8月9日はソ連侵攻の日=牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」

 8月9日は今年77回目の長崎原爆忌ですが、忘れてはいけないのは、ソ連軍が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して満洲(現中国東北部)に侵攻した日でもあることです。

 関東軍の精鋭部隊が南方に転戦したため、「もぬけの殻」になった満洲に、独ソ戦に勝利して勢いに乗るソ連軍兵約150万人、戦車等約5500台、戦闘機約3500機が怒涛のようになだれ込み、日本人は民間人を中心に約8万人が死亡し、シベリア抑留や「中国残留孤児」の悲劇も生みました。

 ソ連が日ソ中立条約を破棄して侵攻したのは、昭和20年2月4日、米ルーズベルト大統領、英チャーチル首相、ソ連スターリン首相の間で行われたヤルタ会談での密約によるものでしたが、国際条約を平気で反故して侵攻する様は、現在のロシア軍によるウクライナ侵攻を見るようです。77年経っても、少しもロシア人気質が変わっていないようにみえます。会談が行われたヤルタは、ロシアが2014年に併合したクリミア半島にあるというのも何か皮肉か、偶然の一致にさえ思えてきます。

 今、ちょうど、献本して頂いたジャーナリスト牧久氏の最新作「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館、2022年8月1日初版、3300円)を読んでいるところです。著者牧氏にとって、「不屈の春雷 十河信二とその時代」「満蒙開拓 夢はるかなり」(ウエッジ)に続く「満洲物語」第三弾です。日本経済新聞社の副社長等を歴任された牧氏は1941年生まれですから、今年81歳。著者の筆は全く衰えず、個人的感想ながら、いまだに書き下ろしで新作を何冊も書き続ける同氏に対し、尊敬するとともに、腰を抜かすほど驚いてしまいました。

 「転生」は、巻末の年表等も入れて493ページという大作です。すぐ読めるかと思ったら、もう読み始めて10日も経っています。それだけ内容が濃いといいますか、牧氏らしい目利きの膨大な文献調査と関連証言等から引き出す的確な推論には説得力があり、読んでいて圧倒されます。

 一言で言えば、中国が言うところの「傀儡政権」満洲帝国の興亡を描いた大河ドラマです。主人公を一人挙げるとすれば、清朝のラストエンペラー(宣統帝)であり、満洲国の初代皇帝(康徳帝)に就いた愛新覚羅 溥儀ということになります。

 私もこれまで満洲国関連の書籍は結構読んできたつもりですが、溥儀が主人公の本は少なかったでした。そのせいか、中国が断定するような満洲が傀儡政権だったというのは、少し割り引いて考えなければならず、むしろ、溥儀が、日本を利用して、積極的に滅亡した清朝の復辟(ふくへき=退位した君主がまた君位につくこと)を目指していたことをこの本で初めて知ることになりました。

 何と言っても、私が一番驚いたことは、昭和10年4月に初めて来日して昭和天皇やその母である貞明皇太后らに拝謁した溥儀皇帝が、すっかり天皇制に心酔してしまい、昭和天皇の困惑にも関わらず、天照大神を満洲国の「元神」とし、帝国内に建国神廟を建立したことです。(「回鑾=かいらん=訓民詔書」)私はてっきり、関東軍の脅迫と圧力によって満洲国内に多くの日本の神社が創建されていたと思っていたのですが、史実はむしろ逆で、皇帝溥儀が率先垂範して積極的に取り入れていたのです。在留邦人でさえ、驚いたり、天照大神が異民族に祀られるのは筋違いと考えたりする者もいたというのですから。

 皇帝溥儀は、東京裁判で証人として呼ばれた際、関東軍によって脅迫されて仕方なく皇帝に即位し、単なる操り人形で何の権限もなかった、といった趣旨の証言を、ソ連の筋書き通りに繰り返しましたが、史実は、結構な部分で、清朝復活を願う溥儀が、日本を利用して自分の意志を反映させていたことがこの本を読むとよく分かります。

 この本を読む前の今年5月に、私はたまたま平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)を読んでいたので、同じ「満洲もの」では少し切り口が違うなあ、と感じました。「グランドホテル」は、満洲国(1932~45年)で活躍した人物の評伝と相関図に多く紙数を費やし、例えば、「『満洲国のゲッベルス』武藤富男」とか「『満洲の廊下トンビ』小坂正則」といったように、言わば週刊誌的な見出しが並びます。著者の平山氏は、文藝春秋の「文学界」の編集長も務めた経験があるということなので、「グランドホテル」は出版社系ジャーナリズムと言えるかもしれません。

 一方のこの「転生」は、著者牧氏が日経社会部記者出身ということで新聞社系ジャーナリズムと言えるかもしれません。歴史学者のように、時系列に淡々と筆致を抑えて叙述し、余計な形容詞は省き、武藤富男は何度も登場しますが、「満洲国のゲッベルス」といった修飾語は出てきません。ただ、筆致が抑えられているとはいえ、内容は通化事件をはじめ、戦争の悲劇の話ですから、涙なしには読めません。

 著者の牧氏がこの本を書くきっかけになったのが、千葉市稲毛の自宅近くに、溥儀の実弟で日本の陸軍士官学校に留学した愛新覚羅溥傑と「政略結婚」した侯爵嵯峨実勝(さねとう)の長女浩が新婚時代を過ごした「ゆかりの家」があり、よく訪れ、「激しく移り変わる歴史の荒波の中で、その愛を生涯貫き通した二人の人生ドラマを書き残したいと思った」からだといいます。

 溥傑と浩との結婚や二人の娘の慧生(えいせい)、嫮生(こせい)の哀しい物語については、山崎朋子著「アジア女性交流史」(岩波書店)や本岡典子著「流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生」(中央公論新社)などを通して私自身も知っておりましたが、改めてその凄惨な波乱万丈の生涯を読んで、自分たちの意志が反映されないまま、歴史に翻弄された被害者のような気がしました。

 確かに、著者の牧氏が仰る通り、彼らの人生は、書き残して後世に伝えるべきドラマであり、本書も多くの人に読み継がれなければならないと思いました。

銀座、ちょっと気になるスポット(4)=時事通信社

 「銀座、気になるスポット」シリーズは一体、何回続くんですかねえ?

