類、はたまた万物の頂点に至らしめる要因だと言えます。

 そう断言できるのは、今、ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋、2022年8月10日初版、2860円)を読んでいるからです。この本の存在を知ったのは、先週購読した「週刊文春」で、仏文学者の鹿島茂氏が「今年一番の収穫」と太鼓判を押していたからです。立花隆さん亡き現在、日本で最も影響力のある天下無敵の鹿島茂氏が薦める本ですから間違いありません。

 その通り、この本はまだ途中ですけど、間違いなく、面白い本です。翻訳家の功績もありますが、文章が抜群にうまいし、恐らく、かなりのメモ魔で、幅広い教養の持ち主だということがよく分かります。先週、週刊誌を買わなければこの本の存在を知らなかったわけで、この本に巡り合って、微かながら奇跡を感じました。

 最近、「誰が誰を殺して天下を取ったのか」とか、「お涙頂戴の復讐劇」などといった人間どもの歴史にうんざりしていたところに、古人類学の本です。古人類学というのは、まさに先史時代の考古学で、「我々は何処から来たのか?」という根本的な命題に答えてくれます。

 発掘されたホミニンと呼ばれる化石人類を分析、研究するのが古人類学者です。最新の研究によると、人類の起源と直立二足歩行の起源は、これまで鮮新世(530万年~260万年前)と考えられてきたものが、中新世後期(1160万年~530万年前)にまで一気に遡ることになったといいます。それは、1100万年以上前の地層から出て来た類人猿ダヌビウス・グッゲンモンの化石から、直立二足歩行をしていたことが分かったというのです。

 地層が何百万年前なのか、どうして分かるのかと言えば、カリウムや炭素などの放射性同位元素で年代測定が分かる仕組みを本書で詳しく説明されていました。

 古人類学者が世界で何人いるのか分かりませんが、欧米中心ですが、意外にも多く(本書では私なんかとても覚えきれない沢山の古人類学者が登場します)、そのため、化石の骨の分析も、ある人は頭骨、ある人は脊髄…などと専門化しているというのです。この本の著者のデシルヴァ氏の専門は足骨ということで、当然のことながら、人類がいつから、なぜ直立二足歩行を始めたのか、最も興味がある学者の一人であるわけです。

 映画ファンなら当然、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(1968年)を観たことがあると思いますが、その映画の最初に四つん這いの猿が段々進化して、二本足で立ち上がるようになり、空いた両手で棍棒のような武器を持つ人類が登場する場面が出て来ます。つまり、人類が直立二足歩行になったのは、武器や道具を使うためだったという定説がこれまでありました。しかし、現在ではそれは否定されています。(直立二足歩行になった結果、武器も使えようになった、ということ。また、道具を使うのはヒトの特権ではなく、チンパンジーも道具を使う)。他に、直立二足歩行の起源と理由については、色々な説がこれまで登場しましたが、現在の最新研究でも、その答えは「まだ誰も分からない」というのが正確だというのです。著者のデシルヴァ氏は「ダチョウの物まね」説を唱えているほどです。

 いずれにせよ、類人猿が進化してチンパンジーから分岐してヒトになったのは今からわずか(笑)600万年前(±50万年)のことです。それから、ヒトは、サヘラントロプス、オロリン、アウストラロピテクス(318万年前のルーシーが最も有名)、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス、ネアンデルタール人…などと進化し、現生人類であるホモ・サピエンスが出現したのは25万年~30万年前ということになります。

 そのホモ・サピエンスが今から1万年前に農耕定住生活を始め、その後、奴隷都市国家、中世の王国、近世の皇帝国、植民地主義国、そして現在の資本主義国や共産主義国となるわけですが、1100万年に及ぶ類人猿の歴史から見ると、人間(ヒト)の歴史など、まだほんのわずかの瞬間だということが分かります。

 ヒトの祖先を遡ると1100万年も昔になると言っても喜んでばかりはいられません。その前に隆盛を誇った恐竜は、今から2億3000年前の中世代三畳紀に出現し、隕石衝突による気候変動で6600万年前の白亜紀に滅亡するまで約1億6000万年間も繁栄していたわけですからね。

 となると、人間の歴史など、そして人間の個人の悩みなど、小さい、小さい、と思いませんか?

(いつか、つづく

AIが支配するデジタル監視社会となるのか?= 世界の「知の巨人」招いた「朝日地球会議2022」を視聴しました

 世界の「知の巨人」招いた「朝日地球会議2022」(朝日新聞社主催)が10月16日(日)~19日(水)までオンラインで開催されました。

 4日間の開催で登壇者は約64人という大変大掛かりなプログラムですので、とても全てをカバーできません。そこで、独断と偏見で、米国の経済学者ブランコ・ミラノビッチ氏とイスラエルの歴者学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏、フランスの人類学・歴史学者エマニュエル・トッド氏、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエル氏の4人が登壇する4日目の19日(水)だけ、会社をズル休みして自宅で拝聴しました。

 これだけ現代を代表する錚々たる「知の巨人」が登場するというのに、視聴するのに無料(ただし、パソコンの電気代や通信費はかかりますが)だったというところが凄い。まさか、知の巨人の皆様にただで登壇してもらうわけにはいかないでしょうから、気になるのはその原資です(笑)。旭硝子やサントリーなどがスポンサーになっているほか、国際交流基金なども特別共催していました。国際交流基金は外務省の外郭団体ですから、予算という名の税金が投入されています。ということは、無料でも一国民として堂々と視聴できる権利があるのかな、と下らないことばかり考えておりました(笑)。

 会議の模様は、そのうち朝日新聞の紙面に掲載されるほか、10月下旬に(YouTubeか何かで)ネット配信されると告知していましたから、見逃した方は是非ともアクセスされたら良いと思います。

◇世界的な監視社会の到来か

 「朝日地球会議」は今年で7回目らしいですが、私自身は初参加です。メインテーマは昨年と同じ「希望と行動が世界を変える」で、新型コロナのパンデミック後の世界や社会の有り様やロシアによるウクライナ侵攻、安全保障や食料、エネルギー問題、それに気候変動の問題が主な具体的なテーマになりました。

 これらの問題について、世界の知の巨人たちは何と答えたのか、茲ではとても書き切れないので、是非とも新聞かネット配信でご確認して頂きたいと存じます。ただ、私自身が一つだけ注目したことは、デジタル技術の進歩とパンデミックによって世界的に監視社会が強化されたことについて、知の巨人たちが何と発言するかということでした。