 実は昨年9月の渓流斎ブログで、「明治の銀座『新聞』めぐり」を5回に渡って連載致しました。明治から現在に至るまで、銀座は、実は新聞社街だったことを足を使って歩いて、現場検証した画期的な企画でした(笑)。5回連載は以下の通りです(クリックすれば読めます)。

 (1)「足の踏み場もないほど新聞社だらけ」=2021年9月17日

(2)「東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに」=同年9月20日

(3)「尾張町交差点は情報発信の拠点だった」=同年9月22日

(4)「読売新聞は虎ノ門から銀座1丁目に移転」=同年9月24日

(5)「33社全部回ったけどまだ足りない!」(完)=同年9月25日

 以上は明治の新聞社の話でしたが、「大手3紙」と言われる新聞社も、銀座界隈に東京本社がありました。大手町に移る前の読売新聞は、現在、マロニエゲート銀座がある2丁目にありました。「2.26事件」の舞台にもなった朝日新聞社は、現在の築地に移転する前は、有楽町マリオンにあったことをまさか御存知じゃない方はいないと思います。

 現在、竹橋のパレスサイドビルにある毎日新聞東京本社は、日本外国特派員協会が入居している有楽町駅前の丸の内二重橋ビルにありました。移転したのは1966年で、私はまだ小学生でしたが、有楽町の駅のプラットフォームから、窓を通して新聞社の内部が丸見えで、忙しそうに立ち働いている記者さんたちが見えました。記憶違いかもしれませんが。

銀座「時事通信社」

 今回取り上げるのは、報道機関の時事通信社です。銀座5丁目ですが、昭和通りの向こう側ですから東銀座です。この連載の第3回にも登場した木挽町かと思ったら、ここだけは采女町です。江戸後期の切絵図を見ると、時事通信社ビルが建っているところは、信州の諏訪藩3万石の3000坪の上屋敷があったところでした。ただ、町名は、江戸前期から享保9年(1724年)まで伊予今治藩主松平采女正定基の屋敷があったことによります。 享保9年、大火によって屋敷は焼失し、その後は火除地となり、俗に「采女が原」と呼ばれたそうです。

 明治になって、大名屋敷は新政府に没収され、ここには「築地精養軒」が出来ました。精養軒は当初、明治5年(1872年)2月、岩倉具視らの支援で北村重威が銀座で創業しましたが、開業当日に「銀座の大火」により焼失してしまいました。そのため、同年4月にこの木挽町に移転して開業しました。(明治9年、上野公園開園と同時に支店を開設し、それが現在の上野精養軒として続いています)

 築地精養軒は、日本最初の西洋料理店の一つとして評判を呼び、岩倉具視は勿論、西郷隆盛も通ったといいます。

 また、森鴎外の小説「普請中」にも登場するように、築地精養軒は西洋料理店だけでなく、ホテルでもありました。そして、このホテル内にあったのが、「米倉」という高級理容店です。私も10年ぐらい昔に銀座の米倉本店に行ったことがあります(現在、カットとシャンプーセットで1万6500円也。ホテルオークラ内の「米倉」は司馬遼太郎先生御用達の店でした。)

 理容「米倉」は、大正7年(1918年)、米倉近により創業されました。米倉が修行を積んだ日本橋「篠原理髪店」と、義父・後藤米吉の「三笠館」の流れを汲むといいます。私もその10年ぐらい昔に米倉で散髪した時に御主人に聞いた話ですが、この三笠館というのは、日露戦争の連合艦隊の旗艦「三笠」内で営業していたといいます。

銀座「新橋演舞場」

 床屋さんの話は長くなるので、これぐらいにして、築地精養軒は大正12年の関東大震災で焼失してしまいます。(それで、精養軒は上野に本社を移すわけです)。その後、敷地はどうなったのか不明ですが、戦後の昭和35年(1960年)に、東急グループのホテル第一号店として「銀座東急ホテル」が開業します(2001年まで)。ここは歌舞伎座と新橋演舞場の中間点に当たることから、地方から観劇に訪れる人たちの定宿になりました。

 また、銀座東急ホテルは、歌舞伎や新劇の「新派」の俳優の記者会見場としても知られ、私もよく取材に行ったものです。ただ、会場が狭く、太い柱で俳優の姿が見えにくい席が多かった記憶があります。つまり、新高輪ホテルのように、大人数の宴会が開けるような会場がなかったと思います。銀座の超一等地ですから、仕方ないでしょう。

新橋演舞場

 歌舞伎がはねた後、演劇評論家の萩原雪夫さんからホテルの地下のバーでよくビールやスコッチの水割りを驕ってもらった思い出があります。萩原先生からは、長唄と清元の違いや歌舞伎鑑賞の基礎を習い、本当によくしてもらいました。

 2003年から時事通信社の東京本社が日比谷公園から移転してきます。時事通信は戦前の国策通信社「同盟通信社」の流れを汲む報道機関です。明治時代の三井の番頭益田孝が創業した時事通信社と名称は全く同じですが、無関係です。同盟通信は戦後、GHQの顔色を伺って自主解散し、時事通信と共同通信と電通の3社に分かれて再スタートします。

 ちなみに、益田孝が創刊した三井物産の社内報「中外物価新報」(1876年)が、現在の日本経済新聞になったわけです。

銀座、ちょっと気になるスポット(3)=木挽町界隈

  「銀座、気になるスポット」と題しながら、前回は有楽町でした。今回も銀座のど真ん中とは言えない、ちょっと外れた東銀座の木挽町界隈を取り上げます。ここは、結構、意外と知られていない史跡があるからです。

 有楽町から南下して晴海方面に向かうと東西を走る大きな幹線道路に当たります。昭和通りです。港区新橋交差点から台東区の三ノ輪駅前までの8キロの道路です。大正12年(1923年)9月の関東大震災で帝都東京は壊滅的な被害を受けたため、当時、内務相兼帝都復興院総裁だった後藤新平の提唱で、幅108メートルの大道路が計画されました。しかし、財界等からの反対もあり、最終的には昭和3年(1928年)(張作霖爆殺事件があった年)に幅44メートルの道路が完成したわけです。

 銀座からこの昭和通りを横切ると、歌舞伎座などがある東銀座になります。そして、この辺りは、江戸時代は木挽町と呼ばれていました。歌舞伎通の方なら御存知でしょうが、木挽町と言えば、芝居小屋の町で、山村座(絵島生島事件で廃座)、河原崎座(後に森田座に吸収合併される)、森田座(休座するも、守田座と改め猿若町から新富町に移転)と三座もありました。