 経済学者ブランコ・ミラノビッチ氏は、グローバリズム推進論者で「経済成長を止めれば、世界の人口の20%が絶対的貧困になる」という論者だけあって、「SNSは世界市民となり、プラスに働いている」と実に楽観的でした。その一方で、哲学者のマルクス・ガブリエル氏は最近、自身のツイッターやフェイスブックを閉鎖したらしく、その理由について、「適度で科学的であるべきなのに、極端化した。自由で民主的ではなく反民主的になった。ツイッターやフェイスブックは、ステレオタイプ的な思考を強制する。例えば、プーチンと戦うためには、(ロシアから輸入されるエネルギーを節約するために)暖房を止めよう、などと発言する人がいるが、その前に、ネットの方を止めるべきではないか。矛盾している」などと発言していました。

 私もこのマルクスさんの見解に近い感じです。

 人類学・歴史学者エマニュエル・トッド氏に言わせると、確かに監視社会は強化されたが、一体誰が監視していますか?という話になりました。「監視者にとって、殆どの人は重要ではない。彼らが自己陶酔的なら尚更です。彼らが監視する対象は、権力ゲームの中にいる一部のエリートです。何故、欧州のエリートが米国に従属的になるのか?それは、ネットでの銀行送金が、米国の情報機関に丸見えになっているからです」などと恐ろしいことを暴露していました。

 ◇無神経で無意識過剰で生きたい

 私が一番聴きたかったのは、「サピエンス全史」の歴者学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏でした。ロボット工学者の石黒浩氏との対談形式で発言されていましたが、この中で、テクノロジーは良い面と悪い面があり、悪い面では、今や、人工知能AIを塔載した(感情がない殺戮)兵器のロボットさえできている。今後、原爆投下の核ボタンにしても、人間の権限ではなく、アルゴリズムに任せるようになることもあり得る。そんな事態になる前に、グローバルな合意形成が早急に必要だ、ということを強調しておりました。

 私自身は悲観的過ぎるかもしれませんが、世界の知の巨人たちの話を聞いて、おぞましい将来しか描くことが出来ませんでした。

 だからこそ、メンタル障害になる前に、出来るだけ物事を楽観的に考え、なるべく無神経で無意識過剰で生きたいという願望を持つようになりましたよ。

【追記】

 司会進行役は、朝日新聞の論説委員や編集委員らが務めていましたが、世界の知の巨人と堂々と渡り合い、彼らの英語スキルがネイティブ以上の優秀さでした。さすが、ジャーナリズムを牽引する人たちだなあと納得しました。

三門とは? 禅宗の名僧とは?=「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集

  外国人観光客の受け入れ制限緩和や全国旅行支援とやらで、銀座の街は、今や、お上りさんと外国人が際立って目立つようになりました。

 今朝の東京の気温は大体16度ぐらいでしたが、どうみても還暦を越えていそうな髭をたくわえたコーカサス系の外国人男性が、半袖のTシャツ一枚という真夏のような恰好で、ニコニコしていたので吃驚しました。こっちは、寒くて、中にベストまで着込んでいましたからね。

◇◇◇

 さて、「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集を読了しました。この手のムックは、判型がA4判に近い大きさなので、電車の中で読むにはちょっと勇気がいります。電車の中で大きな本を広げて読んでいる人は、まず見たことがありません。いるとしたら私ぐらいなものです(笑)。でも、私も分別が付き過ぎたので、家の中で静かに読むことにしたら、結構読むのに時間が掛かってしまいました。

 仏像の見方や、古寺巡礼に関する本はこれまで結構読んできましたが、やはり、奥が深いんですね。このムックで初めて知ることも多かったでした。

 例えば、お寺の本堂に入る前に大抵、三門(山門)がありますが、これは「空」「無相」「無願」の三解脱の象徴だといいます。「空」「無相」「無願」は仏教思想の根幹を成すものですから、もし御存知でなければ御自分で調べられたら良いと思います。

 私自身、自分なりにかなりの古寺名刹をお参りし、基礎的な仏教の知識や宗派や名僧について知っているつもりではありましたが、恥ずかしながら、このムックで私自身、多くのことを教えられました。

 まず、日本で初めて、国産独自の仏教宗派を開いたのは平安末期、法然(1133〜1212年)の浄土宗(1175年)だと思っておりましたが、史実はその半世紀以上前の良忍(1072〜1132年)の融通念佛宗(1124年、総本山=大阪市平野区の大念佛寺)でした。

 名僧については、特に禅宗関係で知らない人が多かったです。(以下、独自に調べたことも敷衍して書いております)

  臨済宗(達磨から6代を経た唐末の宗祖・臨済義玄が開いた)は、鎌倉時代に栄西が中国から持ち帰って開祖となり、京都に建仁寺などを建立したことは知っておりましたが、その後、様々な宗派に分かれて栄西派は衰えていったといいます。その後、室町時代になって、「応燈関」と呼ばれる3人の傑出した禅僧が現れ、復興し、現代までその隆盛がつながっているというのです。

 「応燈関」というのは、大応国師・南浦紹明(なんぽう・じょうみょう=1235~1309年)と大燈国師・宗峰妙超(しゅうほう・みょうちょう=1282~1337年)と無相大師・関山慧玄(かんざん・えげん=1277~1360年)の3人の名僧のことです。

 南浦紹明は、京都の大徳寺を開山した宗峰妙超の師です。その宗峰妙超は、花園上皇から自身の離宮を禅苑にするよう依頼されたのですが、病が重篤で、代わりに高弟の関山慧玄を推薦します。その関山が開山したのが京都の妙心寺です。

 臨済宗は現在15派に分かれており、全国に約6000の寺院がありますが、このうち約3500と半数以上が妙心寺派の寺院が占めるといいます。そして、京都の大本山妙心寺は、臨済宗系では最大規模の寺院だというのです。また、現代の臨済宗は、江戸中期の妙心寺派の白隠慧鶴(はくいん・えかく)の系統に連なるというのです。白隠といば、「禅画家」としてその名を最初に知ってしまったので、「えろうすんまへん」という気持ちです。

 つまり、白隠がいなかったら、今の臨済宗はなかったと言えるかもしれません。いわば中興の祖です。ということは、いくら宗祖や開祖が立派で偉大でも、その後を継ぐ弟子たちが大したことがなければ、その宗派は衰えてしまうということになりますね。

 また、曹洞宗についてですが、道元が中国の宋から持ち帰り宗祖となり、越前に大本山永平寺を開いたことは知っておりましたが、もう一人、大事な名僧がおりました。教団を全国展開した瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん=1268~1325年)です。曹洞宗では道元は「高祖」、瑩山は「太祖」と呼ばれるようです。ですから、曹洞宗の場合、大本山は道元の開いた永平寺のほかに、もう一つ、瑩山が開いた總持寺があるというわけです。總持寺は当初(1321年)、能登(石川県輪島市)に建立されましたが、明治になって横浜市鶴見に移転します。