 もっとも、木挽町は、江戸初期に江戸城建設のために多くの木挽き(のこぎり)職人を住まわせたことからその名が由来します。ただ、江戸城の天守は、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍がつくりましたが、明暦の大火(1657年)で焼失して以来、天守はつくられませんでした。城の修繕だけになってしまえば、かなりの木挽き職人も失職したのではないかと思われます。

ホテルグランバッハ東京銀座 2021年11月30日開業

 と、ここまでは全部「前触れ」でして、ご紹介したかったスポットは、江戸中後期の老中だった田沼意次邸跡です。今は、「ホテルグランバッハ東京銀座」(2021年11月30日開業)というホテルが聳えだっています。

 このホテルの敷地内に中央区教育委員会による「案内板」がありますが、タイトルは「田沼意次邸跡」ではなく、「狩野画塾跡」となっています。江戸幕府御用絵師である狩野派は四派ありまして、そのうちの木挽町狩野家六代目典信(みちのぶ)が、田沼意次の知遇を得て、ここ田沼邸の西南角に画塾を開いたといいます。つまり、田沼意次は芸術家のパトロンだったということになります。

 田沼意次と言えば、賄賂政治の親玉で悪の権化みたいに歴史の教科書に描かれていますが、幕府の財政改革に踏み切り、株仲間を育成して商工業者から初めて税を徴収するなどの功績もありました。また、前野良沢、杉田玄白らによって「解体新書」が翻訳されたり、エレキテルの平賀源内が活躍したりした時代でもありました。

 田沼は、後に寛政の改革を進めた松平定信らを中心とした反田沼派の保守層によって失脚させられます。老中として改革の先頭に立っていた頃は、神田の上屋敷に住んでおりましたが、天明6年(1786年)、彼が68歳で失脚した以降に蟄居したところがこの木挽町の下屋敷でした。

1852年

 田沼意次が晩年を送った下屋敷と狩野画塾があった所から66年後の幕末、今のみゆき通りを挟んだ真向かいに信州松代の真田藩士で兵法学者の佐久間象山の塾がありました。

中央区役所 (新富町)

 中央区教育委員会の案内板によると、塾は20坪程度の規模で、常時30~40人が学んでいたといいます。門下生には、勝海舟、吉田松陰、橋本佐内、河井継之助、坂本龍馬ら錚々たる顔ぶれです。

土佐藩築地邸跡(現中央区役所)

 ちなみに、龍馬は当時、土佐藩中屋敷を拠点としていました。土佐藩中屋敷は現在、東京都中央区役所になっていますから、距離にして800メートル。佐久間象山塾まで歩いても10分という近い場所にあったわけです。

J-POWER電源開発 

 この佐久間象山塾は現在、何になっているかといいますと、「J-POWER 電源開発」の敷地の一部でした。

 電源開発は知る人ぞ知る会社です。昭和40年(1965年)の九頭竜川ダム汚職事件の舞台になった会社で、石川達三が、この汚職事件や吹原産業事件をモデルにして「金環触」という小説を発表しました。

 この小説は、1975年に山本薩夫監督によって映画化されました。金融王・森脇将光がモデルの石原参吉役が宇野重吉、代議士田中彰治がモデルの神谷直吉役が三國連太郎、藤井崇治・電源開発総裁がモデルの電力開発総裁・財部賢三役が永井智雄、官房長官の黒金泰美がモデルの星野康雄役が仲代達矢、とまさに役者がそろった名作でした。 (お見逃しの方は是非とも御覧ください)

 勿論、あの「金環蝕」の舞台になった電源開発の本社がここにあったとは、つい最近まで気が付きませんでした。佐久間象山先生も吃驚です。

銀座、ちょっと気になるスポット(2)=南町奉行所

 銀座と言いながら、第2回で取り上げる気になるスポットは、有楽町です。地下鉄ではなく、JRで銀座に行くには、駅は有楽町か新橋になりますので、有楽町も銀座と言えば、銀座なのですが、正確に言えば違います。

有楽町「交通会館」

 何と言っても、有楽町駅の住所は東京都千代田区です。三省堂書店や北海道物産店などが入っている交通会館も千代田区ですが、駅前広場をもう少しだけ南下して、銀座インズの首都の速の下をくぐると、やっと中央区銀座になります。ものの数分ですが。(首都高の下は、数寄屋橋下にしろ、大抵、川が埋め立てられた所です)

有楽町駅前広場

 有楽町の名称は、皆様ご案内の通り、茶人としても知られた織田信長の実弟、織田長益こと織田有楽斎(うらくさい)から由来するものです。有楽斎が、関ヶ原の戦いの後、徳川家康から数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。江戸城からかなり近いので、家康の有楽斎に対する信任が篤かったと思われます。家康はかつて信長に仕えていましたから、織田家に対する御恩返しかもしれませんが。

有楽町駅前広場にある南町奉行所跡

 江戸切絵図を見ると、今の有楽町駅辺りは、主に阿波徳島の蜂須賀藩の上屋敷だったようです。その隣接する今の駅前広場辺りが、何と、あの名奉行・大岡越前守忠相が活躍した「南町奉行所」があったところでした。

 奉行所は、江戸の行政、司法、警察などの職務を担っていた組織で、老中の支配下にありました。ということは、奉行が全ての権限をもって裁定したわけではなく、特に重罪などの最終判断は老中や将軍に仰いでいたともいわれます。

 白洲でのお裁きも本当にあったのかどうか…。ま、それらしきものはあったことでしょう。

有楽町駅前広場にある「南町奉行所跡」

 「南町奉行所」の御奉行は、八代将軍吉宗の時代に活躍した大岡越前が有名ですが、現在の東京駅八重洲北口にほど近い所には「北町奉行所」があり、こちらは、天保改革の頃に、「遠山の金さん」こと遠山景元という名奉行がおりました。「遊び人金さん」はかなり脚色された話ではありますが、景元自身は、水野忠邦や鳥居耀蔵らとの政争で一時失脚しますが、後に南町奉行に返り咲いたといいます。

 また、元禄期から享保年間にかけて、17年間という短い期間に南北奉行所の中間点に「中町奉行所」がありましたが、それほど詳しいことは分かっていないようです。

 南町奉行所は、2005年の発掘調査で、奉行所表門に面した下水溝や、奉行所内に設けられた井戸などが発見されました。この写真の「南町奉行所跡」の碑もその記念?で出来たと思われます。ということは、2005年以前は、こんな碑はなかったと思います。