◇西瓜も蓮根も筍も隠元禅師のお蔭

 明治になって、新政府は廃仏毀釈を断行し、それでも容認した仏教・寺院は「13宗56派」あります。その13宗の中で最後に開宗したのが、江戸初期、1661年の黄檗宗です。こちらも禅宗系で開祖は中国・明から招へいした隠元隆琦(いんげん・りゅうき=1592~1673年)です。大本山萬福寺を京都の宇治に建立します。

 隠元禅師が、インゲン豆を日本にもたらしたことは知っておりましたが、このほかに、スイカやレンコン、タケノコまでもそうだったんですね。また、急須を使った煎茶文化も黄檗宗を通して広まったといいます。

 大変勉強になりました。

銀座、ちょっと気になるスポット(10)=「億の細道」と「長野県物産館」

 昨晩は夜遅くまでブログを書いていたので、少しは休めばいいのに、職業病なのか、本日もブログを書いております。

 また、「何でもブログに書けばいいと思っているんだろ?…このマンガ野郎が!」と馬鹿にされそうですが…(苦笑)。

 The show must go on!

 銀座といいますか、有楽町マリオン近くに「億の細道」があります(正式名称は「西銀座チャンスセンター」)。1等前後賞合わせて7億円の「サマージャンボ宝くじ」や10億円の「年末ジャンボ宝くじ」販売の時期ともなると、毎回長蛇の列が出来ます。日本人は縁起を担ぐので、よく観察すると、「仏滅」の日はそれほど多くはないのですが、「大安吉日」ともなると、本当に長い列が出来ます。

 この辺りは、私の通勤途中なので、並んでいる烏合の衆の皆さんを横目で見ながら、いつも「御苦労さまです」と頭を下げています。以前の古いデータではありますが、高額賞金に当選する確率は、2000万分の1だと言われているからです。1枚300円ですから、2000万枚買うと、60億円となります。

 つまり、60億円分買えば、やっと7億円とか10億円とかが当たるという単純計算になります(勿論、末等賞とかが当たりますから概算です)。同時に2000万人にやっと1人が当選するという言い方をしてもいいかもしれません。こりゃ、どう考えても詐欺(失礼!)に近い(笑)。やはり、苦労なしで確実に儲かるのは胴元に決まっている、と昔の人はよく言っておりました。

 それでも、人は長蛇の列をつくるのです。恐らく、夢を買っているのでしょう。それに、宝くじの収益金の一部で、公園の遊具などを買っているらしく、公共施設に還元しているという話ですから、彼らは納税者みたいなもんです。有楽町のここは「日本一当たる売り場」と言われていますが、わざわざ猛暑や寒風吹き荒れる中、1時間も2時間も辛抱強く並んでお金を納めてくださるのですから、私は心の中で、いつも「ご苦労さまです」と手を合わせているわけです。

銀座 NAGANO

 さて、話は変わって、先週、久しぶりに「週刊文春」を買いました。「100歳まで健康に生きる 60歳からの食事<新常識>」特集を読みたかったからでした。「食」に関しては大いに興味がありますからね。

 内容をあまり書くと、また、批判する人がいるので、最低限の引用に留めますが、この中で、一番印象に残ったことは、「なるべく白よりも黒が良い」という話です。

 これはどういうことかと言いますと、健康食として、白糖よりも黒糖が良い。白米よりも雑穀米の方が良い。そして、白いうどんよりも蕎麦の方が良い、という話なのです。

 私は「健康になれるなら死んでも構わない」というタイプですから(笑)、食べるものには気をつけます。これまで、新橋の「香川・愛媛 せとうち旬彩館」で本場の(白い)うどんばかり食べておりましたが、これから蕎麦も食べた方が良い、と一瞬で判断したわけです。

 ということで、本日は蕎麦の本場である銀座の長野県物産館に行って来ました。このビルの3階にある蕎麦専門店「真田」で、ランチして来ました。

「銀座 真田」野菜小天丼と蕎麦セット 1430円

 メニューを見たら意外と高いので、一瞬、すくんで、ひるみましたけど、思い切って、比較的安い「野菜小天丼と蕎麦セット」(1430円)を注文しました。おソバは、銀座にある大衆向けの安い蕎麦屋さんより、やはり、歯ごたえも違い、栄養分が豊富に含まれているような感じでした。

 ただし、若い仕事バリバリの現役男性ではちょっと量が足りないかもしれません。でも、健康に良い、ということなら、私自身は、麺類はなるべく蕎麦にしょうかなあ、と思っています。

「陸軍第四師団と関西財界人平生釟三郎」と「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティー」=第46回諜報研究会

10月15日(土)にオンラインで開催された第46回諜報研究会に参加しました。

 諸般の事情が御座いまして、諜報研究会のことをブログに書くのは、本当に久しぶりです。言い訳がましいのですが、茲では書けない理由の他に、自分自身のCPUの処理能力が格段に劣化して、講演者の話されるスピードの速さもあり、メモが全く追い付かず、それに輪を掛けて理解力も低下しているため、正直、とても字にすることが出来なかったのでした。

 早い話が、レベルが高過ぎて、ついていけなかったのです。

 しかし、今回は、研究会の屋台骨を支えている事務局長が登壇されたこともあり、「諸般の事情」を乗り越え、万難を排して、特別に書くことに致しました。

 最初の報告者は、中央大学国際情報学部講師で、インテリジェンス研究所事務局長の正田浩由氏です。タイトルは「陸軍第四師団と関西財界人平生釟三郎」です。

 平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)といえば、個人的に、直ぐに甲南学園の創立者で、教育者のイメージが強かった人でした。「個人的」というのは、神戸にある甲南大学が、東京駅に隣接する高層ビル内に「ネットワークキャンパス」なるものを設置し、ここで、社会人向けにセミナーを開催しており、私も何度か参加したことがあったからです。そのキャンパスというか、教室の入口付近に大きなパネルが何枚か展示されていて、そこに、甲南学園創立者の平生の大きな全身写真があったのでした。そこで、私は初めて平生釟三郎なる人物のことを知り、「教育者」としての印象が脳裏に刻まれたのでした。

 その平生釟三郎(1866~1945)は、報告者の正田氏によると、関西財界人で「日本財界の巨頭」、もともとは軍縮論者だったのが、大阪の陸軍第四師団(師団長は阿倍信行から寺内寿一)との交流で、取り込まれる形で親軍派に転向し、最後は「東条内閣の財界での最大の支柱」になった人だというのです。(その間、広田弘毅内閣の文部大臣、北支那方面軍経済最高顧問、大日本産業報国会会長などを歴任)