 私自身は、よく有楽町駅を利用するのですが、この碑を初めて見つけた時(恐らく2005年頃)は本当に驚いたものです。テレビの時代劇のヒーローが、実在人物だったという証拠みたいなもんですからね(笑)。

 南北町奉行所の奉行は、月番制で、3000石程度の旗本が任命されたようです。実働部隊の幹部である与力は南北奉行所に各25人、その配下の同心は各100人しかいなかったというので、これまた驚きです。彼らのポケットマネーで御用聞き(岡っ引き)を何人も抱えていましたが、江戸町人の人口は50万人だったと言われ、こんなに少ない人数で警察・治安維持や行政、防災に当たっていたわけですから、本当に驚くばかりです。

南町奉行所跡から発見された穴蔵

 ちなみに、時代劇などでよく出て来る「八丁堀」は、与力・同心の組屋敷があったところです。八丁堀から有楽町までの距離は2キロちょっと。与力は馬かもしれませんが、同心は組屋敷から歩いて奉行所まで通ったことでしょう。

 与力の平均禄高は200石、諸大名や豪商からの付け届けなどの別途収入があれば良いのですが、ない人は家計は火の車です。何世代にもわたって、禄高は上がらないので、屋敷を人にまた貸ししていた与力もいたようです。与力の配下の同心ともなると、禄高は30石程度だったといいますから、さらに生活が厳しかったことでしょう。

 江戸時代は、火付け盗賊が多く、治安が悪かったイメージが時代小説で我々は植え付けられていますが、案外、現代よりも治安が良かったのではないかと思ったりしています。「南町奉行所跡」碑の前に立つと、与力・同心たちの「こんな安月給で、やってられないよ」と言う声が聞こえてきました(笑)。

「徳川十六将」と阿茶の局のこと=恐るべき家康の人心掌握術

 またまたNHK大河ドラマの「便乗商法」と知りながら、「歴史人」8月号「徳川家康 天下人への決断」特集を購読してしまいました。いや、「タイアップ記事」かもしれませんが。

 2023年の大河ドラマは「どうする家康」が予定されています。戦国時代を終息させ、260年の太平の世をつくった徳川家康に関しては、私もある程度知識があるつもりでしたが、やはり、この本で初めて知ることが結構ありました。

 例えば、武田信玄との「三方ヶ原の戦い」で敗退した家康は、辛うじて命拾いをして浜松城にまで逃げ帰りますが、その途中で、家康の影武者になり、身代わりになって討ち死にしたのが夏目吉信という家臣でした。その彼の子孫に当たるのが、明治の文豪夏目漱石だったとは知りませんでした。ただ、夏目吉信の子孫はその後、旗本に取り立てられ、漱石の夏目家は代々、牛込の庄屋を務めていた家柄だったため、断定できないという説もあるようです。

 徳川家臣団のうち、「徳川四天王」と呼ばれた酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政は大体、履歴は分かっておりましたが、「徳川十六将」に関しては、整理できておりませんでした。というのも、徳川の家臣には、大久保や鳥居や松平や本多や酒井の名字が実に多いからです。

 徳川家臣団の中で、世間でも有名な「伊賀忍者」服部半蔵こと服部正成は、「徳川十六将」に入っておりました。でも、「三河物語」の著者でもある有名な大久保彦左衛門こと大久保忠教(ただたか)は、「十六将」に入っていません。その代わり、彦左衛門の兄で、家康の父の代から仕えていた大久保忠世(ただよ)と大久保忠佐(ただすけ)が「十六将」に選ばれています。

 大久保といえば、本多正信との権力争いで敗れた老中の大久保忠隣(ただちか)も有名です。彼は、大久保忠世の嫡男で、小田原藩主も務めました。忠隣は、「十六将」には入っておりません。

 本多正信も「十六将」に入っていませんが、江戸幕府草創期のブレーンの筆頭として活躍しました。三河の下級武士出身で、三河の一向一揆では一向宗門徒側に就きましたが、後に許されて大出世することになります。同じく一向宗側に就いて許され、その後、戦陣で活躍した武将として、渡辺守綱蜂屋貞次が「十六将」に選ばれています。このように、人質時代から苦労している家康は、家臣に対して寛大で、かつては敵だった今川や武田や織田氏の家臣を徳川家臣団に取り込んで拡大していきます。恐るべき家康の人心掌握術です。

 大久保忠隣を政争で追い落とした本多正信の嫡男正純は、逆に大久保家などからの恨みを買い、「宇都宮城釣天井事件」で二代将軍秀忠暗殺の嫌疑を掛けられ、改易させられます。

名古屋城

 徳川十六将の中で、私でもよく知っているのは鳥居元忠です(弟の忠広も十六将に選ばれています)。彼は、家康が今川の人質時代から過ごした古参の一人で、関ケ原の戦いの前哨戦と言われた伏見城の戦いで、西軍に敗れて自刃しています。その際の血染めの廊下が、京都の養源院(豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の二十一回忌に建立、火災で焼失したが、淀君の妹で二代将軍秀忠の正室お江により再建)の天井として使われています。私は以前にこの養源院を訪れたことがあるので、血染めの天井は、鳥居元忠の名前とともに強烈な印象として残っているのでした。

 家康は11男5女をもうけたと言われますから、正室と側室は、名家の娘から町娘に至るまで15人以上いたといいます。正室の築山殿は、母が今川義元の妹でしたが、武田氏に通じているという嫌疑で殺害されます。

 側室の中で注目したのは阿茶の局です。家康との間に子宝に恵まれませんでしたが、大変、聡明な人だったらしく、関ケ原の戦いで、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返る仲介をしたとも言われ、大坂の陣では、家康の意向で、本多正純板倉重昌らとともに和議の交渉役を果たしたといいます。また、秀忠の五女和子が後水尾天皇に入内する際に母代わりに入洛し、天皇から従一位を賜りました。

【徳川十六将】

 酒井忠次(1527~96年)、本多忠勝(1548~1610年)、榊原康政(1548~1606年)、井伊直政(1561~1602年)=以上「徳川四天王」、米津常春(1524~1612年)、高木清秀(1526~1610年)、内藤正成(1528~1602年)、大久保忠世(1532~94年)、大久保忠佐(1537~1613年)、蜂屋貞次(1539~64年)、鳥居元忠(1539~1600年)、鳥居忠広(?~1573年)渡辺守綱(1542~1620年)、平岩親吉(1542~1611年)、服部正成(1542~96年)、松平康忠(1545~1618年)

NHKラジオ「日曜カルチャー『未知の世界史を掘り起こす』」はお勧めです

 私が、「是非とも聴くよう」にと勧めた3人中3人とも「これは実に面白かった」と膝を打って感動してくれたラジオ番組があります。

 NHKラジオ第2で放送された「カルチャーラジオ  日曜カルチャー『未知の世界史を掘り起こす』」という番組です。

 私はたまたま偶然、再放送で聴きましたが、まだお聴きになっていない方は、今は、パソコンやスマホアプリがあれば、「聴き逃しサービス」で聴くことができます。私はまだ第1回しか聴いていませんが、番組は5、6回は続くようです。

 お話は、考古学者の大村幸弘さん。トルコのカマン・カレホユック遺跡で発掘調査によって、紀元前18世紀ごろ「ヒッタイト帝国」で世界で初めて製鉄がつくられたという通説を覆す発見をした世界的な学者です。

 その第1回は「なぜ考古学の世界に足を踏み入れたのか」というタイトルです。大村さんが、何故、考古学者になったのか、盛岡の子ども時代に夢中になって探した遺跡土器の欠片の収集から始まり、青年になって不思議な縁に恵まれて、トルコに留学することができて数奇な運命に出合うというのが、その初回の話です。

 まさに人生とは縁と運です。これは私の持論でしたが(笑)、大村さんの場合は、何んとも言えない不思議な御縁の点が、他の御縁の点と結ばれて線になってつながっていくという、まさに信じられないような話が続きます。内容についてはこれ以上、伝えられません。推理小説と同じで、ネタバレしてしまったらつまらないからです。

 ということで、皆さんも是非、第1回だけでもお聴きになったら良いと思います。第1回は、2022年8月28日午後9時で、この聴き逃しサービスの配信も終わってしまいますので、お早めに。(なお、私はNHKの回し者ではありません=笑)

新選組の斎藤一と歴史について

 やはり、幕末史を語る上で、新選組は欠かせません。ということで、そのつもりはなかったのですが、本屋に行ったら、「歴史人」2022年8月号増刊 新選組大全(ABCアーク)が売られていたので、思わず買ってしまいました。

 「大全」というぐらいですから、隊士の履歴や事件はもちろん、天然理心流、神道無念流など剣術の流派に至るまで、まあ新選組に関するあらゆることが百科事典のように網羅されています。新選組に関しては、子母澤寛の「新選組始末記」や司馬遼太郎の「新選組血風録」「燃えよ剣」などを通して、よく知っているつもりでしたが、これだけ図解入りも含めてまとめられた本は初めてです。

 この本によると、新選組は約7年間の活動期間中、入れ替わりが激しかったものの総勢約400人の隊士がいたといいます。このうち、抗争や粛清などで殺害されたのは、筆頭局長だった芹沢鴨はじめ、伊東甲子太郎、藤堂平助ら15人。切腹を命じられたのは、脱走を図った山南敬助ら14人。その他、池田屋事件で死亡した奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門ら16人を含めて、計45人以上が隊士として亡くなっています。死亡率約11%ですから、結構高いです。

 これではまるで、鎌倉時代初期に比企能員、畠山重忠らが粛正された権力闘争か、マフィアの内部抗争みたいです。

 新選組と言えば、近藤勇、土方歳三、沖田総司の3人で、まずほとんどが語られてしまいます。通好みでしたら、池田屋事件でも活躍する永倉新八あたりが登場するでしょうが、私が注目したのは斎藤一(1844~1915)です。20歳そこそこで三番隊組長、その後、副長助勤も務めた溝口派一刀流の剣豪です。

 新選組から分離した伊東甲子太郎の御陵衛士に、近藤勇の命令で間者として潜り込み、油小路の変あたりから身を隠すために山口二郎の変名を使い、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いにも参戦し、その後、一瀬伝八と改名して最後まで会津に残って新政府軍と戦い、降伏。あの柴五郎の「ある明治人の記録」にも出てくるぺんぺん草も生えない極寒の斗南藩にまで移住させられます。維新後は藤田五郎を名乗って東京に出て会津藩士の娘と結婚し、明治10年の西南戦争では、警視庁の警部補となって従軍します。

 警視庁退職後は東京教育博物館(現東京科学博物館)などに勤務して大正時代まで生きます。行年71歳という波乱万丈の生涯でした。

 斎藤一は、江戸旗本の足軽の出身らしいですが、晩年の彼の写真を見ると、如何にも武士らしい剣術使いの面影が残っています。

 と、ここまで書いていたら、安倍晋三元首相が奈良で狙撃された大ニュースが飛び込んで来ました(その後、死亡、享年67)。まさか、21世紀になってこんなテロが起きるとは思ってもいませんでしたから、かなり衝撃的です。実行犯(41)の動機はまだ分かっていませんが、どうやら新興宗教団体に恨みがあり、政治的イデオロギーではないようです。となると、元海上自衛官で宅建とFPの資格を持つと言われる男のこの行動は一層不気味に感じます。と同時に、戦前の血盟団事件、5.15事件、2.26事件、昭和35年の浅沼稲次郎社会党委員長暗殺事件などと同じように歴史となり、後世語り継がれることでしょう。

 歴史とは、過ぎ去った取返しのつかない出来事ではありますが、我々はその歴史の延長線上に偶々生きていることを痛感しました。

 

法華経とは何か?=田村芳朗著「日蓮 殉教の如来使」

 「ヤクルト1000」が売り切れ続出というニュースを思い出した昼休み、新橋演舞場近くで、ヤクルトおばさんを発見したので、注文してみました。ヤクルト1000が結構、ずらっと例の乳母車のようなボックスカーに並んでいたからです。

 そしたら、おばちゃん、「あら、すみませんね。ここにあるの全部、この辺の予約なんで、売り切れなんです。会社も早くもっと量産してくれたらいいんですけどねえ」と平謝りでした。

 実売価格1本140円(宅配向け)ということですが、ネットで500円以上で転売しているらしく、日本人のマナーが世界に知られてしまっております。

 さて、田村芳朗(1921~89年)著「日蓮 殉教の如来使」(NHKブックス・1975年10月1日初版)をやっと読了しました。日蓮聖人の遺文(著作や書簡など)が直接文語体のまま引用される箇所が多く出てきて、法華経というお釈迦様が最後に唱えた集大成と言われる大変奥深い教えの話ですが、難解で、何度も何度も同じ個所を読み返したりしておりました。