 時代的背景として、1930年ロンドン海軍軍縮会議で全権だった若槻礼次郎(元首相)が帰国した際、民衆に熱狂的に歓迎され、軍縮ムードが高まっていたところに、統帥権干犯問題や浜口雄幸首相襲撃事件などがあり、翌31年に満洲事変が起きると、当時、最も影響力があったメディアだった新聞も急に軍縮から軍国主義礼賛に方向転換した経緯があります。

 平生が、第四師団参謀長の後宮淳(うしろく・じゅん=後に陸軍大将)らと接触するうちに、短期間で自分自身の考えを変えた要因の一つとして、既成政党の腐敗があったのではないかと正田氏は分析していました。当時の政友会と民政党という二大政党が、党利党略で政権奪取のためには手段を選ばず、政争に明け暮れていたことに平生は嫌気がさし、次第に軍部に同調していったのではないかというのです。

 私自身は専門家ではないので、単なる受けおりの知識ではありますが、戦前の政党と言えば、明治以来、政友会=三井、憲政会(民政党)=三菱(首相になった憲政会の加藤高明は岩崎弥太郎の女婿で、「三菱の大番頭」と揶揄された)といった具合で財閥との結びつきが強かった印象があります。だからこそ、血盟団事件で団琢磨・三井総帥ら財界人まで襲撃されたのでしょう。政治家を操る背後に財界人がいる、と大衆まで見抜いていたのです。

 となると、平生釟三郎の場合、東京高商(現一橋大)を出た後、三菱系の東京海上の常務にまでなった人ですから、かつては民政党に肩入れしていたことがあったのか? また、東京海上を退社後、1937年から41年まで日本製鉄の会長と社長を務めていましたが、いつ、関西財界人になったのか、よく分かりませんでした。質問すれば良かったのですが、頭が混乱し、あまりにも初歩的過ぎる疑問でしたので、質問すら出来ませんでしたが…(苦笑)。

 次に登壇されたのが、日大危機管理学部教授の小谷賢氏。タイトルは「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティー」でした。

 既に、小谷氏が8月に上梓した「日本インテリジェンス史」(中公新書)を読んで、自分なりに「予習」をしていたので、話の内容はかなりよく分かりました。テレビに出演される方だけあって、プレゼンが簡潔で巧く、分かりやすかったことは確かでした。

 ただし、この本について、渓流斎ブログで取り上げた際に、誤植を指摘したり、スパイ防止法や特定秘密保護法の制定推進派のデメリットとあやうさなども批判したりしたため、もし本人が読んだら気分を害するだろうなあ、とヒヤヒヤでした(苦笑)。

 そのため、質問も出来なかったのですが、小谷氏は最後の方で、「やはり、戦前の憲兵や特高はやり過ぎだったと思う。自民党の後藤田正晴氏が政界引退後に、町村信孝氏が日本のインテリジェンス改革に熱心だったのは、父親の町村金五が内務官僚で、厳しく取り締まり過ぎた罪滅ぼしみたいな側面が少しあったからではないか」などといった趣旨の発言をされたので、本で読んだ著者の印象がガラリと変わり、ブログではちょっと書き過ぎたかなあ、と私も少し反省しました。

 講演の内容の結論的な話は、戦前の陸海軍、外務省、内務省による縦割りの情報運用が戦後も引き継がれ、警察(内閣調査室)、公安調査庁(法務省)、外務省、防衛省という縦割りの省庁ごとの運用が続き、今でも、国家レベルではなく、省庁レベルでのインテリジェンス運用にとどまっているといったことでした。

 その点に関して、講演後に参加者から質問がありましたが、小谷氏は「戦前は、『国体護持』と言っておきながら、全然違う。天皇に情報を上げていない。戦後も自分たちの省庁や組織のために働いてはいるが、国(全体)のためにやっていない。教育の問題もあるかもしれませんが」などと答えていました。

 確かに国家存亡の危機に見舞われた時に、インテリジェンスは重大で、大きく作用します。それなのに、官僚が自分自身の出世のために、主権者である国民に対してではなく、自分の組織の上司の顔色だけを窺っているようでは、どうしようもありませんよね。

 せっかく、日本は、英国でさえ持っていない世界に誇れるスペックの高い自前の人工衛星を保持しているといわれてますから、情報を有効活用しなければ税金の無駄遣いです。結局、日本のインテリジェンスの将来は、政治家だけでなく、現場の官僚のマインドにも掛かっているという状況がよく分かりました。

 私も仕事で、霞ケ関の人たちとやり取りしていますが、彼らは機密情報でも軍事情報でも何でもない、単なる、例えば伝統工芸の大臣表彰者に関するマスコミにとっての必要情報(発表日時や表彰者の出身都道府県など)を「前例がない」との理由なのか、出し惜しみするのです。明らかに上から目線で、こちらから何度も何度も電話を掛けさせて、「官尊民卑」丸出しです。

 ですから、全員ではありませんが、エリート官僚さまは、民間である国民のことなど一切考えず、自分の出世と自分の省庁のことしか考えていない、そして、秘密でも何でもない情報までも出し惜しみすることを肌身を持って感じております。

 本日はこれが言いたくてブログを書きましたが、結局、書くのに5時間以上も掛かりました。タイパ(時間効率)が悪いよなあ〜!!

【追記】2022.10.17

 ・このブログを読まれた報告者の正田浩由先生から早速、「回答」がありました。(一部補充) 

 「平生釟三郎を関西財界人とする理由についてですが、彼は確かに東京海上にいたのですが、主に大阪と神戸の支店を任されまして、そこで甲南学園を作ったりなどして関西に根を張りました。伊藤忠の伊藤忠兵衛や阪急の小林一三らとも親しくしていたようです。それから仰る通り、平生は民政党の政策に共鳴していたようで、一部紹介いたしましたが、金解禁なども評価していました。」

以上。

・戦前の二大政党に関しては、過去に書いた渓流斎ブログもご参照ください。

2019年7月6日付「『政友会の三井、民政党の三菱』-財閥の政党支配」

2020年8月4日付「エイコ・マルコ・シナワ著『悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治』を読む」

銀座、ちょっと気になるスポット(8)=歌舞伎発祥之地

 しばらく中断しておりましたが、久しぶりに「銀座、ちょっと気になるスポット」シリーズを再開しましょう。

 銀座といえば、やはり歌舞伎座です。今ある歌舞伎座は明治になって、東京日日新聞社長なども務めた福地源一郎らの尽力で出来ましたが、江戸時代には、今では「歌舞伎発祥之地」になっている猿若中村座があったり、森田(守田)座(明治になって新富座に)があったり、山村座(「絵島生島事件」で廃座に)があったりしましたので、銀座は「芝居小屋町」と言っても差し支えないでしょう。

 以前、この渓流斎ブログで、守田座跡や山村座跡、新富座跡を何回かご紹介したことがありましたので、今回は歌舞伎発祥之地である猿若中村座跡(写真上)を取り上げることにします。

 場所は、京橋3丁目なので、正確に言えば銀座ではありませんが、銀座1丁目の高速下の歩道を渡ってすぐ側ですから、あまり堅いことは言わんといてください(笑)。

  座元中村勘三郎が、猿若中村座をこの地に建てたのは、寛永元年(1624年)のことです。中村勘三郎と言えば思い出してください。2022年5月17日付の渓流斎ブログ「旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)」で取り上げております。初代中村勘三郎(1598~1658年)は、あの豊臣秀吉と全く同じ現在の名古屋市中村区にある中村公園内に生まれ、その生誕記念碑が建っていることを御紹介しました。

 …中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。…

 これを読むと、勘三郎丈が猿若座を建てたのは26歳の若さだったことが分かります。それなりの潤沢な資金があったのでしょうか。中村屋(屋号)は現在でも続く名門中の名門の大幹部で、勘三郎はその基礎を作った人ですから、実に偉い人だったことが分かります。

コナミ本社=銀座1丁目

 先ほど、「歌舞伎発祥之地」は正確には銀座ではなく、京橋3丁目です、と書きました。

 でも、その目の前(という言い方も変ですが)は銀座1丁目です。そこは、かつてセゾングループの高級ホテル西洋銀座(2013年閉鎖)と、映画館の銀座テアトルシネマなどがあったのですが、今はすっかり様変わりして、アミューズメント会社のコナミの本社になっておりました。

 しばらく、この場所に足を運んでいなかったので吃驚です。もう30年ぐらい昔ですが、この高級ホテル西洋銀座で、セゾングループ総帥堤清二氏というか作家の辻井喬氏(1927~2013年)にインタビューしたことがあったので、隔世の感を禁じ得ませんでした。

銀座1丁目「ニューキャッスル」

 このあと、銀座1丁目にある「ニューキャッスル」に行き、ランチのカライライス(レギュラー100円)を食しました。

 喫茶店「ニューキャッスル」はかつて、蔦がからまった店舗が有楽町駅近くにあり、私も昔、通ったことがありますが、いつの間にかなくなっていました。それが、先日、テレビでやっていて、2011年に東北大震災の影響で古い建物が損害を受けるなどして閉店し、今は、常連さんだった人が三代目として切り盛りしているということでしたので、訪れたのでした。

 創業昭和21年の看板の味をしっかり受け継いでおりました。

 

 

念願の身延山久遠寺にお参り出来ました

昨日のつづき

 9月25日(日)、甲府は晴れ。甲府駅で身延線が全線復旧したことを確認し、前日、駅で予約していた特急ふじかわ4号(8時45分発)で身延駅へ。身延山久遠寺お詣りに再チャレンジです。

 JR東海身延線は単線でした。身延駅には9時38分着。9時45分発のバス・身延山駅には悠々間に合いました。この辺り、電車もバスも1時間に1本とか2本ですから、乗り過ごしたら大変です。

 何しろ、生まれて初めて独りで行く所ですから不安でした。身延駅から身延山終点までバスで12分ほどでしたが、途中で、久遠寺の「総門」があり、その巨大さに吃驚仰天し、不安も吹き飛んでしまいました。

身延山久遠寺 三門

 バス終点から、何となくこちらの方向だろうと、歩き始め、数分で三門に到着。これもあまりにも巨大で荘厳さがあり、圧倒されました。

 この三門の手前に、お土産店も兼ねた観光案内所があったので迷わず飛び込みました。私は食いしん坊の自称グルメですから(笑)、何処かランチが出来る店を紹介してもらおうと思ったのです。

 案内所の係の女性はとても親切な方で、沢山のパンフレットとマップ、それにロープウェイの(100円)割引券までくれるのです。ありがたや、ありがたやです。これで奥之院まで行けます。

菩提梯 高さ104メートル、287の石段

 いざ出発。三門を潜り抜けて、まず目に入ったのがこの急勾配の石段です。「菩提梯」と呼ばれ、高さ104メートル、287の石段があるというのです。

 ひょっえー、これは無理じゃあー。

 横道として、やや急な「男坂」と緩やかな「女坂」があり、私は男坂にすることにしました。

日蓮を身延の地に招いた鎌倉の御家人波木井実長の碑

 男坂の手前に、日蓮聖人を身延の地に招いた鎌倉の御家人で、甲斐国波木井郷の領主だった南部(波木井)実長の像と碑がありました。

 南部氏は、新羅三郎源義光の子孫で、甲斐源氏の加賀美遠光の子である南部三郎光行に始まるといわれています。その名字は甲斐国の南部郷から由来するといいます。その子孫は、近世になって南部藩(盛岡藩)の藩主となるわけです。

身延山久遠寺 五重塔 明治8年の大火で焼失し、2008年、133年ぶりに再建

 少し大袈裟ですが、息も絶え絶え、途中休憩しながら男坂をやっと登り、久遠寺境内に到着しました。

 最初にお迎えてしてくださったのは、この五重塔です。明治の大火で焼失していましたが、2008年に133年ぶりに再建されたといいます。

身延山久遠寺 本堂

 ついに本堂です。

身延山久遠寺 本堂

 本堂内は、靴を脱いで、自由にお参りできます。

身延山久遠寺 祖師堂

 本堂から祖師堂~報恩閣~拝殿~仏殿と建物内で「陸続き」になっており、それぞれのお堂を個別にお参りできます。

身延山久遠寺 祖師堂
身延山久遠寺 仏殿
身延山久遠寺 御真骨堂

 私自身はそれほど熱心な仏教徒とは言えませんが、このような聖地をお参りすると、さすがに荘厳厳粛な気持ちになれます。

 身延山に来られてよかった、身延山を参拝することが出来て本当によかった、と感謝の気持ちが沸き起こりました。

 これで、天台宗の比叡山延暦寺、真言宗の高野山金剛峰寺、浄土宗の知恩院、浄土真宗の東西本願寺、時宗の清浄光寺、臨済宗の建仁寺、曹洞宗の永平寺…と各宗派の総本山をほとんど制覇した感じです。この中で、高野山にはかなり圧倒されましたが、この身延山も比類なき聖地で圧巻でした。

 日本人だったら日蓮宗信徒でなくても、いや、世界の人類だったら誰でも、一度はお参りするべき寺院ですね、この日蓮宗総本山・身延山久遠寺は。

 何と言っても、人間の持つ信仰の力というものは凄まじい。あれだけ急勾配の石段や大伽藍をつくってしまうわけですから。

身延山第九十世 日勇上人のお言葉

 この後、ロープウェイで奥之院に向かう途中の境内で、「身延山第九十世 日勇上人のお言葉」が掲示されていました。

 このお言葉を読んで、私自身にも呼び掛けているようで、心が救われ、心が洗われ、少し涙が出て来ました。そして、これからも生きていけるような自信と勇気をもらいました。

身延山ロープウェイ 往復1500円⇒1400円

 午前11時発の身延山ロープウェイに乗りました。

 久遠寺駅(標高390メートル)から奥之院駅(同1153メートル)まで、全長1665メートル。時速18キロで所要時間7分です。と、パンフレットに書いてありました(笑)。