 驚いたことに、この本は1975年が初版だというのに、鎌倉幕府の成立を我々が学生時代に習った1192年ではなく、さり気なく1185年としているところでした。凄い先見の明があります。また、戦後30年という時期に出版されたわけですから、まだ戦中世代が40歳代以上の現役です。日蓮(1222~82年)が戦時中に国家主義(田中智学の国柱会など)として利用されたことなどに関してはツボを押さえて批判しています。

 管見によれば、鎌倉新仏教の中で、来世の浄土世界での幸福よりも、現世での利益(幸福)追求を強調したのは法然でも栄西でも親鸞でも道元でも一遍でもなく日蓮であって、その純粋さと過激さゆえ迫害されます。しかし、後世は、その時代その時代で都合良く解釈されて、利用されやすかったのではないかと思われます。新興宗教は神道系が多いのですが、仏教系では断然、日蓮宗系が多いのがその証拠なのではないでしょうか。

 しかし、またまた管見ながら、日蓮の思想哲学は、特定の団体や組織のものではなく、万人が自由に学んでも構わないと思っております。むしろ、特定の団体や組織だけのものに独占させるべきではないと思っております。

 国学者の平田篤胤に至っては、日蓮宗と浄土真宗が神社参拝を禁じたことから、日蓮と親鸞をかなり痛烈に批判しています。

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 何と言っても、釈迦牟尼仏が涅槃に入る前に説いたと言われる法華経を信奉したのは日蓮が最初でもなく、唯一でもありません。(サンスクリット語のナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラを南無妙法蓮華経と漢訳したのは鳩摩羅什だと言われています。)

 聖徳太子の著作「三経義疏」の中に法華経を註釈した「法華義疏」がありますし、法然も栄西も親鸞も道元も日蓮も学んだ総合仏教大学とも言うべき比叡山では、法華経は必須課目で、天台本覚思想の根幹とでも言うべきものでした。日蓮より23歳年長の道元が主著「正法眼蔵」の中で最も引用した経は、法華経でした。

 何も日蓮は、釈迦の説く法華経を拡大解釈したり、曲解したりしたわけでありません。素直に解釈した結果、法華経に書かれている「他国侵逼」(しんぴつ=他国侵入)と「自界叛逆」(自国内乱)が近いうちに起きることを「予言」してしまっただけでした。実際、この天災と戦乱の時代、日本は国難に襲われます。国難とは二月騒動(名越の乱と北条時輔の乱)といった内乱と二度にわたる蒙古襲来(元寇)という他国侵入のことです。

 時の権力者は日蓮の説法に一切耳を傾けることなく、逆に日蓮は、何度も法難(受難、迫害、弾圧)に遭います。中でも、1264年に地頭の東条景信に小松原(現千葉県鴨川市)で襲撃され、頭に傷を負った「小松原の法難」(この時、日蓮の信者だった天津=現鴨川市=の領主工藤吉隆が討死)や1271年、佐渡流罪が決定した後、相模依智(現神奈川県厚木市)にある佐渡の守護代だった本間重連の館に送られる途中、龍口(たつのくち)で斬首に遭いそうなった「龍口法難」が有名です。

 こうした国難と法難、それに天変地異と疫病流行等による病死や餓死者などに多く接した日蓮は、殉教者として、宗教者としての意志を堅固にしたと思われますが、残念ながら寒さの厳しい身延山(信者になった甲州の波木井氏が土地と住居を提供)で病を得て、常陸に湯治に行く途中の武蔵国池上で志半ばで亡くなります。行年60歳。しかし、志半ばだったことが逆に弟子たち(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の6長老)に艱難辛苦を克服して布教に邁進する原動力になったのではないでしょうか。

 同書では何故なのか理由は書かれていませんが、鎌倉時代に日蓮宗はあれほど迫害されたというのに、室町時代になると京都町衆のほとんどが日蓮、ないし法華信徒になったといいます。(そう言えば、織田信長の本能寺も日蓮宗でした)琳派の祖と言われる本阿弥光悦も、徳川家康を支援した豪商茶四郎二郎も、それに狩野永徳や長谷川等伯まで日蓮信者だったといいます。江戸期に入っても、浄瑠璃作家の近松門左衛門や浮世絵の菱川師宣、葛飾北斎までも熱心な信奉者だったと言われます。北斎は「日蓮上人一代図会」を残しています。

 日蓮自身は、次々と押し寄せる人生の荒波と苦難のせいか、大著を残しておらず、その代わりに短編が無数に存在しているといいます。古来、どの書を基準とするか論議された結果、「立正安国論」(39歳)と「開目鈔」(51歳)、「勧心本尊抄」(52歳)を三大部、これに「撰時抄」(54歳)と「報恩抄」(55歳)を加えたものを五大部と呼ぶようです。私はまだ一冊も読んだことがありませんので、いつか読んでみたいと思っております。

 最後に、法華経とは何か? 妙法蓮華経のことで、妙法とは宇宙の絶対的真理、蓮華とは、五濁乱漫の現世でも白蓮を咲かせよという教えで、特別な修行をした出家者だけでなく、老若男女隔てなく、全ての人間が平等に救済されるという思想です。

【追記】

 最近の文献学によると、法華経は、釈迦最晩年の作ではなく、釈迦入滅後、数百世紀を後の紀元40~220年頃に成立したというのが有力のようです。

 第1の序品から第22の嘱累品(ぞくるいほん)までが原型で、第23の薬王菩薩本事品から第30の馬明菩薩品までは後世に追加されたと言われています。しかも、追加部分は、オカルト、呪術的思想や男女差別思想などがあり、後世の創作だと言われています。

 日蓮聖人は、1222年生まれということですから、今年はちょうど生誕800年の記念の年でした。

日蓮の旅、8月に身延山へ

 8月の夏休みは、日蓮宗の総本山身延山久遠寺に行くことにしました。昨夏、お参りする予定でしたが、コロナ禍の影響でキャンセルせざるを得なかったのでした。今年はそのリベンジで、義理と人情で同じ宿を予約しました。

 身延山は、あの水戸黄門さまも御宿泊されたという宿坊に泊まり、帰りは、海音寺潮五郎と高浜虚子が定宿にしていたという武田信玄の秘湯・下部温泉のホテルに一泊することにしました。