身延山 奥の院 思親閣

 また、そのパンフレットには、奥之院思親閣とは「日蓮聖人が身延山にご隠棲の9カ年の間、風雨厭わず山頂へ登られ、故郷房州小湊を拝し、ご両親お師匠様をお慕いなされた故事に因んで建てられたお堂」と書かれています。

 現代人はロープウェイに乗って、ズルしてしまいますが、日蓮聖人は風雨厭わず山頂へ登られたとのこと。日蓮聖人は凄い健脚だったんですね。

身延山奥之院 日蓮像

 日蓮聖人像は、鎌倉などで何像も、結構拝見したことがありますが、この像が一番御本人に似ているような気がしました。

 つまり、罰当たりになるのを恐れずに述べれば、日蓮聖人を妙に神格化せず、素の本人の姿絵がそのまま像になったように見えるのです。

日蓮聖人 お手植え杉

 日蓮聖人(1222年2月16日~82年10月13日)お手植え杉は樹齢750年を超えるといいます。

 日蓮聖人は西洋式に計算しますと、今年2022年は生誕800年、没後740年になります。が、日蓮宗では数え年を採用されているようで、昨年2021年を「日蓮聖人降誕800年」とされているようでした。

身延山 奥の院 思親閣

 どうも私はせっかちな性格なもので、11時20分発の下りのロープウェイに乗車してしまいました。山頂滞在時間、わずか20分でした(苦笑)。

菩提梯 下り287段 

 久遠寺境内を再度散策した後、いよいよ帰りです。

 今度は下りですから、菩提梯の石段に挑戦しました。公称287段となっていますが、私が勝手に数えながら降りたら294段になりました。恐らく数え間違いでしょう。

身延山 旅館山田屋 喫茶園林 ハヤシライス1200円

 さてお昼時。先ほどの観光案内所で頂いたパンフレットで目を付けていたお店に何軒か行きましたが、日曜日のせいか、閉まっていたり、「ご予約様のみです」と断られたりしてなかなか見つかりません。

 結局、身延山バス停留所の真向かいにある「喫茶 園林」に入り、ハヤシライスを頂きました。

日蓮聖人 草庵跡 御廟

 さあ、ご飯を食べてエネルギーを補給できたので、次に向かったのは、日蓮聖人の草庵跡と御廟です。

 「喫茶 園林」から3~4分で三門に戻り、三門から「草庵跡・御廟」の入り口まで歩いて6~7分。

日蓮聖人 草庵跡 御廟

 でも、入り口から草庵跡までが意外にも長かった。誰もいない坂道を10分ぐらい歩いてやっと草庵跡に辿り着きました。

日蓮聖人 草庵跡

 「ここだったのかあ」という感慨が押し寄せました。

 日蓮聖人は、修行三昧の生活で、冬は極寒で、寒さと飢えに苦しみ、胃腸病も患っていて大変な思いをされたことを手紙等に書き残されておりました。(久遠寺境内と比べ、体感温度はここは3~4度低い感じがしました。何でここに草庵を結んだのか不思議でした)

 近くに川が流れておりましたが、魚を獲るなど殺生もできるはずありませんからね。

日蓮聖人 御廟

 草庵跡からさらに先に進むと、1~2分で御廟です。

 後から来た50代ぐらいの男性が靴を脱いでここに上がって、独りで法華経を唱えていました。

日蓮聖人 御廟

 日蓮聖人は、亡くなったらこの身延の地に葬ってほしい、と言い残されたとされます。その通り、ここで静かに眠っておられると思うと、感無量になりました。随分、立派な御廟です。

 身延山にお参り出来て本当に良かったと思いました。

下部温泉

 25日は、下部温泉「湯元ホテル」に予約していたので、身延から下部温泉駅まで、また身延線で甲府方面に戻りました。

 今回、不思議なことがありました。行きの甲府から身延線で身延駅で降りて、身延山行きのバスに乗ったら杖をついた40代後半ぐらいの男性と一緒になりました。その方も久遠寺にお参りする感じでした。そして、11時発のロープウェイに乗ったら、またその男性と一緒になりました。お顔をジロジロ見たわけではないのですが、杖をついておられたので直ぐ分かりました。そして、何と、身延から下部温泉駅で降りたら、またまたこの男性と一緒になったのです。何という偶然でしょうか。「仏の顔も三度まで」なのか、その後、もうお会いすることはありませんでしたが、不思議だなあと思いました。

 湯元ホテルは、高浜虚子や海音寺潮五郎がよく贔屓にして泊まっていたという宿だったので、ここを予約したのですが、かなり建物も古くなり、昭和というか大正の感じがしました。

 夜の料理は、生ビールがサービスで付き、刺身あり、ステーキありで意外と豪華でした。温泉もゆっくり堪能出来ました。

【追記】

 台風15号による豪雨で、静岡では甚大な被害を受けました。御見舞い申し上げます。

危うし、身延山に参拝できず?甲府城に予定変更

 9月24日(土)~26日(月)、2泊3日の小旅行に行って参りました。主目的は、日蓮宗総本山「身延山久遠寺」参拝です。

 そしたら、ぎゃびーんですよ。JR中央本線、特急あずさ9号で甲府駅に向かう途中、車内アナウンスで、台風15号の影響で、身延線が「終日運休」だというのです。えっ?24日は、身延山久遠寺の宿坊「覚林坊」に宿泊する予定で、1カ月以上前から予約していました。

 どうしよう?

 覚悟を決めました。キャンセルしかない。だって、身延まで行けないのですから。当日キャンセルなので、100%キャンセル料が戻って来ないことが分かっていましたが、仕方ありません。このまま自宅に戻ろうか、迷いましたが、そうだ、甲府の何処かで一泊して、翌日に再チャレンジすることにしました。だって、甲府の山梨県はカンカン晴れで、翌日の予報も晴天だからです。

 そこで、車内で、代わりのホテルのネット予約をスマホで検索しました。1軒目、満員。2軒目、満員…。そりゃそうでしょう。当日になって、空いている方がおかしい。そして、6軒目でやっと駅前北口1分のビジネスホテルが見つかりました。「残り1室」!プチ! ジャニ―喜多川さんの「ユー、やっちまいな」の声が聞こえてきました。

甲府駅に展示された案内板

 甲府駅の改札で駅員さんに確認すると、「終日運休」は確かでした。しかし、何処となく無責任というか、他人行儀でした。被害者の親身になってくれません。

 後で分かったのですが、甲府駅の東京~松本を通る中央本線はJR東日本ですが、甲府~静岡を走る身延線はJR東海と会社が違っていたのです。もしかして、駅員はJR東日本の社員だったので、他社のことだから、という気持ちが態度に出たのかもしれません。

 今回、台風15号が静岡で1日に1カ月分の大雨を降らせる大被害を齎したので、身延線が止まってしまったわけですが、身延線は「すぐ運休する」ことで地元では有名だったようです。

 駅構内で、覚林坊に電話して、事情を話して、当日キャンセルしてもらいました。

 そしたら、吃驚です。

甲府駅北口にある武田信虎像

 もう一度、先方から折り返し電話があり、今回は不可抗力でお越し頂けなかったわけですから、宿泊料は頂くことが出来ませんというのです。次回、機会がありましたら、御願いしますということで、キャンセル料(事前予約、クレジット決済)を返還してくれるというのです。

 随分、良心的です。500年の歴史があるという身延山久遠寺の覚林坊。皆さんも覚えておいてください。

甲府・武田氏館跡

 さて、甲府駅に午前10時半頃到着し、ホテルのチェックイン(15時)まで随分時間があるので、武田神社に行くことにしました。ここは勿論、武田信虎、信玄、勝頼と三代に渡って屋敷を構えた、別名「躑躅が崎館」跡です。

 時間があれば、最終日に行く予定でしたが、逆転した格好です。

 甲府駅北口のロータリーからバスで10分ほどで着きました。(バス停を探すのに苦労しましたが)

 武田神社の拝殿前の階段を登り切ったところに、「太宰治の愛でた桜」の看板がありました。

 あ、忘れていました。太宰治は新婚時代、妻美知子さんの実家のある甲府で約8カ月間過ごし、「富嶽百景」や「女生徒」「新樹の言葉」などの名作を生んでいました。

 太宰の甲府時代は、小説を執筆した御坂峠の天下茶屋が有名ですが、当然、武田神社も訪れていたんですね。

甲府・武田神社

本殿にて、ウクライナ戦争の一刻も早い終結と人類の平和と皆さんのご健康もお祈りしました。

躑躅が崎館跡
武田神社

 神社内には能舞台までありました。

躑躅が崎館跡

 旧大手門の外に出ると、躑躅ヶ崎館跡の石垣が見られました。

躑躅ヶ崎館跡
躑躅ヶ崎館跡 あの石垣らしきものは何?

 いまだ調査、発掘、整備の途中のような感じがしました。

 遥か先にも石垣が見えましたが、年を重ねたせいか、ちょっと、体力と気力がなく、近くまで行きませんでした。恐らく、気温30度ぐらい。汗が出てしょうがありません。

 昼時だったので、日蔭のベンチで、昼食用に持って来たお握りを頂き、取り敢えず、バスの時刻に合わせて、甲府駅に戻ることにしました。(独り徒歩旅行は、電車やバスの時刻を絶えず気にして手配しなければならないので、心がいつもざわついて落ち着きません。神経が疲れます)

甲府城(舞鶴城)公園

 甲府駅に着いて、反対の南口にある甲府城跡を目指しました。

 甲府城は、武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。徳川体制になってからも西側への防衛として改築したり、増築したりして、重要性を保持したといわれています。

 甲府城の最も有名な城主は、五代将軍綱吉の側用人になった柳沢吉保でしょう。(東京・駒込の六義園は、柳沢吉保の別邸だった)

 私自身は、甲府城と言えば、幕末、最後の起死回生を図って甲府城を攻めた新選組の近藤勇を思い浮かびます。

甲府城(舞鶴城)公園

 でも、実際、足を運んで見て、その広さと堅固さに驚きです。

 これは、本や文字では全然分からなかったことでした。

甲府城(舞鶴城)公園 天守台

 近藤勇が甲府城を落とせなかったのがよく分かりました。

甲府城(舞鶴城)公園

 まるで要塞です。いや、要塞そのものです。

甲府城(舞鶴城)公園 天守台から臨む

 天守から見下ろせば、敵の動静が丸見えです。

甲府城(舞鶴城)公園

 とにかく、急峻で、鎧兜で登るとなると息も絶え絶えです。

 それに広い、広い。それなのに、これでも、敷地は、旧跡の3分の1しか残っていないというのです。

甲府城跡

 甲府駅の北口にもこうして山手門が復元されています。

甲府駅と甲府城櫓

つまり、甲府城郭のど真ん中にJR中央本線が走っていたのです。

甲府城跡

 だから、甲府駅の南口だけでなく、北口にも城郭跡が残っているのです。

甲府城天守台

 甲府駅北口側に戻ると、こうして、線路を挟んで南口にある天守台が見えるわけです。

甲府駅南口

 甲府城と武田氏とは関係がありませんが、甲府というか、山梨というか、甲斐の国・甲州が産んだ最大の英雄は武田信玄でしょう。(雨宮敬次郎、根津嘉一郎や小佐野賢治といった「甲州財閥」も有名ですが)

 甲府駅の北口には信玄が追放した父親の信虎像が、2019年に建立されましたが、南口の武田信玄像は結構古いと思います。もう40年ぐらい昔、友人の今村君と急に昇仙峡で釣りをしようということで出掛け、この武田信玄像も拝謁したことを覚えています。当日、何処に泊まったのか、全然覚えていませんが、この信玄像だけは如実に覚えています。(調べたら、信玄像は1969年に完成。当初は駅前噴水の南側にありましたが、1985年、駅前広場の整備で現在地に移設されたそうです。)

甲州ほうとう「小作」(甲州駅北口)

 ホテルニューステーションにチェックインした後、夕食は、このホテルの隣の隣の隣にある「甲州ほうとう 小作」にしました。

 甲州の名産といえば、ほうとうでしょう。小作は結構有名店のようで、店内には有名人のサイン色紙が結構貼ってありました。

甲州ほうとう「小作」豚肉ほうとう1500円

 選んだのは、豚肉ほうとうです。

 甲州は山岳地帯が多く、平野が少なく、お米が取れません。それで、お米が取れる領地獲得のため、武田信玄は、上杉謙信や北条氏、織田信長らとの戦いを余儀なくされたという説があります。

 ほうとうは、信玄が陣中食として考えたという説が有力です。まあ、太いうどんと野菜や肉を煮込んだ鍋と言っても間違いなさそうです。戦うための栄養満点といったところでしょうか。

甲州ほうとう「小作」ワイン500円 チリ産だった!