 最近、鎌倉時代の歴史を勉強したおかげで、大分、知識が増えました。私自身は、日本史の中で、鎌倉新仏教にはかなり興味がありましたので、その政治的、経済的、社会的背景が分かって大変参考になりました。つまり、鎌倉新仏教が生まれる土台や基盤が少し分かったということです。

 その鎌倉新仏教の代表とも言える浄土宗(法然)の知恩院、浄土真宗(親鸞)の東西本願寺、臨済宗(栄西)の建長寺、建仁寺など、曹洞宗(道元)の永平寺、時宗(一遍)の清浄光寺といった総本山、大本山にはかつてお参りしたことはありましたが、日蓮宗の総本山(祖山というらしいですが)だけはまだお参りしたことがなかったので、死ぬ前にいつか是非お参りしたいと思っておりました。

 しかも、日蓮は、私の亡父が、個人的に最も関心を寄せていた人物の一人であり宗教でした。とはいえ、特定の団体や組織に入会することは嫌って、独り書斎で関連書籍を収集して読んでいる程度でしたが…。私なんか読めない難解な専門書が多くありましたが、今回は私でも読める本を何冊か実家から借りてきました。そのうちの一冊が、この田村芳朗(1921~89年)著「日蓮 殉教の如来使」(NHKブックス・1975年10月1日初版)です。田村氏は当時、東大教授。もう半世紀近い昔の本なので、表現が少し古い箇所がありますが、日蓮の膨大な遺文を第一次史料として、実証的に検討した評伝です。実証的というのは、後世に日蓮を神格化して書かれたものや、呪術的、奇跡的行為などは極力排除して、日蓮の真の実体に迫ろうとした意欲作という意味です。

 当時の書評は知りませんが、恐らく熱烈な信者や宗教界からは、日蓮が自称した「旃陀羅(せんだら)が子」という出自を始め、神懸りなカリスマ性がそれほど強調されていないということで批判されたかもしれません。私自身は、この本こそ、人間日蓮に真に迫っていると大変評価していますが…。

鎌倉・長勝寺

 昨夏、「身延山に行こう」と思い立ったのは、佐藤賢一の小説「日蓮」(新潮社)に感銘を受けたからでした。小説ですから、「講釈師見て来たような嘘を言う」部分もあるかもしれませんが、関連文献を相当渉猟していたようで、史実を忠実に再現し、しかも人物像が生き生きと浮かび上がって、大変面白い魅力ある読み物に仕上がっていました。

 今回は、かなり鎌倉幕府の知識が増えたので、この本を再読すればもっと面白く読めるかもしれません。例えば、日蓮の代表的主著と言われる「立正安国論」を幕府の最高権力者だった最明寺入道に提出しましたが、この最明寺殿とは第5代執権北条時頼のことで、時頼と聞けば、色んなことが思い浮かびます。出家しても、息子の時宗が執権になっても、「院政」に習って、最高権力者の地位に就いていたこと。南宋の僧蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を創建したこと。また、執権時代は、前将軍・藤原頼経の側近だった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して起こそうとした武力行動を鎮圧したこと(名越の乱)。そして、有力御家人であった三浦氏や千葉氏を滅ぼしたことなどが挙げられます。

 8代執権時宗の時代では、二度にわたる蒙古襲来(文永・弘安の役)に加え、六波羅探題の北条時輔による反乱など内憂外患に苛まれました。つまり、内乱と海外侵略です。

 この二つを「予言」したと言われるのが、日蓮が北条時頼に提出した「立正安国論」ということになります。すなわち、日蓮は、正法が消えうせた時には、国土に様々な災難が起き、それは法華経に書かれている他国侵逼(しんぴつ=他国侵入)と自界叛逆(自国内乱)のことだと喝破したのでした。

 承久の乱の翌年(1222年)に安房の漁師の子として生まれた日蓮は、北条時頼、時宗と同時代人ですから、上に掲げた内乱や蒙古襲来によって、結果的に予言が的中し、経験したことになります。

鎌倉・龍口寺

 しかし、「立正安国論」等は時の為政者や宗教界では全く受け入れられず、逆に弾圧、挑発されて依怙地になった日蓮は、他宗派を攻撃し始めます。そのいい例が、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言です。これで幕府や地頭からだけでなく、他宗派からも恨みと反感を買い、何度も訴えられて伊豆や佐渡島に流罪となります。特に、文永8年(1271年)、佐渡流罪を問う裁判に引き立てるために、鎌倉の日蓮の草庵を襲って逮捕したのが、平左衛門尉頼綱でした。佐藤賢一の「日蓮」を読んでいた昨年はあまりピンと来なかったのですが、今では平頼綱といえば、北条氏の伊豆時代から仕えた古い御内人(みうちにん)だということが分かります。8代執権時頼と9代執権貞時の執事として大きな権勢を振るった人です。ライバルの安達泰盛を霜月騒動で滅ぼしますが、逆に彼の恐怖政治を恐れた執権貞時によって誅殺されました(平禅門の乱)。

 一介の無名の僧に過ぎなかった(当時)日蓮は、北条時頼や平頼綱といった時の権力者の存在を知り、蒙古からの国書到来など一部の人しか知り得ない内外情勢の事情に通じていました。かなりの情報通です。そんな俗世間から離れた聖界の人が、何処から情報を得るのか不思議でしたが、田村芳朗氏の「日蓮 殉教の如来使」には、早い段階(1256年)で日蓮に帰信した人の中に、北条氏一門の名越光時(あの名越の乱で、伊豆に流された人)の重臣である四条金吾頼基や武蔵池上郷の地頭池上宗仲(後に屋敷に池上本門寺を建立)・宗長兄弟がいたことが書かれていました。恐らく、このような日蓮に帰依した武士たちが、日蓮に当時の政治情勢を伝えていたと思われます。(となると、内乱も他国侵入も「予言」ではなく、確かな情報に基づいた確信だったのではないかと思われます。)

 とにかく、この時代は大地震など天変地異が続発し、飢饉や疫病がはびこって、鎌倉の道端でも屍が累々といった状況で、巷では飢えた物乞いが群れをなし、まともな薬や医療もなく加持祈祷のみが頼りでした。

 数多の迫害や法難(龍の口など)に遭いながらも、最後まで自己の信念を貫き通した日蓮は、こうした国難と人心の不安といった惨状を間近に見て、黙っていられなかったと思われます。

【追記】

 私の父親が九州の片田舎から上京して、初めて住んだのが東京・蒲田(私は此処で生まれました)で、近くに池上本門寺があったことから、日蓮に興味を持ったようでした。

 何しろ、私の子供の時の家族旅行が千葉県の誕生寺(日蓮生誕地)だったぐらいですから(笑)。

 鎌倉への関心は、小学校5年の時の遠足が原点です。バスガイドさんが車内で「七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎 名将の剣投せじ古戦場」と文部省唱歌「鎌倉」を歌ってくれました。お土産にカルタを買ったら、「日蓮の龍ノ口の法難」があって、急に稲光が起きて、日蓮を処刑しようとした武士たちが恐ろしくなって逃げたカードもありました。

 そんな記憶があるので、日蓮聖人からは逃れられません。

斯波も細川も畠山も一色も足利氏で村上源氏だった=皇族と藤原氏が1300年以上も政権中枢を担う国日本

 最近の渓流斎ブログは、歴史のことばかり書いています。小生を、鬼の首を取ったように誹謗中傷する気の毒な人がいるからです。気の毒というのは、明らかに拙ブログを読まないで中傷するからです。何か被害妄想のようで、自分のことが書かれたと誤解していると思われますが、歴史上の人物なので、残念ながら、生きている貴方のことであるわけありません。それが、読んでいない証拠です。

 歴史を勉強すると、人間というものは、古代から、豹変、裏切り、日和見、我田引水、滅私奉公、お家大事だけを信奉して生きて来たことが分かります。我々は彼らの子孫なのです。歴史上の人物がこの有り様ですから、彼らのDNAを受け継いでいる生きている人間は尚更、豹変したり、心変わりしたりすることが分かります。

 例えば、鎌倉時代だけを見ても、凄まじい粛清と権力闘争の嵐です。源義経、源範頼、上総広常、比企能員、畠山重孝、阿野全成、平賀朝雅、梶原景時、三浦泰村…と根も葉もなくても「謀反の疑い」を理由に、中には一族もろとも滅亡させられています。

 その半面、鎌倉時代の権力闘争に辛うじて生き残った一族の子孫は、次の室町・南北朝時代どころか、戦国時代、幕末、明治、昭和、現代と権力の中枢に返り咲いたりしています。武士も大名も御先祖様が、桓武平氏、清和源氏だったりすると、皇族の末裔ということになりますから、結局、日本という国は、皇族(天皇家)とその外戚の藤原氏が1300年以上も政権中枢を担ってきた国だということになります。

 以前にこのブログにも書きましたが、「鎌倉殿の13人」の一人、公文所寄人・中原親能の子孫が戦国時代の豊後の大名大友宗麟で、初代政所の別当大江広元の子孫が、戦国時代から幕末に歴史の表舞台で活躍する毛利氏でした。

 「鎌倉殿の13人」の中には入っていませんが、島津氏の祖である島津忠久は、清和源氏流と言われていますが、源頼朝の有力の御家人となり、薩摩、大隅、日向、越前と異例にも4カ国もの守護職に任じられました。この島津氏は、戦国時代、幕末明治と九州の大名として存続し、昭和天皇の第5皇女が島津家に嫁がれるなど、天皇家と姻戚関係になっています。

鎌倉五山の第5位 浄妙寺

 また、「鎌倉殿の13人」の中に入っていない超有力御家人が、足利義兼(よしかね)です。「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目。栃木県足利市の足利氏館をつくった人と言われ、1188年に鎌倉五山の第5位の浄妙寺(臨済宗建長寺派)を創建しました。

 何で、足利義兼が超有力御家人なのかといいますと、ズバリ、室町幕府を開いた足利尊氏の御先祖さまだからです。義兼は、源義経を始め、河内源氏一族でさえ粛清の嵐に巻き込まれる中、辛うじて生き残ったわけです。それだけではありません。足利氏の分派といいますか、流れを汲む子孫には、室町幕府の将軍を補佐する「三管領」である斯波氏も、細川氏も、畠山氏がいるからです。つまり、斯波も細川も畠山も、足利氏であり、村上源氏だったというわけです。

 ちなみに、斯波氏は、足利家氏が陸奥斯波郡を領地としたから。細川氏は、足利義季が三河細川郷を領地としたから。そして、畠山氏は、足利義純が、北条氏によって滅亡させられた畠山重忠の旧領を与えられ、しかも、足利義純は、畠山重忠の正室だった女性を自分の妻にして畠山氏を存続させています。

 また、室町幕府の侍所長官である所司に任ぜられた四家を「四識」と言いますが、主に山名氏、一色氏、京極氏、赤松氏の四家が務めました(当初は、清和源氏の土岐氏、畠山氏も入れた六家。赤松氏が没落して三家に)。山名氏は、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子孫義範が、上野国多胡軍山名(現群馬県高崎市)に所領を得たから。一色氏は、足利公深が三河国吉良庄一色に本領を得たから。京極氏は、承久の乱で戦功で近江守護に任じられた佐々木信綱の四男氏信が京都の京極高辻に館を構えたから。赤松氏は、村上源氏の一流で、九条家領播磨国佐用郡佐用荘赤松村を本拠とし、赤松則祐が最盛期で、室町時代、播磨・美作・備前の守護となりますが、関ケ原の戦いでは西軍に属し、一族は戦死ししたため、断絶します。

 こう見ていくと、日本史上で貴種ではなかった者が天下を取ったのは、農民出身と言われる豊臣秀吉ただ一人だと思われます。信長の織田家も、清和源氏の美濃守護土岐氏の家臣である守護代に過ぎなかったのが、一種の下剋上で這いあがり、やはり足利氏の支流である今川義元を破ってからは、天下取りまであと一歩のところまでいきます。徳川家康の祖先松平家は河内源氏の新田氏の末裔を自称していますが、否定する学者もいます。

 このブログの最初の方で、「日本という国は、皇族とその外戚の藤原氏が1300年以上も政権中枢を担ってきた国だ」と書きましたが、その良い例が、先の大戦中に首相を務めた近衛文麿です。近衛家は、藤原北家嫡流で公家の五摂家筆頭。代々、摂政関白を務めた公爵家です。

 もっと最近では平成5年から翌年にかけて内閣総理大臣を務めた細川護熙氏です。彼は肥後細川家の第18代当主です。この細川氏と言えば、足利氏であり、足利氏と言えば、村上源氏で、皇族の末裔ではありませんか。