 甲州に来たからには、「甲州ワイン」は欠かせません。今や世界的ブランドです。この店の小作ワインを注文して、ラベルを詳しくみたら、何と「チリ産」と書いてありました。

 ありゃあまあ、てな感じでした。

(つづく)

「鎌倉殿の13人」NHK大河ドラマ館、鎌倉国宝館、鎌倉歴史文化交流館へ小旅行

 いざ、鎌倉へ。

鎌倉・鶴岡八幡宮 二の鳥居

 月刊「歴史人」の読者プレゼントで、「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館の入場券が当選したので、平日に有休を取って、行って参りました。

 平日にしたのは、鎌倉は一大観光地であり、今年のNHK大河ドラマで鎌倉が舞台になっており、週末は相当混むと予想したからでした。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 案の定、「鎌倉の原宿」のような小町通りを始め、平日だというのに人混みでいっぱいでした。特に、中学生か高校生らしき少年少女が、秋の遠足か修学旅行で、団体でいっぱい押し寄せておりました。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 それに輪をかけたのは、9月14日(水)~16日(金)は鶴岡八幡宮の例大祭に当たっていたことです。一般の参拝者も多数詰めかけておりました。

 例大祭ということで、こうして、一の鳥居付近で、「鎌倉囃子」が演奏されていました。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 取り敢えず、「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館に向かいました。場所は、一の鳥居を入った八幡宮内の「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」にありました。

 入場は日時指定だったため、ネットで事前に申し込んでおきました。そのため、超満員ということはなく、ゆったりと落ち着いて見学できました。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 個人的に、最近、大河ドラマ館によく足を運んでおりまして、2017年の「おんな城主 直虎」(井伊直虎=浜松市)、2020年の「麒麟がくる」(明智光秀=岐阜県)、2021年の「青天を衝け」(渋沢栄一=東京都北区飛鳥山)以来4度目です。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 これまた、個人的な話ですが、私がNHKの大河ドラマにハマったのはつい最近のことです。子どもの頃見ていたのは、「源義経」(1966年)と「天と地と」(1969年)と「樅ノ木は残った」(1970年)ぐらいでした。

 あとは、長じで、仕事として見ることになった「太平記」(1991年)だけです。後は、タイトルを知っていても、中身はほとんど見ていませんでした。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 それが、どういうわけか、大河ドラマにハマって見るようになったのは、2016年の「真田丸」からです。それ以降の「おんな城主 直虎」「西郷どん」「いだてん~東京オリムピック噺~」「麒麟がくる」「青天を衝け」「鎌倉殿の13人」と、7年連続、大体見ています。

 こうして振り返ると、月日の経つ速さには唖然としてしまいます。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 その、今年の「鎌倉殿の13人」ですが、正直、あまり、面白くありませんね。分析すれば、スタジオ撮影が多く、野外での合戦シーンがほとんどないせいだと思います。

 本来、源平合戦と内部抗争の話で、おまけに平泉での源義経追討の合戦も見どころだったはずなのに、弁慶の立ち往生もないのですから、拍子抜けしました。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 大河ドラマ館は30分ほどで引き揚げて、鶴岡八幡宮に久しぶりにお参りすることにしました。

 鶴岡八幡宮は1063年、河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりと言われています。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 それを現在にも残っているような若宮大路を整備し、鶴岡八幡宮を移して拡張したのが、1185年に鎌倉幕府を開いた源頼朝でした。若宮大路は、妻政子の安産祈願も兼ねていたようです。

 八幡宮ですから、武運の神をまつっています。

 鶴岡八幡宮では、「応神天皇」「神功皇后」「比売神」の三柱の神様を御祭神としてお祀りしています。

 八幡宮内では、流鏑馬や相撲や放生会などの「神事」が行われ、鎌倉の精神的、文化的支柱になっていたようです。

 私も、普段より多めのお賽銭を奮発し、ウクライナ戦争が早く終わるよう世界平和と万人の健康をお祈りし、またまた健康長寿のお守り(800円)を買い求めました。

鎌倉国宝館

 大河ドラマ館は、想像していた通りでしたが、大いに期待したのは、大河ドラマ館の入場パンフレットを提示すると、鎌倉国宝館(大人300円)と鎌倉歴史文化交流館(同)に無料で入場できることでした。そのため、事前にホームページで、両館の休館日をチェックして、日曜日と月曜日を避けることにしたのでした。

 この中で、鎌倉国宝館は大正解でした。館内での写真撮影は出来ませんでしたが、国宝、重要文化財の仏像(如来、菩薩、明王、天)や高僧像などがズラリです。私が特に感動したのは、本などの写真ではよく拝見していた「北条時頼坐像」(重文)を目の前で見ることができたことです。思わず、「えっ? これ本物?」と声をあげそうになりました。

 北条時頼は第五代執権で、三浦泰村一族を滅ぼすなど得宗独裁政権を確立した人でもあります。一方で、仏教、特に禅宗に信仰が篤く、蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を建立しています。

 晩年は出家して、最明寺の入道とも呼ばれ、日蓮が「立正安国論」を献本したのがこの最明寺の入道であり、能の「鉢の木」や「徒然草」などでも登場します。

鎌倉歴史文化交流館

 次に向かったのが、「鎌倉歴史文化交流館」です。地図で見ると、若宮大路の二の鳥居辺りで、西に進み、小町通りを突っ切り、東海道線の踏切も渡り、くねくねした軽い坂道を登ったところ(扇が谷)にあるようでした。

 9月半ばだというのに、30度の暑さで、辿り着くだけでふうふうでした。

鎌倉歴史文化交流館

 館内では、「吾妻鏡」の原本(写本)らしきものが展示されていたり、大佛次郎、川端康成ら「鎌倉文士」の足跡を辿るビデオが流れたりしていました。

鎌倉「カフェ ミルクホール」

さて、昼時になったので、一度行きたかった鎌倉「カフェ ミルクホール」を目指しました。

今は便利な時代になり、スマホのグーグルマップで検索して、「徒歩」を押すと、自動車のナビゲーターみたいに、「次を右折して」とか「次を左折して」とか言ってくれるのです(笑)。

 いやはや、本当に便利な時代になったもんです。

鎌倉「カフェ ミルクホール」オペラライス・セット 1300円

 鎌倉「カフェ ミルクホール」のお目当ては、白クリームのオムライスであるこの店の名物「オペラライス」です。随分昔に、何かの雑誌か、テレビで知ったもので、いつか一度、チャレンジしたいと思っていたのです。

鎌倉「カフェ ミルクホール」オペラライス・セットの珈琲とデザート 1300円

 オペラライスは上品な味でしたが、量はそれほど多くないので、若い男性諸君では物足りないかもしれません。

 が、私のような年配者なら大丈夫です。昭和初期のミルクホールというより、大正ロマンを感じさせる店の雰囲気は何物にも代えがたく、ゆっくり落ち着けました。